国民同胞巻頭言

第667号

執筆者 題名
廣木 寧 漱石の「明治天皇奉悼之辞」について
- 拙者『天下なんぞ狂える』を上梓して -
布瀬 雅義 国柄に根づいた日本的経営(上)
- 「日本的経営」が築く「幸福な国民国家」 -
『日本への回帰』第52集「はしがき」から─
「憲法の改正」は、領土領海を守るためばかりでなく、「国の誇り」を取り戻す第一歩でもあるのだ!
庭本 秀一郎 故・プミポン国王陛下とタイ国民の絆(下)
- 君民が心通せ一体となれる幸せ -
書籍紹介
江崎道朗著  祥伝社新書
『アメリカ側から見た「東京裁判史観の虚妄」』
昨年の合宿教室の記録 刊行!『日本への回帰』第52集

 『図書』(岩波書店)4月号を見て愕(おどろ)いた。

 巻頭に、この小文と同題の文があった。作者は東大名誉教授の三谷(みたに)太一郎氏で、氏の専攻は日本政治外交史とある。文は600字ほどのものであった。

 漱石の「明治天皇奉悼之(の)辞」とは、明治天皇崩御に際会して、大正元年8月1日発行の『法学協会雑誌』の巻頭に掲載されたものである。ただし、表題も署名もない。

 では、なぜ漱石作と判るかといふと、漱石の愛弟子の小宮豊隆の文に、その根拠が示されてゐる。―法学博士山田三良(さぶろう)の夫人は作品上の指導を乞(こ)ひに漱石の家に出入りしてゐた。漱石の家と山田の家とは目と鼻の先であった。さういふことから、明治天皇崩御に際して、『法学協会雑誌』の編輯委員である山田は奉悼の文を漱石に頼みに行ったに違ひないと小宮は漱石全集の解説に書いてゐる。この無署名の奉悼文は、当時から奉悼文中の名文として喧伝(けんでん)されたと小宮は言ふ。表題は小宮が漱石全集に収録されるに際して付けたものであらう。今、その全文を引く。

 《過去45年間に発展せる最も光輝ある我が帝国の歴史と終始して忘るべからざる
大行(たいこう)天皇去月30日を以て崩ぜらる天皇御在位の頃学問を重んじ給ひ明治32年以降我が帝国大学の卒業式毎に行幸(ぎようこう)の事あり日露戦役の折は特に時の文部大臣を召(め)して軍国多事の際と雖(いえど)も教育の事は忽(ゆるがせ)にすべからず其局に当る者克(よ)く励精せよとの勅諚(ちよくじよう)を賜はる
 御重患後臣民の祈願其効なく遂に崩御の告示に会ふ我等臣民の一部分として籍を学界に置くもの顧みて天皇の徳を懐(おも)ひ
天皇の恩を憶(おも)ひ謹んで哀衷を巻首に展(の)ぶ》

 「明治天皇奉悼之辞」は岩波書店が昭和40年に刊行した菊判の漱石全集では、第11巻「評論雑篇」に収録されてゐる。この巻の巻末にある小宮の解説に先に書いた山田三良のことが書かれてゐる。

 ところが、平成5年に岩波書店が刊行した四六判の漱石全集では、「明治天皇奉悼之辞」は第26巻「別冊中」に収録された。この26巻「後記」に、本巻には、漱石が学生時代に書いたもの、小説の草稿類、および他巻に振り分けがたいものを収めたとある。それらを「雑纂(ざつさん)」として掲げてゐるが、それらのうち、漱石によるものと今日確定しがたいものは、とくに「雑纂Ⅱ(参考資料)」として区別されてゐる。「明治天皇奉悼之辞」はこの「参考資料」として全集に収められてゐるのである。つまり、「明治天皇奉悼之辞」はほとんど漱石全集から追放されつつあったのである。

 そこに現はれたのが『図書』の巻頭に載った三谷氏の文であった。三谷氏は書いてゐる。

 《「明治天皇奉悼之辞」は漱石にとっては無署名文であるが、それには漱石独自の明治天皇観が凝縮されている。明治天皇は日露戦争のさなかの明治37年7月、東京帝国大学卒業式に臨席するため大学を訪問した。卒業者の中には、吉野作造らがいた。その際に文部大臣に対して、特に一つの「御沙汰」(今日でいう「お言葉」)を与えた。それは「軍国多事の際と雖も教育の事は忽せにすべからず」というものであった。漱石はそれを引いて、「天皇の徳を懐ひ、天皇の恩を憶ひ、謹んで哀衷を巻首に展ぶ」と結んだのである。当時漱石は大学の英文科講師であり、天皇を奉迎する列に連なっていたかも知れない。》

 昨年12月に上梓した『天下なんぞ狂える』(慧文社)の中でわたくしは、今は短く言ふと「明治天皇奉悼之辞」は匿名であったが、かつて「学界に身を置」いた者として、筆者漱石の切実な個人的体験が盛りこまれた奉悼の文なのである、と書いた。

 三谷氏とわたくしは「明治天皇奉悼之辞」に関する限りは、小宮が記した事を確認したといふことにならう。三谷氏の専攻するところは、わたくしは全くの門外漢である。わたくしは漱石が大正三年に発表した『こころ』を熟読しようとして漱石全集をひもといた。三谷氏は「吉野作造ら」に拠って「明治天皇奉悼之辞」にたどり着いたのであらうか。

 昨年12月、刊行開始の同じく岩波書店の『定本漱石全集』では、どこに「明治天皇奉悼之辞」は収まるのであらうか。

(寺子屋モデル世話役)

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   はじめに―「三方良し」の思想〈日本的経営と株主資本主義的経営〉

 「日本的経営」とは、どのやうなことになるのだらうか。近江商人の心得として伝へられてきた「三方良し」(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」)を例に説明してみる。

 「売り手良し」―売り手とは従業員と株主のことで、企業は従業員に就業機会と生活の糧を与へ、かつ成長や生き甲斐を実現する場を提供する。また企業は企業を資金面から支へる株主に提供された資金に見合ふ適正な収益を安定的に配分する。

 「買い手良し」―企業は顧客の求める商品やサービスを適正な価格で提供して信用を得ようとする。価格と原価の差が利益だが、それは売値(=顧客に提供した価値)と原価(=企業内で消費した価値)の差、すなはち事業活動によって創造された価値を表す。従って、利益とは企業がどれだけの付加価値を生み出したかを計る尺度である。

 「世間良し」―社会の必要とする商品やサービスを提供することによって、社会のニーズを満たし、問題を解決し、進歩を実現する。また、収益の一部を税金として納めることで、国家や地域社会を支へる。

 では「株主資本主義的経営」ではどうなるか。これも「三方」に分けて考へてみたい。

 「売り手」―売り手とは株主のこと。株主の投資収益、それも短期的収益を最大化することが企業の目的となる。企業は人、もの、設備からなる収益マシーンであり、従業員はその歯車となる。不要になった歯車は使ひ捨てにされる。企業は収益マシーンだから、設備と同様に売り買ひの対象となる。

 「買ひ手」―買ひ手、すなはち顧客とは、企業が商品・サービスを提供し、その対価を受け取る相手である。企業は、契約に反しない限り、顧客のためを考へる必要はない。

 「世間」―社会は事業活動の環境であり、法律を守ってゐる限り、その中で自由に活動すれば良い。

 近年の多くの日本企業は、アメリカ流の株主資本主義的経営こそ最新の経営だと思ひ込み、「三方良し」を追求する日本的経営を捨てつつあるやうに思はれる。

 本稿では、日本的経営がわが国の建国以来の伝統に根ざすものであることを述べたいと思ふ。

   「五箇条の御誓文」と日本的経営

 「五箇条の御誓文」は慶応4年=(1868)、明治政府の発足に当って明治天皇が天地神明に誓約する形で示された新政の基本方針で、それはわが国の建国以来の伝統的理想を、新しい時代に即して謳ひ上げたものだった。すなはち、わが国の歴史伝統といふ共通の「根っこ」から伸びた政治面の表現が「五箇条の御誓文」であり、企業経営の面での現れが「日本的経営」である。両者は共通の「根っこ」から生れてゐるので、「御誓文」から日本的経営を読み解くことができると考へられる。

    五箇条の御誓文の1
   「広く会議を興し、万機公論に決すべし」

 日本電産の創業者・永守重信氏は危機に陥った会社を50社以上も買収し、一人の首を切ること無く、再建してきた。その一例である三協精機は年間の赤字287億円で倒産寸前だったのが、わづか一年で150億円の黒字企業に生れ変った。

 永守氏の再建手法の一つが、買収した企業の従業員との徹底した話し合ひである。一年間で昼食懇談会を52回開催し、若手1056人と話し合った。また25回の夕食会で課長以上の管理職327人と語り合った。これらを永守氏は「餌付けーション」「飲みニュケーション」と呼んでゐる。

 食事をしたり、一杯飲みながら、皆の不平不満を吸ひ上げ、解決していく。その上で、経営者として会社の将来の姿を説明する。社員が一致協力して進むべき方向を共有化するための手段であった。

 「衆議公論」、すなはち、皆で議論をして公の結論を導くといふのは、わが国の根強い政治的伝統である。古事記(「天の岩屋戸」の段、「神集ひ」)から、聖徳太子の17条憲法(第1条「上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときは、則ち事理自づから通ふ」)、鎌倉幕府の御成敗式目(御評定の間、理非決断の事、「理非においては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚(はばか)らず、権門を恐れず、詞(ことば)を出すべきなり」)と続く公論重視の伝統が、明治新政府の施政方針の冒頭に記されたのである。

 これが企業経営面でも、皆で議論をしながら、様々な事実と衆知を集め、全員が全社的な立場から何をどうすべきか議論する形となる。この衆議を通じて生れた「公論」を皆が共有し、その実現への意欲を抱く。そのための「会議」「根回し」に時間をかける。

 それに対して、株主資本主義的経営では、「上意下達」「トップダウン」が原則で、トップが決定したことを部下は実行するだけとなる。上が頭、下は手足に過ぎない。

 株主資本主義的経営の下では決定は早いが、実行面での連携の齟齬や予期せぬ問題が起きて頓挫しやすい。

 日本的経営では決定には時間がかかるが、実行部隊が全体方向と各部の役割をのみ込んでゐるので、動き出したら速く、問題を乗り越える能力も高い。日本電産が買収した企業が短時間で業績を回復してゐるのも、この原則を最大限に活用してゐるからであらう。

    五箇条の御誓文の2
   「上下(しようか)心を一(いつ)にして、さかんに経綸(けいりん)を行うべし」

 「経綸」とは「国家を治めととのえること。また、その方策」のこと(『大辞林』)。企業においては「経営」と言ひ換へて良いだらう。従って、この項は企業経営においては、全員が心を一つにして、活発な経営を行ふべし、と読める。日本的経営の体現者として言っていい松下幸之助はこう述べてゐる。

 〈また仕事をすすめてゆくについては、和親一致の協力が一番大切なことである。何としても全員心を一に和気あいあいのうちに、松下電器と、その従業員の向上発展と、福祉の増進を図らねばならない〉(野田一夫著「ある経営者の記録松下幸之助の50年(5)」実業の日本社)

 世界大恐慌が日本を直撃して、松下電器で製品在庫が工場に積み上げられたとき、幸之助は〈明日から工場は半日勤務にして生産は半減、しかし、従業員には日給の全額を支給する。そのかわり店員(社員)は休日を返上し、ストックの販売に全力を傾注すること〉と社員に伝へた(神坂次郎著『天馬の歌 松下幸之助』PHP文庫)。

 いよいよクビ斬りかと覚悟してゐた従業員たちは、思ひも寄らぬ話に大喜びし、鞄に商品見本を詰め込んで、販売に飛び出していった。その心意気で二ヶ月後には在庫の山がなくなり、半日待機をしてゐた工員たちもふたたびフル操業を開始した。

 株主資本主義的経営では、経営者は業績を上げることだけを考へ、従業員は給料を貰ふために命ぜられたことをやる。両者の「心を一つ」にする必要はないが、日本的経営においては、社長から平社員まで「三方良し」の実現を目指して、「心を一つ」にして考へる。従業員は給料を貰ふことだけでなく、「三方良し」を実現しようといふ心からのエネルギーを発揮する。どちらの経営がよりパワフルかは明らかである。

    五箇条の御誓文の3
   「官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめんことを要す」

 日本理化学工業は粉の出ないダストレスチョークで三割のシェアを持つが、約50人の従業員の七割を知的障害者が占めるといふユニークな企業である。

 知的障碍者を雇ひ始めたのは、近隣の施設から二人の少女を一週間だけ作業体験をさせて欲しいと依頼されたのが発端だった。二人の仕事に打ち込む真剣さ、幸せさうな顔に周囲の人々は心を打たれ、社長の大山泰弘氏に「みんなでカバーしますから、あの子たちを正規の社員として採用してください」と訴へた。

 それから知的障害者を少しづつ採用するやうになったのだが、大山氏にわからなかったのは、会社で働くより施設でのんびりしてゐる方が楽なのに、なぜ彼らはこんなに一生懸命働きたがるのだらうか、といふことだった。

 これに答へてくれたのが、ある禅寺のお坊さんだった。曰く、幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」。この幸せとは、施設では決して得られず、働くことによってのみ得られるものだと。

 株主資本主義的経営では、企業は収益マシーンであり、社員はその歯車に過ぎないから、使へなくなった歯車は取り替へれば良いとなる。

 日本的経営は「売り手良し」も追求し、「売り手」の主役である従業員に生活の糧を与へるだけでなく、会社の使命に合致した志をそれぞれに持たせ、「その志を遂げ、人心を倦まざらしめん」とする働き甲斐のある環境を目指す。従業員の生き甲斐・成長も含めた全人的な幸福を目指すのである。

    五箇条の御誓文の4
   「旧来の陋(ろう)習(しゆう)を破り、天地の公道に基づくべし」

 香川県の勇心酒造は安政元年(1854)創業の老舗で、現在の当主・徳山孝氏は五代目である。コメと醸造・発酵技術を結びつけて、アトピー性皮膚炎に効き、ステロイド剤の副作用がまったくない『アトピスマイル』を開発、大ヒットさせた。氏はこう語る。

 〈お米の場合、清酒や味噌、醤油、酢、みりん、あるいは焼酎、甘酒といった非常に優れた醸造・醗酵・抽出の技術があるんですけれども、明治以降、新しい用途開発がまったくと言っていいほどなされていなかった。つまり、近代に入ってから、お米の持つ力を日本人は引き出してこなかった…〉〈西洋のヒューマニズム…何事も人間を中心に「生きてゆく」という発想。だから、人間と自然との乖離がますます大きくなってきた。環境問題ひとつ解決できない…。一方、東洋には自然に「生かされている」という思想があります。

 私なんか、多くの微生物に助けてもらってきたわけで、まさに「生かされている」と思います〉(野村進著『千年、働いてきました─老舗企業大国ニッポン』角川書店)

 清酒や味噌、醤油などを作る醸造・醗酵は伝統的な技術だが、明治以降は新しい用途開発はされておらず、まさに「旧来の陋習」状態だった。その状態から、勇心酒造は自然の力を借りる、といふ日本古来からの伝統技術を発揮することで、新たな活路を見出した。

 「天地の公道」とは、真正なる自然観、社会観と考へても良いだらう。自然においては「物体ない」、すなはち物の本来の姿を実現出来ないことを申し訳ないと思ひ、不良やムダの削減に力を尽す。社会においては企業が成り立ってゐるのは、従業員やお客様、世間の「お陰様」と考へ、「三方良し」をさらに追求する。

 株主資本主義的経営では利益がすべてであるから、利益のためには地球環境を破壊しようが、地域社会に悪影響を与へようが、従業員を犠牲にしようが、忖度しない。現代シナの企業がその最悪の例である。日本的経営の三方良しは、世間、顧客、従業員のためを考へるから、自づから「天地の公道」に則(のつと)たものとなる。

(以下、次号)

   ―国際派日本人養成講座第999号―、 一部改稿  (会社役員、在米国)

筆者の布瀬雅義(筆名・伊勢雅臣)氏(本会会員)が昨年6月に上梓された『世界が称賛する日本人の知らない日本』(育鵬社刊)については、本紙11月号でご紹介した。

10月にはその続編ともいふべき『世界が称賛する国際派日本人』(同)が、さらに年が明けた今年3月、『世界が称賛する日本の経営』(同)が刊行された。

これらは氏が20年前から継続発行されてゐるメールマガジン「国際派日本人養成講座」の一部を書籍化したもので、同「講座」は4月16日号で「1000号」となり、愛読者は現在、5万人を突破してゐる。
(編集部)

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   経済活動は文化現象だ!

 「アメリカ第一主義」を掲げて大統領選に勝利したドナルド・トランプ氏が、1月22日、第45代米国大統領に就任した。その直後からの性急とも見える手法(TTP〈環太平洋戦略的連携協定〉から離脱表明、NAFTA〈北米自由貿易協定〉の再交渉発言、イスラム圏七ヶ国からの入国の一時禁止…等々)は、米国内のみならず国際的にも波紋を呼んでゐる。昨年6月の国民投票で僅差ながらEU(ヨーロッパ共同体)離脱の道を選択してゐた英国では、1月17日、メイ首相が「明確な離脱」を表明した。

 かうした動きをどう見るべきなのか。第二次大戦の要因となった保護貿易(ブロック経済化)の引き金になるとしたら要注意だが、ヒト・モノ・カネが自由に国境を超えるとするグローバリズムの流れの中で、「国民経済」や「治安確保」に責任を持つ国家の役割に改めて視線が注がれた感じである。

 ヒトは各々の言語や宗教、慣習の裡に生きてゐる。ヒトの接触拡大が文化摩擦に繋がることは容易に想像できることであった。労働観や雇用のあり方、商習慣など経済活動そのものが文化現象なのだ。

   トランプ政権とロシア、中国

 トランプ政権の「アメリカ第一主義」であるが、既にオバマ前大統領が昨年1月の一般教書演説で「もはやアメリカは世界の警察官ではない」旨を述べてゐたこととも考へ合せると、その影響力の低下は否めない。良かれ悪しかれ、米国の軍事力・経済力、それらを一つにした政治力が戦後の国際秩序の重石(おもし)となってゐた。それを以て西側諸国はソ連東欧の共産主義陣営と対峙し、東西冷戦を終焉に導いたのだが、さうした時代が過去のものとなり、各国ともこれまで以上に自らの手で自らの足場を固め出してゐるといふことである。

 ある外務省OBによれば、「自由とか、民主主義とか、人権尊重とかに触れなかった就任演説は初めてだ」とのことだが、かうした内向きのトランプ政権の登場を、「大ロシア主義」のもとクリミア編入に止まらずバルト三国へも食指を伸ばさうとするロシアのプーチン政権や、「中華民族の偉大なる復興」の夢を追って南シナ海・東シナ海の内海化から西太平洋での覇権を狙ふ習近平政権は、さらなる好機到来とほくそ笑んでゐる可能性は大である。

   自ら招いた「尖閣」の危機

 2月3日に来日したトランプ政権の国防長官は、「(中国が窺(うかが)ふ)尖閣諸島は対日防衛義務を定めた安保条約の適用範囲である」と明言した。内向き指向とは言へ中国の海洋進出を抑へたいといふことだらうし、太平洋が文字通り「波平(たひら)かな大洋」であるためにも日米の協力は不可欠である。しかし、尖閣諸島〈沖縄県石垣市〉の防衛に関して言へば、わが国がもっと前面に出るべき事柄なのである。かつては鰹節の工場があってわが同胞が住んでゐた島なのだ。ところが中国を刺激するのはまづいと無人のままに時を重ねて、その領土的野心に油を注いで来た。自衛隊の駐屯があって然るべきなのだが、かうした防衛措置さへも、今では「一方的な現状変更だ!」と非難必至の状況で、容易なことではなくなってゐる。

 中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、国連(アジア極東経済委員会)の資源調査で周辺海域に「石油」埋蔵が示唆された三年後の1971年(昭和46年)の12月で、沖縄県が祖国復帰する半年前のことであった。そして、尖閣諸島を自国領として国内法に書き込んだのは1992年(平成4年)2月だった。

 問題はむしろこの後の対応にあったと言っていい。驚くなかれ、これに対してわが外務省は口頭抗議で済ませたばかりか、国交開始20周年といふことで同年10月には、畏れ多くも両陛下の中国御訪問が行はれてゐる。これは只事ではなかったし、これでは尖閣領有を認めたやうなものではなかったか。

   正視するに耐へないわが外交

 当時、中国は西側諸国による経済制裁で苦境に立たされてゐた。1989年6月に民主化を求めて天安門広場に座り込んでゐた学生達を人民解放軍の戦車が轢き殺すといふ大事件を起してゐたからである(天安門事件)。さうした中で、「陛下に来てもらへれば感情的なわだかまりは終る」と先方の言ふがままに、陛下の御訪中に踏み切ったことで、欧米各国は制裁解除へと動いたのであった。後日、当時の銭其琛外相がいみじくも語ったやうに、御訪中は「西側諸国の対中制裁を打ち破る積極的な役割を果すもの」となったのである(いま中国では報道管制のため「天安門事件」を語ることはタブーとのことだ)。

 その後、「感情的なわだかまりは終る」どころか、御訪中の翌々年には共産党支配体制への不満を外に逸らす所謂愛国主義教育が始まり(1994年9月、「愛国主義教育実施綱要」公布)、反日敵愾心を増幅する根拠曖昧な抗日戦争記念館が200余ヶ所も作られ、「終戦70年」の一昨年8月にはサンフランシスコでもオープンしてゐる。25年前の御訪中の頃は、尖閣海域に入って来ることは許し難いことながらまだ少なかったが、現在では漁船どころか中国公船の侵入が常態化し、中国外務省の報道官は「釣魚島(尖閣諸島の中国の呼称)は中国の領土主権に関する問題であり、中国の核心的利益に属する」旨を公言してはばからない。「核心的利益」には軍事力の行使も辞さないとの意がある。

 ほとんど正視するに耐へない経過であった。

   〈日本国憲法〉と米国依存

 かうした不甲斐ない対中「位(くらゐ)負(ま)け外交」の根柢に、「自らの生存と安全を他国に委ねる」とした自立否定の〈日本国憲法〉があるとすることに異論はあるまい。それは他国と対決することはしないといふことだからである。それ故に、この憲法の足らざる面を補って来たのが日米安保体制であった。米国の「尖閣諸島への安保条約上の関与」によって、中国は「領海侵犯」の段階で足踏みをしてゐるのだ。2月10日の日米首脳会談後の共同声明にも、「揺らぐことのない日米同盟」が謳はれ、「核および通常兵器の双方による、あらゆる種類の米国の軍事力を使った日本の防衛に対する米国のコミットメントは揺るぎない」とあったが、憲法がこのままでは米国依存が深まるばかりである。

 そもそも〈日本国憲法〉は、太平洋戦線(pacific theater)で、敵国日本の勇猛さに手を焼いた米国が、やうやく屈服させて占領下においた〈日本の弱体化〉を意図して起草し施行を強要したものであった。「自らの生存と安全を他国に委ねる」とした前文や「一切の戦力を保持せず戦ふ権利も認めない」とする第九条の淵源は、米国の〈日本の弱体化〉政策にあった(その米国と協力せざるを得ないのが冷厳なる国際社会の現実である)。

   不健康な〈憲法〉がもたらすもの

 憲法は内治・外交・教育の拠りどころだから、「自らのために奮ひ立つことを忌避(き ひ)する」憲法を戴いてゐては、国民精神が病んだとしても驚くに当らない。例へば「いぢめ」や「幼児虐待」は大局的には自立否定の不健康な憲法と無関係とは言ひがたいのである。〈日本国憲法〉の改正は、領土領海を守るためばかりでなく、より根本的には「国の誇り」を取り戻す第一歩でもあるのだ。

   「先人の心とともに生きる」

 この小冊子は昨年、61回目を迎へた私共の宿泊研修の記録である。一貫して願って来たことは「わが先人の心とともに生きる」といふことであった。そこにこそ世界の国々に伍してゆく我らの基(もとゐ)があると信じるからである。私共の微意を御理解頂けたら幸甚である。(後略)

(標題、小見出しは転載に当り適宜、加へた)

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   国王賛歌を歌へるやうになりたい

 タイには第二国歌とも言はれる「国王賛歌」といふ歌があり、広く親しまれてゐる。映画館や劇場等では必ず公演の前に国王賛歌が流れ、観客は全員起立を求められる。日本人学校の式典や運動会でも同様である(昨年は、11月に計画されてゐた日本人学校の運動会は服喪のために中止となった)。

 平成28年10月22日、王宮前広場で追悼のための国王賛歌の大合唱が行はれた。地元メディアや警察によると17万人から30万人もの国民が参加したといふ。その後、各地で国王賛歌を歌ふ会が催され、私の勤務先のオフィスビルでも実施された。

 私はプミポン前国王陛下のことについてもっと知りたいと思ふやうになった。タイ語の文献を読む力がないため、前国王陛下の動画をインターネットで見たり、社員やタイ語の先生に尋ねたりした。彼らは口を開けば「お父ちゃんの自慢話」といった感じで、深い敬意の中にも親しみを込めて語り始めるのだった。「陛下は国民のために一日も休むことなく働いてこられた」、「陛下は貧しい農村の人たちに農業技術を自ら指導された」、「小さいころ意味も分らないまま国王賛歌を何度も歌って覚えた。国王賛歌を聞くと、いつも鳥肌が立つ」、「タイの王様は世界一」といった声を多く聞いた。

 国王陛下を讃える歌は、国王賛歌だけではなく、ポップ調のものや方言の民謡調のものまであって、いろいろな人がいろいろな歌を作って歌ってゐることも、社員が紹介してくれた。

 私は、タイ人社員とともに国王賛歌を歌へるようになりたいと思った。タイ語の先生にインターネットに出てゐるタイ語の歌詞と英語の翻訳付きの動画や、国王崩御の二日後にインターネットに掲載された喪服姿で涙を流しながらも力強く美しく国王賛歌を歌ひきる女性の映像などを繰り返し見て、聞いて、一言一句間違へないやうに、発音も可能な限り正確に練習した。タイの人たちが大切にしてゐる歌であり、中途半端な気持ちで歌ってはいけないといふ思ひがあった。果して、今年2月に行った会社の慰安旅行の際、国王賛歌をタイ語で歌った。社員一同起立して私の歌を聴いてくれた。

 私はまた、国王賛歌を日本語で歌ひたいと思って、歌詞を探してみたが、日本語の翻訳はあるものの日本語として歌へる歌詞はなかった。突き動かされるやうな思ひに駆られ、日本語の歌詞を作った。タイ語にも王室に対してのみつかはれる最高敬語があり、国王賛歌もさういふ言葉で書かれてゐるとタイ語の先生に教はったので、皇室を戴く日本の言葉であれば、歌にこめられた心を表現できるはずといふ確信があった。

 在タイ20年で、タイ王国元日本留学生協会の日本語アドバイザーとして、日本に留学経験のあるタイ人学生のサポートをしてをられる河島久枝先生と、元日本留学生のタイ人の学生さんたちに監修をしていただき、出来上がった日本語歌詞を英文による歌詞の説明とともに紹介する。

   謹訳「国王賛歌」

大王(おほきみ)の前に額づき大御心を思ふ。
王の中の王、嗚呼サヤームの畏き君知らすこの地は
慈しまれて、喜び来(きた)る。
我ら大王のみ心に尽さん。言祝(ことほ)がん。チャイ・ヨー。
(※サヤーム…タイの旧国名。※チャイ・ヨー…日本語の「万歳」に相当)
We are your people.
Prostrate with my head and heart
To your majesty the blessed guardian
Who are the king of Siam and the king of king
With noblest status
Happiness full across the land under your protection
Result from your benevolence
Brings joy to your people
We will render any wish of you to became true
This is a felicitation from us
chai yo

   天皇陛下とプミポン前国王陛下

 3月5日、天皇皇后両陛下が、プミポン前国王陛下の弔問のため、バンコクにお越しになった。皇室とタイの王室との深い交流は日本でも報道されてゐる通りだが、タイの国民がよく知ってゐるエピソードを紹介したい。「プラーニン」と呼ばれる淡水魚の話である。

 国王陛下発案のロイヤルプロジェクトは、貧しい生活を強いられる人々の問題を解消するために、お金や物を与へることではなく、外からの援助に頼らず自立し、持続可能な開発を行ふ力を持てるやうに進められてきた。そのために国王陛下自らが王宮内の敷地で実験を重ね、開発に応用された初期のプロジェクトの中に、淡水魚の養殖事業がある。

 昭和27年、当時養殖魚として人気があったモザンビークティラピアを宮殿の池で養殖に成功して成魚を下賜されてゐた。このことをお知りになった今上天皇陛下(当時、皇太子殿下)が、より栄養価が高く味もよいナイルティラピアを50匹、国王陛下に贈られたのであた。この魚は「プラーニン」と名付けられ、国王陛下の手により養殖されて大成功し、タイで広く食されるやうになった。

 タイ語で「プラー」は魚の意。「ニン」は天皇陛下の御名「明仁」の「仁」から付けられたといふ説があり、また「ニン」はタイ語で尖晶石(せんしようせき)といふ黒い宝石を意味することから、農民が有難がるやうな上品な名前として国王陛下が付けられたとの説もある。

 国王陛下は、貧困対策に魚の養殖を活用するにあたり、外部の商人が魚を獲って、地元住民よりも多くの利益を得ることのないやうに、漁業権の登録制や漁獲量の管理について助言された。農民たちが自力で養殖できるやうに支援し、グループを作って販売力を高め、仲介人による不公正取引を減らすやうにも助言された。

 昨平成28年12月23日の天皇誕生日の日、私は部下を集め、天皇陛下のお誕生日に際して御会見(12月20日)のお言葉を紹介した。その中でプミポン前国王陛下のことに言及されてゐたからであった。

 天皇陛下は「10月中旬にタイのプミポン国王陛下が崩御になりました。昭和38年に国賓として訪日された時に初めてお目に掛かり、その翌年に、昭和天皇の名代として、皇后と共にタイを訪問し、国王王妃両陛下に温かく迎えていただき、チェンマイなど、タイの地方にも御案内いただきました。即位60周年のお祝いに参列したことを始め、親しく交流を重ねてきた日々のことが、懐かしく思い出されます」(宮内庁ホームページ)と述べられてゐた。

 タイで国王誕生日が祝日であるのと同様、日本でも天皇誕生日が祝日であることに彼らは親近感を覚えてくれていたやうだった。天皇皇后両陛下が弔問のため、タイにお越しになった3月5日、タイ人の社員たちが、LINEでいろいろな写真を送ってくれた。ご弔問の様子を初め、天皇陛下からの弔電、お若かりし頃の天皇皇后両陛下(当時、皇太子、同妃両殿下)を国王王妃両陛下が北部の農村地域をご案内された時の様子、美智子妃殿下(当時)がシリキット王妃陛下とともにタイの野を背景に撮られたものなどがあった。

 タイに働き、国王陛下の崩御といふ重大事に際会して、今日の日本・タイの友好関係の基盤に皇室とタイ王室の深い交流があることを改めて知らされた。ご高齢にも関らず、ベトナム公式御訪問後の厳しい御日程の中を弔問のため、両陛下がタイにお越しくださったことに、この地でタイ人と働く日本人の一人として、深い感謝の念を抱かずにはゐられない。

   王室のもとに一つになれるタイ国民の幸せ

 私は、彼らの前国王陛下に対する真っ直ぐな思ひと敬愛の深さを日々知る過程で、国王賛歌を口ずさめば、自然に胸が熱くなり、涙が出るやうになった。タイの人々の「国父、国王陛下」への真っ直ぐな敬愛への感動と、苦楽を共にしてきた従業員への感謝、この地で働かせて頂き商売をさせて頂いてゐる恩恵に対する感謝、折々に触れたタイ人の優しさ、色々なことがないまぜになって想起される。

 タイには様々な政治的対立に加へて貧富の格差が依然として存在してゐるが、それらを超えて君民が心通せ合って一体となることができる幸せをこの国の人々は感じてゐる。

 プミポン前国王陛下が荼毘に付されるのは、崩御から一年後の今年10月である。それまでの間はタイ国では服喪期間が続く。今も、連日4万から5万ほどの人々の弔問が続いてゐる。弔問したわが社のタイ人社員も、王宮の前の列で5時間待ち、あるものは前日の夜から徹夜で列に並んだと話してくれた。微笑みを取り戻しつつある、わが社の社員達は思ひ思ひのデザインの黒い服ないしは地味な色目の服を着て、またある者は喪章を付けて日々の仕事に励んでくれてゐる。

(東洋紡タイランド(株))

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江崎道朗著  祥伝社新書
『アメリカ側から見た「東京裁判史観の虚妄」』

税別800円

 著者は、昨秋のアメリカ合衆国大統領選挙でトランプ大統領誕生を予見したことで一躍注目されてゐる気鋭の若手評論家(本会会員)である。九州大学哲学科卒業後、月刊誌『祖国と青年』編集長、日本会議事務局、専任研究員を経て、現在は主に安全保障、インテリジェンス、近現代史等の分野で活躍中である。その真摯な姿勢が本書からも伝はってくる。

 昭和20年9月の降伏文書調印から、昭和27年4月のサンフランシスコ講和条約発効まで、6年8ヶ月もの間、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれた我が国は、この間の諸政策によって戦前の文化、歴史は「悪」とされ、完膚なきまでに骨抜きにされた。これら一連の弱体化政策を象徴するものが極東国際軍事裁判(所謂東京裁判)による「断罪」であった。この政治劇に過ぎない「判決」を鵜呑みにした思考法・見方が「東京裁判史観」であり、現在も日本人の目を曇らせてゐる。

 本書には、「東京裁判史観」に関して「アメリカ側から見た」最近の状況、即ち「アメリカでいま、近現代史の見直しが起こっている」ことが的確に纏められてゐる。特にアメリカの保守派の中に東京裁判史観に疑問を持つグループがゐるといふことなど、我が国のマスメディアが報じないアメリカ保守層の動きが語られてゐる括目すべき書物である。

 この潮流の端緒になったのが、米ソ冷戦後の平成7年(1995)のアメリカ政府による「ヴェノナ文書」―戦前から戦後にかけての在米のソ連スパイとソ連政府との交信記録(暗号電文)を解読したもの―の公開である。日米戦争当時のルーズベルト米大統領(FDR)の政策は、アジアの平和維持?のためには、日本を徹底的に弱体化させることであった。この政策は戦後のGHQの政策にも繋がってゐて、日本の文化伝統の破壊をもたらし、共産主義思想が蔓延してゆく。これらの政策を企て遂行した官僚やFDRの側近に多くのソ連のスパイがゐたことが、この文書公開で明らかになった。「FDRとコミンテルンの戦争責任を追及する」観点から近現代史の見直しが進んでゐるとの報告が本書である。

 「アメリカ共産党の『トロイの木馬』作戦」(第4章)、「コミンテルンに乗っ取られたマスコミ」(第5章)、「いまも続く共産主義勢力の暗躍」(第8章)の各章は、アメリカ側の実状が述べられてゐるが、我が国の言論界の現状を考へる上で示唆に富んだ記述になってゐる。

 では、我が国ではどうか。大勢は、前述したやうに、未だにこの史観の影響下にあって、保守層の中でも組織的な見直し取組みが行はれてゐるとは寡聞にして聞かない。「戦後七十年」などといふ枠組みにいつまでも拘り続け、70余年前の「戦前」を「悪」として裁くことに血道を挙げてゐる。ソ連・コミンテルンや中国共産党の行ってきた「犯罪」への視点を欠落させたまま、自国だけを論難する矮小化された言論情況の問題点も本書では鋭く指摘されてゐる。また、「はしがき」では、「20世紀はソ連・コミンテルンとの戦争であった」といふ視点から、「百年冷戦史観」が提唱されてゐる。著者を交へた西岡 力氏(東京基督教大学教授)、島田洋一氏(福井県立大学教授)との鼎談「歴史の大転換『戦後70年』から『100年冷戦』へ」(『正論』2015年5月号)、及び「『共産主義が起こした第二次大戦』を議論せぬ日本の歪み」(『正論』2016年1月号)の二つを基本に、この「百年冷戦史観」の概要が本書に纏められ、近現代史を取り組む際の指針が示されたと評者は考へる。

(元川崎重工業(株)山本 博資)

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 頒価900円 送料300円

先人の言葉に触れよう  ─吉田松陰「士規七則」に辿る
       東京大学大学院2年 髙木 悠

学問とはどういふものか ─西郷隆盛の言葉から考へる
       NTT西日本 武田友朋

短歌と日本人
       寺子屋モデル代表世話役 山口秀範

歴史を生きるといふこと  ─森鷗外と吉田松陰
       寺子屋モデル世話役 廣木 寧

日本の国がら
       国民文化研究会理事長 今林賢郁

短歌創作導入講義
       熊本県立第二高校教諭 今村武人

我が国を取り巻く危機と学生諸君に期待するもの
       東京大学客員教授 伊藤哲朗

中国の覇権戦略と日本の課題
       評論家 石 平

聖徳太子の十七条憲法を読む
       山梨科学アカデミー会長 前田秀一郎

祖国と音楽
       作曲家・音楽高校講師 武澤陽介

思ふこと―若き友らに語りかける言葉
       昭和音楽大学名誉教授 國武忠彦

小林秀雄「美を求める心」から学んだこと
       西日本テレビ 穴井宏明

短歌創作導入講義
       東京ホワイト歯科事務長 須田清文

創作短歌全体批評
       国民文化研究会副理事長 澤部壽孫

編集後記

巻頭文は岩波『漱石全集』での「明治天皇奉悼之記」の扱ひの変化を指摘する。教科書本文に於ける「聖徳太子」表記の変遷と同根の、敢へて国柄から目を逸らす賢しらだ。
(山内)

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