国民同胞巻頭言

第658号

執筆者 題名
理事長 今林 賢郁 憲法改正に向けて、
- いまこそ「断固たる意思表示」を! -
澤部 壽孫 若山牧水の歌
- 自分を超えた大きな「かなしみ」を歌ふ -
山内 健生 被爆都市・広島に染み込んでゐる「戦後思想」(下)
- なぜ「平和」の語が頻用されるのか -
北濱 道 西岡力先生の御講演をお聞きして
- 「激動する朝鮮半島と日本」 -
新刊紹介

 「個人の自由や民主主義を尊び、武力を放棄した平和主義を厳守し、その平和主義の下で経済成長を目指す」―戦後日本が掲げたこのやうな価値観の象徴が日本国憲法であった。就中(なかんづく)軍備廃止を謳った「平和主義」は絶対に侵してはならない聖域として君臨し続けてきたが、ここで改めて確認して置きたいことは、日本国憲法は敗戦後の主権喪失の被占領期にGHQが草案を作成して我が国に強制したものであり、そして、アメリカの占領政策の究極目標が日本からの軍事的脅威を完全に排除(日本の非軍事化)することであり、そのために「日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証」される時まで「日本国領域内の諸地点は占領せらるべし」とされたのである(ポツダム宣言七項)。

 さうであれば、憲法が謳ふ絶対平和主義とは、日本解体を狙ったアメリカの明白な意図が裏返しにして揚言されたものであることは明らかではないか。このやうな憲法を神聖不可侵として崇め、その一方で、自国の平和の維持をアメリカの軍事力に委ねる―この精神の有り様が今、根幹から揺さぶられてゐる。中国の領土拡大への覇権主義と法治を一顧だにしない無法ぶりは、「ハーグ仲裁裁判所の裁定」(7月12日)を紙くづと決めつけるなど一層露骨さを増し、アメリカ国内では内向きのアメリカ第一主義が広く深く浸透しつつある。自国の独立と安全をいかに確保するか。われわれは否応なくこの命題への対応を迫られてゐる。

 今回の参院選の結果、憲法改正の発議に必要な三分の二の議席が参院でも確保され、いよいよ憲法改正論議が現実味を帯びることとなるが、今後はどの条文をどのやうに改正するのかが議論の焦点になるものと思はれる。報道によれば、自民党の高村副総裁は七月五日のBSフジの番組で、「改憲勢力が(発議に必要な参院の3分の2以上の議席を)取ったとしても、10年先、何年か先は別だが、憲法九条が改正される可能性はゼロだ」と述べたといふ。自民党副総裁にしてこの言である。政治に携はる者の見識と覚悟の程が今ほど問はれてゐる時はないと言ふのに、ここには固い岩盤(戦後70年間の惰性的政治の中で広く染み込んだ自存努力否定の「平和主義」といふ名の岩盤)を打ち砕く気概の片鱗も見られない。

 今、わが国に必要なのは、やれることからやるのではなく、やらねばならないことをやり抜く断固たる意思と術策の提起である。安保環境の激変を考へれば、九条(二項)の改正に取り組むことこそ文字通り「緊急事態」ではないのか。好き嫌ひの感情や人気やムードなどに流されやすい世論に阿ることなく、議員諸氏は己の信じるところを真正面から国民に語りかけて貰ひたい。

 今一つ、注意を怠ってはならないことがある。共産党の「統一戦線」戦術である。共産党綱領(2004年)には、「民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など…すべての人びとを結集した統一戦線によって実現される」が、「当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない」とある。今回の選挙における野党共闘は「平和安全法制の廃止と集団的自衛権の行使を認める閣議決定の撤回」といふ「さしあたって一致できる目標」のもとに「世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて推進」されたのである。

 今回の共闘で手応へを掴んだ共産党は次の衆院選挙でもこの戦術を進める意向を示してゐる。自衛隊は違憲であるが当面は活用すると言ひ、「前文をふくむ全条項をまもる」と記しながら、憲法第1章(天皇)については「将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」とする。時機がくれば天皇制を廃止すると言ふことである。このやうな体質を隠れ持つ共産党の擡頭を許してはならない。

 内に固め外に攻める秋(とき)である。

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   牧水の歌を貫いてゐるもの

 若山牧水(本名は繁)は、明治18年8月24日に宮崎県の北部、坪谷川上流の僻村、坪(つぼ)谷(や)(現・日向市)に生れた。幼い頃から正義感が強く几帳面であったと言はれる。明治29年に坪谷尋常小学校を卒業し、坪谷村の父母の膝下を離れて延岡高等小学校、延岡中学に進む。この頃文学に対する憧憬が深まった。

 若山家は祖父、父・立蔵(りゆうぞう)と続いた医者の家であったが、医者とはならず、歌を詠み続ける生涯であった。延岡中学校を卒業する明治37年1月(20歳)頃から「牧水」といふ号を用ゐるやうになる。「牧」は母の名・マキから、「水」は生家の前を流れる坪谷川の川の水、それに限らず渓(たに)や雨などの水を貴んだところから、そのふたつを取って号とした。既に18歳の時(明治35年)、青葉若葉と題して「坪谷 白雨楼」の号名で九首の歌を詠んでゐた。

   行き暮れてむしろを夜具の炭小屋に炭の枕よ啼く時鳥
   青葉若葉風にさゆらぎ月は出でぬ松の古きに庭の靑きに

などである。

 2月に日露戦争がはじまった明治37年、家運が傾いて父にはその学資を出すだけの余裕はなかったが、義兄の援助で早稲田大学国文学部英文科に入学し、北原射水(後の白秋)、中林蘇水と知り合ひ、「早稲田の三水」と呼ばれた。母親や年の離れた姉は歌を詠むことよりも、生計を立てることを強く望んだが、歌を詠まないことは牧水にとって死を意味したので、その葛藤のなかで、貧乏に耐へて彼は歌を詠み続けた。

 日露戦争後の自然主義の影響を受けながらも、万葉集などを読み、その作品は現実を直写して実感味の豊かなものとなった。明治40年、23歳の時に牛込に移った折には、

   うつり来し宿のありさまふるさとの母に書く夜の春の雨かな
   西の窓みなみの窓もいづれみな雲見るによし家たかきかな

と詠んだ。

 彼の歌には漢語は殆ど使はれてゐない。まとまった歌論はないが「概念から詠むな、実感で詠め、すなはち感じたままを詠め」と言ってゐて、歌でそれを示した。

 牧水の歌を貫いてゐるのは「かなしみ、さびしさ」である。彼のいふそれは自分の「かなしみ」や「さびしさ」ではなく、自分の力では到底及ばない「天地の大自然」とともにある「深い大きなかなしみ」である。

 われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ(自分にも分らないかなしみに襲はれて今日も自分は歌を詠んだ)

   夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて来よ

あるいは

   悲哀(かなしみ)よいでわれを刺せ汝(な)がままにわれ刺しも得ばいで千々に刺せ

と「かなしみ」に呼びかけてゐる。

   白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

の歌には、周りに同化しないで漂ってゐる白鳥への切ない気持ちがうたはれてゐる。

 明治40年、大学3年の夏に友人と京都に同行した牧水は友らと別れ岡山、広島に遊ぶが、その折に詠んだ歌、

   けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴(なら)しうち鳴しつつあくがれて行く
   (何か得難いものが得られるのではないかと心を躍らせながら今日も旅を続けてゐる)
   幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

(幾山河越えて行ったとしてもいのちの根源である寂しさが終る国は決してないと思ひつつ今日も旅をしてゐる)は有名であり、彼の人生観、自然観が如実に表れてゐる。

   激しき恋の末に

 この頃運命の人・園田小枝子(そのださえこ)に会ひ世紀の恋に落ちる。

   ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま
くちづけは永かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る

等々熱情を傾けつくして歌ってゐる。小枝子は牧水より一つ年上で既に結婚してゐて二人の子供がゐたが、胸を病んで家を離れて須磨の療養所に入ってゐた頃、神戸で牧水と出会ったのである。彼女はそれから家庭に帰らず40年の春ごろ東京に出てきた。非常に美しかった彼女に魅了されたのである。美しくはあっても歌についても何の関心もなかったから、歌人・牧水について真の理解者とは成り得ず結婚は不可能であることを小枝子には分かったが、若い牧水にはそれが分らなかった。

 明治41年に早稲田大学を卒業し、その年に処女歌集『海の声』を出す。そこには「白鳥は…」の歌も「幾山河…」の歌も載せられてゐる。明治42年に

 あさましき歌のみおほくなりにけりものの終りのさびしきなかに
逃れゆく女を追へる大たはけわれとぞ知りて眼眩むごとし

と詠み、43年には

   わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな

と詠んだ。牧水が小枝子に失恋した頃、信州に旅したときの歌

   白玉(しらたま)の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ

は有名である。

 小枝子との五年間の熱烈な恋が破局を迎へてから二年後の明治45年5月、牧水28歳の時、太田喜志子と恋に落ちる。かねがね牧水の歌に感動してゐた喜志子は、小枝子のことを隠さずに語る牧水の清らかに澄んだ瞳に打たれて牧水と結ばれる。牧水の希望で式も何も挙げない、まことにわびしい、ひっそりした結婚であったが、牧水は人生最良の妻を得て、歌を詠み続ける。

 妻と四人の子供に恵まれた牧水は31歳の時に

   妻や子をかなしむ心われと身をかなしむこころ二つながら燃ゆ

と詠んだ。その8年後には

   人妻のはしきを見ればときめきておもひは走る留守居する妻へ

と詠んでゐる。そんな夫のことを喜志子は「やみがたき君がいのちの飢(うゑ)かつゑ飽き足らふまでいませ旅路に」と詠んだ。牧水、喜志子と四人の子供達の姿を見てやうやく母・マキは安堵したと思はれる。

   友情、父母、山桜花

 彼はまた友情に篤い男であった。人生観、自然観は違ったが石川啄木との交流が深く、喜志子との結婚直前の明治45年四月、啄木の臨終の際には家族以外では彼一人が立ちあってゐる。

 大正11年「友をおもふ歌」と題し、

   いま来よと言ひ告げやらば為し難き事をして来む友をしぞおもふ
   何事のあるとなけれど逢はざればこころはかわく逢はざらめやも

などの六首の歌を詠んでゐる。今来てくれと頼めば困難な局面を打破して駆けつけてくれる友を牧水は持ってゐたのである。

 父母を心に懸けてゐた牧水には父母を思ふ歌は多い。父は唯一の理解者であったが、永い貧乏の苦しみから生計を先づ立てよと迫る母と姉との葛藤を牧水は次のやうに詠んだ。

   われを恨み罵りしはてに噤(つぐ)みたるははのくちもとにひとつの歯もなき
   姉はみな母に似たりきわれひとり父に似たるもなにかいたまし
   母をおもへば我が家は玉のごとく冷たし父をおもへば山のごとく温かし
   父と母くちをつぐみてむかひあへる姿は石のごとくさびしき

 明治45年11月、父の死に直面した彼は故郷にしばらく滞在するが歌を詠まんとする心は愈々高まって、上京の念止みがたく、翌大正2年つひに母の承諾を得て上京する。

 大正九年、沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住した。大正11年3月に伊豆湯ヶ島温泉に出かけた牧水は、三週間ばかり滞在して狩野川上流の渓谷にある山々の桜が咲き始める頃からすっかり散り終へて若葉になるまで心ゆくばかりその花を愛(め)で23首の歌を詠んだ。この桜の歌は古来の桜を詠んだ歌の中でとくに傑出した作品だとも言はれてゐる。

   うすべにに葉はいちはやく萌(も)えいでて咲かむとすなり山(やま)櫻花(ざくらばな)
   うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花(ばな)
   山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき

   大正天皇奉悼の歌

 大正15年12月25日、大正天皇崩御の日に「23月25日早暁終に崩御の報を聞く、かなしみうたへる歌」として7首の奉悼の歌を詠んだ。

   とけざりし我等が憂ひあはれつひにけふのなげきとなりにけるかも
うつし世にをろがみまつる稀なりしわが大君は神去りましぬ

 彼の高弟である大悟法利夫はその著『若山牧水』に「牧水はこと皇室に関する場合は常にはなはだ謹厳な態度を失わなかった。しかもその態度は少しも鹿爪(しか づめ)らしいわざとらしいところがなく、実に自然な素朴なものであった」と記してゐる。

 昭和3年9月17日、数へ44歳で、沼津の自宅で亡くなった。

 西欧文化偏重の明治末年から大正期の時代思潮のなかにあって、それに染まらず激しく生きた牧水の歌は今でも私たちの胸を打つ。牧水は「旅と酒の歌人」として名高いが、その歌はもっと幅広く観賞されるべきだと思ふ。拙い一文がその一助になれば幸ひである。

(元日商岩井(株))

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   平和記念都市建設法といふ「網」

 被占領末期の昭和27年3月、広島市は平和記念都市建設法に基づく「広島平和記念都市建設計画」を決定してゐる。平和記念都市の中の「平和記念公園」だから、そこに建てられる碑も慰霊碑ではなく「平和都市記念碑」(同年8月6日除幕)といふことになったのだらう。平和記念都市建設法の制定(昭和24年)にともなって「この地区一帯を平和記念施設として整備することになった」旨が平和記念資料館(原爆資料館)のボードに記されてゐた。

 従って平和記念都市建設法→平和記念都市建設計画→平和記念公園→平和都市記念碑→平和記念資料館→平和記念式典といふ「平和頻出の流れ」は大筋としては間違ってはゐないと考へる。全ては広島復興のための特別法の「名称」に由来してゐる。もっとも平和記念式典は昭和22年の「広島平和祭」と「慰霊祭」に始まるとされるから、その出発点は平和記念都市建設法制定の前ではある。しかし「被爆の事実」が常に「平和の連呼」を伴って想起される広島の現状に、平和記念都市建設法が大きな影を落してゐるのではないかとする拙考の趣旨は真相から逸れてゐるとは思はれない。被爆が「好ましき平和の始まり」と表裏する出来事として甦るのが「平和記念式典」だからである。

   「人類の明るい未来を切り拓いていくことを誓う言葉」

 では、原爆を投下した者の存在を曖昧にしてゐると批判されて来た慰霊碑ならぬ公式名・広島平和都市記念碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」といふ銘文についても考へてみよう。

 碑が除幕された昭和27年の秋、広島市を訪れたインドのパール博士(東京裁判の際の11人の判事の中で、唯一の国際法の専門家。所謂日本無罪判決で名高い)は、「過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか」「ここで祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である…」と疑問を呈してゐた(田中正明著『パール博士のことば』。ストレートに慰霊碑と受け止めての博士の発言だったに違ひない)。当然に国内からも批判の声が竣工直後から挙がってゐた。その声は言論の域を越えて、碑に掛けられた赤い塗料が中の死没者名簿を汚すといふ事件(平成14年3月)や、「過ちは」の箇所がハンマーで傷つけられ碑石を造り直す事件(平成17年7月)まで引き起してゐる。

 かうした乱暴は無論許されないが、次のやうな広島市のホームページはどうであらうか。

 「原爆死没者慰霊碑の碑文は、被害者である日本が〝過ち〟を犯したような文言となっており、改めるべきではないか」との設問への「回答」である。

  (前略)…「二度とヒロシマを繰り返してはならない」と決意しました。そして、原爆犠牲者の冥福を祈るとともに、戦争や核兵器の使用という過ちを繰り返さず人類の明るい未来を切り拓いていくことを誓う言葉として、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻みました。碑文の趣旨は、原爆の犠牲者は、単に一国・一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです。つまり、碑文の中の「過ち」とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています。…(後略)

 ここでは原爆を投下した者の「主体」は見事にぼかされ、「原爆犠牲者の冥福を祈る」としながらも、焦点は「人類の明るい未来を切り拓いていくことを誓う」方向に遷されてゐる。文明史的には「人類全体の平和のいしずえとなって」云々は分らなくはないが、遺族にとってはこの上ない残酷な言葉であらう。「戦争」と「核兵器の使用」を同列に置いたことで、核兵器の使用(原子爆弾の投下)が相対化されてゐる。投下した主体に焦点が絞り込まれないやうに無理に筆を進めてゐる感じがして仕方がない。「人類全体が犯した…」などとあるが、自他をはぐらかしてゐるやうに感じられてならない。

 右の「回答」の締めくくりは「今日では、碑文に対する疑問の声はほとんど聞かれず、本市としては碑文の修正は全く考えておりません」となってゐて、批判の声を突き放してゐる。しかし、「文言を改めるべきではないか」との問を自ら設けて、縷々回答してゐるところから推測すると、「今日では、碑文に対する疑問の声はほとんど聞かれず」云々は本当だらうかとつい思ってしまふ(かうした問答が市のホームページに載せられてゐること自体、疑問の声の存在を物語ってゐるのではないか。もし疑問の声が聞かれなくなってゐるとしたら、そのこと自体が問題であらう)。

   GHQは「被爆を直視させたくなかった」?

 被爆都市・広島の復興再建のための特別法が、もし「歴史文化都市建設法」とか「山陽産業中核都市建設法」とかといふ名称だったとしたら、どうなったであらうか。広島市の復興と繁栄は今日の姿とそれほどは違ってゐなかっただらう。その場合、平和祈念公園はあり得ても「平和記念公園」や「平和記念資料館」はなかったのではなからうか。「平和都市記念碑」はストレートに慰霊碑となってゐたのではなからうか。

 平和記念都市といふ網を被せられたことによって、「被爆」は「平和記念都市への第一歩」となって、「平和」の起点といふことになったのである。GHQ(連合国総司令部)は「平和記念都市建設法」といふ名の地域復旧再建の特別法を制定することで、「原爆投下は平和の到来を早めた」とする自らの立場を広島市民の間に浸透させようとしたのではないのか。さうした思想改造を目論む者がゐてもをかしくはない。占領統治とは「日本人再教育」のための一方的な情報攻撃だったのだから。どう考へてみても、8月6日の式典の中心に「平和都市記念碑」が据ゑられてゐるのは只事ではない。

 平和記念公園の建設は、設計公募(昭和24年4月)に応じた東京大学・丹下健三教授のグループに委ねられ、平和都市記念碑(昭和27年8月除幕)も丹下氏の設計である。死没者名簿を納める石室を半長円型の石造屋根が覆ふ形で、銘文は石室の部分に刻まれてゐる。市のホームページには「原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから屋根の部分がはにわ(埴輪)の家型をしています」と記されてゐる。もしさうならば、なぜ「慰霊碑」とならなかったのか。やはり「平和記念都市」として広島市の復興を図るといふ建前が、ここに影を落してゐるとしか考へられない。

 被爆死没者の慰霊のあり方を問はうとする際に、いつも引っ掛かるのが「過ちは繰返しませぬから」の碑文であるが、その根は深いのだ。銘文は「平和記念都市」の建設といふ目眩ましを浴びせられた結果のひとつに過ぎない。略称とはいへ平和記念式典といふ言ひ方も大問題だし、平和都市記念碑も平和記念資料館も問題である。慰霊碑として見られてはゐるが、名実ともに兼備はった慰霊碑はここにはないのだ。勿論、学校や職場ごとの慰霊碑や供養塔は多く建てられてゐる。しかし、8月6日の広島市主催の「慰霊式典」の中核にあるのは公式名・平和都市記念碑なのである。銘文もをかしければ、碑の名称もをかしい。

 8月6日が巡って来るたびに、多くの人達が拝礼し祈りを捧げてゐる現実をまづ正視しなければならない。しかし「平和都市記念碑」のまま、さらに50年100年と時が経過すると、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」の本来的な正式の呼称が消えて、略称の「平和記念式典」だけになってしまふかも知れない。何しろ「…人類の明るい未来を切り拓いていくことを誓う言葉」を刻んだ碑に額づいてゐるのだから。

   「原爆ドーム」の世界遺産登録に過剰反応した米国だったが…

 平成7年12月、わが政府の推挙で「原爆ドーム」がユネスコの世界遺産に登録された際、米国司法省は直ちに旧軍関係の日本人16名の入国禁止措置を発表してゐる。原爆投下を日本側が直視し始めたと見ての対抗措置だっただらう。被爆ドームは「時代を越えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑」として登録されたのであって、米国側の警戒は的外れといふ他はなかった。

 平成22年8月6日、初の米国政府代表としてルース駐日大使が参列した。取材したニューヨーク・タイムスの記者は広島の人々の反応に「米国に対する敵意のほとんど完全なまでの欠落」を見た(同年8月16日付産経)。後任のケネディ大使も引き続き参列してゐる。今回のオバマ大統領に先立って4月、G7外相会合で広島を訪れたケリー国務長官らは被爆資料館を出た所で「各国旗の手旗を振る地元の小学生800人の歓迎を受けると手を振り返した」(4月12日付産経)のであった。

 かくしてオバマ大統領の広島訪問の環境は整ったのであった。

   なぜ主体客体にこだはるのか

 原爆投下の主体客体になぜ拘泥するのか。勿論「反米」を言はんがためではない。「人類全体が犯した…」

 などと言ってゐる限り、わが国の精神的立直りは難しいと考へるからだ。投下の主体を見据ゑることで、「被爆」をわが事として受け止め得るのではないのか。そして初めて自国の置かれた状況が見えて来るはずだ。自国意識の確立があってこそ生きた国際関係が認識できる。自らを踏まへない「世界平和」論や「人類全体」論は戦後思想の特徴だが殆ど空論に近い。

(拓大日本文化研究所客員教授)

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 第19期(第28回)国民文化講座は、去る6月11日靖国神社「靖国会館」にて開催された。講師は東京基督教大学教授で「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)会長の西岡力先生であった。

 今回、北朝鮮による拉致被害者救出のため長年尽力して来られた西岡先生から、救出活動に関する生々しい体験をいくつも伺ふ事ができた。それだけでなく、核開発に突き進む現在の北朝鮮の政治情勢とその意図、そしてさらには我が国の一部の人々の思想の混迷にも改めて気付かせられた。具体的な事例を伴ったお話は示唆に富む刺激的なものばかりで、その一端なりとも多くの方々にお伝へいたしたく、特に私の印象に残った箇所に限られるが筆を執った次第である。

   国会議員のいい加減な言動

 本講演の数日前に発売された『週刊文春』に、二年前モンゴルで拉致被害者・横田めぐみさんのご両親・横田滋さん早紀江さんご夫妻がお孫さんに会はれた時の写真と記事が掲載された。記事は、ジャーナリストで参議院議員の有田芳生(よしふ)氏(民進党、去る7月10日の参議院選挙で比例区で二度目の当選)の手になるもので、あたかも写真を横田夫妻から預かったかのやうに書かれてゐた。実際は横田さん達はお孫さんと会った際の約束を守り写真を出してはゐない。では有田氏は一体どこからその写真を入手したのか。横田家からでなければそれは北朝鮮以外にない。有田氏は去年10月訪朝してをりそれなりのパイプを北朝鮮に持ってゐる。

 それでは、なぜ北朝鮮はこの時期に有田氏にその写真を預けたのか。写真だけを見ると、大変幸せさうに見えて、拉致問題が終ったかのやうに思ふ人がゐるかもしれない。有田氏は参議院の予算委員会と拉致特別委員会で二回、政府に対して、拉致問題は膠着してゐるから、先に人道問題を解決したらどうかと言って、横田さんとお孫さんの面会の機会をつくるために、先づお孫さんを日本に呼んだらどうか。横田さん達もそれを望んでゐる筈だからといふ趣旨の提案をしてゐる。

 同様の話が繰り返しマスコミに出て来たので、去年の9月に、横田さん達は拉致被害者の家族会と一緒に記者会見をして、横田家としては孫を日本で呼んで欲しくない、問題は娘(めぐみさん)を含め被害者全員を救出することであり、北朝鮮で生まれた子供達も含め一緒に全員が帰って来ることであって、モンゴルで孫に会へたのは有り難かったが、そのやうなことではなく全員の帰国であると明確に考へを表明してゐる。孫と面会するやうな話があったとしても会ひませんとはっきり言ってゐる。

 それにも関らず、有田氏は右のやうに全く別のことを言って、さらに北朝鮮から来たとしか考へられない「幸せさうな写真」を出してきた。それを横田さんから預かった写真であるとして公開した。しかし、横田さんから否定されると、今度は、横田さんと相談の上自分が独自に入手した写真を公開したのだといふやうに話を変へた。

 かういふ重大な問題で嘘をつくといふことは、議員として公人としていかがなものか。かうした国会議員がゐるといふことが問題であり、大いに疑義を覚える。(本講義を聴講するまで私は、恥かしいことだが拉致問題について大まかなことしか知らず、有田氏の存在自体気にも留めてゐなかった。先日の参院選は本講義の1ヶ月後であり、同氏の動向に私も気を留めるやうになった。先般の選挙ではご承知通りの再選で、考へさせられたが、今後氏の言動を注視したいと思ってゐる)。

   北朝鮮の核ミサイル開発の狙ひ

 1998年、北朝鮮が発射したテポドンⅠミサイルが日本を飛び越えた時、韓国にゐる元北朝鮮のミグのパイロットだった空軍大学教授に会ひに行って、この大陸間弾道弾が北朝鮮の軍事戦略の中でどういふ意味を占めてゐるかといふことを聞いた。

 その際、教授はじっと私の顔を睨んで、「貴方は北朝鮮問題の専門家なのにこんな基礎的なことを知らないのか。自分達は士官学校で、朝鮮戦争で勝てなかったのは在日米軍基地があったからだといふことをずっと教はってきた。アメリカ本土から援軍が来る前に奇襲して韓国の主要部分を取れば勝てたのに、在日米軍基地から米軍が来た。仁川上陸作戦といふのは、神戸港とか博多港を使って行った。ハワイ、グァムからではなかった」旨を語ったのであった。

 そして、現在、北朝鮮はアメリカ本土まで届く核ミサイルを所有することで、アメリカ国内に反戦世論を起すことを狙ってゐる。勿論アメリカと核で対抗したら負ける訳だが、なぜ韓国のためにロス・アンジェルスやニューヨークが危険に晒されなければならないのかとアメリカ国民が思ふやうになれば北朝鮮は勝てる。また東京を攻撃する力を持てば、沖縄の基地から海兵隊が北朝鮮に行くことを日本が認める状況になった場合には、東京を撃つぞと言へる。

 日米安保条約の第六条で、極東有事の際は日本が攻撃されてなくても在日米軍基地を使へることになってゐるが、条約上事前協議の対象になってゐる。勿論アメリカは、日本政府がノーと言っても、自国の兵士が危険にさらされてゐる時に基地から発進しないといふことはあり得ない。日本がノーと言った瞬間日米同盟はなくなると思ふが、しかしそれを北朝鮮は狙ってゐる。

 1960年代、まだ東西冷戦の最中で共産党側が負けることが分ってゐなかった時から、北朝鮮は実験用原子炉を持ち核開発をしてゐた。冷戦で共産主義陣営が崩壊した結果、体制維持のために核開発をしてゐるといふ解説が多いが、それは間違ひだ。北朝鮮はアメリカ本土まで届く核ミサイルを持つためには他のあらゆることを犠牲にしてまでも取り組んできた。金正日は人口の15パーセント、300万人を餓死させた。しかし核開発はやめなかった。最優先課題でやってきた。その路線を金正恩も引き継いでゐる。

   歴史の教訓─半島を敵対勢力に取られないやうにするために、どうするか─

 日本の歴史は、朝鮮半島全体が反日勢力の手に落ちた時に危機が来ることを教へてゐる。古く七世紀、白村江の戦ひで唐新羅の連合軍に敗れた後、防人が関東から九州まで行って水城(みづき)(土塁・水濠)を築いて守った。唐と新羅が連合して九州に攻めて来るのに備へた。13世紀、鎌倉時代にはモンゴルが半島の高麗を征服した後に二度日本に攻めて来た(元寇)。逆に戦国の乱世を鎮めた秀吉は半島から明まで行かうとして、明が危機感を持って戦争になった。

 明治維新後の日清戦争、日露戦争では半島を反日勢力に取られては日本の安全保障は保てないと必死の戦ひをした。日本の朝鮮統治は、経済的には明らかな持ち出しのマイナスだったが、安全保障にとって絶対に譲れないからであった。

 朝鮮戦争 を戦ったマッカーサー将軍も、解任された後、アメリカ議会で、「日本を守るためには朝鮮半島そして満州まで確保しないと守れない。

 だから、前の戦争で日本がやったことは理解できる」といふ趣旨の証言をしてゐる。その半島の南を戦後はアメリカが守って来た。だから金正日、金正恩はアメリカまで届く核ミサイルを持ってアメリカを揺さぶらうとしてゐる。アメリカの世論の中に、核ミサイルを北が持たなくても韓国を守るべきなのかといふ議論が起きてゐる。韓国では北の工作もあって「反米の声」が国の半分位を占めるやうになってゐる。従って半島が核を持つ反日国家で統一される可能性も排除できない。逆に北朝鮮の金正恩政権が先に倒れれば、半島全体が自由民主主義になって、中国に対しては、国内の自由化民主化に繋がる強い圧力になる可能性もある。

   朴正煕大統領は1960年代、次のやうな演説をしてゐる。

 「韓国のことを自由の防波堤だといふ人がゐるが私はそんな立場を取らない。防波堤とは守りだ。共産主義の波から守る防波堤だといふことだがさうではない。我々は自由の波だ。平壌から北京まで行き、北朝鮮そして中国を自由化する」と。

 東アジアでは共産党の一党独裁体制が中国に残ってゐる。北朝鮮はさらに二周遅れで、中国では廃棄された毛沢東の奪権闘争であった文化大革命をやってゐるやうなものだ。その文化大革命をやってゐる中で核武装をしてゐる。東アジアでは冷戦は全く終ってゐない。さういふ中で北朝鮮に拉致被害者といふ人質を取られてゐるのが我が国の今の状況だ。一日も早く人質を取り戻して、全体の状況の中で半島を敵対勢力に取られないやうに、そして取られることもあり得るとして抑止力の準備をしておくといふのが、今我々が与へられてゐる緊急の課題である。

   御講演を伺って

 お話の中で先生は、交渉について、「物事が動く時は、半年とか数ヶ月は全く動いてゐないやうに見える時が必要です。本当に微妙な交渉をする時は、途中経過をマスコミに発表したら絶対にうまく行きません」と不思議と納得させられる深い自信を感じさせるお言葉を発せられた。これまでの困難な交渉体験を通しての確信の御発言かと拝された。拉致被害者の一日も早い帰国実現を祈りつつ、「抑止力の準備」に資すべく、自分なりに研鑽に努めたい。

(元(株)アルバック)

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紺野大介訳 税別4000円
佐久間象山 省諐録
Record of Conscience
錦正社 刊

 本書は「英完訳書」の第3作目として四月に刊行された。平成7年に10年を要した第1作目の英訳・橋本左内『啓発録』(平成17年改訂版)が、平成15年には5年を懸けた第2作目の英訳・吉田松陰『留魂録』(本年4月第2刷)が、上梓されてゐる。この度は7年の年月を要したといふ。

 本書では、象山の墨跡を含む関連する多くの諸文書・諸資料(ほとんどが写真で掲載)、関連出版物の一覧、それらについての解説などが詳細で、それだけでも一読一見の意味がある。

 さらに当該文献は当然だが、「まえがき」から人物の生涯、諸々の諸資料の説明に至るまで全頁が対訳といふ徹底ぶりである。それは「海外大学や研究機関等に無償で配布・紹介している」からであり、その英文も英国在住のプロの翻訳家の校閲と添削を経たものといふ。

 訳者の紺野大介氏(昭和20年生れ。工学博士)は次のやうに記す。

《自然科学(流体力学、流体工学、流体機械)を専門とする筆者の余技とはいえ、本書の英訳を志して7年が経過した。『啓発録』英訳の試みからは合計22年が経った。/今回はからずも幕末維新期という日本歴史の断面において、橋本左内の『啓発録』、吉田松陰の『留魂録』、佐久間象山の『省(せい けんろく)諐(せいけんろく)録(せいけんろく)』という、いわば幕末三部作を曲りなりにも完成させることができ、肩の荷をおろした感がある。/乱暴な回顧が許されるとしたら、この幕末三部作英訳を終え、筆者は「橋本左内は例えば井伊直弼が最も恐れたほどの不世出の天才的政治家、吉田松陰はペリー黒船に飛び乗ったほどの胆略最高の至誠的教育者、佐久間象山は国力を高めるため西洋技術を本気で移植しようとした最右翼の理系的思想家であった」―と愚考している》

 三人の先覚者への右の短評を読むだけでも筆者の見識の一端を窺ひ知ることができるだらう。「幕末三部作」と言ひ得て妙であって、詳記するまでもなく、『啓発録』は左内15歳の折の自立覚醒の書であり、『留魂録』は安政の大獄で刑死した30歳の松陰が知友に宛た文字通りの留魂の書であり、『省諐録』は門下の松陰の密航を唆したとして44歳で下獄した象山が出獄後に記した憂国慨世の書で、この中で彼の「東洋道徳、西洋芸術」(儒教的道徳と西洋の技術)を表裏すべしが説かれてゐる。まさに明治維新への胎動を物語る「幕末三部作」である。

 「奉職の余技として主に休日の土日などを利用しながら取り組んできた」と記す筆者は、技術者として地球的規模で活躍されてをり、英仏の大学や研究機関で「武士道等に関する招待講演を実施」されてゐる。

 英訳書刊行の動機について英訳
『留魂録Soulful Minute』の「はじめに」
で、左のやうに述べてゐる。

 33年間で世界約60ヶ国300都市を回ったが、「彼等は“日本を知らない”か、“知っているが尊敬しない”のどちらかであった。金はばら撒いてきたが、尊敬される国家戦略、敬意を感じさせる美学、とでもいったものが無かったからであろう」「主要国から見ても、日本は限りなく軽い存在、大国に対し萎縮し、一方で絶対精神が弛緩した状態なのではないかと思われる」「個々人の“民度”が限りなく下落した結果といえよう」「米国などよりもずっと歴史の豊かな日本で、過去と全く結びつかずに未来を模索することは、表現できないほどの大きな損失である」「少なくとも幕末維新まではその対極あったことは歴史が証明している。正義を貫徹するためには血を流す覚悟があった」「安っぽい国益や経済援助ではなく、外国人はこういった日本、こうした残像のある日本人にこそ敬意を払っているのだと愚考、愚察している」云々。

 そして、外国人のみならず日本人にも再考の一助になれば幸甚であるとして、「日本人の自力による“民度革命”はこれからが本番である」と記す。本書及び英訳『留魂録』を拝読して、「残像のある日本人」に焦点を中(あて)る教育が肝要だと強く感じた。全てが対訳であるから、中途半端な「小学校英語」など止めて国語力を養ひ中学校からの英文読解に力を入れて、高校生の英語学習の教材にしたら一石二鳥だとさへ思った。労作を広くお薦めしたい。

(山内健生)

 

 

お知らせ─(ご希望は事務局まで)─
『大日方学君 遺文・遺詠・追悼文集』
頒価 送料込 2500円

 

訂正・6月号の3頁2段目12行目 「匂当→勾当」、5頁4段目6行目「杉浦千畝→杉原千畝」。誤植でした。

編集後記

 何事によらず失敗なきよう努めるが、事が「国防」に及ぶと、全力を出すな!手足を縛れ!となる。現憲法下、世界絶無の自虐現象だ。
(山内)

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