国民同胞巻頭言

第650号

執筆者 題名
蔭山 武志 60周年記念の集ひ」に参加して
- 新たな力を与へられた -
  60周年記念式典
- 高昭信会、「小田村事件」、マンツーマン運動
- 今林賢郁理事長の式辞から -
記念講演
「弓なして明(あか)るこの国ならむ」
筑波大学名誉教授 竹本忠雄先生
伝統の断絶について
- 再考・大正教養派と近代主義 -
東京大学名誉教授 小堀桂一郎先生
「60周年の集ひ」の御挨拶から(文責・編集部)
(式典)
合宿教室で学んだ言葉の大切さ
日本会議 椛島有三事務総長
(祝賀会)
小田村寅二郎先生との「衝撃的な出会ひ」
日本政策研究センター 伊藤哲夫代表
(祝賀会)
昭和十年代の「国文研」前史を研究して
帝京大学 井上義和准教授

 11月7日(土)の本会「60周年記念の集ひ」に参加した。受付で頂戴した『国民文化研究会六十年の歩み』といふ小冊子を見ると、私が初めて参加した平成9年の「全国学生青年合宿教室」は第42回と記されてゐた。あれから早くも18年も経つのだなと思ふとともに、ここに参集された先輩方も、同じ様な思ひでをられるのではないかと想像し、六10年間の歩みとはいかなるものなのだらうかと思ひを馳せた。少々自己流になるが、当日の模様を紹介しながら、感想を述べてみたい。

 第一部の記念式典と記念講演は、伊佐裕理事(伊佐ホームズ代表取締役社長)の司会で進められ、武澤陽介会員(作曲家、上野学園講師)のピアノ伴奏による「国歌斉唱」で幕を開けた。

 今林賢郁理事長は式辞で、世代間の思想断絶といふ戦後の混迷を克服すべく始まった60年前を回顧し、さらに昭和10年代の学風改革の運動に触れた。国文研の成り立ちを改めて知らされた感じだった。

 日本会議の椛島有三事務総長は御挨拶の中で、学生時代を含め6回合宿教室に参加したと仰有った。国文研の歩みの重さに瞠目させられた。

 記念講演では、初めに筑波大学名誉教授・竹本忠雄先生が御登壇。演題は「弓なして明(あか)るこの国ならむ」。御製御歌を仰ぎつつ、先生は皇室と日本人の精神性の深い関りについて説かれ、日本の高貴な伝統を蔑(なみ)する近年の西欧世界の憂慮すべき動向にも言及された。続いて御登壇の東京大学名誉教授・小堀桂一郎先生の演題は「傳統の斷絶について─再考・大正教養派と近代主義─」。乃木大将殉死事件をめぐる鷗外、漱石と志賀直哉ら白樺派作家との断絶を具体的に説かれる中で、先生は大正教養派の宿痾(しゅくあ)を指摘された。両先生のお話は国文研ならではのもので、またとない貴重な聴講の機会に恵まれた。

 第二部の祝賀会は、山口秀範常務理事(寺子屋モデル代表取締役社長)の司会で進行され、先づ小田村四郎名誉会長の音頭で乾杯。18のテーブルに10名程づつが着席する陣形で、久々に会ふ先輩知友との会話や、初対面の方ではあるが思ひを同じくする人たちの熱い議論が、あちこちで盛り上がる賑しい宴であった。

 私は御賛助を頂いてゐる方々の席であり、初めてお目にかかる方が多かったが、同じテーブルの伊藤俊介兄(FTIコンサルティング日本支社代表)とともに自己紹介から始まる会話は楽しく弾んだ。さうした歓談の中、日本政策研究センターの伊藤哲夫代表、帝京大学の井上義和准教授、明石元紹氏(明石元二郎元台湾総督御令孫)、亜細亜大学の東中野修道教授からの御挨拶に耳を傾けた。小田村寅二郎初代理事長との出会ひ、本会とともに歩んだ人生、本会の有り様への注文、現状の課題やこれから進むべき方向等について様々なお話を聞くことができた。かうした色々な考へを持つ人たちを包容する本会の懐の深さを今回も感ぜずにはゐられなかったが、国を思ふ気持ちで通じてゐるからではないかと思った。

 閉会の挨拶で、澤部壽孫副理事長は、「60年安保」当時の混乱した大学時代を振り返りつつ、「国文研への思ひ」と本会を支へて下さる人たちへの感謝を述べたが、それを聞きながら、ふと学生の頃、自分はどのやうなことを考へてゐたのだらうかとの思ひが脳裡をよぎった。

 私が初めて参加した第42回の合宿教室は、評論家の西尾幹二先生が来られた時であった。産経新聞社の月刊誌『正論』で合宿教室の広告を目にした母が教へてくれたのである。西尾先生の御本の読者であった私は、講義の他に何が行はれるのかはあまり理解してゐない状態での参加であった。しかし、そこで本当に出会ったのは「短歌」であり、また考へを同じくする「仲間」であった。

 冒頭に、本会と関りを持って18年と記したが、卒業後は長らく御無沙汰してゐた。再び本会と直接的に関ったのは、前記の伊藤兄から輪読の勉強会に誘はれてからのここ2年程のことである。今改めて思ふことは、合宿教室での「学び」と「出会ひ」が、私を支へる力になってゐたといふことである。この度の「記念の集ひ」に参加して、また新たな力を与へられた感じである。

(西松建設(株))

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   昭和4年発足の「一高昭信会」

 私共国文研が戦後スタートしましたのは昭和31年で、今年60年を迎へることになりましたが、戦前、戦中においても私共の先輩が活動された記録が残ってをります。これを因みに活動の「前期」と致しますと、国文研の道統は、戦後の60年に戦前、戦中の約30年を加へてほぼ90年と考へて宜しいかと思ひます。

 そこで最初に、その「前期」の運動について紹介させて頂きます。

 国文研の道統前期といふのは昭和の初めになるのですが、大正15年に、当時の旧制の第一高等学校の中に、「瑞穂会」といふ文化団体が出来ました。これをお作りになったのは、一高で国文学の教授であった沼波瓊音(けいおん)といふ先生です。沼波先生は、少なくとも一高の学生位には、日本人としての、精神的で根本的なことを是非とも学んで欲しいといふことで、この会をお作りになりましたが、会が出来て一年数ヶ月で病のためにお亡くなりになります。

 そこで瑞穂会に偶々縁のあった一高の学生数名が、昭和4年に「一高昭信会」といふ会を同じ一高の中に立ち上げます。昭和の「昭」に「信」と書きます。この名称に籠められた思ひは、国柄への「信」を「昭」、即ちあきらかにするといふことにあったと思ひます。

 そして、この数名の学生達が一高昭信会を立ち上げる以前から、また立ち上がった後も、何かと相談し指導を仰いだのが黒上正一郎といふ方であります。この黒上正一郎といふ方は、四国徳島の御出身で、学歴と言へば商業学校を出られただけでありますけれども、ご幼少の頃から宗教的素養が極めて優れた方でありまして、商業学校卒業後、地元の銀行に勤められますが、向学の念已み難く、聖徳太子の研究に没頭されます。その聖徳太子研究の中身をお聴きになった、生前の沼波教授は「聖徳太子を始めて本格的に取り上げた研究者が出た」と絶賛されたと伝へられてをります。この黒上正一郎先生が一高昭信会の事実上の指導者として、若い諸君達と交流を重ね、かつ指導されて行きます。

 この黒上正一郎先生がお書きになりました聖徳太子研究の成果であります『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』といふ本は、私共が今も学問と人生と祖国を考へる際の学びの指針として読み続けてゐるものであります。従ひまして、私共の国文研は戦後のスタートではありますが、この昭和4年に出来ました「一高昭信会」から始まると言っていいかと思ひます。

 この一高昭信会に集ふ若き一高生達は、聖徳太子の信仰思想と明治天皇の御製を仰ぎながら、その御思想を徹底して学び研鑽を深めます。そしてその学問の力をバネにして、当時一高の中にも蔓延(はびこ)ってゐた日本の精神文化を軽視若しくは軽蔑する風潮に対して、こんなことが学園の中であっていい筈がない、といふことで、学園の正常化運動に邁進して参ります。そしてこの「一高昭信会」から始まった学園正常化運動は、次第次第に全国規模に広がり飛躍して行きます。

   昭和13年の「小田村事件」

 この学園正常化運動の最も象徴的なものが、昭和13年に発生致しました小田村事件であらうかと思ひます。この小田村事件の小田村とは、私共国文研の初代理事長の小田村寅二郎先生のことでありますが、この小田村先生が東大法学部の二年生の時に、その前年一年間の講義の結果を踏まへて、ある学外の団体から論文を書いて欲しいといふ強い要請を受けて、雑誌に論文をお書きになります。その論文は、「東大法学部における講義と学生思想生活」といふタイトルなのですが、これは先生が一年間講義を受けられた御体験を記されたもので、「憲法、政治学、行政学、或は社会政策、さういふ講義を自分は一所懸命聞いたけれども、その講義のいづれにも日本といふのが抜け落ちてゐる。東大法学部を卒業する人たちは、将来、官界を始め、日本の枢要な地位につく人達ではないか。さういふ人達に、日本抜きで講義が進められるなどといふことがあっていいはずがない」といふ趣旨の、東大法学部に対する極めて厳しい指摘でありました。これは、その後国会でも取り上げられたのですが、結果的に小田村先生はこの論文によって大学当局の忌諱に触れ、長い遣り取りの中で停学になり、そして退学処分となって大学を追はれたのでした。

 このやうな動きに対しては、先ほど申し上げました全国的に運動を展開してをりました仲間達に次々と情報が伝はります。それで愈々これは学園の正常化を進めなければならないといふエネルギーに、きっとなったであらうと思ひますが、これが、「小田村事件」と言はれる昭和13年の事件です。

 その後、正常化運動のエネルギーが結集して昭和15年に「日本学生協会」といふ、全国的な学生運動を網羅した大きな組織ができあがります。そしてこの日本学生協会を基に全国の学生達は学園正常化運動に取り組み、一方、社会に出た先輩方は、一度勤めた会社若しくは役所を辞められまして、民間に「精神科学研究所」といふ組織を作り、当時の東條内閣に対しまして、戦争の終結の明確な方針も無いままに、長期戦といふことを続けようとするその戦争指導方針は間違ひであるといふ、極めて苛烈な言論と思想戦を挑んで行かれました。その結果、この日本学生協会は昭和18年に東條内閣によって解散の憂き目に遭ひます。

 解散の理由は、このグループは反国家思想の持ち主であり、反戦と反軍思想の輩(やから)の集りであるといふことでした。その後、共に学び合った全国の友らは、次々と戦陣に斃れ、或は病魔に斃れてゆきます。そして、日本学生協会が解散させられた二年後が、大東亜戦争敗北の昭和20年になります。

   国文研「マンツーマン運動」の発足

 この昭和の始めから昭和20年に至る期間を運動の「前期」、昭和31年の国文研設立以降、今日に至る期間の運動を「後期」と考へて宜しいかと思ひます。小田村寅二郎先生を始めとする先輩方は、戦後すぐ、先逝きし友らの慰霊祭を始めることから活動をスタートされましたが、昭和31年に国文研の「後期」がスタートした時、この国内の状況がどうであったかと言へば、皆さんご存知の通りでありますが、占領施策の徹底した日本弱体化政策、それから、戦前の時代から日本の精神文化を軽んじて来た学者や知識人は、この占領政策を後ろ盾にして一層の運動を始めました。加へて、教員の圧倒的多数を傘下に収めた日教組と言はれる左傾団体は、昭和26年頃から本格的な反日教育を小学校、中学校、高校で展開してゐました。

 昭和31年は、日本が占領を経て講和条約によって主権を回復(昭和27年)して数年後ですが、占領政策の影響は国内のあらゆる分野に及び、今にも共産革命が起るのではないかといふ状況でした。戦前と戦後の価値観が引っ繰り返り、年配の人々と20代前後の若い諸君との間には対話も成立しない、年配者が若い諸君たちに語りかけるにしても恐る恐る対応する、といふやうな状況で、世代の断絶が起ったと言はれたやうな時期であります。さういふ時に、当時未だ30を過ぎたばかりの私共の先輩方は、それならば自分たちがその役割を果たそう、ひとりの青年に自分たちが語りかけよう、戦前の経験をした自分達が心をこめて語りかければ必ずや志は繋がる筈だ、そのやうな思ひから戦後の国文研運動が始まりました。そして今年六十年を迎へた訳であります。この一人から一人といふ運動をわれわれは「マンツーマン(MAN TO MAN)運動」と名付け、今日まで活動を続けて参りました。

 私共の世代は、戦後の国文研のスタート以来、先輩方が毎年開催されてきた、学生・青年たちへの思想訓練の場である夏の合宿教室の中から育ち、この合宿教室を機縁として今日まで互ひに研鑽し合ってきた仲間たちであります。先生方が次々と亡くなられる中で、今度は私共が先生方の志を繋いでいかなければならないと、微力ながら努力を続けてをります。一人でも多くの青年が、日本といふ国を堂々と自分の胸に抱いて、朗らかに自己主張できるやうになって欲しい、このやうな思ひで同人一同運動を続けて参りたいと思ひます。今後共のご支援を心からお願ひ申し上げます。

 

公益社団法人 国民文化研究会 「60周年記念の集ひ」次第
日時 平成27年11月7日
会場 ホテルグランドアーク半蔵門

 第一部
  ◇記念式典
  国歌斉唱
  黙祷
  理事長式辞
  来賓ご挨拶
  「神洲不滅」斉唱
  聖寿万歳
 ◇記念講演
  「弓なして明るこの国ならむ」
    筑波大学名誉教授 竹本忠雄先生
  「伝統の断絶について─再考・大正教養派と近代主義─」
    東京大学名誉教授 小堀桂一郎先生

 第二部
  祝賀会
  開会挨拶
  乾杯
  来賓ご挨拶
  ご歓談
  「進めこのみち」斉唱
 閉会の辞

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 アンドレ・マルローは最後に来日した昭和49年(1974)、当時の東宮殿下と妃殿下に御進講申し上げました。その通訳をさせていただいたことが、後に皇后さまの御歌の「フランス語訳」を刊行することに繋がりました。滞日中のマルローに、是非紹介したい人がゐると言ひまして、出光興産の出光佐三さんに会って貰ひました。「日本人は精神の高貴さ、ノブレスを持ってゐるが、なぜですか」とマルローは尋ねました。出光翁は「皇室があるからですよ。これで全てお分りになりませんか」と答へました。

 私は「ファミリー・アンペリアルト」を皇室と訳しましたが、これは天皇といふことですね。マルローは武士道といふ言葉を期待してゐたかも知れませんが、さすがに深い答へでした。

 皇太子妃時代の皇后陛下に「海」といふ御歌があります。昭和五十二年の歌会始のものです。

     岬みな海照らさむと点(とも)るとき弓なして明(あか)るこの国ならむ

 皇后さまの歌は全て非常に大きなヴィジョンの下にあり、余人には想像のつかないものばかりです。ある時、どういふお考へで詠まれたお歌ですかとご質問致しました。すると、以前は灯台守が大勢皇居に見えた。段々と灯台が無くなり、さういふ人達も見えなくなりました。もし昔のやうに岬々に灯台が復活し明りが点(つ)いたならばといふ風に発想して詠みましたとのご説明をいただきました。

 なるほどと教へられましたが、一個の芸術作品が非常に高いものである時には、さらに非常に多義的な意味を含むこととなります。

 毎年1月に歌会始が行はれますが、翌年のお題は陛下がお決めになりその時に発表され、10月に締切られます。言ひ替へますと、日本語の出来る世界中の人々がこれに応募する資格がある。といふことは、10ヶ月もの期間、このお題を聞いた人達は天皇の大御心の中に入ってゆく、そのやうなヴィジョンを10ヶ月の間共に生きることとなる。そこから不思議なこともいろいろ起って参ります。「海」を美智子様はお詠みになられた。そしてそれが被講された。その11月に横田めぐみさん達が拉致されたといふことが起ってゐます。そのやうに考へますと「岬みな海照らさむと点る時」といふ上の句が、仮定形のイフ・クローズであると共に予見的なヴィジョンの力を持って迫ってくるのを感じさせられます。そのやうなことが三回起ってをります。

 次は悠仁親王がお生れになられた時のことです。平成18年9月ですが、その年の歌会始のお題は「笑み」でした。その時に本当の国民的な笑まひが洩れるやうな悠仁親王殿下の御生誕といふ大慶事が起ったわけです。

 信じる深さといふことを信じさせてくれる一つの大きな証、拠り所が、やはり私は、天皇皇后の御歌であるやうに思ひます。そして大きな先見性あるこのヴィジョンをもって平成23年に「岸」といふお題をお出しになられた。そしてこのお題を出されて三ヶ月後に、3・11の東日本大津波が起りました。その翌年の1月の歌会始において、御自身が出されたお題に基き、実際の天変地異が起ったことを両陛下が交々お詠みになり、三陸沖で何も無いあの空虚な広がりである海辺に立って、深々と拝されたのです。これがまさに、一番高貴なる日本といふことであらうと存じます。

 天から地へ真っ直ぐ落ちる滝のやうに歌ふのが、天皇の大御歌なのです。

     津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる

 真っ直ぐ落ちる滝を、垂直軸を見ていらっしゃる。この、落ちる水が動いて流れ出すのは、皇后さまを通してなんですね。

     帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ず

 「岸」といふ文字は歳時記にも載ってゐないと。「帰り来るを立ちて待てるに」といふのを詠んだとき、北朝鮮に拉致された人達を待ってる遺家族のことも考へました、と皇后さまは私にお話し下さいました。あることを詠んだといふことで、また別のことをも伝へる。そのやうな、非常な高度な芸術性を持つ御歌なのです。

 現下の日本の「反日」の窮地をどう救ふか。英米に於ける中国による目に余る反日悪宣伝は「オピニオン」(輿論)を最大の武器としてゐます。遠慮といふか日本人の高貴さが裏目に出てゐるやうにも思はれます。しかし、遠慮が怯懦になってゐないか。立派な大和心がメンタルな面で侵されてゐることが一番の問題であると思ひます。

(文責・編集部)

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 我が国は国家主権を回復して60余年、未だ占領時代に受けた思想や感性に対する外からの束縛を脱却できないでゐます。占領米軍による日本の文化破壊工作にどうして唯々諾々と盲従してしまつたのか。当時の為政者は青年期の修行時代を大正期に過しました。そこに何かがあるのではなからうか。「大正教養派と近代主義」をもう一度考へてみたいと思ひます。

 大正教養派世代として、明治天皇に殉死した乃木将軍を軽蔑する言葉を日記に残した志賀直哉が挙げられます。乃木さんが生前、森鷗外に学習院の卒業生たちの雑誌『白樺』同人の言動に怪しげなものがあると注意したことがあります、乃木さんの生き方への懐疑を「時代の違ひ」として書いたのは芥川龍之介でした。乃木さんの殉死の強い衝撃を作品に結晶させた森鷗外と夏目漱石の二人の明治人とは全く違つた型の人間が、同じ文芸に携はる人々の間に生れてゐたことになります。「時代の違ひ」といふ世代間の精神や感性の亀裂といふ現象の意味と現在への関りについて、鷗外の史伝『渋江抽斎』を批評したのは27歳の哲学青年和辻哲郎でした。その書評に見られる「進歩」と「普遍」といふ二つの文化概念が大正教養派共通の固定観念でありました。鷗外の史伝には、普遍性も成長進化の相も描かれてゐないと若き和辻さんは評したのです。

 日本国憲法前文の「人類普遍の原理」、終りの方の「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」との社会進化の原理にも通じてゐます。和辻氏はやがてこの普遍主義や近代主義を脱却しましたが、当時の知識人層の多くは、かうした大正教養派に通有の近代主義から脱却できなかつた。さういふ人々によつて、日本の精神伝統の断絶といふ現象が生じ、その断絶はやがて、国政を誤る次元にまで拡大増殖し、つひには占領期における文化闘争の敗北にもつながつて行つたのです。

 例へば「統帥権干犯問題」です。ロンドン軍縮条約の調印は天皇の編制大権の干犯に当るといふ解釈が一部に生じました。野党鳩山一郎代議士の法匪のやうな質問に、浜口内閣の閣僚は誰しも適切な法理を以て答弁できなかつたところに、大正教養派世代に生じた伝統の断絶といふ現象を如実に見て取れます。

 維新の元勲と見なされた世代に於いては、頼山陽の『日本外史』は必読の教養書で、天皇が軍隊を統帥するといふ命題は、二度と徳川将軍幕府のやうな武家政権を出現させてはならないといふのがその裏の真の意味であると的確に読み取ることができた。ところが大正教養主義を通過した世代が政界の多数派を成すと、もはや『日本外史』を尊重せず、鳩山一郎にしても浜口総理にしても統帥権の思想の沿革を知らず、条項の文面のみからの解釈しか出来なかつたのです。

 五箇条の御誓文の第四条「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」の解釈にも、実は深く関つてをりまして、「旧来の陋習」とは何を指すのか。尊皇攘夷といふやうなイデオロギーであらうとか、封建時代の悪しき習慣であらうとかとの解釈が見受けられますが、実は「幕府政治」のことなのです「天地の公道に基くべし」にも含意がありまして、天は覆ひ地は載するといふことを指します。天は、歴代の万世一系の天皇で、地とはそれを載せてゐる国土です。天皇が全国を統べたまふといふのが、「天地の公道」なのです。

 日本の知識人は、近い過去の昭和五年、「統帥権干犯問題」に重要な精神史的課題が潜んでゐることに気付かず、苦い教訓として受け取らなかつた。かうした安易な姿勢が昭和20年秋からの米国軍の占領に伴ふ文化伝統の危機に際しても惰性としてそのまま続きました。戦時中も、相変らず私利私欲党利党略による政争が続いてをり、それが大東亜戦争の敗因の一つと言つてもよいほどだつたのです。戦時体制ではどこの国でも輿論(オピニオン)を国政の次元で統一しなければならず、日本も同じやうに全体主義的統制経済に傾いてゐた官僚が何とか終戦までもつてきましたが、戦争終結とともに日本の知識人層の相当深くまで浸透してゐた「普遍性信仰と近代主義」が再び口を利き始めたのです。

 日本人は、精神伝統の独立を回復し得てゐない。ではどうするか。近い過去に生じた精神伝統の断絶といふ亀裂の上に橋を架け、伝統と現在との間の往復を再開させねばなりません。国文研の精神運動はまさにそれであります。

(文責・編集部)

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 昭和40年代の初頭、大学が学園紛争で荒れ狂った時代に、私は長崎大学で学生生活を送りました。当時は、大学でストライキが起り、バリケードが張られデモや集会が行はれて、ヘルメット姿やゲバ棒が横行してゐる状況でした。その中にあって、この大学を正常化するには、学生の中枢である学生自治会を正常化するしかないと思ひまして、自治会選挙に仲間と挑み、勝利した体験があります。

 この自治会選挙に勝利を重ね維持して行くことは、大変な困難でありまして、その折、国民文化研究会の初代理事長の小田村寅二郎先生に御講演を依頼し、自治会存続のための救済を求めました。その時のことを、小田村先生は「荒れ狂ってをった大学紛争の最中でありまして、その自治会主催で、長崎大学の中で講演せよとの依頼がありました。ところがまさに大学紛争の最高潮の時でございましたので、講演会そのものの中にも、左翼の学生が乱入してきてをりましたし、講演会場を出ても、大学教授を吊し上げをしてゐる場面等が繰り広げられてゐるのが、長崎大学の実状でございました」と述べてをられます。大学の講堂は満杯でした。小田村先生のお気持ちは、何が起きても構はぬと、相当の覚悟を決めて講演会に臨まれたと思ひます。

 私は当時、九州で開催されました国民文化研究会の夏の合宿教室に参加致しました。大学の先輩である内田英賢さんに誘はれて参加したことを覚えてをります。六回ほど参加させていただきましたが、昭和42年の阿蘇の合宿教室の時でした。短歌創作の時間に、阿蘇山に登った体験を歌に致しました。阿蘇山の火口に立ち、自分が吸ひ込まれるやうな気持ちになったことを詠んだのです。

 次の日に、学生の作った短歌について、山田輝彦先生による「全体批評」が行はれました。その時に私の歌が選ばれたのです。驚きました。山田先生は私の短歌について、阿蘇山の火口に吸ひ込まれるやうな気持ちを歌ったつもりでせうが、この歌は、吸ひ込まれてしまった歌ですと、さう述べられました。会場は爆笑でした。自分は、阿蘇の火口に立って、悠然としてゐたつもりなんでせうが、吸ひ込まれてしまって死んでしまった歌になってゐたのですから、恥かしい限りでした。

 自分はかういふことを詠んだつもりだと思ってゐたことが、全く逆のことに受け取られてしまったといふ体験は、私の人生において大きな問題となりました。

 その後私は、学生運動、青年運動、国民運動を体験し、さらに日本会議国会議員懇談会の議員の方々と共に、政治の世界に参画する機会を得ることができました。現在、桜井よしこ先生や田久保忠衛先生、三好達先生を中心に、「美しい日本の憲法を作る国民の会」で、憲法改正1千万賛同者拡大運動を行ってをります。国文研の方々と共にその運動を進めてゐるのですが、三日後の11月10日に、武道館1万人大会を開催致します。その時、賛同者の数が発表されます。賛同者を拡大するに当って、すぐさまぶつかるのが、戦争であり侵略の問題であります。その時に、丁寧に言葉を重ね、分り易く具体的に述べてゆくことが、相手に繋がってゆくポイントであることを体験する日々であります。この丁寧さ、具体的な分り易さは、短歌創作によって培はれたやうな気が致します。

 少し大げさになりますが、短歌創作の精神とは、政治の中で氾濫する様々な言葉を整へ、国民共有の言葉にしてゆくことではないでせうか。学生時代に合宿教室で短歌の創作を体験し、そしてその講評を受けた時の衝撃は、今の私の運動のエネルギーの源になってをります。

 所謂護憲派が使用する、戦争、侵略、民主主義、平和といった言葉は、相手を打ち負かすために、言葉を道具として、手段として使ってをります。それに対して私達は、改正されるべき憲法の条文の言葉に、日本の伝統文化があることを確信し、心をこめてゆく。この戦ひが憲法改正運動であると思ひます。従って、憲法改正の国民投票とは、この戦ひに勝利するための国民の総力戦であると思ってをります。学生時代から、国民文化研究会で与へていただいた力で、この戦ひの勝利に向けて邁進したいと思ひます。

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 ここにお集まりの皆様は、国文研の合宿教室で大いに感動されて、国文研との関係を持たれた方が多いのではなからうかと思ひます。私は、一寸違ってをりまして、学生時代に国文研の合宿に参加する機会はございませんでした。ただ一つ私の人生にとって大変な機会がございました。

 ここにもをられる日本会議の椛島有三さんが当時主宰してをられた全国学生協議会といふ学生団体がございまして、その会が、当時左翼過激派の全共闘と戦ってゐた全国の学生達を集めて、リーダースセミナーといふのを伊豆で開いたのです。私もそこに参加しまして、「全共闘学生運動の思想分析」といふテーマで、論文を発表することになりました。全国の素晴らしい学生さんが集まるのだから変な発表はできないといふことで、私は懸命に左翼の文献を読み漁りまして、全共闘の思想や論理はかういふふうに成り立ってゐるのだと、自分なりにまとめて、そのセミナーで話させて貰ったのです。そのすぐ後に講演をなされたのが、小田村寅二郎先生でございました。

 小田村先生が、私の発表をわざわざ後の方で聞いて下さったといふか、私にとっては本当に恐ろしいことだったのですが、聞いてをられたのです。そして、先生が壇上に立たれました。私は国文研のこと全く知りませんでしたし、どういふお話をされるんだらうと思ってゐましたら、冒頭、先ほど伊藤君といふ学生が、発表したけれども、あれは全く意味がないと、かういふことをボソッと言はれたのです。私はエーッと思ひました。要するに、確かに学生としてはよく勉強してきた。それは認める。しかし残念ながら全てそれは概念遊戯であって、彼がここで問題にしてゐる全共闘学生の思想とやらと同じで、全く日本人の心に足を着けてゐない観念の遊戯なんだ。さういふものが逆に人間を殺すんだといふことで、本当に大切なものとは一体何なのかといふことを、私の発表を俎上に上げることによって、先生はまづ説かうとされた、といふ御講演だったのです。

 田舎の学生が、全国ゼミで変なことを言ってはいけないと思って一所懸命に勉強して、そこで発表したら、全くこれは意味がない、概念の遊びだと、ガーンとやられまして、しかしその時は、全く救ひを下さらなかったのでありました。

 私は恥を掻かされたし、何よりも自分がやってきたことを全否定されたみたいなものですから、絶望的な気持ちになりまして、一体俺はどうしたらいいんだらうといふ思ひでした。しかし先生のお言葉はやはり重いものがありました。繰り返し繰り返し、反芻し考へ続けました。そして、自分は一体どこが間違ってゐたのだらうか、といふことを考へてをったのです。その後、私にとっては卒業後も、国文研は鬼門でございまして、あそこへ行くと、また全否定されるのではないかといふことで、私にとっては遠い存在だったのです。といふか避けてゐたのです。

 ところが、私が言論活動をするやうになって30歳を越した頃ですが、福岡にたまたま講演に行った時に、小柳陽太郎先生が来て下さいまして、今度は激励して下さったのです。優しい言葉を掛けていただいて、アッ、国文研にも優しい方がをられる、といふことで、本当に助かりました。そして、小柳先生が、伊藤さん、これから活動してゆくに当っては、うちの国文研の若い者とも、力を合せてやったらいいよ、といふことで、司会してをられる山口秀範さんとか、いろいろな方々を紹介して下さった。さういふ人間関係を持たせていただく中で、この国文研で如何に多士済々、素晴らしい方が育っていかれたか、そしてその中で、どういふことが議論されてゐるのかを勉強させていただきました。

 取り分け小田村寅二郎先生が東大生時代に大学の先生方と交はされたあの熾烈な論争といふものを勉強させていただいて、これこそが私自身が学び、自分自身のスタンドポイントとする思想であり、勉強しなくてはならない内容であることを痛感いたしました。まさに小田村先生、小柳先生がお教へ下さったことを、自分の中心軸として、引き続き活動して参りたいと思ってをります。

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 今から9年前、私は京都大学の竹内洋教授のもとで、教育社会学の研究をしてをりました。当時竹内先生が『蓑田胸喜全集』を編むといふお仕事に参加をさせて貰って、その中で、君、蓑田胸喜の思想的な影響を受けた学生運動があるのを知ってゐるかといふことで、初めて小田村寅二郎先生の『昭和史に刻む我らが道統』といふ御著書を紹介をしていただきました。それを読んで、目から鱗といひますか、自分が学んできた近現代史を覆す、実に大事な事実が沢山含まれてゐると思ひました。是非、小田村先生や小田村先生と一緒に思想運動を戦った方々が残された資料に直接、当って研究をしたいと思ひまして、竹内先生に最初お手紙を書いていただいたりして、渋谷の国文研の事務所に訪ねて行ったのが、まさに九年前のことでありました。当時、稲津事務局長はじめ磯貝さんや山内さんがいらっしゃって、小田村四郎先生ともその頃に一度お目に掛ってゐたかと思ひます。非常に緊張しながら、事務所をお訪ねしたのを憶えてをります。といふのは、私は元々左翼学生運動の研究などはしてゐたのですが、それと反対側の立場といふのは、全くどういふものかよく分らないといふことで、失礼があってはいけないとネクタイを締めて、緊張しながら訪ねたのです。ところが、実際にお会ひしてみると、皆さんすごく真摯に、私の問題関心を聞いて下さいまして、それで、国文研の事務所にある資料を是非使って下さい、コピーも沢山録(と)って研究して下さいといふ風に背中を押して下さいました。当時私は関西に住んでをりまして、月に二、三回は、週末に上京して、午前中から夕方までずっと国文研のコピー機を占領してコピーをさせて貰ひました。それで『日本主義と東京大学─昭和期学生思想運動の系譜─』(柏書房)といふ本を書かせていただきました。

 歴史を繙(ひもと)いて行きますと、戦後自分たちが学んできた事実が、いろいろと違ふんぢゃないかと思ふことがありますが、それだけではなくて、実は戦前、戦中に、生きた人々も、知的な資源と言ひますか、知的な可能性を汲み尽してゐない人達が多かったのではないかと思ひます。その中にあって、小田村寅二郎先生はじめ当時の若い人達は、日本主義的な教養と言ひますか、その歴史の中から自分達で、可能性を汲み取って、当時の思想戦、言論戦を堂々と戦ってゐたと思ひます。今日の式典で、今林理事長から国文研の前史についてお話がありました。昭和15年、16年、学生思想運動が全国的に広がって行きますと、政府部内でも要注意の団体としてマークされるやうになります。この日本主義の思想といふのは、これを究めると、当時の政治家や官僚達がやってゐた仕事が、すごく官僚主義的と言ひますか、今とすごく似てゐると思ふのですが、それが見えて来ます。思想を究める人たちが出てくると、都合が悪くなってきて、でも当時としては、日本主義といふのは弾圧する口実がありません。扱ひに困って、最後、当時の東條内閣、首相が陸軍大臣でしたから、憲兵隊を使って検挙させるといふことになったのです。

 昭和10年代において、国文研の前身である日本学生協会、精神科学研究所は、すごく大きな思想的な高みに到達してゐたと私は思ひます。それが全く戦後顧みられることなく、暗黒の昭和10年代といふ風にサラッと片づけられてゐることは何とも残念でならないと、今でも思ってをります。ただ、本を書いたことで、研究をして見ようと思ふ若い歴史研究者が少しづつでありますが増えてをります。私が国文研に通ってコピーした作業と同じことを繰り返さなくてもいいやうに、柏書房から、平成19年、20年にかけて「資料集」を刊行致しました。個人ではちょっと買えない高額なものですが、大学の図書館や県立図書館などで購入いただき、アメリカの大学でも買っていただいてゐると思ひます。いつでも研究できる体制が整ってをります。いづれ、興味を持って、オッ、これは大事だなと思ふ若い方が、きっと研究を進めてくれるだらうと思ってをります。私も、さらに研究を続けて参りたいと思ひます。

 「資料集」の刊行に関して一つだけエピソードを紹介させていただきますと、タイトルは『日本主義的学生思想運動資料集成』で最終的には決ったのですが、最初私は『右翼学生運動資料集成』を提案したのです。「左翼」ではないから「右翼」だらうと、簡単に考へてゐたのです。出版社の人も、ではそれで国文研の人に聞いてみませうといふことで、聞いたら、すごく国文研の中で真剣にそれを討議していただいたやうで、井上さん、右翼と言ひますが、私達が考へやってゐることと、ちょっと違ふんです。「左翼」に対して「右翼」といふのは、イデオロギー闘争の中ではさういふ立場の分け方はあるかもしれないけれども、自分達がやってゐるのはイデオロギーでの戦ひではなくて、人の「まごころ」と言ひますか、これまた私には表現が難しいのですが、人と人とが向き合って、それで人を動かしてゆく、さういふ思想運動なんですよ。「右翼」といふとちょっとニュアンスが違ってくるんぢゃないでせうか、と優しく諭していただきまして、二度目の目から鱗だったのですが、「日本主義」といふ言葉を使はせていただくことにしました。これは、「左翼」に対する「右翼」ではない、まさに日本の「道統」を究めてゆく立場といふことで、私も「日本主義」といふ言葉を使はせていただいてをります。国文研の合宿教室にも一度参加させていただきましたが、そこでも優しく迎へ入れて下さった皆さん、本当に有難うございました。

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編集後記

 本号は「60周年記念の集ひ」の記事で満杯となった。各頁から「国文研」が湧出してゐる。記念講演(要旨)、ご挨拶(抄)を御精読下さい。当日は「ますぐに進め神代より定まれる道この道を…」と斉唱した。
(山内)

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