国民同胞巻頭言

第670号

執筆者 題名
武田 有朋 都留文科大学教授 新保祐司先生の御講演(国民文化講座)
「出光佐三と日本人をお聞きして
- その高き精神的気圏に触れよ -
久米 由美子 いま憲法改正運動に取り組む私
- 教員時代の「国旗国歌問題」をふり返りつつ -
高橋 勇 帝国海軍最後〝第九艦隊〟の悲劇
- 父の残した「艦隊記録」と遺稿 -
今村 武人 方法論に終始する「問題解決型学習」
- 「松陰先生に学べ!」と言ひたい -

 今期の第20期(第29回)国民文化講座は、去る6月10日、靖国神社境内の靖国会館に於いて開催された(参会者は111名)。講師は文芸批評家で都留文科大学副学長・教授の新保祐司先生であった。演題は「出光佐三と日本人―その高き精神的気圏に触れよ― 」。

 出光佐三(いでみつさぞう)(1885~1981)は、周知のやうに明治末年から戦後の昭和50年代まで活躍した実業家であり、石油元売り会社・出光興産の創業者として、また「人間尊重の経営理念」でも名高い事業家であった。昨年12月公開された百田尚樹原作の映画「海賊と呼ばれた男」のモデルとしても脚光を浴びた。そこでは戦後の混乱期から高度経済成長までの時代を揺らぐことなく石油事業に挺身した姿が描かれてゐた。

 先生は、40歳過ぎまで出光興産に勤務されたが、創業者・出光佐三の言葉やエピソードからその人間像を紹介された。さらに内村鑑三や国木田独歩らの作品を幅広く引用されながら、明治を生きた人々の姿をも語られた。ことに佐三の「日本人にかえれ」との言葉を取り上げ、戦後の日本人は日本人ではなくなってをり、我々が取り戻すべきは明治の精神であると仰った。

 以下、印象深く私がお聞きした点を中心に、当日のお話の一端を記してみたい。

   出光佐三の人物像

 まづ印象深かったのは出光佐三といふ人物が、我々が一般的に考へる「名経営者」といふものとは異なる非常にユニークな経営者だったといふことであった。出光は社員に「黄金の奴隷たるなかれ」と言ひ、また、新入社員に対しては「卒業証書を捨てよ」(学歴や形式に囚はれることなく、学校で学んだことを実業に生かせ、といふ意)と言ってゐたさうだ。

 出光自身、神戸高等商業学校(現神戸大学経済学部)を卒業後、大手商社への内定を断り、小麦粉や石油・機械油などを扱ふ従業員数名の酒井商店といふ店に就職するなど、当時としても型破りな人物であった。

 先生が出光興産に勤務時のエピソードも大変面白いものであった。

 先生が新入社員であった頃、ガソリンスタンドに配属されたとのことで、そこでの朝礼では国旗掲揚を担当されてゐたさうだ。出光のスタンドのポールには日の丸が掲げられてゐたとのこと。その経営理念の根柢には深い愛国心があった。

 また、出光が著名な建築家に依頼して建設された社屋やガソリンスタンドのお話も印象的であった。例へば、先生も勤務された京都支店の建物は、土地の形状に合はせるのではなく、御所に正対して作られたため道路に対してはいびつな形になってゐた。また、デザインを重視して屋根のないガソリンスタンドを作った結果、雨天時に社員は雨合羽を着て給油にあたったとのこと。しかも、社員はそれを不便とも思はず、むしろさうした職場環境を誇りに思ひ、生き生きと働いてゐたといふお話を興味深くお聞きした。

 現代ではちょっと見当らない会社ではないかと感じた。

   「真のナショナリスト」

 出光は、働く意義は「真に働く姿を通して、社会・国家に示唆を与へる」ことであると説いたといふ。そのやうな出光について、先生は、事業家ではなく思想家であり、一種の「狂気」を持った人物であったと評された。普通の人間であれば、保身を図り楽な方に流されるが、出光はさうではなかった。ナショナリストだが、国家を頼るのではなく、むしろ役所の言ひなりにならずに、石油の国際大手を向うに回して戦った。かういふ自分の足で立つナショナリストこそ本物であること、そして、昨今ナショナリストと呼ばれる人は、国家の力を使って自分たちの考へを実現しようとする「軽薄な自称ナショナリスト」であると仰った。真のナショナリストも世の中に存在するとは思ふが、圧倒的に少数派であるのは間違ひないと思ふ。

 出光のこの姿勢を指して、先生は「狂気」と仰ったのだが、この狂気は明治人に共通したものであったと指摘され、その一例として内村鑑三の『デンマルク国の話』(明治44年、1911)といふ講演録を紹介された。これは、ドイツとの戦争に敗れ、国土の割譲を強いられたデンマーク人が、残された荒野を切り墾いて、いかにして国を復興させたかといふ話である。その中で内村は「戦敗必ずしも不幸ならず」、「精神において敗れない民が最も強い民である」と説いた。この話は当時の人々をいたく刺激したとのことで、雪印の創業者・黒澤酉蔵は、北海道を豊かにし、日本人を健康にせんとして北海道で酪農を始めたといふ。

 普通の人間なら二の足を踏むであらうことを自らの使命だとして躊躇せず実行するといふのが、先生の仰る「狂気」なのであらう。

 更に先生は、出光と内村に共通するものとして、「信仰と愛国」を挙げられた。出光は皇室への尊崇の念が強く、出生地の福岡県宗像市に鎮座する宗像大社を厚く信仰したことでも知られるが、出光、内村ともにアウトサイダーであることを指摘された。出光は前述の通り役所に盾突く反骨者であったし、内村は日露戦争で反戦論を唱へてゐた。そして、そのアウトサイダーたる所以は、愛国者であることであった。世の趨勢に合せるのが愛国者だと思はれがちだが、それは「小なる愛国心」であり、時に国を思へばアウトサイダーになることも辞さない出光や内村のやうな姿勢は「大なる愛国心」によるものであると仰った。

 また、「聡(さと)き愚人と愚かなる智者」といふ言葉を通じて、心を働かせず頭だけで生きてゐるエリートは「愚かなる智者」であり、出光や内村は「聡き愚人である」と仰った。「聡き愚人」とは世間からは愚かなやうに見えるが実は正しい行ひをする者であり、一見賢いやうに見えるが結果的に愚かな振舞ひになってしまふ者が「愚かなる智者」のことだと思った。

   「聡き愚人」が多くゐた明治時代

 先生は、出光、内村に加へて、「聡き愚人」の例として秋山好古(よし ふる)を挙げられた。陸軍に入った秋山は、旧松山藩主の留学の供としてフランスへ渡った。当時、陸軍ではドイツ留学が主流であり、フランス行きはその後のキャリアが傍系となることを意味した。旧藩主とはいへ、既に主従関係にないので供をする義務はない。それでも秋山はフランス随行を選んだ。かうした要領ではなく義理を重んじ、道徳を行動の核とするのが「聡き愚人」であると先生は仰った。かういふ人が明治には多くゐたが、今は少なくなってゐる。日本にとって危機的状況であると仰った。

   昭和天皇の出光佐三へのお歌

 「高き精神的気圏」と表された出光の精神性の高さを表すエピソードとして、先生は昭和56年3月、出光が数へ97歳で亡くなった際に、昭和天皇が詠まれた御製を紹介された。

     国のためひとよつらぬき尽くしたるきみまた去りぬさびしと思ふ

 昭和天皇が「さびし」とお感じになるとは、やはり出光はとてつもない人物であったのだと思ふ。特定の人への御製は極めて稀のことだといふ。

   明治が輩出した「非凡なる凡人」

 先生は、明治時代を読み解くもう一つの言葉として「非凡なる凡人」を挙げられた。明治時代は多くの偉人が出たが、彼らは一人で仕事をしてゐたわけではなく、「非凡なる凡人」たちが脇を支へてゐたと仰った。この「非凡なる凡人」とは、国木田独歩の作品名を引用されたものである。この小説は、貧しい生れながら努力して学ぶ友人の姿を描いたものであるが、友人が電気工事に取り組む姿を見て、独歩は「荘厳さを感じた」と書いてゐる。生業(なり はひ)に取り組む姿が、独歩に荘厳と思はしめるほど実直に熱心に取り組んでゐたといふことであらう。このやうな「非凡なる凡人」がゐたといふことも、明治時代の大きな特色であると仰った。

 「聡き愚人」と「非凡なる凡人」が形作った明治について、先生は、「明治の精神は豊潤であった。一方、この豊潤さは干からびてしまった。この豊潤さをどのやうに受け継いでいくかが大切だ」と仰った。昨今は、作家百田尚樹氏の著作や映画などで出光佐三がブームになってゐるが、一過性で終らせることなく、日本の経営者がぜひ学んでいくべきことだと述べ、講演を締めくくられた。

   講演をお聞きして

  何よりもまづ、出光の精神性の高さに大変感銘を受けた。そして、かういった高い精神性は出光固有のものではあらうが、加へて明治の人々に共通するものだったのだと改めて感じさせられた。

 中でも、新保先生が仰った「聡き愚人と愚かなる智者」といふ言葉が大変心に残った。いまの我が国では目先の功利から行動するやうな「愚かなる智者」が多いやうに感じられるが、一方で出光佐三ブームを鑑みると、出光の生き方に魅力を感じる人も多いはずで、「聡き愚人」といふ生き方が受け入れられる素地は十分にあると思ふ。

 新保先生が仰るやうに、明治の精神の豊潤さを枯らすことなく引き継いでいけるやう、まづは自分たちが「愚かなる智者」とならないやうに努めることが大事なことだと肝に銘じた。

(日本電信電話(株))

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 私は、いま福岡で憲法改正のための活動に取り組んでゐます。2年半前に教職を退き、念願の憲法の問題に真正面から取り組んでいけることに喜びを感じてゐます。講演会を開催したり、憲法についての学習会を開いたりしてゐます。5日月には、北九州市小倉南区の自治連合会の女性部の皆様40名程の方々に憲法改正の必要性を訴へるDVD(百田尚樹監修)を見て頂きました。

 かうした活動に取り組んでゐる私ですが、振り返ってみますと学生時代に原点があったやうに思ひます。

   高校時代に遭遇した三島事件

 高校一年生の時、昭和45年11月、私はテレビで三島由紀夫氏が市ヶ谷の自衛隊の駐屯地で憲法改正を訴へて自決した事件を見ました。氏の行動は、当時の日本では受け入れられないもので、報道も批判的でした。

 私にはそれを見た時、何か自分の知らないことが世の中にあると感じたことが、憲法に関心を抱いた始点だったやうに思はれます。

 現在でこそ「戦後の護憲運動が唱へる平和主義は偽善である」と多くの方が気づき、さうした出版物も多く刊行されてはゐますが、当時は氏の訴へはほとんどの国民には奇異なものに映ってゐたと思ひます。私は、三島氏の行動は何を意味してゐたのだらうか知りたいと思ひました。

 私が中学生の頃、多くの大学が暴力(ゲバルト)肯定の左翼過激派によって占拠され授業不能の状態に陥ってゐました。そして浅間山荘事件(昭和47年2月)などで、過激派内部での仲間同士の殺戮が明らかになったこともあって、徐々に大学での騒ぎは沈静化していきました。

   『占領憲法下の日本』との出会ひ

 昭和48年4月、鹿児島大学に入学した私は、サークルの先輩が薦める本を読み進めていく中で、自分自身がどういふ存在であるのかが少しづつ分るやうになって来ました。

 さうした中で、谷口雅春先生の『占領憲法下の日本』『続占領憲法下の日本』といふ書物に出会ひました。三島由紀夫氏が『占領憲法下の日本』の「はしがき」を書いてをられました。当時40万部も普及されてゐたさうです。

 憲法についてですが、GHQ(連合国軍総司令部)が占領期間中に作ったものであるといふやうなことは、学校では誰も教へてくれず、逆に現憲法は「平和憲法」ですばらしいものだといふことを徹底的に教へられてゐましたから、『占領憲法下の日本』といふタイトルを見ただけで気が退(ひ)けてしまひさうでした。表紙がゲバ棒をもってデモをしてゐる学生たちの写真でした。この本は、自分自身の問ひに答へてくれる本だと直感しました。

 実際読んでいくと、「日本国憲法」は日本が昭和20年9月から27年4月まで占領されてゐた時期(国家主権喪失期)に、GHQが起草したものであることが書かれてゐて、驚愕すべき内容でした。そして、憲法の根底には唯物的な考へがあって、権利のみを主張して国家をないがしろにする精神を育むやうになってゐると述べられてゐました。「平和憲法」といふのも、自分の国の安全を外国に委ね、交戦権を否定し自衛のための軍隊も保持しないといふことを指して言ふのですから、三島氏が自決前に「国防否定の憲法でいいのか」と訴へことの意味がこの時、理解できたのでした。

 国文研の夏の合宿教室で山田輝彦先生が説かれた「内なる国家」といふことも、谷口雅春先生の言はれる「生命体なる国家」といふことも、占領憲法下の教育を受けた戦後の世代には教へられてこなかったことに気づきました。いまでは「憲法改正」を首相が言ひ出すまでになりましたが、当時は「平和憲法」万歳!が政界でまかり通ってゐたのですから、谷口先生の本には心が震へました。あの大学紛争も三島事件も現憲法に由来することを知ったからです。

   大学での学び―合宿・読書・サークル活動―

 大学に入学するまでの私は人間や人生、日本そのものに絶望しかかってゐました。さうした中で、時間だけはたっぷりありましたので、先生方や教育問題研究会の先輩が薦めてくれた本を読み耽りました。それらの本を読んでいくと、人間を肉体的ではなく霊的に観る考へがあることを知り感動しました。周りの世界が一変した感じでした。自分の心に思ひ描いたものが現実に映し出されてくることを知りました。

 合宿教室にも参加しました。左翼の学生たちが信奉する階級史観は、結局は暴力革命に依らなければ平等の世界は実現しないといふもので、考へが合はなくなれば仲間であっても糾弾し粛清して命を奪ふものだといふことを知りました。心の裡に平和を想念して、すべてのものに感謝することで環境も自分の人生も変ってくることを知りました。

 また、日本の神話の世界では、日子(ひこ)・日女(ひめ)と呼び合ひ、人間を天照大御神の子孫としてとらへてゐたことを知り、その直感力のすばらしさに感動させられました。そして、世界の人々がみな「同じ屋根の下(もと)の兄弟」のやうに睦み合ふ世界を作り出さうとの理念とともに、皇室が太古から現代まで続いてゐるといふことの有り難さが分って、いつしか感謝できる自分になってゐました。

   「志は風化させない」

 学生時代に「志の風化」といふ言葉を耳にしました。私はこの言葉を「志を立てたとしても、①就職して②結婚して③子供が生まれて…と、相手や環境、生活の変る中で、つい志を忘れて日常に埋没してしまふ」といふ意味に捉へました。物質的に豊かになった日本では、波風を立てずに周囲の雰囲気に合せて生きていく方が楽かもしれないと思はれました。卒業後、教職に就くことを望んでゐた私は、日教組が牛耳ってゐる教育現場では、学生時代のやうに心の通じ合ふ仲間は傍(そば)にゐないわけですから、相当覚悟しなければならないと思ひました。

 しかし、自分の心の奥底に日本の国を愛し国の現状を憂へる悲しみを湛へてゐる限りは、これに蓋をして生きることはできないと思って、自分の魂が一番喜ぶ生き方をして行かうと秘かに決意しました。私は「自分の志は風化させない」と、自分自身に誓ひました。この言葉は、その後挫(くじ)けさうになる自分を幾度も奮ひ立たせて学生時代の初心に戻してくれました。

   志の原点としての国旗国歌問題

 昭和53年4月、新米教員として赴任したのは福岡県下の学校でした。初めての学校では「国旗国歌」が入学式の次第に入ってゐませんでした。着任早々でしたが、ここで質問をしなかったら今後、国旗国歌について発言できなくなると思って、入学式前の職員会議で「入学式で国旗を掲げ国歌を斉唱しないのは、どうしてですか」と質問しました。管理職も日教組の先生方も着任間もない若輩者が何を言ふのかと驚いた表情をしてゐました。「今までしてゐないから」との答へでしたから、自分の育った鹿児島県の学校では国旗が掲げられ国歌が斉唱されてゐたと発言して、公教育であるから国旗を掲げた上で国歌の斉唱を行ふべきではないかと意見を述べさせてもらひました。

 組合の先生方も明確な反論を準備してゐなかったやうでしたし、管理職も混乱を避けたい様子でした。私も入学式が差し迫った中での議論は学校の運営上も好ましくないと思って、「例年通り」といふ校長の言葉に従って入学式は行はれました。私としては、初めての職員会議で自分の考へをはっきりさせておくことが志の原点であると思って発言したのでした。

   自らを鼓舞して会議に臨んだ

 それ以降、運動会、卒業式と学校行事ごとに発言していくと、さすがに組合の先生方も順番を決めて私に反論してくるやうになりました。「日の丸は戦争をイメージする」「君が代の君は天皇ではないか」「今の日本にはふさはしくない」等々お定まりの理由でした。

 職員会議の前日は、日教組の先生方からどんな質問がくるだらう、どんなふうに話をしたら分ってもらへるだらうかと眠れないほど悩み、考へたことがありました。ただ、私の心の中には、国文研の合宿での「真心で話すと相手も心を開いてくれる」といふ体験や、谷口雅春先生から学んだ「だれもが神の子である」といふ徹底して他者の命を尊ぶといふことで、組合の先生であらうとも「神の子、仏の子である」といふ人間観がありました。それでどんなことを言はれようとも、自分が学んで知り得たことは、正面から話さうと決意して臨みました。

 職員会議に臨む折は、机の下で、握ったこぶしが震へてゐました。しかし、日本の国のために命をかけて戦ってくださった先人の方々のことを思ふと、20数名の先生方を相手に話をすることなど何でもないと自分で自分を鼓舞し、同じ日本人なのだから、誠意をこめて話せば聞いてもらへるはずだと思ひました。会議の中で、先生方は次々にいろいろと反論されました。

 その中で、「天皇を賛美するやうな歌を教へるわけに行かない」といふのがありました。そこで天皇陛下について話させていただきました。陛下のこととなると私自身厳粛な気持ちになります。

   拙いながらも精一杯、話した

 昭和天皇のご聖断の話をさせていただきました。

 開戦時は複雑な国際情勢があり、ABCD包囲網が作られ日本の資源は底をつきどうしようもなく戦争に追ひ込まれていったこと、アメリカは日本から攻撃を仕掛けてくることを待ち望んでゐたことなどを拙い言葉ながら精一杯説明しました。平和を願はれる皇室の伝統はずっと昔からあり、それは歴代天皇の御製に現れてゐること、明治天皇の御製に
よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
といふものがあり、今上陛下(昭和天皇)はこの御製を御前会議(昭和16年9月)で読み上げられ、和平の道はないものかとのお気持ちを表明されてゐたことなども話させていただきました。

 このやうに世界の平和、国民の幸福を願はれる皇室を慕って仰いできたのが国民なのではないか、「君が代」には、そのやうな国柄の永続を願ふ思ひがこめられてゐるとも話させていただきました。

 終戦時は、ポツダム宣言を受諾するか否かで内閣の意見がまとまらなくなった際、時の総理大臣が陛下のお考へをぜひお聞かせ下さいとお願ひした際、「自分はどうなってもよい。国民を助けたい。ポツダム宣言を受け入れるとの外相の意見に同意である」旨を言はれたことも話しました。陛下のお歌も紹介しました。

爆撃にたふれゆく民のうへをおもひいくさとめけり身はいかならむとも
国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

先生方もシーンとして聞いてくださいました。

 私自身が戦後教育の中で育って、天皇陛下について教へられずきたのですが、合宿教室や勉強会で初めて耳にして感動した話でしたので、先生方も驚きと感動をもって聞いてくださったのだらうと思ひました。

 「天皇は利用されたのではないか」といふ質問があり、天皇陛下への認識を変へていただいたやうに感じました。若き自分には言葉が見つからなかったのですが、「利用することがないやうに国民が努力していかなければならないのではないでせうか?」と答へたやうに思ひます。

 同憂の人たちが全国にゐる…

 このやうなやり取りをその後、卒業式や入学式の前の会議で繰り返し行ひました。職員室では一人ですが、全国各地で同じやうに現状を憂へてがんばってゐる人がゐるはずだと思ふと力が湧いて元気になりました。その後、教育委員会等の指導もあって、校長先生から国旗を掲げ、国歌斉唱を行ふことを式次第に入れた案を提示されるやうになり、二年目の卒業式から国旗が掲げられ、国歌斉唱が行はれるやうになりました。

 他の学校に転勤する度に、また似たやうな会議がなされました。その頃、教育委員会の指導とそれに反対する組合員教師との板挟みで校長先生が自殺するといふ他の国ではあり得ない痛ましい事件が発生しました。その後平成11年8月、国旗国歌法が成立して、さうした学校現場での混乱は収束に向ひました。法を変へるといふことがいかに正常化に繋がるものであるか感じさせられました。 それまで日の丸君が代は国旗国歌として広く国民の間に定着してゐたはずですが、日教組は表向きでは成文法に明記されてゐないといふことで、国旗掲揚国歌斉唱に異を唱へてきたのでした。良き「慣習」は成文法にも勝る拠り所であるといふことが分らないといふことは残念なことだとも思ひました。

 天皇陛下の話は、受け持った子どもたちにもしてきました。すると、いつもは授業中落ちついて話を聞かない児童が、陛下の話の時は全身を耳にして真剣に聞いてくれました。中にはポロポロと涙を流す児童がゐました。これは、組合に入ってゐる先生方にしても、児童にしても、日本人としての共通の魂が真実の皇室や先人の生き方を知って共鳴してくれるのではないかと思ひます。

 振り返ると、初めて赴任した学校での闘ひが「志の風化」を乗り越えた原点であったと思ひます。

 これからも日本人の魂を信じて、憲法改正運動に取り組みたいと思ひます。

(元福岡県公立小学校教諭)

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   「戦死公報」の出てゐた父の生還

 父が亡くなったとの海軍省からの公報通知は昭和19年5月3日、郵便配達人の手で届けられた。そこにはニューギニア方面で戦死とあった。やがて千葉県庁で行はれた「合同慰霊式」に母親とともに長男の私(数へ8歳)も参列して、「遺骨」を引き渡された。白い骨箱はそのまま仏壇に収められた。父の弟(陸軍少佐)が戦死の確認調査をするとのことで葬式は待つようにと連絡してきたからであった。

 父は昭和18年12月に帝国海軍が最後に編成した第九艦隊(司令長官は遠藤喜一中将)の一参謀として南方に出陣してゐた。発令の日に撮った家族写真が残ってゐるが、帰還は期しがたいと父も母も覚悟してゐたと思はれる。父は凛々しい軍服姿で映ってゐる。

 私は父の指示でその実家である千葉県佐倉市の農家に疎開し、昭和19年4月に小学校に入学した。翌昭和20年には、授業中に空襲警報が発令されたり、下校途中で空中戦の余波から機銃掃射に見舞はれたりした。米軍爆撃機B29の編隊が頻繁に飛来するようになり、その都度、家の竹藪に掘った防空壕に避難した。終戦を迎へてからは、米軍が殺しに来るといふ噂が飛び交ひ、毎晩のやうに米軍に銃で撃たれる悪夢をみて、恐怖を覚えた。

 海軍省からの戦死公報が届いてゐた父であったが、幸ひにも帰還が叶った。ニューギニア現地での連合軍指令によって復員が許され、昭和21年6月16日に軍人31名、軍属(第8海軍建設部)94名とともに帰国できたのである。父が千葉の実家に軍服姿で現れた時の驚きは、筆舌に尽し難いものであった。

 父がまづ先祖の墓に額づいた姿が瞼に残ってゐる(「合同慰霊式」の際に、渡されたた骨箱にはニューギニア島の石らしきものが入ってゐた)。

   惨たるニューギニア戦線

 戦争終結前、国内では各地の県庁所在やそれに準じる中核都市への空襲に加へて、東京大空襲、米軍の沖縄上陸、原爆投下と続いて、重大な国家的国民的被害を受けたが、海外の戦地も、後に「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言はれたほど悲惨な状態だった。インパール作戦は無謀な作戦の代名詞とされ、ニューギニア島の戦ひも同様に惨たる状況だった。

 父の残した「艦隊記録」によると、昭和19年4月22日には、米豪連合軍の猛攻を受け、空母からの艦載機や潜水艦、駆逐艦による猛爆に対する第90警備隊の兵力250名、主要兵器25ミリ機銃6門では戦ひにならず、「司令部並びに第90警備隊は、今夜当地において玉砕する」といふ遠藤司令長官の決意が表明された、とある。ニューギニア島北岸のホーランジア移駐後、10日余りのことで、この混乱の中、父の戦死公報が出たものと思はれる。

 遠藤長官は海兵39期の俊秀であり、駐独大使館付武官、侍従武官等を歴任された貴公子で、乗馬をよくし、長身で端正な風貌は最期まで侍従武官といふ感じの方であった、と父は書いてゐる。長官の最後の電報である「謹しみて天機ならびに御機嫌を奉伺す」は自ら口授されたものであったとも記してゐる。皇室に対し奉(まつ)る御挨拶は全海軍に向けた別辞でもあった。長官は戦局を明察されてをり、北岸のウェワク到着のころから現地に青山(せいざん)ありの御心境であったと父は長官を偲んでゐる。

 また、第九艦隊の緒方真記参謀長については、昭和19年4月28日頃に戦死されたものと父は推測してゐる。戦後に伺ったお嬢さんの話として、参謀長はある日、同期生の人事局長に会った際、「いま、もっとも厳しい戦地はどこか」と訊ね、「それはニューギニアだ」との答へに、「それなら、俺をそのニューギニアへやってくれ」と応じた、と記してゐる。間もなくして第九艦隊参謀長に発令されたとのことである。

   健脚な高砂族に助けられる

 父は帰還するまでの二年余りを密林ジャングルの中で実質逃亡生活を余儀なくされ、敵の斥候が出てゐる中で、部隊の立て直しは出来ず、小隊に分けて散り散りになったまま大部分の軍人軍属を失って終戦を迎へた。土着の現地人に襲はれ毒矢で殺された仲間もゐたとのことである。

 軍人としての父は、敗戦について、私に語ることは全くなかった。食糧が尽きて、開墾した場所での自活生活に入り、山芋やヤシの実に加へて猪などを獲って食糧にしてゐたやうだ。部隊には台湾出身の健脚な高砂族がゐて(補助兵力として六百名が編成されてゐた)大変助けられたと話してゐた。戦後40年を経た頃、生死を共にした高砂族の一人が父を訪ねて来て、再会を果してゐる。

 終戦後、連合軍は直ちに攻撃をやめ、ジャングルの中に身を潜めた日本軍兵に向けて帰還のために出てくるやうにビラを撒いたといふことである。終戦翌年の昭和21年4月7日、豪軍に西部ニューギニアのサルミへの終結を命じられ、6月3日サルミ発、16日名古屋着の米輸送艦V27号にて父たち127名は帰還したのであった。

 この点では100万人近くのわが軍兵をシベリアに連行して強制労働をさせたソ連とは全く違ふ扱ひであった。ソ連の潜水艦は終戦後、同胞の乗る引揚船も撃沈させてゐる。

   帰国後の父

 父は帰国後マラリアのために時々高熱を出して苦しんだ。その上、GHQ(連合軍総司令部)から公職追放の命を受けて昭和26年の解除まで、都下南多摩郡鶴川村(現在の町田市の一部)の奥で土地を墾(ひら)き、他の復員した若者と一緒に農園経営を始めてゐる。俗に言ふ「陸に上がったカッパ」で、現金収入はなく、野菜を9キロ離れた稲城市矢野口の青果市場に出荷するのが、夏休み時の、当時中学一年生の私の役目であった。父は追放解除後の昭和26年夏、自衛隊の前身の警察予備隊に呼ばれ、6年間勤めたが、その間米軍の顧問将校らを家に招いて、交流を図ったりしてゐた。「昨日の敵は今日の友」とはいふが、国際情勢の激変で米ソ冷戦が背景にあった。

 父は平成6年、86歳で他界するまで、戦死した仲間の遺族への慰問や、生き残ったクラス仲間との交流では〝キサマ〟(貴様)と呼び合ふ楽しい交流もしてゐた。老人会では「軍艦マーチ」や「同期の桜」を声たかく歌ってゐたといふことだ。

 最近父の遺品を整理してゐた際に、老人会誌に寄せた「ソ連と言う国」といふ父の一文が出てきた。いま安倍政権によるロシアとの平和条約に向けた交渉が繰り返されてゐる。時宜にも適ふと信じて、この遺稿をお目に掛けさせていただく。

     「ソ連と言う国」 高橋孫三郎  (海軍中佐、海兵57期、昭和4年卒)

1.三国干渉

 日清戦争に於いて、全国力を尽くし多大な血税を払った結果、講和条約に於いて遼東半島(旅順、大連)を取得した。之に対して、ソ連((ロシア))は独、仏を結合して三国の威力を以って、「日本が遼東半島を保有する事は東洋平和に害がある」等と称し、之を返還するよう威嚇して来た。当時国力を消耗し尽くしていた日本は涙を呑んで之を受け入れ、半島を清国に返還した。之に対してソ連はそのままそっくり之を清国より租借し旅順に軍港を構築した。

 私共は小学校の歴史に於いて此の事を学び、如何に憤慨したかはご記憶の事と存じます。

2.第二次大戦末期に於けるソ連の参戦

 大東亜戦末期、日本が国力を消耗尽くした時機にソ連は満州、千島に攻め込んで来た。当時日ソ間には不可侵条約があったのに、之を一方的に踏み躙ったものである。其の上軍人のみならず一般市民の男子迄、百万人近くを「シベリア」に連行し強制労働をさせた。

 当時の満州に於けるソ連軍の悪逆非道な日本人父母殺傷に依り、現在尚訪日調査が続いている「中国残留日本人孤児」が発生したのである。

3.樺太引き揚船三隻の撃沈

 終戦直後樺太よりの引き揚げ邦人を満載した引き揚げ船2隻が北海道「留萌」沖に於いて潜水艦により撃沈され、ほとんど全員死亡した。当時国籍不明の潜水艦により撃沈されたと報道されたが、其の頃あの付近にあったのはソ連以外の潜水艦とは考えられない。亦あんな惨い事はソ連以外には出来る仕業ではない。(註・もう一隻については記述なし)

4.ソ連の我が北方四島の占領

 終戦前の連合国の合意では、北千島迄はソ連の担当となっていた。始めソ連は千島ウルツプ島迄を占領した時点で一段落と考えていたが、たまたま北方四島を視察したところ、未だ米軍が来ていなかったのを発見し、急遽之を占領したものである。正に火事泥的な占領であった。

 これに味を占めたソ連はさらに北海道を狙ったと思われるが此の方は次のような経緯もあり、事なきを得たものである。

5.終戦秘話

 私の同期生に「江村日雄」という男がいた。(今は故人)軍令部参謀として終戦処理中、前記の状況を見て、慧眼な彼は北海道に同様の不安を感じ、急遽残存の海軍機を千歳に送り込んだ。之を接収するために米軍も亦牛に牽かれる形で千歳へ進駐して来た。暫くしてソ連の野望は消え去った次第である。

(仮名遣ひママ)

 領土問題が解決してロシアとの平和条約が結ばれることを私も願ってはゐるが、ソ連時代の対日参戦を思へば、また破られるかも知れない。「対日参戦とシベリア抑留の蛮行」を忘れてはならない。安倍首相にはプーチン大統領の巧妙な罠にはまることのないやうにと願ふばかりである。

 長らく商社に勤めた私の経験でも、ソ連が関係してゐる取引では何度も煮え湯を飲まされてゐるからである。

(元 米国伊藤忠商事上級副社長)

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 従来の授業形態を知識詰め込みの「知識注入型教育」であるとして批判する中で導入されたのが「ゆとり教育」であった。昭和55年度から小学校、中学校、高校と徐々に実施されたが、大まかに言へば「①教科内容と授業時間数の削減、②教科書のない『総合的な学習の時間』の設置、③自ら課題を見付け自ら学び考へる主体的な問題解決力の育成」といふものである。しかし学力の低下が指摘されたことから「脱ゆとり教育」が指向され、新たに提唱されたのが主体的・対話的で深い学びの実現を目指す「アクティブラーニング」(問題解決型学習)であった。

 もともとアメリカの教育学者、ジョン=デューイ(1952年歿)の学習理論で、「学習」とはそもそも能動的に行ふものであり、知識の暗記のやうな受動的な学習ではなく、自らの問題を発見し解決していく能力を身につける、といふものである。

 この学習の特徴は、まづ自分で教科書で基本的な知識を理解することを前提とし、それを踏まへて授業で積極的に他者と対話しながら自分の意見を形成していくところにある。現在、学校現場ではこの「アクティブラーニング」の研修会や授業実践が盛んに行はれてゐる。

 筆者が参加したある研修会で、講師の大学教授は「私の90分間の授業で講義するのは10分間だけ。あとは学生によるディスカッション(討論)やプレゼンテーション(報告・発表)を自由にさせてゐます」と語ってゐた。つまり、先生が教壇に立って教授することを極力避け、学生の自主性に任せるといふ方法なのである。

 昨年度、某校(一年生)の「総合的な学習」の時間で課題研究が行はれた。まづ各自が自分に関心のあるテーマを準備する。それに基づいて研究テーマを絞り込むためのブレーンストーミング(集団思考、集団発想法)を行ふ。テーマが決まったら、グループごとの討論、ICT(コンピュータ―やネットワークを使ふ情報通信技術)による発表を行ひ、最後は到達目標に達したか否かをルーブリック(評価指標)によって生徒たちを指導する。

 生徒の中には、テーマと真剣に向き合ってゐない者もゐて、少し行き詰まると「先生、別のテーマに変へてもいいですか?」と言ってくる。そして新しいテーマに関する情報をインターネットから巧みに引用し情報を上手に「整理」して発表を終へる。論点などない。したがって、生徒同士が真剣に討論することもないし、発表者に質問をすることもない。すべてが表面的な作業である。生徒の知識理解は二の次なのである。これでは学力がつくはずがない。

 須(すべから)く「学問は学者の人格、志、生き方を離れては存在しない」(福田恆存)ことを忘れてゐる。

 このやうに今の教育界ではカタカナ語を頻用した方法論に終始して、基本的な「ものを考へる(言葉を学ぶ)」「志を育てる」といふ教育が等(なほ)閑(ざ)りにされてゐる。学習指導要領がいふ「人間性豊かな教育」を実践するためには、自由気ままにおしゃべりをすることではない。古典的名著や偉人の生き方に謙虚に学び、「人生」の質を高めなくてはならない。古典に宿る先人の命に触れれば、生徒の心も自づと躍動する。心を働かす訓練なくして単に方法や技術に固執する考へ方は、社会制度を変革すれば社会は良くなるとした人間不在の社会主義思想にも通じるのである。

 筆者は「アクティブラーニング」と言ふならば、幕末の「吉田松陰先生に学べ!」と言ひたい。先生の『野山獄読書記』を開くと、「甲寅((安政元年))10月念4日((24日))入獄」からその年の12月までの僅かの期間に『資治通鑑』や『日本外史』など「大略106冊」を読破したと記されてゐる。先生は熱心に読書をする一方で、ほぼ全国を旅して知識を吸収し、大事な事柄については抄録を作り、感想を記し、野山獄や松下村塾では弟子たちと真剣な討論も展開したのである。

 これぞ我々が目指すべき「問題解決型学習」のお手本ではないか。わが国にも立派な先達がゐるのである。かうした具体的な教育実践に真摯に学ぶ姿勢こそ、今日の教育界に最も必要なことだと思ふ。

(熊本県立第二高等学校教諭)

 

合宿教室での講義から生れた本!

 小林秀雄『学生との対話』 新潮文庫(税別490円)
 福田恆存『人間の生き方、ものの考え方』 文藝春秋(税別1500円)

 

国文研発行図書(一部)

 夜久正雄著『古事記いのち』900円 送料300円
 廣瀬 誠著『萬葉集その漲るいのち』900円 送料300円
 小柳陽太郎他編著 『名歌でたどる日本の心』1500円 送料300円

 

 編集後記

 「わかる授業・楽しい学校」「生きる力」「新学力観」「ゆとりと充実」「観点別評価」…等々、ここ40年程の間、教育界で踊った言葉である。現在は「問題解決型教育」だ。では肝心の学力はどうなのか。本号巻頭文は大局を見失って「方法論」に堕する学校教育の現状を指摘する。他の頁からも、大局観を喪失した「戦後日本」への悲憤の声が聞えて来ると言へば大袈裟か。

 なぜ「日本」から心棒が抜けたのか。万般の拠り所となる「憲法」が自前のものではなく、GHQ起草の「翻訳憲法」だからだらう。それは被占領期、「日本人の再教育」(戦前の全否定)で日本の底力を削(そ)ぐことを企図して起草された。その「翻訳憲法」下にあること70年、拉致邦人の救出どころか、総理の靖国神社参拝さへままならない。国会は「北の核ミサイル」対処(安全保障)をまともに論議しない。
(山内)

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