国民同胞巻頭言

第656号

執筆者 題名
廣木 寧 「平成生まれ」のあなたに
- 現在をよりよく生きるために -
横畑 雄基 塙 保己一と『群書類従』
- 盲目の大学者による膨大な和書の校訂と編纂 -
古賀 智 大正人に捧げる哀歌(下)
- 海軍大尉、父・古賀良一の面影 -
長澤 一成 弓立忠弘君のこと
- 急逝せし君との思ひ出、「九大信和会」のことなど -
新刊紹介
60周年記念の集ひ  記念講演

 あなたの親の世代の若いころには携帯電話もDVDもインターネットもありませんでした。私に20代の子供がゐますから、私もあなたの親と同世代といふことになります。

 通勤に鉄道を利用してゐますが、老いも若きも、かくいふ私も時をりですが、スマホの画面に見入ります。若いころ、電車の中には新聞を読んだり、本を手にしたりした人がたくさんゐて、通勤電車の車内は朝読書の光景さながらでした。今を思ふと、何か別の世界を語るやうな思ひになりますが、あなたが20代の子をもつころの車内の光景はまた一変してゐることでせう。世の風俗は常なく変っていくものだからです。

 しかし、変らぬものもあるでせう。いつのことでしたか、幾度か読んだ松尾芭蕉の「笈(おひ)の小文(こぶみ)」といふ文を読み返してゐたときのことでした。

 44歳になった芭蕉は若いころを振り返りました。―思ひ起せば、俺は好きな俳諧を狂はんばかりにやって来た。ある時は飽(あ)きてやめてしまはうと思ったこともあった。ある時はあいつだけには負けたくないと思ひ、勝っては自らを誇ったときもあった。どうしていいか苦しくなって他の世界に移らうかと迷って、心が落ち着かなかった、云々(うん ぬん)。さういふことを回想する文を読んでゐると、人は迷はず生きて行くのではない、のちには俳諧の道の達人となる芭蕉も、将来の見通しなど利かぬ闇の中にゐたのだと思ひつまされました。人は、その地位や境遇にかかはらず、人生は手探(てさぐ)りであるといふ当り前のことを合点したのでした。

 人が闇の中にゐることは、どんな時代の人でも、いつも変らぬものです。であるからには、この常変らぬ人生の不可思議を生きる意味を問ふことは、これこそいつの世の人にも切実な問ひとなるはずです。人は、動物と違って、生きる意味を問はずにはゐられないものだからです。

 私が大学生になったときには、今思ふと、この問ひに内側から捕へられてゐたやうに思はれてなりません。存在としてあんなに苦しかったときはないやうに思はれます。20歳のとき、大学教養部内の正門近くで級友が車から降りて来て、車の免許を取ったぞ、車がないと女の子にもてないからな、と私に声をかけてきたことがありました。さういふものかと思っただけで、この級友とはすれ違ひました。今考へると、私は闇を感じ続けてゐて、級友は闇に背を向けられる所にゐたやうです。

 さういふときに私は二度、小林秀雄氏の講演を聴く機会にめぐまれたのです。国民文化研究会(国文研)主催の全国学生青年合宿教室においてでした。小林氏の講演は私を(おそらく聴き手全体を)学問の世界に導いたのでした。生きる意味を問ふことが小林氏のいふ学問なのです。

 あなたは小林氏の文章を読んだことがありますか。氏は、ヨーロッパの哲学思想と日本の学問を一身に結びつけた人だと思ひます。学術思想をおのれの体験として自分のものにした人です。立派な人です。

 昭和52年に12年余にわたって書き続けた『本居宣長』を完成させたとき、小林氏は、若き弟子の江藤淳を相手に、学問について大事な指摘をしてゐます。約(つづ)めますと、宣長といふ人は国学の大成者とよばれてゐるが、宣長は国学といふ言葉をひどく嫌った。それはまともに学問本来の面目をとり戻さうとしたからだ、だからかう云へる、あの人は日本に還(かへ)ったのではない、学問に還ったのだと。―自分の思ふ通りに、古事記、万葉集、源氏物語といった日本の古典を読まうとしたのではない。書かれてゐる通りに読まうとしたのである。宣長は使はれた字句の意味を問ふといふ地道なことを永年倦(う)まずたゆまずやってきた。さうすると、この世を生きる意味がわかってきた。さういふ学問の道が日本にあった。今もある。―小林氏が『本居宣長』で示したものはさういふことなのです。

 高名な小林氏が「合宿教室」に五度も登壇されたのは、国文研の初代理事長である小田村寅二郎先生を信頼されてゐたからですが、国文研会員は小田村先生に導かれた、学問にまじめに取り組む人たちです。その会員が営む「合宿教室」が8月には西日本(福岡)で、9月には東日本(富士)で開催されます。どちらにでも、諸事情がゆるせば、どちらにも、参加されて生きる意味を問はれんことを。

((株)寺子屋モデル 講師頭)

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   はじめに

 明治17年(1884)、女性開業医第一号に荻野吟子(おぎのぎんこ)が認定された。「女医の前例は無い」との理由から開業医試験の受験さへ許されなかった吟子は、古代法令の官撰注釈書『令(りようの)義解(ぎげ)』に女医に関する規定を見い出し、前例の証(あかし)と提示して内務省衛生局を動かしたのである。吟子が『令義解』(9世紀前半成立)のやうな古い文献を容易に入手することができたのは、江戸時代の国学者塙(はなは)保己一(ほきいち)が数多の古書を編纂した『群書類従(ぐんしよるいじゆう)』のおかげであった。

   生ひ立ち

 塙保己一は、延享(えんきよう)3年(1746)、武蔵国児玉郡保木野村(ほきのむら)(現在の埼玉県本庄市児玉町)の旧家に生を受けた。父宇兵衛は、親戚の者も近づかないやうな重い病ひの他人のもとへも頻繁に尋ねて見舞ふなど人徳を備へた人物で、多くの人から信頼されてゐた。母きよも、兄弟が『孝義録』(善行者の実例を纏め幕府が作成した書)に取り上げられてゐるほどで、当然教養と人格を身に着けた良き人柄だった。

 保己一は幼少より体が弱く、仲間と遊び回るよりも草花を愛でるやうな性格で、摘んできたすみれを庭先に植ゑ、世話をしてゐた。晩年になっても庭に花を植ゑて、来客が花の話をするのを喜んだと言ふ。幼少の頃馴染んだ草花の色彩を想ひ起しながら客人の話を耳にしたのだらう。

 保己一が失明したのは七歳の時で、病気を煩(わずら)ひ目の痛みを訴へたのがきっかけだった。母は保己一を背負って2里(8キロメートル)先の医師に通ひ続けたが叶はず、つひに失明した。目の見えなくなった自分の将来を案ずる両親の悲嘆悲壮な表情は目には見えないが、その心を察した保己一は早くから自立しようと考へて、自分にできることは自分で済ませるやうに努力した。

   不思議な才能

 当時の子供達は寺子屋で読み書きを覚えたが、目の見えない保己一はいつも部屋の隅に座ってゐた。ただ保己一は、人の話を一言も間違へずに覚える不思議な能力の持ち主であった。その才能を確かめようと、和尚が半年かけて『太平記』(全40巻)を読み聞かせたところ、一言も違はず暗誦してみせた。この逸話は多くの「塙保己一伝」に見られるが、その才能は突然開花したものではなさそうで、保己一は日常的に母親から物語を読み聞かせてもらひ、また父親からは手のひらで「いろは」を習ってゐた。どれもたちまち覚えたことが記録に残されてゐる。家庭における両親の積極的な働きかけが保己一の才能を開花させる一因になったと思はれる。

   江戸へ

 保己一が12歳の夏、母が亡くなった。母の死は保己一にとってつらい出来事であったが、より一層自立を促した。この頃江戸では『太平記』の語りを生業として評判を得てゐる者(太平記読(たいへいきよみ)―講談師の源流―)がゐた。40巻に過ぎない『太平記』を暗唱して妻子を養ふことが出来るのならば、自分の道を開くことも困難ではなからうと考へた保己一は、宝暦10年(1760)、15歳で親元を離れて江戸へ向った。当時「当道座(とう どう ざ)」といふ盲人自立のための組織が各地にあり、雨富(あめとみ)須賀一(すがいち)検校(けんぎよう)(検校―盲人組織の中で最高位の役職)に弟子入りし、琵琶や按(あん ま)摩(ま)を学んだ。しかし、勘の悪い保己一は努力すれども上達せず、一時は九段坂近くの濠へ身投げを考へるほど悩んだ。

 そんな保己一の唯一の安らぎは、古典の学習であった。毎日のやうに隣家を訪ねては古い書物を読み聞かせてもらふのを楽しみとした。師匠の雨冨検校は、「未だかつて盲人学者はゐない、修行に専念せよ」と戒しめたが、一向に古典への関心が衰へない弟子にその覚悟を問ひ糺し、「おまへの好む道に進むが良い。泥棒と博打以外ならば何をやっても良い。今日から3年間はお前を養はう。もし3年経っても見込みなくば、里へ帰すことにする」と言った。

 そして、保己一を励まし、知人にすぐれた学者がゐれば紹介状を書いて学問の場を与へた。例へば賀茂真淵から『六(りつ)国史(こくし)』の指導を受けられるやうにし、保己一も師匠の期待に応へようと努めた。

 最初に師事したのは、歌人の萩原(はぎはら)宗固(そうこ)だった。萩原翁は、古くからの文献を多く書き写して手元に置いて歌を学び、また入手可能な書物は努めて購入したので、当時有数の蔵書家だったといふ。かうした萩原翁の徹底して取り組む姿勢は、保己一に受け継がれ、『群書類聚』編纂に繋がったと言へよう。

   菅原道真公を「永く一身の守護神」と仰ぐ

 保己一自身は日記等の記録を残してゐない。代って多くの門人が日々の様子を伝へてをり、その中には『温故堂塙先生伝』がある。これは『群書類従』編纂を助け、「和学講談所」(後述)の教授を務めた中山信名(のぶな)が残したもので、その一節に「天満宮を宅地に営み、年頃の宿願を賽(さい)す」といふ記述がある。自宅に天満宮を勧請(かんじよう)して、日々祈願してゐたことが分る。その経緯も書かれてゐる。

 元来病弱だった保己一が学問に精を出しすぎて体を壊すことを心配した雨富検校が、父親と同道してお伊勢参りをすることを勧めたことがあった。保己一が21歳の時である。その帰路、京都に上(のぼ)り菅原道真公を祀る北野天満宮に参拝した。保己一は、以前から学問で身を立てた道真公と、低い身分から天下人となった豊臣秀吉公を尊敬してゐたが、この参拝をきっかけとして、道真公を「永く一身の守護神」に決めたのである。

  「伊勢より京都に上りて、神社仏閣など詣(もうで)ありきけるが、北野に参りて殊に尊く思はれければ、永く一身の守護神とせらりき。是より先、大(う)人(し)思はく、凡人は神明を頼みて心を定むるに非(あらざ)れば、業(わざ)を為す事を得ず。(中略)こゝに至りて決て北野を祈る。此後は、百度詣、千度詣など、年毎に絶ゆることなし」

 このほかに、毎日般若心経を百巻読み上げ、願掛けを行ってゐた記録も残ってゐる。神仏に誓ひを立て宿願を成し遂げんとする逸話だが、自分の手本となるべき先人を見い出し、仰ぎつつ努力していかうとする真摯な姿が浮んでくる。

   後世のために和書を正しく伝へたい

 保己一は匂当(こうとう)(盲人の役職)に昇進した24歳頃、次のやうな和歌を詠んでゐる。

     身にあまるめぐみある世はよむ文のすくなきのみぞなげきなりける

 多くの人の支へにより学問に励むことが出来るのは大変恵まれてゐると思ふが、自分が読んでみたい和書(日本の古典藉)が少ないのは嘆かはしいことだ、といふ意味である。

 江戸時代中期までのわが国では、儒仏などの漢字漢文の書籍が世にあふれてゐた。その一方で、自国の典籍(和書)は少ない上に散逸(さんいつ)したものが多かった。保己一は、貴重な和書を必要な時に誰でも読めるやうに纏めておけば、後世の人たちが研究するのに役に立つ筈だとの考へに至った。安永八年(1779)、34歳の時である。

 まづは稀覯本(きこうぼん)の収集である。

 江戸はもとより京や大坂に直接出向く必要もあった。身分制度が厳格な当時、公家や各藩が所蔵する珍本を入手するには相当面倒な手続きが必要だったが、難問を克服しながら、あるときは譲り受け、あるときは書き写しながら作業に進めた。この間保己一は、天明3年(1783)に検校となり、盲人として信頼される地位を得た。また、その志に共感した人々が寄付や協力を申し出るやうになった。江戸幕府も事業の重要性に注目し、寛政五年(1793)には現在の千代田区九段に「和学講談所」の設立を認めてゐる。

 また水戸徳川家から招聘(しようへい)されて『大日本史』の編纂に関ることもあった。さらに尾張徳川家、紀伊徳川家にも出入りが叶ひ、これらが文献収集の助けとなった。

   666冊の大事業

 保己一の学問は、まづ書物を読み上げてもらひ、一言一句正確に記憶するところから始まる。書写を重ねることで伝来した当時の書物には、同じ本でも内容が異なったり、欠落も多かった。かうした相違を丁寧に吟味校訂し補正しながらの地道な作業であった。整理された文献は縦20文字、横20行(原稿用紙の原型と言はれる)に整へて清書させ、更にこれを版木に彫らせて印刷した。

 かうして文政2年(1819)、収録文献1277種、総冊数665冊、目録1冊、合計666冊からなる『群書類従』が完成した。両面刻の版木1万7242枚、約3万4千頁に及ぶ大事業であった。立志から実に41年目の成就で、保己一は74歳になってゐた。伸・儒・仏の文献から歌集・記録・軍記物などに至るまで幅広く典籍を収めることができたのは、ひとへに保己一の学問に対する公平公正な姿勢によるものと言へよう。

   最後に

 文政四年(1821)2月、盲人を統括する総検校に任ぜられた保己一は、その半年後に世を去った。「盲人学者の偉業」と称される『群書類従』であるが、保己一の「後世の研究者のために、古来の文献を整理して残したい」との高い志こそ、我々は心にとどむべきであらう。

参照・太田善麿著『塙保己一』吉川弘文館(人物叢書) 『塙保己一研究』温故学会
初出・『寺子屋だより』第55・56号―一部改稿―(「荘島慈恩塾」塾長―久留米市―)

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 前月号の記事により父・海軍大尉古賀良一の海軍機関学校時代から昭和16年12月8日の日米開戦を経て、太平洋を南に北に転戦した後に昭和19年5月から12月までを硫黄島で戦ったありさまを述べたが、今回はその続きとして硫黄島から本土の航空部隊に転属するあたりから筆を進めてみよう。

   相模野海軍航空隊への転属命令

 硫黄島への赴任から6箇月余りが過ぎた昭和19年12月1日、父の許に相模野海軍航空隊(厚木基地)の教官兼分隊長への転属命令が届いた。しかし12月10日に本土から飛来した連絡機に父の後任者となる筈の分隊長は乗ってゐなかった。おそらくその後任者の前任地からの到着が遅れてゐたのであらう。玉砕覚悟の父は転属命令を拒んだが市丸司令官の命令により硫黄島を後にした。

 硫黄島に残る2千の海軍の戦友と2万の陸軍将兵とのその後の戦ひが分り過ぎるくらゐ分ってゐる中での本土の航空部隊への転属命令であった。この時の父の気持ちなどは戦後になっても死ぬまで誰にも語る気にはならなかったであらう。実際、私も聞いた事はない。

   市丸利之助司令官の色紙

 父が相模野海軍航空隊に転属する時に市丸司令官から餞別として一枚の色紙を頂戴した。

     わが島の緑を奪ふ敵憎しタコも榕樹も丸焼となる
          於U基地 12月10日  市丸司令 花押
     古賀大尉殿
     (註)タコ……タコの樹  榕樹……ガジュマルの樹  U基地…硫黄島の航空基地

 醜敵撃滅の決意を詠んだ歌である。

 この色紙は私が子供の時分には父の部屋に飾られてゐたが、現在は海上自衛隊鹿屋(かの や)航空基地の史料館に展示されてゐる。読者におかれては九州の鹿屋を訪れる機会があれば是非ご覧いたゞきたい。

   第343海軍航空隊での戦ひ

 本土の航空部隊に転属した父は昭和20年3月以降は帝国海軍最後の航空精鋭部隊といはれてゐる源田實(みのる)海軍大佐(真珠湾攻撃作戦時の航空参謀、戦後は航空自衛隊幕僚長、参議院議員)の率ゐる第343海軍航空隊に所属して本土防空戦を戦った。

 この航空隊の活躍は目覚しく、特に昭和20年3月19日の四国松山上空での邀撃(よう げき)戦では忽ちの内に敵機60余機を撃墜して全軍の士気を昂めた。この功績により豊田副武(そえむ)聯合艦隊司令長官から感状を授与されてゐる。この感状の複製が父の部屋に飾られてゐたが、父が亡くなる少し前に貰ひ受けて現在は私の自宅に飾ってある。この最後の大活躍は父の誇りだったのだらう。父の誇りは私の誇りでもある。

 第343海軍航空隊は四国の松山基地から九州の鹿屋基地、大村基地へと転戦して昭和20年8月15日の終戦を迎へたが、父たちの戦ひは未だ終らなかった。第343海軍航空隊には新たな任務が与へられたからである。

   皇統護持隊

 それは皇統護持といふ国体護持に関はる重大任務であった。ちなみに陸軍が計画した松代大本営の地下壕に天皇陛下をお遷し奉る計画や陸軍中野学校が独自に北白川宮道久(みちひさ)王をお匿ひ申し上げる計画とは全く異なるものであって、宮内次官と海軍の作戦部長との協議に基き、米内(よない)光政海軍大臣及び豊田副武軍令部総長、更には高松宮宣仁(のぶひと)親王殿下の御承諾を得て実施されたものであった。

 8月17日午後に東京の海軍軍令部に呼出された第343海軍航空隊の源田實司令は作戦部長からこの任務を受領した。19日に九州の大村基地に帰隊した源田司令は航空隊の飛行長と整備長の父とにこの任務を伝へた。その日の夕刻1千名近い隊員の中から死を決した24名(司令・飛行長・整備長を含む)が選抜されて皇統護持隊が作られた。

 その任務とは、聯合軍が進駐する事によって天皇及び皇室に危機が訪れた際に皇統を継承する皇子(みこ)或いは皇女(ひめみこ)を密かに山中にお遷し奉りお守り申し上げて皇統を護り抜くといふものであった。その期間は何年になるか何10年になるか分らぬ重大任務であり、絶対口外無用の極秘任務であった。

 この様な極秘計画が立案された背景にはポツダム宣言文中の国体存続に関する文言が曖昧だった事があり、その曖昧さが陸軍の一部将校によるクーデター計画の一因ともなり、その後も大きな不安要因になってゐた為である。実際、昭和20年12月にGHQ(聯合国最高司令官総司令部)によって梨本宮守正(もりまさ)王が逮捕されるに及んでその不安は現実のものとなり皇統護持隊には最大の危機感が走ったと父は機関学校同窓会の文集に書いてゐる。

 皇統護持隊の計画は実行に移され、熊本と宮崎との県境の秘境に行在所を探し求め自活する計画が進められた。父はこの時、宮内省嘱託になって連絡役を勤める事になった。終戦から2~3年して天皇及び皇室に対する直接の危機は去ったと判断されたやうだが、皇統護持隊が正式に解散したのは昭和56年1月7日であった。終戦から実に36年間も皇統護持隊の極秘計画が継続されてゐた事に驚かされるのである。

 私が中学生の頃に一度だけ父の口から皇統護持といふ言葉を聞いた事があったが、具体的には何も父が語らなかったのはその任務が継続してゐた為かも知れない。

 フィリッピンのルバング島で昭和49年3月まで残置諜者として任務を遂行し続けた大正11年生れの小野田寛郎(ひろお)陸軍少尉の事を思ひ合せると、大正人は何と律儀な人たちであった事かと思ふのである。この小野田寛郎氏は一昨年の1月に91歳で亡くなってゐる。

   公職追放、そして航空自衛隊へ

 宮内省嘱託になって皇統護持の任務を遂行してゐた父は昭和21年1月のいはゆる公職追放令のB項(職業軍人)に該当するとして辞表を提出して宮内省を去った。この職業軍人に対する公職追放は昭和25年8月の警察予備隊発足の少し後まで続いた。警察予備隊は昭和27年に保安隊と改称して昭和29年6月に現在の陸海空の三自衛隊が発足したのであるが、父は海軍航空隊の経験が長かったので航空自衛官としての道を歩む事になった。この数年間の父の職業と皇統護持の活動とについては定かではない。

 国家公務員である自衛官は転勤が多い。各地の航空自衛隊基地を数年ごとに巡り、最後は東京・府中の航空総隊司令部で定年を迎へた。その前年の昭和45年11月に三島由紀夫氏の事件があった。三島氏の檄文に示された憂憤はもっともな事であったが、自衛隊或いは自衛官が行動を起す事は決してなかった。もし行動を起してゐればそれは叛乱であり、厳に戒められてゐた事は戦前も戦後も同じだからである。父はこの事件に関して何も語らなかったが、今振り返って考へてみれば父もそのやうに考へてゐたと思ふ。

   本稿を終へるに当って

 私はかうした事実を父の口から直接聞く事は殆ど無く、つい最近までは父が戦時中は海軍航空隊に所属し、硫黄島にゐた事があるといふ程度にしか知らなかったし、もしかしたら知らうとしなかったのかも知れない。しかし父の13回忌を迎へる年に当って、更には自分が老年に近づくにつれて父の人生に思ひを馳せる時間が増えて来た。そして父の残した僅かな言葉と僅かな文章とによってやうやく父の人生の輪郭が見えて来た。おそらく私の兄妹でもこゝまで知った者はゐないであらうから、今これを書いて置かねばいづれ世の中から完全に忘れられた過去の存在となって仕舞ふであらう事を恐れた。もしさう成って仕舞っては父も無念であらうとも思った。

 この思ひは一人私の父に対するのみに止まらず大正人のすべてに対しても同じである。あの国難の中を尽忠の赤誠と勇武とを以て国の為に戦ひ抜いて今日の繁栄をもたらした我々の父の世代の人々に感謝し、その偉業を顕彰し、その人たちの精神を我が身に取り入れて将来に伝へて行く事に対して誰が異論を唱へる事が出来ようか。そんな親不孝な事は私には出来ない。

 戦時中は前線と銃後との別なく全国民が勝利を信じて一丸となって戦ってゐたにも拘らず、戦後になると軍人のみを不当に扱ふ風潮が蔓延して現在に至ってゐる。例へばユダヤ人難民を救った外交官の杉浦千畝(ちうね)氏をマスコミや教科書が取り上げる事はあっても、同じく人道的立場からユダヤ人難民を救出・保護した関東軍特務機関の樋口季一郎(きいちろう)陸軍少将や海軍特別陸戦隊の犬塚惟重(これしげ)海軍大佐らを取り上げる事は無い。その違ひは、片や文民であり片や軍人であるといふたゞそれだけの理由による。このやうな風潮に対して軍人を父に持つ者として黙ってゐられようか。

 海軍機関学校での教育を知り、戦場での戦ひ振りを知り、父の生き方と他の大正生れの軍人の生き方とを知った時に、軍人に対する無知から生じる謂れの無い偏見は自づと世の中から消え去り、あの大東亜戦争を戦ひ抜いた大正生れの軍人のみならずすべての大正人の名誉は回復されるのではないだらうか。斯様な思ひを13回忌を迎へる父の墓前に供へるとゝもに、すべての大正人に捧げたい。

 訂正・前月号の拙稿(上)3頁1段目、「父の航空自衛隊定年退官」は「昭和46年」で「53歳」でした。

(元富士通(株))

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 毎年、年の瀬が近づいてくると、その年の賀状を整理する。昨年(平成26年)も、又、11月に入って間もない頃、賀状の束を整理してゐた。その最中、「御無沙汰しております。続けて原子力をやっています。海外に新たな活路をもとめています」と肉筆で書かれた君の賀状が出てきた。松井哲也君(九州大学の後輩で、同じく日立製作所勤務)から君の突然の訃報を貰ったのは、つい数ヶ月前のことだ。病に斃れる直前に、賀状を貰った事も失念してゐた。旬日を経ずして、奥様から、賀状欠礼の葉書が届いた。「5月17日に夫 忠弘が56歳にて永眠いたしました」とあった。あゝ、もう君はゐないのか。万感迫る思ひで、再び、君が亡くなる5ヶ月前に書いた賀状を眺め、暫し、その筆跡から眼が離せなかった。(編註 4月初め、検査結果を受けて入院するも、5月17日帰幽)

       ◇

 弓立忠弘(ゆだてただひろ)君と初めて会ったのは、40年近く前の昭和52年春のことだった。当時、僕は九州大学医学部2年生で、全学のラグビー部にゐた。ラグビー部の同期には、愛媛出身、工学部水工土木科の久米秀俊君がゐた。君は、彼の母校、松山東高校の一年後輩で、九大工学部応用原子核工学科に入学、久米君に誘はれてラグビー部を尋ねて来たのだった。顔は日に焼け、髭が濃く、大きな眼と尖つた顎、一別以来30年が過ぎたらうか、その精悍な顔立ちは、今でも、私の中では、君はあの時の儘である。出会ひはラグビー部だった。しかし、久米君もさうなのだが、僕達には、この時期、又、別の運命的な出会ひがあり、君もまた、同じやうに導かれ、以後の人生を生きて行くことになった。その事を少し書いてみたい。

       ◇

 僕の高校時代の恩師に小柳陽太郎先生と言ふ方がゐた。私のみならず、多くの教へ子が、その後の人生を生きる上で、強い影響を受け、未だに思慕して已まざる先生である。先生は御自身の学生時代、則ち、大東亜戦の最中から、小田村寅二郎先生等が中心となってゐた、日本学生協会の活動に参加されてゐたが、思ひを共にし、祖国の為に戦った少なからぬ友人が戦陣に、或いは、病に斃れて逝った。生き残った者が目の当りにしたのは、戦後の混乱、占領政策、それに呼応した左翼運動により、みるみる荒廃して行く祖国の姿だった。この儘では、数千年に亘って、一度も断絶することなく続いて来た、祖国の歴史、その上に培はれた文化伝統、そして、それを守るための戦ひに斃れた友人達の思ひが灰燼に帰して了ふ。その思ひの許、先生等は、全国に散り散りになってゐた友人先輩と集ひ、「国民文化研究会」(以下「国文研」)を創設、次の世代に、本来の日本の姿を伝へるべく、昭和31年から、毎年夏に「全国学生青年合宿教室」といふ大学生の研修の集ひを企画、運営してをられた。私が入学した当時、九州大学にも、この合宿に参加した学生が中心となって、新しい友人の勧誘や輪読、研究発表などを行ふ学生達がゐた。

 その集まりに繋がる数人の学生が、一軒家を借り、共同生活をしながら研鑽を積む場を設けてゐた。福岡市別府の「大観塾」、同じく箱崎に「葦牙寮」といふ名のあばら家であった。僕も、入学後の夏、小柳先生の勧めで国文研の合宿に参加し、時には、これらの塾や寮を訪ね、輪読や研究発表に参加してはゐたが、その当時、思ひはラグビーにあって、其処に自分の精力を傾注するものでは、全くなかった。九大での集まりは「九大信和会」と名付けられてゐたが、その信和会の先輩に廣木寧さんがゐて、輪読に参加した後、時に、呑みながら深更まで話すことも度々になり、その繋がりの中で、次第に、この先輩と付き合ふこと、又、「信和会」や「合宿教室」の活動の中にこそ、自分にとっての大事があると感じるやうになって行った。

 久米君とは入学時からラグビー部で共に過し、様々な話をするやうになった。彼は、その夏の「合宿教室」にも一緒に参加し、ラグビー部同期の中でも、特別な付き合ひになってゐた。その後も、久米君は、私以上に、輪読会などに参加してゐたと思ふ。私の方も、ラグビーを遣り続ける積りでゐた筈が、何時しか、信和会、国文研の夏合宿が自分の学生生活の基軸になって行った。2年生になって暫くした頃、私は、久米君に心中を話し、ラグビー部を退部、大観塾の塾生となった。従って、弓立君との付き合ひもラグビーだけで終ってゐれば、高々数ヶ月、互ひによく判らぬ儘のすれ違ひで終ってゐたに違ひない。

       ◇

 久米君は、その儘、ラグビーを続けながらも、毎週の輪読会にはできる限り参加してゐた。はっきりとは記憶しないが、久米君が、君を「信和会」の例会に連れて来たのだと思ふ。君も、昔から知る、尊敬する先輩の誘ひで安心して参加してゐたのだと思ふ。会を重ねる裡に、打ち解けた話もよくするやうになり、今でも、君がよく、御両親や姉上のことを語ってゐた姿を思ひ出す。御父上は、当時、御年配だったと記憶するが、その父上の健康の心配や、母上、姉上から大変可愛がられて育ったことなどを聞いた。その語り口には、君の優しさと感受性がよく表れてゐて、この家庭から、君が生れ育ったのだといふことが、直知出来た。

 君は、どちらかと言ふと寡黙で、決して、弁が立つ方ではなかったが、他の上を思ひ遣る、事に感動するその深さは、大変深かったと思ふ。君もラグビーを遣りながら、信和会の先輩、友人との付き合ひが続く裡に、「合宿教室」に参加し、僕と同様に、その活動の中心となって行った。

 この国文研の合宿教室は今日に至るも尚継続して開催されてをり、今年(平成27年)の開催が60回となる。その長い歴史の中で、一貫して変らぬことが幾つかあるが、その一つが、参加した全員が短歌を作ると言ふことである。「短歌を詠む」と言へば、何か、芸術的な、趣味的な響きを感じるが、この合宿での短歌創作は、万葉以来、特殊な歌人でなくとも、折りに触れ、誰もが、日本語の調べに思ひを籠め、互ひに心を通ひ合はせてきた、その素朴な作歌体験を経験することに主眼があった。対象を、時にそれは自分の心でも有る訳だが、真っ直ぐ見詰め、正確な言葉で自分の感動を定着する。さう言った、謂はば、自己鍛錬の上になる、他との心の交流が目的であった。従って、歌は孤なることはなく、心知る友人等の輪の中で披瀝され、同席した友人達は、作者の心情を汲みつゝ、言葉を吟味し、その作歌の姿勢、心の有り様を糺したり、共感したりする場を持ってゐた。そして、弓立君もこの様な、自己研鑽の場を通じて、沢山の歌を残した。

       ◇

 弓立君は卒業後、大学院に進み、修士課程修了後、(株)日立製作所に入社、日立工場の原子力計画部に属してゐた。その、2年目、昭和59年の夏に、社会人として阿蘇で開かれた国文研の合宿教室に参加し、当時の大学生と5日間、起居を共にした。社会人としての参加は、公務員や教員が多い中、大企業に就職したばかりの若い技術者が、夏に一週間近くの休暇を取ることすら困難であらうに、それを合宿教室参加に当てるのは、志なしには出来ないことである。その時の「走り書き感想文」(学生と共に学ぶ為に参加した国文研会員は合宿終了後、慌ただしく職場に戻って行った。その終了間際の短い時間を利用して書いたもの)が残されてゐる。合宿参加の感想文なので、理解し難い点もあらうが、この文章の語り口が、如何にも、君らしさを表してゐると思はれるので引用する。

 

 《 第九班の「班付」をさせて戴きました。これ迄の教育により、先の戦争に対して今上陛下は責任を取るべきであるといふ考へを持つ様になった班員の学生に対して、私は今回の合宿教室ほど、自分自身の胸がふさがれるやうな辛さを感じたことはありませんでした。又、その友が、陛下の残された御言葉を通して、大御心に向かってその心を開いていくことを知った時、私は今回の合宿ほど、喜びを感じたことはありませんでした。小田村寅二郎先生の御講義の中での御言葉、「陛下への御長寿のお祝ひとともに、我々は心から陛下にお詫び申し上げなければならない」は、そのまま私の言葉とすることが出来ます。

     小田村寅二郎先生の御講義をお聞きして

   師の君の誦し給へる大御歌に耳すましをれば涙あふれく
ひたすらにたゞひたすらに世の平らぎを祈り給へりこれの御歌は
たひらぎを祈り給へる御心もむなしくなりぬ御代は乱れて
いかばかりつらきかなしき御思ひにたへましにけむ今上陛下は

(筆者註 この合宿教室の開催された翌年には、昭和天皇御在位60年の奉祝行事が予定されてゐた。当時、国民文化研究会の理事長を務めていらつしゃった小田村先生は、昭和天皇が大正10年摂政の宮に御就位後、敗戦までの25年間の悲劇的時代を、更に、敗戦後今日の復興に至る困難と混乱の時代を如何なる思ひで過して来られたか、御製を辿りながら、我々の世代が知らなかった、陛下の大御心を御話しされた。この感想文には、班付として、初見の学生達と起居を共にする中での対立、それが、小田村先生の講義により共感へと変る喜びが、彼らしい言葉で綴られてゐる。小田村先生の講義が、彼の感動となって、血肉となる様を連作の和歌に御感じ戴ければ幸甚)

       ◇

 君と最後に会ったのは何時だらうか。最早、思ひ出すことも出来ない。君の笑顔と声は、あの頃の儘、今も鮮やかに甦るのに。

(医療法人成志会 長澤医院)

- 『弓立忠弘氏遺文・遺詠および追悼文集』(編集人代表 松井哲也氏)から -

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     頒価200円 送料140円  お申込みは事務局まで

 本冊子は、昨年11月の国文研「60周年記念の集ひ」での二つの記念講演を収めたものである。現下のわが国が直面する精神的な課題について、その原因の考察と課題克服への手掛かりが示されてゐる。紙数の関係で、拝読後の感想のごく一端を記して「新刊紹介」としたい。

 竹本忠雄先生(筑波大学名誉教授)の御講演は「弓なして明(あか)るこの国ならむ」との演題である。皇后陛下の御歌「岬みな海照らさむと点(とも)るとき弓なして明るこの国ならむ」に因むもので、御製や御歌のヴィジョンが大いなる予見性を秘めてゐることが説かれてゐる。「灯台が少なくなって皇居への灯台守の訪問が減ってしまった。昔は灯台の明りが岬々に点(つ)いてゐたのに」との歌意といふが、この御歌が昭和52年の歌会始で披講された10ヶ月後に、「横田めぐみさん拉致事件」が発生した。灯台の明りが減じたことが拉致を容易になさしめたといふことにならうか。

 御製御歌に予見性を汲みとるとの御指摘は実に示唆に富んでゐて、国柄を学び把握する新たな視点を提示された感じである。

 来日したアンドレ・マルローを出光興産の出光佐三氏にお引き合はせした折、マルローが「日本人は精神のノブレスを持ってゐるがなぜか」と問ふと、出光氏が「皇室があるからです」旨を答へたとのお話も印象的であった。

 この他、中国が欧米の輿論に嗾(けしか)けてゐる「反日悪宣伝」に対して、日本は言ひ返すことをしないのは、日本人の気質であり高貴さの故でもあるが、それが裏目に出て悪循環に陥ってゐるとのご指摘も考へさせられたし、日本人自身が、両陛下のお歌に示されてゐる崇高な調べの世界にもっと目を見開き、それを他の多くの民族に伝へる使命感に目覚めよとのお話は胸に響くものがあった。

 小堀桂一郎先生(東京大学名誉教授)の御講演は「伝統の断絶について─再考・大正教養派と近代主義─」と題するもので、終戦から70年も経つ今日、わが国の精神文化が本来の姿に戻れずにゐるのは、なぜなのかといふ疑問を提示され、それが敗戦の痛手のためばかりではなく、大正期以来の教養の断絶が禍(わざはひ)をなしてゐるとの御指摘である。

 「大正教養派」とは、わが日本の民族的共同体が培ってきた歴史文化伝統よりも、文化の普遍性を規範にする考へ方で、明治20~30年代の生れで、大正時代に修業時代を過した世代がその影響を強く受けてをり、戦後、国体への冒瀆に他ならない「日本国憲法」を受け容れた当時の指導者たちの無抵抗振りも、実はそこに根があるといふ御指摘には、深く考へさせられた。

 乃木大将の殉死に対する志賀直哉、芥川龍之介の、先行世代の森鷗外、夏目漱石との受け止め方の相違や、大正期の海軍兵学校で鈴木貫太郎校長が気付いた生徒たちの「国史」と「武士道の倫理」についての素養の欠落など、改めて伝統と断絶した時代思潮を思ひ知らされた。昭和5年の「統帥権干犯糾問事件」についても、浜口雄幸内閣の閣僚たちが適切な答弁をなし得なかったことによるとされ、歴史伝統から遊離した大正教養派にその真因を見るべきとの御指摘に、これまた考へさせられた。詳しくは、本冊子に拠られたい。

 昨年は、たまたま戦後70年といふ節目に当り、両先生の御講演はその意味でも時宜に適ったものだったと思ふ。両先生から、我々が向ふべき学びの道筋が示され、使命感を呼び覚まされる思ひがした。

 ぜひとも、この冊子を多く方々に繙いて頂きたいと思った次第である。

(茨城新聞社 佐川友一)

 

第61回全国学生青年合宿教室<
   「日本」を学ぼう! 日本の国柄と日本人の心を。

西日本合宿(8/19~21)、福岡市  さわやかトレーニングセンター福岡
東日本合宿(9/2~5)、御殿場市 国立中央青少年交流の家

   詳細パンフ配布中! 参加申込み受付中!

 

 昨年の合宿教室の記録 刊行!  『日本への回帰』第51集

   より良く生きるために -『教育勅語』を思ひ出さう -
       (株)寺子屋モデル 代表世話役 山口秀範

 三種の神器の謎を解かう!
       埼玉大学名誉教授 長谷川三千子

 古典は楽しい 小林秀雄『本居宣長』
       昭和音楽大学名誉教授 國武忠彦

 御製に仰ぐ天皇のお心と日本の国柄
       興銀リース(株) 執行役員 小柳志乃夫

 「花燃ゆ」と 小田村伊之助
       元皇宮警察本部長 小田村初男

 頒価900円 送料215円

 

訂正・4月号2頁2段21行目 ご多聞にもれない→ご多分にもれない

 

編集後記

 「海外の人材を呼び込むため永住権取得に必要な在留期間を世界最短にする」(政府の新成長戦略素案、5/20産経)。労働力不足への対処といふ。自民党は単純労働者の受け入れ容認を首相に提言。人間は機械ではない。生きてゐる。子供も生れる。「小学校英語」の必修化で国民教育の焦点がいよいよ曖昧になる中での「成長戦略」だが、大丈夫か。外との交流を避ける必要は全くないが、自らの拠って立つ足許を見据ゑることが大前提とならう。
(山内)

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