国民同胞巻頭言

第685号

執筆者 題名
平槇 明人 続発する虐待事件に思ふ
- 〝強きを挫き弱きを助ける〟は、消えたのか -
中村 正和 山岡鐵舟と「まこと」の武士道(上)
- いま、なぜ山岡鐵舟なのか -
書籍紹介
伊勢雅臣著『日本人として知っておきたい皇室の祈り』
〝万民の幸せを願ふ皇室の祈りこそ、日本人の国民性、利他心の源泉〟
平成30年慰霊祭 厳修さる
佐賀大学「和歌の会」
- 「澤部壽孫先生をお囲みした八月の例会」の報告 -

 一昨年、相模原市の施設で、深夜侵入した元職員が「障害者は生きて居る価値がない」として、入居者を次々に殺傷するといふおぞましい事件があった。妻の子供を夫(継父)が虐待し死に至らしめる事件も後を絶たない。実の両親による虐待の報道さへある。介護職員の入居高齢者への虐待も多発してゐる。

 「人類は万物の霊長であり、あらゆる生き物の最上位にあるのは何故だと思ふか」と、学生時代に恩師が問を発せられたことがあった。

 メダカを飼ふと解るが、水槽を別にしないと自らが産んだ卵を食べてしまふ。熊やライオンは、発情を促す為に牝の連れた仔を噛み殺す。草食獣は仲間が襲はれた際、見捨てて逃げ去る。肉食獣は、年老いて餌を獲ることが出来なくなれば死を待つのみだが、その前に他の肉食獣や猛禽類の餌食となる。

 恩師は「人類が万物の霊長である所以は、〝強きを挫き弱きを助ける〟からだよ」と言はれた。

 我々は何も持たずに裸で産声を上げる。「赤子の手を捻る」とは、苦もなく出来る、造作もないとの意だ。そのか弱い子供達の生育を家族は当然だが、広くは地域も目を懸け手助けして来た(「学齢」になれば斉しく学校での学習が保障される近代国家の教育制度はその延長上にある、とも言へる)。

 肉体の老いはどうすることも出来ないが、一方で次々に新しい命が誕生して、大河のごとく命の流れは続いて来た。個々の命に限りがあることでは人間も他の動物も同じだが、人間は他者の死を悼む点で大きく異なる。人間は、老いたる者を敬ひ、その知恵・経験から学ぶ。障害者を社会全体で支援し共生する。

 このやうにして、我々の社会・国家は昨日から今日へ、今日からまた明日へと継承されて来たのである。

 虐殺事件の続発については様々な要因があるにしても、〝強きを挫き弱きを助ける〟からほど遠い現実がある。四十年ほど前、米国を訪ねた時、「チャイルド・アビューズ(幼児虐待)」、「ドメスティック・ヴァイオレンス(家庭内暴力)」、「セクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)」などの言葉を初めて耳にした。また「孤老」(身よりのない老人)の問題も他人事として聞いた。今のわが国ではどうであらうか。

 かつて、わが国では三世代同居が普通であったが、今では老夫婦だけや老人一人暮しの家が珍しくない。台風襲来の度に「61世帯、84人に避難指示が出されました」といったニュースを耳にする。

 幕末から明治初期の頃、来日した外国人の手記には、子供達が如何に大事に育てられてゐるかが異口同音のやうに綴られてゐる(但し、今日の「甘やかし」とは違ふ筈だが)。ことしは「明治維新150年」。ひと世代30年として、5世代の間に何が失はれたのか。高層ビルに目を奪はれることなく、厳しく内省すべきだと思ふ。

 江戸時代、按摩は盲人に認められた職業であった。金貸業も盲人だけに認められた職業であった。勝海舟の曽祖父は視覚障害者(検校(けんぎよう))で金貸しを生業として財をなし、御家人の株を買った。お蔭で海舟は御家人となった。現在は、名立たる都市銀行が高利貸しをやる時代だ。江戸時代は現代よりも、大らかで弱者救済の制度がむしろ整ってゐたと言ひたい位だ。現代は機会の均等といふ名の悪平等で、健常者が障害者の領域にまで入り込むし、地方都市のシャッター通り化した商店街から少し離れた所で大型店舗が営業してゐる。規制緩和は強者に有利に働く。

 江戸時代の離婚は、夫が三行(みくだ)り半(はん)(離縁状)を書けば簡単に出来たと我々は思ひ勝ちだが、「相手の生家が既に消滅して居る場合や、婚姻時よりも自分達が裕福に成ってゐる場合」には離婚は認められなかったといふ。古文書として見つかるその離縁状だが、離婚後も女性の収入源が確保されてゐる養蚕地帯に多くが残されてゐるとのことだ。

 現在のわが国の「まつりごと」(内治・外交・教育などの万般)は、残念ながらGHQ起草の「伝統無視」の憲法下にある。そこに記された個人の「最大尊重」の文字に唆(そそのか)されて、利己的生き方が蔓延(はびこ)り、〝国民同胞感〟の稀薄化は年々、深まる感じだ。これも克服すべき「戦後体制」である。

(亜細亜大学 障がい学生修学支援室)

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   はじめに

 山岡鐵舟は、勝海舟・高橋泥舟とともに「幕末の三舟」といはれた幕臣で、幕末から明治の激動の時代に武士道を生き抜いた剣・禅・書の達人であった。何事にもまごころを尽す至誠の人で、その「まこと」を彷彿とさせる逸話は枚挙に遑(いとま)がない。

 ペリー来航の二年後(安政2年)のことである。当時「ぼろ鐵」と呼ばれた貧しい二十歳の小野鐵太郎(鐵舟)は、心の師・槍術家山岡静山が亡くなり、毎晩人知れず墓参を続け、雷雨の折には雷を嫌った師を思ひ、雷雨が過ぎるまで羽織を脱いで墓を覆ったといふ。この一途な鐵舟に惚れた静山の妹英子(ふさこ)の求愛に応へ、鐵舟は家格の低い山岡家に養子に入り、跡継ぎの無い山岡家を救った。また、後年、忠誠剛直の真の「王佐」(帝王の補佐)をと請はれて明治天皇に仕へた鐵舟が、酒に酔ひ角力(すまう)を仕掛けてきた若き大帝に、体を張ってお諫めをした話は有名である。

 いま、なぜ山岡鐵舟なのか。日本人の倫理道徳において最も大切にされてきたのが「まこと」である。ところが、戦後の日本は「まことの心」「まごころ」「誠を尽す」といふ日本人の根本的な心のあり方を、家庭でも学校でも地域でも、子どもたちに教へることを怠ってきた。それは占領軍が日本人の本来の生き方を忌避したからである。以後、日本人は「まこと」を軽視し、嘲笑の対象にすらしてきたのである。

 そして今、どうなったか。日本の子どもたちは、自尊感情に乏しく、各国に比して自己肯定感が著しく低いと指摘される。心の根本を否定された日本の子どもたちは自信と勇気を失って自虐的な閉塞状況の中で苦しんでゐる。わが国の子どもたちが心に「まこと」を取り戻し、己れの価値に気づくために、いま、先づは、われわれ大人が鐵舟の「まこと」の武士道に学ぶ必要があると思ふ。

   鐵舟が受けた父母の訓へ

 鐵舟の「誠」は、どのやうにして身に付いたのであらうか。昔、武士の子は、十五歳で通過儀礼として切腹の作法を教へられたといふ。すなはち十五歳にして子どもの世界と決別し、志を立て、武士として大人の世界に入って行った。鐵舟は、十五歳の時に、次に挙げる二十箇条の自戒「座右の銘」(抄)を書いてゐる。

 第一 うそいふべからず候
 第二 君の御恩は忘るべからず候
 第三 父母の御恩は忘るべからず候
 第十一 力に及ぶ限りは善き方につくすべく候
 第十四 殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらう者は心に濁りあるものと心得べく候
 第十八 名利の為に学問技芸す可からず候
 第二十 己れの善行を誇り顔に人に知らしむ可からず すべて我が心に恥ぢざるに務む可く候

 いづれの言葉にも鐵舟の「まことの心」が窺(うかが)はれて、心に迫るものがある。ここでは、特に第三条にある「父母の御恩」について取り上げてみたい。

 鐵舟は『修養論』の中で、八歳の頃を回想して次の如く記してゐる。

 母のもとで手習ひをしてゐるとき、その手本の中に「忠孝」の文字があった。母は「忠」と「孝」の書き方と意味を熱心に教へてくれた。鐵舟は母の膝に倚りつつ、幼心に「母様は常にその道を守り給うか」と尋ねた。すると、母は何やら心に感ずる所があったやうで、ほとほとと涙を流されながら、「おー鐵よ鐵よ、母も常に左様に心懸つれどツマラヌ女故さしたる事とてもなく誠に残念に思ふなり」「御身は幸ひに無事の体に生れつれば、必ず必ず母の訓へを忘るる勿(なか)れ」「必ず必ず打ち捨て給ふ勿れ」と仰(おつしや)った。

 幼い自分に誠を尽してくれるその母の「まごころ」に触れて、鐵舟は「懇々として至情の教訓は此の一席に於いて余が神心に浸み渡れり」とも記してゐる。

 それでは父の訓へはどうであったか。鐵舟の自記『書法に就いて』によると、父小野朝右衛門高福(たかよし)が飛騨高山の郡代であった時、鐵舟は十一歳にして当地の岩佐一亭より書法を学び始めた。一亭から千字文一巻を授けられると、鐵太郎少年は約一ヶ月間これを練習した。すると父は修得した成果を清書すべしと、美濃小半紙を息子に渡した。時刻は夜の二(に)更(こう)(9時~11時)強であった。

 鐵太郎少年は直ちに筆を採り、楷書で全千字を紙数63葉に書き上げ、年月日署名して父に提出した。時刻は夜半の三更(11時~午前1時)弱。父はそのあまりの速さと児童の筆跡とは思へない出来栄えに驚き、「此筆跡や汝の書に相違なく、此紙や吾れさきに汝に授けたるものに相違なし。汝が成蹟頗(すこぶ)る可なり。爾(じ)後(ご)猶此心を忘れず、文武共に怠る勿(なか)れとて、深く余を愛し給へり」と訓(をし)へ諭した。

 子どもは親の愛を心の糧として育つ。十一歳の鐵太郎少年は、父の深き慈愛に感じ、その言葉を心に刻み、これを己れの励みとしたのである。

 鐵舟は、母を十七歳で失った。翌年には父とも死別した。しかし、鐵舟は、父母から教へられた「まことの心」を生涯忘れることはなかった。それ故に、十五歳で決意した二十箇条を自らの「座右の銘」として切磋琢磨を続けて、五十三歳で坐(ざぼう)忘(ざぼう)(〈物〉すなはち外物と〈我〉すなはち自己とが一体化した境地。―鐵舟は坐禅の姿で亡くなった―)する日まで、これを守り通さうとしたのである。

   わが国の「まこと」

 わが国の「誠」を体現し、その人生を至誠で貫き通した最も代表的な人物が山岡鐵舟である。「まこと」は、日本人のこころの原点であり、核心である。日本人にとって、その人の言葉や行為を真実のものにするのが、「まこと」であり、まことの心無くしては、どんな美辞麗句も、あだごとにしか過ぎない。その「まこと」とはそもそも何であらうか。

 「まこと」とは、男の子の名前にあるやうに、漢字では「誠」「真」「実」と書く。それは「むなし言」「そらごと」に対する「真事(まこと)」「真言(まこと)」「真実(まこと)」といふ意味である。本来は、「みことのり」「みこともち」に見られる神の言葉としての「命(みこと)」(ミコト・御言(みこと))から来てゐると言はれる。

 神代の時代より、わが国では言葉のもつ呪術的な力、その秘めたるエネルギーや生命力を言霊(ことだま)として信じてきた。さういふ意味で、「まこと」は、聖なるものを畏敬し、その威力を真実なるものとして信ずる日本人に固有の有り難き心であった。

 「まこと」の倫理は、『古事記』や『万葉集』の「清明心(せいめいしん)」(きよきあかきこころ)に淵源があるとも言はれる(『日本倫理思想史』和辻哲郎著)。わが国には、文字を知らぬ悠久の昔より「まこと」があった。『古事記』『万葉集』の編纂は、口承されてきた「上ツ代の古言(ふること)」のままを記録化した、まさに神代の「まこと」を後世に伝へる偉業であった。

 その一つが「きよき」「あかき」「さやけき」といふ言葉であり、その美意識である。古代の日本人は、清(きよ)き水、明(あか)き太陽のごとき清明な心を「まこと」の心と感じ、暗く汚い異心(あやしきこころ)・邪心(よこしまなこころ)を斥けた。「清明心」とは、人間の心を本来的に善と信じて疑はない日本人の心根であり、その本源は天照大御神の御神勅にある曇りなき鏡のやうな「無私なる心」にあると私は思ふ。

 この私心なき「清明なる心」を「まことの心」とする倫理は、やがて『義経記』に見られる義経主従の二心(ふたごころ)無き忠義、さらに『太平記』が語る楠木正成公、正行公の「誠」へと連なって行く。そして、この清明心といふ美意識とそこから生れた

 「まこと」の倫理は、やがて「誠実」
 「実直」「正直」「忠誠」などの武士道の倫理として結実するのである。

 『中庸』には「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」とある。古代中国においても「誠」は、「うそのない心」「ごまかしのない状態」を指し、「まこと」「まごころ」を意味した。また、孔子も「中(なか)」なる「心」と書く「忠」を内なる「まごころ」と捉へ、仁愛は忠にささへられた恕(忠恕)・信(忠信)でなければならないと説いた。

 しかし、この「まこと」と「まごころ」の倫理は、唐土よりも清明なる美意識を重んじる日本において花開き、わが国の倫理道徳の根本となった。まさにこのことを明らかにしたのが江戸時代の国学であった。国学は、「まことの心」をわが国固有の「眞ごころ」として捉へ直したのである。特に、「眞ごころを つつみかくして かざらひて いつはりするは 漢(から)のならはし」と歌った本居宣長は、よろづの事にふれて、「事の心」を知り、「物の哀しみ」を知るわが国の心こそ、「まことの情(こころ)」であることに思ひ至った(『本居宣長』小林秀雄著)。宣長にとって「眞ごころ」は、誰もが生れながらに持ってゐる「おのづからなる有りよう」(『紫文要領』)であり、「眞ごころ」において知ることは、まさに「己れを知る道」であった。

 さらに、近世の儒学、中でも古学派による「誠」の再発見は、日本の精神史において極めて重大な出来事であった。宣長にも影響を与へた古学派(山鹿素行・伊藤仁斎・荻生徂徠)は、原典への遡及、さらに日本への回帰によって「誠」が日本人の心の原点であることを自覚したからである。そして、中江藤樹・熊沢蕃山の陽明学は、「良知」を「誠」といふ内なる実践原理として捉へ、やがて大塩中斎・吉田松陰の「至誠」を生み出して行った。

 この己れを尽して已(や)まないわが国の「まこと」の道は、さらには禅と出会ふことによって、無私なる心から無心へと転じることになる。このわが国の「まこと」の深化は、至誠一貫の山岡鐵舟の境涯にその実例を見ることができる。「教育勅語」にも反映されたといふ鐵舟のまことの武士道を、その剣・禅・書を通して辿ることにする。

 (以下次号)

(神奈川県立小田原城北工業高校教諭)

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(編註)
メールマガジン「国際派日本人養成講座」の編集長である伊勢雅臣氏(本会参与、布瀬雅義氏の筆名。元在米日本企業役員)による育鵬社からの5冊目の著書が本年2月刊行の標題書『日本人として知っておきたい皇室の祈り』である。
創刊20年のメルマガ「国際派日本人養成講座」は間もなく1100号をを迎へ、5万余人の読者を持つ。

   御代替りを前に ―「国柄」認識をより確かなものに―

 著者からの便りによれば、本書では「歴代の天皇・皇后がいかに国民の幸せを祈られてきたかを辿りつつ、それがわが国の建国の精神を継承したものである事を述べた」とのことである。そして「日本人の優れた国民性とも言ふべき、利他心は、この『皇室の祈り』が源になってゐるのではないか。とすれば、より多くの国民が『皇室の祈り』を知ることで、わが国の利他心はさらに根を広げ、さらに立派な国作りに繋がるのではないか」とも記されてあった。

 以下、簡にして要を得た「まへがき」を転載して、御著の紹介としたい。来年5月の「平成から新時代へ」の御代替りを前に、本書を手にされることで「国柄への認識」を一層確かなものとしたいものである。

 【まへがき】から(もと現代かな)
   日本人の利他心は国民性

 東日本大震災では、困難な状況にも屈せずに節度をもって行動する被災者たちの姿が世界中に報道されて感動を呼びました。様々なエピソードが紹介される中で、私がもっとも感銘を受けたのは、次の逸話でした。

 

(百田尚樹氏の発言)東日本大震災の時に見せた日本人の秩序正しさやモラルの高さに、世界中が驚愕しました。これは知人から聞いた話ですが、救援物資をヘリコプターで被災地に届けた米軍の女性パイロットは、着地が非常に恐ろしかったというのです。なぜなら、どこの国でもヘリコプターに人がワーっと殺到して大混乱が起き、奪い合いになって身の危険を感じることがよくあったからです。

日本の被災地でもそうなると覚悟して着地したのですが、近づいてきたのは代表者である初老の紳士一人、そして丁寧に謝意を述べ、バケツリレーのように搬入していいでしょうか、と許可を取って整列し、搬入が始まった。

すると途中で、「もうこれでけっこうです」とその紳士は言ったそうです。パイロットは驚いて「なぜですか?」と尋ねると、「私たちはもう十分です。同じように被災されている方々が待つ他の避難所に届けてあげてください」と言った。

そのパイロットは、礼儀を重んじ、利他の精神で行動する日本人の姿に感動し、生涯忘れないと知人に語ったそうです。これが日本人です。本当に素晴らしい国だと思います。

(櫻井よしこ・百田尚樹対談「日本のメディアは中・韓の『工作員』か」 『WiLL』平成26年3月号より)

 私自身も、欧米で合計11年間暮らし、アジア、南米、アフリカなどを含め30ヶ国を訪問した経験から考へると、日本人の利他心は世界でも最高のレベルにあると感じます。

 もちろん外国でも一部のエリートや聖職者などは崇高な利他心で行動してゐる姿を見ますが、こと一般国民まで高いレベルの利他心を持ってゐるといふ点では、わが国は世界でも群を抜いてゐるのではないか、と思ひます。外国からきたお客さんからも、何度も同様の感想を聞きました。利他心は日本の国民性と言っても大げさではないと思ひます。

 拙著『世界が称賛する国際派日本人』(育鵬社刊)では、国際的に称賛されてゐる日本人たちをとりあげましたが、その中でイラク支援活動を行った自衛隊を紹介しました。

 外国の場合は、イラク人作業者に作業を命ずると、彼らだけを働かせるのだが、日本では幹部自衛官でも、彼らと一緒になって、ともに汗を流した。

 宿営地の鉄条網整備の際には、日本人二、三人とイラク人七、八人がチームをつくり、有刺鉄線で服はボロボロ、体中、血だらけ汗まみれになりながら作業を続けた。昼食は分け合い、休み時間には会話本を指差しながら、仕事の段取りについて話し合う。

 いったん意気に感じると、とことん尽くすのがアラブの流儀だ。終業時間の五時を過ぎても、まだ隊員と一緒にブルドーザーに乗って働いているイラク人の作業者もいた。

 (「サマーワにかけた友情の架け橋─自衛隊のイラク支援活動」前掲書より)

 イラクでは約30ヶ国の軍隊が支援活動を展開しましたが、その中でも日本の自衛隊の活動は、現地の住民たちからも高く評価され、支援期間が終りに近づくと、150人ものデモ隊が詰めかけ、「日本の支援に感謝する」「帰らないで」と叫んだとのことです。この前代未聞のデモに英・米・オランダの部隊も驚いて、矢継ぎ早の問ひ合せがきたさうです。

   「利他心は伝染する」

 このエピソードで興味深いのは、自衛隊員たちがイラク人作業者と一緒に汗を流すと、「終業時間の5時を過ぎても、まだ隊員と一緒にブルドーザーに乗って働いているイラク人の作業者もいた」といふ点です。自衛隊員たちの持つ利他心が、イラク人作業者たちの利他心に火をつけたのです。「利他心は伝染する」といふことが、この事例から推察できます。

 『世界が称賛する国際派日本人』(平成28年10月刊)の現代の章では、もう一人、利他心に満ちた方が登場します。皇太子殿下です。皇太子殿下は国連の「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁をお務めになり、毎年のやうに世界の水問題に関る国際会議で講演をされてゐます。

 日本のジャーナリストが、水問題の海外の専門家に「海外での殿下の評価はどうか」と質問したところ、「どうしてそんな質問をされるのか。それは愚問というものだ。殿下の高い評価は言わずもがな。日本人だけが知らないのでは」と、やり込められる場面があった。

   (『世界が称賛する国際派日本人』)

 太平洋地域の水問題の専門家たちがバスで東宮御所を訪問した際、帰路には「我々はもっともっと頑張らなければならない」と大変盛り上がったさうです。「水と衛生に関する諮問委員会」委員の尾田栄明氏は

【目次】―抄―
第1章 平成の祈り
 ・被災者を明るく変えた両陛下のお見舞い
 ・沖縄の地に心を寄せ続けた陛下
 ・「心を寄せる」ということ
 ・皇室という「お仕事」―紀宮さまの語る両陛下の歩み
第2章 荒海の中の祈り
 ・昭和天皇の御聖断
 ・香淳皇后―昭和天皇を支えたエンプレス・スマイル
 ・大正天皇と「平和大国日本」のビジョン
 ・貞明皇后 ―暗き夜を照らしたまひし后ありて
 ・明治天皇と日露戦争
 ・昭憲皇太后と"Empress Shoken Fund"
 ・孝明天皇の闘い―澄ましえぬ水にわが身は沈むとも
 ・光格天皇―明治維新の基を築いた62年の治世
第3章 祈りの源流
 ・聖なる祈りの継承
 ・「おおみたから」と「一つ屋根」―建国の祈り
 ・「鏡」の象徴するもの

次のやうに語ってゐます。

 勿論、殿下からあれをやろう、これをやろうと言われるわけでは全くないのですが、殿下とお話をさせていただく中で、皆の胸中にある意欲や想いがかき立てられていくという感じなのです。

 (『皇太子殿下─皇位継承者としてのご覚悟』明成社編より)

 殿下が、世界で水不足に苦しむ人々をなんとかしたいといふお気持ちをもって専門家たちの意見を聞かれていくと、殿下の利他心によって彼らの「胸中にある意欲や想いがかき立てられ」、彼ら自身の利他心に火がついて、「我々はもっともっと頑張らなければならない」と意欲を燃やしたのではないかと推察します。

 もちろん専門家たちの間では、水問題をどう解決するかに関して意見の対立もあるかもしれません。しかし手段においては対立があっても、水不足に苦しむ人々を何とかしたいといふ利他心を共有することによって、専門家たちは連帯することができます。

 殿下の利他心こそ、彼らの連帯の中心にあるものでせう。それを彼らが感じとってゐるからこそ、殿下に名誉総裁を長年、お願ひしてゐるのだと拝察します。

   利他心を中核とする共同体

 ある共同体の中心に利他心に満ちた人がをり、その人は「あれをやろう、これをやろう」とは言はないが、共同体全体の幸福をひたすら祈ってゐる。その利他心が周囲の人々に伝染して、それぞれが自分の持ち場で共同体の幸福のために尽す。これはまさしく日本国の構造そのものではないでせうか。

 代々の皇室がひたすら国民の幸せを祈り、その利他心が多くの国民に伝染して、それぞれの人がそれぞれの場で、他の人々のために尽す。それがわが国の姿だったのではないか、と私は考へてゐます。そして日本国民が強い利他心を持ってゐるといふ国民性も、この国の形から生れてきてゐるのではないでせうか。

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 酷暑の遠退いた9月22日(土)午後、日本学生協会・精神科学研究所・国民文化研究会の道統に連なる師友のみ霊をお祀りする恒例の慰霊祭が東京・飯田橋の東京大神宮にて斎行され、御遺族、福岡県・山梨県や関東都県からの会員など31名が参列した。

 御神前に、合宿教室が福岡県篠栗(ささぐり)町(8月)及び静岡県御殿場市(9九月)の両所で開催されたことが奉告され、この後も変らざる御加護をお祈り申し上げた。今秋の慰霊祭には、新たに小田龍平命、小田村四郎命が合祀された。

 全国各地の御遺族、会員から170余首の献詠歌が寄せれたが、紙面の制約でごく一部を左に掲げる。

   御遺族

     (青砥宏一命御令息)松江市 青砥誠一
 台風の過ぎ去りてのち静けさの戻りし中に虫の音を聞く

     (島田好衛命御女婿)府中市 青山直幸
  小柳陽太郎先生を偲びて
 虫の音に耳を傾け聞きをれば師の面影のふと浮びくる

     (小柳陽太郎命御令息)福岡市 小柳左門
 父上ののこしたまひし文章に新たなる命よみがへりくる

     東京都 小柳志乃夫
 遺されし文みるたびに師や友のなほくも高きみ心仰ぐ

     (寶邉正久命御令息、寶邉幸盛命御令弟)柳井市 寶邉矢太郎
 未帰還のあまた御遺骨やみにただよふ閣僚靖国にかうべ垂れかし

     (小林国男命御女婿)絲島市 廣木 寧
 若き日ゆをさなきわれをみちびかれし大人(うし)らいまさず夏去るを覚ゆ

     (宮脇昌三命御令息)さいたま市 宮脇新太郎
 明治より百五十年の平成の稲稔りけり豊秋津島

     (山内恭子命御夫君)横浜市 山内健生
  小田村寅二郎先生の御講義
 説くほどに獅子吼するがに激しくも訴へたまひし師の君なるかな

   会員

     横浜市 池松伸典
 御殿場に集ひて共に富士の嶺の大御姿を仰ぎけるかな

     小柳陽太郎先生 東京都 伊藤哲朗
 師の君の残せし文を読みゆけば聞きたきことの多くもあるかな

     清瀬市 今林賢郁
 大いなるこの正道をもろともに真直ぐに進みみ国支へむ

     東京大学構内を散策 熊本市 今村武人
 学風を改めたしと闘ひし大人の御心を偲びまつりぬ

     薩摩川内市 小田正三
 獅子吼して説き給ひたる師の君の面影清らに浮びてぞ来る

     寶邉正久先生 熊本県 折田豊生
 師の君の後姿を仰ぎつつそのひとすぢの道をし辿らむ

     横浜市 椛島有三
 憲法(のり)正す道は厳しき時なれど踏みしめ歩み進みゆきなむ

     小柳陽太郎先生 東京都 河合忠雄
 目の前の熱き言葉にひしひしと心震へし過ぎし日想ふ

     御殿場合宿にて 小矢部市 岸本 弘
 たちこめし雲払はれて富士の嶺(ね)は我らが道を示すがに立つ

     横浜市 古賀 智
 玉の緒の果つてふことのなかりせば今もうつつにまみえむものを

     小田村四郎先生 福岡市 小早川明徳
 静かなるみ姿拝せし日は遠く捧げられ来し赤心しのぶ

     廣瀬誠先生 柏市 澤部壽孫
 歌詠みて悪しき病(やまひ)を蹴散らして生き給ひたる高志の師の君

     柏市 武田有朋
 師の君の教へを若き友らへと伝ふるためにつとめむと思ふ

     川井修治先生 鹿児島市 徳田浩士
 逝きまして二十年経つ秋の夜に御文仰げば御顔浮びく

     東京都 徳地康之
 「背私向公」こそ太子の御精神(みこころ)と説き給ふ師の声澄みて今も残れり

     坂東一男先輩 長崎市 橋本公明
 さしのぼる朝日の如く堂々と生き給ひたる先輩(とも)ぞ偲ばゆ

     埼玉県 服部朋秋
天翔ける大人(うし)の御教へかがふりて誓ひ新たに歩み行きなむ

     福田忠之先輩 秦野市 原川猛雄
 み文読む集ひに先輩(とも)は見えねども坐(いま)すが如くに思はるるかな

     埼玉県 藤井 貢
 学生(われわれ)の小合宿に来給ひし亡き師のみ心尊かりけり

     西日本合宿 福岡市 藤新成信
 篠栗(ささぐり)の山の麓にをちこちゆ友ら寄り来て合宿をせり

     憲法(のり)改正の道を拓かむ 横浜市 松岡篤志
 沖縄を守らむとして散りませし御霊しのびつつ電話かけゆく

     憲法改正の署名運動 鹿児島市 南 正人
 「憲法」を改むる道苦しくも応ふる声に心安らぐ

     鹿屋市 南田武法
 残されし御文御言葉たどりつつ読みゆくうちに心明(あか)らみてゆく

     倉敷市 三宅将之
 嘆かはしあらゆる道のエリートの心のうちより徳性失せしは

     福岡市 山口秀範
 御代替り迎ふる年に国の憲(のり)初めて正す勢ひ起さむ

     東京都 山本博資
 遺(のこ)されしみふみみうたを受継ぎて逝きにし同志(とも)らのみこころ偲ぶ

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【編註】
 佐賀大学では学生たちによる「和歌の会」が月例で開かれてゐて、各自が詠んだ歌を紹介し合って、表現が適切かどうか、言葉遣ひは正確か等々について互ひに感じたことを述べ合ってゐる。

 去る8月12日の「和歌の会」は、澤部壽孫本会副理事長が加はり開かれた。左記はその直後に学生たちが記した感想文である―8月20日受領―。(氏名の次の行に書かれれてゐる歌は学生が事前に詠んだもの中の一首で、太字の歌は「和歌の会」での相互批評の中で添削されたものである)。―感想文は現代かな―

     理工学部一年 衞藤良太
 空見上げ首を直角にするほどに群 青色が濃くなっていく

   見上ぐれば見上ぐるほどに大空の藍色さらに濃くなりてゆく

 今回批評していただいた和歌の中で一番、用意していた叩き台と違った和歌になったと思います。自分の詠んだ和歌が一般的に伝わりづらいものであったと思い、自分の勉強不足を感じました。一方で、歌の意味を確かめ合う中で、最も澤部先生と自分の思いを通わせた歌だと思っています。

 先生が批評されているのを見て、まずは七・七の部分だけなど、一部だけでも気づかれた表現の仕方をひとつではなくたくさん出されているのが印象に残りました。こうしてたくさんの選択肢を出せるようになることが、和歌を批評するにあたって大事なことであると感じました。最終的に「見上ぐれば見上ぐるほどに」という言葉が、分かりづらかった「首を直角」という言い方をうまく表現できていると感じ、自分にしっくり来る和歌とすることができました。

 明治天皇御製にあるように、思ったことをそのまま詠み、まごころがこもっているものをまず言葉にすることが大事だと思いました。臨海学校では子供達に、思ったことをなんでも伝えてほしいと思います。そして伝えてくれたものの中から、和歌になるものが出てくるようにしたいと思いました。

※(編註)臨海学校・・・毎年八月、小学生に参加呼び掛けて学生が運営の主体となって実施される宿泊研修。子供たちは和歌を中心に日本の歴史や伝統を学ぶ。

       〇

     大学院一年 河合郁子
   「萩遊学」の折
 自転車でみんなで向かう松陰神社(もくてきち) 速度が増して気持も加速

   松陰神社(みやしろ)に向ふ我らが自転車の速度は増しぬ心弾めば
    「心に残った言葉」・・・

 〝困難を乗り越えるために和歌を詠む〟

 澤部先生の言葉は、最初から心に残るような印象的なものが多かったです。和歌を詠むことで、人の話をしっかり聴くようになると話されました。和歌を詠むことで得られるものを実感できた気がします。

 サークル員が詠んだ和歌を批評していただき、言葉が違うことによって、明確に分かりやすくなっていました。言葉の知識の豊富さに驚きました。和歌の詠み方について、勉強になりました。今後詠むときに意識していきたいです。

 困難を乗り越えるために和歌を詠むということを聞いて、今後困難なことに当たったとき、和歌を詠んで、自分を落ち着けて壁を乗り越えていきたいと思いました。ありがとうございました。

※(編註)「萩遊学」・・・吉田松陰の精神を学ぶために、山口県萩市のゆかりの地をめぐる研修旅行。

       〇

     経済学部一年 小川倖輝
 さはやかな心もちたいと思わせる 我らを照らす優しい光

   さはやかに我らを照らす日の如き 心を我も持ちたく思ふ
    「心に残った言葉」・・・

 〝心がこもった和歌は直しやすい〟
 〝自転車の速度は増しぬ心弾めば〟

 今回は澤部先生に、和歌の会として和歌についての学習を行っていただきました。先生はとても優しい方で、話もしやすい方でした。自分が事前に詠んでいた和歌を批評してもらいましたが、自分の和歌がより相手に伝わりやすい和歌になりました。

 自分が印象に残っているのは、澤部先生が言われた「心がこもった和歌は直しやすい」という言葉です。たしかに、心がこもっていると直す前に何を伝えたいのかが見えるため、心がこもっている和歌が直しやすいとはそういうことかと非常に納得しました。それと同時に、もっと一言ずつ言葉を大切にしながら和歌を詠もうと思いました。

 また、河合さんの和歌を批評された言葉で、「自転車の速度は増しぬ心弾めば」という七・七がありました。この表現はとても情景が直接伝わり、参考にしたいと思いました。

 今回、まだまだ和歌を作るにあたって知識が未熟だと感じました。ですので、いただいたプリントを読み、覚えたことを和歌で実践して、自分が詠んだ和歌で相手に情景・願い・思いを伝えられるようにしたいと思います。

       〇

     農学部二年 伊藤陽奈子
 日出ずる日の本我の故郷(ふるさと)なり生まれし喜び感ずる朝日よ

   日出づる国に生(あ)れたる我が幸をしみじみ感ず朝日昇れば

 澤部先生にお会いし、相互批評をしていただくのは今日が二回目でした。一回目の時よりも先生の偉大さを実感することができました。一番すごいと感じたことは、相互批評で笑いを起こされたことです。あんなにも楽しく相互批評、和歌の添削をしていただいたのは初めてのように感じます。人柄もあると思いますが、心から私たちの想いを受け止めて下さり、自分の心に合う言葉を選んでくださったから、こちらも安心して思ったことが言えました。また、ご自身がわからない所はズバズバ言って下さったことで、より自分の想いが明確になっていったと思います。これから相互批評を行う上で、自分自身もそのような姿勢でいたいと思います。

 本当に楽しい相互批評でした。これからも添削していただきたいと思います。ありがとうございました。

       〇

     文化教育学部四年 藤近晃久
  伊藤陽奈子さんへ
 洗い物に掃除や料理と松楠塾に来る度進みて引き受くる君は

   松楠塾に来るたび君は洗ひ物掃除料理を進み引き受く

 今回の和歌の会では特に、「和歌を詠むこと」を考えることができて良かったです。澤部先生は、「『和歌』は祖先から長きに渡って詠まれたものであり、祖先は歌を詠むことで自らの心を整え、『思想』にしてきた」と話されました。そしてこの和歌こそが、祖先と同じく日本人の道を踏む行いであるとも言われ、我々の活動への自信を新たにしました。我々のサークルの核は、和歌を詠む営みにあります。祖先の如くに、和歌を詠んで自らの心を整え、『思想』としていくことこそ、先人・歴史に連なることだと感じました。我々の学びこそが日本人として踏むべき道であるとの誇りを胸に、臨海学校に臨みたいと思います。

※(編註)松楠塾・・・サークルの部室の名。例会のあと軽い食事を作るなどしてゐる。

 

歌だより

『短歌通信』143号(10月4日)
     〇油山慰霊祭献抄(8月19日斎行)
 ※昭和20年8月20日未明、九州軍需管理部に所属せる海軍技術中佐長島秀男、海軍少尉寺尾博之の両名、福岡市の郊外油山の地にて、遥かに皇居を  拝し古式にのっとりて割腹自刃せり(参照・顕彰碑の碑文)

     福岡市 小柳左門
 御齢(おんよはひ)八十(やそ)路(ぢ)なかばとなりませど民を思ひて御幸(みゆき)したまふ
 被災地に苦難を受けし国民(くにたみ)を慰めまさむといで立ちたまふ
 おみ足は弱りたまへど大君とともにいでます皇后(きさい)の宮は
 朝夕に民やすかれと大君は祈りたまへりこの三十年(みそとせ)を
 平成の世は遷(うつ)るとも大君につかへまつらむ御心したひて
 父上や友の御魂も天(あま)がけり安らけき世を守りますらむ

     筑紫野市 古川広治
 虫の音のしげくなりゆく夏の夜にみたままつりの近づくを知る
 国を思ひ命を絶ちし武士(もののふ)のみ文み歌は残されてあり

   〇高志(こし)短歌会抄

     八月 狛江市 野元恵理
 日に焼けしコンクリートに蝉ひとつ触れむとすればじじと飛び立つ
 二歩先の白線の上に転げ落つる蝉は黙してただそこにあり
 遠からずいのち果てむとする蝉の姿は変はらず触れさせもせず
 かしましく鳴く蝉の声が聞え来てコンクリの道にひとり佇(たたず)む
 道を焼く日は照り返し原爆の影浮び来て青空かなし
 寝入る子の汗ばむ髪を撫でやりて日焼け顔ながむ終戦記念日

     盂蘭盆(うらぼん) 宇城市 北島和子
 夫(つま)の霊帰り来ませよ盂蘭盆のほの暗き夕べ迎へ火を焚く
 夫の声聞えたるがに振り向けば風にそよげる笹の葉づれよ
 亡き夫と旅せし時のネックレス首に飾りて子等と海見る
 父と来し釣りの思ひ出語りつつ息子はしばし浜辺に佇(たたず)む
 過ぎし日を運び来るがに天草の浜べに寄する波の音聞く

   〇東京短歌会抄

     小田原市 岩越豊雄
 明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑、箱根甘酒茶屋の広場にあるを見つけて
   ※駐蹕…天子の行幸の途次、一時乗り物を止めること
 甘酒の茶屋には何度も来たれども駐蹕の碑のあるを知らざる
 天皇のとどまりたまふを喜びて村人石碑を立てたるといふ
 山中に大きく立ちたる碑にしのぶ天皇仰ぐ民の心を
 天皇の駐蹕の碑文読みゆけば光栄大なると記してありき
 天皇を仰ぐ心のあふれたる明治の御代の人々しのぶ

※『短歌通信』はかつて折田豊生参与、現在は澤部壽孫副理事長によって、富山・長崎・大阪・熊本・東京などでの短歌会や、直接寄せられた歌を中心に編集されてゐて、メールもしくは郵送で送られてゐる。今後、抄出になるが折々に歌だよりで紹介したい。

 

編集後記

慶応4年9月8日の「明治」への改元は、太陽暦の1868年10月23日に当る。以来、150年。10月23日には政府主催「明治百五十年記念式典」もあったが、「幼児英語教室」「小学校英語」などの現実に日本人の“核”が溶けていくやうに思はれてならない。改めて『祖国とは国語』(藤原正彦著)の中の「小学校における教科間の重要度は、一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数…」が甦る。国の将来は大丈夫なのか。
(山内)

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