国民同胞巻頭言

第649号

執筆者 題名
澤部 壽孫 今こそ日本への回帰を
- 先人の気高い生き方を取り戻さう -
坂口 秀俊 『昭和天皇実録』を巡って
- 知的誠実さに欠ける「困った」学者たち -
金子 光彦 鷗外の墓に思ふ
- 見失はれた硬文学の精神 -
久米 由美子 サンマリノ神社を訪ねて
- 心に焼き付いたサンマリノ駐日大使の御著書 -
新刊紹介
山口秀範著  税別650円
『 名家の家訓 ─人生を開く「処世の言葉」─』
知的生き方文庫(三笠書房)
 

 安全保障関連法が9月19日未明に国会で可決され、成立した。対案を出さなかった民主党を始めとする野党は「違憲」、あるいは「戦争法案」、さらには「徴兵制」復活などといふレッテルを貼って、不毛で不真面目な論議に終始し、最後は、可決を阻止するために院外デモで圧力をかけ、マスメディアがこれに呼応したのは記憶に新しい。

 成立後のNHKの番組で、司会の解説委員が、この院外デモを持ち上げて暗に来年の参議院選挙で野党の勝利に結び付けたい旨の発言をしてゐたのには驚いた。民主党が政権を取ってどれほど国益を損ねたことか。中国の南沙諸島への進出、あるいは9月3日の軍事パレードで世界に向って誇示した軍事力の存在、我が尖閣諸島海域への累次の領海侵犯、これらには触れないこの種の発言は、国民を愚弄してゐるとしか思へないものであった。

 戦後の日本に決定的に欠落してゐるのは自国は自分で守るといふ信念である。私達の祖先はいのちを賭してこの美しい日本の国を守ってきた。この一点に思ひを致さない人達に安保法制を語る資格はない。今尚、大東亜戦争は無謀な侵略戦争であったがゆゑに世界にお詫びすべきであるとの考へ方が根強く日本を覆ってゐる。

 幕末の19世紀半ば、我が国が米国に開国を迫られた当時、アジアのほとんどは西欧諸国の植民地であり、清国には独立の気力はなく、朝鮮半島はその清国の羇絆の下にあった。この頃、上海に渡った高杉晋作が、アヘンに苦しむ中国の人達を目の当りにして、日本を守るために奇兵隊を組織したことは有名である。我々の父祖は日本の独立を保持する為に日清戦争、日露戦争を戦ひ抜いた。さらに米国にハルノートを突き付けられてやむなく大東亜戦争へ突入した時、私達の父祖がどのやうな気持ちで戦に臨んだのかを研究することは極めて重要であると思ふ。

 敗戦によって米国に強制された東京裁判史観や日教組教育によって日本人に沁み込んでしまった「他人の尺度で物を見る」といふ生き方を止めて、過去の歴史に素直に向き合ひ、複雑に入り乱れて果てしなく錯綜する現実を直視する日本人本来の物の見方を、今こそ取り戻さない限り、日本の再生はないと思はれる。

 国語表記は改変され、憲法は押付けられ、靖国神社は宗教法人化され現在に至ってゐるのを見ても、我が国は軍事面だけではなく文化的にも大敗を喫した事が痛感される。

 共産主義思想が持て囃されてゐた昭和35年(今から55年前の所謂「60年年安保」の年)に大学に入学した私は、映写会や討論会で日本の悪口をさんざん見せられ聞かされ、自信を喪失して、どう生きてゆけば良いのかと途方にくれてゐた時、偶々、雲仙で行はれた第5回全国学生青年合宿教室に参加して、そこで『万葉集』(巻20)の防人の歌にふれ、祖先の気高い生き方を知り、まさに人生の転機に遭遇して、現在に至ってゐる。

   筑波嶺(つくばね)のさ百合の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹(いも)ぞ昼も愛しけ
   あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇(すめら)御軍(みくさ)にわれは来(き)にしを

 同じ人物が詠んだこの二首の歌に、家に在っては妻をこよなく愛してゐる防人が、鹿島の神に祈って出征してゆくといふかなしくも雄々しい姿が彷彿として浮んで来て、1,300年の時空を超えて若き日の私の胸を打ったのであった。

 今夏、御殿場で行はれた第60回全国学生青年合宿教室に参加した学生達の感想を聞いたが、大多数の学生が自分の眼で見て自分の頭で考へようとする素直な心の持ち主であることを知り、大変力強く思った次第である。古典や短歌、歴代天皇の御歌を通じて、若い人達の胸に日本人の気高い生き方を知ってもらはうとする国文研の営みは今年で60回を重ねたが、祖先の生き方に学ぶことこそが日本の再生に繋がると信じるものである。

(本会副理事長、元日商岩井(株)エネルギー本部副本部長)

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     はじめに

 昨平成26年9月9日、宮内庁は『昭和天皇実録』全文を公表した。今年の3月、東京書籍から第1と第2が刊行され、9月には第3と第4が出されて、全19冊が平成31年を目途に、順次刊行されることになってゐる。

 本書は昭和天皇の御誕生(明治34年─1901─)から崩御(昭和64年─1989─)までの日々が日誌形式でまとめられたもので、宮内庁以外で新たに発掘された約40件の史料を含む、3千件を超える史料が引用されてゐるといふ。昭和天皇に関する「第一級の史料」であることは確かだ。

 全文公表の時から関心を呼んで、新聞・雑誌などで大きく取り上げられた。例へば『文藝春秋』は早速平成26年10月号と11月号で〔「昭和天皇実録」の衝撃〕と題する鼎談(10月号は半藤一利氏、保阪正康氏、磯田道史氏の3氏。11月号の「戦後編」は半藤一利氏、保阪正康氏、御厨(みくりや)貴(たかし)氏の3氏)を連載し、今年の3月には二度の鼎談その他をを収めた文春新書『「昭和天皇実録」の謎を解く』が刊行された。日本史研究者や歴史愛好者ら8千人を擁する「日本歴史学会」は、今年の2月に著名な6人の学者による座談会を行ひ、〔『昭和天皇実録』を読み解く〕として『日本歴史』9月号に22頁にわたってそれを掲載した。文藝春秋の鼎談、日本歴史学会の座談会とも様々な視点からの解釈や考察がなされてをり、大いに参考になった。

 ただ、その中で承服しがたい箇所がいくつか見られたが、その中の二点をここでは取り上げてみる。

     1、終戦時の御製について

 『日本歴史』の座談会で、加藤聖文氏(国文学資料館准教授)が、加藤陽子氏(東京大学大学院教授)の「戦後も含めて、戦争犠牲者の問題と、帝国の総攬者としての問題についてお願いします」との言葉に答へて次のやうに発言してゐる。

  「ポツダム宣言受諾で帝国総攬者という立場は終わりますが、その後も現実問題としては、残務整理が当然あります。(中略)それについて気になるのが、旧帝国臣民である朝鮮人・台湾人に対する意識が、戦後になると消えてしまって、日本人の問題に関心が集中しているのではないかということです。昭和20年12月15日に終戦時の感想を問われ、その時に歌を詠んでいて、29日の記者会見で一首だけ発表したのですが、これは外地に残っている日本人についての句でした。要するに外地に残されて帰ることができない「海の外の陸の小島にのこる民」たちの「うへ安かれ」、つまり、飢えて苦しんでいないかと「ただいのる」、そういう意味の歌を詠んでいるのです。外地に残って帰って来られない人たちをずっと気にかけている。わざわざこの一首だけ発表されるというのも、それだけ拘りがあるということでしょう。(後略)」

 ここで触れてゐる「歌」とは、昭和20年12月に発表された

   海の外(と)の陸(くが)に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり

の御製である。

 当時の国民の切実な問題は外地からの引き上げや復員であった。しかし、ソ連や中共などの工作もあり、多くの悲劇が起った。「うへ」は「身の上」のことであるのに、座談会の加藤聖文氏は、「うへ」を読み違へて、「飢え」と勘違ひしてゐる。「飢え」ならば歴史仮名遣ひで「飢ゑ」であるから、見当違ひも甚だしい。全くの初歩的な信じられない間違ひである。

 右のお歌の「ただいのるなり」について、夜久正雄先生は次のやうに書いてをられる。

  「悲痛なお心の表現である。〝ただいのる、いのるほかない〟の意味であるが、それなら陛下は祈るばかりで何もなさらなかったのか?とんでもないことで、終戦当時、陛下がマッカーサー元帥を訪問してどんなことをおっしゃったのか?それは今日では世界周知の終戦秘話である」(夜久正雄著『歌人・今上天皇(註、昭和天皇)』昭和60年)

かうした「祈り」のお心は歴代の天皇に一貫した御姿勢であって、御歴代の御製から仰ぐことができる。

   世をさまり民やすかれと祈るこそ我が身につきぬ思ひなりけれ(後醍醐天皇)
   身の上はなにか思はむ朝なく國やすかれといのるこヽろに(櫻町天皇)
   國民のやすけきことをけふこヽにむかひて祈る神の御前(みまえ)に(孝明天皇)
   民草のうへやすかれといのる世に思はぬことのおこりけるかな(明治天皇)

等々の御製から拝察されるやうに、国民の平安・幸福、世界の平和を祈って来られたのである。この重い事実に何ら顧慮することがないから、「上」と「飢え」の勘違ひといふ学者の名が泣くミスをしてしまったのだらう。情けないほどの知的怠慢、知的不誠実であり、結果的には「傲慢」でもある。

 加藤聖文氏を始めとする現代の学者は多くの文献を渉猟し、実証的に歴史を考察してゐるはずと思はれるのだが、実証といふ名のもと、批判的に見る傾向が強い。昭和天皇に限らず、歴代天皇の御製を丹念に考察することは殆どなされないやうだし、史料として引用することはほとんど無い。従って、前記座談会のやうな見当違ひの発言がまかり通り、それに対する検証がなされないといふ、学問的にも全くをかしな事態となってゐるのである。

   2、「新日本建設に関する詔書」について

 昭和21年元日に発せられた「新日本建設に関する詔書」は、一般的に「天皇の人間宣言」と呼ばれてゐる(なぜ「人間宣言」といふ呼称になったかについては改めて論じたい)。この詔書の冒頭に「五箇条の御誓文」が掲げられてゐるが、文春新書『「昭和天皇実録」の謎を解く』には、次のやり取りが出てくる(同書268~269頁)。

 

保阪 改めて宣言の成立の過程から読み直してみると、天皇を新しい統治システムの象徴とするために、神の末裔としての扱いには苦心したことがわかります。そこで、人間宣言では冒頭に明治天皇が出した五箇条の御誓文を出している。言葉は悪いけれど、お茶を濁すためにぴったりだったのでしょう。

御厨 五箇条の御誓文は実に使い勝手のいい文章なのですよ。『万機公論に決すべし』とあるだけで、何かというと、これをひっぱり出してきては、民主主義の原点はここに書かれていると主張する人が多い。もちろん、そんなはずはないわけですが。

半藤 でもそう読まされてしまうから不思議です(笑)。…(以下略)」

 昭和52年8月23日、那須の御用邸で宮内庁記者団との記者会見が行はれた。各メデイアが大きく報じたことを良く覚えてゐる。翌24日の朝日新聞の見出しは、「人間宣言」の第1のねらい 「五箇条の御誓文」伝達、となってゐる。以下、朝日新聞の記事に拠って記す。

 記者の、「人間宣言」の冒頭に五箇条の御誓文をもってこられたのは、陛下のご意思と伺ってをりますが、といふ質問に対して、昭和天皇は次のやうにお答へになってゐる。

  「あの詔書の第一の目的は御誓文でした。神格(否定)とかは二の(次の)問題でした。当時、アメリカその他諸外国の勢力が強かったので、国民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは、明治大帝のおぼしめしであり、それが五箇条の御誓文です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものではないことを示す必要が大いにあったと思います。

(はじめは)国民はだれでも知っていると思い、あんなに詳しく書く必要はないと思いました。当時の幣原喜重郎首相とも相談、同首相がこれをマッカーサー最高司令官に示したら「こういう立派なものがあるとは」と感心、称賛され、全文を発表してもらいたい、との強い希望がありましたので全文を示すことになったのです。

 あの詔勅は、日本の誇りを国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたので誇りを忘れさせないため、明治大帝の立派な考えを示すために発表しました」

 ノン・フィクション作家の保阪正康氏はもとより、高名な政治学者である御厨貴氏(東京大学名誉教授)は、当然この記者会見を知らない筈はないと思ふが何故か言及しない。言及しないどころか、学者にあるまじき意図的とも感じられる軽薄な発言をしてゐる。この御会見は歴史資料に値しないといふのだらうか。

 昭和史ものを多く著してゐる半藤一利氏についても、似たやうなものである。

 世間では、ある事柄について語ることはその事柄について理解してゐる自分自身を語ることだと言はれる。即ち他に関して語ってゐるつもりが実は自らの理解の程度を示してゐるに過ぎないといふ意味である。前記の発言を読みながら、ふとそんな自戒にも通じる言葉が頭をよぎった。

 世に言ふ学者とは困った存在である。因みに、ポツダム宣言十条には、「民主主義的傾向の復活強化」といふ文言まであるではないか。

 『明治天皇紀』『昭憲皇太后実録』『大正天皇実録』に次ぐ、貴重な記録の刊行が開始された。心して、これまでの百年余の我が国の歩みを読み進めたいと思ってゐる。

(九州産業大学特任教授)

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 この夏、東京は三鷹にある禅林寺を訪れた。本堂裏の墓地の小道をしばし行くと、「太宰治」と彫った墓石に出会った。彼を敬慕する人は絶えぬらしい。コップ酒や綺麗な花が沢山供へられてゐる。彼は戦後まもなく、近くの玉川上水で心中したが、彼の小説は今も若い人々の心を捉へ続けてゐる。

 その太宰の墓から少し行くと、私が訪ねたかった人の墓前に出た。「森林太郎墓」。森鷗外が眠る。胸を突かれたのは、太宰の墓とのあまりにも対照的な姿だった。花立には枯花が萎れ、墓石にはなぜか黄色い鉛筆が一本横たへられてゐる。これが近代日本文学の黎明期に漱石と並んで活躍し、文豪と仰がれた人の墓なのか。

 太宰は、生前、「明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鷗外、森林太郎博士であらう」「墓地は清潔で、鷗外の文章の片影がある、私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救ひがあるかも知れない」と書いたが、今日、その鷗外の墓が顧みられず、己れの墓が綺麗に飾られてゐるのをひそかに羞ぢてゐるかもしれない。

 太宰は露骨に「芥川賞」を欲しがり、作品集『晩年』が候補に挙がった時、銓衡委員の川端康成に「何卒私に与へて下さい」「私に希望を与へて下さい」と懇願した。だが川端は、「作者目下の生活に厭な雲あり」「才能の素直に発せざる恨み」ありと評し、太宰は受賞を逃した。逆上した太宰は川端に対し、「小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す」「大悪党だ」と憤怒の言葉を投げつけた。結局、太宰は生涯「芥川賞」を貰ふ事なく世を去る。

 それから60数年。今年、若い芸人が「火花」といふ小説で「芥川賞」を受賞した。漫才師として成功を目指す主人公が、憧れの先輩芸人と共に落ちぶれ、先輩は借金まみれの末に消息を断つ。何年経っても芽は出ず、芸人を諦めかけたところへ失踪した先輩が戻って来た。なんと彼は、豊胸手術を受けてFカップの巨乳になってゐた。これも芸のためらしい…。

 いかにも現代の若者たちが面白がり、出版社が商売になると踏んだ作品である。作者は太宰を敬愛してやまぬといふ。だが、泉下の太宰がこれを知れば何と思ふだらうか。

          ◇

 戦後復興が進み、日本は一気に高度経済成長の坂を登り、昭和31年の「経済白書」は「もはや『戦後』ではない」と宣言した。だが、その経済的復興・繁栄と引換へに喪ったものがある。敗戦を過去の封建的価値と権力からの「解放」とみなした左翼勢力や進歩的文化人達は、過去の伝統文化を悪しき因習として否定した。文学の世界でも、戦意高揚に協力した形跡のある作家は弾劾され、プロレタリア作家達の「新日本文学」、また、それに距離を置きながらもマルクシズムに親近感を持つ「近代文学」の同人達を主流として戦後文学が再開された。さらに、過去の伝統文化の否定は「国語」にも及び、言葉を命とする作家達も、占領軍の権威の下で強行された国語改革の渦に卷きこまれた。国語改革の論議は明治大正からあったが、鷗外は「假名遣ひ意見」を表明して性急な改革に反対した。芥川龍之介も漢字や仮名遣ひを「簡便」といふ能率主義だけで変へようとする動きに対し、「『簡』字の前に日本語の堕落を顧みず、理性の尊厳をも無視するものなり」「冗談にも程がある」と反撥した。

 だが、戦後、「文学の神樣」と称された志賀直哉は、日本語を廃してフランス語にすべしと放言し、川端康成もローマ字への変更を望むなど、芥川も呆れるやうな「冗談にも程がある」醜態を晒すに至った。

 さうした過去の歴史と価値観を否定・封殺した戦後の言語空間の中で、商業主義の波に乗り、文学作品といふ商品は次々に生産され続けた。

 だがその「文学」に絶望した人がゐる。三島由紀夫は死の前年、芥川賞の銓衡委員として候補作を評して「文学精神の低さに驚いた」と語り、受賞作無しとした。昭和五十年代に入ると池田満寿夫の「エーゲ海に捧ぐ」が芥川賞をとるが、この時、芥川賞創設に関り銓衡委員でもあった永井龍男は、これを、「緻密な描写が拡がるにしたがって、端から文章が死んで行き、これは文学ではないと思った」と全否定し、銓衡委員を降りた。彼はその前の受賞作、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」にも票を投じなかった。

 三島に言はせれば、経済的には「戦後は終った」かもしれぬが、同時に「文学も終った」のだった。

 その行詰りを呈してゐる「文学」とは、明治期に始った自然主義文学の系譜を引く「私小説」を主流とする「文学」である。それは、敗戦を機に、かつて鷗外や漱石、芥川たちの「文学」を生み出した母体ともいふべき歴史観や国家観、国語との関係を失ひ、三島の言ふ「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」の中で、ちまちまとした人間関係や身辺問題に終始するか、奇を衒(てら)った興味本位の「読物」に凋落してしまった。

          ◇

 だが問題は文学の世界に限らない。一国の「文学」の水準は、それを生み出す一国の「文化」の水準をも示す。即ち、日本の「文学精神」の水準の低下は、日本の「文化」そのものの水準の低下を意味したのだった。

 さうした危機意識に立って警鐘を鳴らした人に、河上徹太郎がゐる。彼は、「私小説」を「軟文学」と呼び、これに対するに「硬文学」の必要性を説いた。彼が「硬文学」と称するものの代表例は、例へば鷗外の史伝「澁江抽齋」である。一儒者とその家族や眷属の人生を、公平綿密な調査に基づいて描写し、それぞれ立派に生涯を生き抜いた人間として表現した。それは、「私小説」といふ「私」の身辺描写や内面描写に拘泥する表現形式では創造し得ない、人間の美しい精神の現出だった。「阿部一族」、「興津彌五右衛門の遺書」も然りである。

 また河上自身は「吉田松陰」の史伝を著した。松陰は文学者ではないが、河上は、松陰の波瀾に満ちた生涯に残された幾多の文章や書簡のうちに、実に瑞々しい詩的精神の横溢を見て感動する。即ち、河上の言ふ「硬文学」の精神とは、今日の「軟文学」では決して描き得ない、「公」といふ現実にぶつかって、精一杯生き抜いた人間だけが放ちうる精神の光芒であり、志の高さに他ならない。

 「公」に向き合ひ、どこまでも理想を求めて生きる時、人間は必ず「硬きもの」と衝突する。個人の理想や志の実現を阻む「現実」にぶつかる。しかし、その「硬きもの」との対決を恐れずに生きるところに、小我としての「私」を超えんとする一種「硬質」な精神的結晶ともいふべき美しい詩的精神が生動する。そしてその詩的精神は、自らの理想と志を推進力として垂直運動を開始する。その時、「澁江抽齋」はまさしく「澁江抽齋」として屹立し、「吉田松陰」はまさしく「吉田松陰」として立ち上がる。河上徹太郎は、その煌(きらめ)く精神運動の自己表出を「硬文学」の精神と呼んだのである。

 だが、さうした精神運動の起動力ともいふべき、「公」に向って雄々しく生きる力を衰弱させて来たのが戦後の日本文学に他ならない。「私小説」の扱ふ「私」は、陳腐な自我の蠕動(ぜんどう)運動を、平板の上で果てしもなく繰返すだけである。その意味では、「私小説」の魁(さきがけ)をなす田山花袋の「蒲團」と今年の芥川賞受賞作「火花」との間には本質的に何の徑庭もない。かくして、「公」と「私」の関係を断ち切り、卑小な「私」を中心とする「私小説」のみを「文学」と錯覚したがゆゑに、戦後の日本文学は、三島が嘆くやうに、「文学」の生命力そのものを枯らして来たのだった。

 戦後七十年を閲し、様々に戦後の総括が叫ばれる中、先の戦争で「公」のために殉じた人々の精神すら、私たち日本人の「硬文学」として表現し得てゐない現在の日本文学に希望はない。誰にも見向かれず、枯花だけが寄り添ふ鷗外の墓は、その無残な事実を無言で告発してゐるのではないだらうか。

 これからも文学作品は氾濫し続け、出版社の印刷マシンは金を稼ぎ続けるだらう。しかし、「文学」は文学者や出版業者の占有物ではない。それは、我々が、一人の日本人として、人間として、「硬き」現実を生き抜くところに生れる精神運動そのものである。さうであれば、私たちにとって本当に必要な「文学」は、「私小説」が痩せ衰へさせて来た「私」を、もう一度「公」との関係の中で再生する努力からしか始まらないのではないか。

 鷗外は遺言で自らの墓に「森鷗外」の名を刻ませなかった。それは、この硬き現実の人生を闘ったのは、「森鷗外」ではなく、まぎれもないこの「森林太郎」だ、といふ強い自覚ゆゑではなかったか。

 誰がどんな気持ちで置いたのか、鷗外の墓に鉛筆が一本横たへられてゐたのを思ひだす。この鉛筆一本から、再び私たち日本人の精神的水準を高めうる、真率な「硬文学」が書き始められることを堅く信じてゐるかのやうに。

(出光興産(株))

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 6月3日、私はイタリアへと飛び立った。ツアー旅行のパンフレットの中に、サンマリノでの宿泊があるものを見つけたからであった。3月末で教職を退いた自分への褒美を兼ねたイタリア旅行であった。

 この旅行を思ひ立ったのは、イタリアの遺跡や芸術にも興味があったが、サンマリノ共和国駐日大使マンリオ・カデロ氏の著書『だから日本は世界から尊敬される』(小学館新書)を読んで、昨年、サンマリノ共和国に神社が建てられたと知ったからである。

     サンマリノ共和国

 サンマリノ共和国はイタリア半島にある世界で五番目に小さい国である。カトリックの大本山、サン・ピエトロ寺院のあるバチカン市国は有名だが、私は、イタリア中部に、このような小さな独立国がもう一つあることを氏の著書を読むまで知らなかった。

 氏の著書によると、サンマリノの面積は世田谷区より少し広い61万平方キロメートルで人口は約3万6千人である。紀元301年ダルマチア人の石工だった「マリン」がカトリック教徒であったためにローマ皇帝、ディオクレティアヌスの迫害を受けてティターノ山に登り、彼のもとに人々が集まり建てられた共和国としては世界一古い国である。

 サンマリノの産業は主に観光で、他に葡萄を栽培してワインなどを造ってゐる。「サンマリノ歴史地区とティターノ山」が世界文化遺産となってゐて、ここには要塞の塔、城壁、門、防御塁、聖堂や政庁、修道院、劇場などがあって、ロシアやヨーロッパから毎日沢山の人が訪れてゐる。税率が低く外国人観光客には消費税をかけないので、信頼できる日本製品も売れてゐるらしい。日本の製品はアフターサービスもよく定評がある。

 また近年はポップカルチャーのイベントも開かれ多くの人が集まるといふ。どうしてサンマリノが会場に選ばれるかといふと、軍備をもたない平和な国であるからださうである。日本も平和な国として世界中で知られてゐるやうである(防衛についてはイタリアが責任を持つから、サンマリノは儀仗隊を持つが現代的な軍隊は保有してゐない)。

     サンマリノ神社に行く

 私たちは、ミラノ・ヴェローナ・ヴェネチアを見学し、サンマリノには二日目の夜に着き、中世の雰囲気の残るティターノ山の上の街のホテルに泊った。しかし、翌日の見学ルートに神社は入ってゐなかったので、事情を説明し私だけ朝食の時間を使ってタクシーでサンマリノ神社へ向ふことになった。あらかじめ、サンマリノ駐日大使館に問ひ合せて神社の場所をメモして来てゐたので助かった。昨年建てられたばかりだから、ホテルで神社のことを尋ねても初めのうちは話が通じなかった。

 翌朝、タクシーに迎へに来てもらひ、神社へ向った。神社の周りには、葡萄畑が広がってゐた。なだらなか丘を少し登って行くと、鳥居があった。日本語で「サンマリノ神社」といふ文字が飛びこんで来た。イタリアに着いてから石造りの街並みを見て来ただけに、ここの空間だけが違ふ世界に来たやうに感じられた。さらに進んで行くと池があって、その少し上に檜造りの社(やしろ)が見えた。朝の空気の中に、お社が静かに建ってゐた。傍らに碑があり、この神社を建立するために援助した人の名前が日本人と、サンマリノ人であらうか外国人の名とが刻まれてゐた。

 敬虔なクリスチャンであるマンリオ・カデロ氏は、なぜ神社をサンマリノに建てたのだらうか。

     マンリオ・カデロ大使について

 マンリオ・カデロ氏はイタリアのシエナに生れ、自宅にあった日本の歴史の本を読んで日本に興味をもち、幼少の頃と学生の頃に来日してゐる。フランスのソルボンヌ大学で日本語やその他の外国語語源学を修め、来日して40年になる。2002年にサンマリノ共和国の駐日特命全権大使に任命された。2011年5月からは、各国からの駐日大使全体の代表である「駐日外交団長」に就任、陛下のお誕生日の茶会の際、代表でスピーチをされてゐる。また、一昨年10月、伊勢の式年遷宮の際には外国代表四名の一人として遷御(せん ぎよ)の儀に参列されてゐる。氏の著書を読めば分るが、皇室について、神社について、そのほか日本の歴史と文化伝統について、詳しいお方である。若い日本人が自国の歴史についての知識があまりにも乏しいことを憂へてをられる。

  「初代の天皇が神武天皇であることを知らない。2千6百年以上の長きにわたって…神武天皇の男系の子孫がずっと皇位を継承している。海外では、Emperor(皇帝)という。これは、国王、大統領、首相より断然格上である。というのが世界の常識である」

 氏が日本について詳しいのは、この著書についての参考文献だけでも50冊を超えてゐるから当然であらう。私も現職教師の時、子供たちに神話や、皇室のすばらしさを伝へることを心掛けてゐたので、氏がこれほど日本のことを思はれて、本までお書きになってゐることが嬉しくてならない。

     世界に広げたい日本の心

 先日、北九州市でマンリオ・カデロ大使の講演会があった。直接お話に耳を傾けて、改めて有り難く思ったが、同時に日本人よ、もっと自信を持ってくださいとお叱りを受けた感じでもあった。

 氏は「日本神話と神道が日本と日本人を作ってきました。『もったいない』『いただきます』『ごちそさま』はすべてに神様の命を感じる日本人だけの言葉です。クリスチャンも祈るが、食べ物の命や作った人に感謝してゐるわけではありません」と仰有った。そして日本の国の中心には常に皇室があり歴代の天皇陛下が「日本国民のために日々祈りを捧げて来られた」ことを知って、質素で謙虚な皇室がいかに他国の王室と違ふかについて外国人の目を通し語られた。

 氏は外交団長になって、天皇皇后両陛下にお会ひする機会がさらに増えたと言ふ。また、数多くの神社を参拝されてをり、それぞれ祀られてゐる神について大変に詳しい。

 

 「日本には立派な神話があり長い歴史がある。私はその文化を学ぶうちに日本は、21世紀の世界にとって、規範となる国であると信じるやうになった。今日の世界が何よりも必要としてゐるのは、日本民族が培ってきた『和の心』です。日本の神話は、日本の特色にみちてゐる。他国の神話には、絶対的権力を誇る独裁神が登場するのに日本の神話は、とても日本的である。日本の最高神天照大御神は、絶対権力をもった独裁神ではない。日本の神々は常に額を寄せ合って相談して決めてゐるのです」

 氏は日本の青年に神武天皇を知らない人が多いことを嘆かれ、「教科書にちゃんと神武天皇のことを書いて教へなければならない。世界には、神話もないし歴史も浅い国がたくさんあるのに、神話があり長い歴史がある国に生れたことが、いかに幸せなことかを自覚して、今の日本人にはもっと自分の足元を見つめてほしい」とも仰有った。

 私も、このたびイタリアに行って、イタリアは共和国となってから、まだ百年も経ってゐない国であるといふことや、色々な街に戦ひの跡があり、勝者の遺跡が重ねられてゐたことを目にして来た。ヴェネチアの観光ガイドに「ぼくは、日本人が礼儀正しく好きだ。日本の言葉は奥深い。いろんなニュアンスの言葉や熟語がある。言葉が沢山あるのは、日本の歴史が古いからだ」と言ってゐたことが思ひ出される。日本は世界からは魅力的な国なのだといふことを実感した。

 氏は「サンマリノの小さな神社がヨーロッパを初め世界の多くの人々の知る所となり、日本の文化と精神が伝はる拠点となることを夢見てゐる」と述べ、神社でお祭りをして御神輿を出し、楽しむ場として、サンマリノをアジアとヨーロッパをつなげる拠点としていくことを考へてゐると仰有った。私も日本の和太鼓や舞、能などが、併せて披露できたら良いだらうなあなどと想像して楽しくなった。神社本庁公認のヨーロッパ初の神社が建立されたことを、日本人として心から感謝したいと思ふ

 氏は、16世紀末、キリシタン大名がローマ法王に遣はした天正少年遣欧使節団の「伊東マンショ」のことなどについても研究されてゐて、「彼らは日本最初のヨーロッパ大使であった」とお書きになってゐる。私もマンショたちが当時の世界でいかに素晴らしい少年であったかを知り感動した。紙面の都合で紹介できないが、是非、氏の著書をご一読いただければと思ふ。

     サンマリノ神社を訪(おとな)ふ(6月5日)
   我ひとりタクシーに乗りサンマリノ神社へ向へば心高鳴る
   日本語で「サンマリノ神社」と記したる鳥居の見ゆればうれしかりけり
   葡萄畑の岡の上(へ)に立つお社(やしろ)を訪ひくれば清々しかりけり
   日本の心広がれと建てられし欧州初の神社なりとふ
   人数多(あまた)此処を訪れ日の本の心に触れよと祈りまつりぬ

(元北九州市立小学校教諭)

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 福岡を起点に、関東・関西など全国各地の幼稚園から大学や企業の社員研修等まで幅広く、「偉人伝」講座ほかを展開してゐる山口秀範氏((株)寺子屋モデル代表取締役社長、本会常務理事)が、先般標題の書籍を上梓された。手頃な文庫本ではあるが、中味は濃く、戦後の公教育が避け、それ故にそこで育った親世代がハッとするであらう「先人の生き方や言葉への敬ひ」の気持ちで貫かれた好著となってゐる。

 その序文である「はじめに」には、当然のことながら著者の深い心懐が、しかも簡潔に述べられてゐる。ここでは贅言(ぜい げん)を連ねるのをやめて、それを掲げることで紹介としたい。この文章自体が内容のある問題提起となってゐる。
(編集部)

    はじめに    山口秀範

   ─今に活かす「成功者の教え」─

 15年前からあちこちで「我が家の家訓」作りを提唱している。その講習の冒頭で「お宅に家訓はありますか」と尋ねてみると、決まって返ってくるのが「うちは、家訓を持つほどの家柄じゃありません」である。現代の一般家庭と家訓とは無縁のものになってしまったのか。

 本書では「敬して遠ざけられた」名家の家訓を甦らせるべく、さまざまな時代の武家・商家・農家・職人・学者・軍人・文化人等々の家訓を選び出し、その内容と作者について紹介した。

 名家の家訓には、私たちが仕事や学業を進めるうえでのヒントや、日々の暮らしを前向きに、心豊かなものとする処世の智恵があふれている。

 どの項目からでも結構だから、まず原文とそれに続く解説を一読し、再度原文を、今度は声に出して唱えていただきたい。そこには時空を超えた人生の極意が凝縮されていると気づくに違いない。

 やがていくつか読み進めるうちに、いま抱えている悩みや障碍(しよう がい)を乗り越える手がかりが見え始めるだろう。歳月の年輪を重ねた家訓は、それぞれ「人生がうまくいく原理原則」を説いているからだ。

 採り上げた40の中には、家訓のジャンルからはみ出たものが含まれる。

 たとえば遺書、辞世の言葉、日頃からのモットー・信条を表現した詩歌などだが、そもそも子孫へ伝えたい深い思いを綴るのが家訓ならば、まぎれもなく家訓と呼んでいい。また聖徳太子の「十七条憲法」は当時のリーダーたちに向けて発せられたが、同時に後世の日本人すべてに遺された「国訓」として味わってほしい。

 戦後70年のいま、翻ってみれば、敗戦後の思想・学問・哲学など手本はほとんど欧米にあった。ビジネスの指針やライフスタイルまでも、多くは翻訳書に指南を求めてきた。

 しかし、私たち日本人の生きるべき道しるべは、じつは私たちの先人が示してくれているのではないか。

 一時期自信を失い気味だった日本人が誇りと矜恃(きようじ)を取り戻すには、忘れた過去の宝物にいま一度光を当てるという作業が欠かせまい。

 その観点から本書をお読みいただきたい。そうすれば、家訓の作者たちが紡(つむ)いだ言葉から、日本人の心が浮かび上がってくると感じるだろう。

 しかも古くは2千年も昔から時代を超え、身分境遇にかかわらず連綿と受け継がれている「日本人らしさ」が、現代に生きる私たちの血肉にも流れていることを確認するだろう。

 否応なしにグローバル化するこの世を生きる、ゆるがぬ立ち位置は「日本への回帰」。和食を、職人技を、そして漫画やアニメの繊細な制作を、世界の人々が称賛し、「おもてなし」「おかげさま」「もったいない」という日本語が、クールジャパンとともに「国際化」しつつあるではないか。

 という次第で、「名家の家訓」に込められた先人の経験・信念・願いなどを、あなたがその子孫になったつもりで受け止めていただきたい。

 若者は瑞々(みずみず)しい感受性で、年配の方は成熟した良識で、家訓の作者からあなたへのアドバイスと受け止めて、今後の人生への糧とされんことを。(後略)

─仮名遣ひ、ゴチックはママ─

 

訂正 前号10月号8頁、新刊紹介の錦正社刊『歴代天皇で読む日本の正史』の価格は税別3,600円の誤りでした。

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 編集後記

 来年からの「投票年齢の18歳(高校3年生)」引下げに関連して先晩(10/21)のNHKの番組は、「集団的自衛権の是非」を教室でとり上げてみたいとする真面目さうな若い高校教員を写し出した。これはどう転んでも「第九条」を前提にしたものになるだらう。教師は「憲法の枠内」からは出られないし、教科書も同様で第九条「賛歌」の記述に溢れてゐるからだ。かくて、押し付けられた「国防慮外」の空想的条文によって、大多数の真面目な生徒の目は曇り、拉致も尖閣危機も共産中国の核兵器も視界から消えて、自国をどう縛るかに目が行ってしまふ!?。
(山内)

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