国民同胞巻頭言

第668号

執筆者 題名
合宿運営委員長
武澤 陽介
「日本の心に触れる」体験をしよう
- 全国学生青年合宿教室へのお誘ひ -
占部 賢志 「祖国とは国語だ」
- 平成の言語感覚に就いて -
小田村 寅二郎 〈小田村寅二郎先生18年祭、改めて先生を仰ぐ〉
- 今年の課題 - 喝(カッ)「馬鹿になれ!!」
(本紙、昭和38年1月号所載)
布瀬 雅義 国柄に根づいた日本的経営(下)
- 「日本的経営」が築く「幸福な国民国家」 -
日本政策研究センター所長
岡田 邦宏
『明日への選択』五月号〝読書への手紙〟
護憲派よ 今こそ「九条による平和」を主張せよ
昨年の合宿教室の記録 『日本への回帰』第52集 刊行!

 昨年の暮れに数人の先輩方と食事をした折、国民文化研究会の本質、核となるものは何か、といふことが話題になった。ある先輩は、それは「短歌である」と語り、またもう一人の先輩は「聖徳太子である」と語った。

 「短歌である」と語った先輩は、私の書く文章にをかしな点があることを指摘し、更に歴史的仮名遣ひの重要性を改めて話された。そして福田恆存の『私の國語教室』を読んだらどうか、と勧めて下さった。国文研の会員になってから文章を書く機会をいただくことが少なくないが、大変厳しい意見を先輩や同輩から頂戴することがある。音楽家である私が文章に悪戦苦闘することは不思議なことにも思へるが、20世紀の巨匠ヴァイオリニストであるアイザック・スターン(2001年歿)が生前、「音楽・演奏を言葉で表現できなくてはならない」と述べてゐたことが思ひ出される。それにしても、拙文への厳しい指摘を頂戴できることは得難いことであり、感謝に耐えない。これからも精進しなければならないと思ってゐる。

 もう一人の先輩が仰った「聖徳太子である」とは、聖徳太子の御思想に学ぶといふことであるが、それは我が国の姿の根幹に関ることであり、そこに大切な何かがある、と感じてゐる。このことこそが、今の私が大いに学ばなければならない点であると自覚してゐる。

 今後はもっと積極的に黒上正一郎先生の『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』の読書会に参加したいと思ってゐる。

 私は先輩お二人のお話を伺って、これこそ国文研の諸先輩方が大切にしてこられた学問なのだと感じ、そしてまた同時に、これこそが「日本の本質」であり核なのであらうと感じさせられたのである。

       ※

 さて今夏の全国学生青年合宿教室は、8月11日から、昨年の西日本合宿が行はれた福岡市東区香椎浜にある「さわやかトレーニングセンター福岡」に於いて二泊三日で開催される。第62回目となる今回の合宿の大きなテーマは「日本の心に触れる」である。

 私が合宿教室の運営委員長の大役目をお引き受けした後、同輩の仲間と合宿の方向性を話し合ったが、その時、真っ先に脳裏に浮んだのは冒頭に記した先輩方の言葉であった。全国からの参加者とともに短歌を創作し、それを互ひに読み味はひ、そして太子の御思想にも触れて、いま一度国の根本を学びたいといふ思ひが強まって、合宿教室のテーマ「日本の心に触れる」や日程が決まっていったのである。

 二泊の短い合宿ではあるが、現在我々の置かれてゐる時代の問題から、歴史を遡りつつ太子の御思想を学び、短歌創作の時間をも組み込んだ充実した日程となってゐる。

 短歌創作を兼ねた野外研修では、“「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”としてユネスコの世界文化遺産登録が話題となってゐる宗像大社を訪れる予定である。沖ノ島(沖津宮(おきつぐう))や大島(中津宮(なかつぐう))まで渡ることはできないが、日本の原風景が広がる宗像市田島の宗像大社本殿(辺津宮(へつぐう))や高宮祭場(たかみやさいじょう)(沖ノ島と並び古代からの祈りの原形を伝へる祭場)、数多くの国宝が展示される神宝館などが点在する広大な神苑を見学する予定となってゐる。合宿教室参加者の方々と、その感動をぜひ短歌に詠みたいものと思ってゐる。

 合宿開催地の福岡市や宗像市を含む北九州一帯は我が国の外交史において最古の大陸交流の舞台である。まさにこの拙文を書いてゐる最中(さなか)の5月21日夕刻、北朝鮮による弾道ミサイル発射の速報が伝へられた。近年の周辺諸国の動向にはいよいよ差し迫ったものを感じるが、今回の合宿教室で先人たちのご努力を追体験し、今後の我々の進むべき道を真剣に考へる契機にしたいものと考へてゐる。

 福岡の地で、全国各地からの参加者と出会ひ、そして共に語り合ふことが今から楽しみでならない。多くの皆様のご参加を心待ちにしてゐます。

(作曲家・上野学園高校音楽科講師)

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   目に余る「なので」の誤用

 昨今の言葉遣ひには不愉快な事が多い。なかでも、「午後は雨になりさうだ。なので傘を持って行かう」といふやうに、頭に「なので」をつけるケースだ。正しくは、断定の助動詞「だ」の連体形「な」に接続助詞「ので」がついた語であるから、「午後は雨になりさうなので、傘を持って行かう」と言ふべきなのに、誤った使ひ方をテレビ局のアナウンサーまでが平気で口にする。気にし始めると、耳障りこの上ない。

 昨秋、BSフジテレビの「プライムニュース」にゲスト出演してゐた防衛大臣が安全保障について語りながら、この「なので」を連発するのを見て唖然とした。つい先日は、時事問題を扱ふ読売テレビ系の人気トーク番組で保守を自任する某大学教師が、同じく「なので」を誤用して皇室問題を語ってゐたが、これには苦笑のほかなかった。

 ルーマニアの思想家シオランは、「私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは国語だ」(『告白と呪詛』)といふ事を言ってゐる。肇国以来、真摯で複雑な国語国字の創出を経験して来た、我々日本人の苦心の様は太安万侶が書き残した『古事記』序文に片鱗を窺ふ事が出来るし、国語の威力については、古今和歌集の仮名序に紀貫之が書き留めてゐる。

 広く世界を見ても、国語守護は不変の事実である。祖国が危機に瀕したとき、人は国語の防護に目覚める。ドイツでは、フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」と題する連続講義においてドイツ語の守護を訴へてゐる。

 いづれにしても、国語を粗末に扱ふ人に、はたして国防の何たるかや、皇室の皇室たるゆゑんが語れるのか、私は怪しむ。顔が見えない。

   「マイナンバー」制度

 言葉の表記についても気になる。教育界のみならず、いづこでも「子ども」と交ぜ書きするのが主流である。「供」と表記すれば、「お供へ物」や「お供をする」のやうに、子を脇に追ひやってしまふ。だから仮名に開いた方がよい。さうした説が広がり、今や多くが無意識に「子ども」と書く。この俗説の出所は、マルクス主義の歴史学者羽仁五郎の妻で社会運動家だった羽仁説子らしいが、これも明らかな誤りである。

 文化庁国語課によれば、古代において「こ(子)」に複数を表す接尾語「ども」がついたのが始まりだが、その後は単数や複数の別なく用ゐられ、江戸時代から当て字で「供」が使はれるやうになったといふ。因みに、文科省では平25年7月の「文部科学白書」刊行を機に、長らく乱れてゐた表記を「子供」に統一してゐる。

 かうした国語国字の乱れに対して、かつては福田恆存氏や吉田富三氏ら先達が正常化に傾注したが、さて今はどうか。一例が、その昔に国民を番号で呼ぶのかと批判されて頓挫した国民総背番号論といふのがあったが、マイナンバー制度が登場すると殆ど反対もなく決った。名前なぞ一種の符丁だ、番号制にしてコンピュータ管理をすれば効率がよい。政治と行政の当事者はさういふ意識だったに違ひない。これも本質は言葉の問題である。

 そもそも、日本人は名前を杜撰に扱ふなどしない民族だった。故村松剛氏によれば、古代においては女性はみだりに自分の名を明かさなかった。例へば、男から名前を聞かれて相手に明かしたら、求愛に応じたことになる。男から言へば名を尋ねる行為は愛情表現だった。万葉集巻頭の雄略天皇の有名な御製の句に「この丘に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね」とあるやうに娘の名を聞いてをられるが、これはまさに愛情の歌なのである。

 折口信夫の研究によれば、実の名前を知ってゐたのは母親と夫ぐらゐだったらしい。「源氏物語」には数多くの女性が登場するが、本名として表記された名前はただの一つもない。すべて渾名のたぐひである。

 それほどの重みを持つ名前を公然と番号で代替する例は今までの我が国の歴史にはない。

   原発事故とカタカナ語

 もう一つ、当節の日本人の言語感覚がどこか狂ってゐるのではないかと思はれたのが、一連の福島原発事故の報道である

 原発の専門家は平然とした口調でこんな風に言ひ続けたのはいまだ記憶に新しい。曰く、「どうも原子炉内がメルトダウンする可能性があるのでベントをするとともに、周辺地域にはモニタリング・ポストを増設して様子を見ることにした」などの言ひ方である。一刻も早く情報を知りたい被災者を煙に巻くやうな専門用語で説明が繰り返された。

 福島の原発事故を連日取材してゐた記者はこんな体験を回顧する。取材中、専門家の口から頻繁に「サプチェン、サプチェン」といふカタカナ語が飛び出してくる。切迫した様子から重大な用語らしいが、何を意味するのかさっぱり分らない。聞いても忙しく立ち回ってゐて、なかなか相手にして貰へなかった。そんな苦労の挙げ句、やうやくサプチェンとはサプレッション・チェンバーの和製略語だと突き止めた。日本語で言へば、圧力抑制室、原子炉内の圧力上昇を抑へるために設けられてゐるドーナツ型の装置を指す。

 これが実態である。誰にも分るやうに説明する、専門家諸氏の頭にはその自覚が欠けてゐた。先ほどの例で言へば、「原子炉の底が溶ける可能性があるので、今換気をしてゐるところだ。併せて、放射線量を調べるため観測装置も増設する」。このやうに説明すればよかったのである。

 ところが、カタカナ語が延々と垂れ流された。おい、何をやってゐるんだ。被災者をはじめ国民に通じる日本語を使へ。このやうに叱り飛ばすリーダーが出なかったことは、返す返すも残念なことである。

   「ライス」と「アクティブ・ラーニング」

 昭和の終り頃、放送作家の永六輔氏が外来語ばかり使ふ風潮を痛烈に批判した一文を読んで共感した覚えがある。永氏が新幹線に乗ってゐた時の話だった。通りがかった車掌とこんな遣り取りを交す。

「食堂車は何号車?」
「ビュッフェですね?」
「食堂車」
「ビュッフェなら9号車です」

 乗客が食堂車といふなら素直に応じればいいものを、一々(いちいち)外来語に言ひ換へる。不快に感じてゐると、近くの老人が車掌に「煙草が欲しいんだが」と声をかけた。車掌は答へる。「ビュッフェのわきのキオスクにあります」。そんな言ひ方では何のことだか老人には分らない。そこで永氏が「食堂車の脇の売店ですよ」と助け船を出す。

 暫くして、永氏が食堂車でコーヒーを飲んでゐると、その老人が入ってきてランチか何かを注文する。無愛想な女給仕がパンかライスかと聞くから、老人はとまどひながら「ご飯」と言ふと、「ライスですね」と言ひ換へる。「あの、ご飯を…」と繰り返すと、「ライスなんでしょ!」と居丈高な物言ひをした。

 この時、イライラしてゐた永氏は怒りを露(あらは)にする。─お客が「ご飯」と言ったら「かしこまりました」となぜ言はない。第一、英語で通すなら、「r」と「l」の発音の違ひぐらゐ区別しろ。さっきのきみの言ひ方なら、「ご飯」ではなく「シラミ」の意味になる。ついでにもう一つ、英語を使ひたいなら、パンといふな。パンはポルトガル語、ブレッドと言へ!

 実はこれと同じ事が現在の教育界でも起きてゐる。目下の文教政策が重視するキーワードの多くはカタカナ語である。聞き慣れてゐる我々から見ても度が過ぎる。

 たとへば、「これからはアクティブ・ラーニングとルーブリック、それにICTをリンクすることでグローバル人材を育てなければならない」と言はれても、どれだけの人が理解できるのか、甚だ疑はしい。

   「聞き上手」

 それでも、平成10年頃の中教審メンバーはまだ常識があった。当時の議事録を読むと、審議のまとめや報告書にカタカナ語が多過ぎる、馴染みのある普通の国語で記述して貰ひたいと、厳しい注文がついてゐる。

 その一つに、報告書の原案に使はれてゐる「カウンセリング・マインド」に関して、一般に分りにくい英語を使はなくても、日本語で「聞き上手」と言ひ換へていいのではないかと、ごく常識的な議論が行はれてゐる。

 ほかにも、「家庭の中におけるルールづくり」といふ記述に対して、日本語には「家風」といふ言葉がある、私ならこちらを採ると、一人の委員は具申してゐる。あの頃はまださうした具眼の士がゐたのである。

 要は常識に還ればいいのだが、どうも木を見て森を見ない傾向が教育界には強い。兎に角、仲間内でしか通用しない語を多用するといふのは、閉ざされた言語空間で教育が論じられてゐるといふ事にほかならない。

 何やら愚痴めいた話になって恐縮だが、朗報を一つ。昨秋、臨時国会が始まった頃、人を介して文科省の幹部のお一人がわざわざ私を訪ねて来られた。目下の教育改革について、少々手厳しい批判を月刊誌に連載してゐるものだから、関心を示されての来学である。懇談の中身については割愛するが、遣り取りはなかなか面白く手応へもあった。

 その後年末には、各方面で話題の「アクティブ・ラーニング」をキーワードにした中央教育審議会答申が文科大臣に手交され、これに基づいて文科省は二月半ばに小中学校の新たな学習指導要領案を示すことになったのだが、教育界では驚きの声が上がった。あれだけ話題を振りまいたアクティブ・ラーニングの語がすべて消え、「主体的・対話的で深い学び」といふ国語で表記されてゐたからである。

(中村学園大学教授)

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 ①思索と思考における「素朴さの重要性」に活眼を見ひらき、同時に②「思索と思考における固定化―概念化」に堕落することのないやうに、③国民生活の公・私におけるすべての面に、人間的な内的秩序の確立をはかること。④それには国民生活の指標をスローガンでないところに、改めて求めなほさなければならないし、同時に⑤国民生活の中に、同信協力の道を樹立するやうに、全国民が互ひに大いに発奮しなければなるまい。

――この表題は、私が私自身にいひきかせたい年頭の辞でもある。――

       ◇

 いまから30年も昔、私が一高に学んでゐた頃のことであるが、当時の一高には、伝統的な一つの貴重な「合ひ言葉」があった。それが表題に書いた「馬鹿になれ!!」である。

 天下の一高といはれた学校であったが、私のやうに、もともと馬鹿の一族に近くて、いまさら「馬鹿になれ‼」と怒鳴られても、馬鹿になりようのない本質的馬鹿族も少数ながらゐることはゐた。だが、多くは頭のいい連中であったし、よく勉強もしてゐた。一世に先んじて東西の思想を学び取らうとする意慾も旺盛であったし、人生の歓喜を正しく追求しようとする気風が満ちてゐた。

 「友の憂ひにわれは泣き、わが喜びに友は舞ふ。人生意気に感じては‥‥」といふ寮歌の調べは、その言葉そままに素直な共感をすべての学生にわかち与へてゐた。それといふのも、「真剣な人生」がそこにあったがゆゑであらうと回顧される。

 真剣な人生といふものを、ひとりの個の生活で生み出すことは、おそらく稀れなことではなからうか。鉄人、聖人にはそれが可能であっても、凡人にはできさうにもない。凡人は、人間同士がお互ひの心の中に、共鳴し合ひ共感し合ふ精神世界を建設しなければ、「真剣な人生」のニュアンスを体得し得ないのではなからうか。

 私は往時を、いまそのやうに回顧する。さう考へなければ、「馬鹿になれ!!」といふ、およそ非文明的な「合ひ言葉」が、長い一高の伝統の中で、あれほどまでに大切に伝承されてゐた意味が解けないからである。なぜ、そんな言葉が伝承され、ある意味では愛されさへしたのだらうか。

 それは、簡単にいへば、こんなことではなからうか。

 〝馬鹿にならなければ、「友の心の中味が「ありのままに」「正確」に感じとれないぞ〟といふこと。そこにいふ「友」とは、身近な学友との交りを出発点として、同年輩の全日本、全世界の青年に及び、また同時代の人間のすべてを包み、さらに古人とつらなり、未来の生きとし生ける「人」の「心」に通ふ、その道しるべ、を意味してゐたやうにも思はれる。そこでいふ「友」とは、実はそのやうな広汎な人間社会、歴史的立体的な人間社会の正しい理解への、貴重な橋渡しとして把へられてゐたやうにも思ふ。

 また、思索と思考に熱中する若人たちが、自ら迷ひを求め、無際限の思考に走りながら、その思索と思考を、観念化から避けさせるために、抽象性から具体性に立ち戻るために、いひかへれば、きびしい思索と思考に健全性を保持させるために、いつしか暗黙の合意の了解が生れてきて、それが、時折りお互ひの覚醒の一喝として、この言葉を生み出してゐたのかも知れない。それは、いはば向学と思考と、真理の探求への厳しさが生んだものであらうし、分裂を綜合に立てなほすための、また個が全から遊離してしまふことを防ぐための、いはば人間生命の自己防衛策の一線としての役目を持ってゐたものであったかも知れない。

 「馬鹿になれ‼」といふ言葉は当時たしかに、「迷ひを断(た)て」といふ響きを持ってゐた。断たうとしても断ちきれない悩み、迷ひ―それは公と私と、また全と個との背反に連なってゐることであらうが―それを忘れてしまふ自奮的勇断と勇猛心を呼び目ざます意味をも含んでゐた。「思考の混迷」が、人間生活に必然に発生するものであってみれば、当然の若人たちがかうした言葉を生み出して、それを大切なものとしてゐた心情も、いまの若い人々にとっても、あながち理解できぬこともなからうと思ふ。「真剣な人生」に生き抜かうとして模索する現代の青年諸君にも、この言葉の意味をよく味はっていただきたいと思ふものである。

       ◇

 さて、今年われわれ日本人が「馬鹿にならなければならない理由」は?ここには書きつらねる余裕がない。しかし一つの例だけ記しておかう。

 憲法は一国の最高の基本法である。世界中のどこの国でも、すべてその国の国是がある。それは〇〇主義といふやうなスローガンとはちがって内容についての意志統一があることを意味する。いまの日本にはそれが三つある。それを一つにしなければ憲法論議そのものが成り立たない。成り立たないことを、いかにも成り立つかのやうな錯覚で取り組んできたのが、昨年までの日本ではなかったか。

 愛国心についても同じ、この頃ではアカハタ(編註・共産党機関紙)紙上でも、さかんに愛国心の昂揚を叫んでゐる。日本には三つの愛国心が叫ばれてゐる。それを一つにしなければ愛国心論争もなにもあり得はしない。

 教育についても同じ、どういふ人間が立派な人間と考へるか。その人間内容への指向を不問にしておいて、教育改革もクソもあったものではなからう。ここにも三つの見解が放置されたままである。

 その三つとは何か。

 日本の建国精神―それは国是ともなり、愛国心の内容をととのへ、教育の基本を構成するものでもある―その大切な建国精神の理解について、国民の間に三立し得ない三つの見解が放置されたままであるといふことである。①古事記をはじめとする古典と伝統の中に解明されてきたもの、②8月15日の敗戦によって占領軍によって提示されたもの、③近い将来にその実現を目ざさうとしてゐる共産革命のテーゼ、この三つを平和裡に三つとも持ち続けようとしてゐるいまの日本国民は、やがて全世界から「馬鹿者扱ひ」にされさうである。馬鹿者扱ひにされるまへに、自分から馬鹿になった方が悧巧(?)ではないのか、その時期が来てゐるやうに思ふ。

(もと現代かな。適宜改行)

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   五箇条の御誓文と「三方良し」の経営理念

 先月号の(上)では、近江商人の心得として伝へられてきた「三方良し」(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」)を例に「日本的経営」の特徴を説明した。それと対比して、従業員を歯車のやうに見て不要になれば簡単に馘首するアメリカ流の「株主資本主義的経営」についても、その特質を説明した。

 さらに「三方良し」を目指す日本的経営が、わが国の建国以来の伝統に根ざすものであることも述べた。具体的には、明治新政府の基本方針である「五箇条の御誓文」に則って、日本的経営の考へ方を紹介したのであった。

 「五箇条の御誓文」とは、周知のやうに慶応四年=明治元年(1868)、明治天皇が天地神明に誓はれたものだが、ここにはわが国の建国以来の伝統的な思想が新しい時代に即して謳ひ上げられてゐる。

   五箇条の御誓文

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、上下(しよ うか)心を一(いつ)にして、さかんに経(けい)綸(りん)を行うべし
一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめんことを要す
一、旧来の陋習(ろうしゆう)を破り、天地の公道に基づくべし
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし

 右の五箇条の内、先月号では4つ目の「一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」までについて、日本的経営との内的関連を記した。以下に続ける。

 五箇条の御誓文の5
「智識を世界に求め、大いに皇 基を振起すべし」

 伊庭貞剛は住友家支配人で、明治38年(1905)、銅の精錬で発生する亜硫酸ガスの害を除くために、年間売上げの八割もの巨費をかけて、精錬所を瀬戸内海の小島に移転するも、風に運ばれた亜硫酸ガスが四国沿岸部を襲って失敗。

 伊庭の後継者たちは諦めず、亜硫酸ガスを無害化する技術を求め、つひにドイツで開発されたペテルゼン式硫酸製造装置を導入して、亜硫酸ガスから硫黄分を取り除いて硫酸を作り出すことに成功。さらに米国からアンモニア合成法の特許を買って、その硫酸から化学肥料の硫安を作り出す技術を完成させた。

 これらの技術により、亜硫酸ガスの濃度は急速に低下し、昭和10年(1935)には0・19パーセントと、今日の大都市の火力発電所の排出濃度に近い水準となった。当時としては世界のトップレベルである。

 「皇基」とは「天皇が国を治める事業の基礎」(『大辞林』)。天皇統治の目的は、民を大御宝として、その安寧を実現することである。日本的経営では、企業は社業を通じて「三方良し」を実現し、天皇統治を補翼する責務がある、と考へる。

 「皇基」といふとわが国だけの理想のやうに思へるが、世界の良くまとまった国民国家が持つ、それぞれの国民統合の原理と考へれば良い。(かつての)米国のアメリカン・デモクラシー、スウェーデンの福祉国家、等々。「三方良し」とは、それぞれの国の国民統合の原理を補翼する形で追求されるべきものである。

 そして、より良い「三方良し」の実現のためには、常に新たな「智識」が必要である。その自主開発は怠ってはならないが、仮に他社、他国に優れた智識があれば、進んでそれを請ふ。その智識の応用を通じてさらなる改良を加へ、新たな智識でお返しをする。

 このやうに智識とは人類共通の財産であって、しかるべき対価のやりとりはしつつも、企業間、国家間で学び合ふことで、人類全体の幸福が増進される。世界の各国各企業が「智識を世界に求め」なければならない。

 株主資本主義的経営では、自社利益の最大化のために、独自技術の公開を拒んだり、あるいはしかるべき対価も払はずに他社の商品をコピーしたりする。こういふ企業ばかりでは、人類の技術進歩は遅れ、人類全体の幸福増進も妨げられてしまふ。

   国民国家を護る日本的経営、壊す株主資本主義的経営

 「三方良し」、すなはち、「売り手」「買い手」「世間」にとって何が良いか、といふ価値観は、それぞれの国の歴史や文化によって異なる。たとえば、キッコーマンは醤油をアメリカ人の家庭にまで浸透させたが、肉を醤油につけて焼くテリヤキなどの料理を開発し、アメリカ人の嗜好に合はせて成功した。

 このやうに「三方良し」を追求する企業は、その国の歴史文化から生れた独自の「三方良し」とは何かを考へなければならない。従って「三良し」を目指す経営には国境がある。個別文化への視線が伴はれてゐる。

 一方、株主資本主義的経営は、利益といふ世界共通の単一目的だけを追求するので、歴史文化などといふお国柄は経営効率を阻害する「障壁」でしかない。かつてアメリカの自動車メーカーは、左ハンドル車を日本にそのまま売り込んで失敗したが、株主資本主義的経営は利益追求のために必然的にグローバル、ボーダーレスを目指す。

 ここから各国の文化、歴史、法制度などを、「自由化」「グローバル化」の美名のもとに破壊しようとする近年の政治動向が出てくる。単一の商品や製造・販売・管理方法で世界中で儲けるために、「貿易・投資自由化」「英語公用語化」「契約万能主義」、「会計基準の世界標準化」などを推し進める。これらによる各国の社会的混乱は眼中にない。

 また、株主資本主義的経営での「売り手良し」には従業員は含まれないので、低賃金で、いつでもクビにできる労働力を求める。そのために「派遣社員化」「移民に開かれた社会」「低賃金国への生産移管」「男女共同参画」などが推し進められる。これらが社会的にどんなリスクやコストを伴ふかは考慮しない。

 株主資本主義的経営は、必然的にグローバル化、ボーダーレス化、貧富の差の拡大を推し進め、各国文化の衰退、社会の荒廃を招く。現代世界の各国民国家は、株主資本主義的経営から総攻撃されてゐるのである。

 逆に「三方良し」を目指す経営は、各国の歴史、文化、社会を尊重し、国民国家を護る。その最も進化した形である「日本的経営」は、「日本の国柄」から生み育てられたもので、「日本の国柄」を護る手段でもある。

 一つの文化を共有した共同体である国民国家で暮らすことが、人間の幸せな生き方である。仕事を求めて他国に移住しようとする所謂「移民」と呼ばれる人たちも生れ育った所で働くことを一番望んでゐるはずである。日本的経営では途上国のインフラ整備に力を入れることになる。

 日本的経営をさらに推し進めていくことが、日本の国柄を護り、日本国民を幸福にする。それが世界の各国民に幸せへの道を指し示すことにもなる。これこそ我々日本国民が「大いに皇基を振起」する道であらう。

   ―国際派日本人養成講座第999号―、一部改稿

(会社役員、在米国)

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 米朝関係がこれまでになく緊迫している。米国は、中国が北朝鮮に圧力をかけて核実験や米国に届くICBМ(大陸間弾道弾)の開発をやめなければ「自分たちで解決する」と言明している。言葉通りに受け止めれば、武力攻撃もありうるということである。

 そこで第二次朝鮮戦争のXデーはいつか、レッドラインはどこか、さらには日本も攻撃対象となるのか、などと言った報道がなされている。むろん何が起こるかは分からない。ただ、米国が北朝鮮を攻撃すれば、北は韓国に向けて反撃する可能性は高いということは言えよう。

 また、最近のミサイル発射について、北朝鮮は在日米軍基地攻撃の訓練だとも言っているが、そうなればまさに「日本有事」である。日本が攻撃される可能性もこれまでになく高まっていることは確かである。

       ※     ※

 こんな緊迫した事態を見ていると、一昨年の平和安全法制論議の頃、反対派が掲げていた主張がいかにバカげた議論だったかを思い出してしまう。

 例えば、集団的自衛権の限定的行使に踏み込まないでも「個別的自衛権」で充分対処できると言っていたのは、確か当時の民主党の岡田代表だったと記憶している。北のミサイル攻撃に対して、反撃する手段を持っていない日本がどのようにして個別的自衛権を発動するのか、メディアは今こそ彼にインタビューすべきである。同時に、策源地攻撃能力を持つべきだという自民党の提言に対して、どう考えるのかも併せて質問していただきたいものである。

 また、共産党の志位委員長は「中国や北朝鮮はリアルな脅威ではない」と言って平和安全法制に反対した。今は違うと言うかもしれないが、それでも、彼らの好きな言葉で言えば、過去の発言に対する「説明責任」はあろう。

 安倍首相が示したパネルで説明した、子供を抱いて非難するお母さんの絵を茶化した野党議員もいたことも思い出す。韓国から避難する邦人を乗せた米国艦船を自衛艦が警護することなどあり得ないと解説した評論家もいた。しかし、いまや邦人避難は、民間機であろうが米軍艦船であろうが、あらゆる手段を使って実行しなければならないという現実の問題となっている。

 現状では自衛隊が韓国の領域に入ることは、韓国政府の了解がないため難しいが、それでも法律がないために出来ない時代と、平和安全法制によって自衛隊による邦人の救出や警護も可能になった今日とでは決定的な差がある。

 平和安全法制が成立すれば、日本は「戦争する国になる」と叫んでデモをしていた人たちもいた。あれから二年たった今、彼らは現実に起こっている一触即発の事態は北朝鮮によるものではなく、日本の平和安全法制のために起こったと言うのだろうか。是非、現状認識を聞きたいものである。

       ※     ※

 要するに、時間が経過して現実が明らかになれば、主張の正否は自ずと明らかになるということである。平和安全法制だけではない。九条を巡る憲法改正論議の正否についても同じことが言える。

 護憲派は、日本の平和は憲法九条が守ってきたと主張してきた。ならば、今こそ護憲派は「憲法九条があるから日本の平和は守られている」「だから、大丈夫だ」と言わねば筋が通らない。そうすれば、憲法九条改正を巡る論議は格段と整理され、誰の目にもその是非が明らかになるのではあるまいか。

(かな遣ひママ)

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先人の言葉に触れよう ―吉田松陰「士規七則」に辿る
       東京大学大学院二年 髙木 悠

学問とはどういふものか ―『西郷南洲翁遺訓』から考へる
       NTT西日本(株)武田有朋

短歌と日本人 寺子屋モデル代表世話役 山口秀範
歴史に生きるといふこと ―森鷗外と吉田松陰
       寺子屋モデル世話役 廣木 寧

日本の国がら
       国民文化研究会理事長 今林賢郁

短歌創作導入講義(西日本合宿)
       熊本県立第二高校教諭 今村武人

我が国を取り巻く危機と 学生諸君に期待するもの
       東京大学客員教授 伊藤哲朗

中国の覇権戦略と日本の課題
       評論家 石 平

聖徳太子の十七条憲法を読む
       山梨科学アカデミー会長 前田秀一郎

祖国と音楽
       作曲家・音楽高校講師 武澤陽介

思ふこと―若き友らに語りかける言葉
       昭和音楽大学名誉教授 國武忠彦

短歌創作導入講義(東日本合宿)
       東京ホワイト歯科事務長 須田清文

創作短歌全体批評
       国民文化研究会副理事長 澤部壽孫

 (敬称略)頒価900円 送料300円

 

 書籍紹介
中澤伸弘著   錦正社叢書 税別900円
『一般敬語と皇室敬語のわかる本』

 国学の正統を歩む著者ならではの懇切なる敬語の解説書であり、手引き書である。言葉の乱れが指摘されて久しいが、本書を読んで「国語」の大切さを改めて痛感させられた。

 著者は、國學院大學文学部文学科を昭和六十年に卒業、現在は都立高校主幹教諭であるとともに國學院大學兼任講師を務める。博士(神道学)の学位を持ち、号は柿之舎(かき の や)(巻末の著者略歴参照)。これまで著者の『宮中祭祀 連綿と続く天皇の祈り』(展転社)、『やさしく読む 国学』(戎光祥出版)などの教養書を拝読して、その簡潔かつ明晰なる筆致は並々ならぬ学識によるものと感心させられたが、本書においてもまったく同様で、多くの例示を伴って要点が実に分りやすく説かれてゐる。

 「敬語」に関する書籍は少なくないが、本書のごとく「皇室敬語」までを具体的に語るものは稀有である。それは、わが国柄に寄せる著者の思ひの深さをよるものであり、表裏して国語は正しくあらねばならないといふ、乱れた現状への憂ひの深切さによるものであらう。

 本書は「あとがき」を含めても99頁の小冊であるが、どの頁を開いても「国語の現状への憂ひ」が主調低音のごとく聞えてくる感じがする。静かではあるが激しい「怒り」を伴って響いてくる感じである。

 わが国の精神的伝統の連綿性をあらゆる面で断ち切って、日本の底力を殺(そ)がうとしたのが占領政策であった。「国語」表記においても連続性が断ち切られてゐるのに、一向に気付かうとしない。それどころか、日本人自らが表記改変を合理化してきた戦後日本への怒りである。ただし、本書では怒りは露(あらは)にされることなく、沈静してゐる。しかし、言はず語らずのうちに著者の胸中が行間から察せられるのである。

【終戦から70年経過しましたが、終戦直後に「国語改革」と言ふ名の改悪が急激になされ、伝統的表記法であつた仮名遣ひや、それまで使はれてきた漢字の字体などの表記が改められました。その国語改革の最後が「敬語の改革」でした。昭和27年4月14日付けで国語審議会が建議した「これからの敬語」なるものがあり、これが今日までの敬語使用の基本となつてゐます】

 この国語審議会(文部省)の建議の問題点を左のやうに指摘する。

【ここでは敬語を「旧時代に発達」した「上下関係」のものと規定して、麗しい人間関係を築いてきたことには考へ及んでをりません】

 また皇室敬語に関して、右の建議が、「これまで、皇室に関する敬語として、特別にむずかしい漢語が多く使われてきたが、これからは、普通のことばの範囲内で最上級の敬語を使うことに、昭和22年8月、当時の宮内庁当局と報道関係者との間に基本的了解が成り立っていた」として、「玉体・聖体」は「おからだ」、「天顔・竜顔」は「お顔」、「叡慮・聖旨・宸襟・懿旨」は「おぼしめし・お考え」等々と言ひ換へを示してゐることについても、その勘違ひを指摘する。

【平明・簡素であればそれでいいと言ふわけではないと思ひます。難しい漢語がいけないと言ふこともありません。戦後の改革は何でも従来のものを「難しい」=悪、と決め付けての始まりでした。語彙を知らなければ表現がそれだけ貧弱になるだけです。それでよい訳ではありません。この当時から今に至るまでの新聞などの報道関係者用の社内の「用語の手引き」には皇室敬語に関して、二重敬語は使はない、一つのセンテンス(文)に敬語を二つ使はない。行幸行啓や御製の語も使はないなどとあります。これは敬語の破壊以外の何ものでもありません】

 いまや朝日新聞や毎日新聞などの大メディアは「普通のことばの範囲内で最上級の敬語を使う…」どころか、日々「皇室敬語の破壊」=「国語の破壊」に勤しんでゐる。

 本書の例示から認識を多く新たにしたが、その一点だけを記す。

【天皇を中心としてその御一族を 総称して「皇室」と申し上げます。「皇」の字には既に敬意があるので「御皇室」「御皇族」とは申し上げません。また皇族には姓がないので「天皇家」「天皇御一家」などとは決して申し上げません】

 本書はまさに心ある国民の必携書であり、文章を書かうとする際の文字通りの座右の書であると思った。

(元亜細亜大・拓殖大講師 山内健生)

 

   日本の心に触れる ーより良い人生の糧にー

   8月11日(祝・金)~13日日(日)
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 編集後記

 譲位に関する特例法案の審議が始まる。衆参両院正副議長による意見聴取には、共産党まで出席した。政府与党が平穏に運びたいとするのは分るが、民進党・共産党の真意(深意)は?

 小田村寅二郎先生の18年祭に際して掲げた旧稿に、いみじくも50余年前の憲法論議を「成り立たないことを、いかにも成り立つかのやうな錯覚で取り組んできた…」と評されてゐた。平穏を旨とす。

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