国民同胞巻頭言

第672号

執筆者 題名
黒岩 真一 「泰平の眠り」から覚めるか
- もはや議論の段階ではない「北朝鮮危機」 -
古賀 智 当用漢字制定によって失はれたもの(上)
- 漢字の書き換へを難ず -
平成29年 慰霊祭 厳修さる
布瀬 雅義 「韓国併合」をどう見るか(上)
- 問題あり! 中学校歴史教科書 -

   Jアラートの衝撃

 8月29日の早朝、テレビの画面が突然Jアラート(全国瞬時警報システム)で埋め尽された。私がJアラートに直面したのは今回が初めてで、全身に緊張が走り、朝食の箸を取る手が固まった。程なくして、北朝鮮のミサイルが北海道上空を通過、襟裳岬の遙か東方沖合に落下した事が報じられた。

 9月3日、さらに北朝鮮は大陸間弾道ミサイル(ICBM)搭載予定の水爆実験を行った。ロンドンの国際戦略研究所は地震の大きさから、その威力を最大500キロトンと推定した。「300キロトンの爆弾なら…東京のど真ん中に落とされたら数10万人が即座に死亡」とも報じられた。そして、9月15日早朝、またもや北朝鮮は北海道上空を通過し襟裳岬東2,200キロ沖合に落下する弾道ミサイルを発射した。飛翔距離は3,700キロで前回より1000キロ伸ばした。平壌から米領グアムまでの3,400キロを凌駕し、米国を牽制する目的であったと報じられてゐる。

 国連安保理事会はその三日前の9月12日に米国提案の北朝鮮制裁決議を全会一致で採択してゐた。石油の全面禁輸等は中国・ロシアに譲歩して限定的になったものの、全体として北朝鮮の核開発計画資金源を封ずることを標的としたもので、彼国は激しく反発してゐた。

   泰平の眠りから覚めるか

 嘉永6年(1853)7月初旬、米国東インド艦隊司令官ペリーが最新の蒸気艦船二艘を含む四艘で浦賀沖に投錨して、江戸湾内で数十発の空砲を撃ち、最初の砲撃で江戸は大混乱となった。この時詠まれた狂歌が有名な「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」である。緑茶銘柄の上喜撰と蒸気船、四杯と四艘を掛けてゐる。

 ここ一ヶ月の北朝鮮の核武装化に向けた急速な動きは、ペリー来航に匹敵する衝撃を我々日本人に与へた。新聞やTV報道、特にインターネット上では北朝鮮の核脅威論が渦を為してゐる。9月16日付の紙面には前日のJアラートを受けて読者の率直な声が掲載されてゐた。「またかと思った。行為がエスカレートしてゐて怒りを覚える」「他国では迎撃してゐたのではないか。やられっぱなしでよいのであらうか」等々。

 9月9日は北朝鮮の建国記念日に当り、何らか事を起すのではないかと案じられてゐた。私の勤務する朝倉高等学校は体育祭当日であった。職員朝会で、県教育委員会の連絡を受けた学校長から、「ミサイルの飛来があった場合、体育祭を中断する事、一人でも多くの命を守るべく対処する事」といふ旨の指示があった。生徒や保護者には伝へなかったが、緊張の中、事無きを祈りながら一日を送った。

   改めて「言論」の異常さを痛感

 平成18年、自民党の中川昭一政調会長(故人)は我が国の核兵器保有について「議論はあっていい」と述べたことでマスコミ、野党から猛反発を受けた。他国では至極当然の発言だったが、それを危険視して議論さへ封印してきた。あれから11年、9月16日付の産経新聞『単刀直言』欄で自民党の石破茂元防衛相は「米国の核で守ってもらうと言いながら、日本国内に核を置かないというのは、議論として本当に正しいのか」「もたず、つくらず、もちこませずに議論せずを加えた非核四原則を、ただ堅持するだけでいいはずがない」「私たちは日本国の独立と国民の生命、財産を守ることに責任を負っている。核の傘の実効性を検証し、国民保護を徹底させ、ミサイル防衛の実効性を向上させる」と述べてゐる。政府は相変らず非核三原則堅持の立場を崩してはゐないが、〝北朝鮮の核保有化〟といふ安全保障上の大きな代償を払って、やうやく現実的な議論が始まらうとしてゐる。改めて我が国の政界、マスコミ界の異常さを痛感する。

 これまで北朝鮮のミサイル発射や核実験実施の都度、政府は「厳重に抗議する」と言ってきたが、こんな事でいいはずがない。反撃能力を伴はない抗議など痛くもかゆくもない。我が国の安全保障にとって米国との協力が不可欠の現状だが、その有効性を高めるためには何をなすべきか、もはや議論の段階は過ぎたやうに思はれてはならない。

(福岡県立朝倉高等学校教諭)

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   戦後の国語改革

 戦後の国語改革は当用漢字および現代かなづかひの制定によって、国民の言語生活を制約する形で強制的に実施された。ここで、「強制的に」といふのは、特に学校教育において有無を言はせずに実施されて、それが国民生活全般にまで及んだといふ意味である。

 国語改革運動の歴史は古くて、その80年余り昔の明治初年にまで遡る。西力東漸の幕末期に「黒船」と「アームストロング砲」に表徴される西洋文明の到来に驚嘆して、独立の危機を覚えた当時の人々の中には、漢字よりもはるかに文字種が少なくて学習し易いローマ字を取り入れなければ西洋文明に呑み込まれてしまふと錯覚或いは誤解した人たちが少なからずゐた。それらの人々が或いは漢字廃止・節減論を唱へ、或いはかなもじ・ローマ字国字論を唱へて、国語改革運動を推し進めた80年後の結果が戦後の国語改革といふ具体的な形になったのである。ここではその国語改革運動の歴史を詳細に述べることはしないが、論者の中には国史上著名な前島密、福沢諭吉、西周、森有礼、原敬などがゐたことだけは指摘しておかう。

 その改革論の流れを受け継ぐ国語改革論者たちが、敗戦直後の混乱期に占領軍の力を背景にして、自らの主張を実現する目的をもって、無理矢理に断行したのが戦後の国語改革であった。この改革は、その手段においてもその内容においてもいかがはしさを感じさせるものであるが、本稿では当用漢字の制定がもたらした漢字表記の書き換への問題点と、それによる思考・思想への影響とを取り上げる。

   当用漢字の制定

 当用漢字の制定にあたっては、その「漢字表」と「音訓表」と「字体表」とが時期をややずらして制定・公布された。

漢字表=昭和21年11月16日
音訓表=昭和23年2月16日
字体表=昭和24年4月28日

 これらの正式名称はそれぞれ、「当用漢字表」「当用漢字音訓表」「当用漢字字体表」であるが、本稿では表記の煩雑さを避けるために、それぞれを単に「漢字表」「音訓表」「字体表」と記述することがある。

 当用漢字の制定は将来の漢字廃止を目標とした取り敢へずの漢字制限であったために、その名称には「差し当たって使用する、当面使用する」といふ意味を持つ「当用」といふ言葉が使はれた。しかし、この名称を提案した山本有三は「日用の使用に当てる」といふ意味だと説明してゐたから、漢字廃止の前提を国民に対して隠す意図が働いてゐたことは確かなやうだ。

 これらの「漢字表」「音訓表」「字体表」はいづれも内閣訓令および内閣告示によって公布されたものであって、国民生活を制約する法令として制定されたものではなかった。それにも拘らず、永年に亘って漢字制限表として存在し続けることによって、国民の言語生活を制約し続けて来た。

 漢字制限表としての性格が否定されて、漢字使用の「めやす」に改められた常用漢字表の制定(昭和56年)以後においても、当用漢字時代に課せられた言語生活上の制約は、今もなほ国民の頭脳と精神との中に無意識的に深く刻み込まれて生き続けてゐる。その制約は、表外漢字・表外音訓・表外字体を許さぬといふ国語表記上の制限から生じたものであって、言葉の書き換へ・言ひ換への問題になって現在でも継続してゐる。

   当用漢字表と音訓表による制約

 「当用漢字表」および「音訓表」に示された漢字の種類とその音訓とがあまりに少な過ぎたために、ひらがなによる書き換へ、別の漢字による書き換へ、更には別の言葉による言い換へをせざるを得なくなった。当用漢字が将来の漢字廃止を目標としてゐたのだから、制定した側から見れば、ひらがなによる書き換へはまことに喜ばしいことであった。何しろ「漢字表」に示された1,850字の内の45パーセントに当たる844字の訓(よみ)を「音訓表」では認めてゐなかったのだし、訓を認めた1,006字についても充分な訓を認めなかったといふ事実から判断しても、漢字の廃止を意図してゐたことは明らかであった。

 しかし、国民の正常な感覚からすれば、なぜ「乾燥」は良くて「乾く」はいけないのか、なぜ「例の」は良くて「例へば」はいけないのか、なぜ「他人」はよくて「他の人」を「ほかのひと」と読んではいけないのか、なぜ「魚屋」を「さかなや」と読んではいけないのか、なぜ「香り」を「かをり」と読んではいけないのか、なぜ「河」を「かは」と読んではいけないのか、などの疑問が生じるのは当然のことであった。

 漢字廃止を前提とした「音訓表」が真面目な議論を経て作られてゐたはずもなく、極めて杜撰なものであったために、昭和48年6月18日に音訓を大幅に追加した「改定音訓表」が公布されたが、それまでに実に25年以上の歳月を必要としたといふ事実は、国語改革の異常さを物語るに充分であらう。

 更に大きな欠陥としては、熟語を構成する要素としての漢字を考慮してゐなかったために、熟語の片方の漢字が書き表はせないといふ問題が生じた。これが、かなと漢字とによる熟語の「交ぜ書き」および「同音の漢字による書き換へ」といふ問題を惹き起した。

 特に、「同音の漢字による書き換へ」の問題は深刻である。常用漢字表の制定によって字数が増へ、しかも漢字使用の「めやす」とされた今日に到っても、当用漢字表の時代に書き換へられた熟語が書き換へられる前の本来の姿に戻る気配は無い。

 例へば、昭和56年10月1日に制定された常用漢字表にはそれまでの当用漢字表の1,850字の他に、95字が追加されたのであるが、その追加文字中の「磨」を使ふべき熟語の「磨耗」「磨滅」はいまだに新聞その他を中心に「摩耗」「摩滅」と書かれてゐて、書き換へられる前の本来の姿に出会ふことはほとんど無い。

 更に、平成22年11月30日に常用漢字表に196字が追加された(削除が5字あった)が、その中に「臆」「潰」「毀」「窟」「腎」「汎」「哺」「闇」「餌」の文字があった。新聞は「憶測」「憶説」「棄損」については書き換へ前の「臆測」「臆説」「毀損」に戻したが、「壊滅」「決壊」「破棄」「理屈」「肝心」「広範」「保育」「暗夜」「食事療法」は改めてゐない。世間一般でもこれらの書き換へ後の表記が通用してゐて、書き換へ前の本来の熟語に戻る気配は無い。これは一体どうした事であらうか。本来の正しいものに戻らうとする気持ちは無いのであらうか。

   当用漢字字体表による制約

 「字体表」は「漢字表」の一文字づつについて、印刷活字の元とするべき標準の形を定めたものである。その決め方には三通りがあった。第一は従来から使はれてゐた字体を変更することなく採用したもので、筆者が数へたところでは1080字ほどがこれに該当する。これは正漢字と考へて良い。第二は従来から使はれてゐた略字・俗字等の簡略字体を採用したもので、「漢字表」制定時に既に「圧」「囲」「医」「栄」「駅」などの131字が示されてゐたが、これらの簡略字体は戦前にも正字体とともに使はれてゐたことがわかる。第三は従来普通には使はれてゐなかった字体を「字体整理」といふ名目で新たに作り出したもので、筆者の概算では640字ほどがこれに該当する。

 この第三の方法には大きな問題点があった。それは漢字の字源や部首、漢字相互間の系統といったものを全く考慮しない簡略化だけが目的の乱暴な方法で、点・画の方向や長さを変へたり省略したり加へたり、或いは漢字の構成要素を部分的に変へたり省略したりその配置を変へたり、といったかなり恣意的なものであった。このために、漢字の習得はかへって困難にさへなった。

 「専」の右上には点が無いのに、「博」の右上に点がある理由を説明できる人がどれだけゐるだらうか。「練」「錬」と「諫」「鰊」のつくりの違ひを説明できる人がどれだけゐるだらうか。「ツかんむり」とか「ネへん」といふ部首名に違和感を持たない人がどれだけゐるだらうか。

 更に悪いことには、明らかな誤字が作られたといふ問題がある。「突」は穴から犬が突然に飛び出す事を意味するのだが、「犬」を「大」に変へたために「穴が大きい」といふ意味に変ってしまったし、「徳」のつくりは「直き心」を意味してゐたのだが、「德」の横棒を一本削ったために「十四の心」といふ意味不明の字に変はってしまった。どちらも明らかな誤字である。この類は他にも多数ある。ちなみにこの「類」も誤字である。

 そして、これらの改変文字に「新漢字」といふ称号を与へて、正漢字には「旧漢字」といふ不名誉な名称を附けることによって、正漢字を国民から遠ざけてしまったのである。

 当用漢字の制定によって、ひらがなによる書き換へ、意味の異なる別の漢字による書き換へ、誤字を含む簡略字体による書き換へを強制された国民は、拠り所とするべき正しい国語を奪はれたのであった。今や何が正しくて何が誤りなのか、何が真実であって何が虚偽であるのかを判断する、健全な感性を失ってしまったやうに見える。

(元 富士通(株))

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 夏の暑さが治まった9月25日(日)午後、日本学生協会・精神科学研究会・国民文化研究会の道統に連なる師友のみ霊をお祀りする恒例の慰霊祭が、東京・飯田橋の東京大神宮にて斎行された。

 祭儀には宮城県からの御遺族をはじめ、富山県や関東都県からの会員に加へて、福岡市での「合宿教室」参加の学生ら42名が参列した。御神前に今年の合宿教室の終了が奉告され、この後も変らざるみ霊の御加護をお祈り申し上げた。

 今秋の慰霊祭には、新たに福島義治命、寳邉幸盛命、西元寺紘毅命、江口正弘命が合祀された。

 全国各地から寄せれた献詠歌160余首のうち、一部を左に掲げる。

 

   献詠(抄)

御遺族

       青砥宏一命御令息 松江市 青砥誠一
父より学徒出陣にてトラック島で戦ひし様を聞き
砲弾の降るなか国を守らむと離れ小島に戦ひ給ひき

       島田好衛命御女婿 府中市 青山直幸
   小柳陽太郎先生を偲びて
師の君の御書(みふみ)手に取り読みゆけばみ言葉心に染み入るごとし

        岡村誠之命御令息 小金井市 岡村 健
憲法は「戦争放棄」をうたへども戦争は日本を放棄しをらず

       小柳陽太郎命御令息 福岡市 小柳左門
難(かた)かりし戦(いくさ)ののちの年月を心つくして生きたまひたり
戦ひに敗れしのちも心寄せ國護らむとつとめましにき
幾千歳(いくちとせ)継ぎてたふとき皇統(すめ らぎ)の御代(みよ)を祈りて尽したまひき

       小柳陽太郎命御令息 東京都 小柳志乃夫
慕はしき大人(うし)いや次ぎ逝きまして心さびしきこの年月(としつき)は
先輩の努めたまひしみ國思ふ学びの道を友と歩まむ

       寶邉正久命御令息、寳邉幸盛命御令弟 柳井市 寶邉矢太郎
   父、兄を
父兄(ちちあに)とキャッチボールに興じたる遠き月日はまたかへりこず
   父を
弟をかたぐるまして夕暮れの帰る道うたふ雪山讃歌

       山内恭子命御夫君 横浜市 山内健生
   寶邉正久先生を偲びて
至らざる身にはあれども後つぎて国(す)民同胞(り ぶ み)編むたび仰ぐ師の君
国文研の鼓動(いきづき)なりせばこの後も国民(すり)同胞(ぶみ)編みて御霊に捧げむ

       吉田房雄命御令甥 多賀城市 吉田瑞生
   吉田房雄叔父を偲びて
父君(幾之助)は「房雄は死なん」と語りつつ帰り来る日を終生祈りき

会員

       神戸市 天本和馬
この夏も友らと集ひし合宿に在りし日のみ姿鮮やかに浮ぶ

       奈良市 安納俊紘
益荒男のあるべき姿心掛けいつとも知れぬ危機に備へむ

       さいたま市 飯島隆史
   福島徹男命を偲びて
幼きころともに遊びし従弟(とも)逝きて八(や)年(とせ)はや経ち淋しかりけり

       奈良県 生駒 聰
今こそは尖閣御霊のちから得て憲法改正せねばならぬぞ

       横浜市 池松伸典
祀らるる師の君友らに護られて学びの集ひ続けられゆく
   山根清兄のことを
闘病日誌(ふみ)開き「よどみに浮ぶうたかた」の筆あと見ればみ顔浮び来

       府中市 磯貝保博
御霊(みたま)らの声なき声を聴きにつつ努め励まむ力足らずも

       東京都 伊藤俊介
御教へをともに学びし友達と大人ら偲ばむ秋のみまつり

       東京都 伊藤哲朗
   小柳陽太郎先生遺稿集の校正
先生の遺せし文を読み行けば御言葉耳に聞ゆるがごと

       姫路市 伊藤三樹夫
我が祖国ひそかに守りし人々のみたましのべば胸は熱しも

       神奈川県 稲津利比古
   小柳陽太郎先生を偲びて
師の君の文を開けば自(おのづ)から面輪浮びきて慕はしきかな

       さいたま市 井原 稔
ありがたき御教へ胸に刻みつつ倦まず弛まず日々に励まむ

       清瀬市 今林賢郁
今年また友らの御遺影(うつしゑ)加はりていよよ身に沁む祭りとなりぬ

       熊本市 今村武人
遺されし御文御歌ををろがみて己が生きざま正して行かむ

       小田原市 岩越豊雄
もろともに吾(あ)が大君に仕へむと神のみ前に祈り捧げる

       長崎市 内田英賢
いざとなれば命をかけて国を守る覚悟のあらば国は安けし

       宇部市 内田巌彦
   小柳陽太郎先生、山田輝彦先生を偲びて
窓ごしに互(かた)みに御手を握り合ひ別れ惜しまれし御姿偲ばゆ

       千葉県 内海勝彦
わが庭の虫の音しげくなりゆきてみ霊祀りの日は近づきぬ

       東京都 衛藤晟一
ことあらば命(いのち)顧みぬ自衛官(さきもり)に名誉あたふる憲法(のり)と変へなむ

       鹿沼市 大岡 弘
   寶邉正久先生のみ霊にみ前に
会報を編みたまひたる年月(としつき)のいたづき偲ばゆいさをとともに

       函館市 大町憲朗
國守り来ませし祖先(みおや)の御業(みわざ)継ぎ今こそ我も生き貫かむ

       川越市 奥冨修一
   小柳陽太郎先生の絶唱ともいふべきみ歌を
師の君の賜ひしみ歌をよみまつり導かれつつ我は来にけり
そのみ歌「若きらに思ひ伝へてうつし世を終ふべきほかにすべあらなくに」

       川内市 小田正三
   合宿終了のご報告を頂きて
友ら集ひ講義を聴きて互(かた)みにも思ひ述べ合ふ姿浮び来

       宮若市 小野吉宣
欠くるなき御志(みこころざし)を正しくも受け止め直し語り継がめや

       熊本県 折田豊生
   寶邉正久先生のみ霊のみ前に
人麻呂と我が仰ぎ来し師の君の逝きましてはやひととせを経ぬ
國のため命捧げしみ友らのみ心負ひて生きたまひけり
み國を恋ひて死なむとぞ思ふと詠みまししますらをの歌を我は忘れず

       東京都 加来至誠
   黒上正一郎先生
「志(こころざし)益(やく)物(もつ)に存す」とのたまひし御心慕ひて往かなむ永遠(とは)に

       福岡市 鎹 信弘
遥かにもひむがしの空仰ぎつつ四人(よたり)の御霊ををろがみまつる

       横浜市 椛島有三
   日本の建国を祝ふ会(明治神宮会館にて)
建国の祝ひの会に理事長(今林賢郁さん)は記紀万葉のしらべ語ります
澤部壽孫さんご指導の長崎大短歌の会
長崎の若き友らに心こめしきしまの道を教へたまへり

       東京都 河合忠雄
この國の良き伝統を續けむとの師のみ言葉は永(とは)遠に忘れじ

       小矢部市 岸本 弘
この年もみ霊なごめのみ祭りになつかしきみ名を聞くがかなしさ

       横浜市 北浜 道
この夏も数多(あまた)のみ祖先(おや)のみ姿を具(つぶさ)に現(うつつ)に学び得たりき
み祖先(おや)らの歩み給ひし道をまた友らを誘ひ学びゆきたし

       延岡市 北林幹雄
四十年(よそとせ)の時へだつとも師の君のみ言葉にただ導かれあり
師の君のみ心胸に新たなる友と語らひまこと求めむ

       富山市 北本 宏
百年の時が経つとも変りなき東亜の逝く宿啊今ぞ絶つべし

       福岡市 久々宮章
師の君の筆跡みれば懐かしき熱く語りしみ姿浮び

       筑紫野市 楠田幹人
世の中の悪しき事ども分りつつ何も成し得ぬ我をあはれむ

       藤沢市 工藤千代子
   偏向報道
いしずゑをゆるがさむとするものありて多(さは)なる同胞(はらから)闇中(やみなか)をゆく

       横浜市 國武忠彦
師の君の重き言葉をしのぶかな思ひ出でては夜もふけゆく

       久留米市 合原俊光
   寶邉正久先生の御霊に
四十年(よそとせ)を御心こめて編みませし「国民同胞」わがよるべなり
日の本のみ國のいのち守らむとささげたまひしひと世なりけり
師の君のみ教へ慕ひ日の本のますらをのこの道をし行かむ

       横浜市 古賀 智
   「國語」
もの思ひまこといつはりかむがへて言の葉たださむ後の世のため

       鹿児島市 小原芳久
   江口正弘先輩
日の本の教への道を正さむと説かれしみ姿とはに忘れじ

       東京都 澤部和道
   坂東一男先輩
真夏日の続く此の頃豪快なみ声み姿甦り来る
「和道君売れてゐるか」と太き声かけ給ひたる彼の日懐かし

       柏市 澤部壽孫
   福島義治命を偲びて
京都にて共に輪読(まな)びて五十余年(いそよとせ)はや経ちにけり夢の如くに(京大輪読会)
   寶邉幸盛命を偲びて
父君のあと追ふごとく忽然と逝きましし君を偲び止まずも
   西元寺紘毅命を偲びて
健やかな君のみ声の今もなほ聞ゆる心地す日は経(た)ちゆけど
   江口正弘命を偲びて
福田(忠之)兄の御霊(みたま)祭(まつり)に来給ひし先(と)輩(も)祀らるる今年の秋は

       小田原市 柴田悌輔
   西元寺紘毅君
祭壇の御遺影(うつしゑ)に笑む君の顔今も鮮やかに思ひ出さるる(通夜の宵)

       埼玉県 嶋田元子
國のためせ熱き思ひをたぎらせてつとめを果し逝き給ひしか

       東京都 島津正數
小柳陽太郎先生の旧稿『古典の窓』をフェイスブックで発信して
師の君の遺し給ふる刷り文の深き思ひをけふも学びぬ

       由利本荘市 須田清文
   夜久正雄先生をお偲びして
師の君の深きなさけにつつまれて学びし日々の偲ばるるかな

       霧島市 七夕照正
   江口正弘先輩を偲びて
街頭に声高らかに憲法(のり)改正(かへ)むと訴ふる先輩(とも)のみ雄姿(すがた)浮ぶ

       鹿児島市 徳田浩士
   江口正弘命の御霊へ
三島氏の後に続かんものかはと「改憲」集会開きたまひぬ
「改憲」のポスター貼りぬ二人して寒空に光る星望みつつ

       富山市 戸田一郎
日の本の四方(よも)の海原波高く鎮め給へと御霊に祈る

       川崎市 富永晃行
   黒上正一郎先生をお偲びして
わが祖父と同じき阿波の銀行員にてひとすぢの道開き給ひぬ

       佐世保市 朝永清之
先達の紡ぎ賜ひし経緯(たてよこ)の糸紡ぐわざ受け継ぎゆかむ
不織布と思はるる世を経緯の織布の道に正しゆきたし

       八王子市 中村祐和
   慰霊祭の近づく
時流に乗らずマルクス主義を脱却せよとの川井兄の書物(ふ み)読み偲ぶ

       鳥栖市 西山八郎
ふるさとを遠くはなれて海に山に戦ひたふれしひとをしぞ思ふ

       長崎市 橋本公明
   小柳陽太郎先生を偲ぶ
たゆまずに続く合宿(つどひ)にこの夏も若き友らの来しと告げなむ

       岡山市 波多洋治
東(ひむがし)のみ空を仰ぎ御霊らの安らんこと遥かに祈る

       秦野市 原川猛雄
   寳邉正久先生を偲びて
若きころ悩みし折にうかがひしご講話のこと思ひ出さるる
諄々と説かれしみ言葉泌みいりて心の霧も晴るる心地す
まごころを尽して生きるそのほかに道なきことを気づかされしも

       絲島市 廣木 寧
逝ける友のかんばせみ声のうかび来て過ぎにし日々の忘らえなくに

       埼玉県 藤井 貢
幾年ぶり御霊祭りに列なりて国の行く末友らと語らむ

       福岡市 藤新成信
声に出だし太子の御言葉読み行けば師のみ姿の見ゆる心地す(長内俊平先生のこと)

       東京都 布瀬雅義
七年(ななとせ)を外国(とつくに)に過しやうやくにみたままつりに連なる我は
神あがりあがりましつる師や友を思へば我も励まざらめや

       横須賀市 古川 修
   山根清君の遺詠をよみて
國おもひ命ささげしますらを偲ぶ硫(し)黄島(ま)でのみ歌忘れじ

       南アルプス市 前田秀一郎
師や友の遺し給ひし御言葉に導かれつつ日々を生きたり

       筑紫野市 松浦良雄
若き日にみ教へを受け今もなほ国の姿を教へ続くる

       北九州市 松田 隆
先輩の引継ぎ給ふる敷島の道を継がむと我は生きをり

       横浜市 松岡篤志
台風のすぎし青空澄みわたり富士の頂きはるかに仰ぐ

       鹿屋市 南田武法
今年また御魂まつる日めぐり来て文読み偲ぶほとばしる思ひを

       倉敷市 三宅将之
内外の諸難問をよそにしてただ内閣にけちつける野党
国会の中継テレビに御霊らのみ嘆き如何ほど深きかとおもふ

       北九州市 森田仁士
師の君の教へ給ひしとこしへの祖先(みおや)の想ひ学び行かめや

       大阪市 薬丸保樹
   江口正弘先生を偲びて
穏やかな先生の御顔眼に浮び当時の事を懐かしく思ふ
とつとつと語り給へど心よりみ国の行く末案じ給ひぬ

       福岡市 山口秀範
慕はしき師友の面影浮び来て幽冥隔つる心地せざりき
現し世は御國の行く手いやさらに危ふからずや見護り給へ

       東京都 山本博資
   「御祭神名簿」改編
御祭神(みこと)らのみ名を加へて新たなる「御祭神名簿」を友らと編みゆく
御祭神らのみ名を読みあへば懐かしき在りましし日のみ姿浮ぶ

       調布市 湯通堂義弘
先逝きし野間口、福田、江口らの在りし日偲べば虫の音淋し
赤旗に荒(すさ)みしさまを正さむと師友と語りし学び舎の日々

学生

       筑波大学大学院1年 横川 翔
嗚呼友よ友の刷り文仰ぎみて来る日も来る日も悩み悩めり

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   「植民地」かどうか

 中学歴史教科書のうち、東京書籍版『新編新しい社会 歴史』〈1〉を見ると韓国併合に関する項では、一頁足らずのスペースに、「植民地」といふ言葉が四回も出てくる。

 先づ項のタイトルからして「韓国の植民地化」である。その後も、

・日露戦争の最中から、韓国は、日本による植民地化の圧力にさらされていました。
・また強い権限を持つ朝鮮総督府を 設置して、武力で民衆の抵抗をお さえ、植民地支配を推し進めました。
・植民地支配は1945(昭和20)年の日本の敗戦まで続きました。

と、まるで鬼の首をとったかのやうな「植民地」のオンパレードだが、一方で、育鵬社版『新編 新しい日本の歴史』〈2〉では「植民地」といふ言葉が一回も出てこない。このあたりに、両教科書の歴然たる違ひが見える。

 日本による韓国統治を果して「植民地化」と言へるのかどうか、考へて見よう。

   連合国家か植民地か

 「植民地」とは、事典によれば、「国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと」とある。これが本来の語義だらう。北アメリカにイギリス人が移り住んだのは、この意味の植民地である。

 これが「植民地主義」となると、「国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する政策活動と、それを正当化して推し進める思考を指す。政策活動に際しては、資源、労働力、そして市場を経済的に支配することが原動力となる」と事典には説明されてゐる。欧米列強のアジア・アフリカの植民地化はまさしく、この典型である。

 しかし、日本の韓国併合が「植民地主義」に当るかどうかを考へると、いくつか疑義が出てくる。

 第一は日本と韓国は国家として合併したのであって、韓国は日本の国境内の土地となった。したがって「国外に移住者が移り住み」とか、「国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する」といふ定義には該当しなくなる。これは定義だけの問題ではない。

 たとへば、イギリスはイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの四つの国が連合してできた国だ。だから、ご存知のやうに連合王国(正式名称・United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国)といふ。ウェールズ語やスコットランド語、アイルランド語などは、それぞれの国で公用語となってゐる。

 ウェールズ、スコットランド、北アイルランドは、長い抗争の末にイングランドに臣従し、条約によって「連合国家」となったのだが、これらの地域はイングランドの植民地とは言はない。国境の中で、共通の国家主権のもと、国民もほぼ同様の義務と権利を享受してゐるからである。

 これに対して、インドはイギリスの国境外にあって、インドの民は選挙権その他のイギリス国民としての義務も権利も持たなかったが、イギリスの主権の下で統治された。だから植民地なのである。

 ウェールズのやうな連合国家の一部か、インドのやうな植民地かの分れ目は、抗争などの経緯はどうあれ、同じ国の国民として同様の権利や義務を持ってゐるかどうか、といふ所にある。

   一視同仁

 この点で、韓国統治はどうだったのか。先づ参政権に関しては、内地に住む朝鮮人も台湾人も、日本国民男子として選挙権と被選挙権を与へられてゐた。ハングルによる投票もできた。現実に、昭和7年(1932)の衆議院議員選挙では、東京府から朴春琴が民族名のまま当選して、二期務めてゐる。もちろん朝鮮人だけの得票で当選した訳ではない。

 朝鮮や台湾ではまだ選挙は行はれてゐなかったが、そこに住む内地人も選挙権は行使できなかった。これは地域としての準備状況の違ひであって、国民の差別ではない。実際に北海道で衆議院選挙が行はれたのが明治36年(1903)、沖縄県は明治45年(1912)で、内地の第一回衆議院選挙、明治22年(1989)から遅れること、それぞれ14年、23年であった。

 一方、兵役の義務は内地人だけに附され、朝鮮に住もうと台湾に住もうと、その義務から逃れられなかった。大東亜戦争の激化に伴って、朝鮮では昭和19年(1944)から、台湾では翌昭和20年から徴兵が行はれたが、それに伴って昭和20年4月には朝鮮人7人、台湾人3人の勅選貴族院議員が誕生してゐる。

 同時に、衆議院の定数として朝鮮で合計23人、台湾5人、さらに樺太三人の枠が設けられた。敗戦によって、この選挙は実施されなかったが、参政権、徴兵義務の両面で、徐々に内地並みに近づいてゐたのである。

 文化や歴史、経済発展の状況が異なるので、同じ国になったとは言っても、すぐに同じ待遇ができる訳でもないが、国家の理念としては、朝鮮、台湾、樺太は「新附の領土」であり、そこに住むのは同じ日本国民である、と見なされてゐた。

 かういふ状況を見れば、政治的には朝鮮と台湾は、イギリスにとってのインドのやうな植民地ではなく、スコットランドやアイルランドのやうな連合王国内の地域であったと言へるだらう。

 大正8年(1919)の「朝鮮総督府官制改革の詔書」では「民衆ヲ愛撫スルコト一視同仁、朕ガ臣民トシテ秋毫(しゆうごう)(いささか)ノ差異アルコトナク」と謳はれた。現実にはいろいろな相違差別もあったであらうが、政治理念としては、すべての国民を平等に遇し、その安寧を図っていくといふ皇室の伝統的理想が国家方針となってゐたのである。

 韓国の高度成長

 「植民地主義」の定義で、もう一つは「資源、労働力、そして市場を経済的に支配する」といふ面はどうだらうか。

 たとえばオランダはインドネシアを植民地支配し、耕地面積の5分の1でコーヒーなどのオランダ向け作物を生産させ、その利益はオランダの国家予算の3分の1を占めてゐたといふ。そして、この強制により、インドネシアの食料自給体制は崩壊して、餓死者が続出し、平均寿命は35歳まで低下した。このやうに経済的利益を吸ひ上げることが植民地主義の目的である。

 韓国の場合はどうか。育鵬社版では「韓国併合後の朝鮮の変化」といふ表があって、左記のやうなデータが示されてゐる(一部のみ抜粋)。

調査年度  1911年  1936年 人口    1283万人 2137万人 米生産量  978万石  1941万石 普通学校数 306校   2417校

 わづか25年で人口は1・7倍 生産量はほぼ二倍、普通学校数に至っては8倍近い伸びである。まさに高度成長と言って良い。この結果は、朝鮮の生活水準を内地並に引き上げるための政府投資によるもので、日本政府の対韓投資は持ち出しであった。

 東京書籍版にはかうした記述は一切ない。しかし、不思議なことに育鵬社版の本文でも、この「高度成長」についての記述がない。あるのは、以下の一文である。

  わが国の朝鮮統治では、併合の一環として近代化が進められましたが、米の作づけが強いられたり、日本語教育など同化政策が行われたので、朝鮮の人々の日本への反感は強まりました。

   〈2〉(193頁)

 僅かに「近代化が進められました」といふ部分が、この高度成長に触れてゐるのみである。韓国側が日本統治を悪し様に批判するのは勝手だが、我が国の歴史教育としては、高度成長の史実を客観的なデータで粛々と語れば良い。

 以上のやうに、政治的にみても、経済的に見ても、韓国併合は「植民地化」ではなく、「国家連合」であった。したがって、育鵬社版が注意深く「植民地化」といふ言葉を避けてゐるのは、適正な表現なのである。

 「武力を背景に韓国内の反対をおさえて、併合を行った」?

 こうした高度成長でどんなに良い結果が得られたとしても、朝鮮人の自由を踏みにじって、その主権を奪ったのは不当である、といふ今日の視点からの批判も可能だらう。

 実際に育鵬社版は「1910(明治43)年、政府は韓国併合に踏み切り」の本文で、「韓国併合」に関して、次のやうな注を加へてゐる。

  日本は武力を背景に韓国内の反対をおさえて、併合を行った。韓国の国内には、民族の独立を失うことへの抵抗がおこりその後も独立回復の運動が根強く行われた。

   (同前)
東京書籍版では、さらに詳しく、左記のやうに述べてゐる。

  1907年には韓国の皇帝が退位させられて、軍隊も解散させられました。韓国の国内ではこうした動きに対する抵抗運動が広がり、日本によって解散させられた兵士たちは農民とともに立ち上がりました(義兵運動)。これは日本軍に鎮圧されましたが、日本の支配に対する抵抗はその後も続けられました。 〈1〉(180頁)

 これはこれで事実の記述ではあるが、これだけではきはめて一面的で事実を正しく記載したことにはならない。といふのは、「韓国内での巨大な合邦推進勢力があったこと、そして、併合が日韓両政府の合意によってなされたこと」が書かれてゐないからである。     (続く)

   (初出、国際派日本人養成講座第1017号、一部改稿)

(元 在米日本企業役員)

 

訂正

9月号に誤記、脱字がありました。
2頁3段25行目   …「塾田津に…」→…「熟田津に…」
3頁1段28行目   …「…声を傅ふ」→…「…聲を傳ふ」
3頁1段32行目   を存す」…→に存す」…
3頁3段3行目    若筑建設…→若築建設…
4頁4段4行 目   …最先端の術→…最先端の技術
7頁 合宿詠草抄 2段3行目  木々のかほり…→木々のかをり…

編集後記

 「小学校英語」は平成32年度から正式教科となるが、文科省は「聞く、話す」を繰り返して、音声に親しんで「読む、書く」にも取り組むとの教材を公表した(9/21)。「聞く、話す、読む、書く」に取り組むと簡単に言ふが、単語を知らなければ出来ない。小学生時代は国語の表現表記を正しく学ぶ大事な時期であって、時間の浪費になるだけだらう。文科省は本気で人間形成を考へてゐるのだらうか。国語力が“国民力の基礎”であり、同時に外国語学習の基礎学力であることからも、目を逸らしてゐるとしか思はれない。

 北のミサイルが上空を通過しても、政府も国会も「抗議する」としか言へない他国頼みの現状で、肝心の小学校が英語学習の本格実施!?では愈々国民教育の焦点が呆ける。
(山内)

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