国民同胞巻頭言

第663号

執筆者 題名
理事長 今林 賢郁 「終りなき世」を寿ぐ国歌・君が代
- 「日の丸を仰ぎ国歌を唱ふ姿は美しい」 -
  「国民文化研究会」奉仕団
昨秋の皇居勤労奉仕
山内 健生 8月8日の御放送を承りて思ふこと
布瀬 雅義 あなたは自分の言葉で日本を語れますか?(3)
「見えない根っこ」を見出し、自分の言葉で「日本を語る」必要がある
岡山 英一 古への響きを求めて
- オフィクレイドとクラシック音楽の古典回帰 -

 「仰げば尊し」(文部省唱歌) は、多くの日本人が小学校や中学校の卒業式で唱ってきた懐かしい歌である。「今こそ わかれめ いざさらば」と口ずさめば、今でも、先生や友との別れを惜しんだ、過ぎし日が想ひ出される。ところが、この歌の歌詞が文語調で児童生徒には解りにくい、といふことで最近は敬遠されることが多いらしい。それならひと言、解説してやればいい。何故さういふ話にならないのか。また、教員のなかには、第一節の「仰げば尊し 我が師の恩」は、子供たちに教師への尊敬を強要するものでをかしいなどと言ふものがゐるといふ。伝統破壊を意図する日教組イデオロギーそのものだが、お世話になった人に感謝するのは当り前で道徳の基本である。そもそも仰がれる教師は強制などしないし、子供たちは、先生との日々や友との学校生活を瞼に思ひ浮べながら、素直に、心をこめて「仰げば尊し 我が師の恩」と唱ってきたまでである。

 それでは国歌・君が代はどうか。いささか旧聞に属するが、一昨年の卒業式では国立大86校の内、国旗掲揚74校、国歌斉唱は14校だったと言ふ。国歌斉唱は二割にも満たない。国立大学でありながらいつまでこのやうな異常が許されるのだらう。昨年の2月のことだったが、国立岐阜大学の学長が、その春の卒業式と入学式には、国旗掲揚は行ふが、式典ではこれまで通り、大学の愛唱歌(「我等多望の春にして」・旧制岐阜高等農林学校校歌)を唱ひ、君が代は斉唱しないと表明した。この学長は記者の質問に、君が代がふさはしくないとは思はないが、愛唱歌は式典で唱ってきた伝統ある歌で大事にしたい、と答へたといふ。これは本末が違ふ。君が代は愛唱歌よりもはるかに長く「式典で唱ってきた伝統ある歌」である。愛唱歌を大事にしたいといふのは結構だが、さうであれば国歌とともに愛唱歌も唱へばいいだけの話ではないのか。ここには所謂リベラル派の教員たちを抱える学内事情もあるのだらうが、特定の政治的主張にひるむことなく、自国への矜持をうちに秘めたどっしりとした腰構へを見せて欲しいと思ったことであった。

 昨夏のリオ五輪での日本代表選手の活躍は目覚ましいものがあったが、五輪終了直後の讀賣新聞「読売歌壇」に次のやうな歌が載ってゐた。

   唇の端まで嬉しさ溢れおり体操チームは国歌をうたう(かな遣ひママ)

 金メダルを獲得した男子体操チームが表彰される時の様子を詠んだ一首である。「唇の端まで嬉しさ溢れ」て、口を開けて国歌を唱ふ選手たちの表情は晴々しく、テレビを見てゐる者にも「嬉しさ」が真っ直ぐに伝はってきたものだった。

 一昨年10月のラグビーワールドカップでは、日本代表は世界の強豪を相手に大健闘(初戦では南アフリカを破り3勝1敗の好成績)し、五郎丸歩(あゆむ)選手のキックスタイルとともに話題を呼んだが、この時も選手たち全員が口を大きく開けて国歌を斉唱してゐた。このことを主導したリーチマイケル主将は、当時、「試合の前の合宿中には、必ず全員で君が代の練習をします」「君が代の中味を自分たちにつなげて、歌詞を理解して唱はないとダメだと思ひます」と語ってゐた。

 君が代の歌詞を理解すれば、自分たちがどのやうな国を代表して試合に臨んでゐるのかが合点でき、それが力の源泉となるといふことだらう。平易ながら的確な言葉に感心したものだった。国歌は口をモゴモゴさせながら唱ふものではない。国旗を仰ぎ姿勢を正して国歌を唱ふ姿は美しい。

 明治の先人たちは学校での新年祝賀の式で、国歌・君が代とともに「年の始めの例(ためし)とて終(をはり)なき世の めでたさを 松竹たてて 門(かど)ごとに 祝ふ今日こそ 楽しけれ」(千家尊福(せんけたかとみ)作詞の「1月1日」)と唱った。われわれもまた、「終なき世」を寿(ことほ)ぎ、祝祭日には国旗・日の丸を掲げ、折々の式典では天皇の御長寿と国家の弥栄を祈念する国歌・君が代を声高らかに唱和したいものである。

ページトップ  

 10月24日(月)から27日(木)までの4日間、国民文化研究会の会員有志から成る皇居勤労奉仕団(島津正數団長、岩越豊雄副団長)による奉仕作業が行はれた。「国民文化研究会」としては六回目で、大分、福岡、兵庫、神奈川、東京、千葉、埼玉から、過去最多の32名(男性21名、女性11名)が参加。天候にも恵まれ、他に同じ日程で六奉仕団、総勢二百人が作業に当った。

 3日目の10月26日(水)は、赤坂御用地での作業で、午前11時、東宮御所お車寄せの前庭に奉仕団ごとに整列して、皇太子殿下のご会釈を賜った。殿下が、各奉仕団の前に歩を進められると、各団長が団体名や奉仕参加者数などを申し上げる。国文研奉仕団への「どのやうな活動をなさってゐますか」とのご下問に、島津団長は「国民文化研究会は、古典や和歌、歴史などを学び、日本の良き伝統、文化を学生・青年に伝へていくことを使命として、昭和31年から毎年、合宿教室を行ってをります。61回目の今年は御殿場市と福岡市で開催いたしました」とお答へ申し上げた。殿下は頷づかれて、「どうぞお元気で」との有難いお言葉を掛けて下さった。

 翌4日目の27日(木)、昼、休憩所に見えた喪服の侍従から、直々に「本日朝8時34分、三笠宮崇仁親王殿下が薨去されたこと、両陛下には奉仕団へのご会釈を予定してをられたが中止となったこと、両陛下から奉仕団の皆さんによろしく伝へてほしいとのお言葉があったこと」などが伝へられた。奉仕団一同は、暫し言葉を失ったが、両陛下からの温かなお心遣ひも伝へられて、悲しみの中にも胸を熱くしたのであった。殿下薨去の前日、三笠宮邸のある赤坂御用地で草取りなどの清掃のご奉仕をさせていただいたことが、せめてものことだった。

 日程の概要は次のやうであった。

1日目・宮殿表御座所前の庭の「草取り」と「落ち葉掃き」など
2日目・伏見櫓を背景に記念撮影、東御苑の「草取り」など
3日目・赤坂御用地での「休憩所の清掃」と「道路の草取り」など
4日目・紅葉(もみぢ)山(やま)御養蚕所の前庭の
「草取り」と「落ち葉掃き」など

 以下、参加者の感想文と短歌を紙面の制約から、ごく一部を抄出させていただく。
 (文責・編集部)

     神奈川県横浜市 今村 宏明
 今回で五度目で、(75歳までとの規定で)最後の参加をさせて戴きましたが、紅葉山に登ることが出来たのは初めてでした。紅葉山には、皇后陛下が丹精込めてお世話されるといふ、紅葉山御養蚕所があり、是非一度、機会があればと願ってゐました。今回なんとありがたい事でせうか。御養蚕所の前庭及び周辺のお掃除をさせて戴く事が出来ました。聞くところによりますと、御皇室では、特に歴代皇后様は養蚕に力を入れてをられ、明治12年に英照皇太后が青山御所に御養蚕所を新設再開されて、貞明皇后に引き継がれ、大正四年に紅葉山御養蚕所を開設され、昭和3年に香淳皇后が御引継ぎになり、平成元年から皇后陛下に受け継がれて今日に至ってをります。

 天皇陛下のお田植ゑ、お刈取りなどの稲作や、皇后陛下の御養蚕等、本当に人間の生活の原点を自ら実践なさるお姿に深い感動を覚えます。

     埼玉県志木市 大泉 英哉
 4回目の奉仕となりました。毎年のことですが、4日間の奉仕を終へて帰途につくとき、私は本当に清々しく爽やかな気持ちになります。澄み切ってゐるといふか満ち足りてゐるといふか、いつもとはとても違ふ気持ちを味はふことができてゐます。他の何か困難なことを成し遂げたときとか、目標を達成したときとかとも明らかに異なる気持ちです。

     神奈川県川崎市 上木原 巌
 最終日、午前の作業を終へると侍従から三笠宮崇仁親王薨去の御知らせがありました。昭和が一つ一つ消えていく淋しさと寂寥感を覚えました。三笠宮崇仁親王は、三年前まで、靖国神社の例大祭へご臨席を賜り、御遺族方の励みにもなったものです。その折は「鎮魂」(折口信夫詞、信時潔作曲)をご一緒にご唱和させて頂きました。

     大分県大分市 木田 浩隆
 天皇皇后両陛下の御会釈は三笠宮様の突然の御薨去により中止された。勿論全員がっかりしたのだが、僕は半面ホッとした。「天皇陛下皇后陛下萬歳」三唱に不安を覚えてゐたからである。今次大戦においても、日本を他の名前に変るくらゐなら、生を死に変ることを辞さない人々が陛下の萬歳を叫んでみづく屍草むす屍となって続いた。万斛の思ひを無窮の中に投げ打たうとするとき、ひところまことしやかに語られた、突撃する兵士の最期の叫びが「お母さん」だったことなど決してなかったはずだ。その叫びを受け止めるものは、神にしろアラーにしろ絶対的な無とでもいふ存在でなければならない。長年そんな思ひを醸成してゐたから、勤労奉仕の3日目、皇太子殿下の御会釈のあと、裂帛の萬歳三唱が赤坂御用地に轟き渡ったとき、僕は危うく流涕に至らんとした。両陛下の場合には我慢の限界を超えるのは間違ひないと思はれたのである。

     神奈川県小田原市 岩越 豊雄
   皇太子殿下のご会釈を賜る
笑みたまひ団長の顔をしかと見つめ頷き給ふ日嗣の皇子は
皇統の弥栄願ひ皆と共に声を限りに万歳三唱す

     東京都府中市 磯貝保博
鳥たちの色づく木々を飛び交ひて鳴く声響く宮居の森に

     埼玉県さいたま市 井原 稔
   皇居南庭・中庭にて
大きなる築山(つきやま)双つ並び立ち匠の技に驚き覚ゆ

     福岡県若宮市 小野 吉宣
   東宮御所の前庭にて
紛(まご)ふなき日嗣の宮の皇太子さまを仰ぎ見るなり御民我らは

     福岡県久留米市 合原 俊光
吹上の御苑の森に鳴く鳥の声清々し秋風の中
もみぢ山ひときは高き赤松の天に向へる姿雄々しも

     千葉県柏市 澤部 壽孫
   赤坂の東宮御所にて
丈高き馬刀葉椎(まてばしい)の木仰ぎつつ日嗣の皇子を静もりて待つ
大君とみ国を御身に背負ひます日嗣の皇子のみ姿凛々しき
   紅葉(もみぢ)山(やま)の御養蚕所の前にて
桑の葉を御手(みて)にし給ふ美しき皇后宮(きさいみや)のみ姿浮ぶ

     東京都大田区 島津 正數
   東宮御所前の広場にて
爽やかな秋空広ごる東宮御所前(ごしょまへ)に日嗣の皇子のお出ましを待つ
静かなる東宮御所の広前に日嗣の皇子の靴音を聞く
我が前に立ち給ひたる日嗣の皇子に心を込めて深く一礼(ゐや)せり
国文研の使命述ぶれば日嗣の皇子の笑顔をもちてうなづきたまふ
   三笠宮崇仁親王殿下薨去
三笠宮親王殿下御薨去のしらせを昼につつしみて聴く
   両陛下のご会釈中止
ご会釈の叶はぬことを大君は侍従遣はし伝へ給ひぬ
両陛下のみこころ遣ひの有難くご会釈にもまして胸熱くなる

     神奈川県秦野市 原川 猛雄
   東御苑・都道府県の木
各県の木々植ゑられしその中に新潟県のユキツバキ見き(故郷の木なり)

     千葉県八千代市 山本 博資
七十五の齢(よはひ)をかぎりに皇居での勤労(つと)奉仕(め)終るとさだめにありぬ
来む年は七十六の我なればおのづとつとめに身の引き締まる
   日嗣の皇子の御会釈を賜る
笑(ゑ)みたたへ問ひかけ給ふみ姿を咫尺(しせき)に拝しかしこかりけり
   三笠宮崇仁親王薨去
百歳(ももとせ)の齢(よはひ)を重ねみまかり給ひしと昼餉(ひるげ)のときに侍従伝へき
皇室は喪に服され給ひ両陛下の御会釈かなはず心残りき

ページトップ

 8月8日午後に放送された陛下の「ビデオメッセージ」について、案の定、「人権派」から奇論が出た。

 例へば昨秋の『Hanada』誌(11月号)に載ってゐた「『皇室典範』は憲法違反だ」と題する弁護士の論を読んだのだが、陛下のビデオメッセージは天皇の「人権宣言」であると記されてゐた。曰く「天皇であれ誰であれ、いま背負っているものが重荷となり、そこから解き放たれて自由になりたい、というのを誰も邪魔することはできないのです」。日本国憲法の人権思想に例外がない旨が縷々述べられてゐた。

 では論者には重荷を覚えることはないのだらうか。私にだって重荷はある。あまりにも世間を小馬鹿にした理屈だと思った。第一、陛下は重荷であるなどは仰ってゐない。

 かつて皇室典範は憲法(国務法)と同格のもので、議会が関与することのできない宮務法とされてゐた。現行の皇室典範は日本国憲法に基づく法律といふ位置づけになってゐる。ここに占領軍の意向があったことは言ふまでもなく、根本的に「変質」させられたわけだが、譲位制を採用しなかった点は共通してゐる。

 かつては第10条で「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」となってゐて、現行の皇室典範は「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(第四条)となってゐる。これは実は重大な点で、皇位の安定的永続のための規定であって、皇位継承の際に「人智」による一切の理由の入り込む余地をなくしてゐるといふことである。言はずもがなのことだが、医療科学技術の進歩が如何に深化しようとも、有限なる生命を変ることが不可能だ。生命の有限性は人智を超えてゐる。

 そこで注意しなければならないことは、憲法をかざす訳知り顔の人権派の論理である。「人智」には善意もあれば悪意もあるといふことである。皇位の永続を危うくするものは、悪意や謀計だけではない。善意を装ふ冒頭のやうな「人権思想」もそのひとつだといふことである。

  陛下のご意向にどうお応へすべきか、有識者会議は識者からの見解聴取を終へた。難題だが「国柄」の過去と将来を見据ゑた見識ある対処を切にお願ひしたい。
(12月1日記)

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

ページトップ  

   「大いなる和」の国

 私が留学した時に本格化した日本の自動車メーカーの対米進出はその後も着実に進み、30余年後の現在では米国市場でのシェアは三割を遙かに超えてゐます。そして日系メーカーの圧倒的な攻勢で、かつては世界に覇を唱へた米国の自動車メーカーもその経営がぐらついてきてゐます。ここまでくると、もはや日本の車作りは欧米の模倣ではなく、そこには何か日本人の文化的個性が働いてゐる、と考へるべきでせう。

 東京大学ものづくり経営研究センターの藤本隆宏教授は、日本の製造業の強みを「擦り合せ」といふ言葉で表現してゐます。たとへば、車のボンネットを開けてみれば、多くの部品がぎっしりと詰め込まれてゐます。それらは自動車メーカーを中心に多くの部品メーカーが、互ひの機能の連携や空間の取り合ひに関して「擦り合せ」をしながら、車全体の信頼性や性能、コストを追求してゐるのです。

 製造においても、日本の「QCサークル」(小集団改善活動)は世界的に有名になり、海外でも真似をする工場がたくさん出てきました。これは現場の作業者が、小さなグループを作って、その担当工程での不良低減や生産性向上のために衆知を集めて、改善を進めるやり方です。

 前号の(2)で、わが国は「天皇を中心に国民が心を通はせる美しい国柄を持った国である」と述べましたが、この特質が製造現場では協力企業との「擦り合せ」や、現場での「QCサークル」に現れてゐるのです。「和を以て貴しと為す」といふ聖徳太子の言葉がありますが、かうしてお互ひに心を通はせながら、共通の目標に向って、力を合せていく事を強みとするわが国は、確かに「大和」 すなはち「大いなる和」の国であります。

   日本人はグループを組むと何倍もの能力を発揮する

 それにしても不思議なのは、日本の作業者が、学校で教はったわけでもないのに、何故に「和を以て貴しと為す」といふ姿勢を身につけてゐるのか、といふことです。

 カリフォルニア大学で、私が教はった先生も、「日本人の学生は、一人ひとりではあまり意見発表をしないが、グループで共同研究をさせると、途端に何倍もの力を発揮する」と言ってゐました。逆に中国人やインド人の留学生は、一人ひとりは授業中にどしどし発言をしますが、グループを組ませると論争ばかりして、なかなか結果が出せません。日本人学生は、グループ作業について学校で訓練を受けたわけでもないのに、なぜ、かういふ集団的能力を発揮できるのでせうか。

 おそらく、家庭や学校、企業といふ集団生活の中で、お互ひに我が儘を言はずに、力を合せなければいけない、といふ不文律を知らず知らずのうちに、身につけて来たからではないでせうか。これが「文化」といふことだと思ひます。かうした「和」を尊ぶ文化的個性が、多くの人間の連携が不可欠なモノづくりにおいて、特に強みを発揮するはずです。

   「もったいない」

 日本のもの作りを強くしてゐるもう一つの文化的個性として、「もったいない」といふ感じ方があります。たとへば、製造工程で不良品が作られると、廃棄物として捨てられます。これを「もったいない」と感じる感性を日本人は持ってゐます。たかだか月に一万円の損失であっても、なんとかゼロにできないか、とQCサークルで作業者が一所懸命に智慧を出し合ひます。

 しかし日本以外の国々では、さういふアプローチはありませんでした。さういふ改善活動やら設備の改良に100万円かかるのなら、1万円程度の不良品は捨ててしまった方が得だ、といふ考へ方が一般的です。

 しかし、もの作りは技術の蓄積です。1万円の不良品退治に100万円かけても、それで品質信頼性が高まり、市場の評価も上って売上が増え、何千万円もの利益増加につながるといふことがよくあるのです。また、不良品退治のノウハウが見つかると、それを他の工程にも展開して、工場全体では数百万円の不良品削減につながるといふこともあります。

 かうして現場が「もったいない」の気持ちを持って一所懸命、品質とコストの改善に取り組んだ結果、日本の工業製品が世界の消費者の信頼を得て、圧倒的な市場競争力を持つやうになったのです。

   物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く

 ケニア出身の環境保護活動家で、2004年に環境分野で初めてノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイ女史がその2年後に来日した時に、この「もったいない」といふ言葉を知って感銘を受けました。そして、他の言語で該当するやうな言葉を探しましたが、「もったいない」のやうに自然や物に対する敬意、愛が込められてゐるやうな言葉が見つからなかったため、そのまま『MOTTAINAI』を世界共通の言葉として広めようとしてゐます。

 「もったいない」とは、もともとは仏教用語で、「物体」(もったい)、すなはち「物の本来あるべき姿」がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表してゐる、とされてゐます。もともと日本人には、さうした感性があったのです。

 たとへば今日の工業製品の原材料は、多くは金属や石油・石炭など地中から取り出されます。大自然が何百万年もかけて作り出したそれらの原材料を掘り出しながら、我々の技術が未熟なために、不良品として捨ててしまふのは、世の中に役立つ製品としてその「物の本来のあるべき姿」を実現できなかった、といふことです。それを惜しみ、嘆き、かつ大自然に対して申し訳ないといふ気持ちが「もったいない」なのです。

 生産現場のQCサークル活動などで、不良品を少しでも減らさうと作業者たちが頑張る、その原動力として、「不良品を出すことはもったいない」といふ気持ちがあるのです。そして、かういふ気持ちがあるからこそ、その問題を解決できた際には、「原材料を立派な製品として世の中に送り出せた」といふ達成感を得られるのです。

   「木も人も自然の分身ですがな」

 このやうに不良品を出すことを「もったいない」と感じる日本人の感性には、文化的な伝統が息づいてゐます。代々法隆寺に仕へた宮大工の西岡常一氏はかう語ってゐます。

 

 こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。千年の(樹齢の)木やったら、少なくとも千年(用材として)生きるやうにせな、木に申し訳がたちませんわ。

 木は物やありません。生きものです。人間もまた生きものですな。木も人も自然の分身ですがな。この物いわぬ木とよう話し合って、生命ある建物にかえてやるのが大工の仕事ですわ。木の命と人間の命の合作が本当の建築でっせ。

(『木のいのち木のこころ〈天〉』草思社)

 「木のいのち」を大切にして、その「本来の姿」を実現できなければ「申し訳ない」というのは、まさに「もったいない」に通じます。その根底には、木も人もこの世に生命を与えられた同じ「いのち」である、という自然観があります。

 

 わたしたちはお堂やお宮を建てるとき、「祝詞(のりと)」を天地の神々に申上げます。その中で、「土に生え育った樹々のいのちをいただいて、ここに運んでまいりました。これからは、この樹々たちの新しいいのちが、この建物に芽生え育って、これまで以上に生き続けることを祈りあげます」という意味のことを、神々に申し上げるのが、わたしたちのならわしです。

(『法隆寺を支えた木』NHKブックス)

 木も花も、動物も魚も虫も、そして川や山や岩さえも、自然はすべて「生きとし生けるもの」であり、人間と同様に神様の「分け命」である、と見なすのが、太古からの日本人の自然観です。

   日本の緑被率第二位は現代世界の奇跡

 かうした自然観は過去の遺物ではありません。現代の日本を支へてゐます。日本列島は世界の陸地面積の0.2%しかありませんが、そこに世界の人口の2%が住み、世界のGDP(国民総生産)の14%を生み出してゐます。単位面積当りの人口は世界平均の10倍、そしてGDPは70倍の水準です。そんな狭い国土に稠密な人口と無数の工場を抱えながら、緑被率(森林が国土に占める割合)は67%と、フィンランドの69%に続いて世界第2位なのです。ちなみにフィンランドの人口密度は日本の20分の1、世界平均の2分の1に過ぎません。

 これは現代世界での奇跡とも言ふべき現象で、我々日本人が本当に誇って良いことです。なぜこのやうな奇跡が実現したのか、と言へば、日本人が近代産業を発展させながら、同時に自然を大切にしてきたから、としか説明のしようがありません。

 お隣の中国は緑被率はわづか14%。中国を旅すると、禿げ山に僅かな緑がしがみついてゐるやうな風景を、あちこちで見かけますが、何とも痛々しいといふ気がします。このやうな禿げ山を見れば、日本人なら「自然に申し訳ない」と思ひますが、中国人は違ふやうなのです。自然は人間の必要に応じて好き勝手に利用すれば良い、と考へてゐるやうです。

   世代を超えた文化の継承

 もちろん、日本人でも自然を収奪の対象としか見ない人間もゐるでせうし、中国人でも禿げ山に対して申し訳ないと感ずる人もゐるでせう。しかし、人口密度は日本の5分の2でしかなく、もともと緑豊かな中国大陸だったのに、その緑被率がわづか14%といふ所まで荒廃させてしまったといふ惨状を見れば、これはもう人間側の自然に対する意識の違ひとしか言ひようがありません。

 不思議なのは、日本人は、かういふ自然観を学校で教はったわけでもないのに、なぜ持ってゐるのか、といふことです。

 おそらく、日本人は先祖が築いた緑豊かな国土に生れ、それが当り前の中で育てられて来ました。緑豊かな環境に生れ育った子どもは、自づと自然を尊ぶ姿勢を身につけるでせう。散かり放題の家に育った子は、それを当り前だと思って育ち、さういふ子が親になれば、その家庭は乱雑になり、孫も同じやうに育っていきます。乱雑な環境を何とも思はないといふ感性は、かうして各世代に引き継がれていきます。逆に、美しく整頓された家庭に育った子どもは、それを当然だと感じる感性を身につけます。その感性が、家庭を整へ、それが孫の世代に伝播していく。

 このやうに、美しい自然を尊ぶ感性が、美しい自然を作り、それがまた次世代において、美しい自然を尊ぶ感性を育てていくといふ形で、世代を超えた国土と感性の継承がなされていくのでせう。民族の文化的個性とは、かうして形成されていくものだと考へられます。

   日本人としての「見えない根っこ」

 日本といふ国の最も誇るべき点をひと言で言へば、「世界有数の緑豊かな国土に世界有数の近代産業を築いた国である」となるでせう。そして、それを実現してきた原動力は「和を以て貴しと為す」といふ倫理観、「生きとし生けるもの」を尊ぶといふ自然観を共有する日本人の文化的個性です。

 我々、一人ひとりの人間は表面的には個々の肉体を持った別個の存在のやうに見えますが、実は心の深いところで、日本人としての倫理観や自然観といふ「見えない根っこ」でつながってゐるのです。

 おそらくはさらにその「見えない根っこ」の最深部には、人類として共通する心があるのでせう。どこの国の人でもモーツアルトの音楽に心動かされたりするのは、そのためです。自然の美を愛でる感情も、人類共通のものとして、人間の心の最深部にあるのでせう。

 しかし、そこから美しい国土を大切にする根っこを太く逞しく育ててきた民族と、その根っこが未発達のまま、自然を犠牲にしてきた民族とがあります。

 このやうな形で、人類共通の根っこから、各民族がその歴史を通じて、様々な文化的個性を備へた根っこを育ててゐるのです。

   自分の言葉で日本を語る

 となると、日本の文化的個性とは、我々自身の個人的個性の「見えない根っこ」となってゐます。ですから、「日本を語る」といふ事は、単に外国人に日本はどういふ国であるかを客観的知識として語るといふことに留まらず、「我々日本人はどのやうな文化的個性を持った民族であるのか、何を大切にして生きてゐるのか」といふ、自分自身の「見えない根っこ」を語るといふ事に他なりません。

 しかしながら、外国に行って、外国人に「日本はどういふ国か」と聞かれて答へられない、といふことは、豊かな根っこに育てられながらも、それを自覚してゐないといふことです。戦後の教育の一番の欠陥がここに現れてゐます。

 外国人に対して「日本を語る」ことができないといふことは、自分の子どもにも「日本を語る」ことはできません。美しい国土や細やかな人間関係が、言はず語らずの間に、「生きとし生けるもの」と「和」を尊ぶ心を伝へるでせうが、意識的な教育の方で、それを無視してゐれば、その心はしだいに衰弱していってしまひます。それは日本国民といふ国籍は持ってゐても、日本人としての文化的個性を持ってゐない「根無し」人間にしてしまふといふことです。

〈このまま行つたら「日本」はなくなつて、その代り、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであらう〉とは、三島由紀夫の警告(「果たし得てゐない約束」、サンケイ新聞、昭和45年7月7日付夕刊)でした。

 文化的個性といふ「根っこ」を失った国民が、精神的に充実した幸福な生活を営めるわけもなく、また国際社会においても、その個性に共感してくれる真の友人を持てるはずもないでせう。

 我々の子孫を、さういふ不幸な目に合せたくなかったら、まづ我々自身が自分の中の「見えない根っこ」を見出し、自分の言葉で「日本を語る」必要がある、と思ひます。

   ―初出、国際派日本人養成講座 第501号―、一部改稿

(会社役員、在米国)

ページトップ  

   オフィクレイドとの出会ひ

 民主党政権の頃、極端な円高に乗じて、フランスの楽器店にあった古い金管楽器を購入した。オフィクレイド(Ophicleide)といふ名称の低音金管楽器である。

 オフィクレイドは、19世紀の初めにフランスで発明され、当時のオーケストラや軍楽隊で採用されて、瞬く間にヨーロッパを席巻した楽器であった。ベルリオーズ、メンデルスゾーン、ヴェルディ、ヴァークナー等、ヨーロッパ各国の錚々たる作曲家達が、自身の楽曲に、金管楽器の低音域を担ふ役割として、このオフィクレイドを用ゐた。

 しかし、19世紀の後半になると、新しく開発された金管楽器、テューバがこれに替り、オフィクレイドは全く使はれなくなってしまった。20世紀初めには製造が終了し、オフィクレイドを意図して作られた数々の名曲は、響きのかなり異なるテューバで演奏されるのが普通となった。

 このオフィクレイドに出会ったことによって、私にこのやうな運命が待ち受けてゐるとは、この時は知る由もなかった。

   悪しきグローバリズム

 オーケストラの楽譜を見ると、実に沢山の楽器が指定されてゐる。作曲家はそれら個々の楽器の響きや特性を活かして、楽曲を生み出す。無論、それらを駆使する以前には、それぞれの楽器に対しての深い研究がなされる。その上で、それらの楽器の鳴り易い音ばかりではなく、時にはわざと鳴り難(にく)い音をも指定して、その鳴り難い音によって醸し出される独特の雰囲気すらも楽曲で活用してきたのである。

 19世紀の後半には、それまでよりも演奏が容易で、どんな音も豊かに響く楽器が次々に開発され、20世紀も半ばになると、それまでの扱ひ難く鳴り難い音のある楽器は、すっかり淘汰されてしまった。オーケストラの楽器編成もほぼ一定になり、過去の曲をより心地よい響きで演奏することが優先され、時代性や地域性は二の次にされてしまった。結果、どの国の楽団が演奏しても、同じやうな響きに聞えてしまふといふ、悪しきグローバリズムに陥ってしまったのである。

   クラシック音楽の古典回帰

 ところが面白いもので、時代には反動がある。20世紀の終り頃から、まづは楽曲の地域性への関心が高まったのである。ドイツ系の楽曲を演奏するのであればドイツ系の楽器を使ひ、フランス系の楽曲を演奏するのであればフランス系の楽器を使ふといったやうに、作曲者が想定したであらう各国の楽器独特の響きを、指揮者や奏者が求め始めた。

 さらに21世紀になると、時代性へと関心が高まった。元々「古楽」と呼ばれる分野では、作曲当時の楽器や奏法がよく研究され、実演されてきたのだが、かういふものに対して一般のオーケストラの指揮者や奏者達も関心を持ち始めたのである。

 例へば、ヨーロッパで「最も醜い鳴き声」と言はれるロバの鳴き声を思ひ起させる主題に、作曲者が当時の楽器の鳴り難い音をわざわざあてがってゐたことがある。もしそれを現代の楽器の美しい音色で演奏してしまったなら、誰もそれが醜いロバの鳴き声を表してゐるとは思はないであらう。そして演奏者自身も、まさかそこでロバが歯を剥いてゐるなどとは思ひもしないだらう。古への鳴り難い楽器には、古への鳴り難い楽器だからこそできる表現があり、作曲者もそれを求めて、数々の名曲を世に放ってゐたのである。

 かうした発想が指揮者や奏者の心に生れ、古への人の心に立って名曲を見直さうとする動きが出てきてゐる。これは素晴しいことだと思ふ。さうしてこそ、作曲者とその作品の類(たぐひ)稀なる素晴らしさも、より深く感得出来るものと思ふのである。

 このやうな動きは、面白いことにフランスから始まったやうだ。パリの金管楽器工房で親方をしてゐた友人に言はせると、意外なことにフランスは自国の歴史文化をあまり大事にせずにきた国らしく、やっと10年ほど前から、伝統工芸産業を内外共にアピールしていく動きが政府や行政から出てきたのだと言ふ。確かに丁度その頃から、楽器に関しても温故知新的なものが開発され始めたし、音楽学校を出たての若い奏者達が、現代の楽器と共に古への楽器も演奏し始めたやうに思ふ。オフィクレイドもその一つだった。

   肝心の楽器が造られてゐない

 しかし、若い奏者が古への楽器を修得しようとしても、肝心の楽器が最早造られてゐないケースが多い。オフィクレイドもさうで、彼らは100年以上前の古びた楽器を探し出して、それを丁寧に修復させて使ってゐる。

 ヴァイオリンなどの弦楽器とは違ひ、金管楽器は古くなればなる程金属が劣化し、段々と腰の抜けた響きになってしまふ。一般に金管楽器が楽器として使へるのは30年程度だと言はれてをり、100年、150年前の楽器はもはや楽器としての寿命を終へたものと見做されるのだ。

   オフィクレイドの復刻

 さて、オフィクレイドを購入したことを、私は自身のブログに掲載してゐた。やがてそれをインターネットの検索で見つけたと言ふ指揮者達から、演奏依頼が立て続けに飛び込んだ。曲はいづれもメンデルスゾーンの作品で、有名な『夏の夜の夢』序曲と、演奏時間が二時間を越える聖譚曲『エリヤ』であった。アマテュアの吹奏楽団でしか演奏経験のない私が、期せずしてクラシックの大曲とこの古い楽器とに取組むことになった。

 特に『エリヤ』では、他の金管楽器も全て作曲当時に使はれたタイプが用ゐられ、鮮明で強烈な個性を持った古へ楽器の響きが、現代の楽器のある意味上品に奏でられる響きよりも、一層楽曲の内容を引き立たせるものであることを実感した。

 とは言へ、流石に150年も前の楽器となればあちこちにガタが来てをり、本来よく響いてゐたであらうと思はれる音までもが、思ふやうに響かない。現代にこの楽器を演奏する困難を感じつつ、もし現代の技術で、この楽器が造られた当時のままに復刻できたとしたら、もっと色々な可能性が見出せるのではないか、それはこれからこの楽器をやってみようといふ者にとってよいばかりではなく、この楽器の為に作られた素晴しい音楽を今の世に再現する手立てとなり、そしてその作曲家の素晴らしさが再認識されるのではないか、などと漠然と思ったのだった。

 その機会が巡ってきたのは、同じ年の冬、取引先の中国は天津の楽器工場を訪問した際だった。丁寧に楽器が造られてゐる様子を眺めながら、突如として、ここでならオフィクレイドを造れるのではないかと思ひついた。

 古(いにし)への中国人は手先が器用で、根気よく大それたものを作り上げる民族だった筈だが、現在は政治体制のお陰で、粗悪な無断コピー品を垂れ流す企業だらけになってしまった。しかし、さうした中でも、この工場は最も質の良い楽器を造り、製造が難しい楽器でも意欲的に取り組んでゐる。このやうな、少しでもよい物を作り上げて、他社と差別化を図らうといふ野心に燃えてゐる企業に出会へたことは、私にとって大変の収穫であった。全ての条件が合致したと直感し、オフィクレイドを復刻し、世界中に販売したいと、夢中で説得にかかった。

   百年の時を隔てて…

 果して、私の所有する楽器を元に、平成26年の初夏、この21世紀に百年の時を隔ててオフィクレイドが蘇った。完成したとの報せを受けて、天津に駆けつけるまでの数週間、私は興奮して毎日寝られなかった。そして工場に到着し、高鳴る胸の鼓動を抑へながら、その新しいオフィクレイドを手に取った。

 最初の音が工場に豊かに響き渡ったと同時に、全身に、ああこれなのだ、といふ感動が押し寄せた。工場の技術者達は、おおと声を出して、頷き合ってゐた。彼らはこの楽器本来の響きを知らないし、奏法も知らなかった。私は敢てそれを伝へなかったのだ。彼らは元の楽器の造りを丹念に調べ、未知なるものへの想像力を働かせてこの楽器を造り上げた。先人の知恵、現代の知恵が、百年の時と国を越え、かうして一つの楽器を蘇らせたことを思ふと、一生のうちで何度関ることが出来るかわからない、大きな仕事を一つ果したやうに思へた。100年もの間途絶えてゐたオフィクレイドを造り出す技術は、再びこの世に蘇った。このまま飛行機が落ちて私が死なうとも、構ひはしない、帰国の機上そんなことを思ってゐた。

   時を同じく英仏でも

 面白いことに、時を同じくして、イギリスの楽器販売会社も、中国の工場にオフィクレイドを造らせてゐた。そして、ご当地フランスでも、老舗ブランドの技術者が、現代向けに改良したオフィクレイドを単身で造り上げた。つまり、100年ぶりに、期せずして同時に三つの国でオフィクレイドが蘇ったことになる。何といふ不可思議か。

(楽器店プロジェクト・ユーフォニアム代表)

 

編集後記

 先頃の法人改革で、ある農山漁村振興団体は農水省から〈新嘗祭〉の語を使ってはいけない言はれ「公益法人」化を取りやめたといふ(チャンネル桜の葛城奈海キャスター、12/8産経)。収穫を神々に供進し感謝する太古からの祭の語句が禁じられるとは、まさに伝統破壊を目論む「戦後体制」で、占領憲法から来る縛りは堅在だ。

 新年をわが国の本然の姿に向ふ確かな一歩としたいものである。御叱正ください。

 平成29年元旦 山内 健生

ページトップ