国民同胞巻頭言

第653号

執筆者 題名
山内 健生 〝いつまで続くのか、「憲法賛歌」!?〟
- 現行高校教科書と「18歳選挙権」 -
小田村 四郎 内外情勢の動向と我が国の進路
第61回全国学生青年合宿教室
追悼 小柳陽太郎先生
―「先生、どうか私共をお見守りくださいませ」―
山本 博資 〈追悼 小柳陽太郎先生〉
皇居前の記念写真、「先生からのお歌」など…
  小柳陽太郎先生からの御手紙(平成17年)
稲津 利比古 〈追悼 小柳陽太郎先生〉
若者の心に火を灯し続けられた偉大な教育者

 駅への途次、6月の参院選を意識したと思はれる「戦争法廃止!」とのポスターを目にした。昨年9月に成立した集団的自衛権の限定容認を含む安全保障関連法が憲法違反であるから廃止せよとの主張である。尖閣諸島領有を狙ふ中国が領海侵犯を繰り返す中にあって、多少なりとも防備を整へようとすると憲法違反になるらしい。法案審議の際、最大野党は執拗に反対し、主要メディアも反対派に与した。某テレビ局の報道番組に至っては時間の九割以上を反対論に割いたと後日批判された。

 しかし、左記の検定済「現代社会」教科書を読めば、反対派の言ひ分を笑ふ訳にはいかなくなる。

 

「…憲法前文で…諸国民の公正と信義に信頼してみずからの安全と生存を保持しようという決意を明らかにした。…この決意…を具体化した規定が、第九条である」

「…日本国憲法は、戦争放棄を確実なものとするために、軍備廃「…憲法前文で…諸国民の公正と信義に信頼してみずからの安全と生存を保持しようという決意を明らかにした。…この決意…を具体化した規定が、第九条である」止を宣言している点でいっそう徹底した平和主義にたつ画期的なものといえる。そして、この点に、日本国憲法の平和主義の世界史的な意義を認めることができる」(実教出版『高校現代社会』平成25年1月発行)

 かうした記述のあとに日米安保条約、自衛隊発足、有事法制整備などが出てくるが、「日本国憲法の平和主義の世界史的な意義」を説いてゐるから、理の必然で「…自衛隊の行動に対して、国会や国民がつねに監視の目をむけていくことが必要である」、「…軍事力によって日本の安全を確保する考え方のほうが、むしろ現実性に乏しいとさえいえるのである」となり、「…協調と信頼と共生の理念にたった日本国憲法の平和主義は、いまこそ人類共通の指針とされるべきものである。その平和主義の理念を全世界の国民の共有財産としてひろめていくことが、国際社会における日本の重要な役割となろう」といふ結語を導くことになる。

 「協調と信頼と共生の理念にたった日本国憲法の平和主義」などといふ一節は、悪い冗談であってアジびらもどきだと言ったら言ひ過ぎか。

 そもそも「日本国憲法」は、敗戦の結果、主権喪失の被占領期に受容せざるを得なかった〝悲劇の政治文書〟であって、日本の弱体化と劣化を目論む連合国総司令部が草案を作成してゐる。だから前文に麗々しく「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(自らは「安全と生存」のために努力しません)などと書き込むことができたのだ。その延長上に第九条がある。教科書の記述通りだ。

 いくら教科書で「軍備廃止を宣言している」と憲法第九条を讃へても、確かにポツダム宣言の受諾で「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられた」が、代って全土を覆ったのは強力な連合国軍だったのだから、一日として我が国土が非武装だったことはなかったのだ。憲法の文言に酔ふあまり、事実を見る眼が曇ってゐる。

 18歳から選挙権が行使される今日、生徒は、かうした記述から何を学べばいいのだらうか。憲法が正しく、現実が間違ってゐるとでも言ひたいのか。若者の心を弄んでゐる(中には辟易する生徒もゐるはずだ。ゐなければ困る)。小中学校教科書の憲法関連記述も推して知るべしである。

 安保関連法案の審議の際、「戦争法案、反対!」と国会前で唱へた人達、その成立を受けて「自衛隊、外れる制約…」「自衛隊の活動を飛躍的に拡大させるものだ」(朝日)と懸念した記者、前記の教科書の執筆者、おしなべて国防への努力を否定乃至(ない し)忌避し、敵視してゐるかに見える。まさに「劣化日本」を示してゐる。憲法賛歌から導き出された立論であるが、全くの空論に過ぎない。

 メディアの僻論は時に批判されるが、教室内の空論は見過されるどころか文部科学省検定済教科書が前述の内容なのだから本当に呆れてしまふ。〝いつまで続くのか、「憲法賛歌」⁉〟。ただ、憲法であるが故に、教科書に「天下の空論である」と書く訳にもいかない。書くとすれば文面をなぞるやうな「憲法賛歌」となってしまふ。かくして夢遊のごとき記述となって、「戦争法廃止!」の謬説が一定の力を持つことになる。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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 安倍政権発足以来3年を経ようとしてゐるが、この間、我が国をめぐる国際情勢は比較的に安定した情況で推移してゐるやうに思はれる。これは政府が日米同盟を堅持して毅然とした姿勢を揺がさないことに因るものである。しかし安逸を貪れるやうな情況でないことも忘れてはならない。

 最大の脅威は中国の膨張政策であらう。特に我が国のシーレーンの中央に位置する南支那海の航行の自由は、東南アジア諸国にとっても我が国にとっても死活的に重要な海域である。最近における中国の海洋進出は、南沙諸島に滑走路を構築し、西沙諸島にミサイルを配備する等、この海域を自国の内海に編入しようとするやうな野望を示しつつある。これは公海の自由の確保を目標とする自由主義諸国にとって看過できない事態であり、近時米国がこの海域に米艦を航行させたのは、中国の行動の既成事実化を防止するための措置と見てよからう。我が国としても必要に応じ米国と共同行動を執ることも当然考へておかなければならない。

 報道によれば、中国は2010年までに第一列島線(南西諸島からフイリッピンまで)以西を確保し、2020年までに第二列島線(東京からグアムまで)以西を勢力下に置くことを目標にしてゐるといふ。当然我が国の領土、領海が中国の制圧下に置かれることになり、断じて容認できるものではない。いづれにしても、中国の動向に対しては絶えざる警戒が必要である。

          ◇

 中国と隣接する北朝鮮もその反日姿勢は変ることなく、同時に自らの軍事力強化に注力してゐる。近時、核実験の成功を発表し、水爆保有を公言し、人工衛星打上げと称する長距離弾道ミサイルを発射して威力を誇示した。他方、これに隣接する韓国は、北からの脅威に備へながら、我が国と提携協力するどころか最近は中国と接近し、朴大統領に至っては事ある毎に日本批判を口にしてゐる。特に慰安婦問題に関しては、捏造された報道に基いて日本を非難する等、同じ自由主義国家の一員とは思はれないやうな言動が続いてゐる。この点、我が国のマスメディアも事実を確認することもなく虚構の報道を流布した責任を負はなければならない。

 もともと慰安婦とは職業的売春婦であり、軍としては将兵が性病に感染することを防止するため、これに対し検診等を行ふことは当然の義務である。軍が関与するとはそれ以上でもそれ以下でもない。当時は公娼は公認された職業であったから、その活動は単なる営業行為に過ぎない。それが今日政治問題として浮上すること自体、不思議であり不可解と云ってよいのではないか。今回日韓最終合意とされるものは容認できるものではなく、特に首相が反省とお詫びの気持を表明したことにには著しい違和感を覚えるが、少なくともこのやうな国辱的不快な問題は最終的に終止符を打って貰ひたいと思ふ。なほ慰安婦なるものは朝鮮人ばかりではなく大半は日本人であり、現地人もゐたことを忘れてはならない。

          ◇

 他方、我が国のシーレーンの東端に位置する台湾も我が国の生命線として常に注視しておかなければならない。台湾は戦後我が国の領土の地位を失ひ、大陸を追はれた中国国民党の支配する地域となったが、以後70年間、国民党の支配下にあった。この間台湾出身の李登輝氏が総統に就任して以来、台湾の台湾化の傾向が強化され、陳水扁、馬英九を経て此の一月台湾人蔡英文氏が総統に選出された。立法院に於ても民進党が絶対多数を確保し、蔡英文政権の基盤を確乎たるものにした。ここに台湾人の台湾が初めて実現したものとして歴史に一区画を画したと云ってよい。

 今後とも台湾は台湾として、決して中国の一部ではなく独立の存在であることを明言してゆくであらう。中国がいかに圧力を加へようと、台湾がそのアイデンティティを失ふことはあり得ない。このことは我が国にとって重要であり注視を怠ってはならない。何となれば台湾の存在は我が国の安全保障にとって死活的に重要な地位を占めてゐるからである。日清戦争時代、下関条約に於て台湾が我が領有となったとき、井上毅が双手を挙げて歓喜したと言はれてゐるが、まさに我が国の防衛にとって台湾は貴重な存在であり、そのことは繰返し強調されなければならない。

 それ故に蔡英文政権の成立は我が国にとって歓迎すべき勝利であり、政権成立後に我が国と緊密に提携して行って欲しいと思ふ。我が国としても昭和四十七年の日中共同声明の制約はあるが、事実上の独立国の存在である台湾について、その実態に即した取扱ひで対処してゆくことを期待したい。

 台湾と云へば李登輝氏の存在を失するわけにはいかない。氏は日本人として台湾に生れ、日本人として育ち、日本の大学(京大)まで進んだ生粋の日本人と云ってよい。それ故に日本の古今の書籍に通暁してをり、これだけの教養を具備した政治家は日本でも見出すことはできないであらう。老台北と呼ばれ日本の唱歌を今でも忘れない蔡焜燦氏と並んで日本の貴重な知己である。今や忘れられつつある古き良き日本が台湾になほ息づいてゐることを忘れてはならない。ただかうした旧日本人は加齢により漸減してをり、やがて消えてゆくことは覚悟しておかなければならない。

          ◇

 さて、我が国の国内情勢はかなり正常化して来てゐるとは思ふが、今なほ不可解な点が多い。先般公表された安倍首相の戦後70年談話に於ても、満洲事変に至る国際情勢が我が国に不利に動いた事実に触れながら、満洲事変そのものには必ずしも肯定的とは云へなかったやうに思ふ。東京裁判において我が国の戦争責任を追及した検事団のいはゆる「東京裁判史観」が依然として政府の公的見解となってゐるのであらうか。もしさうであれば、これは断乎として否定されなければならない。近現代史におけるこの史観を批判して我が国の正しい立場、姿勢を明確にしてゆくことが当面の最大の課題と云ふべきであらう。「歴史戦」といふ語が流行してゐるけれども、満洲事変前後からの近現代史の真実の回復こそ、「歴史戦」の中核と云ってよい。ただ問題は我が国の近現代史を知悉してゐる政治家が殆どゐないことである。そのためこの内容は国会でも取上げられず、取上げられても左派からの追及が主で真実に迫ることができず、従って国民にも周知されない。せめて歴史教科書で真実を叙述して欲しいと思ふが、現実には左派の学者が逆の記述を行はせてゐるやうである。

 かうした問題の存在の基底にあるものが現行憲法での存在である。敗戦後の被占領時代に敵軍によって起草され、敵軍によって強制された憲法が、70年経ても一字一句変更されずそのまま実施されてゐることは独立国家の否定に他ならない。現憲法が改正困難な硬式憲法であること、政界が改正に積極的となる多数を確保できないこと等が現状の固定につながってゐると思ふが、この状況を一歩づつでも打破していかなければならない。その時期が今や到来したのだと思ふ。それ故に、与党は憲法改正を正面に掲げて決戦すべきではないか。それが我が国を蘇らせる原動力とならう。

(元拓殖大学総長、本会名誉会長)

 

編註〈中国の軍事戦略上の戦力展開の目標ライン〉 ─第1列島線 と 第2列島線─

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「日本」を学ばう! 日本の国柄と日本人の心を。 世界の中の「日本」を知らう!

(東日本)
3泊4日  日時・9月2日(金)~5日(月)
招聘講師:「中国の覇権戦略と日本の課題」 評論家 石 平先生

 ほかに本会会員による講義、短歌創作、レクリエーションなど
 於・ 御殿場市  国立中央青少年交流の家
 参加費 学生 12,000円  社会人 30,000円

 

(西日本)
2泊3日  日時・8月19日(金)~21日(日)
〝歴史に学ぶ 現在をよりよく生きるために〟

 講師陣による講義(歴史、古典、短歌など)、班別による研修・懇談、レクリエーションなど
 於・福岡市  さわやかトレーニングセンター 福岡
 参加費 学生 12,000円  社会人 25,000円

 

國武忠彦他編著(60周年記念出版) 『語り継ごう 日本の思想』(明成社 2,000円) 本紙読者特価 送料込 1,900円 FAX 03-5468-1470

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 元本会副会長 小柳陽太郎先生には、平成27年年11月28日逝去。享年数へ年93。御葬儀は11月30日、福岡市中央区の積善社斎場にて、本会関係者、地元の教育界、実業界などをはじめ全国各地からの多数が参列してしめやかに営まれた。法名は信行院本誉願念仏道居士。

 先生は大正12年9月23日のお生れで、佐賀県立佐賀中学校から佐賀高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進まれ、昭和18年、学徒出陣で出征。復員後は九州帝国大学文学部国文学科に転学された。佐賀高校では、日本学生協会(本会の前身。昭和10年代半ば、学風改革の運動を全国的に展開した)に連なる「佐高同信会」で高瀬伸一氏(東京帝大に進学。昭和20年7月戦死)、小林国男氏(九州帝大御卒業後、小柳先生と志を同じくして教育現場の正常化に尽され福岡県立若松商業高等学校の校長を最後で御退職、平成10年歿)らと御一緒だった。

 昭和24年、九州帝大を卒業された先生は、私立高等学校の御勤務を経て、昭和25年から福岡県立修猷館高等学校の国語教師として、御退職の昭和58年3月まで、一貫して日本の文化伝統の美しさを生徒に説き続け、戦後教育が見失ったわが国の素晴らしさを伝へるべくお力を注がれた。修猷館高校御退職後は、九州造形短期大学教授に就任されてゐる。

 先生は教育者として次の世代を導くとともに、日教組勢力によって歪められた教育現場の正常化にも多大な貢献をされた。今日では日教組を批判することはやさしいが、先生が同志の教員達と組合糾弾の声を挙げられた昭和30年代初め頃は並大抵のことではなかった。教育のあり方には猶も難題が多く横たはってゐるが、福岡県の教育界が今日のやうな姿になるための御苦労には実に重たいものがあった。

 本会の発足は昭和31年のことで、その年の8月、霧島の地で第1回の合宿教室がスタートするが、先生は発足の当初から、否、その準備の胎動期から、寳邉正久(下関)、瀬上安正(熊本)、川井修治(鹿児島)の各氏ら戦前の日本学生協会からの仲間と関られた。その後、本会の常務理事、副理事長を長く務められ、副会長の重責も果された。夏の合宿教室でも数多く登壇され、聖徳太子、『古事記』、防人の歌(『万葉集』)、山鹿素行、本居宣長、吉田松陰、「教育勅語」等々に触れながら、「日本の国柄と日本人の心」を説いて飽くことなく、その御指導は全国に及んだ。

 多くの御著書御編著がおありだが、本会に関連するものとして『戦後教育の中で』(国文研叢書)、『教室から消えた「物を見る目」、「歴史を見る目」』(草思社)、『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首』(日本教文社)、『平成の大みうたを仰ぐ』(展転社)、『名歌でたどる日本の心―スサノオノミコトから昭和天皇まで』(草思社)などがある。

 弔 辞
   公益社団法人国民文化研究会 理事長 今林賢郁
                平成27年11月30日

 先生、とうとうこの日が来てしまひました。このお写真のやうに、穏やかで優しい先生のお顔を拝することも、そのお声を聞くことも、また先生を囲んだ楽しい読書会も、そのすべてが永久に無くなってしまったのだと思ひますと、唯々悲しく、淋しく、残念でなりません。

 私は高校の時から今日に至るまで、以前お住みだった荒江、そして今の香椎のご自宅に数へ切れない程お尋ねし、その都度、先生にいろいろなお話を伺ひ、私が時に生意気な意見を述べますと、先生は、このお写真のやうな笑顔を浮かべながら、それは君どうかな、とやんわりと私の未熟さを指摘されることも度々でした。

 また、忘年会だ、新年会だと言っては、仲間たちとご自宅に押しかけ、飲み、語り、騒ぎ、そしてご家族もご一緒に唱ひ、つひにはそのまま先生のお宅で寝てしまふ、といふことも一度ならずありました。

 そのやうに久しい間、小柳先生、小柳先生とお慕ひしながら、変らぬお導きを頂いた者として、また国民文化研究会に連なる同人一同に代り、ついに帰らぬ人となられた先生に、謹んで最後のご挨拶を申しあげます。

 先生は長い間、修猷館高校の国語の先生として生徒の指導に当られましたが、その一方で、昭和30年代の初めから、戦後の思想混乱の是正のために、ことに教育界の正常化のために、こころある先生方と相計り、当時猛威を振ってをりました日教組との思想戦のために立ち上がられました。その一方で、次の日本を背負ふ青年たちを育てることに心血を注がれました。この日本はどんな国なのか、先人たちはどんなことに価値を見出して生きてきたのか、などについて、聖徳太子のご思想を、吉田松陰の生き方を、更には『古事記』に現れるわが神々の悲喜動乱の物語を、繰り返し繰り返し私共に説き、語り続けてこられました。

 この若者の指導、育成につきましては、戦前から共に研鑽をつづけてきた同志と共に、昭和31年、国民文化研究会を設立され、その主要な事業として全国の大学生、青年を対象とした年一回の宿泊研修をはじめられました。これが今に続く国民文化研究会なのですが、先生は最晩年に至るまで、毎年のやうに登壇され、若者たちに心をこめて語りかけられました。そして、この国民文化研究会は今年六十年を迎へ今月の七日に記念式典を行ひましたが、その式典を見届けるやうにして先生はお亡くなりになりました。私共にとりまして大事なご存在であった先生を喪ひましたことはまことに痛恨の極みでありますが、今度は私共が先生、先輩方のご意思を引き継ぎ、次の世代にお志を繋いでいく役割を果して参ります。

 先生、どうか私共の行く末をお見守りくださいませ。

 最後になりますが、そのやうな先生を支へられながら、最後まで先生をお守りになられた奥様、そして、何十年にわたり細やかなお心配りで私共を包んでいただいた奥様に、こころからの御礼を申し上げます。奥様、有難うございました。

 先生、どうか私共をお守りください。

 弔 辞
   公益社団法人国民文化研究会 参与 國武忠彦
                平成27年11月30日

 先生、お別れの時がきました。

 私は先生の教へ子のなかでも年配だといふことで、僭越ではありますが一言申し述べさせていただきます。

 昨日の帰りには、伊佐裕さんがみんなに声をかけてくれて、遅くまで飲みました。それぞれの人が先生との懐かしい思ひ出を語りました。

 私は、高校の3年間、先生から国語の授業を教はりましたが、先生の授業を聞くのは楽しみでした。私は、寂しがりでしたが、なぜか先生の授業をお聞きすると元気になり、何度も職員室にお訪ねしてはお話をお聞きしました。友だちを誘って、ご自宅へも何度もお訪ねしました。

 先生は、おっしゃいました。祖先が大切に守り続けてきた文化や伝統を学んでほしい、次の世代へ引き継いでほしいと。我が国の文化や伝統を学ぶとは、古典と歴史を学ぶことであると。古典は『古事記』『万葉集』を先づ読んでほしい、今の歴史はをかしい、祖先への愛着がない、歴史は愛情と尊敬の念をもって学んでほしいと。

 また、おっしゃいました。友だちを大切にしなさい、両親を大切にと。国のことを思ひなさい、間違ったことには勇気をもって立ち向ひなさいと。当時、私は職業を何にしようかと悩んでゐましたが、先生から教師になれ、歴史の教師になれと言はれて、歴史の教師になることに決めました。私にとって、これ以上の喜びはなく、先生に常に感謝しながら生きてきました。

 先生は、情の人でした。知識よりも実践を重んじる人でした。35歳のときに、私たち高校3年生を霧島の合宿教室に連れて行ってくださいました。この年に、国民文化研究会が設立されるとその中心となって活躍されました。37歳になられると、日教組を脱退した26名の先生たちと共に教職員連盟を設立され、これもまた、その中心となられて活動されました。「日本にふさはしい教育」を求める先生の想ひは、揺るぐことはなく自信にあふれてゐました。

 有名な文芸評論家の福田恆存先生を旅館から合宿教室の会場にご案内するとき、「小柳陽太郎先生とはどんな人ですか」と、突然聞かれましたが、私は嬉しくなって、夢中になってお話したことを忘れません。先生は、昭和25年から33年間、修猷館高校で国語の教師として教鞭をとられました。先生の授業を受けたものは、みんな先生が好きになりました。先生と話をしたものも、みんな先生を尊敬し好きになりました。私はこの広い斎場に入ったとき、びっくりしました。ぐるりと取り巻いた花輪の多いのにびっくりしたのです。卒業生がどんなにか先生をお慕ひし、好きであったかがわかります。のちに福田恆存先生は、先生のことを「日本一の国語教師」とおっしゃいましたね、こんな嬉しいことはありませんでした。

 余生も短い私ですが、先生から教はりましたことは忘れることなく、最後まで全力を尽して頑張るつもりです。

 ご遺族の方におかれましては、この深い悲しみから早く立ち直られまして、ご多祥であられますことをお祈り申し上げます。

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 わが家の本棚に、一つの写真立てが収まってゐる。日々眼にして、時折は縁に付いた埃を拭き払って綺麗にしてきた。先生が亡くなられ2ヶ月余、この間、あらためて幾度となく手にとってお偲び申し上げた。

 この写真は、小柳陽太郎先生御夫妻を中心に、教へ子九名が各々の家族を伴ひ総員29名で先生御夫妻を囲み、皇居桔梗門に向ふ路上、巽櫓(たつみやぐら)を背景にして撮った記念写真である。この集りが何時であったのか記憶は定かではなくなってゐた。屹度、写真の裏を見れば分るだらうと裏の板をはづしたら、写真と同じサイズの絵図と書簡が出てきた。写真は先生が送って下さったものであったが、これらが納まってゐたことをすっかり忘れてゐたのである。

 図には、先生の自筆で「昭和58年11月3日 於宮城前」とあった。そして写ってゐる31名の線描絵があって、そこには全員の姓名が記載されてゐて、最後に和歌が認めてあった。

   子供らの行く手に幸あれと祈りつ ゝこのうつしゑをあかずながむる
                ―小柳

 写真と共に同封されてゐた御手紙には、奥様の添へ書きもあり、「東京では本当に楽しい一日」で始まり、この日の集ひへのお礼、私の家内や子ども達(3人参加)に初めて会って下さったことを、「永年のおもひが果せた感じ有難うございました」とあって、あらためて拝読すると、会って戴いたこちらの方が有り難いことであったと頭の下がる思ひである。末尾で、「これから又御力になっていただくこと山程 ゆっくり御話する機会をとその日を楽しみにしてゐます」と締め括られてゐた。

 あらためて拝読して、この末尾の文言に驚くとともに、果してその後、先生の「御力」になったことが僅かでもあったであらうか、と恐縮するばかりである。

 この写真の撮られた昭和58年は、先生が60歳のときで、福岡県立修猷館高等学校での教師生活を勤めあげられ、次の職場(九州造形短大)に移られる頃かなと振り返るのだが、高校時代に先生の謦咳に接したことで、この「教へ子会」(因みに写真の九名は国文研の会員である)に連なるやうになった経緯を振り返ってみたい。

          ◇

 昭和32年、修猷館高校に入学し、最初の国語の授業が先生との初めての「出会ひ」であった。教材は読書についての評論文で、著者は読んだこともない亀井勝一郎であった。「君たち亀井勝一郎を知らんのか」と、挑戦的な口振りであったが、懇切な読書論を展開され、著者についても他の著書についても詳しく紹介して下さった。これが機縁となって、『我が精神の遍歴』、『大和古寺風物誌』、『聖徳太子』等、その後に刊行された亀井勝一郎選集を購入し、夢中になって読んだものである。先生の授業では、件の小林秀雄については教はった記憶はない。

 入学最初の日に、担任の先生は、内申書記載の「趣味 読書」を見て、私を図書委員に指名された。放課後には図書館当番が廻って来るので運動部を希望してゐた私は固辞したが、説得されて図書館に出入りするやうになった。このときの図書館の担当教師が小柳先生であったこと、先生を尊敬私淑されてゐた図書館司書の行武(現姓、関口)靖枝先輩、大学の夏休みで訪ねてこられた國武忠彦先輩に接することにより、先生を身近に知ることになった。御二人は先生の薫陶を受けられ、大学では国文研の「全国学生青年合宿教室」に参加し、その教へを実践されてゐた。高校生の私は未だその年齢には届いてゐなかったが、國武先輩から小林秀雄の著書を紹介された。亀井勝一郎とは違ったその文章に接し、その後は虜になり、大学生になっても工学の勉強を横に置いてまでも読み耽り、現在に至ってゐる。

          ◇

     山本君へ

   小林秀雄の文読むはよししかれどもそのきびしさを思はざらめや

   流れさかまく人の世のかなしみそが中に泡と消ゆるものぞ人のいのちは

 この二首の和歌は、先生から大学入学の頃に戴いたものである。独特の流れるやうな字体で書かれたこの二首を、在学時、下宿の部屋の柱に掲げ、日夜仰いでゐた。「小林さんの本を本当にわかって読んどるちやろうか(読んでゐるのだらうか)」との叱声を聞くやうであった。

 大学生の時、昭和36年、諸先輩の勧めで前述の「合宿教室」に初めて参加し、その後国文研に繋がることとなる。この合宿教室において、先生の御活動を間近に見て、尊崇の念を新たにすることになった。

 全国各地の大学から参加してゐる学生達を前に、なされる御講義は「わが国の真の姿」を伝へんとされるもので、お力が籠もってゐた。戦後の教育で失はれたわが国の文化伝統を回復すべく、先生含めた同志の方々と「日本にふさわしい教育を求めて」(國武先輩に、先生達のご活動を記した同名の小冊子あり、平成24年刊)、教育研究の組織を立ち上げ、昭和33年ごろから継続して活動してこられたことを知るやうになる。教育者の一面と違った組織人として御指導力をも兼ね備へてをられた稀有な先生に敬慕の念は深まるばかりであった。

          ◇

 謦咳に接して以来、60年近くもの間、御指導に預かり感謝の言葉もないが、教室の外のことでもいろんな光景が瞼をよぎる。

 昭和42年6月、先生御夫妻のお仲人で國武先輩が挙式された際、御披露宴の終了後、新郎新婦の宿泊する宿屋に、先生の「乗り込んで、吃驚させてやらう」との御発案で〝ハネ―ムーンストーム〟をかけたこと、荒江町の御自宅に、学生時代、度々大勢でお邪魔しては先生を囲んで語り会ひ、御酒を戴いたこと、それにおつき合ひいただいた奥様を初め三人のお子様(左門様、怜子様、志乃夫様)の笑顔などが懐かしく、そして楽しく想ひ出される。御長男はまだ中学生だった。

 平成17年、草思社から刊行の『名歌でたどる日本の心―スサノオノミコトから昭和天皇まで』は、「小柳陽太郎他[編・著]」となってゐるが、先生は若手会員が分担執筆した原稿の全てに目を通され、一字一句、綿密に推敲されたと承ってゐる。

 先生の御著作は何冊かあるが、この『名歌でたどる日本の心』こそ先生の御思想、生き方、御胸中をお偲びできる代表作であり、先生の学問が集大成されたものであると密かに思ってゐる。座右に置き、「はしがき」で開陳されてゐる「歴史上の人物の心と私たちの心とのふれあい」を和歌を通して味はふ努力を続けていきたい。

12月12日記─
(元川崎重工業(株))

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拝復

 「日本への回帰」(註1)あれほど早く作業を始められたのに結局三月末ギリギリ。

 編集者としてどんなにか御苦労ありしことならんと御胸中深く御偲び申し上げてをります。とは言へ実に立派な出来栄え、心より御礼申し上げます。

 早速全巻読み終へたところ、何時もながらの見事な内容、どの講義もすべて耳にしてゐる筈なれど、こんなにすばらしい言葉に満たされてゐた合宿だったのかと、深い感銘を覚えました。願はくはこの本を手にした学生諸君が、この御話はすでに聞いたものだから・・・といふやうな横着な考へを捨てて、新たなおもひでとり組んでもらひたいもの。そのやうな気持で読み直せば、どんなに美しい言葉に出合ふことが出来るか、さう思はれてなりません。

 長内さんのも、小野君のも珠玉の名文ですね。中西先生の御話も読み直してこんな御言葉があったのかと驚くことばかり。聞いたことがある・・などといふのが、いかにいい加減な感想なのか、身にしみてわかります。記録にこのやうな形でまとめられる意味の大きさを改めて感じました。

 中国や韓国の暴言も、同じレベルに立って腹を立てるのではなく、彼らとは桁の違ふ深遠な文明に恵まれた日本に生れた尊さ有難さを大切にする心温かな人間になりたいもの。さういふ若者の輪を拡げたいものですね。

 「うたの本」の時代説明(註2)の御仕事も御願ひしてゐるやうですが御苦労深謝、くれぐれも御大事に。

          御礼迄 不尽
     4月1日
           小柳陽 太郎
 238頁の明治38年は28年の誤、小生が気づいたミスはここだけ、上々でせう。

(註1)『日本への回帰』の第25集(平成2年3月刊)から、編集に携ってゐるが、右の御手紙は『日本への回帰』第40集(平成17年3月刊)を読まれてのもの。招聘講師は中西輝政先生だった。

 毎春、合宿報告集をお送りして3、4日後には、ご感想を書かれたお便りを頂戴した。多くの誤植を指摘された年もあったし、もう少しルビを付けた方が良いとの御教授のあった年もあった。

(註2)「うたの本」の時代説明とは、平成17年8月刊の『名歌でたどる日本のこころ』の、各章に添へられた時代概説のことで、何とか書いてお送りしたが、先生によって見事に改められ、ひいき目にみても残った字数は三割ほどだった。先生の学問に圧倒され、わが不勉強を痛覚させられた。
(山内健生)

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 私は、安保改定阻止のデモ隊が連日国会に突入し、国内が騒然としてゐた昭和35年四月、福岡県立修猷館高校へ入学した。その時の組担任が小柳陽太郎先生で、私にとって運命的な出会ひであった。

 その年の夏、先生のお誘ひで同級生四名(内一人が今林賢郁兄)と特別参加した第5回合宿教室(雲仙)は、講師陣の「日本人としての自覚を持たう!」との呼び掛けによって、祖国に目を開かされ、その後私が生きてゆく指針を与へて頂いた。

 合宿後、先生の荒江のお宅で勉強会が始まり、初めに『論語物語』(下村湖人著)と倉田百三の戯曲『出家とその弟子』の読書を薦められた。その後『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』(黒上正一郎著、以下「太子のご本」と称す)の輪読が開始された。先生は素読に時間を掛けられ文言を努めて味読するやうに指導された。感想を述べる時には長い沈黙が続くことがあったが、この緊張感を伴った沈黙の体験が、徒(いたづら)に喋るといふ性癖を直す良い修練になった。

 先生が「古典」と同様に大事にされたのは「友情」で、同信の友との交流の広がりを期待され、先生を仲立ちとして教へ子の先輩・後輩達が親しくなり、友情を育んでいく様子を、先生はさも我が事のやうに喜んでをられた。

 私が高校三年の時、参加した合宿教室(昭和37年、雲仙)の招聘講師は、文芸評論家の福田恆存先生だった。ご講義後の班別研修の時、小柳先生が福田先生を伴はれて私の班に見えられた。私は、当時親鸞聖人の弟子唯円になる『歎異抄』を友と輪読してゐたことから、福田先生へ、親鸞が、たとへ師の法然聖人に欺かれ念仏して地獄に落ちたとしても後悔はしない、と語られた命懸けの信心と血脈についての感懐を述べ、日頃小柳先生にご教導頂いてゐる旨をお話した所、福田先生は、即座に「小柳さんは、日本一の国語教師です」ときっぱりと仰った。

 小柳先生は教育の場を政治的に利用する日教組に激しく反発され脱退されたが、それは「教師は単なる労働者であってはならない」との強い信念に基づくもので、思想と行動の一致を身を以て体現されたのである。このやうに日本の教育正常化に挺身された小柳先生への、福田先生の厚い信頼があったればこそ、小林秀雄先生が、合宿教室に何度もご出講になられる切っ掛けとなった、仲介の労を取って頂けたのだと思ふ。

 小柳先生は若者に人気がおありだったが、昨今有りがちな「ともだち先生」でなく「教師」として厳しく接してをられた。先生ご自身も、著書『戦後教育の中で』の「高校生の世界」といふ文章の中で、「(略)生徒は常に教師の言動の背後に、一つの強力な人間像を求めてゐる。『俺はかう思ふ』といふ明確な言葉がはねかへってくる一人の生きた人間を求めてゐる。端的に言へば常にきびしく叱ってくれる教師を求めてゐるのだ」と書かれてゐる。

 若者が相手にレッテルを貼って発言を封じたり、己を自身の言葉で語らうとしない時には本気で叱られた。叱られた者の中には、小柳先生が、一人でも多くの若者の心に火を灯したいと切望されての、深い愛情によるものであることに気付き、心を入替へた者もゐたことであらう。

 人生において特に青春時代に、良き師、良き友に巡り合へることは無上の喜びである。だが良き友は個人の努力で得られるかも知れないが、良き師に出会ふことは至難のことで、終生巡り合へない人もゐやう。私は幸ひなことに、恩師と仰ぐ小柳先生に巡り合ひ、半世紀余の長きに亘ってご指導を頂けたことに深く感謝致したい。

 私は父の転勤で小学校の高学年から中学時代を佐賀市内の西堀端で過したが、そこから一キロ足らずの城内に、小柳先生が幼少の頃よりお住まひになってゐた関係で、通ったのが佐賀城の名残のある同じ赤松小学校であったことも、不思議なご縁を感じさせることであった。

 小柳先生は、佐賀高校(旧制)の「佐高同信会」で「太子のご本」を一緒に輪読されたご親友の高瀬伸一氏(註。終戦直前に戦艦上で戦死。国文研叢書『続いのちささげて』参照)、教育正常化に共に戦はれた小林國男先生と、今頃は彼岸で、楽しく談笑されてゐることであらう。

 小柳先生がご他界された今、いよいよ教育者としての先生の偉大さが偲ばれてならない。

(本会参与、前事務局長)

 

 編集後記

 小柳陽太郎先生が同憂の教師と日教組糾弾の声を発せられた60年前、その組織率は九割弱。今や三割を切り、「違法スト」を企てる元気もない。世間も許さない。では、子供達の瞳は以前よりも輝いてゐるだらうか。教科書は大丈夫か。国語と歴史はどう教へられてゐるのだらうか。
(山内)

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