国民同胞巻頭言

第659号

執筆者 題名
合宿運営委員長
古川広治
第61回合宿教室(西日本)開催される
〝「歴史に学ぶ」とは、どのやうなことなのか〟
- 「講師が提起した課題に真正面から取り組んだ」 -
  合宿教室(西日本)のあらまし
走り書きの感想文から(抄)(かな遣ひママ)
大岡 弘 〈8月8日の御放映を承りて〉
天皇陛下の「譲位の御意向」に想ふ
- 今上陛下への譲位制の適用ついて -

 今年で61回目となる全国学生青年合宿教室は、初めての試みとして東日本地区と西日本地区の二箇所で行ふこととなった。西日本地区は8月19日から21日までの2泊3日の日程で、福岡市東区香椎浜の〝さわやかトレーニングセンター福岡〟において開催された。主に西日本の各地から集まった七十四名の学生青年および社会人は「講義」と「班別研修」を繰り返す厳しい日程ではあったが、講師が提起した課題に真正面から取り組んだ(10月2日に「短歌研修」を実施する)。

 本合宿のテーマは「歴史に学ぶ―現在をより良く生きるために―」である。今を生きる私達が「歴史に学ぶ」意義を明らめ、参加者が〝学問〟を始める端緒となる合宿としたいとの思ひからである。そもそも「歴史に学ぶ」とはどういふことなのであらうか。合宿を振り返りつつ考へてみたい。

 初日の高木悠君(東京大学大学院生)の合宿導入講義「先人の言葉に触れよう」では、吉田松陰の「士規七則」が取り上げられた。「歴史に学ぶ」ことは、先人の言葉に学ぶことである。それは自分の心を豊かにしてくれる一方で私達の責務でもある。講師は今も文章を読むときの指針としてゐるとして、冒頭の一節「冊子を披繙(ひはん)せば、嘉言(かげん)林の如く、躍々として人に迫る」を講義の中で幾度もふり返りながら、参加者を歴史に学ぶ合宿教室へと誘った。

 二日目の朝の武田有朋氏の講義「学問とはどういふものか」では、「学ぶ(学問)」に焦点が当てられた。長内俊平先生(元本会常務理事)の講義録と「西郷南洲遺訓」の文章を引きながら、知識を増やし理屈を覚えることだけが学問ではない。先人の言葉を心で感じること、学ぶことが生きることに直結して行くこと、自分はどう生きて行くのかを考へること、かうした「学問」が大切ではないかと語った。

 二日目の昼の山口秀範氏の講義の演題は「短歌と日本人」であった。講師と共に万葉集の防人の歌「筑波嶺のさ百合の花の夜床にもかなしけ妹ぞ昼もかなしけ」「天地の神を祈りてさつ矢貫き筑紫の島をさして行く吾は」を朗誦した時、奈良時代に生きた名もなき民の心情が現在を生きる私達の心に伝はってきた。なつかしささへ感じた。万葉の時代から現代まで日本人は、ずっと短歌を作り続け、味はひ、時には作者の思ひに連ならんと生きてきたのである。日本人の詩である短歌を学び、味はふことは「歴史に学ぶ」うへで欠かすことができないものである。

 二日目夜の廣木寧氏の古典講義の演題は「歴史を生きるといふこと」であった。嘉永安政期の日本が、森鷗外と吉田松陰の文章を取り上げて語られた。日本人本来の生活を鷗外の『渋江抽斎』によって、ペリー来寇の衝撃を日本人がどう受け止めたかを松陰の文によって、語られた。歴史上の人物に、鏡を見るやうに自分の顔が映るならば、鷗外の言葉でいへば、歴史上の人物と「コンタンポラン(同時代人)」であると思へるならば、それは歴史を生きてゐることになると語った。

 三日目朝の本合宿最後の講義は「日本の国がら」と題した今林賢郁理事長の講義であった。「日本の国がら」を語るには天皇を抜きにして語ることはできない。「初代の神武天皇から今上天皇まで天皇と国民はどういふ関係であったのか」が歴史資料(文章)を踏まへて事実として示され語られた。それは、歴代の天皇方が、常に国民を大事にされてきた事実であり、それに国民が感激し心を尽して応へてきた歴史であった。それが2千数百年続いてきたのが「日本の国がら」である。このことを心に止めて事実を正確に知る努力を続けることの大切さが説かれた。

 歴史に学ぶとは、先人の言葉に自分の生き方を問ふことであると思ふ。漫然と文章を読んでゐては問ふことはできない。心を澄まして文章を読むことである。それは訓練を要するが特別なことではない。参加者一人一人が本合宿で心に残つた言葉を温めて、歴史に学ぶ学問を開始して欲しいと思ふ。

 最終日には、ご多用の中をお運び下さった九州電力(株)相談役松尾新吾先生から、ご講話を賜った。衷心より御礼を申し上げたい。

(福岡南公共職業安定所)

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開会式(第1日目)

 合宿教室は福岡大学法学部2年の伊藤駿輝君の開会宣言で幕を開けた。主催者代表挨拶で今林賢郁理事長は「今回で61回目を迎へるこの合宿教室で私たちはこれまで何を訴へてきたのか。それは私たちが生れ育った〝日本〟はどのやうな国なのか、わが国の歴史とその中で育まれてきた伝統・文化とはどのやうなものなのかについて、次の若い世代に正しく知って欲しいといふことであった。先入観やマスコミの流す情報などに惑はされることなく、今を生きる一人の日本人としてどのやうな心構へで生きていけば良いのかを、まづ自分自身の心と頭で考へて貰ひたい」と語った。次いで古川広治合宿運営委員長は「『歴史に学ぶ』といふこの合宿のテーマの意味するものは何か。その意味するものに真正面から向き合ってほしい」と呼びかけた。

合宿導入講義
 「先人の言葉に触れよう ―吉田松陰の「士規七則」を辿る」
     東京大学大学院理学系研究科生 髙木 悠氏

 「先人の言葉は単に難しいものとされがちであるが、先人の言葉に心が動かされ、自分の中からエネルギーが湧いてくると感じることがある」と、自らの体験を語って、そのやうな先人の言葉の一つとして吉田松陰の「士規七則」への思ひを述べた。

 書き出しの一節である「冊子を披繙(ひ はん)せば、嘉言(か げん)林のごとく躍々として人に迫る」について、松陰自身が実際にこのやうに文章を読んでゐたのではないかと述べた。そして「七則」を①「人間たれ」、②「日本人たれ」、③「武士たれ」、④「光明正大であれ」、⑤「読書せよ」、⑥「交遊を慎め」、⑦「決死の覚悟で事に臨め」を意味するものとして、各項目を丁寧に解説した。「一つ目と二つ目の項目で、まづ『人間たれ』、『日本人たれ』と言はれてゐることに着目してほしい。そして次に具体的に『武士たれ』としてゐる。これは自己の本分を尽せといふことだから、学生なら『学生として為すべきことに努めよ』となる。従って『武士たれ』と『光明正大たれ』の二項目はこの後の班別研修から実践することが出来る。そこでは堂々と自らの思ひを述べ、友の言葉に耳を傾けてほしい」と語った。

講義(第2日目)
 「学問とはどういふものか ―西郷隆盛の言葉から考へる」
     西日本電信電話(株)武田有朋氏

 まづは自身が初参加した合宿で、物の知り方には知解(ちげ)(頭で知ること)、体解(たいげ)(身体で知ること)、信解(しんげ)(真心で知ること)の三種類があることを長内俊平先生から教はった体験を紹介し、学校教育が「知解」中心であることに対して、学生時代から参加してきたこの合宿教室で触れた学問は、「信解」の世界であったと語った。

 続いて、『西郷南洲遺訓』を取り上げて、そこに通底するものは「無私」「至誠」ではないかと指摘して、読むたびに「お前はどうなのだと問ひかけられる心地がする」と述べ、特に〝命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり〟といふ一節は、信解の端緒となるものと思ふ。班員と味はって信解といふ知り方を心に留めてほしいと述べた。また、勝海舟の西郷隆盛評について、『氷川清話』の一節を取り上げ、「勝海舟から見ても西郷の強さはその大膽識(だいたんしき)(実行力を伴ふ決断力)と大誠意にあったのだ」と紹介した。

 そして最後に、西郷の語録から窺はれる「無私」「至誠」に通じる生き方や考へ方は、昔から日本人が大切にしてきたものであり、この合宿の中で触れる文章や短歌からも、真心で学ぶ学問の大切さを感じてほしいと呼びかけた。

野外研修(香椎宮参拝)

 講義聴講の後、全参加者はバスで香椎宮(かしいぐう)(福岡市東区)に向った。

 香椎宮では、宮司様のご挨拶をいただいて、地元福岡の(株)石村萬盛堂社長の石村善悟氏(本会参与)から、香椎宮が仲哀天皇及び神功皇后を御祭神(主神)としてお祀りしてゐる古きお社であり、明治十八年に官幣大社の指定を受け定期的に勅使のご差遣を仰ぐ勅祭社であるなどの説明があった。

 真夏の厳しい日差しのもと、境内の石段を上るとすぐに、神功皇后が植ゑられたといふ御神木「綾杉(あやすぎ)」の見事な枝ぶりが目に飛び込んできた。さらに本殿横を抜け、林の中を吹きくる風を受けながら、香椎宮起源の地「古宮」へと歩を延ばし、天を突くが如き「古宮」の御神木「棺掛椎(かんかけのしい)」を仰ぎ見ながら遙か古へを偲んだ。

講義(第3日目)
 「短歌と日本人」
     (株)寺子屋モデル代表取締役社長 山口 秀範氏

 香椎宮の御神木「綾杉」の前に、掲げられてゐた「千早ぶる香椎の宮の綾杉は神のみそぎに立てるなりけり」の歌を紹介し、「五七五七七といふ定型の短歌は、長い歴史を通じて日本人の心情を写し出してきた」と述べて講義は始まった。

 昭和43年ノーベル賞受賞記念講演で、「小説家の川端康成が〝美しい日本の私〟と題して、ほぼ全編を道元・明恵・良寛などの短歌について語ったのは驚きだった」と振り返り、月と作者が一体となってゐる明恵上人の歌「隈(くま)もなく澄める心の輝けば我が光とや月思ふらむ」(参禅する作者の澄み切った心の輝きを、月は月自身の光と思ふだらう)を参加者と一緒に読み味はった。

 続いて柿本人麻呂が草壁皇子を悼みつつ、軽皇子の狩に同行した折の長歌と短歌を取り上げ、我が国にまだ文字がなかった時代の人々のコミュニケーションとそれを後世に伝へる「文字(記録)化」のために工夫された「万葉仮名」について解説を加へた。人麻呂の代表作「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」の五句目「月かたぶきぬ」が、本文(万葉仮名)では「月西渡」となってゐることを紹介し、『万葉集』にこのやうに表記した人、江戸時代に苦心を重ねて読み解いた国学者たち、明治時代に『万葉集』を再評価した正岡子規等々の多くの先人たちのお陰で今があることを語った。

 最後に防人(さきもり)の歌に触れて、幕末の志士や戦歿学徒たちが自らを「新防人(にひさきもり)」と自任して歌を詠んだことから、参加の学生にも、日本人の心を受け継ぐ若者として「新防人」の自覚を持つべく努めようと説いた。

古典講義
 「歴史を生きるといふこと ―森鷗外と吉田松陰を読んで」
     (株)寺子屋モデル講師頭 廣木 寧氏

 「徳川時代末期の年号である嘉永と安政の時代の文章を皆さんと読み味はひたい」と語って講義を始めた。まづ森鷗外が大正5年に発表した『渋江抽斎』を取り上げて、「抽斎は、吉田松陰の父親とほぼ同年齢で、医官にして文学哲学に造詣の深い人であって、鷗外はたまたま知って深い愛着を覚えた。『もしわたくしが抽斎のコンタンポラン(同時代人)であったなら』と親愛の情を語ってゐた」との話を紹介し、歴史上の人物にふれて「コンタンポランであったなら」といふ感慨を覚えたならば、その時、人は歴史上の人物と同じ時空を生きてゐることになると説いた。

 続いて、嘉永安政の時代を烈しく生きた松陰の文章を取りあげ、「嘉永4年(1851)に江戸に出て勉学にはげむ松陰は、自己の血肉とならぬ学問修業に不安であった。郷里の兄宛の書簡で『僕学ぶ所未(いま)だ要領を得ざるか、一言を得て而(しか)して斯(こ)の心の動揺を定めんと欲す』と書いた。その『一言』が松陰にとっては、二年後に突如浦賀に来寇したペリー率ゐる米国艦隊である」と指摘した。「ペリー来寇以降、松陰は活き活きと目覚め、日本の危機が松陰になすべきことを明確に教へた」と説いて、松陰が日本を守るために、師佐久間象山と謀(はか)ったのが下田踏海事件であったと語った。

 嘉永安政期に生きた抽斎と松陰の人生はそれぞれ異なるが、「私たちに日本人とは何かを自覚させるものである」と述べ講義を終へた。

講義(第3日目)
 「日本の国がら」
     国民文化研究会理事長 今林 賢郁氏

 まづ「日本の国柄」ついて、「かうあって欲しいといふことではなくて、かうであったといふ『事実』について話をしたい、特に若い諸君に『事実』を知ってほしい」と語った。

 国柄や国体の意味について辞書の言葉を紹介した後、「憲法」には国柄や国体の内容が書き込まれてゐてこそ国家の根本法たり得るはずと、日本国憲法と大日本帝国憲法とを比較、「天皇を抜きにして日本の歴史を述べることは出来ない」として、今上天皇、昭和天皇、明治天皇、孝明天皇の4人の天皇方のお言葉や御行動の跡を辿りながら、「天皇はいつの時代にあっても、天皇のみ位については厳しい内省のお心を持ち続けられながら、常に国平(たい)らかなれ、民安(たみやす)らかなれと祈り続けられ、国難ともなれば御自らのいのちを投げ出される。このやうな方が天皇であり、我が父祖たちはそのお言葉や御行動を見て、天皇を敬ひ忠誠を尽してきた。慈愛と忠誠、これが日本の国柄である。この姿が国が始まって以来2千年以上にわたって一度も途絶へることなく続いてきた事実は世界の奇跡と言っていい」と説いた。

 この後、徳川幕府の朝廷への厳しい干渉、監視の中で、どのやうなお心で天皇方が幕府に対峙されたかを七人の天皇のお歌に触れられた後、遡って「神武天皇即位建都の大詔」を紹介し、初代の神武天皇から今日に至るまで、ご歴代の天皇は国民を「大御宝(おほみたから)」として常に大事にされて来たこと、そして、この国柄を守ることができるかどうかは国民の心に委(ゆだ)ねられてゐると語った。

合宿をかへりみて
     国民文化研究会理事 藤新 成信氏

 冒頭で、今合宿が古い日本の歴史の中でも重要な「香椎の地」で開かれたことに触れ、さらに恩師(福岡県立修猷館高校の元教諭)で、国民文化研究会で長くご指導をいただいた故小柳陽太郎先生のご自宅が近くにある思ひ出の地でもあると語った。そして、今後私達がどのやうに勉強していったらいいのか、レジュメを繙きながら各講義を振り返った。

 高木悠、武田有朋両氏の講義で取り上げた吉田松陰や西郷隆盛の言葉からは「どう生きるのですか」と問ひ懸けられてゐたと指摘した。また和歌を取り上げた山口秀範氏によって古代の防人から「無窮国体を防護」すべく自刃した将校までの系譜がたどられたと語った。森鷗外と松陰の文章を取り上げた廣木寧氏では歴史上の人物と「同時代」の時空に生きて自由に行き来する学びの体験を示されてゐたと指摘した。

 歴代天皇のお歌と御言葉を取り上げた今林賢郁理事長の講義の中に、霊元天皇の「敷島のこの道のみやいにしへにかへるしるべもなほ残すらむ」といふお歌があったが、こうした深い祈りを味はふことなしに「日本の国がら」を感じ取ることは出来ないだらうと語った。

 日本が直面してゐる大きな問題は一人一人が考へていかねばならないが、ここでの学びを折々思ひ起して事に処してほしいと述べた。

講話
 「持論ア・ラ・カルト ―戦後70年に思ひを馳せて―」
     九州電力(株)相談役 松尾 新吾先生

 「日本はサンフランシスコ講和条約で独立してゐるはずだが、日本の実態はどうか。日本はどのやうにしていけばよいのかを考へよう」と述べてお話を始められた。

 日本人とは「先祖、先輩を敬ひ、大人も子供も思慮深いと外国人から見られてゐた」とお述べになった。そして「日本が侵略戦争を起したのではないことは資料によって証明されてゐる」と説かれて、大東亜戦争の『開戦の詔書』に「帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外はない」と自存自衛の為の戦争であると記されてゐることを指摘され、「敵国の将であるマッカーサーも昭和26年5月3日の米国上院軍事外交合同委員会の公聴会での証言で、それを認めてゐる」と説かれた。最後に日米安全保障条約の条文と日本国憲法の成立の経緯にお触れになり、「日本国にふさはしい〝真の憲法〟の制定が必要である」と述べられた。

閉会式

 主催者を代表して小柳左門氏(原土井病院院長、本会会員)は、「『歴史に学ぶ』とは自分との出会ひである。

 身近なところに歴史の実体がある。歴史の真髄は先祖の願ひに気づき、それを受け継ぐ慰霊にある。合宿で共に学んだ友と手を携へて歴史の魂を受け継ぎながら取り組んでいきませう」と語り掛けた。続いて、古川広治運営委員長は、「開会式の時に『歴史に学ぶ』といふことに真正面から向き合ってほしいと述べたが、この合宿で心に刻まれた言葉を今後も温めて学んでいってほしい」と語った。そして、 京都大学工学部3年江島亨君の閉会宣言を以て「合宿教室(西日本)」は閉幕した。

(文責・編集部)

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 歴史を「感じる」ことが大切だ  中村学園大学 流通科学1年 R・N
 「学ぶ」ことに関して、私は間違った認識をしていました。知識を蓄える、それを応用する、その程度だと思っていたのです。歴史に学ぶこの合宿に参加する前と後では大きな「差」があります。歴史に学ぶとは、出来事や偉人達を知るだけでなく、生き方、考え方、ポリシーを心で感じることだと気づきました。そして吉田松陰や森鷗外、西郷隆盛の著作を輪読して、全体を通して一つ気づいたことがあります。歴史を築いた偉人達は、一本大きな太い芯を持っているということです。これは単純に格好が良いもので、私にないもので欲しいと思いました。

 天皇陛下の姿勢に心を奪われた  福岡大学 経1年 T・N
 一番心に残った事は、昭和天皇のお話です。『終戦秘史』の中に書かれてあった「自分は如何になろうとも、万民の命を助けたい」という覚悟、『宮中見聞録』の中に書かれていた和歌の中にも「身はいかにならむとも」という言葉が何度も出てきました。自分の命をかけて民を守ろうとした天皇陛下の姿勢に心を奪われ、皇室に対する尊敬の念が今まで以上に膨れ上がりました。天皇制とは何か?国体護持とは何か?。それを今一度考えるいいきっかけになりました。

 「大事なものは目に見えない」  京都大学 工3年 T・E
 私がこの合宿に参加したのは、父親に勧められたこと、そして、以前から大河ドラマが好きで日本史に興味があったからです。今回の合宿では初めて学んだことが多く、その一つは、「大事なものは目に見えない」という言葉です。二つ目は言葉、文章というものの素晴らしさです。最初の高木悠先生の講義の中で「冊子を披繙せば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る」という松陰の言葉が出てきました。その後の講義でも様々な文章に触れましたが、その時の情景やその人の内面が自分の中に映し出される感覚や、体に沁み渡るような感覚を実際に体験し、これまで表面の意味だけをなぞってきたものとは違う言葉の素晴らしさを実感しました。「大事なものは目に見えない」ということに繋がりますが、これが言葉の目に見えない大事なもの、素晴らしいところなのかなと思いました。

 また、未だに自分の中で噛み砕けていないものもあると発言したところ、「分からないところがあるのも楽しみの一つだよ」と班付の方がおっしゃってくれました。また「分からなくても、一つ自分の心に残ったものがあるならば、それをずっと心に留めておけばいい」ともおっしゃってくれました。そういう意味で、この合宿で学べたことも、少し分からなかったことも、今後の自分の生活の糧になるのではないかと思います。

 先人の言葉には深みがあった  福岡大学 経一年 R・A
 普段はこのように昔の人々の考え方や思想、日本に対する思いをじっくり勉強する機会がないので、一度自分が学校で習った内容はリセットし、新しい知識を得るつもりで臨みました。まず、吉田松陰の言葉に触れるという講義があり、続いて西郷隆盛の言葉に触れる講義がありましたが、なぜ先生方が幕末の人々の言葉を引用したのか、今になって考えると、その時代こそ、まさに日本とは何か、天皇とは何か、といった日本国と日本人の関係があらわになった時代だったからだと思います。大きな変動の中で日本がより良い道に進むために命をかけて尽くした先人の言葉はとても深みがありました。そして先人が守りたかった日本の一員として、私は今考えるべきことがたくさんあります。

 「歴史を学ぶ」のではなく、「歴史に学ぶ」ことを教わった  中村学園大学 流通科学一年 R・I
 多くの素晴らしい先生方より、歴史を学ぶのではなく、歴史に学ぶための講義をしていただけた。その中でも、高木悠先生の「士規七則」のお話からは、吉田松陰の書を読み、行動する情熱がひしひしと伝わってきた。大学の授業では講義が終わるとそれまでであるが、この合宿の様に、講義が終わるとすぐに班別研修があって私以外の感想を聞くことにより、私の中では見出せなかった発想や考えを聞くことができて、とても有意義な時間となり、さらに友人をつくるきっかけになった時間でもあった。

 私はこの合宿で、これからの自分の生き方や大東亜戦争についての真実について考えることで、確実に成長できたと確信している。ためになる合宿に参加できたことに感謝しています。 

 古典を読む力をつけたい  長崎県立大学 地域創造1年 Y・H
 初めて参加して吉田松陰の「士規七則」、西郷隆盛の「西郷南洲遺訓」など多くのことばを初めて学びました。講義の内容は難しかったですが、その後の班別研修で班員の感想や意見を聞いて別の視点からみることで少し理解できたのではないかと思いました。原文のままであったので理解するのに時間がかかったが、高木悠先生の講義中で「古典はするめに似ていてかめばかむほど味が出る。味わうためにはアゴを使わなければならない」とありました。自分は古典を読むためのアゴを鍛えていかなければならないと思いました。もう一度講義レジュメを読み直して、その内容を再び考えて自分の力にしていきたいと思いました。

 〝知解〟から次の〝信解〟へ  名古屋大学 情報文化4年 M・M
 合宿を通して歴史から学ぶことのできることはどのようなものなのか、偉人や歴史とどう向き合うべきなのかを五つの講義を通じて新たに学びました。これまで学校で学んできたものとは異なる見方、また知識に対する解釈の仕方を知りました。今はまだ〝信解(しん げ)〟には致らず、今後も深めていかなければと思いますが、これまでの〝知解(ち げ)〟から次のステップへ向かう進み方を習いました。

 参加して良かったことは、これまで知って満足していた歴史や偉人について改めて深めていきたいと思えたことです。深め広げることで何を学ぶことができるかを知り、今後社会で生きていく上で自分自身が何を大切にしたいのかを考え直すきっかけになりました。

 先人に恥ずかしくない生き方をしたい  鹿児島大学 医学部6年 S・I
 この合宿で学んだことは人生の宝となるだらう。知らないことは罪ではないが、知らうとしないことは罪である―。いま、日本に生きる日本人として、この国の歩み、先人たちの思ひを知らうとすることは、私たちの務めである。何不自由なく根のない草が漂ふやうに生きてゐる私のやうな若者をみて、茶谷武さんのやうな国を守る為に命を捧げた方々は、どう感じられるだらうか。偉大な先人たちに恥かしくない生き方をしていきたい。

 「冊子を披繙せば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る」と松陰先生の「士規七則」にあったが、合宿教室では先人たちの御言葉や講師の先生方の熱い想ひ、班員たちの学ぶ意欲が躍々と私に迫ってきた。

 思い切って参加した良かった  鶴花園 T・I
 人前で話すことが苦手で、社会人としても経験が少なく語れることがあまりなかったが、上司のすすめで何事も経験しないと分からないと思い切って参加しました。

 合宿の講義を受けて、吉田松陰、西郷隆盛、森鷗外のことを今までより深く知ることができて良かったと思います。そして何より母国である日本のこと(天皇・国体)を知らないということが認識できた意義のある合宿でした。少し遅いかもしれませんが、本や資料を勉強していこうと思います。

 歴史を貫くものを実感した  元東京海上火災保険(株) M・T
 歴史に学ぶというテーマのもと、それぞれの講義も深く考えさせられる事が多く一人では難解だったことも班別研修で質問する事ができ、その都度スッキリする事が出来て有難い事でした。

 印象に残った事は神武天皇から今上天皇までその御製やお言葉の中に共通して貫かれたもの、それはご自身の事よりもどんなに国民の事を大切に思われ又それを実行されて来られたかを実感しました。歴史に学ぶといふことは、その時代の古典や短歌に触れることで私自身その時代にタイムスリップしたような気持ちになる事がありますが、そのような時間を持つことで毎日あわただしい生活では得られない新しい自分にも出会えるのではないかと思います。

 想像していたよりもずっと深いものがあった  大分県立看護科学大学 1年 N・M
 「歴史を学ぶ」ではなく「歴史に学ぶ」ということで、イメージはしていたが、講義や班別研修に参加するうちに、この合宿で深めたいものや追求したいものというのは自分が想像していたよりもずっと深くて難しいものだなぁと実感させられた。それと同時に自分が無知ということも知った。歴史に学ぶためには歴史についてのある程度の知識が必要で、自分の中の引き出しが多くあると、自分の思いや考えも言葉にして伝えやすいということを班の皆さんに気づかせてもらった。自分を成長させるという意味で、自分から積極的に様々な世界に飛び込み、勉強していきたい。

 この合宿では、先人たちの思いや情熱を知ることができた。現代を生きている私から見ると驚くほど真っ直ぐで、謙虚で、能力の高い低いではなく人間として見習うべきところがたくさんあり、本当にすごい人だな、ということしか感想として挙げることができなかった。そのような立派な人を知ることができて、参加して本当に良かった。

 「歴史に学ぶ」という事の奥深さ難しさを実感した  西南学院大学 法学部4年 K・M
 この合宿で多くのことを学ばせていただきました。先ず合宿テーマの「歴史に学ぶ」という点につき「現代に生を享けた我々がこれほどまでに過去の人々の教えを今に生かす事が出来るか」と感銘を受けました。

 また、班長班付を務めてくださった方々に圧倒されました。自分では知っていたつもりでいた事が年上の方々のお話を伺うと、実は理解出来ていなかった、考えが浅かったという事に気付くという経験をし自らの勉強不足を恥じるはかありませんでした。加えて歴史に学ぶという事の奥深さ難しさを感じ、今後より一層の努力をしようと心に決めるきっかけともなりました。

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   一.明治皇室典範の考へ方

 明治時代には、国民は皇室典範を、国務法の頂点に立つ大日本帝国憲法と相(あひ)並び立つ、宮務法頂点の大法と受けとめてゐた。その皇室典範の公的解説書『皇室典範義解』には、冒頭に次の文章が掲げられてゐた (伊藤博文著『憲法義解』、岩波文庫本)。

 「恭(つつしみ)て按(あん)ずるに、皇室の典範あるは益々其の基礎を鞏(きょう)固(こ)にし、尊厳を無窮に維持するに於て欠くべからざるの憲章なり。(中略)将来已(や)むを得ざるの必要に由(よ)りその条章を更定することあるも、亦(また)帝国議会の協賛を経るを要せざるなり。蓋(けだし)皇室の家法は祖(そ)宗(そう)に承け、子孫に伝ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。又臣民の敢(あへ)て干渉する所に非ざるなり」。

 「皇室典範」は皇祖皇宗より相承け子孫に相伝へるものであるから、明治天皇がお心のままに自由にお定めになられたものではない(天皇といへども自由勝手に変更してよいものではない)としてゐる。皇室典範制定以前には、幾十代にもわたり譲位の事実はあったが、「譲位のきまり」があった訳ではなかった。

 また、皇室典範第62條とその解説には、次の文章が載ってゐた。

 「第62條 将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当(あたり)テハ皇族会議及(および)枢密顧問ニ諮(し)詢(じゅん)シテ之ヲ勅(ちょく)定(じょう)スヘシ」。

 「恭て按ずるに、皇室典範は天皇立憲を経始したまへる制作の一として、永遠に伝へ、皇室の宝典たり。故に、本条其の紛更(かきみだして改めること)を慎むの意を致すなり。抑々(そも)憲法に拠るに、其の条項に改正を要することあるときは、之を議会の議に付し、特に鄭重なる方式に依り議決せしむ。而して皇室典範に於ては独(ひとり)皇族会議と枢密顧問に諮詢するに止(とど)まり、憲法と同一の軌(き)轍(てつ)に依らざるは何ぞや。蓋(けだし)皇室の事は皇室自ら之を決定すべくして之を臣民の公議に付すべきに非ざればなり」。

 将来、改正または増補の已むなきに至った場合には、「皇族会議及び枢密顧問」に諮って天皇がお決めになる。これが、明治皇室典範の基本的考へ方であった。

   2.現行皇室典範の考へ方

  一方、現行皇室典範の場合には、GHQ(連合国軍総司令部)によって、軍事占領のもと、憲法とともにその変更を強要された。名称は同じ「皇室典範」だが、明治の皇室典範とは法的連続性のない、「日本国憲法下の一法律」とされてしまった。

 70年前、松本烝(じょう)治(じ)国務相は、「マッカーサー憲法草案」に四つの修正を試みた。その一つが「皇室典範改正発議権を天皇に留保する」といふものだった。皇室典範は、「マッカーサー草案」では他の一般の法律と同一視してゐるが、それでは皇室の存在意義も変化するし、国民感情にもあまりに違反する。「形式名目ニ拘泥スル我国民性ニ照シ、必要ナル最小限度ノ緩和剤タリ得ベキモノ」として、改正発議権は天皇に帰属させるべきである。これがその修正理由であった。しかし、これは実現しなかった(児島 襄著『史録日本国憲法』、文藝春秋、昭和47年)。

 現下の憲法、皇室典範のもとでは、天皇陛下の御意向を伺ふ、あるいは、陛下の御意向を生かすといふ道は、制度上閉ざされてゐるのである。

   3.明治・現行両典範における「譲位制不採用」の考へ方

 明治の皇室典範も現行皇室典範も、ともに譲位制を採用してはゐない。八木秀次、竹田恒泰の両氏は、明治の皇室典範が譲位制を採用しなかった理由として、伊藤博文の意見、すなはち、①終身在位が当然なため、②摂政制度があるから譲位制度は不必要なため、③歴史上譲位が為政者の事情に左右されたため、の三点を確認してをられる(『正論』平成28年9月号所収の各々の論文)。

 では、現行皇室典範の場合はどうか。現行皇室典範の法案は、昭和21年に内閣に設けられた「臨時法制調査会」の第一部会の審議を通じて作成された。その審議内容の大要は、昭和37年4月に憲法調査会事務局から出された高尾亮一氏の手に成る冊子『皇室典範の制定経過』に示されてをり、全八章中の「第4章」に、「即位退位の問題」が記載されてゐる。それによると、「臨時法制調査会」第一部会が譲位制を退けた理由は、以下の通りである。

 「仮りに退位の自由をいかなる形式にせよ認めることとすれば、相対的に不就任の自由も認めなければ首尾一貫したものと言い難い。しかるに不就位の自由を主張した者は一人もないのである。事実血統による継承において不就位の自由を規定したならば、その確認のために空位又は不安定なる摂位という事実の起るのを防止できず、万一継承資格者のすべてが就位を拒否するという事態に至るならば、天皇という制度は存立の基礎を揺り動かされることになるのである。世襲による就位は自由意思の介入と調和しがたいものなのであろう。

 ひるがえって考えるに、皇室典範は新憲法下においては一箇の法律に過ぎない。もし予測すべからざる事由によって、退位が必要とされる事態を生じたならば、むしろ個々の場合に応ずる単行特別法を制定して、これに対処すればよい。一般法のなかに、退位の原因も明定されぬ単なる自由意思による退位条項を規定するならば― 上述の不就位条項も規定されなければならず―、事実は天皇の自由意思を無視した濫用も憂慮されるのである。かような考慮から、要綱作成にあたっては『皇位継承の原因は崩御に限ること』と規定したのであった」。

 高尾氏は、『皇室典範の制定経過』を、関屋貞三郎第一部会長代理による次のやうな総会報告を抄記して、締めくくってゐる。

 「天皇の地位に鑑み皇統に属する男系の男子として天皇の地位に御着きを戴いたという以上責任を果して戴く為には常に終身其の地位に留って戴くことが必要であると考えられること、又歴史上から見ましても御退位を認めることに依りまして種々の混乱を生じ、又所(いは)謂(ゆる)上(じょう)皇(こう)制度のようなものに伴う弊害の生ずる虞(おそれ)があり、御退位のないことが皇位継承を安全ならしめ皇統を護持する所(ゆ)以(ゑん)であること、(中略)などの見地から致しまして、此の問題を解決して従来通り皇位継承の原因は天皇の崩御のみに限ることに相成った次第であります」。

   4.この度の大御心

 70年前、昭和天皇はGHQが発出した「公職追放令」の訳文をご覧になって、「これは私にも退位せよといふナゾではないだらうか」と真剣に思ひつめられた。藤田尚(ひさ)徳(のり)元侍従長は、その際の昭和天皇の御心境を次のやうに振り返ってゐる。

 「国のためになるなら退位も辞さない。それは退位して、陛下の一身が楽になるというためではない。安きにつくのではなく、国民のため、日本再建に役立つのならば、戦争の責任をとって退位する覚悟、これが陛下の御心境であった」(藤田尚徳著『侍従長の回想』、講談社学術文庫、平成27年)。

 この度のメッセージに込められた御意向は、天皇としてのお務めを長年にわたり全身全霊をもって果してこられた御体験をもとに、日本の神々に最も近き座にをられ人の上に立たれる天皇のお立場について、熟慮を重ねてこられた御省察によるものと拝される。御高齢ゆゑに「譲位制適用」の御希望を示唆された今回の御提起は、事柄の性格上、天皇のお立場にあられるお方にしか出来ないことであった。

 近現代の歴史を顧みれば、天皇陛下御(おん)親(みづか)らが御意向を表明されることは別に意外なことではない。しかし、この度のメッセージは、「現行の皇室制度に具体的に触れることは控へながら」と断られつつ、皇室制度に具体的に踏み込んでをられる。陛下は「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果せる者が天皇の位にあるべきである」とお考へのやうである。今回の陛下のメッセージは、「退位して、陛下の御一身が楽になるといふためではない。国にとり、国民にとり、また、陛下のあとを歩まれる皇族方にとって、『高齢天皇の御譲位』といふ対応策が、『最も望ましい天皇御在位の在り方』には必要不可欠と思はれるが故の、率直な大御心の御表明であった」と、私は受けとめてゐる。

   5.臨時特別措置法による一代限りの譲位措置が妥当か

 摂政制度があるので、例へば摂政を置く条件に「高齢で国事に関する行為を自ら行ふことが難しくなったとき」を加へれば、それで済む問題ではないのかといふ意見も当然ながらある。だが、メッセージをお受けした今、新たな観点から検討すべきではなからうか。

 歴史上の天皇の御譲位では、天皇は、譲位された後も「太(だい)上(じょう)天皇」の称号を保有され、その高く貴い御地位を維持された。今上陛下の場合にも、同様の称号のもと、国民を終生をお見守り下さるやうなお立場になられることが望まれる。政府をはじめ関係者は、まづは、臨時特別措置法による今上陛下御一代限りの譲位措置について、慎重に検討を重ねるのが妥当であらう。皇室の基礎を鞏固ならしめる範囲において、また、鞏固ならしめる方向に向けて、慎重に検討を進めていただきたい。

(元新潟工科大学教授)

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 編集後記

 “歴史に学ぶとは知るだけでなく「心で感じる」ことだと気づいた”、“大事なものは目に見えない”とは、「合宿教室(西日本)」に参加した学生達の瑞々しい感想である。本号からその研修の一端をお察しください。「合宿教室(東日本)」(9月2日~5日)は次号に掲載の予定。

 8月8日午後の陛下による御放送には、粛然とさせられた。あまりにも甘えてゐたと顧みて慄然となった。ことは国柄に関する比類無き事項である。かくなる上は、「悠久なる国家理念」を踏まへて慎重が上にも慎重に検討して頂きたい。
(山内)

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