国民同胞巻頭言

第661号

執筆者 題名
黒岩 真一 薄氷の安全保障
- 健全な国家意識の回復が急務である -
布瀬 雅義 あなたは自分の言葉で日本を語れますか?(1)
海外で暮らすには、心の中で自分を支へてくれる母国が必要だ
「合宿教室(西日本)」の参加者を中心に短歌研修を実施
- 10月3日、於・福岡市 -
平成28年慰霊祭 厳修さる
岸本 弘 (八月八日の御放送を承りて)
九月号所載の大岡弘兄の論考を拝読して思ふこと
  新刊紹介

 私の勤務校は福岡県南東部に位置する朝倉市にある。農業が盛んで人情は細やか、平穏な暮らしが続く。

 生徒の殆どは純情素朴で世の中を疑ふことを知らず、明日を信じて、日々勉強や部活動に勤しんでゐる。 母校に赴任して16年、地歴科教諭として郷土の歴史を紐解き、長い皇統を保つ我が国の歴史を親しく語って来た。先人がさうであった様に郷土や祖国を背負ひ、誇りを持った日本人として世界に勇躍して欲しいと切に願ってきた。その祖国日本が、今日、歴史戦略に圧されて国際的汚辱を受け、国土侵略の危機に直面してゐる。戦後は周辺諸国との平和維持に努め、経済発展等良心的に協力して来た我が国が、恩を仇で返される事態に陥ってゐる。その主犯が中華人民共和国である。我が国が長期に亘るデフレで国力を減退させてゐた間、彼の国は共産党独裁のもとに策略を駆使し、経済的・軍事的大国となり覇権を誇示するに至った。明らかに潮目が変った。

   限界に来た尖閣諸島の守り

 明治28年(1895)、政府は諸調査を重ね、尖閣諸島を我が国の帰属とした。以来、日本人居住者が去って無人化しても今日まで我が国の領土である。1968年、国連が同島周辺に膨大な油田の埋蔵量を示唆した事が契機となって中共は同諸島の領有を一方的に主張し出した。

 1985年の天安門事件で中国共産党が信を失ふ危機に直面すると、江沢民国家主席は国内批判の目を外に向けようと執拗な反日政策を始めた。グローバリズムの波に乗り、彼国はGNPで世界第二位に台頭し、その潤沢な経済力を背景にこの10年間で、軍事力を一割づつ伸ばして今日では我が国の三倍強を有するに至ってゐる。現在、習近平政権は周辺諸国を圧倒する軍事力で南沙諸島(南シナ海)を略奪し軍事基地化を急いでゐる。ハーグ常設仲裁裁判所の「南シナ海の領有主張に法的根拠なし」とした判決を「紙切れ」と嘯いて無視する無法ぶりである。安保理の常任理事国に中共が席を連ねてゐる以上、国連による制裁は適はず国連は全く無力である。

 我が国施政権下としての尖閣諸島の守りは限界に来てゐる。今年8月初旬から中国海警の武装艦艇10数隻が尖閣周辺の領海侵犯を平然と繰り返し、リオ・オリンピックの最中を狙ひ数100隻の民兵乗船漁船が迫って来た。海上保安庁の常時の警備に加へ、航空自衛隊機による緊急発進は今年4月からの3ヶ月で199回(昨年度比1・7倍)、搭乗員の疲弊も限界に来てゐる。中共は我が国と米国の出方を試してゐるのである。

 日米安全保障条約では米国は日本の「施政権下にある領域」を守ることが規定されてゐる。南沙諸島同様、何らかの隙を突かれて尖閣諸島が中共の施政権下に置かれたままになれば、条約上米国の義務は消える。

 尖閣諸島が占領されれば、軍事基地化は明白であり、東シナ海は中共の内海となり、沖縄の危機も現実味を帯びて来る。加へて深刻なのはシーレーンの維持である。我が国の電力はその過半を中東からの原油やLNGに依存してゐるが故に南シナ海に続き東シナ海も制圧されれば輸送の路が断たれ、大打撃を受ける。

 北朝鮮の核開発も次元を超えて真の脅威となって来た。中でも潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の開発が進めば米国の迎撃は困難となり、北朝鮮の恣意は増幅される。さういふ危機に瀕してゐながら、国家の一大事として新聞やTVは多くを報じない。危機が分ってゐながら、敢へて国民に報じないのであらうか。国会では与野党とも火急の課題として論議しようとしない。

   急がれる国家意識の回復

 国家の安全保障は軍事面だけではない。食糧、医療、エネルギー、自然災害等山積みである。国の安全保障は国民が心を寄せ合ひ助けあってこそ得られるものなのだ。自国は自国で守るといふ健全な国家意識の回復が急務である。

(福岡県立朝倉高等学校教諭)

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   インターナショナル・ハウスにて

 私がアメリカに留学したのは、昭和55年(1980)の夏のことでした。サンフランシスコ近郊のカリフォルニア大学バークレー本校の経営学大学院に入学しました。

 最初の1年目はインターナショナル・ハウスといふ500人ほども収容できる大きな留学生用の寮に入りました。中央にドームが聳え、左右に翼を広げた形で5階建ての宿舎が広がる修道院のやうな壮麗な建物です。寮生は半分がアメリカ人で、残り半分が世界中から集まった留学生です。留学生たちをアメリカ人学生と一緒に住まはせて、互ひに理解し合ふ機会を提供しようといふ趣旨でした。

 留学生のためにこれだけの壮麗な建物を建てるといふアメリカの豊かさ、そして半分はアメリカ人学生を入れてしっかり交流させようといふ見識に、到着したばかりの私は「これは敵はないな」とやや気押しされた印象を持ったものです。

 留学生としては、ヨーロッパからはドイツやフランス、南米からはブラジルやコロンビア、そしてアジアからは台湾、韓国、中国、タイ、インドネシア、そしてわが日本など、実に多くの国々からやってきてゐました。

 食事は、これまた修道院のやうに天上の高いホールで、長テーブルがいくつも並んだ食堂でとります。席は自由ですが、みな同じバークレーの学生ですから、見知らぬ同士でも、すぐに「どこから来たか」「専攻は何か」などと話が始まり、いつの間にか知り合ひがたくさんできます。

   「どこから来たの?」から交流が始まる

 海外に行って、他国の人々と語り合った日本人は誰でも経験することですが、やはり会話は「どこから来たの?」で始まります。標準的な答へはもちろん「日本から」です。

 「俺は地球市民だ」とか「日本など関係ない」などと肩肘張った日本人が「北東アジアから来た」などと答へたら、よほどの変人だと思はれて、相手は早々に席を立ってしまふでせう。

 「日本」と聞いたら、相手は自分の知ってゐる範囲で、日本に関する話題を探さうとします。マサチューセッツから来た女子学生は、「日本のカレンダーを見たら、雪に覆はれた高い山の美しい景色だったけど、日本てさういふ国なの」などと聞いてきました。外国人に対して、その母国のことを話題にする場合に、このやうにまづは良い面から切り出すのが、教養と礼節ある態度です。

 某近隣諸国出身者の中には、相手が日本人と知ると、いきなり「私の国を植民地にした」などと食ってかかる人もゐるさうですが、私が大学で出会ったその国からの留学生たちは、礼節を知る人々ばかりで、そのやうな子供じみた態度をとる人はゐませんでした。

   多くの日本人は「自国についてよく知らない」ことに気づく

 いづれにせよ、会話は「日本」を軸として始まるわけで、ここで私たちは日本とはどんな国か、といふ事を語らなければならなくなります。しかし、さういふ状況になると、日本について、何をどう話したらよいのか、当惑してしまひます。

 一つの語り口は、歴史を通じて、こんな国だと語ることです。

 たとへば〝日本の建国ははるか太古のことで正確には分りませんが、8世紀に書かれた歴史書(『日本書紀』のこと)では、紀元前660年とされてゐます。その時に第一代天皇が即位し、現在の天皇は第125代で、世界最古の王室です〟などと語れば、相手の興味をそそるでせうが、こういふ基本的な事柄は学校では教へてくれません。

 我々が学校で習ったのは「1868年に明治維新が起った」といふやうな「客観的」な知識ですが、これだけでは会話になりません。明治維新を語るなら、その前の江戸時代がどんな時代で、その後の近代化がどう進んだか、といふ大きな流れを語らなければ、そもそも「話にならない」のです。

 ここで、多くの日本人は、はたと「自分は日本について、よく知らない」といふことに気がつきます。海外でこういふ経験をして、もう少し日本のことを知りたいと思ひ、インターネットを検索してゐたら、この「国際派日本人養成講座」に出会った、といふ読者が多いのです。

   故郷が自分の一部のやうに…

 しかし、自分の国のことを語る、といふのは、単なる知的会話だけの問題ではありません。アメリカ人たちは自国に対する自信と誇りと愛情に充ち満ちてゐます。それが彼らの人生を支へる大きな柱の一つとなってゐます。

 さういふアメリカ人に囲まれて生活してゐると、自分にも自分を支へてくれる祖国が必要だといふことをひしひしと感じます。

 この点を実感することは、日本の中で、特に国を意識しないでも毎日を過していける日本人には難しいのですが、たとへば山形県あたりから東京に就職で出てきた青年を想像してみれば、多少は理解できるでせう。東京の人間は、東京が日本の中心だと思ひ込んでゐる。山形県のことなど、東京の人間はほとんど知らないし、関心もない。さういふ中で、その青年がなんとなく自分が無視されてゐる、といふ寂しい思ひをすることは想像できるでせう。

 「故郷のことなど私には関係ない。私個人としてしっかり働いて、周囲から認めて貰へればいいのだ」と青年は割り切ってしまふかもしれません。しかし、自分が生れ育った故郷には、今も父母や親戚や友人たちが暮らしてゐて、その人々との思ひ出があちこちに残ってゐる。さうした思ひ出を自分には関係ない、と割り切ってしまっては、自分の体の一部を断ち切ってしまふのと同じやうな気になるでせう。

 さういふ意味で、故郷とは自分の一部なのです。母国も同じです。

   「日本はすごい」と言はれたが

 私が留学してゐた1980年代は、日本の家電製品や自動車が米国市場に一大旋風を巻き起してゐた時期で、私の出会ったアメリカ人たちもよくこのことを話題にしました。

 一般大衆の中には「ホンダを買ったけどグレートな車だ」などと、手放しで褒めてくれる人がゐました。ただ大学教授などのインテリ層はさう単純ではなく、「自動車はアメリカ人が発明したのに、日本人の方が良い車を作れると認めることは苦痛だった」などと、正直に語ってくれた先生もゐました。

 学校でのマーケティングの授業でも、「品質の良い物を高く売る戦略と、良くない物を安く売る戦略がある」と先生が言ったら、一人の学生が「いや、良い物を安く売る戦略もありますよ。メイド・イン・ジャパンのやうに」などと大まじめに発言して、思はず苦笑してしまひました。

 ある授業では、何度も日本製品や日本的経営の優秀さが論じられたので、インドネシアからの留学生が「授業でも、ジャパン、ジャパン、ジャパンだ。日本はすごいな」などと羨ましがってゐました。

 確かに他国からの留学生にとってみれば、これほど持ち上げられる日本を母国とする日本人留学生は羨ましい限りだったでせう。私自身、それは確かに嬉しいことではありました。

   真のお国自慢とは?

 しかし、その反面、経済ばかりが持ち上げられても、単純に満足は出来ない、といふ気もしてゐました。それは自動車にしろ家電製品にしろ、もともとは欧米文明の所産です。彼らの作った土俵に割り込んで、彼らの技術に多少の工夫を加へて、部分的に良い成績を上げた、といふ事に過ぎないのです。

 たとへて言へば、仙台の中心部には「小東京」と呼ばれるほど高層ビルが建ち並んだ一帯がありますが、東京の人間から「仙台はすごいね。東京みたいだ」と褒められたやうなものです。それで素直に喜べるでせうか?

 それよりも「東北大学のあたりは仰ぎ見るやうなメタセコイアの巨木が立ち並んでゐて、まさに杜の都だね」などと言って貰った方が、はるかに嬉しいのではないでせうか。

 自動車生産とか国民総生産のやうに共通尺度で優劣を競ふやうなお国自慢では、互ひの国に対する理解を深めるやうな会話は成り立ちませんし、また、自分自身にとっても虚栄心を満足させるだけのことで、深いところで自分を支へる自信とか誇りにはつながりません。

 さうではなく、固有の歴史や文化、国柄など、自分の先祖が営々と築いてきたものに関する愛着の籠ったお国自慢でなければ、我々を心の底で支へてくれるものにはなりません。

   幸ひにも、受験用知識ではない日本の歴史と文化」について 私は学んでゐた

 私が日本の歴史や文化に関する知識をあまり持ってゐなかったら、日本は経済大国だ、というような虚栄心で自分を支へてゐたかも知れません。その場合、1990年代のバブルで日米の勢ひが逆転した時には、そんな虚栄心も失って、自信喪失に陥ってゐたでせう。

 しかし、幸ひにも、私には秘かに自分を支へてくれるお国自慢がありました。それは学生時代に、社団法人「国民文化研究会」が主催する「全国学生青年合宿教室」といふ宿泊研修で、日本の歴史と 文化について学んだ経験です。この団体は、昭和30年代初めに高校や大学の先生方が中心となって戦後の「思想の混迷」と「教育の荒廃」を憂へて設立されました。毎年夏に大学生や若手社会人を集めて宿泊研修を行ってゐたのでした(今年で61回目)。高名な文芸評論家の小林秀雄、福田恆存、村松剛といった方々も、趣旨に賛同して、よく出講をされてゐました。

 この合宿教室で、受験用知識としての歴史ではない、まさに我々が自分の故郷を懐かしく思ひ出すやうな姿勢で、日本の歴史と文化について学んだのです。

(続く)

初出、国際派日本人養成講座第500号〉、一部改稿  (会社役員、在米国)

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 去る10月3日(日)午前10時から午後5時まで、福岡市中央区六本松の福岡大学セミナーハウスにおいて、8月の「第61回合宿教室(西日本)」参加者を中心とした短歌研修が実施された。参加者は32名。

 4班に分れた参加者は、先づ後掲のやうな「短歌創作導入講義」を聞いた後、夏の日差しが残る中、護国神社から大濠公園をめぐる「歴史散歩」の中で短歌創作に取り組んだ。

 午後は班ごとに創作短歌についての相互批評が行はれた。言葉遣ひが他者に伝はる正確なものとなってゐるか、作者の気持ちに相応しい表現になってゐるか等々、互いに批評し率直に感想を述べあった。

   創作短歌導入講義(要旨)  熊本県立第二高校教諭 今村武人氏

 生徒の短歌を収めたクラス短歌集『おほなゐ』を刊行したが、短歌はどれも感性豊かなものであった。私自身も学級日誌に短歌を書いてゐるが、生徒の日々の成長が自然に目に止まるやうになり、ささやかな生きがひとなってゐる。

 短歌創作上の基本ルールとしては、「五・七・五・七・七の定型詩、一首一文の原則、自分の体験を読む、字余りと字足らず、詞書、連作短歌、文語文」等々がある。実際に短歌をどう詠むか、どんな小さなことでも感動したことをメモしておくことが大切であって、飾ることなく自らの気持ちを率直に詠むことである。

   短歌を詠む意義は三つある。

 その1つは、短歌創作は人々の瑞々しい「心情」や「感情」を取り戻すことにつながる。短歌とは縁遠いやうに思はれる理系の科学者の間においても短歌に親しむ伝統が生きてゐる。湯川秀樹博士はノーベル賞授賞式に臨んだ際に「思ひきや東の国にわれ生(あ)れてうつつに今日の日に会はんとは」と詠んでゐる。

 2つ目の意義は、日本人の政治道徳を取り戻すことである。政治家の質の低下が今の政治不信をもたらした。その根底には歌を詠む政治家が稀有となり情意の欠落がある。明治天皇は9万首余りの歌を詠まれたが、古くから歴代の天皇方は、今上陛下も勿論だが歌を詠まれてゐる。

 3つ目は、短歌には人の心を永遠に伝へる力がある。1000数百年前の万葉集時代の作者たちは短歌といふ形によって言葉に尽しがたい精神的価値にあふれた情報を伝へてきた。これから私たちが作る歌も万葉集の歌のやうに永く後世に残り、歌ひ継がれる可能性がある。

(文責・編集部)

 

「短歌研修」詠草抄

     中村学園大学 流通科学一年 井上諒
 全身に陽光浴びつつ散策で皆と語れば絆深まる

     鹿児島大学 法文四年 阿部大輔
 父母に感謝の思ひ伝へたし巣立たんとする別れのときに

     福岡大学 経(卒) 岡部智哉
 夏空とまがふがごとき秋晴れのその日の下(もと)に友ら集ひぬ

     佐賀大学 理工四年 古賀工誠
 懐かしき友との再会ここにあり美しき景色に包みこまれて

     桁山 優
 夏空を思はす青さ残れども遠き木々には黄葉(もみぢ)始まる

     主婦 亀山成予
 陽光は真夏のごとくも大濠の水面(みなも)を渡る風はさやかに

     福岡大学 経一年 西田忠正
 御国守るみ社(やしろ)の庭に遊ぶ子に日差しそそぎておごそかに見ゆ

     吉田調剤薬局 吉田喜久子
 大濠の池のほとりに寛(くつろ)げばさはやかな風頬に淸しき

     主婦 折田登和子
 震災を遠く忘れて過す日よ和歌の友らの温かき声

     福岡大学 科目等履修生 小林拓海
 声をかけ励ましながら母と子の歩む姿の微笑ましきかな

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 9月25日(日)午後、日本学生協会・精神科学研究所・国民文化研究会の道統に連なる師友のみ霊をお祀りする恒例の慰霊祭が、東京・飯田橋の東京大神宮にて斎行された。

 祭儀には、熊本県や福岡県からの御遺族、関東都県や長野県からの会員に加へて、福岡市での「合宿教室(西日本)」、御殿場市での「合宿教室(東日本)」参加の学生ら42名が参列。御神前に今年の合宿教室の終了が奉告され、併せてみ霊の変らざる御加護をお祈り申し上げた。

 今年の慰霊祭には小柳陽太郎命、寳邉正久命が合祀された。献詠歌150余首の内、一部を左に掲げる。

   御遺族

     青砥宏一命御令息 松江市 青砥誠一
   父宏一歿して三十年
 良き歳も悪しき歳をも様々の出来事を経て過ぎし年月(としつき)

     島田好衛命御女婿 府中市 青山直幸
   寳邉正久先生
 顔(かんばせ)を赤く染めたまひ溢れ来る思ひ語らるる師のなつかしき

     岡村誠之命御令息 小金井市 岡村 健
   靖国神社社頭にて
 「後に続く者を信ず」とて散華せし兵士の御霊にたゞたゞぬかづく

     小田村寅二郎命・小田村泰彦命御令弟 東京都 小田村四郎
   小柳陽太郎、寳邉正久両兄逝去
 懐かしきみ姿み声今はなく残されし身の淋しさまさる

     小柳陽太郎命御令息 福岡市 小柳左門
 しきしまの国の命を恋ひしたひひと世を生きし人らしぬばゆ
 朱にそむ入日のかげを仰ぎつつ在りましし日の父をしのびつ

     小柳陽太郎命御令息 東京都 小柳志乃夫
 みまつりの秋を迎へぬ父君もみともとともにまつられまして
 参加者は少なくなれど合宿の無事終りしを告げまつりなむ

     島崎祐司命御令兄 久喜市 島崎 忠
 お盆の日いつも思ふは親妹弟(きょうだい)遠い月日の思ひ出ばかり

     宮脇昌三命御令息 さいたま市 宮脇新太郎
   小柳陽太郎大人追悼
 父帰幽に筑紫の地より献詠を賜りし日の記憶懐かし

     山内恭子命御夫君 横浜市 山内健生
   小柳陽太郎先生の御講義を初めて拝聴
 五十年余(いそとせよ)の時すぎ去れど御講義に耳傾けし日はきのふの如しも
   坂東一男命
 爽やかに言の葉ただしく世を嘆く太きみ声はいまもうつつに

 

   会員

     鹿児島市 有村浩明
   寳邉正久先生
 大御歌朗誦したまふ先生の御声は今も耳に残りぬ

     奈良市 安納俊紘
 日の本のあるべき姿見据ゑつつ伝へ渡さむ若き世代に

     さいたま市 飯島隆史
   福島徹男兄
 父母も亡くなりまして若き友淋しくひたに一人逝きしか

     奈良県田原本町 生駒 聰
 太子さま千四百年に學びゆくいしずゑとなりし同胞憶ひつつ

     横浜市 池松伸典
 み霊まつり近づくほどに亡き友と過せし日々の思ひ出さるる

     府中市 磯貝保博
   小柳陽太郎・寳邉正久両先生を偲ぶ
 お叱りと励まし賜(た)びし大人(うし)達をただ有難く偲びまつりぬ

     東京都 伊藤哲朗
   小柳陽太郎先生
 五十年(いそとせ)の昔になりしか先生のお宅訪ねて教へ乞ひしは

     神奈川県真鶴町 稲津利比古
   小柳陽太郎先生を偲びて
 この世にて再び会ふことかなはねど師の声笑まひは今もうつつに

     さいたま市 井原 稔
 仰ぎ見る大人のみ跡を慕ひつつしかと歩まむ遅くはあれど

     清瀬市 今林賢郁
   寳邉正久さん追悼
 亡き友を思ふこころにうつし世を生き抜き給ふひと世なりけり
 進みゆく道のしるべと頼みたる大人また一人旅立ち給ふ

     横浜市 今村宏明
   福島宏之先輩
 考へる事いついつまでも続けよと励まし給へる友すでになし

     小田原市 岩越豊雄
   リオ五輪
 日の本の奮ひ立ちたる姿見て英霊たちもうれしからまし

     長崎市 内田英賢
 神さぶし師の御姿をしのびつつ生きて行かまし力無けれど

     宇部市 内田巌彦
   小柳陽太郎先生
 今は亡き師の御姿を思ひつつ研鑽積みぬ香椎の浜に(今夏の合宿教室で)

     千葉県酒々井町 内海勝彦
 わが庭に虫の音すだく秋となりみ霊なごめの日は近づきぬ

     東京都 衛藤晟一
   学生時代に参加せし合宿教室
 御製(みうた)こそ学ぶべきとのみ教へを受けし夏の日思ひ出さるる

     鹿沼市 大岡 弘
   小柳陽太郎先生
 心こめ名歌を読みとり解説の文(ふみ)書くわざを教へたまへり

     町田市 大島啓子
   小柳陽太郎先生
 賑(にぎ)はひの中にありても真向ひて物問ひ給ふ眼(まなこ)清しく

     函館市 大町憲朗
 御(み)祖先(おや)らのみ心継ぎて日の本の正しき道を守りゆかなむ

     川越市 奥冨修一
 東(ひんがし)と西とに分れし合宿のいとなみのさまを告げまつりなむ

     岡山県久米南町 小坂博通
 謹みてみ教へを仰ぎし御霊の御前を拝み奉らくと白す

     川内市 小田正三
   故郷の「新田神社」に詣でる
 合宿のお礼を胸に石段を登りて仰ぐ空の広さかな

     西条市 越智敏雄
 日の本の美しき道統(みち)を伝へんとつとめたまひし先人仰ぐ

     熊本県益城町 折田豊生
   小柳陽太郎先生
 斃れたる友らのみ心背に負ひて育てたまひき数多の子らを
   坂東一男先輩
 強く明るくやさしくませし我が先輩の太きみ声の慕はしきかな

     東京都 加来至誠
   小柳陽太郎先生
 うつつにも松陰先生いますごと語りたまひき高きしらべに

     福岡市 鎹 信弘
   小柳陽太郎先生を偲びて(箱崎宮にて)
 紫陽花の群咲く庭の近くにて師の「古事記(ふることぶみ)の御講義」を詠む

     東京都 神谷正一
 いや重き責め負ひて臨みし合宿の無事を祈りぬ亡きみ友らに

     横浜市 椛島有三
   小柳陽太郎先生の御講義を偲びて
 歴史(いにしへ)の文読み給ふ師の君のみ声明るく澄みわたりたり

     千葉市 上村和男
   小柳陽太郎先生を偲ぶ
 師の君の教へ導き偲びつつふけゆく夜半の月ぞ眺むる
   坂東一男兄を偲ぶ
 天皇(すめらぎ)を信じて尽す国の為遺詠に知りて思ひ深しも

     東京都 河合忠雄
   小柳陽太郎先生
 すばらしき国のかたちを伝へんと力をこめます師の声想ふ

     小矢部市 岸本 弘
 「国がらをただ守らむと」の大(おほ)御言(みこと)つつしみて聴くみ民われらは

     茅ヶ崎市 北濱 道
   太子憲法の輪読
 先輩(みとも)らの互(かたみ)に交すお言葉の力強さに心打たれぬ

     延岡市 北林幹雄
   (八月八日の御放送)
 御心を安んじまつる道はなきやただ畏みてみ言葉拝す

     富山市 北本 宏
 日の本の若人をどるリオの地にたのもしきかなわが国の民

     広島市 久々宮 章
 師の君の書読みゆけばありし日の語り給ひし声きくここちす

     筑紫野市 楠田幹人
 先達の教へを胸に刻みつつ残り少なき余生を生きん

     横浜市 國武忠彦
 み霊らに生きるいのちをえさしめしこの喜びを友と歩まむ

     小柳陽太郎先生 久留米市 合原俊光
 御言葉のさやけきしらべうつつにも仰ぐ思ひす御書読みつつ

     横浜市 古賀 智
   戸田義雄先生の御著『日本の感性』を読みて
 清らなる御國に生(あ)れてわがこころ玉とみがかれけふ生きてあり

     鹿児島市 小原芳久
   小柳陽太郎先生
 笑み浮かべ教へたまひし師の君のみ霊偲びて生きてしゆかむ

     北九州市 坂口秀俊
   坂東一男先輩
 「アサヒ以外にビールなし」とふ太き声とやさしき御顔を偲びまつらむ

     東京都 澤部和道
   坂東一男先輩
 二十年(はたとせ)の長き歳月(としつき)事ごとに導き給ひし先輩(とも)ありがたき

     柏市 澤部壽孫
   坂東一男先輩
 ひと年(とせ)は夢の如くに過ぎたれどみ姿み声は在りし日のまま
   小柳陽太郎、寳邉正久両先生
 西空に輝き我らを導きし星二つ落ち真闇なすがに

     小田原市 柴田悌輔
   合宿での慰霊祭
 闇の深き斎(いつき)の庭に響きける警蹕(けいひつ)の聲厳かにして

     東京都 島津正數
   坂東一男先輩
 先輩の残せしみ歌み文(ふみ)らを読みゆくほどに力湧きくる

     由利本荘市 須田清文
   寳邉正久先生をお偲びして(夜久正雄先生の葬儀の折の弔辞)
 師の君の詩をそらんじて述べたまふなさけあふるる御声忘れじ

     日向市 竹下鉄郎
   小柳陽太郎先生
 胸迫り明朗なりし師の声は今も心に深く残れり

     霧島市 七夕照正
   小柳陽太郎先生
 人の世の本流の流れ教へ給ふわれらの集ひに満ちあふれたり

     鹿児島市 徳田浩士
   川井修治先生
 遺影拝しとりどりのこと思ひ出づ優しかりにし憂国の師を

     佐世保市 朝永清之
 攻めらるるも戦はざる世を平和とふ若きら多し被爆地長崎
 仙満の戦後の凌辱汁三なれば世迷言を正さむ思ひ剛

     八王子市 中村祐和
 残されし道を思へど心知る導かれつつ我も生きなむ

     東京都 難波江紀子
 英霊の御霊安かれと祈るわれいかにつとめん御國の蘇生に

     鳥栖市 西山八郎
 しづまりし庭ながめつつ若き日に出会ひし恩師の姿しのぶも

     長崎市 橋本公明
   小柳陽太郎先生
 荒れ狂ふ海のはたてと歌はれし師の御姿の偲ばれるかな

     秦野市 原川猛雄
   小柳陽太郎先生、寳邉正久先生、坂東一男先輩の訃報を聞きて
 ありし日のお世話になりし人々の面輪浮びて思ひはつきず
   父
 大正に生れし父の背負ひたる歴史の重み偲びゆきたし

     福岡市 藤新成信
 至らざる我をも導き下されしご恩返しを如何にしまつらむ

     横須賀市 古川 修
   小柳陽太郎先生
 「学問のよろこび」伝へ給ひしを仰ぎて偲ぶ師の文よみて

     南アルプス市 前田秀一郎
 今は亡き師や友どちの慕はしき御(み)言葉胸に刻みて生きむ

     北九州市 松田 隆
   小柳陽太郎先生
 ちはやぶる香椎の宮の参道に今は亡き師への思ひ深まる

     横浜市 松岡篤志
   小柳陽太郎先生
 大御歌を全霊かたむけ語らるる師の御姿を尊くも仰ぐ

     鹿屋市 南田武法
   北島照明先輩
 「破邪顕正」と筆跡太き書を示し語られし日の御姿今も

     倉敷市 三宅将之
 領海を侵されるたび抗議のみ我が実効支配を示すべき時
 領海を侵せるシナに明確に対抗措置を我はとるべし
 み霊たちふかく嘆きて我が国の腑甲斐なきさまみそなはすらむ

     大阪市 薬丸保樹
   坂東一男大兄
 頂きし坂東大兄の遺詠集当時をしのびなつかしく詠む

     福岡市 山口秀範
 慕はしき写し絵並ぶみ祭りを偲びやまずも秋酣(た)くる頃

     八千代市 山本博資
   小柳陽太郎先生
 師の君の賜(た)びしみ文はかならずやはげましの言葉したためてあり
   寳邉正久先生
 西の方長門の地にて刷文(すりぶみ)(「国民同胞」)を三十年余(みそとせあまり)を編まれ給ひし
 声太く立ち居振る舞ひ古武士然の面影つよく瞼に残れり

     熊本市 渡辺五十二
 残されし我が身の生命朽(くち)るとも忘れまじきは大和魂

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 本紙9月号の、意を尽された大岡弘兄の論考「天皇陛下の『譲位の御意向』に想ふ」を拝読して、最近感じてゐることを述べてみたいと思ひます。

1、憲法を越えたところに

 兄の論考はこれから国民が共に考へるべき方向を丁寧に示してをられると思ひました。それは憲法、皇室典範にそって陛下のお気持ちを如何に生かしてゆけばよいのかといふ視点において、納得のゆくものです。

 しかし、僕が率直に思ふところは、憲法に束縛されないところで陛下のお気持ちを見つめなほしてみたいといふことです。明治憲法(大日本帝国憲法)は現行の日本国憲法とは比べものにならない優れたものだと思ひますし、皇室典範の位置づけについても同様です。しかし明治憲法にしても、日本の国柄(くにがら)や、皇室に対する歴史的な国民の思ひを成文化する一つの試みであったと見ることもできるでせう。第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。

 「古事記」や「日本書紀」に遡る日本人の歴史的意識を、要を得て如何に簡潔に憲法の条文として表現し得るか、明治憲法の作成にかかはった先人の苦労が偲ばれる文言だと思ひます。

 しかしそれでも、やはり一つの試みと云ふべきであって、天皇の御位(みく らゐ)といふものは、日本人の心情からいへば、「古事記」や「日本書紀」に示された天照大御神(あまてらすおほみかみ)の御神勅「葦原(あし はら)の中つ国は我(あ)が御子(み こ)の知らさむ国」(古事記)以上のものでも以下のものでもないのです。とすれば、皇室のあり方について行き詰まることがあれば、神話伝承に立ち返るほかはないと考へるのです。

2、聖徳太子憲法にみる

 今回の天皇陛下のお言葉を思ひ起しながら、今一つ心に去来したものは、聖徳太子十七条憲法第三条の冒頭にある、「詔(みことのり)を承(うけたまは)りては必ず謹(つつし)め」のお言葉でした。天皇のお言葉に何か申し上げたいことがあらうとも、まづは「謹しんで承るやうに」とのご教示です。そのことは祖先の遺訓として、深く受け止めなければならないと思ひました。「承る」といふことが出来ないやうでは祖先に対してまことに申し訳ないことではなからうかと思ふのです。

三、昭和天皇の終戦時の御製

 九月に開催された当会の「学生青年合宿教室(東日本)」で今林賢郁理事長の講義の中でご紹介のあった昭和天皇の終戦時の御製四首の中に、

   国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

といふお歌があります。連合国のポツダム宣言を受け入れるとどうなるのか。御前会議に臨んだ臣下はもとより、昭和天皇ご自身にとっても、一寸先は闇の中での終戦のご決断であったと思はれます。この御製のほかに、今は国民によく知られてゐる

   爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

といふお歌もあります。「国民を救ふこと」「国がらを守ること」、昭和天皇に至る124代に及ぶ皇室の歴史の中で、これほどの苦渋に満ちたご決断の場面はかつてなかったことでせう。国民は陛下を信じ、陛下は国民をお信じになる中で、ポツダム宣言は受託されたのです。

4、今上陛下は昭和天皇のご遺志をついで

 昭和天皇は「明治憲法」と「現憲法」の未曽有の転換期を天皇としてご在位になり、新憲法のもとではじめてご即位になられたのは今上陛下であることは周知のことです。

 先帝・昭和天皇のご遺志を継承しつつ、現憲法に忠実でありたいと、ひと時もお気持ちの休まる間もなくお努めになってこられた今上陛下のお姿は、あらためて申し上げることもないでせう。そのことをよく知ってゐるがゆゑに、国民は皆、天皇陛下の今回のお言葉に感動したのです。

 それはまさしく、「しらす」といふ統治の伝統を無意識にも感じてゐる国民なるがゆゑの感激であったと思ひます(「しらす」とは「古事記」に出てゐる言葉ですが、権力によらず、和合のうちに国民を統治する、日本独特の統治のあり方を指します)。

 卑近な云ひ方になりますが、天皇から国民にボールは投げられたのです。われわれ国民はこのボールをどのやうに受け止め、陛下に、ご皇室に、お返しすればよいのでせうか。世界に比類なき国家といふ以上に、統治するものと、統治されるものが、心を一つにして長い歴史を生き抜いてきた民族であることを今こそ心に銘記すべきでせう。

 この拙い一文をここまで書き上げて、こんなことも思ひます。

 今回の天皇陛下のお気持のご表明に対して、大岡兄のやうな深い思慮の中での所懐の論述は出来ないとしても、僕ら国民は如何に稚拙であらうとも、率直な思ひを披瀝し合ふべきでせう。さうした稚拙な思ひの積み上げの上に、陛下のお気持ちに万分の一でもお応へし得るものが見つかるのかもしれないと思ふのです。

(元富山県立富山工業高校教諭)

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伊勢雅臣著  税別1,500円 育鵬社 刊
世界が称賛する日本人が知らない日本

 現在、海外子会社の社長として米国勤務の本会会員、布瀬雅義(筆名・伊勢雅臣)氏のメールマガジン「国際派日本人養成講座」がこのほど標記のタイトルで書籍化されて市販された。踏まへるべき本質が的確に、しかも簡明に説かれてゐるもので、本紙も度々転載させてもらった。著者は多忙な業務をこなす日常の中で、「日本と日本人」のあり方を随時、考察して、間を置くことなく発信し続けて創刊20年となり間もなく千号にならうとしてゐる。読者は4万5千人。大変に心強いことである。

 標題書の「まえがき」に、著者の実体験に基づく優れた見識が示されてゐる。駄文を避けて、それを掲げて「新刊紹介」としたい。(編集部)

【まえがき】
 「国際人ではなく、国際派日本人 を目指そう」

 これが本書でお伝えしたいメッセージです。

 日本語で「国際人」というと、たとえばアメリカで英語を流暢に話して活躍する人、というようなイメージでしょうか。そういう日本人がアメリカで尊敬されるかというと、必ずしもそうではないと思います。英語を流暢に話すだけなら、アメリカでは当たり前のことですから。

 それよりも、たとえ英語は拙(つたな)くとも、日本の歴史や文化を「根っこ」として独自の発言や行動のできる人の方がアメリカ人は尊重します。アメリカだけでなく、ヨーロッパでも中国や東南アジアでも同じです。これが本書でお伝えしたい「国際派日本人」の姿です。

 実を言うと、「国際派日本人」という言い方には少し冗長性があります。日本社会で一目置かれるような人格、礼節、見識を持つ人であれば、そのまま海外でも尊敬されます。ですから、「立派な日本人」は、そのまま「国際派日本人」なのです。

 「国際派日本人を目指そう」とは、単に「立派な日本人になろう」ということです。

 私はある日本企業に就職してから、20代後半にアメリカに4年間留学させていただき、経営学修士・博士、工学修士号をとりました。その後、国内勤務のかたわら、出張や観光で訪れた国は、アジア、欧州、アフリカ、北南米でちょうど30か国になります。ここ数年は、海外現地法人の社長として欧州で4年、北米で2年を過ごしました。

 その間、いろいろな経験をしましたが、私を支えてくれたのは、語学や職務経験もさることながら、この20年間、メールマガジン「国際派日本人養成講座」を毎週執筆しながら学んだ、我が国の歴史伝統とそれを築き、発展させてきた先人たちの生き様でした。我が国には世界で称賛されている文化と歴史があります。それが「根っこ」として私を支えてくれている、と知れば、海外でどのような場面に出くわそうとも、胸を張って対応することができました。

 残念ながら、現在の日本の教育はそのような豊かな精神的遺産を伝えないので、現代の日本人はせっかくの「根っこ」を知らないまま現代社会、国際社会の荒波に投げ出されています。

 「国際派日本人養成講座」では、世界各地に住む日本人読者から、毎週お便りをいただきます。その中で今でも心に残っている一通があります。それは中近東の工事プロジェクトに派遣され、苛酷(かこく)な生活環境と困難な仕事の中で、毎週宿舎に戻っては、「国際派日本人養成講座」を読み直して元気を得て頑張っている、という青年のお便りでした。

 少子化、グローバル経済、安全保障、地球環境など、現代日本は多くの課題を抱えていますが、それらを克服して、さらに良い国を築いていくためにも、まずは先人たちが残してくれた「世界が称賛する日本人が知らない日本」を自らの「根っこ」とし、「立派な日本人」として胸を張って生きていってほしい、本書はそういう願いのもとにまとめてみました。

(かな遣ひママ)

 

「小柳陽太郎先生を偲ぶ会」ご案内

日時  12月3日(土)午後5時から
場所  ホテルニューオータニ博多
     福岡市中央区渡辺通り1-1-2  電話 092-714-1111
会費  1万円
会次第 ・先生を偲ぶ言葉
    ・ご遺族ご挨拶
    ・会食懇談
    「小柳陽太郎先生を偲ぶ会」呼び掛け人 山口 秀範
          国文研常務理事(株)寺子屋モデル代表

お問ひ合せ先 電話 092-411-3055

 

編集後記

 野党代表の“二重国籍”は本来あり得ぬことで、政権を目指すなら“本名を名乗らぬ”のも問題だ。ただし自民党政権下でも、国外配慮から歴史教科書を“修正”し、総理の靖国神社参拝を“手控へ”た。これらも他国ではあり得ぬことだったが、国会もマスコミの大勢も問題視せず、今日の「尖閣危機」を招いた。愈、尖閣領海への「侵犯」が常態化しつつあるが国会は機能不全、政府は“抗議”のみでは、先人に申し訳が立たない。
(山内)

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