国民同胞巻頭言

第654号

執筆者 題名
飯島 隆史 いま、我国の政治状況はどうなってゐるのか
- 小林秀雄のエッセイが頭をよぎった! -
柴田 悌輔 現下の「国防」と「外交」について
- 気になる「アメリカ世論の動向」と「国内の反日勢力」 -
大岡 弘 「新宮家」創設の実現に向けて
- 「親王宣下」の制度 -
〈小柳陽太郎先生を偲ぶ〉
理想は「天地と共に行はるゝおのづから」の中に
- 小柳陽太郎先生ご執筆欄〝古典の窓〟から -

 昨年9月、「安全保障関連法」が成立した。その際、集団的自衛権の限定容認を含む安保法制は「戦争法案だ」として、野党第一党の民主党を初め野党の多くが執拗に反対したことは記憶に新しい。それに止まらず、2月19日、野党五党がその廃止法案を国会に提出したとの報道にはいささか驚いた。昨年の国会審議の折には、「違憲の戦争法案、反対!」の野党の声をメディアは大きく報じてゐた。「戦争法案」とは、奇妙なレッテルを貼るものだと呆れたが、それに輪をかけての廃止法案の提出であった(院内共闘とはいへ、安全保障関連で民主党が日米安保体制を認めない、その上、「国柄否定」の共産党と組んだことには、さらに呆れた)。

 わが尖閣諸島の領有を狙ふ中国の意図はいよいよ露骨になってゐるが、2016年の国防予算の伸び率は、前年比7~8%で、6年ぶりの一桁増であった!として注目されるほど、前年比二桁アップは5年連続してゐた。(伸び率が三割近い年もあった)。金額はここ20数年で10倍を超え日本の三倍強。潜水艦や駆逐艦を整備し、その軍拡は明白で、先頃は国産空母の建造を明らにした。さらに南シナ海では島嶼の埋立、そこへの滑走路建設など軍事拠点化に国際的な懸念が高まる今日、議員諸氏にかうした情報が届いてゐないはずがない。それでも野党議員が廃止法案で足並みを揃へるのはなぜか。

 昨年の安全保障関連法案の審議の際に、反対派がデモや集会で、「戦争法案」とともに、多用したのが「アベ政治を許さない」といふ標語であった。安保法制を整へようとする安倍内閣は「平和憲法の理想を踏みにじるもので許せない」といふことらしいが、首相個人を標的にした新たなレッテルであった。しかし、それが反対集会を報じる新聞やテレビで連日のやうに報じられ、案の定、「アベ政治を許さない」は昨年の流行語大賞のトップテンに入った。また、最近、都内の某私立大学を訪れた知人の話では、いくつかの研究室の扉にこれ見よがしに「アベ政治を許さない」とのポスターが貼ってあったといふ(かうした大学教員は、日頃どんなことを学生たちに語ってゐるのだらうか、少々気になる。ちなみに現憲法を指して「平和憲法」と称賛するのも、印象操作であって、巧妙なレッテル貼りでしかないが、これには年季が入ってゐる。いまや括弧なしでそのまま出てくる教科書もあるらしい。「平和憲法」なる呼称は元来は社会党や共産党の政治標語だったはずだ)。

 さらに、「政治資金報告書への記載漏れ」事案などへの(批判されて当然のことではあるが)人非人もどき高飛車な質問や追及も、レッテル貼りの一種とみていい。例へば、週刊誌はもともと偽悪的で著名人や公人の醜聞を暴くことが売りのひとつだが、国会議員の場合、記事がそのまま正義面(づら)してあたかも安全保障問題や財政問題と同等の重大事であるかの如くに国会で罷り通る風潮には違和感を覚えざるを得ない。問ひ糺す議員自らも政治の質を貶めてゐる感じがするのである。

 ここで思ひ出されるのが、唐突のやうだが、昭和31年に小林秀雄が書いた「吉田茂」といふ短いエッセイのなかの一節である。

 吉田内閣の後に登場した鳩山一郎内閣について、新聞記者からしつこく感想を問はれた小林さんは、〝役人のゴルフ、麻雀を禁ずる〟といふ内閣の第一声を伝へる記事を見て、「吉田といふ人は、こんな陳腐な退屈な寝言を言ふ暇があつたら、写真班に水をぶつかけたり、演壇でバカ野郎と言つたりしてゐたな。その方がずつとおもしろいや。感想を書くなら、さう書いてといてくれ」と言ったと記してゐる。続けて「無論、そんな低級な感想は載せてくれなかつた。私の意見は低級ではあらうが、ヒステリイ的ではない」云々とある(小林秀雄集第11巻)。

 ヒステリーには、一時的な興奮状態を指すだけでなく、「虚栄心が強く、感情が変わりやすく暗示にかかりやすい性格」との意味もあるやうだ(『大辞林』)。〝私は平和を愛好する良い人です〟と叫ぶが如き「戦争法廃止!」のシュプレヒコールは、まさにさうではなからうか。そして、究極のそれは、「平和憲法」を守れ!第九条が危ない!の護憲の叫びではなからうか。憲法の「生ひ立ち」ばかりか、「尖閣」にも「拉致」にも全く視線が及んでゐないからである。

(埼玉県庁企業立地課)

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   はじめに

 日本は、隣接する北東アジアの中国、韓国、北朝鮮の三ヶ国の中で、北朝鮮を除く中韓と正式な国交を結んではゐる。だがその二ヶ国との関係は必ずしも円滑ではない。この両国とは国交を「正常化」して以来、あまり「正常」ではない事態が続いてゐる。ことに近年は、それぞれの国内事情から「反日」を表看板にし出してゐる。だからと言って、今さら国交を断絶する訳にもいかない。

 もっとも世界に眼を転じて見れば、隣国と良好な関係にあるといふのは稀である。だが、その場合でも軍事衝突に至らないやうに外交交渉で小康を保ってゐる。日本としても隣国とトラブル続きといふのは、安全保障上、好ましいことではない。通常、隣国と緊張感がある場合には、軍事力の裏付けがある「外交」が求められる。国際社会には警察も調停機關も存在しないし、国連は国益をカムフラージュしながら主張する場である。トラブルがあれば、当事国同士で解決するしかない。非友好国との外交を有利に展開させるためには、或いは惨めな屈服をしないためにも、行使するしないに関らず、それなりの軍事力は必要なのである。つまり「国防」と「外交」は、元來表裏一体で機能させるべきものである。即ち「軍事力」を伴はない「外交」は有り得ないのである。ところが日本の「外交」を掌(つかさど)る政治家と官僚には「国防」(軍事力)といふ観念がまるで欠除してゐるやうに見える。そんな現実を踏まへた上で、日本が自国の安全を全うするためには、どんな障害があるのか、又その障害はどうすれば克服できるものなのか。それを少しばかり考へてみたい。

   二つの懸念材料

 現在、世界各地で各国、又は各民族が、各々の「利益」を主張して紛争が頻発してゐる。わが日本に関してもご他聞にもれない。中国は尖閣諸島の領有を目論み、韓国は竹島を不法占拠し続けてゐる。北朝鮮に至っては、核開発による恫喝ばかりか、邦人を拉致したままその振る舞ひたるや暴力団もどきである。この期に及んで猶も、もっと話し合ひをすべきだと有力メディアは唱へるが、全く現実を見ようとはしない。解決の見込みの無い対策とは、無策と同義語でしかない。しかし、実際に見るところ日本外交は殆ど無策に等しい。現状は国家としては無責任が過ぎると言ふほかはない。

 とにかく中国の軍備増強や海洋進出をわが日本の危機として受け止めることだ。中韓の「歴史認識を正せ」といった言ひがかりには毅然とした態度をとることである。明らかに不当な干渉である。

 わが国の「国防と外交」を考へる時、さらに間接的ではあるが、二点の懸念材料がある。

 一つには「内なる反日勢力の存在」であり、いま一つは「アメリカ世論の動向」である。「内なる反日勢力」とは、国内の有力メディアと、それと歩調を揃へたかに見える政治家や学者たちを指してゐる。かうした反日的言動の不適切さ(「不純さ」と言ひたいところだが)については、既に多くの論考もあるから、ここでは批判は差し控へる(だが、この「内なる反日勢力」を如何にして克服するべきかについては後述する)。

 私が第一に心配してゐるのは、「アメリカ世論の動向」である。ある意味では、これは日本の安全保障を、非常に不安定で、且つ危ういものにする要因だと考へてゐる。 アメリカの覇権力の低下と

   中国の軍事的擡頭

 戦後の米ソ冷戦下、アメリカは日本をコントロールさへすれば太平洋を含むアジア全体を制御できた。ところがソ連自壊から20余年間、中国経済の伸張と軍備拡大に反比例して、アメリカの覇権力の低下は否めない。今や軍事的、経済的に擡頭する中国をアメリカは制御できなくなってゐる。現在のところはアメリカの軍事力が事実上中国のそれを上回ってゐるにしても、この先は予断を許さない。しかもアメリカは、政府の意思決定が常に国民世論に左右される国である。

 中国が軍事力で、アジアを制御しようとした時に、アメリカが保有する軍事力を駆使してまでも、中国の行動に圧力をかける意思を現実的に表明するだらうか。現在のアメリカでは中国系国民の数は決して少なくないし、その上、中国の情報戦に関する能力は高い。中国系国民を利用して、日米安保条約を中国への牽制に発動することを抑へる能力は充分にあると思ふ。例へば中国が東シナ海の尖閣諸島を侵犯した場合、アメリカ世論は、それに対処して自国の軍事力を行使することに簡単には同意しないだらう。さうなると日米安保条約は、「有名無実」なものになりかねない。

 勿論日米安保条約が日本にとって、安全保障の基軸であることは論を俟たない。近未来に日本が独力で核武装を伴ふ軍事力を持つことは、予想し得る国際世論、国内世論に照し合はせても、不可能といっていい。中国に対する軍事的抑止力は、アメリカの軍事力を背景にしたものでなければ、さう効果は期待できないのが現実である。昨秋国会で成立した安保法制とは、その効果をより高める目的を持つ。だがそのアメリカの軍事力といふ無言の抑止力は、「アメリカ世論」といふ不確定な要因に左右されてゐる。日米安保条約とは、果して中国の武力膨張への抑止力になり得るのだらうか。

 さう考へてくると、日米安保条約を実効あらしめる方策とは、対アメリカへの外交に頼るしかない。この事実が日本の「国防論」を偏頗なものにしてゐる。独力で中国に対抗し得る軍事力を持たない日本の国防の要諦は、中国の武力膨張がアメリカにとっても、危険な存在であることを、「アメリカ世論」に如何にして、認識させるかに掛かってゐる。更に言ふなら、アメリカの太平洋戦略にとって、日本を同盟国にしておくことが、地政学的に如何に重要であるかを、アメリカに不断に認識させることである。

   ロシアの覇權力の活用

 アメリカ世論を「味方」にするためには、ロシアといふもう一つの世界的覇権力の利用が考へられる。中国の覇権欲望への抑止力が、アメリカだけでは不充分ならば、利用出来る覇権力は世界にはロシアのものしか残されてゐない。世界の列強の中で、中国を脅威と感じる国は、アメリカを除けば、中国と長い国境線を持つロシアしか考へられない。

 日本がロシアと軍事的、経済的に近づくことは、アメリカにとって好ましい筈がない。だが説得の材料はある。日本をアメリカの側に付けておくことは、アメリカが太平洋の覇権を維持する戦略、死活的に重要な筈である。日本をロシア側に追ひやる危険は、いかな「アメリカ世論」といへども、見過ごす訳にはいかないだらう。むしろ中国との正面衝突を避けた上で、中国を牽制する方策だと考へれば、アメリカも納得する可能性は高い。その辺を上手に「あやして」安全を確かなものする外交手腕が求められる。ロシアとの提携は、アメリカ世論を日本に目を向けさせる意味でも、一考すべき外交政策ではないのだらうか。

 それには相当な覚悟と戦略が不可欠であることは言ふまでもない。

   内なる「反日勢力」の克服を

 昨年、日本の安全保障能力を高める安保法制整備に反対する勢力が、「戦争法案」であるとして国会周辺で「戦争法案反対」を連呼して、盛んに集会を開いた。マス・メディアも大きく採り上げた。国内の所謂リベラリズム派には、「国防」といふ観念自体は存在しない。軍事力は、戦争を抑止するために、平時に於いても不可欠であるといふ「道理」は、彼らには通用しない。軍事力とは戦争を惹き起すものであると、彼らは信じ込んでゐる。これは理窟とか理性ではなく、戦争を忌避する単なる「感情」に基いてゐる。ではかうした「感情」は如何にして、彼らの内に醸成されたのだらうか。

 敗戦後の日本を統治した占領軍の意図的な施策によって、軍事力否定の観念が生れたと考へていい。つまり明治以來、大東亜戦争の敗戦に到るまでの「日本の近現代史」を全て悪と決めつけたGHQの主導する「東京裁判史觀」の教育が、国防忌避の「鬼ッ子」を生み出したと見て間違ひない。この「鬼ッ子」たちが引き起した騒動は、昨秋に始った訳ではない。昭和35年の「安保闘争」に始まって、10年後の大学紛争、更には「反原発」運動にまで繋がってゐる。これらの運動に共通するものは、「理性」ではなく「感情」である。近代日本史を否定する情念が、生み出した感情である。

 さう考へてくると、「感情」を「理性」で説得するのは、不可能であることが解る。かうした勢力の力を削ぐには、迂遠かも知れないが、次世代を担ふ学生、青年層への「教育」しかない。7年弱の占領期間に始まった「近代日本」を否定する教育の後遺症は依然として深刻であるが、それを克服する特効薬などない。「内なる反日勢力」の存在を弱めるには、根気強く努力を積重ねるしかない。

 擡頭する中国の軍事力に対抗する力を持たない日本の「国防」とは、多くを外交的駆け引きに頼らざるを得ない。それと同時に、私たち日本人はさうした現実を、今一度噛み締め、認識を共有する必要がある。

 現実的に実効的に展開しなければならない外交に対して、「感情」のままに反対する「内なる反日勢力」の影響を払拭するためには、若い世代に、真実の日本の歴史を識らせる努力を続ける他はないと、強く思ふやうになった。明日の日本を担ふ若者は、多く足らない点を持ちながらも、実に素直なのである。私はその「素直さ」を、心の底から信じたいのである。

((株)柴田 代表取締役)

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 約70年前、GHQ(連合国軍総司令部)の峻烈な「皇族」解体政策によって、皇室では、11の「宮家」(男子皇族26名、女子皇族25名)が皇籍離脱を余儀なくされた。加へて、秋篠宮殿下御誕生以後は、女子の皇族方しかお生れにならない状況が続き、その結果、悠仁親王殿下御即位の時には「宮家」皆無の事態に陥ることが危惧されてゐる。従って、皇位継承権を保有される男子皇族方の増員、すなはち、「男系男子皇族による新宮家の創設」を、今や速やかに実現させなければならない。本稿では、「皇位継承の伝統的原則」を見つめ直し、実現に向けて、その課題を探ることにする。

   1.「皇位継承史」概観

 皇位継承事項は、国家最重要の事柄である。それ故、慣習上「天皇や上皇の大権事項」と見做して来たためであらうか、明治の皇室典範成立以前には、継承順位等の明文規定は無かったやうである。多少関係する最古の成文規定は、八世紀の初めに成立した大(たい)宝(ほう)(養老)令(りょう)の「継(けい)嗣(し)令(りょう)」である。条文には多少の変遷があり、また、運用に当っては、時の慣習やその時代の事情が重視されてこの令(りょう)自体は形骸化してはゐたが、明治に至るまで廃止されてはゐなかった。そこには、次の規定があった。

  「凡(およ)そ皇兄弟(皇姉妹を含む)と皇(こう)子(し)(皇女を含む)を皆親(しん)王(のう)(内親王を含む)と為(せ)よ。[女帝の子、亦(また)同じ。]以外は並びに諸王(女王を含む)と為よ。親王より(親王を一世として数へて)五世は、王の名を得と雖(いへど)も、皇(こう)親(しん)の限りに在らず」。*( )内は引用者注。

 この規定のキーワードは、「親王」と「皇親」(天皇の御親族)である。

 ここで、大宝令成立前(第1代・神武天皇から第42代・文(もん)武(む)天皇の御即位まで)を第一期、大宝令成立以降明治前期まで(第43代・元(げん)明(めい)天皇から第122代・明治天皇の御即位まで)を第2期、明治皇室典範成立以降今日まで(第123代・大正天皇から第125代・今上陛下の御即位まで)を第3期と区分して、各期間における皇位継承の歴史を概観すると、以下のやうになる。(但し、複雑化を避ける便宜上、北朝五代の歴代外天皇方は、考慮外とした。)

   第1期
① 天皇のお生れの際の御身分

皇子(男子)三十方(かた)(七三%)、二世王(皇孫)五方、三世王(皇曽(そう)孫(そん))一方、五世王(皇玄(げん)孫(そん)の子)一方、皇女二方、三世女王(皇曽孫)一方(重(ちょう)祚(そ))。

② 継承形態

父子継承(父から子への直系継承)は41例中21例(51%)。兄弟姉妹間継承は、41例中11例(27%)。

   第2期
① 天皇のお生れの際の御身分

皇子67方(84%)、二世王四方、三世王一方、四世王一方、五世王一方、皇女四方(うち重祚一方)、二世女王一方。

② 継承形態

父子継承は80例中38例(48%)。兄弟姉妹間継承は、80例中16例(20%)。

   第3期
① 天皇のお生れの際の御身分

皇子三方(100%)。

② 継承形態

父子継承は三例中三例(100%)。

 以上を見ると、皇位は、天皇の実の皇子が引き継がれる場合が圧倒的に多く、また、全体を見わたすと、男子は五世王以内、女子は三世女王以内に収まってゐる。第26代・継(けい)体(たい)天皇(第15代・応(おう)神(じん)天皇の五世王)と第102代・後(ご)花(はな)園(ぞの)天皇(第93代・後(ご)伏(ふし)見(み)天皇の五世王で、北朝第三代・崇(す)光(こう)天皇の三世王に当る)のお二方を除けば、あとの総ては「継嗣令」でいふ「皇親」の範囲に入ってゐる。また、父子継承は全体の約半数、兄弟姉妹間継承がこれに次ぐ。

 だが、第二期において皇室(天皇と皇親)全体の継承事歴にさらに踏み込んでこれを見てみると、真のキーワードは、「皇親」ではなくて、「親王」であることに気がつく。

   2.「親王宣下」といふ制度

 「親王宣(せん)下(げ)」とは、皇統に属する特定の一員に対して、親王と称することを許す宣(せん)旨(じ)(天皇の命を伝へる公文書)を下すことである。

 令(りょう)制の施行以降「皇親」の数が増大してくると、「皇親」の中から姓を賜り臣籍に下(くだ)る者が現れ始めた。平安時代に入ると、第50代・桓(かん)武(む)天皇や第52代・嵯(さ)峨(が)天皇は、国費節減のために御自身の皇子女に対してこの「賜(し)姓(せい)降下」を実施された。令制では、「親王」は生れながらの身分であったが、この皇子女の臣籍降下に伴ひ、身分の高い母親から生れた者など「親王」として残すべき皇子女の選定が行はれるやうになり、天皇から選定結果としての「親王宣下」を受けないと、血統上は「親王」の範囲にありながらも、身分上では「親王」になることが出来なくなった。

 逆に、皇孫(二世王)でありながら、「親王宣下」によって親王に格上げされるケースが出て来た。その実施初例は、第67代・三條天皇の御孫の敦(あつ)貞(さだ)王であったやうである。それ以来、「親王宣下」の対象は、令の規定外の二世王以下に拡大され始めた。そのやうな場合には、対象者は、「親王宣下」に先だって予め天皇または上皇の「猶(ゆう)子(し)」(名目上の養子のことで、「養子」とも表現される)となって、天皇・上皇にとっての「擬制の皇子」になっておくことが要求された(以上は、植木直一郎著『皇室の制度典禮』復刻版、第一書房、昭和61年)。

 さらに、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけては、「父子継承が自然な制度」と認識されたためであらうか、世襲親王家(いはゆる「宮家」)が成立した。それを可能にしたのは、親王家の代々の当主が、天皇からの世(せ)数(すう)にかかはらず「親王宣下」を受け続けることが慣例化したからである。常盤(ときは)井(ゐ)宮家をはじめとする初期の世襲親王家は、それぞれ数代で絶(ぜっ)家(け)となった。しかし、それ以降、新たに室町時代に成立した伏見宮家、戦国時代末期に成立した桂宮家(もと、宮号を八条宮、京極宮とも称す)、江戸時代初期に成立した有(あり)栖(す)川(がは)宮家(もと、高松宮、花町宮とも称す)、江戸時代中期に成立した閑(かん)院(いん)宮家の四つの世襲親王家は、以後、四(し)親王家と称され明治に至った。閑院宮家は、将軍侍講役・新井白石が「三つの宮家だけでは皇統の継承に不安がある」と幕府に建議し、その設立が実現した宮家である。宮家とは、もしも天皇に男子が授からなければ、天皇の内廷に代って男子の皇位継承者を差し出すといふ、極めて重要な役目を負った御存在である。

 これらの宮家では、皇統の危機に際して、実際に大任を果してゐる。伏見宮家では彦(ひこ)仁(ひと)王を差し出し第102代・御花園天皇を実現させ、また、有栖川宮家では、第二代当主・良(なが)仁(ひと)親王御自身が第111代・後(ご)西(さい)天皇となられ、さらに、閑院宮家では、兼(とも)仁(ひと)親王を差し出して第119代・光(こう)格(かく)天皇を実現させたのである。

 これらの宮家のうち、代々の当主が「親王宣下」を受けた上で、当主の実系の父子継承で宮家を相伝しつつ存続してゐる場合には、時代が下るにつれて令制の「皇親」範囲の四世王をはるかに超えて、「皇親」の範囲をさらに押し広げていくことになる。伏見宮家がそれである。江戸末期の伏見宮家第20代当主・邦(くに)家(いへ)親王は、16世親王に当られる。

 一方、継嗣が途絶えた宮家では、その都度、当代の天皇の皇子女(実の親王や内親王)を後嗣に迎へて、宮家を存続させてゐる。桂宮家がそれである。一例を示すと、仁(にん)孝(こう)天皇の皇女であられた淑(すみ)子(こ)内親王は、桂宮家第11代当主となられた。内親王は、皇室の伝統に則り独身を通されて、当代天皇の皇子の出生・成長を待ち続けられたが叶はず、桂宮家は、明治14年に内親王の薨(こう)去(きょ)に伴ひ絶家となった。これが、史上唯一の女性当主の事例である。

 なほ、「親王宣下」は、明治19年の、小松宮彰(あき)仁(ひと)親王の継嗣・依(より)仁(ひと)王の事例が最後のやうである。

   3.皇室典範成立以後の制度

 明治九年からは、御誕生の皇子女には「親王宣下」が不要となり、総て親王、内親王と称することに改められ、明治22年の皇室典範では、第31條に「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ、男ヲ親王、女ヲ内親王トシ、五世以下ハ、男ヲ王、女ヲ女王トス」と規定された。また、従来の「世襲親王家」の制度は廃止された。替(かは)って登場したのが皇族男子を末代まで皇族とする「永世皇族制」である。この制度は、男子皇族が天皇からの世数にかかはらず宮家の当主になることができる点では、これまでの「世襲親王家」に似てゐるが、他方、「親王宣下」を要しない点では、「世襲親王家」とは異なる。

 「親王宣下」に替るものと思はれる制度が、「天皇の大権事項」としての天皇による「宮号」の下賜である。男子の皇族方は総て皇位継承権を保有してをられるので、一般には当然のことながら宮家の当主になられる。父子継承のもと「既存宮号」を受け継ぎ既存宮家を継承されるのか、それとも、天皇から「新宮号」を賜り、その「宮号」のもと新宮家を創立されるのか、その違ひはあるものの、宮家の当主になられるには、天皇からの「宮号」の下賜が必要である。なほ、大日本帝国憲法並びに明治の皇室典範では、それ以前とは異なり、男子皇族のみに皇位継承権が付与された。

 当初、永世皇族制を採用してゐた皇室典範は、宮家の数が多くなりすぎたからなのであらうか、明治40年にその増補が行はれ、増補第一條に、勅旨又は情願に基づき「五世以下の王の臣籍降下」を許すことが謳はれた。さらに大正9年には、臣籍降下の内規「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が定められ、五世以下の王のうち八世以内の長子孫(長男系統の子孫)を除くその他の王が、臣籍降下の対象になった。なほ、伏見宮系統については特別扱ひとし、邦家親王の御子達を五世王相当と見做すと定めた。この内規は、宮家数の増大に伴ひ施行されたもので、「世数限定皇族制」と称すべき制度である。しかし、現在は、昭和22年の現行皇室典範の施行によって、再び「永世皇族制」に復してゐる。

   四.「親王宣下」は可能か?

 さて、冒頭に述べた旧11宮家の方々は、GHQの占領政策によって、昭和22年10月14日に皇籍離脱を余儀なくされた。これらの方々は、現行皇室典範のもとでも、5ヵ月半といふ短期間ではあったが皇統譜にお名前を列(つら)ねてをられたのであり、占領政策さへ無ければ、今なほ皇族であり得たはずの方々である。しかも、現行皇室典範は「永世皇族制」を採用してゐるので、これらの旧宮家の男系男子孫の方々は、皆、皇位継承権を潜在的にお持ちであると判断される。この潜在的皇位継承権をいかにして顕在化させるのか、今、その方法が問はれてゐる。

 その具体的な手法は、「皇室典範問題研究会」の提案になる「皇族身分取得特別措置法」(『正論』平成24年3月号所収)の成立によって、「旧宮家の適切な男系男子孫の方々に、皇族の御身分を取得していただくこと」以外にはないと思はれる。

 加へて、それらの方々には、皇族になられ皇位継承権を保有された後に、さらに、天皇陛下の「猶子」にもなられ、「親王宣下」を受けられて、天皇陛下に身近な「親王たる御身分」(直(ぢき)宮(みや)に準ずる御地位)に就かれることを、筆者は、ひそかに希望する。

 「親王宣下」とは、「天皇の大権」に発する御行為であり、付言すれば、「天皇による特定皇族に対する庇護策」でもある。勇気ある「皇族御身分の取得者達」には、「親王」号の宣(せん)賜(し)によって、天皇陛下の「猶子」としての親王になられ、今後、確たる皇位継承権者として経験を積まれていかれることが望まれる。皇位の継承順位は実系で決まるので、この擬制の措置によって変更は生じない。明治の皇室典範施行後は、「親王宣下」は行はれなくなった。しかし、現行皇室典範第七条には、王が皇位を継承したときの規定があり、事柄は異なるが、「親王宣下」そのものは、まだ皇室典範の条文中に生きてゐると解される。現行皇室典範第九条の条文「天皇及び皇族は、養子をすることができない。」に一部改定を加へたり、特例条項を新設したりして、なんとか「親王宣下」を実施可能にすることはできないか。

 さて、「親王宣下」の意義に関し、「天皇大権の発動」たる「宮号下賜」の意義と重複することになりはしないか、と、疑問を呈する向きもあらう。しかし、直面してゐる事態は、婚姻を通ぜずに一国民の身分を皇室といふ聖域内の皇族の御身分に格上げすることなのだ、といふ特殊事情を考慮すると、天皇陛下の「猶子」になられることの意義は、深く大きいと思はれる。さらに、「親王宣下」は、対象の御当人にとっても、自覚の深化や自信の育成に結果的に寄与し得る制度であると思はれる。

 歴史上、天皇は、前述の第二期において、皇統に属する特定の一員を御自身の「猶子」になされ、親王に格上げされる権限をお持ちだった。それによって、世襲親王家(各宮家)の当主を当主たらしめてこられた。また、世襲親王家の継嗣が途絶えるたびに、実の皇子を後継者にされて世襲親王家を支へてこられた。これらの大権は、天皇にのみ許された権限であって、世襲親王家の当主には、このやうな権限は与へられてはゐなかった。すなはち、世襲親王家間の養子縁組は、許されてはゐなかった。それは、実系で記載される皇統を紊(びん)乱(らん)させるだけになるからである。

 明治5年に、閑院宮家が伏見宮家から邦家親王の王子の易(たかの)宮(みや)(後の載(こと)仁(ひと)親王)を養子に迎へて、閑院宮家第六代当主とした例がある。これが「宮家間養子縁組」の初例であるが、明治前期の混乱期には、このやうな宮家間養子の事例が数例あったやうである。明治22年の皇室典範第42條に、「皇族ハ養子ヲ爲スコトヲ得ス」と規定され、宮家間養子は、以後、禁止されてゐる。

 現在の宮家といふものは、男子の御子孫がをられなければ、絶家となってよい性格のものである。男子孫が複数をられる宮家の方々のうち、男子皇族お一人が「その宮家の宮号」を継承される一方、同宮家に属される他の男子の皇族方は、天皇陛下から、独立に際してそれぞれ「宮号」を賜り、その各々が、新宮家を創設されれば、それでよいのである。

 従って、「宮家間養子縁組」は、従来通り禁止すべきである。

(元新潟工科大学教授)

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理想は「天地と共に行はるゝおのづから」の中に

 凡そ物は、理(ことわり)にきとかかることは、いはば死にたるがごとし。天地と共に行はるるおのづからの事こそ生きて働くものなれ。(賀茂真淵・国意考)

 江戸時代の国学を一貫して流れてゐるものは、この真淵の言葉に代表されるやうに「自然の中に生を、理論の中に死を」見出す感覚であった。理論はそれがいかに精緻に組み立てられたものであっても、所詮は現実の要求によって産み出されたものにすぎない。「全体」は明らかに現実であり、理論はその「部分」である。だが現代ではこの現実と理論との関係が恐るべき倒錯を示してゐるのではなからうか。

 人々は理論と現実を対比する。そして理論通りに描かれた見取り図の中に「理想」を見出すのである。平和は永久に守られるべきであり、平等や自由はいかなる場合においても保障されなければならない。それは誰一人として文句のつけようのない理論ではないか、なのに現実は――といふことになるのだ。現実は常にこの明白な理論を裏切る罪人として冷たい目で見られてゐる。複雑怪奇な現実のからくりの前に、理想はふみにじられる。現実と理想は常にこの様な図式として人々の脳裏に描かれてゐるのである。若しこの図式を肯定するとすれば人々のとるべき道は、あくまでも現実とたゝかって理想に殉じるか、或はたゝかひの矛を収めて、現実に妥協し、せめて一歩なりとも理想に近づくように努力するか、その二つしかあり得ないのだ。人々は前者を理想主義、或は革新主義と呼び、後者を現実主義、或は保守主義と呼ぶ。青年が前者を選ぶこと、また当然であらう。かゝる図式を自明のこととする以上は。

 だがこの図式は果して自明のことであらうか。基準を常に理論におき、その中に描かれた理想におく。そして現実は、常にそれに近づくべきもの、修正されるべきものとして感覚されてゐる。これで果していいのか。

 だが真淵が書きのこした言葉は、かゝる現代の図式とはおほよそ無縁である。「理にきとかゝることは、いはゞ死にたるがごとし」――理論通りに行はれること、それは「理想」どころか人間の「死」を意味するのだ。

 理論の網の目では、到底すくひ上げることの出来ない、悲喜愛憎の交錯した、この切実の人生――戦争と平和と、平等と差別と、自由と束縛と、そのすべてが混沌と入り乱れる人生、そこにのみ「生きて働く」力が湧き出づるのである。理論が無意味だといふのではない、だがそれは現実に奉仕する「部分」にかへらねばならぬ。

 そして理想は理論の中にではなく、現実の中に、「天地と共に行はるゝおのづから」の中に求めなければならぬ。この理想のあり方をわれわれの先人は「神ながらの道」と呼んだのである。

(修猷館高等学校教諭 小柳陽太郎)

          ◇

小柳陽太郎先生を憶ふ追 悼歌(抄)

 『短歌通信』第110、111号から

        府中市 青山直幸
 自己と他のいのちのつながり説き給ふ師の志継ぎてゆきなむ

        横浜市 池松伸典
 まことなる熱き思ひをさはやかに語られし御姿偲ばれにけり

        横浜市 今村宏明
 我が歌を直し給へる師の君のあふれるばかりのやさしきまなざし

        清瀬市 今林賢郁
 いにしへのふみを読みゆく楽しさを学びし彼の日は今もうつつに
 み祖らの歩みを辿りますぐなる道に生きよと教へ給ひぬ
 われらまたみ教へ継ぎて若きらに語り伝へむ見護り給へや

        熊本市 今村武人
 厳しくも暖かきみ言葉灯火(ともしび)に学びの道を進みてゆかむ

        長崎市 内田英賢
 みをしへのままに生くるは少なくて過ぎたる日々の悔まるるかな

        宇部市 内田厳彦
 先生の御講義今も忘れ得ず五十年(いそとせ)経てど御声残れば

        千葉県酒々井町 内海勝彦
 すめろぎの大御心を説き給ふ師のみ教へをしるべとはせん

        薩摩川内市 小田正三
 師の君の「他と共なる生」の御講義は分りやすくして清々(すがすが)しかりけり

        熊本県益城町 折田豊生
 人々とともに学ぶが学問と諭したまひし師の君を憶ふ

        宮若市 小野吉宣
 みおやらの思ひ受け継ぐ学風を我等も興さむみ跡慕ひて

        小矢部市 岸本 弘
 逢ひそめしその日の師はも若くして二十(はたち)にあまる人と思ひき(昭和四十年八月)

        茅ヶ崎市 北濱 道
 使ふほど心は広がりゆくなりと身を以て示されし師の君偲ばゆ

        久留米市 合原俊光
 春風の吹きくるごとくさはやかなみ声の響き今もうつつに

        小金井市 佐野宜志
 ありし日のみ姿偲び今はただ師の御冥福をひたに祈らむ

        柏市 澤部壽孫
 美しき日本の国柄守らむと捧げ給ひし一生(ひとよ)たふとき
 現世(うつしよ)に今はいまさぬ師の君の永久(とは)に生きます我らが胸に

        東京都 島津正數
 「六十周年記念の集ひ」を言祝ぎて霜月の日に師はみまかり給ふ
 こののちは師の遺されし書きものを読みて学ばむ生くる限りは

        小田原市 柴田悌輔
 穏(おだ)に射す光を浴びて天駆ける御霊安かれといのりまつりぬ

        由利本荘市 須田清文
 永久のいのち信じてたぐひなく学びつづけし人のいのちよ

        東大阪市 鈴木利幸
 今まさに白鳥(しらとり)となりて飛びゆくさま我らにあつく語り給ふかも(昭和52年冬、倭建命陵にて)

        四街道市 豊増達夫
 師は常に「信無くんば立たず」と我らに教へたまひし修猷通信に

        鳥栖市 名和長泰
 とこしへに師の御教へにみちびかれ力を得るはありがたきかな

        鳥栖市 西山八郎
 残されし文をたよりに先生のみあと慕ひてまなびゆかなむ

        タイ(バンコク)庭本秀一郎
 師の君の残されし文たどりつつ学びの道を歩みゆきなむ

        長崎市 橋本公明
 学問とは祖国を思ひ自らの生き方を決むると教へ給ひき

        熊本市 福田 誠
 松陰の「杉蔵行け」を高らかに読み上げられしが耳に残れり

        横須賀市 古川 修
 師と共に友らと学ぶ楽しさを教へ給ひし御(み)こころ忘れじ

        南アルプス市 前田秀一郎
 古(いにしへ)の書(ふみ)朗々と読みませる御声(みこゑ)現(うつ)しく胸に響きく

        北九州市 松田 隆
 現世(うつしよ)に今は見えずも師の君の笑顔は今も我が胸に生く

        岐阜市 三林浩行
 ご逝去の日は遠くなく来むものと思ひはすれど遂に来にけり

        北九州市 森田仁士
 師の君のありがたき導きあらばこそ繋がり得たり四十年(よそとせ)余りも

        横浜市 山内健生
 お導きをかがふり来たりて五十年わが年月のさち只謝しまつる

        福岡市 山口秀範
 巨星墜つとふことばしきりに浮び来て巡る思ひ出止めどなかりし
 ひた向きに学びの道を踏みませる気高き一世永く讃へむ

        八千代市 山本 博資
 六十年(むそとせ)の記念式典(きねんのつどひ)恙なく終ふるを見届け身罷り給ふ
 天皇(すめ ろぎ)を上にいただく日の本の歴史を我らに教へ給ひき

 

年の合宿教室の記録集 刊行! 『日本への回帰』第51集

第61回全国学生青年合宿教室
 「日本」を学ばう! 日本の国柄と日本人の心を。

(東日本)3泊4日
 日時・9月2日(金)~5日(月)

 招聘講師
  「中国の覇権戦略と日本の課題」     評論家 石 平先生
 本会会員による講義、短歌創作、富士五合目(バス)登山など
 於・ 静岡県御殿場市  国立中央青少年交流の家
 参加費 学生 1万2千円  社会人 3万円

(西日本)2泊3日
 日時・8月19日(金)~21日(日)
 〝歴史に学ぶ 現在をよりよく生きるために〟
 本会会員による講義、班別討論、野外研修(香椎宮参拝)など
 於・福岡市 さわやかトレーニングセンター 福岡
 参加費 学生 1万2千円  社会人 2万5千円

 

 編集後記

 七頁に掲げた小柳陽太郎先生の50年前の玉稿に、先生のお声が響いてくるやうだ。「理論の網の目では、到底すくひ上げることの出来ない、悲喜愛憎の交錯した、この切実の人生…そこにのみ“生きて働く”力が湧き出づる…」。拝読後、「第9条を守れ」の論が猶はびこる現在につい思ひがいってしまふ。現憲法は「非軍事化と民主化」の枠組で「日本の国と心を縛る外国製の政治文書(理論)」であるか、70年近く政治も教育もそれを理想として、そこから外れることを恐れた。その歪みの結果が連日の紙面だ。
(山内)

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