国民同胞巻頭言

第655号

執筆者 題名
北濱 道 「歴史に学ぶ」といふこと
- 今年も「歴史に学ぶ」合宿教室が開催される -
古賀 智 大正人に捧げる哀歌(上)
- 海軍大尉、父・古賀良一の面影 -
- 『日本への回帰』第51集「はしがき」から -
安全保障関連法の成立と憲法改正
- 何より大事な自尊自立の国家的矜恃 -
関東地区会員小合宿、開かる!
熊本地震の支援に台湾がいち早く動いた事情
  昨秋の60周年記念の集ひ  記念講演 刊行!

 「歴史に学ぶ」といふ言葉がある。「歴史を学ぶ」といふ語と似てゐるが、「歴史に学ぶ」の方が謙虚な感じがして好きだ。他に「歴史を鑑(かがみ)にする」がある。こちらは、それこそ歴史的に『資治通鑑(しじつがん)』とか『東鑑(あづまかがみ)(吾妻鏡)』などの史書があるやうに、「歴史から教訓を汲み取る」といふ含意がある。しかし、近年この言葉は中韓両国が我が国を非難する時に使はれ、そのため、「歴史を鑑にする」といふ言葉が本来おびてゐた「歴史」に静かに耳を傾けて、何かを学ばうとする謙虚さが消え失せて、残念ながら政治的な意図で居丈高に他者を攻撃する言葉となってしまったやうである。

 それに比べ「歴史に学ぶ」といふ言葉には、自国に対してのみならず他国の「歴史」にも謙虚に接しようとする寛容さや優しさをが感じられるのだ。

 そもそも「歴史」は、私達自身がその中に生れ、今もその一部として生きてゐるもので、こちらのちょっとした思ひつきでどうかうできる対象ではない。全てが判ってしまった現在の高みから過去を論(あげつら)ふのは、そのこと自体が安易であるだけでなく、無意味で、本来複雑で豊かな「歴史」を、平板で痩せたものにしてしまふ。また、現在から過去を裁くことは、あるべき未来から現在を見る発想につながり、この「あるべき」が「人間の無謬性」(人間は間違ひや失敗を犯さない完成した人格を目指せるといふ考へ方)になると、もはや失敗はあってはならないことであり、何もしないのが賢いといふことになりかねない。その結果としての、もっともらしく具体的な責任を何も取らないですむやうな言論状況が、要路において至る所に見出されるやに思はれてならない。私は、このことが、逆に様々な間違ひを多く生んでゐるとさへ思ってゐる。そしてここから抜け出るには、謙虚な姿勢で「歴史に学び」、その中から何かを学び汲みとらうとする感覚を取り戻すことをおいて他にないと思ふのである。

 先日神奈川県横浜市南部の「金沢八景」から「伊藤博文公金沢別邸」のある野島公園の辺りを、学生、先輩らと散策する機会を持った。

 「金沢八景」には、地名に因み、江戸時代の浮世絵師歌川広重が、その辺りの風光明媚な八つの景色を描いた絵がある。伊藤公金沢別邸への道沿ひにあったその浮世絵を基に描かれた看板の絵を眺めながら、この地で、かつての私達の先人、即ち江戸時代の庶民の暮らしぶりはどのやうなものだったのだらうかと偲んだのであった。

 さらに伊藤公金沢別邸は、夏島(現在は横須賀市)の別邸及び金沢の旅館「東屋(あづまや)」で、憲法の草案を練った伊藤公が、「金沢」の地に愛着を持ったことから明治31年に建てたものといふことだった。反対派の妨害を避け静謐な環境で草案を検討するため、当時船でしか行けない夏島や金沢の地で、伊藤公らが「明治憲法」を草創したと、同行の先輩から伺った。邸の中に憲法の草稿や、美しい楷書による漢詩の掛け軸等が展示され、公の その頃の生活の様子や教養の深さに思ひを致した。この屋敷は平成18年、横浜市指定有形文化財(建造物)に指定されてゐる。

 同行の学生は、物を見て具体的に歴史を偲べて興味深いといふ感想とともに、本を読むのは苦手だが、話を聞きながらなら面白く読めさうですと言ってゐた。また、過日紹介を受けた橋本左内の『啓発録』を読みたいとも言ってゐた。そして、学生生活で尊敬できる先輩に出会って、自分を磨くことができ、日々充実してゐるが、進級するにつれ、後輩の手本であることが求められてゐるので大変です、と爽やかに語ってゐた。私は、今時珍しい、求める気持ちの強い彼の一言一言に、感動してゐた。

 さて、今年も合宿教室が開催される(「東日本」9月2~5日、御殿場市。「西日本」8月19~21日、福岡市)。まさに「歴史に学ぶ」場である。彼を誘ったところ、未知の学生と出会へさうだと目を輝かせた。真剣に生きようとする学生が、「歴史に学び」、友達と思ふところを存分に語り合へるならば、どんなに楽しいことだらうか。多くの学生青年の参加を願ってやまない。

(元(株)アルバック)

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 平成28年の今年は昭和で勘定すると91年に当る。大正15年が昭和元年であるから、大正生れの人たちは今年ですべて満90歳以上になる。この大正生れの人たちは昭和20年の終戦時には概ね20歳以上であり、大東亜戦争を主力として戦った人たちである。本稿では私の父の面影を辿りながらこれらの大正人に思ひを馳せてみたい。

   大正人への哀惜の念

 近年これらの大正生れの人たちが私の周りで次々と亡くなってゐる。この事に対して私は言ひ様の無い寂しさと悲しさとを覚えるとゝもに、限りない哀惜の念を禁じ得ない。その寂しさと悲しさとは父親や母親を失った時の感情と似たものであるが、私が感じる哀惜の念とはその人たちが世界史上に例の無い戦ひ方であの大東亜戦争を戦ひ抜き、武力で敗れたりと謂へども義命〈正義の使命〉を果し、更にそれに止まらず焦土の中から世界の瞠目する復興・発展を為し遂げた功績に対する切なる感情によるものである。

   相次ぐ大正人の死

 私の知ってゐる大正生れの人たちは道徳的には現在に生きる我々よりも遥かに高邁な精神を持つ人たちであり、国を愛する気持ちが強く、泰山よりも重き大義の為に自らの命を捧げる覚悟が出来てゐる人たちであった。そしてその人たちの多くは自らの功績を自慢げに語る事もなく静かに世を去って行って仕舞ふのである。

 一昨年の8月に、親しくしてゐた静岡市の大正9年生れの知人が93歳で亡くなった。満洲の関東軍の航空通信部隊の教官として幹部候補生の教育に当ってゐる時に終戦を迎へ、ソ聯によってシベリアに不当に連行されて、3年間の強制労働の抑留生活の困苦の後に復員し、家業の婦人服店を経営して静岡県内及び愛知県内を中心に25店舗を構へるまでに発展させた優れた経営者であった。同時に大変な愛国者であり、常に元気溌溂としてゐる万年青年でもあった。人間の寿命の限界である125歳まで生きて天皇国日本の為に働くのだと常に言ってをられた。

     有難や外患内憂あればこそ祖国もわれもふるひ起たなむ

といふ自詠の歌を口ずさみながら様々な集りに参加して若い者に気合を入れてをられた。私もこの方とのお付合を通じて随分と愛国の情を振起(ふる ひた)たされたものである。

 昨年4月には、実の父子のやうに親しくしてゐた相模原市の大正10年生れの知人がやはり93歳で急逝した。生きては帰れぬといはれたニューギニアの戦場で歩兵小隊長として戦った陸軍中尉であった。彼の地の戦闘で左腕及び左肩に敵の小銃弾を受け、更に敵の迫撃砲弾によって左足を切断され、加へてマラリアによる高熱と飢餓による極度の栄養失調とによりとても助からぬ状況下にありながらも生還を果した驚くべき精神力と肉体力との持ち主であった。座右の銘は

     正義人道のヤマトダマシヒを 失はぬ日本人でありたい

 であった。書と短歌とに秀で高潔な生き方を貫かれたお方であった。健康を保つ為に水泳を日課とされ、スイミングクラブに通ってニューギニアまでの距離に相当する4千キロを泳ぎ切った元気の持ち主であった。最後までお元気で金沢への旅行途中の北陸新幹線の車中で好物の鯖寿司を召上りながら突然亡くなって仕舞はれた。実に残念で悲しい出来事であった。私もこの方の精神力と生き方とを手本にしたいと思ったものであるが、とても敵ふお方ではなかった。

 更に昨年の11月には、国文研の活動に功績のあった小柳陽太郎先生が亡くなられた。先生も大正12年生れの大正人である。私は残念ながら直接お会ひしてお話を伺ふ機会に恵まれなかったが、幸ひな事に先生の御著作を通して或いは国文研の会員の方々のお話を通して先生の教へに接する事が出来た。特に我が国の文化・伝統を学ぶといふ事は古典と歴史とを学ぶ事であり、祖先に対する愛情と尊敬の念とをもって学ばなくてはいけないといふお言葉に深い感銘を覚えた。遅ればせながら先生の教へを実践し始めたところである。

   父・古賀良一を書くに当って

 そして私の父であるが、父・良一(りょういち)は大正7年生れで生きてゐれば今年98歳になるところであるが、平成16年に86歳で亡くなってゐるので今年は13回忌に当る。この原稿を書かうと思ったきっかけはこの13回忌といふ一つの区切りによるところが大きい。しかしいざ書かうとすると意外な程に父について知らぬ事に気付いたのである。何故それ程までに知らぬのかといふと、余りに身近な存在であったが故に父の人生に対する関心は低く、しかも父が生前殆ど何も語らず、また本などに書き残す事も殆どしなかったからである。

 父は海軍の軍人であった。戦後は航空自衛隊に入り昭和47年に54歳で定年退官するまで生粋の軍人であった。軍人たる者言ひ訳がましくべらべらと喋るものではないと考へてゐたのであらう。また、あの大東亜戦争が負け戦であり、同期の級友の半数近くが戦死してをり、戦場では多くの部下や戦友が目の前で傷つき斃れ、戦死した同期や戦友の多くは或いは海底深く沈み或いは地下壕深く埋って帰還できぬ状況にあった為であらう。更には絶対に口外してはならぬ極秘任務に就いて戦後を生きて来たといふ事も原因であらう。この極秘任務については後述する。だが僅かに書き残した佐賀県人会誌『大肥前』の記事と海軍機関学校同窓会の記念誌『想ひ出』の文集と現代史研究家の秦郁彦氏の著書『昭和天皇五つの決断』とによって父の足跡を少しばかり辿れるやうになった。

   海軍機関学校で学ぶ

 父は佐賀市内の生れであり旧制の佐賀中学(小柳陽太郎先生とは5年違ひの同窓)から昭和11年4月に京都府舞鶴の海軍機関学校に進んだ機関学校48期生である。海軍士官を養成する学校はこの他に広島県江田島の海軍兵学校と東京築地の海軍経理学校とがあった。いづれも難関であるが父は兵学校と機関学校とを受験し、機関学校の合格通知が兵学校よりも一週間早かったので機関学校への入校手続きをしたのである。ちなみに水中特攻兵器、回天の考案者である黒木博司少佐は三期後輩の51期生であり、指導する立場にあったやうである。兵学校でもさうだが機関学校では最上級生が最下級生を指導する慣例になってゐたからである。

 機関学校同窓会の記念誌記載の日課表及び年間行事表によると朝六時(夏は5時半)から夜10時(夏は9時半)までぎっしりと課目が組まれてゐた事が分る。軍艦の機関関係及び軍事関係の課目は勿論のこと、歴史・国語・漢文・地理・哲学・倫理などの人文課目にも多くの時間が割かれてゐた事が分る。また日々の訓練とは別に年間行事としては、ラグビー・相撲・剣道・柔道・銃剣道・棒倒し・野球・射撃・水泳・五浬(かいり)遠泳・十哩(マイル)駈足・短艇競争の各競技及び陸戦・陣地攻防・スキー行軍・兎狩行軍・潜水艦乗艦・練習艦乗艦・飛行機同乗などの各種の演習及び実習が行はれてゐた事が分る。

 また4年間の在校中に東京帝大の平泉澄(きよし)博士の講演を三度聴いてゐた事も分った。一度目が「国史一貫の精神と現代思想の批判」、二度目が「楠公精神について」、三度目が「新田義貞と北畠顕家を偲ぶ」といふ演題であった。その他、佐佐木信綱博士と吉川英治氏の講演をそれぞれ一度づゝ聴いてゐた事も年間行事表に記載されてゐる。

 海軍機関学校の教育が単なる技術者を養成する事に止まらず、身体強靭にして志操堅固なる教養豊かな人間としての軍人を育てる事を目指してゐた事が覗はれる。機関学校での四年間、父がこの様な高度な教育訓練を受けてゐた事に驚かされる。

   日米開戦の後

 昭和14年7月に機関学校を卒業した父は4ヶ月の遠洋航海で北支・中支・ハワイ・南洋方面を航海した。ちなみにこの遠洋航海は帝国海軍最後のものである。翌年以降は第二次欧州大戦勃発の為に遠洋航海は中止されたからである。遠洋航海後海軍機関少尉に任官した父は航空母艦・蒼龍(そうりゅう)及び水上機母艦・瑞穂(みづほ)に二年間乗艦した後、昭和16年12月8日の日米開戦を迎へた。

 日米開戦時は茨城県の谷田部海軍航空隊で飛行機の操縦訓練を受けてゐたが、父の所属してゐた千歳海軍航空隊(北海道)は昭和17年半ばにはミッドウェイ作戦に呼応してマーシャル諸島のルオット島に進出した。ミッドウェイ海戦で我が航空母艦部隊が大敗した後はニューギニアのポートモレスビー攻略の為にニューブリテン島のラバウルに進出し、その後アリューシャン方面の形勢が悪化すると北千島の守りの為に幌筵島(ほろむしろとう)(千島列島の北から二番目の島で海軍の飛行場があった)に赴いた。

   キスカ島撤収作戦

 昭和18年5月29日にアリューシャンのアッツ島の山崎保代(やすよ)陸軍大佐(戦死後中将)の率ゐる守備隊が玉砕してその東方のキスカ島守備隊が孤立すると父はキスカ島撤収作戦に参加してゐる。昭和18年7月29日にキスカ島守備隊の撤収は無事に、といふか奇跡的に成功したが、小銃さへも海中に捨てゝ着のみ着のまゝの状態で幌筵島に撤収して来た陸軍の将兵が飛行場に並んでゐる海軍の新型攻撃機(一式陸上攻撃機)の日の丸をなでながら「日本にもこんなに立派な飛行機があったのか。キスカ島では毎日飛んでくるのは敵の爆撃機だけだった」と言ったといふ事を機関学校同窓会の文集に父が書いてゐる。アッツ島玉砕後は航空作戦もまゝならず、この言葉がキスカ島守備隊将兵の偽らざる心境であったらうとも書いてゐる。この守備隊将兵も殆どが大正生れの人たちであり、アッツ島玉砕後は次は自分たちがそれに劣らぬ戦ひをしようと覚悟を決めてゐたであらう事は想像に難くない。

   硫黄島への赴任

 昭和19年5月から12月にかけての半年余りは小笠原諸島の硫黄島の海軍航空部隊に赴いてゐる。硫黄島といふと栗林忠道陸軍中将(戦死後大将)の率ゐる小笠原兵団が有名であり、海軍部隊がゐた事はあまり知られてゐないが、2千名程の海軍航空部隊も陸戦準備を整へて守備に就いてゐた。父はこの航空部隊に分隊長として赴任したのである。父が硫黄島に赴任して暫く経った昭和19年8月に海軍航空部隊の司令官として歌人としても名高い佐賀県唐津市出身の市丸利之助(りのすけ)海軍少将(戦死後中将)が着任した。同じ佐賀県人同士として親しくしてゐたやうである。

   市丸利之助司令官の書翰

 市丸利之助司令官は『ルーズベルトに与ふる書』と題するアメリカ大統領宛の書翰を書き残した事でも知られてゐる。市丸司令官はこの書翰の中で日米開戦に至った歴史的事実を述べ、白人殊にアングロサクソン民族の世界制覇の野望を非難し、彼らに奴隷化されてゐる有色人種殊に東洋民族を解放せんが為に我が国が立ち上った事を力説してゐる。その文体には格調があり、内容は理路整然としてゐて、市丸司令官の人柄と教養の高さとが偲ばれて胸を打たれる。この書翰は近年の出版物などで紹介されてゐるので、読者におかれては是非とも御一読いたゞきたい。

 この書翰の発見の経緯とその全文とを佐賀県人会誌『大肥前』の平成元年3月号に父が紹介してゐる。その記事によるとこの書翰は司令部壕の薄暗いローソクの光の下で海軍罫紙数10枚に亘って市丸司令官の達筆なる毛筆を以て認められたものをハワイ生れの三上さんといふ下士官が英文に翻訳し、毛筆の原文とゝもに市丸司令官の参謀の村上海軍大尉が最期まで身に着けてゐたのを昭和20年3月25日早朝の午前5時15分頃から行はれた我が軍の反撃の後に硫黄島北部の壕内で米軍が発見したとある。その後アナポリスの海軍兵学校博物館の書庫に長く保管されてゐたが、村上参謀の御子息が昭和50年1月頃にアメリカ大使館を通じて探し出して今日世に知られるやうになったものである。玉砕によって肉体は滅びてもその書翰に籠められた市丸利之助司令官の雄魂が滅びる事はなかった訳である。

   硫黄島での戦ひ

 昭和19年半ば以降のこの時期は我が軍がマリアナ沖海戦で大敗した後であり、サイパンもグアムも既に敵手に陥ち、小笠原諸島の硫黄島が本土防衛の最前線になってゐた。既に聯合艦隊の艦艇も航空機も要員もその多くを失ひ、硫黄島は連日敵の爆撃と艦砲射撃とを受けてゐた時期であり、我が方に飛べる飛行機は無く、本土から時折飛来する連絡機と特攻機との為に敵の砲爆撃によって空けられた飛行場の穴を埋め、敵上陸に備へての地下陣地造りに連日懸命になってゐたのである。もちろん父を含めて全員が玉砕覚悟であった。

 この時期の状況を「藁半紙一枚の面積に一発の割合で敵の砲弾や爆弾が落ちた。つい今しがた打合せをした部下が、振返ると跡形もなく消えてゐた」と何かの折に父が語った事がある。実に凄絶な戦ひ振りである。

 父が亡くなる少し前だったが、東京郊外の高尾山山頂にある硫黄島戦歿者の慰霊碑に代参した事がある。その時に父はかう言った。「もう高尾山の上まで登って行けぬから代りにお参りに行って呉れ。線香と水とを持って行って呉れ。酒でなくてよいのだ。水を供へて来て呉れ」。

 硫黄島は火山島であり山はあっても川が無く、井戸を掘っても硫黄分の多い海水混りの水しか出てこない。天水に頼らうにも台風でも来なければ雨は殆ど降らない。自然から得られる真水が極端に少ない島である。地熱は高く地下陣地を造るにしても地面を少し掘れば50度60度の硫黄ガスが噴出して作業は困難を極めたやうだ。この様な悪条件の下で戦ひ玉砕した2万2千名の守備隊将兵が最も欲したのは「水」だったのである。「酒でなくてよいのだ。水を供へて来て呉れ」といふ短い言葉はかうした硫黄島での戦闘の情況を凝縮したものである。毎年、硫黄島守備隊が玉砕した3月になるとこの事を思ひ出す。

(元富士通(株))

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   自国を「どう縛るか」から始まる異常な国会論議

 昨平成27年9月、集団的自衛権の「限定的な行使容認」を含む安全保障関連法が成立した。尖閣諸島(沖縄県石垣市の一部)への領土的野心をいよいよ露(あらは)にする中国の度重なる領海侵犯など、波高しの現況にあっては半歩前進であったが、国会審議の様子を伝へる紙面や主要メディアの論調などを見てゐて、戦後70年にしてなほ「国防努力忌避の戦後体制」下にあるわが国の病理を思はざる得なかった。そこには自国の手足をどう縛るかが議論の前提とされてゐたからである。

   「憲法」前文に見る「自虐」の寓意

 集団的自衛権とは、分りやすく言へば、自国防衛に最善を尽す中で足らざるところを他国との協力で補ひ、さらに万全を期すといふことにならうが、その根本に自国の防衛には先づは自らが全力を傾けるといふ確固たる信念がなければならない。その肝心の覚悟の程が感じられなかったのである。

 「専守防衛」「一部容認」「限定行使」「憲法上の制約」といった言葉が当り前のやうに行き交ってゐた。世界中で、自らの手足を縛ることから安全保障論議が始まる国は他にはないであらう。かうした「国防努力を忌避する観念」が日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」との文言に由来することは、既に多く指摘されてきたところである。

 ここには〝われら日本国民は「公正と信義に背いて平和を撹乱した」悪しき者である。それゆゑ自らのために計(はから)ふ資格はありません〟との自己卑下、自虐の寓意が潜んでゐる。

   〝屈辱の政治文書〟を奉じ続ける倒錯

 そもそも日本国憲法の草案は、主権喪失の被占領期に連合国軍総司令部(GHQ)のスタッフによって一週間で練られたものであった。前文は麗々しくも「日本国民は…」で始まってゐて、さらに途中で何度も「日本国民は」が繰り返され、「われらは」が幾度となく出てくるが、GHQが「日本国民は」「われらは」と騙(かた)ったにすぎないもので、わが方は何ら関与してゐないのである。

 ただし、大日本帝国憲法第73条に基づく「帝国憲法の改正」との擬態(ぎ たい)を施すことで辛うじて法的連続性(正統性)が加味された形にはなってゐる(昭和21年11月3日公布、6ヶ月後の翌年5月3日施行)。しかし、純法理から見れば独立喪失の敗戦国が外国権力(=GHQ)によって受容を強要され、呑まざる得なかった政治文書に他ならない。このことを否定することは何人たりともできないはずである。

 即ち「国防努力を忌避する日本」とは、「弱体化した日本」「立ち直り不能な劣化した日本」のことであって占領統治の目的そのものだが、その状態を法定化する政治文書が「日本国憲法」だったのである。第9条2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」との文面を読めば、日本国憲法がポツダム宣言第九項からくる「日本国軍隊の武装解除」状態の常態化を目論んだものであることはいよいよ明らかであらう。主権回復(昭和27年4月、平和条約発効)後、速やかに改廃されるべき、この〝屈辱の政治文書〟が最高法規、法の中の法、「憲法」として〝立法者意思〟を忖度(そんたく)することなく、公的なあらゆる場面で奉じられ、気づいてみれば、与野党問はず「憲法の平和主義の尊重」を言ひ、さらには「平和憲法」と賛称するやうになってゐる。主客顚倒の極みといふ他はないが、かくして自尊自立の国民的信念は蝕(むしば)まれてしまったのである。

   「武装解除の規定」への賛歌は今も続く

 現行の文部科学省検定済の教科書を見ても、前文や第九条に記された「自立努力否定の文言」「武装解除の規定」を讃へて止まない。一例を挙げてみよう。

 

「…憲法前文で…諸国民の公正と信義に信頼してみずからの安全と生存を保持しようという決意を明らかにした。…この決意…を具体化した規定が、第九条である」

「…日本国憲法は、戦争放棄を確実なものとするために、軍備廃止を宣言している点で、いっそう徹底した平和主義にたつ画期的なものといえる。そして、この点に、日本国憲法の平和主義の世界史的な意義を認めることができる」

(実教出版『高校現代社会』平成25年1月発行。106、107頁)

 生徒は、かうした教科書から何を学べばいいのだらうか。

 安保関連法案の審議の際、国会前に集(つど)って「違憲の戦争法案反対!」を声高に叫んだ真面目な人達は、日本国憲法の申し子と言ふべきで、ものの見事に日本国憲法の本質を示してゐた。端(はな)から国防努力を批判し否定して、敵視さへしてゐるかに見えたからである。

   国防は物理的な備へに留まらない

 ともかく安保関連法は成立し、並行して総理大臣が憲法改正の必要性を口にするやうになった。国政選挙の公約に憲法改正が掲げられるやうになった。憲法見直しの動きは、中国による尖閣諸島上空を含む防空識別圏の設定、中国軍艦の対馬海峡及び宮古海峡通過、北朝鮮の累次のミサイル発射等々、近年の直接的な脅威が後押ししてゐることは間違ひないが、憲法改正の眼目は、長年にわたる「日本国憲法」体制の下にあって、深く広く染み込んでしまった「国防忌避の観念」の克服にある。

 しかしながら、それは容易なことではない。現に今なほ前記の教科書のやうな授業がなされてゐるのだ。「戦争法案反対!」と叫んだ人達を笑ふわけにはいかないのである。自尊自立の国民的精神を欠いては如何なる防備も機能するはずがない。国防は単に物理的な備へに留まるものではなく、教育のあり方から国民の精神生活まで深く関連してくるのである。

   日本人の国防意識にくさびを打ち込んだ米国と組まざる得ない現実!だが、しかし…

 GHQは日本国憲法によって日本人の国防意識にくさびを打ち込んだが、その主要勢力は言ふまでもなく米国であった。その米国との安保条約によってわが国は米ソ冷戦の国際場裡を生きてきた。さらにまた軍拡中国の海洋進出などを念頭に、米国との防衛協力を強めなければならい局面にある。

 冷厳なる国際社会の現実を思ふばかりであるが、米国にはまた独自の思惑や戦略があるはずである。それゆゑにわが国自身が自尊自立の矜恃を取り戻すことが何より大事なこととなる。米国との防衛協力の実効性を高めるためにも、一目置かれる国になることが不可欠なのである。憲法改正はその第一歩である。

(標題及び小見出しは、転載に際して、編集部で付した)

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 去る3月26日(土)から翌27日(日)にかけて、関東地区会員による小合宿が、神奈川県湯河原町にある昭和産業(株)の「湯河原寮」にて開催された。参加者は15名。

 26日には①山内健生兄「憲法について」、②澤部壽孫兄「田所広泰先輩の思想とお歌について」、③山本博資兄「竹山道雄先生の『昭和の精神史』について」と題する三つの研究発表が行はれ、内海勝彦兄から「黒上正一郞先生の御本の輪読にまつはる所感」が発表された。

 27日は池松伸典兄の先導による御製拝誦に始まり、第61回合宿教室(東日本)の小柳志乃夫運営委員長から、参加者勧誘につき大学寮・県人寮訪問等についての具体的な提案があり、それに基づいて検討が行はれた。

 詠草の一部を左に掲げる。(磯貝保博)

       五所神社参詣   さいたま市 飯島隆史
   友どちとともに額づく神前にさやかにひびく鵯(ひよどり)の声

       横浜市 池松伸典
   山々に囲まれし里にうぐひすの声さはやかにひびきわたれり

       府中市 磯貝保博
     万葉公園沿ひの渓流散策路を歩みて
   岩飛沫(しぶき)あげて流るる渓流の川音(おと)高く胸に響き来(く)

       万葉公園にて   清瀬市 今林賢郁
   「文学の小径」と名付けし細道に湯河原愛でし人らの歌碑立つ(独歩、漱石、藤村、与謝野
   等)

       五所神社   小田原市 岩越豊雄
   輝ける朝の日を受け境内に鳥居の影の長く映れり

       五所神社にて   酒々井町 内海勝彦
   苔生える荒き木肌はひび割れて八百年の齢(よはひ)を感ず

       大合宿に向けて   茅ヶ崎市 北濱 道
   現状を上手くまとめて説くよりも思ひをそのまま述べむと思ふ

       朝の散策にて   世田谷区 小柳志乃夫
   頼朝の挙兵せしとふそのかみの歴史伝ふるこのみ社は

       柏市 澤部壽孫
     内海勝彦君の所感発表を聞きて
   一高(第一高等学校)の学生(とも)らを想ひ賜びまししみ文にあふるる篤き心の(黒上正一郎
   先生のお便り)

       大田区 島津正數
     仕事を終へ夜から参加せし森浩典兄に寄せる
   夕べに来朝(あした)に帰るわが友の学びの熱意に心うたるる

       奥湯河原万葉公園   八千代市 山本博資
   漢詩和歌俳句を記す歌碑の立つ山路を案内(あない)する先輩(とも)有難き(国武忠彦先生)

       横浜市 山内健生
     「憲法について」の発表を終へて
   をぞましき「憲法ならざる憲法」を奉じて来たれる歪みを述べたり

 

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 - 「震災外交」深まる日台、苦々しさ抱える中国 -(「東洋経済オンライン」から)

 4月14日(木)午後9時26分ごろ発生したマグニチュード(М)6・5、震度7の熊本地震は、さらに16日(土)午前1時25分ごろのМ7・3、震度6強の「本震」に繋がり【註・後日震度7に訂正との発表あり】、18日(月)午後九時までに震度1以上が550回を超えた。その直前の午後8時41分ごろには阿蘇地方と大分県西部でМ5・8、震度5強の地震が発生するなど熊本、大分両県にまたがって被害が拡大。住宅はもとより阿蘇神社社殿、熊本城にまで災禍が及んでゐる。18日午後の時点で、死者43人、熊本、大分両県の避難者は約9万4千人に上る(4月19日付産経新聞)。

 かうした猶も予断を許さない中、東洋経済オンライン―4月19日(火)6時0分配信―の記事に、次のものがあった。日台間の交流関係を考へる上で見逃せない内容と思はれるので敢へて掲げてみた。標題、副題とも東洋経済オンラインからの引用で、横書きを縦書きに数字は漢数字にした。

 本紙が届くころには揺れは収ってゐるであらうか。(4月19日夕 山内健生)

 熊本県での一連の地震を受け、海外でも支援の動きが広まっている。なかでも最も素早く、かつ手厚い支援の動きを見せたのは台湾だ。いま日本と台湾は、不幸中の幸いと言うべきか、地震への支援がつなぐ「恩返しの連鎖」とも言える状態に入っている。

 今回台湾では、14日の最初の地震の直後、次期総統である民進党の蔡英文氏が「日本の友人たちみんなが無事であることを願っています」と、現職の総統である馬英九氏よりも早いタイミングで真っ先に声を上げた。政権交代まであと一ヵ月となったこの時期、現職総統より素早くアクションを取ったことには、あるいは政治的な考慮も働いたのかもしれない。

   有力首長が次々と給与の寄付を表明

 その後、台湾の馬英九政権は1000万円の支援を表明したが、ネットなどから「少な過ぎる」との声が上がり、16日の二度目の地震の被害拡大を受けて、支援額を6400万円へと大幅に増額することになった。

 一方、民進党も1000万円の支援を党費から支出することを決定。また民進党系の代表的首長である陳菊・高雄市長、頼清徳・台南市長、林佳龍・台中市長、鄭文燦・桃園市長が、それぞれ日本との交流があるなどの理由から、いずれも1ヵ月分の給与を寄付することを表明している。

 無党派の台北市長・柯文哲も、人気の高い同氏のツイッターとFacebook(日本語を使用)で、日本への見舞いをいち早く表明した。

 こうした台湾の素早い支援に対して、日本ではネット上で「台湾は友達」「感動した」など肯定的コメントが相次いでいる。

 この一連の動きは、今年2月に台湾・台南で起きた地震によるビル倒壊などの被害に対して、日本側が官民をあげ、台湾の人々が驚くほど手厚い支援を行ったことと、当然無関係ではない。

 しかし、この日本側の行動の背後には、2011年の東日本大震災の際、台湾の民衆が小額の街頭募金を中心に200億円という巨額の寄付を集め、日本を助けてくれた経緯があったことは言うまでもない。

 さらにさかのぼると、1999年の台湾大地震発生時には、日本が救援隊を世界に先駆けて派遣し、救援活動で大いに活躍したという経緯があった。つまり、恩返しに対する恩返しがさらに恩返しになるという、言ってみれば「恩返しの連鎖」としか表現できない〝震災外交〟が、日台間に生まれているのだ。

   支援をめぐっても勃発する「一つの中国」問題

 中国と台湾との間でも、震災における「友好」関係が生じかけた時期はあった。対中関係改善を掲げた馬英九政権は、2008年に四川で大地震が起きた際、およそ一億円の義援金を拠出し、救助隊も派遣。台湾の企業家からの巨額の寄付も相次ぎ、民間での募金活動もそれなりに活発だった。

 しかし中国と台湾は、どちらも相手の主権を認めていないという複雑な関係にあり、必ずしもしっくりといかない部分がある。実際、1999年に日本が台湾の大地震に義援金を送ろうとした時、中国から「台湾は中国の一部なので、支援は我々を先に通すべきだ」と文句がつき、台湾側の強い反発を招いたことがあった。

 この「一つの中国」の問題は、日本でも波紋を呼んだことがある。東日本大震災発生時、台湾のほうが中国より手厚い支援をしてくれたにもかかわらず、当時の民主党・野田政権は震災一年の追悼式典で、外交における中台の扱いの慣例から、台湾を指名献花から外し、中国だけに指名献花をしてもらったことがあった。

 これは日本世論の厳しい批判を浴び、翌年は台湾を指名献花に招いたが、今度は中国側が出席をボイコットする事態につながってしまった。

 日本と台湾との災害時の相互支援は、特に2011年以降、もはや被害の程度や支援のニーズとは別の次元で、相互依存的な側面、互いに関心を抱き合う共同体的な側面が生じている。そのことは、「頑張って台湾を(あるいは日本を)支援しないと、世論からもバッシングを受ける」という、ある種のプレッシャーも政治家に与えている。

   内心「苦々しい」ものの、介入できない中国

 プレッシャーと言っても、それは決して不健全なものではない。お互いを思いやりたいという世論を政治がきちんと受け止めるという、民主主義が健全に機能した結果と言うことができるのではないか。

 日本と台湾の地震のたびに深まる「友好」に対して、中国は、いまのところ明確な態度を表明していない。とはいえ、政府レベルでは内心、苦々しい思いをしていることは想像がつく。

 だが、「人道」という大義名分がある以上、こうしたケースで何らかの介入を行うことは、さらに自らを苦境に立たせる可能性がある。それも分かったうえで中国は黙っているはずで、深まる一方の日台間の「震災支援の絆」の前に、当面は打つ手を見つけ出せないだろう。

野嶋 剛

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編集後記

 4月14日夜の震度7に続く、16日未明の震度7の「本震」、震度1以上が900回を超えた熊本地震(4/26)。かうした「前例のない地震のため、気象庁は余震確率の発表を取りやめた」(4/22産経)。熊本地震は人智の限界を改めて知らしめたが、かかる天変地異の渦中にあっても、ことさらなる治安の乱れはないといふ。われら日本人が長い歴史の中で紡いできた協心協力の習ひであり、先人からの掛け替へのない賜物といふ他はない。大地の鎮まることを祈るのみだが、真冬でないことがせめてものことだ。

 地震の予知は困難であっても、その発生予測の精度をあげるべく研究と観測は続けられてゐる。この時期に、不謹慎かも知れないが、ふと「尖閣」を思った。わが領海への中国公船の度重なる侵入は狡智によるもので、その先の危機は予見できる。4月24日も侵犯した。手を打たなければ明らかな人災だ。
(山内)

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