国民同胞巻頭言

第664号

執筆者 題名
原川 猛雄 「物と其の苦楽を同じくする」
- 両陛下の阿智村(長野県)満蒙開拓平和祈念館ご訪問 -
折田 豊生 平成29年年頭、および最近御発表の御製、御歌を拝誦して
新春詠草抄(賀状から) 五十音順
山田輝彦先生
歌は本質的に「対詠」である
書籍紹介

 東京・渋谷の国文研事務所に行く度に、気になる額があります。黒上正一郎先生謹書で、聖徳太子維摩経義疏からの一節が書かれてゐます。

  「自行外化を憶して以て心を調伏すと雖も若し自他の二境を存して修行せば則ち修する所廣からずして物と其の苦樂を同じくすること能はず、故に勧めて応に著を離るべしと明かすなり…」

 私は心の中で幾たびとなく読み返して、本当に奥の深い言葉だなとその都度感心し、自分の生き方が問はれ正されてゐるやうにも思ひます。

 私なりの拙い解釈ですが、「衆生を救はうと心に念じて自ら修行をし、たとへ自分の心を制御できるやうになったとしても、もし自己と他者の間に差別の心をもって修行してゐたとするならば、修行の結果得るところは少なく、衆生と苦楽を分ち合ふことはできないであらう。だから自己へのとらはれから離れるように努めることが大切であることを明らかにしてゐる」となると思ひます。

 「物と其の苦楽を同じくする」といふ太子のお言葉については、これは努力して目指すべき境地であるとは思ひますが、正直なところ人間は本来利己的な存在なので、他の人の苦楽を自分の苦楽として感じるといふやうなことはとても難しいことではないかと思ひます。

 ところが、この困難なことが現実のこの世の中に実践されてゐるのです。仏や菩薩の仏国土ともいふべき世界が、実はわが国に実在してゐることに私は驚かされます。それは天皇皇后両陛下のご存在であります。

 両陛下は、昨秋11月17日、長野県飯田市で、リンゴ並木の手入れをしてゐる地元中学生と交流されました。それに先立ち、隣接の阿智(あ ち)村の満蒙開拓平和記念館を見学され、旧満州の開拓団だった引き揚げ者と懇談されて苦難の歴史を偲ばれました。テレビのニュースで、引き揚げ者の話に真剣な眼差しで耳を傾けられる両陛下のお姿を拝見しました。

 産経新聞(11月18日付)によりますと、長野県からは全国最多の約3万3千人が旧満州に移住し、終戦間際のソ連軍の侵攻などで約1万5千人が命を落しました。両陛下は、この度の引き揚げ者との面会を強く希望されたとのことです。戦争が終って既に70年余が経ち、人々の記憶から悲劇が忘れ去られやうとしてゐます。ところが、この悲しい過去の出来事を今でも忘れずにお心に留めてをられる両陛下には本当に頭が下がります。両陛下のご訪問がどんなにか引き揚げ者の心を慰めたことかと思ふと胸が熱くなります。

 陛下はご即位以来、戦歿者の慰霊や自然災害の被災地へのお見舞ひを続けてこられました。慰霊碑にお花を供へられ、深々と拝礼されるお姿や、避難所の床に膝をついて被災者を励まされるお姿には本当に深い感銘を受けました。聖徳太子の「悲能く苦を抜く」といふお言葉そのままに、両陛下の国民一人一人に寄り添はれるお心が、つらい体験をしてきた人達の苦しみをまるで棘を抜くやうに癒してきたのではないでせうか。親が子を思ふやうに、国民と喜びや悲しみを共にされる両陛下のお姿は、まるで仏さまや菩薩さまのやうに私には思はれるのです。

 昨年8月8日、陛下は「お気持ち」をビデオメッセージで表明されました。私達国民は大きな衝撃を受けました。陛下は新憲法のもとで即位され、日本国および日本国民統合の象徴としてのあるべき姿を模索されながら、全身全霊をもってお務めを果してこられました。国民の安寧と幸せを祈ってこられた陛下のまごころは全国民が肌で感じ受け止めてゐることではないかと思ひます。

 「お気持ち」を新聞で拝読してゐて気にかかる箇所がありました。「天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」といふお言葉です。天皇といふ高いみ位にありながらも、天皇としてのあるべき姿を求めてをられるお姿に感動しました。親の心子知らずと言ひますが、お心を尽してお務めを果されてきた陛下のご苦労に改めて気付かされた思ひです。親ともいふべき陛下にお応へする道は、国民一人一人が自分の務めをそれぞれの分野でしっかりと果して行くことではないかと思ひます。

(元神奈川県立高校教員)

 

◇ 平成28年にお詠みになったお歌から

御(ぎょ)製(せい)(天皇陛下のお歌)

     第67回全国植樹祭
山々の囲む長野に集(つど)ひ来て人らと共に苗木植ゑけり

     第36回全国豊かな海づくり大会
鼠ヶ関(ねずがせき)の港に集(つど)ふ漁船(いさりぶね)海人(あま)びと手を振り船は過ぎ行く

     第71回国民体育大会開会式
大いなる災害受けし岩手県に人ら集(つど)ひて国体開く

     平成28年熊本地震被災者を見舞ひて
幼子の静かに持ち来(こ)し折り紙のゆりの花手に避難所を出づ

     満蒙開拓平和記念館にて
戦の終りし後(のち)の難(かた)き日々を面(おも)おだやかに開拓者語る

皇后陛下御(み)歌(うた)

     1月フィリピン訪問
許し得ぬを許せし人の名と共にモンテンルパを心に刻む被災地熊本
ためらひつつさあれども行く傍(かたは)らに立たむと君のひたに思(おぼ)せば

     神武天皇2千6百年祭にあたり
   橿原神宮参拝
遠つ世の風ひそかにも聴くごとく樫の葉そよぐ参道を行く

◇ 平成29年歌会始 お題「野」

     御製
邯鄲(かんたん)の鳴く音(ね)聞かむと那須の野に集(つど)ひし夜(よる)をなつかしみ思ふ

     皇后陛下御歌
土筆(つくし)摘み野蒜(のびる)を引きてさながらに野にあるごとくここに住み来(こ)し

(御製・御歌は宮内庁のホームページによる)

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御製

   第67回全国植樹祭
  山々の囲む長野に集(つど)ひ来て人らと共に苗木植ゑけり

 全国植樹祭は、遠く明治時代の愛林日に端を発する。明治28年11月3日の天長節(天皇御生誕日)が「学校植栽日」とされ、全国の学校に学校林設置の訓令が出された。戦後生れの私にも小中学校時代に学校総出で学校林の下草払ひに行った思ひ出がある。愛林日の植樹行事は、昭和25年から全国植樹祭に引き継がれ、現在に至ってゐる。

 愛林日の制定は、米国の農学者で農務長官を務めたモートンの植樹活動を、明治28年に来日した米国の教育家ノースロップが紹介したことが契機となった。

 しかし、我が国には、古来、自然のあらゆるところに8百万の神々が宿るとされ、山野についてもまた、その神秘的な景観や経済的な恩恵など、様々な形で畏敬と感謝の念を以て共生すべきものであるとの伝統的な考へ方があった。

 そのやうなことから、愛林日と植樹祭は全国的な事業となって定着して行ったのである。抑(そもそ)も記紀神話によれば、「木の神」は「国生み」のイザナギ・イザナミ二神から生れたとされてをり、鎮守の森は、今も昔も、人々の心の拠り処である。

 御製は、全国植樹祭の開催された長野県を形容して「山々の囲む」と詠み出でられた。この端的な御表現に、すでに、真夏の緑豊かな長野の山々に対する愛着とお喜びが込められてゐる。そして、「集ひ来て」にそれが国家的事業であることを示され、「人らと共に」に国民との一体感をお示しになってゐる。

 この日、陛下は、ヒノキ、ウラジロモミ、コウヤマキの苗木をお手植ゑになった。「苗木」といふお言葉には未来への希望も込められてゐるであらう。

 因みに、昭和52年からは、過去の植樹祭で植ゑられた木の枝払ひ等を行ふ全国育樹祭も行はれるやうになり、皇太子、同妃両殿下に御臨席頂いてゐる。

 全国植樹祭は今年で68回(5月、於・富山県)を数へ、育樹祭も41回(10月、於・香川県)になる。昨今、我が国では、生活形態の変化に伴ひ、国民が自然や伝統文化と触れ合ふ日常的な機会が少なくなり、林業を始め一次産業は課題山積の状態であるが、この事業の本来の意義を顧み、未来への希望を含めて、その本旨が今後も永く護持されていくことを祈りたい。

   第36回全国豊かな海づくり大会
  鼠ヶ関(ねずがせき)の港に集(つど)ふ漁船(いさりぶね)海人(あま)びと手を振り船は過ぎ行く

 全国豊かな海づくり大会も、その趣旨は植樹祭と同様である。これは昭和56年から開催されてをり、天皇陛下におかれては、皇太子の時代から皇后陛下とともに御臨席になってゐる。

 四方を海に囲まれ、内陸にも多くの湖沼や河川を有する我が国において、皇室が率先して海の幸や川の幸を護り育てる事業に取り組まれることが、水産資源の保護と環境保全に関する国民意識の高揚に、どれほど大きな影響を与へてゐるか計り知れない。

 平成28年の大会は、「森と川から海へとつなぐ生命のリレー」をテーマに山形県において開催され、9月10日と11日の2日間で延べ3万人が参加した。

 鼠ヶ関港は山形県の南西端(鶴岡市)にある漁港で新潟県に隣接してゐる。この地は、その名のとほり古くから関所があり、陸の交通の要所であったばかりでなく、港は鼠ヶ関川の河口に開け、物流と水産業の拠点として、また、海上交通の要所としても重要な役割を担ってきた所である。近年は、海洋レクレーション基地としても整備が進められ、賑はひを増しつつあるといふ。

 大会では、海上奉迎行事として漁船のパレードが行はれた。御製はその様子をお詠みになったものであるが、賑はしく躍動的な調べに、東日本大震災で未曽有の被害を被った東北地方の人々の復興の様子も垣間見えて、震災後の国民の生活に絶えず御心をお寄せになる陛下の安堵の御表情を拝する思ひがする。

 両陛下は、この日、同港において、ヒラメ、アワビ、サクラマス、イワナの稚魚等を水産関係者にお手渡しになり、ともにそれらの放流行事にも臨まれた。

 大会への御臨席と併せて、両陛下は、行幸啓の折の常の如く、県知事、県議会議長その他の関係者から、県内の状況を御聴取になったばかりではなく、諸施設や学校等を御視察になり、更に様々なレセプションにも御臨席になった。御多忙な日程を終へて皇居にお戻りになったのは、御出発から3日目の12日だった。

   第71回国民体育大会開会式
  大いなる災害受けし岩手県に人ら集(つど)ひて国体開く

 全国植樹祭、全国豊かな海づくり大会と並び「三大行幸啓」の一つとされてゐる国民体育大会は、最も華やかな国民的行事であり、1~2月に冬季大会(スケート・アイスホッケー競技会とスキー競技会)、9~10月に本大会が行はれる。平成28年の本大会は、10月1日から同11日まで、岩手県において開催された。

 御製は、北上総合運動公園北上陸上競技場における開会式に御臨席になったときのことを詠まれたものである。

 華やかな祭典の開幕に際しても、「大いなる災害受けし」と詠み出でられたのは、何を措いてもそのことが最もお心にかかる事柄であるからであり、下の句は、その反面として、復興の様子を御覧になった安堵の御表現となってゐる。

 かつて、昭和天皇は、昭和39年10月の東京五輪の開催に際し、国民の誰もがメダル獲得数に心を奪はれてゐた熱狂の中で、「この度のオリンピックにわれはただことなきをしも祈らむとする」とお詠みになった。

 これらの大御歌に示された広大無辺の親心には、常人にはとても思ひ及ばない御心の奥深さを覚えるばかりである。先人が遺してくれた「皇恩に浴する」といふ言葉の意味合ひを今更ながら思はずにはゐられない。

   平成28年熊本地震被災者を見舞ひて
  幼子の静かに持ち来(こ)し折り紙のゆりの花手に避難所を出づ

 昨年4月、震度7の大地震が2度も熊本に発生し、県内各地で甚大な被害が生じた。御心を痛めてをられた天皇皇后両陛下は、「一日も早く赴きたい」との御意向を示され、地震後1ヶ月余りの5月19日、未だ余震が頻発してゐた状況下で、南阿蘇村と益城町の避難所を見舞はれた。被災状況をお見回りになるヘリコプターの中でも黙祷を捧げてをられたといふ。

 その御心は、両陛下の御来訪を心待ちにしてゐた人々にも通じてゐた。胸一杯の不安を抱へながら仮設住宅で暮らしてゐた益城町の主婦・野田さんは、両陛下が搭乗されるヘリコプターが点になって見えたとき、「ああ、これで救はれる」と思ったといふ。野田さんは、12月末、益城町文化会館で開催された天皇誕生日奉祝会において、壇上に立ち、両陛下にお励ましを頂いたそのときの思ひを涙ながらに語ったのであった。

 避難所の一つである益城中央小学校を御訪問になられた両陛下は、多くの被災者に寄り添はれる如く、膝を床におつきになってお言葉をかけて行かれた。その途中、ややはにかみながら何も言はずに手作りの折り紙の花を天皇陛下に差し出した女の子がゐた。陛下は、ひ孫ほど齢の離れたその子を見詰められ、その質素な贈り物を優しく受け取られた。それは、陛下と幼い女の子との間に生じた一瞬の無言の語らひであり、御製の「静かに」といふお言葉には、その場の阿吽の呼吸ともいふべき思ひが秘められてゐる。

 両陛下は、多忙な御公務が続く中で、春の叙勲関係の行事の翌日、警備の負担等にも配慮され、日帰りで熊本を御訪問になったのであるが、お言葉を賜ったのは被災者だけではなく、各行政機関の関係者、救助・対策活動に尽力した警察、消防、自衛隊の関係者、ボランティアをも労はれた。御高齢の両陛下には御負担の大きい強行日程であり畏れ多いことであったが、女の子が差し出した小さな折り紙の「ゆりの花」は、熊本県民を代表する両陛下への謝意としてお受け止め頂いたものであらうと思ふ。この御製をお詠みになったことが何よりそれを示すものであり、県民の一人としても畏れ多く有難いことである。「ゆりの花手に避難所を出」られるときの大御心をあらためてお偲びしたい。

   満蒙開拓平和記念館にて
  戦の終りし後(のち)の難(かた)き日々を面(おも)おだやかに開拓者語る

 満洲事変(昭和6年)の翌年以降、旧満洲国に約27万人の邦人が満蒙開拓団として入植した。これには、昭和13年以降、満蒙開拓青少年義勇軍として応募し送り出された16歳から19歳までの青少年、8万6千人も含まれる。

 満洲国には、敗戦時、約155万人の邦人がゐたとされ、日ソ中立条約を蹂躙したソ連軍の侵攻、関東軍の崩壊により、筆舌に尽し難い悲劇が彼らを襲ふことになる。満蒙開拓団もまた、軍に動員された4万7千人を除く22万3千人が地獄の逃避行を余儀なくされ、飢ゑや寒さ、発疹チフス等の蔓延、ソ連軍や現地人の襲撃等により、老人、女性、子供を始め、約8万人が非業の死を遂げた。

 かつて、全国で最も多くの満蒙開拓団員と義勇隊員を送り出した長野県では、平成25年、満蒙開拓平和記念館が阿智(あち)村に設置された。これは、開拓団の苦難の歴史を伝へ、平和の尊さを後世に伝へるための民間の博物館であり、昨年11月、両陛下はここを御訪問になった。

 悲惨な体験を語る人々との懇談において、陛下は、耐へ難き苦難を乗り越えてきた人々の屈強の精神と辛うじて命を永らへた幸運を御心深く受けとめられ、お耳を傾けられたのであらう。「面おだやかに」の一句に込められた御心を静かにお偲びしたい。

皇后陛下御歌

     1月フィリピン訪問
   許し得ぬを許せし人の名と共にモンテンルパを心に刻む

 大東亜戦争末期、日米の大規模な戦ひがフィリピンにおいて展開された。日本軍は、この大戦を通じてフィリピンにおける戦死者が最も多く50万人を超える。そしてまた、この日米戦の煽りで犠牲となつたフィリピン人の死者数は、軍人、民間人を含めて百万人を超えると言はれる。忘れようにも忘れ難い戦ひである。

 モンテンルパは、フィリピンの首都マニラの近郊の町で、戦後、日本軍将校や民間人210余人が、フィリピンにおける虐殺行為の罪を問はれ、当地の収容所に収監された。東京裁判と同時期に軍事裁判「マニラ軍事裁判」が開かれ、197人が有罪判決を受け、69人が死刑となった。

 当時のフィリピン大統領、エルピディオ・キリノ氏は、弁護士出身の政治家で、1948年、第六代大統領に就任してゐた。大統領は、激烈な日米戦が繰り広げられるさなかに妻と5人の子のうち3人を亡くしてゐた(後に、米軍の無差別爆撃によるものであることが分った)。

 1953年7月、キリノ大統領は、国内に反日感情が未だ根強く残ってゐた中で、戦犯とされてゐた有期刑、終身刑の日本人105人に恩赦令(大統領による特赦)を出し帰国を許した。大統領の任期が切れる半年前のことだった。

 モンテンルパで行はれた軍事裁判は、杜撰な調査、虚偽の証言、通訳の不備、報復感情等が雑多に影響し合ひ、裁判と呼べる体のものではなかった。無実の罪を負はされて処刑された人々とその御子孫の無念は、永遠に晴れることはないであらう。

 御歌は、往時に深く思ひを馳せられ、その御子孫を通してキリノ大統領に捧げる深甚の謝意を述べられるとともに、無念の思ひでその地に斃れた人々への哀悼の御心を分ち難く結びつけてをられる。「心に刻む」といふ強い御表現に、御心の深さを拝し、身の引き締まる思ひがする。

   被災地熊本
  ためらひつつさあれども行く傍(かたは)らに立たむと君のひたに思(おぼ)せば

 天皇皇后両陛下は、災害発生直後から、被害状況について情報を集められ、関係者をお召しになって状況をお聞きになり、また、様々な催しへのお出ましもお取りやめになるなど、並々ならぬ御思ひを以て被災地に御心を馳せられる。

 御歌を拝し、天皇陛下のみならず、御自らも御高齢になられ、いざといふときに揺らいでしまふ複雑な御心情を率直にお述べになられたことを、むしろ有難く思ふ。

 我が国では古来、子が被災したとき、老いたる母は果して自分などが行って役に立つだらうかと慮るが故にためらふのである。父は老いるとも、一刻も早く赴くと逸(はや)るのが常であり、老母は畢竟老父の思ひに添はうとするのである。何と有難い国に生れたことか。

 御歌の「傍らに立たむ」とは被災者に寄り添ふことであり、「ひたに」はひたすら、「思(おぼ)す」は「思ふ」の敬語である。これらの御表現に、天皇陛下が如何に強く熊本訪問の御意向を示してをられたかが拝され、その強いお気持ちを仰がれる皇后陛下のお心持ちも拝察され、心打たれる御歌である。

 両陛下は、被災地の避難所に御着きになるとすぐに二手にお分れになり、できるだけ多くの被災者にお言葉をかけられるやうお努めになった。

 皇后陛下が少しお顔を傾けて覗き込まれるやうにお言葉をおかけになるとき、その前にはいつも、純真な子供のやうな目で仰ぐ人々の顔を見るのである。

   神武天皇二千六百年祭にあたり橿原神宮参拝
  遠つ世の風ひそかにも聴くごとく樫の葉そよぐ参道を行く

 昨年は神武天皇崩御から2千6百年の式年に当り、御命日とされる4月3日、百年毎の式年祭が建国の聖地橿原神宮において厳粛に執り行はれた。

 天皇皇后両陛下は当日、奈良県橿原市の神武天皇陵において山陵の儀に臨まれ、その後、橿原神宮に御参拝になった。

 御歌は、壮大にして清明。参道の樫の林を吹き抜ける風の音をお聴きになりながら、建国の昔の橿原の宮にも吹いてゐたであらう風に御心を馳せられる。「ひそかにも」といふお言葉には、心を込めて聴かなければ聞えない「あるもの」が暗示されてゐるが、それはゆかしき風の音だけではなく、遠い遠い昔の祖神祖霊の御声であったかも知れない。

 万世一系の皇統を仰ぐ我が国ならではの2千6百年式年祭といふ祭儀の意義を爽やかにお伝へ下さる御歌である。

 歌会始 お題「野」

 新年恒例の「歌会始の儀」は、1月13日、皇居宮殿「松の間」で厳かに行はれた。

   御製
  邯鄲(かんたん)の鳴く音(ね)聞かむと那須の野に集(つど)ひし夜をなつかしみ思ふ

 邯鄲はキリギリスを細くしたやうな体形で、コオロギとマツムシの中間のやうな高めの鳴き声で途切れなく鳴く。秋の虫の中では鳴き声が最も美しいとされる。

 那須御用邸では、天皇陛下の御意向により、平成9年からの10年間、栃木県立博物館が中心となって敷地内の動植物調査が行はれた。

 御製は、ある夜、研究者達から説明をお受けになりながら邯鄲の鳴く音をお聴きになったときのことを詠まれたものである。歌意の中心は、邯鄲の鳴く音よりもむしろ「集ひし」にあり、研究者達との触れ合ひを何よりもお喜びになってゐる御様子を拝することができる。

   皇后陛下御歌
  土筆(つくし)摘み野蒜(のびる)を引きてさながらに野にあるごとくここに住み来(こ)し

 御歌は、永い御所内の御生活を回顧して詠まれたものである。「野にあるごとく」の象徴的な御体験、「土筆摘み野菜を引きて」には目に浮ぶやうな真実味が溢れ、「さながらに」が流れるやうに前後を繋いで美しい。

 何気ない日常の平穏な御生活を暗示しながら、素朴で平和な国民生活の永続を祈念してをられるものと拝する。

(本会参与元熊本市役所)

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     熊本市 今村武人
   お題「野」に寄せて
 敵陣をめがけて一人馬に乗り荒れ野を駆けぬく姿雄々しき(NHKドラマ『真田丸』最終回から)

     小田原市 岩越豊雄
 ひろごれる足柄平野の遠近(をちこち)に桜咲く見ゆ春のどかなり

     宇部市 内田巌彦
   ソ連に抑留されし父を偲びて
 満洲の曠野に秋風立ち初めて父牽かれ給ふ妻子残して

     川越市 奥富修一
 武蔵野に実る稲穂のむせかへる香りの中の畦道を行く

     宮若市 小野吉宣
 野の奥のたけのこ山に楽しみをふくらませつつ日ごと勤しむ

     熊本県益城町 折田豊生
 おほなゐのまが知らぬげに野も山も見渡すかぎり緑萌えたつ(五月)

     藤沢市 工藤千代子
 野営(やえい)の夜(よ)岩を枕に眠るとふ吾子日焼けしてたくましさ増す

     柏市 澤部壽孫
 故郷の蜜柑畑のあとの野に紫陽花あまた美しく咲く

     佐世保市 朝永清之
   北朝鮮からの引揚げ行(抄)
 帰国せむと野宿を重ね食乞ひて三十八度線目指して歩みき

     東京都 山本博資
 老い行きて畑作やめるも四十(よそ)余年(とせよ)作りし野菜は忘れかねつも

     神奈川県真鶴町 稲津利比古
   橘曙覧の独楽吟に「なぞらへて」(抄)
 うれしきは飛び跳ね遊ぶ愛猫のいつの間にか膝にゐる時
 うれしきは博多名物「めんたい」を冷蔵庫奥に見つけたる時

     熊本市 今村武人
   昨年春から学級担任を務む
 生徒らと夢を求めてこの年も心通はせ学びてゆかむ

     横浜市 今村宏明
 我が生業(わざ)にいそしみつとめて少しでも國のもとゐの土となりたし

     さいたま市 井原 稔
   春の三景(抄)
 はらはらと舞ひ散る桜頬に受け行く春愛(かな)しひとり歩めり(見沼田圃にて)

     熊本県益城町 折田豊生
 来む年の抱負語らふ忘年会なゐのことどもうち忘れつつ

     小矢部市 岸本 弘
 さし出(い)づる朝日に向ひご皇室の弥栄(いやさか)を祈る今日の朝明(あさあけ)

     茅ヶ崎市 北濱 道
 冬の気に冴ゆるみ空に白雪のつもりし富士の遠見ゆるかな

     加古川市 北村公一
 優しかる妻子(めこ)に囲まれ恙なく四十路最後の年を送りぬ

     浦安市 小林 功
 永き世を平和むさぼり生き来(きた)たる日本人みな心して立て

     福岡市 小柳左門
 亡き父の命を享(う)けて生れたる孫の笑顔に心やはらぐ

     久留米市 合原俊光
   伊勢神宮参詣(三月)
 清らなる水流れゆく五十鈴川底ひに光るさざれ石見ゆ

     由利本荘市 須田清文
 山肌をま白く染めてそびえたつ鳥海山のけだかき姿よ

     合志市 多久善郞
 改憲の声高らかに世に告ぐる長鳴き鳥のとしぞこの年

     佐世保市 朝永清之
 八十坂は容易(たやす)からざり思はざる試練重なりし昨年(こぞ)にありけり(二度の入院)
 国もまた厳しき試練の年ならむ老いの役目を果しゆきたし

     四街道市 豊増達夫
 僻事の多しとはいへ憲法(の り)正し國の礎(いしずえ)固めゆきなむ

     埼玉県嵐山町 服部朋秋
   ダライ・ラマ猊下に十八年の歳を経て再び拝謁(抄)
 いまもなほ植民地たるチベットのかなしみ知れば義憤おぼゆる
 ヒマラヤに雪山獅子旗(チベット国旗)たかだかと翻へる日を乞ひのみまつる

     町田市 三宅章文
 しののめのかげ射し初むる畝傍山国原やがて目覚めゆくらし

     東京都 山本博資
   初詣(平成29年元旦)
 澄みわたる碧空(あをぞら)のもと新しき産土(うぶすな)神(がみ)のやしろに詣づ
 (神楽坂の筑土(つくど)八幡神社、赤城神社)

     交野市 絹田洋一
 亡き伯父(伯母の夫)のシベリア抑留の苦難を十月二十日放送のNHK「ファミリーヒストリー」で知りて
 戦(いくさ)終はれどソ連に囚はれ行く先も告げられず列車に乗せられしとふ
 「太陽が後ろから昇つてゐる」といふ声響きたり列車は西へ
 森林の中行く列車はいつの間にか黄色き砂漠を走りをりしと
 いかばかり不安なるらむ乗せられし列車は砂漠の中ひた走る
 降ろされしは中央アジアの旧ソ連ウズベク共和国とは耳疑ひぬ
 シベリアならぬウズベキスタンに送られしとはあまりのことにただ驚きぬ
 戦終はりてなほ二万余の同胞(はら から)は遥けき彼方ウズベキスタンへ
 黒パンと僅かな粟のスープの日々続きて栄養失調になりぬと
 極寒と飢餓と重労働の日々はいつ果つとも知れずあまた斃れゆく
 偉容なすナヴォイ劇場日本人の建てしを現地の人皆知りぬと
 日本人はあまたの煉瓦(れん が)を背に負ひて階段登りしと語る人あり
 後に残るもの造らむと日本人は一所懸命働きをりしと
 強ひられし労働なれど最良のもの造らむと努めませしか
 伯父ら建てし寮丈夫なり大地震(おほなゐ)に耐へしと今なほ住む人称へぬ
 伐採の仕事危ふし倒るる木の下敷きになりて死ぬ人多しと
 マイナス十度の極寒の中伯父もまた木の倒れきて怪我負ひましぬ
 五年(いつとせ)の苦しみに耐へ妻や子の待つ故(ふる)郷(さと)に生還しましぬ
 大切に持ち帰らすは餓ゑの中命つなぎし手作りのスプーン
 過酷なる抑留の日々命の次に大切なりしかそのスプーンはも

 

 

編註
絹田兄の伯父君、安東高(たかし)氏は明治39年生れで、岡山県下の小学校で教員をしてをられたが、昭和12年、支那事変で応召。2年後に帰国し、35歳で教頭となるも、大東亜戦争の勃発で再び応召。平壌で鉄道の警備を担ってゐたが、その地で終戦を迎へられた。40歳だった。昭和25年1月、引揚げ船で帰国し教職に復帰。その後校長となり昭和45年亡くなられた。享年64。

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   心が通ひ合ふよろこび

 歌は本質的に「対詠」である。つまり相手を予想する。「独詠」的なものでも、それが文字に表現される限り必然的に相手を予想することになる。我々が合宿の生活の中に和歌の創作をとり入れてから、かなりの経験をつんだ。何故和歌を作るのか、それは、表現を通じて人の心の細かいゆらぎまで敏感に感受する感覚を養ふことができるし、自分の表現を客観的に検討することによって、思想表現のむつかしさを体験することもできる。そして表現を通じて心が通ひ合ふよろこびを実感できる。つまりいのちといのちがふれ合ふ人生の姿がにぎやかに展開される世界、同じ言葉を使ってゐる民族の生命が交流し合ふ世界を持つことができるからである。

   「芸術」である前に「道」

 さういふ意味で、われわれにとって歌は「芸術」である前に「道」である。従って短歌を単に孤立した「個」の表現だとする近代風な根のない芸術論と我々の立場は無縁のものである。

 合宿参加者の短歌創作の体験は、まだ極めて日が浅いか、全く初心の人かである為に、表現技巧の上では未成熟であるのは已むを得ない。しかし、部分的な一寸した修正で驚くほどいゝ表現になる。子規も「歌よみに与ふる書」で言ってゐるやうに、歌は本来抒情詩だから、自分の感情を率直に詠むことが第一で、理屈、うそ、誇張を詠むと歌の迫力がなくなってしまふ。

   真心、感動が主で、技巧は従

 また子規が「実朝は固より善き歌作らんとて之を作りしにもあらざるべく、只真心より詠み出でたらんが、なかなかに善き歌とは相成り候ひしやらん」といふやうに、歌は真心、感動が主で、技巧は従であることは千古の真理である。技巧は修練によって上達して行くけれども、初心を失っては現代専門歌人のやうな概念歌に堕してしまふ。従って技巧の未熟を余り気に病む要はないが、表現にはやはり客観性が必要だから、「正確」に詠むこと、「自分の思ひを一番よく表す一つの言葉」をえらぶ努力が肝要である。

   「歌は平等無差別なり」

 もう一つ子規の言葉を引かう。「歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賤も無之候。歌よまんとする少年あらば、老人抔(なと)にかまはず、勝手に歌を詠むが善かるべく…」といふ。初心者には力強い激励ではないか。今の専門の短歌雑誌を見るがよい。先輩格の人は大きな活字で上段に、初心者は小さな活字で隅っこの方に印刷されてゐる。芸術に「格」ができると必ず堕落する。現代短歌の不毛は案外こんな所にもあるのかも知れない。子規は歌の世界には、年齢や身分を越えた「平等」があるといふのだ。従って我々は歌を詠むことによって、外的差別をこえた内的平等感を味はへるのだ。同胞の一人といふ実感が体験できるのである。

   「文語定型詩」=歴史仮名遣ひ

 最後に。用語は何を使ってもよいが、歌はやはり「文語定型詩」であるから、仮名遣ひは、できれば格調のある歴史仮名遣ひを勉強すべきと思ふ。字余りは自然のものであれば決して気にする必要はなく、無理に五七にするとかへってをかしい。

 

編註
『国民同胞』昭和38年2月号所載の「地区合宿での詠草」についての批評記事から。標題と小見出しは編集部で付した(もと現代かな)。

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 多久 善郎著 税別1,800円
 『永遠の武士道』語り伝えたい日本人の生き方 明成社刊

 「わが国には〝治に居て乱を忘れず〟との戒めの言葉がある。平和の中にあっても緊急の事態・有事を忘れずに備えるとの強い精神である」とは、本書の序文「国難を克服した〝武〟の伝統」の書き出しである。

 健全なる国家ならば「治平」を保つべく努めるのは当然だが、それとともに、それを護るための「武備」が用意されてゐなければならない。両々相俟って、国家は正しく機能する。従って、旧敵国日本の勇猛さに手を焼いた米国が、日本国家の健全性を消滅させるべく、その占領軍に武備否定の憲法を起草させ、施行を強要したのは当然のことであった。

 問題は、主権回復(昭和27年講和条約発効)後も、前文で「自存努力の否定」を謳ひ、第9条で「武備の不保持と戦闘の禁止」を規定した自虐的で不健全極まる外国製憲法を、「平和憲法」などと呼称して、70年近くの間、内治・外交・教育の拠り所として来たことである。その結果が筆者が序文で説くやうに「米国の属国に堕したかの様な他者依存・利己主義の〝一国平和主義〟が蔓延してしまった」のである。「しかし、わが国の長い歴史を繙くと…」脈々たる「武」の伝統があることが序文で大略回顧されてゐる。そして「…日本を日本足らしめている精神の系譜が我が国の歴史には厳然として存在する。それが私は〝武士道〟だと思う」と確言してゐる。

 本書は、日本協議会理事長や日本会議熊本理事長などの任にあって愛国的国民運動の第一線に立つ著者(本会会員)が、月刊『祖國と靑年』誌に四年にわたって連載したものに加筆修正を施し、さらに書き下ろしを加へたものである。連載中から読ませてもらってゐたが、かうして一冊に纏められると、壮観であり、改めて筆者の思ひの深さと熱意が各頁から溢れんばかりに迫って来る感じである。「武士道古典の言葉」「幕末激動期の武士道」「明治の武士道」「大東亜戦争と武士道」の四章から本書は構成され、140余りもの〝先人の言葉〟が取り上げられてゐて、筆者の40年余りに及ぶ読書遍歴をも偲ばせるものとなってゐる。また、その解説は、単なる語義や背景説明に止まらず、著者の日頃の生き方が滲み出たものとなってゐる。

 例へば、第四章「大東亜戦争と武士道」の、特攻隊生みの親と称される大西瀧治郎海軍中将の「後世において、われわれの子孫が、祖先はいかに戦ったか、その歴史を記憶するかぎり、大和民族は断じて滅亡することはないであろう」といふ言葉を取り上げた項では、その解説は左記のやうに結ばれてゐる(大西中将は、昭和20年8月16日、「特攻隊の英霊に申す」で始まる遺書を遺して自決)。

   祖国に危機が迫った時、それに身命を賭して勇躍と立ち向う青年が陸続と生れて来るならば国家は守られる。だが、わが身可愛さのみで逃亡する者ばかりであったなら、他国に隷従するしかない。国家の独立とはその様にしてしか守られない。その勇気を抱く事を歴史は訴えているのだ。終戦70年に当る平成27年の8月15日には、例年にも増して多くの人々が靖國神社や各県の護国神社に参拝した。それも若い人々が多かった。その姿の中に日本の未来があり、無言の内に他国に対する大いなる抑止力を示しているのである。

 熊本市に生れ育った著者は当然の如く宮本武蔵の『五輪書』の一節から筆を起す。そして山鹿素行、大石内蔵助(忠臣蔵)、山本常朝(『葉隠』)、佐藤一斎、吉田松陰…とたどり、「会津武士道」等々を語ってゐる。「文弱を卑しむ文武両道」の武家の精神で、幕末・明治の植民地化の危機を乗りきり、それが大東亜戦争まで貫いてゐることが語られてゐる。

 本書を読みながら、「平和」のみを語りたがる戦後体制とは、まさに根を絶たれた浮き草のやうなものだと感じられてならなかった。憲法は武備をともなった健全なものに改められるべきは至極当然だが、そこには歴史に根ざす精神性の裏づけが不可欠のはずで、本書はそのことを具体的に示唆するものであった。

 本書で取り上げられた〝先人の言葉〟はそれぞれ「簡潔な解説」をともなって見開き2頁に収められてゐて、読者の便に配慮したと思はれる編集上のかうした工夫も有難く、若い世代の読書会のテキストとしても最適ではないかと思った。
(山内健生)

 

 編集後記

 「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ新政権で「世界はどうなるか」で、メディァは持ちきりだが、もっと自国にも関心を向けたいものだ。本号掲載の「巻頭文」「御製御歌の謹解」に、文字通り世界に比類なき国柄(国の個性)が示されてゐる。各国と伍して行く我らの拠るべき基(もとゐ)はここにある。地に足を着けて歩まう!。
(山内)

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