国民同胞巻頭言

第676号

執筆者 題名
小柳 志乃夫 「依りすがる人」と「引受る者」
- 福澤諭吉の言葉に思ふ -
  平成二十九年にお詠みになったお歌から
折田 豊生 平成三十年年頭、および最近御発表の御製、御歌を拝誦して
歌会始 お題「語」に寄せて(抄)(賀状から)
廣木 寧 歌碑と独立樹(下)
- 斎藤茂吉と小林秀雄 -
新春詠草抄(賀状から)五十音順

 「一身独立して一国独立する事」とは、福澤諭吉の『学問のすすめ』の一節である。一国が独立するには国民一人一人が独立せねばならない。その独立とは何か。諭吉は「独立とは自分にて自分の身を支配し他に依りすがる心なきを云ふ」と述べ、「人々この独立の心なくして唯(ただ)他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがるの人のみにて、これを引受(ひき うく)る者はなかるべし」といふ。

 さて、お前は独立できてゐるのか、他人に依りすがる心なきか、と問はれれば、まことに心もとなく恥づかしい次第だが、それでも「他人の力に依りすがらんとのみ」せず、「これを引受る者」でありたいと思ふ。

 「依りすがる人」と「引受る者」―この言葉は人間が子供から大人になっていく過程を思ひ起させる。親から仕事を言ひつかり、家庭の中での役割をもつ。さらに職を得て社会に出る、結婚して家庭をもつ。それは、職務を引受け、子供の養育や新しい親への孝養を引受けることでもある。就職や結婚といふ慶事のよろこびの反面には新たな責任を負ふ緊張がある。かうして自身の責めや務めを引受ける人がゐることで、世の中は世の中として成り立ってゐる。

 日本の経済を支へてきたのもさうした人々の地道な努力によるものだった。日本のものづくり経営研究の第一人者である藤本隆宏教授は、日本の多くの生産現場においては、よく言はれるやうなバブル破綻以降の「失はれた20年」はなかった、そこにあったのは「苦闘の20年」であった、と説いてゐる(『現場から見上げる企業戦略論』)。真実はさうであったらう。円高と中国など低賃金後発国との厳しい競争に晒される中で、生産現場では、(教授の言葉を借りれば)〝ジタバタと〟生産性の向上などに苦闘したのである。さういふ現場の多くは生き残り、依然として日本経済の足腰となってゐる。

 『学問のすすめ』の文章に戻れば、諭吉のいふ「引受る」といふ言葉はさらに強い意味をもつ。

 「外国に対して我(わが)国を守らんには、自由独立の気風を全国に充満せしめ、国中の人々貴賤上下の別なく、其(その)国を自分の身の上に引受け、智者も愚者も、目くらも目あきも、各(おのおの)其国人たるの分を尽さざるべからず。」

 「国を自分の身の上に引受ける」といふ言葉は激しいが、逆に我が国では長い間、国を自分で引受けるのではなく、自分を国で引受けてくれと依りすがってきた。福祉政策の行き過ぎである。もう40年ほど前になるが、山本勝市博士は『福祉国家亡国論』において、福祉そのものはよしとされつつも社会保障の行き過ぎに警告を鳴らされた。その理由の一つは倫理的なものであった。私人間で慈善的な救助を受けるのであれば、そこに恩を感じ、或いは身の恥を思ふといふことが起きるが、社会保障の場合は、負担する国民と享受する国民の間に国家権力が介在するためにさうした恩や恥も感じない。家族内の自発的扶養も後退する。その結果「自己責任の意識や家族の連帯感隣人愛というごとき健康な自由社会の根底を破壊するという心配」を示された。今や社会保障にどっぷりとつかり、その副作用は財政の巨額赤字としても顕現した。

 もう一つ国民が依りすがってゐるのは国防問題である。目下の日本は諭吉の時代と同様、泰平の時が過ぎ、周辺国が牙をとぐ現在である。しかもその当の日本で根強い論調は、故意に危機から目を閉ざすか、或いは「独立の心なくして唯他人(国際社会?)の力に依りすがらん」ともいふべきもののやうだ。戦後占領憲法の呪縛といへようか。さうした日本を「引受けよう」としてじっと機会を窺ってゐるのは実は中国ではないか。この状況に目を見開いて、我が国の存立を我々国民が引受けていく、その大事な一歩が憲法九条の改正(本来は自主憲法の制定)である。

 諭吉の啓蒙は武士的な精神をもつ国民たれと教へたのである。明治といふ時代が偉いのは、実際にその武士的気風が国民各層に広がったところにある。「四民平等」は皆が弱く低いところで平等になったのではなく、強く高いところで平等にならうとしたのだった。

(IBJL東芝リース)

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     御(ぎょ)製(せい)(天皇陛下のお歌)

   第六十八回全国植樹祭
無花粉のたてやますぎを植ゑにけり患ふ人のなきを願ひて

   第七十二回国民体育大会開会式
会場の緑の芝生色映えてえひめ国体の選手入り来る

   第三十七回全国豊かな海づくり大会
くろあはびあさりの稚貝(ちがひ)手渡しぬ漁(すなど)る人の上思ひつつ

   ベトナム国訪問
戦(いくさ)の日々人らはいかに過ごせしか思ひつつ訪(と)ふベトナムの国

   タイ国前国王弔問
亡き君のみたまの前に座りつつ睦(むつ)びし日々を思ひ出でけり

 

     皇后陛下御(み)歌(うた)

   旅
「父の国」と日本(にっぽん)を語る人ら住む遠きベトナムを訪(おとな)ひ来たり
第二次大戦後、ベトナムに残留、彼地に家族を得、後、単身で帰国を余儀なくされし日本兵あり

   名
野蒜(のびる)とふ愛(いと)しき地名あるを知る被災地なるを深く覚えむ

   南の島々
遠く来て島人(しまびと)と共に過ごしたる三日(みつか)ありしを君と愛(かな)しむ

 

   ◇ 平成三十年歌会始 お題「語」

御製
   語りつつあしたの苑(その)を歩み行けば林の中にきんらんの咲く

皇后陛下御歌
   語るなく重きを負(お)ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ

(御製・御歌は宮内庁のホームページによる)

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御製
     第六十八回全国植樹祭
   無花粉のたてやますぎを植ゑにけり患ふ人のなきを願ひて

 第68回全国植樹祭は、平成29年5月28日、富山県魚津桃山運動公園で開催された。富山県では、昭和44年以来、2回目の植樹祭である。

 富山県は、標高3千メートル級の北アルプス立山連峰から流れ出る水が山間地、平野を通って水深千メートルの富山湾に流れ込むダイナミックな水系を有し、それに伴ふ多様な自然環境に恵まれてゐる。そこで育まれ営まれてきた富山県民の多彩な生活様式は、自然との共生や自然保護に対する県民の意識や取組みにも大きな影響を与へてきたに違ひない。

 スギ花粉症は今や国民病と呼ばれるまでになってゐるが、富山県森林研究所では、平成4年、県木タテヤマスギに無花粉の特徴を持つ突然変異体があることを発見し、全国に先がけて無花粉スギを開発育成。平成19年、「はるよこい」と命名して品種登録した。「はるよこい」は平成23年から都市部の緑化用として普及しつつあるが、別途、林業用苗として「立山森の輝き」が並行して開発された。これは、森林資源の再生と持続的活用に向けた有効な切り札として期待されてゐるらしい。

 植樹祭において陛下がお手植えになられた三種の樹木の苗の一つがこの「立山 森の輝き」であり、陛下はこの苗に最もお心をお留めになったことがわかる。

 花粉症は一旦発症すると長年にわたり罹患者を苦しめる。「患ふ人」とは無論、花粉症患者のことである。御製の下の句には、この病に苦しむ人々がなくなるやうにとの願ひが述べられ、上の句の「無花粉のたてやますぎ」といふ具体的な御表現には、国民の安寧を願はれる大御心に添ふかの如く、この希望の新品種を開発してくれた人々への限りない感謝の思ひが秘められてゐる。そして、「植ゑにけり」と結ばれる感嘆の一句には、開発関係者や植樹祭に集ふ人々とお心を一つにして植樹に携はられたお喜びが込められてゐるのである。

     第七十二回国民体育大会開会式
   会場の緑の芝生色映えてえひめ国体の選手入り来る

 国民体育大会は、戦後の混乱期、国民に希望と勇気を与へる目的で昭和21年に開始された。国体の歴史は戦後史の一側面であり、72回目となった愛媛大会は、松山市の県総合運動公園を中心会場として盛大に開催された。

 天皇皇后両陛下は、9月29日に松山市に行幸諬になられ、翌日、同公園陸上競技場で開催された愛媛国体の開会式に一時間余り御臨席になった。両陛下の同県御訪問は24年ぶりであり、県民の熱烈な歓迎をお受けになったのであった。

 開会式当日は秋晴れの快晴に恵まれた爽やかな式典となり、両陛下は入場してくる選手団に終始笑顔で拍手を送られた。本国体の名称「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」にふさはしい光景だった。

 御製はそのときの様子を詠まれたものである。好天のお蔭もあり、芝生の緑が際立って美しかった。見事に手入れされた芝生の緑の色合ひは、陛下にとって、この大会開催のために費やされてきた多くの関係者の労苦の象徴に他ならなかったであらう。そして、そこに次から次に登場して来る溌溂とした選手団の姿は、まさに未来への希望と勇気を示すものであったに違ひない。臨場感溢れるお歌である。

     第三十七回全国豊かな海づくり大会
   くろあはびあさりの稚貝(ちがひ)手渡しぬ漁(すなど)る人の上思ひつつ

 高齢化は農林業だけでなく、漁業においても大きな問題である。漁業従事者はかつて100万人もゐたが、今では20万人を割り込み、平均年齢も60歳を超えた。

 第一次産業は低所得化が進み、補助金頼りとなったままで解決策が見当らないのが実状だ。将来への希望が見出せないことから若い世代の参入が減少し、後継者の確保は長い間深刻な課題とされてきた。

 漁業においては、ほかにも多々反省すべき点がある。

 最も大きな問題は乱獲規制が甘かったことであるといふ。海洋資源に恵まれてきたわが国では、資源枯渇への警戒感が薄く、親魚を獲り尽くして漁獲量が落ちると残すべき子魚まで獲って量を稼いできた。

 豊かな海づくり大会は文字通り豊穣の海復活に向けた重要な啓発イベントであるが、国民の一人々々がそのやうな漁業の問題点や課題を知るべき機会でもあらう。

 陛下は、漁業者の深刻な現状を十分御認識になり、胸を痛めておいでなのである。

 資源復活のための小さな稚貝をお手渡しになるとき、どれほどの御深慮が込められてゐたか計りしれない。

 第37回となる海づくり大会は10月28日から29日にかけて福岡県宗像市で行はれたが、行幸諬の折、両陛下は宗像大社を御参拝になった。

 昨年七月、宗像・沖ノ島と関連遺産群がユネスコの世界遺産に登録されてをり、そのことを陛下はことのほかお喜びになってをられた。

 海の守り神である宗像大社が広く世界に知られることの意義と海洋国日本が果たすべき役割の重要性を私達もまたあらためて問ひ返したいものである。

     ベトナム国訪問
   戦(いくさ)の日々人らはいかに過ごせしか思ひつつ訪(と)ふベトナムの国

 我が国は昭和15年、欧米列強の植民地支配からの解放といふ大義の下にフランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)に進駐。昭和20年、我が国の敗戦に伴ひ、フランスは直ちに再植民地化を図った。当時ベトナムに約九万人ゐた日本兵のうち800人ほどが帰国せず、そのうち約600人はベトミン(ベトナム独立同盟会)軍に加はり、同国の独立戦争に従事した。ベトナムがほぼ百年に及ぶフランスの支配から脱却し得たのは偏にこの人々の貢献によると言はれてゐる。

 残留日本兵は約半数が第一次インドシナ戦争(独立戦争)で戦病死し、生存者はその後、東西冷戦を背景としてその多くが帰国させられることとなる(ベトナムは中国とソ連が支援する「北」と米仏が支援する「南」に分断。日本は米国の同盟国となり、「北」政府から敵対国と見なされた)。

 彼らは既に現地の女性と結婚し子供を儲(もう)けてゐる者もあったが、家族同伴の帰国が認められなかったこと等により、多くの女性や子供が取り残される結果となった。

 1962年(昭和37年)の第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)勃発後は、日本政府が西側支持の立場であったため、元日本兵の家族は更なる苦境に立たされることとなり、悲哀の日々は、同戦争が終結する1975年(昭和50年)まで続いた。御製の「戦の日々」とは、この一連の期間を指してゐる。

 天皇皇后両陛下は、2月28日、初めてベトナムを御訪問になられた。来年4月末の御譲位が確定し最後の外国訪問となるであらう訪問先がベトナムとなったことの意味は、それまでの両陛下の慰霊慰問の海外御訪問と併せて考へると、決して軽いものではなかった。

 3月2日のハノイにおける元残留日本兵の家族との対面の席で、天皇陛下は切々と語る家族の話にぢっと耳を傾けられ、皇后陛下は或ひは手を取り或ひは抱き寄せるやうにして人々の話をお聞きになったといふ。夫の祖国日本を思ひ続けこの日を心待ちにしてゐた妻やその子供達に対し、両陛下はまさに全霊を以てお応へになったのであった。

     タイ国前国王弔問
   亡き君のみたまの前に座りつつ睦(むつ)びし日々を思ひ出でけり

 ベトナム御訪問の後、両陛下は、前年10月に88歳で崩御されたラーマ九世=プミポン・アドゥンヤデート前国王の弔問のためタイを御訪問になった。

 プミポン前国王は1946年18歳で即位され、戦後の動乱と変革の時代に幾多の国家的危機に遭遇しながらタイの発展と安定のために率先して取り組んで来られ、国民に深く敬はれ慕はれてゐた。プミポン国王の時代は、著しい発展を遂げたタイの現代史そのものだったと言へるであらう。国王はまた、世界最長の在位(70年)であられ、偉大な国王として多くの国の人々に知られてゐた。

 天皇陛下とプミポン前国王の交流は長くて深い。昭和38年にプミポン国王が我が国を訪問され、翌年、昭和天皇の御名代として皇太子であられた陛下が妃殿下とともにタイを訪問された。この時、プミポン国王は自ら車を運転し各地を案内されたといふ。また、当時、国民の食生活改善のため、プミポン国王が養殖魚について相談。魚類研究者でもあられる天皇陛下がナイルティラピアの養殖を勧められ、事後、タイでは大衆魚「プラー・ニン」として流通するやうになった。

 その後も、昭和天皇崩御に伴ふ大喪の礼と今上天皇即位の礼に皇太子であったワチラロンコン国王が訪日し参列され、一方、天皇陛下が即位後の初の外国訪問先として平成3年にタイを訪問し、2006年(平成18年)のプミポン国王即位60年式典にも臨まれるなど、他国の王室と比べて格別深い交流が続けられ、それは日タイ友好親善の象徴ともなってゐた。

 3月5日、バンコクの王宮にお着きになった両陛下はプミポン前国王の棺と祭壇に深く拝礼され、僧侶の読経の間、まっすぐに祭壇を見上げてをられたといふ。

 御製はまさにそのときの御心情をお詠みになったものであるが、半世紀に及ぶ信頼と親愛に満ちた温かい御交流の思ひ出が走馬灯のやうに御胸中を駆け巡ってゐたことであらうと拝察する。

皇后陛下御歌
     旅
   「父の国」と日本(にっぽん)を語る人ら住む遠きベトナムを訪(おとな)ひ来たり

 天皇皇后両陛下が斉(ひと)しくベトナム訪問を御歌に詠まれたことは、この御訪問がいかに大きな意味を持ってゐたかを物語る。

 両陛下との対面が叶った元残留日本兵の家族15名は「父の国は私達にとっても母国。両陛下がベトナムに残された元日本兵の家族に心を寄せて頂いたことを有難く思ふ」と涙ながらに語った。御歌の「遠きベトナム」は家族らの「遠き日本」を慮る御表現でもあり、その距離を何とか縮めようとされる御心の反映と思はれてならない。この日家族らは、両陛下との対面によって、ほかの誰からも得ることのできない「父の国日本」の温かさを肌身に染みて感じ取ったことであらう。

 両陛下のこの御訪問を契機として元残留日本兵の家族に対する関心が高まり、多くの関係者の支援によって、10月に家族の子供達14名(62~72歳)の訪日が実現した。代表者が「長年の夢が叶った」と挨拶するとき、一同が咽び泣いた。支援団体のある代表者は「止まってゐた時間がやうやく動き出したやうだ」と語った。

 この年1月には安倍晋三首相もベトナムを訪問してをり、両陛下の御訪問はベトナムとの友好親善関係が一層深まるものと確信してゐるとの談話を発表してゐた。国際社会が厳しさを増す中で、両国の協力関係の強化がアジアの平和と安定について極めて大きな要因となってきてゐることは言ふまでもないであらう。

     
   野蒜(のびる)とふ愛(いと)しき地名あるを知る被災地なるを深く覚えむ

 野蒜は宮城県の景勝地松島湾の東方、東松島市の小さな町である。平成23年3月11日の東日本大震災ではこの地域も強い地震とその後の大津波により甚大な被害を被った(東松島市の死者1047人、不明者75人)。

 植物の野蒜はねぎに似た山野草で食用とされ、昔、野蒜摘みは春の風物詩の一つだった。野蒜は御所の庭にも生えてをり、皇后陛下はよくお摘みになったといふ。

 その素朴で愛らしい名前を数ある被災地の中に見出でられたときの驚きとそのことがもたらす新たな悲しみ。御歌が敢へて二文とされてゐるのには、思はず絶句せざるを得なかった御心情がそのまま表されてゐるやうに思はれてならない。

 この地名は、愛ほしさと忘れがたい悲しみを伴って皇后陛下の御胸中に「深く」刻み込まれることとなった。

     南の島々
   遠く来て島人(しまびと)と共に過ごしたる三日ありしを君と愛(かな)しむ

 平成27年に発生した口永良部島(鹿児島県)新岳の噴火により、島民は全員、屋久島の仮設住宅等における避難生活を余儀なくされてゐた。

 島民の避難生活を長く案じて来られた天皇皇后両陛下は、11月、屋久島町を御訪問になり、避難者を見舞はれた。

 屋久島町総合センターでは島民約60人が出迎へ、両陛下は、その代表五人と懇談の時間をお持ちになった。避難者達は「小さな島を忘れずに来て下さった」と感謝し、両陛下は被災の労苦をねぎらはれたといふ。

 両陛下は、その後、沖永良部島と与論島へも足をお運びになり、御訪問先の各所で多くの島民と歓談の機会を持たれた。

 沖永良部島では特産のテッポウユリが香る中で島民の歓迎を受けられ、与論島では名所百合ヶ浜を視察されたほか、国の重要無形民俗文化財「与論の十五夜踊」も御鑑賞になった。再び戻られた沖永良部島では小学生の黒糖づくりや花卉生産者の圃場(ほじょう)などを御視察になった。

 この離島御訪問は、平成28年8月御発表になったお言葉の中で「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じてきました」と述べられたとほりのお心の籠もった行幸であった。

 この御歌は、「遠く来て」とあるから現地でお詠みになられたものであることがわかる。「三日ありしを」は、「たった三日しかなかったけれども、島の人々と過ごした三日間は実に充実した日々だった。そのやうな三日間に恵まれたことを」との御意であらうと拝察する。御訪問の最後の夜、両陛下は島で過ごされた三日間の出来事についてしみじみと語り合はれたのである。「愛しむ」といふ御表現に、両陛下の御心の深さをお偲びしたい。

歌会始 お題「語」 1月12日

     御製
   語りつつあしたの苑(その)を歩み行けば林の中にきんらんの咲く

 キンランは文字どほり明るい黄色の花をつける野生蘭の一種である。よく似たエビネ蘭と違って特殊な土壌でしか生育しない。森林の下草刈りがなされなくなったことなどによる生育環境の悪化や愛好者の乱獲等により、いつしか絶滅危惧種になってしまったといふ。陛下はそのことを御存じなのであらう。滅びかねないデリケートな植物が健気に花を咲かせてゐることへの慈しみと安堵のお心を拝する。

     皇后陛下御歌
   語るなく重きを負(お)ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ

 皇后陛下は、御苦衷を誰にもお漏らしにならず象徴として粛々と務めて来られた天皇陛下の厳しい重責を思はれ、やがて御譲位により穏やかな日々をお迎へになるであらうことを御暗示になった。

 平成の御代も30年の正月となり、明るい日差しが降り注ぐ中で、天皇陛下を仰がれた皇后陛下は静かな眼差しを向けてをられる。

(本会参与 元熊本市役所)

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       熊本市 今村武人
   拉致被害者家族の平野フミ子様の御講話を聴きて(11月)
帰り来ぬ妹(いも)の身の上案じつつ語る言葉も切実にして
辛くとも「日本信ぜよ」と父君の言葉支へに今日も待つとふ
寒空の下を一人で帰らるる後ろ姿に苦労偲ばゆ

       府中市 磯貝保博
朝ごとに笑みのあふるる写真(うつしゑ)に語りかけつつ線香灯す

       小田原市 岩越豊雄
花咲けと幹をたたきて語りかけし桜の老木花咲きにけり

       川越市 奥富修一
怠らずつとめはげむが何よりも大切なりと友は語りき

       宮若市 小野吉宣
ゆたかなる水保つらむと若き日に祖父は語りき大楠指して

       熊本県益城町 折田豊生
幼子と言葉をまねて語りつつこの子らの世に幸あれと祈る

       福岡市 小柳左門
母親の語る口もと見つめつつ言の葉まねる孫愛(は)しきかも
亡き父の命をうけて生まれたる孫は二歳の春を迎ふる

       柏市 澤部壽孫
耳遠き我と言葉の出で難き先輩(とも)との語らひ続く陽だまり

       佐世保市 朝永清之
   外地の終戦後
昨日まで片言日本語喋りゐしオモニら今日は母国語で喚(わめ)きぬ
ことさへく韓の母国語声高に飛び交ふ様を恐ろしと思ひき

       北九州市 森田仁士
盆参り供へし桃に浮び来ぬ祖父の訛りの寝物語の

       横浜市 山内健生
語らへば彼の日のことども次々に甦りくる古稀のクラス会

       東京都 山本博資
抽(ひ)き慣れし辞書をひもとき古き語の意義をしらべるときを楽しむ

(五十音順)

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       3

 桜といへば、西行、本居宣長が浮かぶ。

 69歳の西行は、文治2年(1186)奥州に旅した。平泉に着いて、次の歌を詠んでゐる。(以下、西行の歌は『山家集』から引く)

   聞きもせずたはしね山の桜ばな吉野の外にかかるべしとは

 平泉の束稲(たわしね)山の桜を見て、西行は親しい吉野の桜を思ひ起こしたのであるが、詞書に「たはしねと申す山の侍(はべ)るに、こと木は少なきやうに、桜のかぎり見えて、花の咲きたるを見てよめる」とある。西行が平泉に見た桜は、「群生樹」で、吉野と同じであるといふのだ。 ほかの西行の桜の歌を見てみよう。

   よしの山雲をはかりに尋ね入りて心にかけし花を見るかな

 この歌にある「心にかけし花」が「独立樹」とも取れさうであるが、ほかの歌を見てみよう。

   すそ野やく烟(けむり)ぞ春は吉野山花をへだつるかすみなりける
   空に出でていづくともなく尋ねれば雪とは花の見ゆるなりけり
   おしなべて花の盛りに成(なり)にけり山の端(は)ごとにかかる白雲
   ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃

 続いて宣長である。(以下、『鈴屋(すずのや)歌集』、『枕の山』から引く)

   咲(さき)つゞくさくらの中に花ならぬ松めづらしきみよし野の山
   世にあれば今年の春の花も見つうれしきものは命なりけり
   雪ふらぬ春もさくらの盛には木毎に花のみよし野の山
   見わたせば花より外の色もなし桜にうづむみよし野の山
   あかず見る心のおくははてもなしよしのの花も分(わけ)つくしても
   待ち侘(わ)ぶる花は咲きぬやいかならぬ覚つかなくもかすむ山の端(は)
   山遠く見に来し我を桜花待ちつけ顔ににほふ嬉しさ
   しろたへに松の緑をこき交ぜて尾上の桜咲きにけるかな

 かう並べて読んで見ると、西行も宣長も「群生樹」も「独立樹」もさうことさらに区別してゐないやうである。

       4

 だが、小林秀雄の『本居宣長』は違ふと郡司はいふのである。

 郡司が作成した「小林秀雄略年譜」によれば、小林が伊勢松坂の本居宣長の墓に詣でたのは、昭和40年の1月のことで、続いて、「本居宣長」を執筆し始める、とある。そして同年四月上旬に根尾谷の「薄墨桜」を見に出掛けて満開に出会った。「本居宣長」の「新潮」連載開始は同年六月からである。

 「桜と小林秀雄」のなかで、「ここ数年、氏を領してゐた『独』といふ思想」とあるから、「本居宣長」執筆に先立って小林は「独」の思想に領されてゐた、と身近にゐた郡司には見えてゐた。そこに、根尾谷の淡墨桜が出現した。小林は興奮し、眼はぎらぎらと輝いたのである。ここに、郡司のいふ、「独」の思想をめぐる、桜と日本の思想との烈しい、充実した相互交流が始まったのである。

 小林の『本居宣長』を読む者には、宣長に先行する近世の学者たちに通底する思念として、小林がいふ「独」の記述は注意を引く。

 「独」は、まづ、契沖(1640~1701)を述べるところに出て来る。元禄8年(1659)、大坂の円珠庵にあった契沖は、仕事のため、万葉講義に参加できぬと断って来た泉州の後輩に手紙を書いた。――わたくしの万葉解釈は発明といへるもので、用事は他の人に任せて講義は是非ともお聴きください。一度でも出席ができないことになれば、卓識をもつことはできません。あなたにわたくしの考へを伝へて置くならば泉州は「歌学不絶地」となるかも知れません。人は所詮、「弥(いよいよ)独り生れて、独死候身ニ同じかるべき」ものなのです。ですから、万葉講義は辞退してはならないと存じます。

 人はそれぞれ専門とするところがあり、それは人によって異なるのだが、独り生れ、独り死ぬといふ、この事実は変らぬのであり、このことを究める学問こそが誰にとっても人生最大の大事となるのである。契沖はさう言ってゐるのである。

 小林は契沖を遡って中江藤樹(1608~1648)に行く。

《彼(藤樹)にとつて、学問の独立とは、単に儒学を、僧侶、或は博士家の手から開放するといふだけの意味ではなかつた。何故学問は、天下第一等の仕事であるか、何故人間第一主義を主意とするか、それは自力で、彼が屢々(しばしば)使つてゐる「自反」といふものの力で、咬(かみ)出(いで)さねばならぬ。「君子ノ学ハ己レノ為(ため)ニス、人ノ為ニセズ」と「論語」の語を借りて言ひ、「師友百人御座候(ござそうろう)ても、独学ならでは進(すすみ)不申(もうさず)候」とも言ふ。(中略)

「我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之(これ)ヲ独ト謂(い)フ」、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、「卓然独立シテ、倚(よ)ル所無シ」といふ覚悟は出来るだらう。さうすれば、「貧富、貴賤(きせん)、禍福、利害、毀誉(きよ)、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ」、さういふ「独」の意味合も開けて来るだらう。更に自反を重ねれば、「聖凡一体、生死息(や)マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ」といふ高次の意味合にも通ずる事が出来るだらう。》

 藤樹のいふ「卓然独立シテ、倚ル所無シ」といふ学問の土台は「天地の間に己(おのれ)一人生(いき)て在りと思ふべし」といった弟子の熊沢蕃山(ばんざん)(1619~1691)にも受け継がれてゐると小林は指摘してゐる。この「独」の学脈の中に小林は荻生(おぎゆう)徂徠(そらい)(1666~1728)も置いてゐる。青年徂徠は伊藤仁斎(1627~1705)の「語孟字義」を読み、感動し、手紙を書く。

《烏虖(ああ)、茫々タル海内(かいだい)、豪杰(ごうけつ)幾何(いくばく)ゾ、一ニ心ニ当ルナシ。而(しか)シテ独リ先生ニ郷(むか)フ》

 仁斎宛の徂徠書簡について小林は語る、

《ここで使はれてゐる豪傑といふ言葉は、無論、戦国時代から持ち越した意味合を踏まえて、「卓然独立シテ、倚ル所無キ」学者を言ふのであり、彼が仁斎の「語孟字義」を読み、心に当るものを得たのは、さういふ人間の心法だつたに違ひない。言ひ代へれば、他人は知らず、自分は「語孟」をかう読んだ、といふ責任ある個人的証言に基いて、仁斎の学問が築かれてゐるところに、豪傑を見たに違ひない。読者は、私の言はうとするところを、既に推察してゐると思ふが、徂徠が、「独リ先生ニ郷フ」と言ふ時、彼の心が触れてゐたものは、藤樹によつて開かれた、「独」の「学脈」に他ならなかつた。》

 先に引いた、契沖が後学に宛てた書簡について小林は、「宛名は宣長でも差し支(つか)へないやうに思はれて来る」と述べてゐるから、「藤樹によつて開かれた、『独』の『学脈』」に本居宣長(1730~1801)も入ると小林は言ってゐるとみて差し支へないであらう。

       5

 斎藤茂吉記念館で見た蔵王山上の、その風向きも風の強さも明かす雪氷に覆はれた歌碑は、茂吉のいふ「孤独」を表してゐるのだが、また、その「独」ゆゑの充実のさまは、妙(たえ)なるかなと思はれて、小林永年の思索によってなった「独立樹」としての『本居宣長』を連想させたのである。

(寺子屋モデル)

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       さいたま市 井原 稔
   昨春、見沼公園にて折々の桜を詠む
曇りたる空にも和む桜花今ぞ盛りと咲きにけるかも
遥けくも続く桜の並木道雨にけぶりていよようるはし
時過ぎて舞ひ散る桜多けれど枝に残れる花ぞいとほし
川面にも道にも桜散り敷きて春ぞやさしく過ぎ行かんとす

       宇部市 内田巌彦
「夏が来れば」の歌にしるけき尾瀬沼のあたり一面水芭蕉咲く

       熊本県益城町 折田豊生
李久惟先生講演会にて志賀哲太郎大人の偲ばれければ
遠き世の学びのにはにあるごとく篤きみ言葉聴きまつりけり

       小矢部市 岸本 弘
平成のこの大御代(おほみよ)ののどやかに明け行く旦(あさ)を祝(ほ)ぎまつらなむ

       さいたま市 北崎伸一
根岸とふ名に「瓶にさす藤の花房とどかざりけり」の歌思ひ出す

       茅ケ崎市 北濱 道
   茅ケ崎市「南湖院記念太陽の里庭園」訪ふ(旧臘二十二日)
新聞に紹介記事の載りたれば逸る気持ちに出で立ちて来ぬ
独歩重吉近代文学者幾人も療養したる「南湖院」はも
明治の御代不治の病ひの結核の治療を願ひ建てられしかな
「東洋一のサナトリウム」と謳はれし威容も今は址を留めず
冬枯れの木立の中につややかなだいだいの実の眼にも著(しる)けき
暖かき穏やかな色眺めつつ来む年もまたかくあれと祈る

       加古川市 北村公一
手袋に帽子マフラー取り出でて我妹(わぎも)薦むる寒き朝(あした)に

       浦安市 小林 功
国挙げて迷ふことなく今こそは民が一つにしたたかに立て

       久留米市 合原俊光
   無事肝臓癌の手術を終へて(二月)
たまはりしみ言を胸に明かりゆくいのちの光ともしみ生きむ
ふる里の山脈遠く仰ぎつつ我が幸思ふ春浅き朝
われになほなすべきことのさはにあり養ふ病ひも力となさむ
脳梗塞後のリハビリを兼ね山邊の野道を歩みつヽ
剪定の枝葉焼くらむ山裾に白き煙の立ちのぼりゆく
冬近き野末の紅葉遠がすみ風ひえびえと夕まけむとす

       東京都 小柳志乃夫
   昨年詠より
初夏(なつ)の空うららに晴れて城下町をふるき友らと語りつつゆく(唐津)
様々に世は変れども一筋に神まつりこしみわざかしこし(宗像大社)
杉苔の緑広がる一面に散れるもみぢの桜葉の映ゆ(兼六園)
訪ね来し清水港の空晴れて富士の高嶺を仰ぎみるかな

       由利本荘市 眞田博之
我のみの力に為し得ぬ事なりと思ふことあり日々の仕事で
悔ゆる事多き身なれど又明日を生きむと思ふ心新たに

       由利本荘市 須田清文
   戸田義雄先生に最後にお会ひせし時を思ひ出(いだ)して
師の君の腹の底から発したるきびしきお言葉よみがへりくる
師の君の「不勉強にもほどがある」とふはげしきお言葉迫りくるかな
ほとばしる思ひたたへて学ばれし師の君仰ぎて生きむとぞ思ふ

       富山市 戸田一郎
我が身体(からだ)早く治して国の為奉仕(つと)めむと願ひリハビリに励む

       佐世保市 朝永清之
   年のはじめに思ふ
男女とも同じ距離歩むが民主主義と憲法公布日の全校遠足に
民主主義は醜愚政治の恐れありと新制中学の社会科担任は
報道は中道なるべしとふ新聞綱領を学びつつ編みにき学校新聞
邪が正を凌駕するがごとき世にしあれば学び直さむ民主主義の本義を

       四街道市 豊増達夫
   昨年十月転倒し腰骨を折り入院し十二月に退院、四十年務めし会社を退職
この我が身全くありせば国難に身をば投じて起ちたきものを
今は野にあればいよいよ同志らと共に改憲に力つくさむ
過ちて腰骨折るるも日本男児(ますらを)の國を憂ふる志(こころ)は折れず
四十一年力を尽くし務めたる会社辞むるも悔いは少なき

       埼玉県嵐山町 服部朋秋
   奉祝 明治百五十年
神代よりひとすぢつづく國がらに復(か)古(へ)したまひし明治御維新
近代のもとゐ築ける明治びとその士(たま)魂(しひ)をひたあふがばや
非凡なる凡人めざし我もまた斯(こ)の道ゆかむ身にし鞭うち
日輪の光あまねきあらたまの代々木の杜に正気充ち満つ

       埼玉県吉見町 藤井 貢
   富士遠望
武蔵なる吉見の里ゆはるけくも富士の高嶺を望むうれしさ

       横須賀市 古川 修
   小田村四郎先生を偲ぶ(平成二十五年厚木合宿での講話「憲法改正について」を読む)
おごそかに一生(ひとよ)終へましし師の君の御声しのびて文をよみゆく
憲法の制定時の真実を「はっきり教へぬ」を諭し給ひぬ
日の本の国の姿を解(し)るべしと明治の憲法説き給ふなり
如何ばかり無念なるらむ憲法の正さるるを見ず逝き給ふとは

       南アルプス市 前田秀一郎
山の端ゆ立ち初むる日に高空の白き富士が嶺金色に映ゆ

       岡崎市 松藤 力
頂の雪清く深く輝きて神の御姿拝する想ひす

       大和市 松本洋治
残されし文みるごとになつかしく昔のことども思ひ出でらる
実朝の歌に詠まれし初島で波間を見つつ釣り糸たれる

       北九州市 森田仁士
   屋久島・宮之浦山頂にて
テントまで詰めて重たきザック背に九州一の高嶺今踏む
雨混じり風強き中山頂を極めし証しと写真を撮りぬ
   新高塚小屋にて
しとしとと雨降る中を樹のかげにテントを張りぬ今宵の宿と
峯極め木陰に憩ひやまびとの心地にあれば雨もまた良し
枝伝ひ落ちし雨だれテント打ちリズムとなるが子守歌とも

 

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 編集後記

 「日中関係改善を象徴する極めて友好的で有意義な訪中となった」とは、2年ぶりの李首相との会談後、財界訪中団長の北京での発言(産経29/11/23)。先方には減少気味の対中投資の増額や「一帯一路」構想への誘引などが腹にあってのことだらうが、団長は尖閣領海への中国公船の度重なる侵犯を失念してゐたらしい。この団長発言への返答?が1月10~11日の同海域での中国潜水艦の潜没だ。「友好的」とはほど遠い。尖閣盗竊(とうせつ)の企てを止めて、総理が靖国神社に参拝しても無言になれば「関係改善」は本物だ!。 平成30年の新春を迎へて仰ぐ御製御歌。「日の本の国の真姿」を間近に感じる。謹解をご精読ください。
(山内)

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