国民同胞巻頭言

第662号

執筆者 題名
野間口 俊行 世界の潮流は「国への回帰」である
- 〝国家は国民が魂を失った時に滅ぶ〟 -
  追悼 寳邉正久先生
- 「これからも先輩方のお志を繋ぐ努力を続けて参ります」 -
小柳 左門 寶邉正久先生の思ひ出とご生涯
布瀬 雅義 あなたは自分の言葉で日本を語れますか?(2)
(続)海外で暮らすには、心の中で自分を支へてくれる母国が必要だ
寺子屋石塾主宰 岩越 豊雄 「『論語』のひびき」
人としての規範

   万世特攻平和祈念館を訪ふ

 先日、帰省した弟と「万世特攻平和祈念館」を訪ねた。今年2回目の参観である。万世特攻基地は陸軍最後の特攻基地であり、第62振武隊ほか13隊、121人の若人が沖縄に集結した敵艦船に対し特攻攻撃を敢行し、散華された。場所は鹿児島県南さつま市(旧加世田市)の東シナ海に面した松林の中にある。

 一階には「子犬を抱いて微笑む五人の少年飛行兵」の大きな写真が飾ってある。彼らは陸軍少年飛行兵第15期で第72振武隊の17歳から18歳の少年達で、初陣が特攻攻撃であった。その幼い顔を見てゐると、自分はこれらの人々に生かされてゐると実感するのである。

   民進党党首の二重国籍問題

 リオ・オリンピックで卓球の試合をテレビ観戦してゐたら、中国人選手がいろんな国から出場してゐた。帰化した中国人であった。かうしたメダル至上主義には感心しないが、同じ頃、民進党の代表選で蓮舫氏の二重国籍疑惑問題が起った。後日、同氏は二重国籍であったことを認めたが嘘を言ってゐた。それ以上に問題なのは「(日本政府発行の色の)赤いパスポートになるのが寂しかった」、「在日の中国国籍の者としてアジアからの視点にこだはりたい」等々の過去の発言である。これらから見て、彼女のアイデンティティは中華人民共和国にあると推察される。政治の世界ではあり得ないことだ。

 しかしながら、公党党首の二重国籍を問題視するメディアは少なく、それどころか二重国籍への批判には、「排外主義、民族差別意識がある」などと論じる大新聞の編集委員までゐる。これも全く珍妙なことだ。

   アメリカ合衆国大統領選挙とイギリスのEU離脱

 11月8日のアメリカ大統領選挙では多くの世論調査の予想に反し、ドナルド・トランプが第45代大統領に選出された。「アメリカ第一主義」の主張が有権者の心に届いた結果であった。六月のイギリスでのEU離脱の是非を問ふ国民投票では僅差ながら離脱派が多数を占めた。

 エマニュエル・トッド(フランスの歴史人口学者・家族人類学者)は、「アメリカのトランプ現象とイギリスのEU脱退は、ネオリベラリズム(新自由主義)、グローバリズムからの転換の予兆である。ネーションへの回帰である」と評した。彼の『問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論』(文春新書)等々の著書から、 その主張を要約すると次のやうにならう。

〈イギリスの場合は、イギリス議会の主権回復である。EU本部のあるブリュッセルのEU官僚の画一的な政策はEU諸国間の差異を消すことにある。移民政策は、政治哲学的には抽象的な個人としては称揚されるが、その文化的特殊性において存在する人間たちを否定して等価のものとしか扱はない。現実には移民政策はネオリベラリズムを断ち切る根本的な要素として立ち現はれてゐる。米国人も英国人も移民自体を悪いことではないが、過剰と感じ始めてゐる。ヨーロッパは、国家(ネーション)を主体とした〝諸国民のヨーロッパ〟像を建設していくべきである。世界は大きな歴史的転換期を迎へてゐる〉

 彼の言ふ通り、世界的な潮流は「国への回帰」なのである。

   国民が魂を失った時に国家は滅ぶ

 トランプ大統領の誕生により、在日米軍駐留経費等の負担額増に加へ、一説では、在沖縄米軍約2万人のうち、1万人を削減する方針とのことである。かねて尖閣諸島領海への侵犯を繰り返す中華人民共和国はさらに沖縄県全域までも狙ひ出してゐる。

 このやうな事態に対し、憲法九条の改正なしには対応できないのは明らかである。11月16日、参院で9ヶ月ぶりに、翌日には衆院で1年5ヶ月ぶりに、憲法審査会が実質的議論を再開した。しかし、与党第一党の自民党は党の方針とは異なり「他党とのイデオロギー対立を避けるために九条改正を当面は課題としない」(産経新聞)といふ。こんなことで「国の守り」は大丈夫なのか。

 かつてドイツ帝国を樹立したビスマルクは「国家は敗戦によっては滅びない。国民が魂を失った時に滅ぶ」と言ってゐる。まさに至言である。

(元鹿児島県信用保証協会監事)

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 元本会副会長 寳邉正久先生には、平成28年8月31日逝去。享年数へ年95歳。御葬儀(告別式)は9月2日の通夜に続き3日午後、下関市内でしめやかに営まれた。

 先生は大正11年1月11日、下関市南部町にお生れになり、山口県立豊浦中学校から山口高等学校文科乙類(第一外国語ドイツ語)を経て、東京帝国大学文学部倫理学科を昭和19年に卒業された。先生が学生生活を送られた昭和10年代半ばは、支那事変が収束を見ないまま戦線が対米英戦争に拡大するといふ激動の時代であった。論壇では講和(終戦)の目途なきまま長期戦論や永久戦争論が唱へられ、戦時経済新体制の名の下に計画経済(「社会主義」導入)論が官僚や軍部の一部に浸透してゐた時代でもあった。

 その一方で、国柄から乖離した西洋偏重の学問が大学で幅を利かせてをり、かうした思想傾向の問題点を指摘し、学風改革を目指す活動を全国的に展開したのが、大学を出たばかりの田所廣泰・小田村寅二郎両先生を中心とする日本学生協会(国民文化研究会の前身)であった。当時の大学教授陣の「国柄軽視」を端的に示すものは、帝国憲法の第1条から第4条までを記載しない東京帝国大学での「憲法学」の講義テキスト(昭和12年度)である(小田村先生の御著『昭和史に刻むわれらが道統』参照)が、寳邉先生は「日本本来の伝統に根ざした学問の興隆」を目指さうとする日本学生協会の活動に共鳴され、大学・高校・専門学校の学生らが各地から集った昭和16年7月の比叡山合宿(滋賀県、延暦寺宿坊)、翌17年8月の西敎寺合宿(滋賀県、西敎寺宿坊)に参加されてゐる。昭和16年の比叡山合宿は7泊8日のの日程で120名が集ってゐた。

 また学生時代は、三井甲之先生、黒上正一郞先生の御著書から明治天皇御製や聖徳太子の御思想などを学ばれるとともに、松吉正資(まさし)氏(昭和20年5月戦死)、寺尾博之氏(同年8月終戦後自決)らとの友情を育まれた。先生ご自身も昭和18年12月、学徒動員に応召され海軍に入営されてゐる。

 復員後は家業に勤しまれる一方で、占領政策によってさらに歪められた祖国日本の「真の復興」を願はれ、占領統治が終った翌昭和28年8月には、熊本県八代市の春光寺に、瀬上安正先生、小柳陽太郎先生、川井修治先生、地元の加藤敏治先生らと集ってをられる。本会の、即ち国民文化研究会(国文研)の第1回「全国学生青年合宿教室」(合宿教室)が開かれるのは春光寺合宿から三年後の昭和31年の夏であった。

 以来、夏ごとの合宿教室には晩年の数回を除き参加され、さらに長年にわたり常務理事、次いで副理事長として国文研の運営にとって枢要な役割を担はれた。同時に、多忙な会社経営の傍ら本会の機関紙『国民同胞』の月毎の編集に昭和36年11月の創刊号から平成11年8月号の455号まで、足掛け39年の長きに携はれたことは特筆されるべきことであった。

 また先生は若い合宿教室運営委員の要請を諒とされ何度も壇上に立たれたが、平成18年8月、第1回合宿教室の開催地・霧島で実施された第51回合宿教室での御講話「学問と友情―昭和の御代を顧みて―」(『日本への回帰』第42集所載)が最後となった。

 先生は不二歌道会の会員でもあって数多の歌を詠まれてゐる。先生の歌集『この道』は国文研の後輩会員の強い慫慂によって、やうやく平成24年3月に発行されたものだが、師友への篤き思ひを詠んだものが多く、合宿教室での御講話にも通じるものがある。

弔 辞
  公益社団法人国民文化研究会  理事長 今林 賢郁
  平成28年9月3日

 学生時代から久しい間、寶邉さん、寶邉さんとお呼びしお慕ひしながら、変らぬお導きを戴いた者として、また国民文化研究会に連なる同人一同に替はり、遂に帰らぬ人となられた寶邉さんに謹しんで最後のご挨拶を申し上げます。

 寶邉さんは大正11年、山口県下関市にお生れになり、官立山口高等学校を昭和17年にご卒業、東京帝国大学文学部に進まれましたが、昭和18年12月、学徒動員で東大在学中に応召、海軍に入られ、特殊潜航艇「蛟竜」の艇長として出撃を待つ中、敗戦を迎へ復員、昭和19年東大卒業後下関に戻られ、戦後はお父上の石炭関連の家業を引き継ぎ会社経営に心血を注がれました。

 昭和31年、敗戦後の国内の思想的混乱を是正するために設立された国民文化研究会には当初から参加され、当会の月刊機関誌『国民同胞』が昭和36年に発刊されて以来、約40年の長きに亘って編集長を務められる一方で、昭和49年から平成14年まで当会の副理事長として私共の指導に当られました。

 昭和15年に発足した、全国規模の学生運動組織であった日本学生協会は、国内の大学、高校、専門学校の学生たちによる日本の真の学問のあり方を求めて展開された学生運動でしたが、ここに集ふ学生たちは聖徳太子のご思想を学び、明治天皇の御製を仰ぎながら、まことに密度の濃い友情を育みました。

 縁あってこの運動に参加された寶邊さんもまた、心から信じ合ふ、かけがへのない友との交流を深められましたが、その友の多くは戦陣に散りまた病ひに斃れました。しかし若き日に培はれたこの友だちとの深い、消えることのない友情が、迷ふことの多かった戦後の思想的、生活上の苦難の日々に蘇り、いつも自分を支へてくれた、と友の面影を辿りながら語られるのを私共は心にしみる思ひでお聞きしたものでした。

 寶邉さんは多くの和歌を詠まれましたが、平成24年に発行されたご自身の歌集『この道』の「あとがき」に次のやうに記してをられます。

   いま私の半生の歌を読み返してみると、友に返す歌が何と多いことか。友との交流、友の恩。我が人生、「この道」はすべてそこからもらってゐる、と。

寶邉さんはこの友のことについて私たちによく語られましたね。

   山口高校で一年後輩であった松吉正資さん、東大で学園正常化に果敢に取り組まれた吉田房雄さん、結核で亡くなられた江頭俊一さん、終戦後福岡市郊外の油山で自決された寺尾博之さんなど、祖国防護のためにいのちをささげた友人たちを決して忘れてはならない、先の大戦に青春時代を過した自分たちはどのやうに戦ひ、生きてきたのかを若い諸君たちに語り続けなければならない。

 このやうな思ひを強く心に秘めながら戦後を生き抜かれたご生涯でした。低く重みのあるお声で、ゆっくりとした口調で語られる様は、いかにも益荒男と呼ぶにふさはしく、在りし日のみ姿が想ひ出されてなりません。二年程前、下関をお尋ねしてお話を伺ったのが最後となりました。

 寶邉さん、力不足の私共ではありますが、これからも先輩方のお志を繋ぐ努力を続けて参ります。何卒お見守り、お導き下さいませ。

     寶邉正久先輩のことを
          澤部 壽孫

 父親の如く敬ひ兄の如く慕って、長年にわたり「寶邉さん」とお呼びし、親しくご厚誼を頂いた寶邉正久先輩がお亡くなりになってはや3ヶ月になる。お導きを受けた多くの後輩の一人として、寶邉さんの御一生の一端でも述べ得たら幸ひである。

 昭和38年の冬、御自宅に寶邉さんを訪ねて53年が経った。

 寶邉さんが旧制山口高等学校に入学された時は、折しも支那事変は対米英戦争に拡大して重大な時であった。縁を得て日本学生協会(田所廣泰、小田村寅二郎所先輩達)の指導の下に、三井甲之、黒上正一郎両先生の著書に導かれつつ、古典に触れ萬葉集に接することにより日本の国柄を学ばれた。山口の同じ下宿で高校の同級生の松吉正資さんあるいは山口高商の加藤敏治、一條浩通さん達と過された一年半の同信生活は寶邉さんの一生の生き方を決める忘れられないものとなる。

 昭和18年12月、東京帝国大学に在学中に応召、海軍に入られる。その同じ海兵団に松吉正資さん(のちに航空隊に入って特攻戦死)と寺尾博之さん(終戦直後、九州油山で自刃)がをられた。顧みれば明治の時代に流入し、大正、昭和の御代にはびこった西洋の誤れる思想と戦ひ、先のみ戦(大東亜戦争)に、聖徳太子の御教へを栞に明治天皇御製集を携へて友らと臨まれたのである。

 寶邉さんは、「蛟竜」艇長として出撃を待ちつつも敗戦となり復員して帰郷され、父君を扶けて家業である石炭鉱業の挽回に奔走された。戦後はみ戦にいのちを捧げられた友らを偲び、世代の断絶をのりこえるために昭和31年に発足した国民文化研究会(国文研)を支へる大きな柱のお一人としてその設立に関られた。同36年11月、同会の月刊機関紙『国民同胞』創刊以来平成11年8月号まで38年にわたって編集発行に当られた。自虐史観と共産主義思想が横行して混迷する時代の中で、私たち後輩にいつも指標を与へて下さった。一人が一人に立ち向ってゆく、マンツーマン運動こそが国文研であること、明治天皇御製集と聖徳太子のみ教へを学び「心を鍛へよ」とのご指導は、私共が心を協せて営んできた合宿教室の柱となって生きてゐる。

 先輩はまた敷島の道にいそしまれ、折に触れて調べも高くお心のこもったお歌をお詠みになり、読む私たちの心を豊かにしてくれた。男らしい太いお声と温かいお言葉を忘れることは出来ない。学生時代に朗詠された『万葉集』のお歌や聖徳太子のお歌を合宿教室の壇上で朗詠されたお姿は私の胸に深く刻まれてゐる。戦後20年以上を経たある日、寶邉さんが靖国神社に参拝されたときに境内の御手水場に奇しくも松吉正資さんの辞世のお歌「ゆく身にはひとしほしむるふるさとの人のなさけのあたたかきかな」が掲げられてあるのに驚かれたといふお話を聞き、その折に寶邉さんがお詠みになったお歌を感激して読んだ記憶があるのだが、そのお歌が見つからないのは誠に残念である。

 国文研同人の「歌だより交信」である『澤部通信』や『短歌通信』(折田豊生氏編集)あるいは不二歌道会の『不二』誌に折あるごとに多くのお歌を寄せられ、おいのちの尽る間際まで歌を詠み続けられた。

 寶邉さんにはお歌集『この道』(平成24年刊)がある。夜久正雄先生の三回忌(平成22年3月)に寶邉さんが上京された折に、寶邉さんの歌集を遺したいので編集させてほしいとお願ひしたところ、生前に歌集を遺されたのは夜久正雄先生と山田輝彦先生のお二人ゆゑ自分はふさはしくないと固辞された。諦めきれずに日を改めて、翌平成23年8月、江田島合宿の帰途、国武忠彦さん、磯貝保博さんと同道して下関市長府川端の御自宅に伺って、お願ひしてやうやくお許しを得たことが思ひ出される。山田輝彦先生が「ますらをの歌」と評された寶邉さんのお歌の大多数は「友への歌」である。お歌集『この道』にも何と友へのお歌が多いことか。

 寶邉さんからは、商社マンとして忙しい日々の折々に詠んだ私の拙い歌にもかへしのお歌を頂いた。どれほど大きな力を与へられたことか計り知れないものがある。『短歌通信』に寄せられた昨年10月末の寶邉さんの最後のお歌、さらに『澤部通信』に折々に賜ったお歌を紹介させて頂く。

   〇松吉正資兄の故郷大島(山口県)
       墓参  (昭和50年)

  光り輝く銀波ゆたかにめぐらして大島は立つ瀬戸のもなかに
浦々をめぐりてゆけば碧き海を透して底の白き目にしむ
みかん山のだんだん畑をたづねゆき友が家訪ひし三十年前に
みかん畑の高きにありし友が家はいづくぞ春の空はれわたる
海の辺のしづけき寺のみ墓辺にまゐり来りぬ妻子と共に
亡き友に向ひて誦しまつりけり共にいただきし大御歌五首
身をくだきみ国守りしなき友がひた祈りたる忘れざりけり
年月の願ひ果してみ墓辺に香奉るわが妻も子も

   〇青砥宏一兄のご命日に(昭和62年1月28日)

  青砥ゆきてめぐる一年(ひととせ)くすしくも東の方に「通信」おこる
わがそばに青玉色の『青砥集』(『青砥通信鈔』)おきて読みゆく「澤部通信」
青砥君が鉄筆もちて友どちに歌ひかけたる心継ぐとや
をごころをふるひおこしてなしにける君がゑがほのなんぞなつかしき

   〇澤部君のコロンビアへの出張の際の歌をよみて(昭和62年)

  くれなゐにかがやく空と海越えて君ゆきかへるつとめ果すべく
道の辺の紫の花目にとめてボゴタの町をゆくがしのばゆ
大君のみやまひ聞きて外国よりひたすら祈る友の憂ひよ
よろこびもまた悲しみも湧き起るままに歌ひし歌すがすがし

   〇澤部通信・六十五号の歌をよみて(平成5年)

  長き旅終へて帰れば妻の髪白きがまじるといひし友はも
六年へて帰れば子らは背丈みな我より高しと友はいふなり
妻子らをおきて海の外ゆききせし君ややうやくいま家に帰る
妻子らと共に暮らせば大空に雲ゆく秋も身には沁むらむ
君の歌に君のゑまひを偲びをりつはぶきの花にほふ夕に

   〇澤部通信に寄す(平成9年)

  青砥通信つぎてうたぶみ百回をいま重ねこし澤部通信
青砥君ゆきていよいよあらはれし道をしい行く君のゑまひよ
わが大君ののらしましける神州不滅をうたがはずわれらうたよみゆかむ
花みづきの花咲きけりと記さばや澤部通信の祝ひに添へて
出雲の友は出雲を歌ひ北に南に歌ひかはせし日は滅びざれ
若きらと心合せて歌の道ゆくとふ澤部通信うれしも

   〇短歌通信へ寄せられし最後のお歌(平成27年10月28日)

  むつの奥の海遠くより白波の寄り来る如くきたれや友よ
わが庭の竹の葉末の北の空ただ青々と澄みわたり見ゆ
ひとりしてテレビ見るときわが老いをはげしく悟る時もありけり
わが友ら死につつ老いつつわれもまたみくにを恋ひて死なむとぞ思ふ

(元日商岩井(株) 本会副理事長)

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 寶邉正久先生の印象を一言で言ふならば、やはり「益荒男」がもっとも相応しいと思ふ。先生は寡黙であったが、その中に侵しがたい威厳があり、姿勢を正してぢっと見つめられるその眼差しは、心に深く透徹するやうであった。しかし語り始められると、その一言一言が胸に泌み入るやうであり、朗々と響くお声によって発される言葉は時に我々の肺腑を突いた。先生は知識を振りかざしたり、いたづらに言挙げすることがお嫌ひであった。あるがままの素直な心、素直な言葉を大切にされ、心魂に徹したもののみが先生にとってかけがへのないものであったと思ふ。

 先生とともに過ごした時間は少なかったが、お会ひすると実に優しい眼差しで声をかけて下さった。一見怖さうに見えるだけ、その優しさに心も和らぐのであった。とくにお酒が入ると、いろんな話をして下さる。興に乗ればやがて歌が出る。民謡や唱歌がお好きだった。とくに昔の友人とともに歌はれたといふ越後民謡「十日町小唄」などは、しみじみと胸にしみわたるやうであった。

       ◇

 先生を知ったのは、もちろん私の父小柳陽太郎を通じてである。父の昔のアルバムのなかに水兵姿の凛々しい男性が写ってゐた。帽子には日本海軍云々と読める字が記してあり、幼心に恰好いい人だなと感じた。それが海軍に出征された寶邉先生の若き日の姿であった。

 昭和17年、父が旧制佐賀高等学校の学生だった頃、同信会といふ日本の学術伝統を学ぶ会合に顔を出してゐた。ある時東京から先輩が来るからと誘はれて、友人の下宿を訪ねたところ、その先輩の語る言葉に衝撃を受けた。家に帰ってきた父は興奮してゐたと、その頃父の家に下宿してゐた母(まだ女学生であった)が語ったことがある。その先輩こそ、寶邉正久といふ東京帝国大学の学生であった。これが機縁となって父は同信会に入会して友人たちとの生涯の繋がりが生れた。先生との出会ひがなかったならば、父の生涯も、そして私の今も違ってゐたに違ひない。

       ◇

 寶邉先生は、大正22年1月11日、一の並ぶ日に山口県下関市南部町でお生れになった。長じて官立山口高等学校に進まれたが、折しも大東亜戦争前夜の重大な時局にあった。この当時、日本学生協会といふ学生組織によって、聖徳太子の思想を学び、明治天皇御製を仰ぎながら、日本の真の学問のあり方を求めてゆく運動が全国の大学、高校、専門学校で展開されてゐた。縁あってこの運動に参加された寶邊先生は、山口の同宿にあってかけがへのない信友を得られ、濃い友情を育まれた。

 この頃、先生にとって忘れがたい思ひ出がある。ある日、第八高等学校教授を辞められたばかりの房内幸成氏が下宿を訪ねてこられた。その折寛いで語りながら、氏は万葉集の東歌「多摩川にさらす手作りさらさらになんぞこの児のここだかなしき」を朗誦され、「万葉集はいいねえ」としみじみと言はれたといふ。そのお声に深く感動し、万葉集、そして日本の伝統のまことの素晴らしさを実感された先生は、これを機縁に短歌創作への道を求め、友との交流を深めていかれたのであった。

 その後東京帝国大学文学部に進まれたが、昭和18年2月、学徒出陣により応召して海軍に入られた。海軍では奇しくも同じ大竹海兵団に、日本学生協会以来の親友で山口高校後輩であり同じ東京帝大法学部の松吉正資さん、高知高校出身で東京帝大農学部の寺尾博之さんがをられた。しかしこのお二人をはじめ、多くの学友が戦陣に散り、若き命を絶った。先生ご自身は蛟竜艇長として出撃を待ちながら敗戦を迎へられたが、どれほど悔しい思ひをされたことか。

 松吉正資さんは山口県大島郡の出身。出征を前に瀬戸内海の故郷に帰られた折、「ゆく身にはひとしほしむるふるさとの人のなさけのあたたかきかな」、「うつそみはよしくだくともはらからのなさけ忘れじ常世ゆくまで」と詠じて故郷と別れ、昭和20年5月、沖縄に向け特攻飛行中に海上にて爆死された。寶邉先生は松吉さんの思ひ出を幾たびも詠まれたが、先生90歳の折、松吉さんが出発された鹿児島県の海軍航空基地跡に立たれ、左のやうに詠まれた。

   六十あまり六年むかしの春未明君は発ちけりこの海の辺を
   一念をこめて発ちけむ出撃の爆音消えし空はるかなり
   うつそみはよし砕くとも忘れじと歌遺しけりますらをわがせ

 「わがせ」は我が兄弟の意。兄弟のやうに慕った友の最期を偲ばれた哀しみあふれるお歌である。

       ◇

 寺尾博之さんは寶邉先生と同学年で、終戦直後の昭和20年8月20日早朝、福岡市郊外の油山中腹で東方に向って自刃。敗戦の責任を強く自覚されたのであった。その地には有志の方々により石碑が建立されてゐるが、寶邉先生らによって昭和20年代から始められた慰霊祭は毎年続けられて今日に至ってゐる。寺尾さんは「倒れたる友を嘆かずいつの日か吾もたどりゆく道と思へば」の絶唱を遺された。先生は晩年に至るまで慰霊祭に参列、献詠をされた。

   油山この草の上にますらをがいのちささげし時ぞしのばる
   やさしくもたけきみたまよとこわかとしのびまつらむ年はふれども
   すめくにの行く手をただに祈らむといのち断たせしそのかみかなし
   わが友の石ぶみの辺の若桜花咲く春はまた参り来む
   老いて病むうつし身われのまなかひにありし日のごと浮かぶおもかげ

 慰霊祭のあとは近くの正覚寺で直会を行ふのが常で、その度に先生は友を偲びつつ心をこめて語られた。先生が最後に参加されたのは平成24年であったと思ふが、この時先生は昭和27年の昭和天皇御製「国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに」を朗誦されながら、はらはらと涙を流された。亡き寺尾さんをはじめ友人を慕ひ、天皇の大御心に生かされることの喜びを若人に語られたのであった。

       ◇

 敗戦後故郷に復員した先生は、兄君の病死後ひとり奮闘する父君を助けて石炭鉱業の家業挽回に奮闘された。だが、敗戦によって祖国の文化伝統が断絶されんとする時勢を憂慮し、同志とともに国民文化研究会を創立されたのは昭和31年であった。先生は副理事長として指導される一方で、昭和36年創刊の月刊機関紙『国民同胞』の編集長として家業の傍ら編集発行に邁進され、それは平成11年の454号に及んだ。下関の地にあって、毎月の執筆依頼から推敲に至る作業は大変なご苦労であったに違ひない。先生の献身的な努力により『国民同胞』は多くの読者の信頼を得、国文研の発展に大きく貢献した。そこには心知る友人らの大きな支へがあった。

 ここに、寶邉先生のご葬儀で今林賢郁理事長が献げた弔辞の一節を引用させていただきたい。

 「寶邉さんは心から信じ合ふ、かけがへのない友との交流を深められましたが、その友の多くは戦陣に散りまた病ひに斃れました。しかし若き日に培はれたこの友だちとの深い、消えることのない友情が、迷ふことの多かった戦後の思想的、生活上の苦難の日々に蘇り、いつも自分を支へてくれたと、友の面影を辿りながら語られるのを私共は心にしみる思ひでお聞きしたものでした。平成24年に発行されたご自身の歌集『この道』のあとがきに次のやうに記してをられます。〈いま私の半生の歌を読み返してみると、友に返す歌が何と多いことか。友との交流、友の恩。我が人生、「この道」はすべてそこからもらってゐる〉と」

       ◇

 先生は膨大な数の短歌を詠まれ、それらは歌集『この道』に結実したが、その紹介文を『国民同胞』第608号に私が執筆させていただいた。その執筆のため、平成24年の春、私は長男を連れてお宅を訪ねた。

 先生は後半生を下関市長府の功山寺のすぐ前の邸宅に住んでをられた。功山寺は長府毛利家の菩提寺で、幕末の志士高杉晋作が義挙を起した寺である。楓の新緑が目に染むように清々しく、つつじの紅の花が美しい時節であった。奥様からお抹茶を立てていただき、続いてアサヒビールを飲みながら先生はご自分の来し方をゆっくりと語られた。自分が本当にものを感じて自得し、心から知るやうになるについては、人生の中で大きなきっかけといふものがあったと思ふ、と次の話をされた。

 自分には五人兄弟があったが、中学生のころ一番上の姉が小さい子供を残して、あっといふ間に感染症で亡くなってしまった。その時父がふすまを締め切った部屋で泣いてゐたのに実に驚いた。その嘆きをみて、私も一緒に泣きました。幾晩も泣き続ける父に、真実の姿を見た、父の心をはじめて知ったと思った。それが人生を生きるといふ事だと初めて教へてもらったのだよ、と。

 また先生は長兄も亡くされた。お兄様は陸軍に召集され、夜の関門海峡を越えて満州に出征されたが、故郷を通過する輸送船の機関の響きに交じって、先生の胸の内に「道は六百八十里、長門の浦を船出して」と父から習った軍歌の響きが鳴りやまなかった。寝ても覚めても思ひ続けると一つのことが身に沁みて感じられる、といふ経験であったと。

 友人のこと、歌のこと、さまざまな懐かしいお話を聞くといふ稀有な時を過させていただいた。帰り際にしっかりと手を握り、門の傍らで手を振って見送っていただいた先生のお姿は今も目にやきついてゐる。

       ◇

 先生は晩酌を欠かされることはなかったといふ。飲みつつ先生は歌を歌はれたが、それはいつも「広瀬中佐」であり、ほぼ一合の酒を飲み終るころには三番までを歌ひ終られたさうである。雄々しく悲しき人生そのままに生き抜かれた先生であった。

 平成28年8月31日、寶邉正久先生は94歳でその生涯を終へられた。前年の10月に最後に詠まれたのは次のお歌であった。

 わが友ら死につつ老いつつわれもまたみくにを恋ひて死なむとぞ思ふ

平成28年11月34日謹書(原土井病院院長)

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   昭和天皇の御巡幸 ―私の秘かなお国自慢―

 海外に行って、他国の人々と語り合った日本人は誰でも経験することですが、やはり交流は「どこから来たの?」の会話で始まります。次いで「日本ってどんな国なの?」と聞かれます。その時、多くの日本人は、はたと「自分は日本について、よく知らない」といふことに気がつきます。そして、海外で暮らすには、心の中で自分を支へてくれる母国が必要だと書きました。

 幸ひ、前回記したやうに、私は学生時代に参加した国民文化研究会の合宿教室で、受験用知識としての歴史ではない、まさに我々が自分の故郷を懐かしく思ひ出すやうな姿勢で、日本の歴史と文化について学んでゐました。

 そこで知った戦後の昭和天皇の全国ご巡幸のお話に心惹かれ、それを自分なりに文章にしたのが、私が発信してゐる国際派日本人養成講座第136号【「復興への3万3千キロ】でした。

 昭和天皇は終戦直後の混乱の中で、「全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ」とのお考へのもと、昭和21年から約8年半、総日数165日をかけて、沖縄以外の全都道府県、お立ち寄り箇所1411ヶ所、行程3万3千キロを回られたのです。

 占領軍の間では「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男といふことを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、といふことをね」などといふ声も出て、このご巡幸を許可しました。イタリアのエマヌエレ国王は国民から追放されており、日本の皇室の運命も風前の灯火のように考へられてゐたとしても不思議はありません。

 しかし、その結果は、占領軍の予想に反したものでした。昭和天皇と国民の間には、次のやうな心の交流がなされてゐたのです(前記の【「復興への3万3千キロ】から)。

       〇

 因通寺(佐賀県基山(きやま)町)の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけてゐた。昭和天皇は最前列 に座ってゐた老婆に声をかけた。

「どなたが戦死をされたのか」

「息子でございます。たった一 人の息子でございました」

声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたさうです。…天皇陛下さま、息子の命はあなた様に差し上げてをります。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」

と、老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けてゐた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられてゐた。

引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであらう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。

 「天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでゐるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪ひません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります」(調寛雅著『天皇さまが泣いてござった』教育社―『祖国と青年』平成11年4月号所載の要約―)

 わが国は戦後の焼け跡の中から奇跡的な経済復興を遂げ、世界有数の経済大国と発展していったのですが、「天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります」といふ多くの国民の気持ちが、その原動力になったのだと、私は信じてゐます。

       〇

 右の文章を書いたことで、経済大国になったといふ結果よりも、その原動力として、天皇を中心に国民が心を通はせる美しい国柄を持った国である、といふのが、私のお国自慢になってゐました。

 心中にこうした秘かな自信を抱いてゐましたので、自国への誇りと愛情たっぷりのアメリカ人に対しても、私は余裕と共感を持って接することができたのです。(続く)

 

―初出、国際派日本人養成講座  第500号1、1部改稿
     (会社役員、在米国)伊勢雅臣(布瀬雅義)著
   世界が称賛する日本人が知らない日本
   世界が称賛する 国際派日本人
          育鵬社 税別1,500円/p>

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 学而篇六にかうあります。

  子曰く、弟子(ていし)、入りては則(すなは)ち孝、出(い)でては則ち弟(てい)、謹みて信(しん)あり、汎(ひろ)く衆をして仁(じん)に親(ちか)づき、行(おこな)ひて余力(よりよく)有(あ)らば、則ち以て文(ぶん)を学ばん。

 先生がおっしゃった。若者よ、家では、親孝行、外では目上の人に素直に従ふ。なにごとも度を越さないやうに控へめにし、約束を守る。多くの人を好きになり、まこと心のある人に親しみ学ぶ。さうした上で、まだゆとりがあるなら、本を読んで学んでいけばいい。

 今、教育界では、規範意識の確立が大きな課題になってゐます。規範意識とは、人としてあるべき行動様式であり、判断の基準です。それを心得てゐるかどうかは、人の品格に関ります。また、それは社会の秩序と安定にも関ります。規範が崩れたら社会は混乱します。それはまた共有化されることが必要です。

 では規範を取り戻す為にはどうしたらよいか。よくよく考へると、戦前は人としての共通の規範として『教育勅語』がありました。

  「父母(ふぼ)ニ孝(こう)ニ兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ夫婦相和(あひわ)朋友相(あひ)信ジ恭儉(きようけん)己(おの)レヲ持(じ)シ博愛衆(しゆう)ニ及ボシ學ヲ修メ業(ぎよう)ヲ習ヒ以(もつ)テ智(ちのう)能ヲ啓發(けいはつ)…」

 まさに、人としてあるべき大切な規範が述べられてゐます。教育勅語は明治天皇ご自身が率先して実践することを誓はれ、当時の国民を感奮興起させた勅語です。それを全国民が、共有化したといふことです。

 とするなら、規範確立には教育勅語を復活するのが一番確実な方法だと思ひます。しかし、アメリカ占領軍の日本弱体化政策により、国会で失効決議がなされました。また、戦時中、行き過ぎた扱ひがなされたこともあり、軍国主義教育の元凶のやうに思はれてゐる風潮がまだ根強く残ってゐます。ですから教育界では、依然としてタブーです。せめて、国会で失効決議の失効を決議をして、人としてあるべき規範を示す古典として見直されればと思ひます。しかしそれにはまだ時間がかかります。

 では、どうしたらよいか。『論語の読み方』の著者、山本七平氏は、規範意識の確立のためには、共通の古典をもつことだと言ってゐます。其れは西洋では『聖書』であり、東洋および日本では『論語』だといふことです。

 この『論語』の章句のなかにも、親への「孝」とか「慎み」とか「信」など、教育勅語と共通する、規範が述べられてゐます。また、「汎(ひろ)く衆を愛して」と「博愛衆ニ及ボシ」では表現は違ひますが全く意味は同じです。規範の確立と共通化のためにも、今の子供達に是非、暗唱してもらいたい章句です。

 ところで、この『論語』の章句の結びは「行ひて余力有らば、則ち以て文を学ばん」とあります。孔子は常に実行を説きました。

 雍也篇二十七に実行の大切さをのべた、章もあります。

  子曰く、君子(くんし)博(ひろ)く文(ぶん)を学び、之(これ)を約(やく)するに礼(れい)を以(もつ)てせば、亦(また)以て畔(そむか)かざる可(べ)し。

 先生がおっしゃった。立派な人は幅広く書物から学び、それを礼の行ひに照して、意味づけ、実行していく。さうすれば人としての道にそむくことはないであらう。

 「礼」は「履」であり実行することです。「約する」とは集約すること、つまり、まとめ、意味づけることです。「文」つまり、今でいへば教科書や書物から学ぶ学問も、ただ、ばらばらな知識の寄せ集めで終るのではなく、実践に生かすことを通して、生きた知恵として総合化されてゆくといふことです。

 今の学校での学びは、事象の暗記に偏り、試験を受ければそれで終りといふ事が多い。学んだことを実行することや、誠意を尽すこと、偽りのないことなど、人としての行ひや心の在り方は全く問はれません。

 知識の断片に偏った、今の学問を、根底から払拭して、孔子のいふ全人的な学問の甦る日を念じないではをられません。(もと現代カナ)

(元小田原市立小学校長)

 

【地元紙『神静民報』に毎月連載の「『論語』のひびき㉓」】から
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いづれも寺子屋・石塾での実践に基づくもので、漢字にふりがなを付けるなど家庭での学びにも配慮された古典を身近に感じさせる好著
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編集後記

来月、「アメリカ第一主義」のトランプ政権が発足する。政府の責務は「国益」の実現にあるから、自国第一の主張は当然のこと。問題は何を以て国益とするかだ。日本と組むことが国益に叶ふと判断させ得るかどうか。先づはわが国が自立国家になることだ。「靖国」で通敵するメディアをどう退治するかだ。

 8月に予想だにしなかった陛下のビデオメッセージを仰いで、わが国の根本根源に思ひを巡らせながら師走を迎へた。世界史的にも稀有な連綿たる国柄の、さらなる永遠を乞ふのみである。
(山内)

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