国民同胞巻頭言

第648号

執筆者 題名
武澤 陽介 伝承民謡と国難
- 民謡に刻まれた「先人の記憶」 -
大岡 弘 再考・「皇祖神の系譜」(下)
- 日ノ神の胤、無窮に伝ふ -
古賀 智 古書を通しての先人との「対話」
- 先人の智慧を継承して将来に伝へよう -
平成27年 慰霊祭 厳修さる
新刊紹介
吉重丈夫著『歴代天皇で読む日本の正史』

錦正社刊 税別3,500円

 北原白秋編『日本伝承童謡集成』に、東北地方の子守歌が入ってゐる。

   「ねんねこよう、寝なば、山がらモッコぁくるよう、ねんねこよう、ねんねこよう」

 15年ほど前、私はこの子守歌をラジオで聴いた。雑音まじりの録音だったが、現地の恐らく老女が唄ってゐる音源であった。幼子に歌ひ聴かせる古来の日本旋法による静かで語りかけるやうな短い無伴奏の歌であり、強い青森訛りの歌詞に登場する「モッコ」といふ単語に何とも言へない不気味さを感じた。

 解説者が、この単語は「蒙古」を意味すると述べた時、思はず背筋が凍るやうな感覚に襲はれたことを、今も鮮明に覚えてゐる。

 モンゴル帝国と、その属国であった高麗王国による日本侵攻、即ち元寇(文永・弘安の役)は、この伝承民謡が収集された時から700年も昔のことである。この民謡が九州地方ではなく本州の北に位置する東北地方で歌はれてゐることから、この未曾有の国難が我が国にもたらした恐怖体験が、いかに強烈なものであったかが察せられたのである。

 この「モッコ」といふ言葉には「化物」といふ意味もあるやうだ。「モッコ」、「モコ」あるいは「モンコ」などとも言はれるこの言葉は、東北の各地で見られる方言で、諸説はあるものの、いづれも得体の知れない恐ろしい化け物、あるいは妖怪などの意味を持ってゐるといふ。

 この伝承民謡の子守歌を聴くと、蒙古襲来が我々の祖先たちの体験した事実であったと実感するのである。元軍による対馬や壱岐などでの殺戮や世界史上最大の艦隊による侵攻を迎へ撃った鎌倉武士の勇武と智力、そして民衆が抱いた不安の記憶が、かうした民謡となって残ってゐる。それを知る時、我々は歴史を追体験し、祖先の息遣ひを感じることができる。生きた歴史とは、このやうなものではなからうか。同時に、現代の無国籍の文芸作品や奇を衒(てら)ったものを造り上げることに日々執心してゐる芸術創造が、伝承芸術である民謡にくらべ、非常に軽薄なものであると改めて認識させられる。

 西洋音楽の世界では、時代変革の大きな潮流の折、その鍵となる才能達は鋭敏に反応してゐる。19、20世紀の芸術観の大きな変化の際に多くの天才が自らの帰属性への回帰を試みてゐる。東欧の民族音楽を再発見したハンガリーのバルトークは顕著な例で、フランスの天才、ドビュッシーらは革命以前の芸術への憧れを全く隠すことなく表明してゐる。ドイツの巨星ヴァーグナーはキリスト教伝来前のゲルマン民族の神話を題材に傑作を生み出した。

 これらの輝かしい西洋の伝統を明治期に受容した伊澤修二ら音楽取調掛を筆頭とする先人の努力は敬服すべきものであった。単に洋楽を移入しただけではなく、日本固有の伝統音楽の価値を残しつつ、巧みに吸収と発展を遂げることに成功した。今も色褪せることのない「唱歌」のやうな名曲を生み出した例は、音楽史上、実に稀有なものである。日本の芸術は、世界最古の伝統があるだけでなく、異なる系統の文化を受け入れ昇華させる包容力も秘めてゐる。

 戦後の楽壇の俊英である黛敏郎の作品はその象徴だった。形骸化してゐた西欧のアカデミズムに見切りを付けた彼は、我が国の伝統音楽と前衛書法を見事に融合した大作を生み出した。日本へ回帰したその作品群は西欧の芸術を数十年も先取りしたもので、世界的な評価を得てゐる。

 歴史は常に苦難の連続だった。だからこそ、後に続く全ての学びには、数多の困難や悲劇を乗り越えた無数の先人たちを偲び、共感することが不可欠である。合宿教室やその後の読書会に参加するたびに自分の浅学を痛感するばかりだが、私にとってその勉強はいつも感動に満ちてゐる。ことに今夏の御殿場での合宿教室は、これまで以上に有意義なものだった。講師の方々のお話と、参加者との語らひを通し、改めて歴史への共感を抱き、自分もまたその一部なのだといふことが実感できた。

 私たちは常に真摯に、そして謙虚に学びを続けていかなければならない。かつての日本人が叡智をもって乗り越えて来た歴史を学び実感する時、現在の国難を認識できずに不毛で滑稽なパフォーマンスに終始してゐた今回の安保関連法案をめぐる一連の騒ぎに、悲しみすら覚えるのである。

(作曲家、上野学園高校音楽科講師)

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   6.記紀の「詔(のり)別(わけ)」の段

 「日の神」の「胤」の継承を問題にする場合、その対象となる記紀の件(くだり)は、「誓(うけ)ひ」に続く「詔(のり)別(わけ)」の段(くだり)である。夜久正雄著『古事記のいのち』(国民文化研究会発行、平成10年第3刷版)所載の「古事記のあらすぢ」部分を借用し、筆者なりに若干手を加へて『古事記』のその件を示すと、以下のやうになる。

  「誓(うけ)ひは、天の安(やす)の河を中にして行はれました。まづ天(あま)照(てらす)大(おほ)御(み)神(かみ)がスサノヲの命(みこと)の剣を取って三つに折って、天の真(ま)名(な)井(ゐ)にふり滌(すす)ぎ、こまごまになるまで噛みに噛んで吐きすてるその息吹のさ霧の中から、タケリビメが生まれます。最終的には、天照大御神からは三(み)柱(はしら)の女性の神々が生まれます。次にスサノヲの命が天照大御神の左のみづらに纒(ま)いていらっしゃる五(い)百(ほ)津(つ)の御(み)統(すまる)の玉を、前のやうに噛んで吐きだすその息吹のさ霧から正(まさ)勝(か)吾(あ)勝(かつ)勝(かち)速(はや)日(び)天(あめ)之(の)忍(おし)穂(ほ)耳(みみ)の命といふ勝利の男神が生まれます。最終的には、スサノヲの命からは五(いつ)柱(はしら)の男性の神々が生まれます。間髪を入れずに為された天 照大御神の言挙げ(詔(のり)別(わけ))によって、この五柱の男性の神々は天照大御神の御子孫となられ、三柱の女性の神々はスサノヲの命の御子孫といふことになりました」。

 この場面での、スサノヲの命に向けて発せられた天照大御神の言挙げは、『古事記』では以下のものとなってゐる。

  「この後(のち)に生(あ)れし五柱の男(をのこ)子(ご)は、物(もの)実(ざね)我(あ)が物によりて成(な)れり。故(かれ)、自(おのづか)ら吾(あ)が子ぞ。先(さき)に生(あ)れし三柱の女(をみな)子(ご)は、物(もの)実(ざね)汝(いまし)が物によりて成れり。故(かれ)、すなはち汝(いまし)が子ぞ」。
(倉野憲司校注『古事記』、岩波文庫本)

 一方、『日本書紀』本文での言挙げは、「是(こ)の時に、天(あま)照(てらす)大神(おほみかみ)、勅(みことのり)して曰(のたま)はく」として、以下のものとなってゐる。

  「其(そ)の物(もの)根(ざね)を原(たづ)ぬれば、八(や)坂(さか)瓊(に)の五(い)百(ほ)箇(つ)の御(み)統(すまる)は、是(これ)吾(あ)が物(もの)なり。故(かれ)、彼(そ)の五(いつはしら)の男(ひこ)神(がみ)は、悉(ふつく)に是吾(あ)が児(こ)なり。(中略)其の十(と)握(つかの)剣(つるぎ)は、是(これ)素(す)戔(さの)嗚(をの)尊の物なり。故、此(こ)の三(みはしら)の女(ひめ)神(かみ)は、悉(ふつく)に是爾(いまし)が児なり」。
(坂本太郎ほか校注『日本書紀㈠』、岩波文庫本)

 ここで、天照大神は、実に明快に理由づけをなさってゐる。『記』『紀』ともに同一で、それは、「出産された子供といふものは、その子供を出産した当人に帰属するのではなく、その子供が生まれる元となったところの、《種(物実、物根)》を提供した者に帰属するものなのだ」といふ御理由である。これを、「人ノ代」の理屈に置き換へれば、子供といふものは、出産した母親にではなく、種を提供した父親に帰属するものなのだといふ理屈になる。これは、祖先を遡るには、まづ父、次にその父と、古(いにしへ)に向って順次父系を辿ってゆくものなのだといふ、正に「男系(父系)継承の理屈」である。皇祖神の系譜における「男系継承の神勅」、それが、天照大神がスサノヲのミコトとの戦ひの中で発せられた勅(みことのり)であった。スサノヲのミコトは、何の抵抗も示さず、これを受け容れた。さう解釈したのが、谷川士清(こと すが)と本居宣長であると思はれる。

   7.宣長と士清の解釈

 宣長は、『古事記伝』七之巻で次のやうに述べてゐる。

  「此(この)記(き)(『古事記』のこと)の旨(むね)は、誓(うけひ)の間(あひだ)に一(ひと)連(つづき)に生(あれ)坐(まし)て、三女五男共に、大(おほ)御(み)神(かみ)と須(す)佐(さ)之(の)男(を)ノ命(みこと)との御(み)子(こ)にて、此レは大御神の御子、此レは須佐之男ノ命の御子と云分(わき)は本あらず。(中略)さて後(のち)に生(あれ)坐(ませ)る方を先ヅ詔(のりたま)ひ、先(さき)に生(あれ)坐る方を次(つぎ)に詔ふは、物(もの)実(ざね)の尊(たかき)卑(いやしき)を以てなり。(中略)
物実は毛(も)能(の)邪(ざ)泥(ね)と訓(よむ)べし。書紀には物(もの)根(だね)とあり。佐(さ)泥(ね)と多(た)泥(ね)とは、其ノ物も名も通(かよ)へり。後ノ世にも人の母(はは)を云には某ノ腹(はら)、父を云には某ノ種(たね)と云フ。木草の種(た)子(ね)も同じ。此(ここ)も其意なり。【谷川氏が、五男神は、物実日ノ神の物なれば、日ノ神は父の如く、須佐之男ノ命は母の如しと云るは、さることなり。】(中略)
詔(のり)別(わけ)賜(たまふ)とは、五男三女渾(すべ)て一ツに、大御神と須佐之男ノ命との御子にて、本は何(いづ)れが何(いづ)れの御子と云別(わき)は無(な)きを、今始メて物(もの)実(ざね)を尋(とめ)て、如(か)此(く)別(わけ)たまふなり。(中略)又或(ある)説に、三女五男は、此時大御神と須佐之男ノ命と、御(み)交(あ)合(ひ)て生(うみ)たまへる御子なりと云(中略)ハ、皆拠(よりどころ)もなき妄(みだり)言(ごと)なり。昭(あきら)けき古へノ伝へ言(ごと)を信(うけ)ずして、己(おの)が私の推(おし)測(はかり)は何(なに)事(ごと)ぞ。必ズ夫(め)婦(を)交(あ)合(は)ざれば、子(こ)は成(なら)ぬ物と思ふは、神ノ道の奇霊(くしき)を思はで、尋(よの)常(つね)の理に迷(まよ)へるなり」。
(以上は、倉野憲司校訂『古事記伝㈡』、岩波文庫本)

 一方、士清は、『日本書紀通証』巻四の中で、次のやうに簡潔に言ひ切ってゐる。

  「今按(あん)ずるに、吾が国家、日胤(引用者注・天照大神の御血統)に非ざれば則(すなは)ち践(せん)祚(そ)の例(ためし)無し。(中略)是(こ)れ誓(うけ)約(ひ)の本旨、万世の法を立つる者なり。(中略)
今按ずるに、(中略)夫(そ)れ根系統脉(みゃく)父に在りて母に在らず。五男の如きは、則(すなは)ち日ノ神猶(なほ)父のごとし。素尊(引用者注・素戔嗚尊)猶(なほ)母のごとし。物根固(もと)より日ノ神に出づ。日種(引用者注・天照大神の御種)に非ずして何ぞや。(中略)
 今按ずるに、生めるは素尊に在り。故に「取りて子(ひ)養(だ)したまふ(引用者注・天照大神が受け取られて養育なさった)」と曰(い)ふ。後世養子の謂(いひ) (引用者注・意味)に非ざるなり」。
(以上は、谷川士清著『日本書紀通証一』、臨川書店、昭和五十三年、漢文体)、書き下しは引用者。

 なほ、『日本書紀』のこの段に関する四種の異伝を紹介すると、第一及び第二の「一(ある)書(ふみ)」では、スサノヲの尊がオシホミミの尊を出産するが、その帰属先は不明となってゐる。第三の一書では、スサノヲの尊が出産したオシホミミの尊を、天照大神が養子として受け入れられ、高(たか)天(ま)の原の統治をお任せになったとなってゐる。その他の一書では、スサノヲの尊が出産したオシホミミの尊を、スサノヲの尊が天照大神に献上したとなってゐる。

 筆者は、この段に関しては『古事記』の内容と『日本書紀』本文の内容が同様であることに鑑み、宣長、士清と同じく、この両記述を重視すべきであると思ふ。すなはち、異伝は考慮の外に置く。かつ、天照大神が詔別の根拠とされた御言葉に注目すべきであると思ふ。この御言葉は、先にも述べたやうに、「男系継承の神勅」といふ名を以って、三大神勅、すなはち、「天(てん)壌(じょう)無(む)窮(きゅう)の神勅」、「宝(ほう)鏡(きょう)奉(ほう)斎(さい)の神勅」、「斎(ゆ)庭(にはの)稲(いな)穂(ほ)の神勅」と並び称されるべき、極めて重要な勅(みことのり)であると思ふのである。

 宣長、士清両者の注釈は、『古事記』、『日本書紀』をそれぞれ全巻読み通しての綿密な判断である。二人の解釈に従ふと、昭和天皇の歴史教科書『国史』に掲載の「皇祖神の系譜」は、父子相伝による直系継承の系譜として矛盾なく受けとめることが出来る。何故なら、オシホミミの尊の御誕生の際には、天照大神は、父神となる役割を果されたからである。また、『大日本史』の「天祖の胤、無窮に伝ふ」の意味も、これによって明らかになるのである。

   8.田中 卓氏の誤解

 「女系」を認める立場の田中 卓氏は、最近の著書の中で、以下のやうな主張を展開してゐる。

  「血統(世系)の上からは天照大神から始まるというのが皇室の所伝であり、天照大神が〝女神〟であることを思へば、皇統のそもそもの始まりは既に〝女系〟であったのだから、皇統といふものは女系であってもよいのだ」
(田中 卓著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』、幻冬舎新書、平成二十五年)。

 前記「六」節と「七」節で既に述べたやうに、アメノオシホミミの尊達は、天照大神が父種(物根、物実)を素戔嗚尊に提供することによって、素戔嗚尊の母口より成り出でられた御(み)子(こ)達である。従って、この御子達は、天照大神が〝男(を)神(がみ)〟の役割を果されて、その結果、お生まれになったものと看做せる。それ故に、天照大神が〝女神〟であられても、皇祖神の系譜は〝女系〟にはならないのである。

 『日本書紀』巻第一には、イザナギの尊が天照大神をお生みになる件が三箇所出てくる。まづ本文に、イザナミの尊とともに天照大神をお生みになる記述があり、第一の一(ある)書(ふみ)と第六の一書に、別の方法で天照大神をお生みになる記述がある。いづれの場合も、「生みまつる」、「生まむ」、「生める神」とそれぞれ表現されてゐて、天照大神がイザナギの尊のお生みになった子であることが一目瞭然となってゐる。従って、皇祖神の始祖はイザナギの尊なのである。ただ、イザナギの尊は神(かみ)世(よ)七(なな)代(よ)の最後に連なる神であり、かつ、神(かむ)功(こと)を了へられて途中で早々と御退場になるので、次の代の天照大神を以って、「世系第一」や「地神第一代」と表現することが多い。イザナギの尊は、さらに「古い」別の神群にも同時に属すといふ取り扱ひなのであらう。だが、昭和天皇の歴史教科書『国史』が示すやうに、皇祖神の系譜は、始祖イザナギの尊から始まるといふ認識の方が、『記』『紀』の叙述に忠実で、正当なのである。

 神代のことは神代の理屈で考へなければならないが、神代の叙述も「男系継承」の論理で貫かれてゐる。谷川士清と本居宣長は、それを示した。『大日本史』も、さう略述してゐる。田中 卓氏は、『記』『紀』の内容を正確に捉へずに誤解してゐると、筆者には思はれるのである。

(元新潟工科大学教授)

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   読書生活の始まり

 私は元々は読書を趣味にしてゐた訳ではないが、ある事がきっかけとなって、ここ数年は少しばかり本を読むやうになった。

 平成20年頃だったと思ふが、ある時ふとこんな事を考へた。「近頃、世の中が騒がしくなり、不愉快な事が多くなった。不作法で行儀の悪い人たちも目立つやうになって来た。近頃の人は、大正生れの両親や明治生れの祖父母の世代の人たちとは違ふやうだが、その違ひは何が原因なのだらうか?」。このやうな事を考へてゐたところ、明治生れ或いは大正生れの人たちと我々現代人との違ひとは、つまりは靖國神社に祀られてゐる英霊と我々との差違ではなからうかと云ふ事に気が付いた。これがきっかけとなって、靖國神社に参拝するやうになり、靖國会館内の偕行文庫にも通ふやうになった。

 偕行文庫で最初に閲覧したのは戦前の学校で使はれてゐた修身の教科書であったが、やがて国史・国語・国文・漢文などの教科書にも眼を向けるやうになった。靖國神社に祀られてゐる英霊がお使ひになったのと同じ教科書を読んで学んで行く内に、日本人の本来の姿が自分自身の中に蘇るのを覚えた。

 これは、靖國神社に祀られてゐる御魂の奇(くす)しき御導きとも言へるが、その御導きによって、その後の私の読書生活が始まるのである。その後、偶然とも言ひ切れぬ不思議な経験をしたので、いくつかを紹介しよう。

   〝軍神廣瀬中佐特輯号〟に出会ふ

 この本は明治37年4月18日に博文館から発行された『日露戦争実記』の〝軍神廣瀬中佐特輯号〟である。平成23年3月に自宅近くの古書店で購入したのだが、本をじっくりと調べてみて驚いた。

 この本の元の所有者は鎌倉大町の原道太さんと云ふ海軍大佐で、表紙裏に「兄の愛蔵品を収めた箱の底にあるのを大正15年3月24日に発見した」との覚書があった。廣瀬武夫海軍中佐が明治37年3月27日に第2回旅順口閉塞隊を率ゐて戦死されてから22年目の発見である。この発見の3日後は廣瀬中佐の23回忌に当るので、その前日の26日に東京海洋少年団の35名の健児を原大佐が引率して、万世橋駅前の廣瀬中佐の銅像を清掃する事になってゐた。

 その覚書には更に大佐の筆で「往時を追懐し感慨に堪へず」と書かれてゐた。まったくその通りであらう。廣瀬中佐の23回忌に当る年の同じ3月の、しかも大佐自らが率ゐる海洋少年団による廣瀬中佐の銅像の清掃日の直前に偶々発見されたのだから、偶然とは思へぬ不思議な因縁と云ふものを感じられたのであらう。

 この本には、銅像清掃の模様を伝へる新聞記事の切抜き多数と、廣瀬中佐の姉上の廣瀬春江さんが原大佐に宛てた礼状の封書、更にそれに加へて銅像前で撮影した春江さん・孫の武史さん・原大佐の写真が挟み込まれてゐた。そして廣瀬中佐の略歴と杉野孫七兵曹長の略歴とを記した海軍用箋七枚も挟み込まれてゐた。

 銅像の清掃は33回忌に当たる昭和11年にも行はれてをり、その時の新聞記事と春江さんの礼状の葉書も挟み込まれてゐた。

 原大佐が偶々この本を発見したのが廣瀬中佐の23回忌の直前であり、その85年後に私がこの本を古書店で入手したのも廣瀬中佐の御命日の直前のある日であった。私はこの事に単なる偶然ではない何か因縁めいたものを感じるのである。それは廣瀬中佐の御魂の御導きかも知れない。

 この本は、挟み込まれてゐた廣瀬春江さんの手紙・新聞記事・略歴書とともに靖國神社の遊就館に奉納した。私が個人で所有してゐるよりも、廣瀬中佐の御魂近くで永久に保存される方が良いと考へたからである。

   『神典』に出会ふ

 この本は昭和11年2月11日の紀元節に大倉精神文化研究所から発行された革表紙・三方金(さんぽうきん)の豪華な初版本である。記紀をはじめとする我が日本の思想の淵源を記した古典十点が一冊に収められてゐる。収録古典は、古事記・日本書紀・古語拾遺・宣命・令義解・律・延喜式・新撰姓氏録・風土記・万葉集である。全文が国文の読み下し文に改められてをり、しかも全ての漢字に仮名が振られてゐる驚くべき大著である。

 平成23年の2月11日(この日付は決して忘れない)に、自宅近くの古書店の未整理の箱の中にあるのを購入したものである。古事記・万葉集を読んだ事が無かったので、この本で読まうと思ったのである。

 この本の木口(こぐち)に塗られた金はまばゆいばかりに輝き、使はれてゐる紙は75年前のものとは思へぬ純白さを保った、まったくの未使用本であった。しかしそれ以上に驚いたのは、「閑院宮章」と云ふ一寸八分(54ミリ)角の立派な朱印が押されてゐた事である。閑院宮家と云へば四親王家の一つである。私は佐賀の百姓の九番目の子のそのまた三男坊である。身分が違ひ過ぎるのである。何故この本が私の手許に入って来たのであらうか?。

 私はその経緯を知らうとして、東横線の大倉山駅から登ったところに現在もある大倉精神文化研究所(横浜市港北区)を訪ねた。すると昭和11年2月の『神典』発行時に、三陛下(天皇陛下・皇后陛下・皇太后陛下)ならびに各宮家に献上された事を『大倉山論集』第53輯(平成19年3月発行)で知った。だが、私が入手した『神典』が閑院宮家に献上されたものかどうかは分らない。「閑院宮章」の朱印の上に「賞」の文字が墨書されてをり、当時、陸軍の参謀総長であられた閑院宮載仁(ことひと)親王殿下が、献上された『神典』とは別に何かの折にどなたかに下賜されたものかも知れない。

 しかし、今となってはそのやうな経緯はどうでもよくて、それ以上の関心事は、購入したのが発行日と同じ2月11日の紀元節(建国記念の日)であったと云ふ事である。これは単なる偶然なのであらうか?。私には神霊の御意思が働いたやうに思はれてならない。

   『殉難前草・後草』に出会ふ

 この本は慶應4年が明治元年に改まった年の夏に出版された歌集及び漢詩集である。ペリー来航の嘉永6年以降の国難の15年間に国事に斃れた憂国殉難の勤皇志士の詩歌を多数集めたものである。

 平成24年頃に鎌倉の古書店に『殉難後草』だけが一冊置かれてゐた。表紙がかなり傷んでをり、『殉難前草』が欠けてゐたので買はずに店を出た。ひと月程して再びその店を訪ねると、同じ場所に同じやうにしてまだあった。しかしその時にも他の本を買ったので、また買はずに店を出た。そして更にまたひと月程してその店に行くと、まだあった。まるで声の掛かるのを待ってゐるかのやうであった。三度目にして私はこの本を買った。自宅に持ち帰ると、まづ修繕のために糸を解いて紙の状態に戻し、複製を作るために何部か複写をした。

 この本には、伴林(ともばやし)光平(みつひら)・真木(まき)保臣(やすおみ)・久坂玄瑞・平野国臣・周布(すふ)政之助・武田耕雲斎などの76名の殉難勤皇志士の詩歌が収められてゐたので、他の人にも読んで貰はうと思ひ、飜刻本を作って複製本と組にして幾人かに配った。その評判が良かったので、多分あるであらう『殉難前草』の方を探してみた。なかなか見付からなかったが、偶々訪れた名古屋の古書店でやうやく見付けて買ひ求め、こちらも同様に複製本と飜刻本とを作った。ちなみに、この『殉難前草』には、吉田松陰・梅田雲濱(うんぴん)・橋本左内・有村次左衛門・有馬新七・来島(きじま)又兵衛などの77名の詩歌が収められてゐる。

 古書の複製本、或いは飜刻本を作って配り始めたのはこれが最初である。良いと思った古書の私蔵が死蔵になってはならぬと思ったからである。それが今の人たちにとって読み難いものであるならば、飜刻本を作ってでも読んで貰はうと考へた。しかし、そのやうな事は以前から行はれてをり、現に本居宣長翁の著作はすべて飜刻されて、筑摩書房の全集になってゐる。だが、それらは研究者か一部の愛好家の為の如くになってゐて、一般にはあまり広まってはゐない。

 今の世にあって、戦前、或いはそれ以前の書籍、特に国学・国史・国文・和歌・国体論などに関心を向ける人は極めて少数派であると思ふ。日本人が日本人であり続ける為には、かうした方面の書籍にも眼を向けるべきである。かういふ事に気付いたのは、鎌倉の古書店で3ヶ月も待ち続けてゐてくれた一冊の『殉難後草』の御蔭である。

 幕末の殉難勤皇志士の御魂が今の日本をご覧になって、本来の日本の精神を蘇らせようとして、不肖の身である私の手を動かさうとなされたのであらう。この殉難勤皇志士の御遺志に報いぬ訳には行かぬ。

   古書を読み、広める事の意味

 御魂の御働き、或いは神慮とも思へるかうした古書との出会ひを通して、古書を読む事の意味は、単に知識を得る事に止まらず、先人の智慧を受け継ぎ、将来に伝へて行く事だと思ふやうになった。先人の智慧とは大和魂の事であり、それは先人の残した精神文化遺産とも云ふべき古書に籠められてゐる。その古書が発する気を察して、手に取り読む事によって、先人の魂との「対話」は初めてかなひ、先人の智慧を我が精神に取り込む事ができると思ふ。

 古書に籠められた先人の智慧を今の世に広めて行く事が、文化・伝統・歴史の断絶しかかってゐる現在の日本に必要な事であり、更には将来にわたって日本が栄えて行く為に必要な事だと信ずるのである。

(元富士通(株))

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 9月23日(祝)午後、日本学生協会・精神科学研究所・国民文化研究会の道統に連なる師友のみ霊をお祀りする恒例の慰霊祭が、東京・飯田橋の東京大神宮にて斎行された。

 祭儀には、御遺族を初め関東近県や長野県や愛知県、福岡県からの会員に加へて、今年の御殿場での第60回合宿教室参加の学生ら43名が参列。御神前に合宿が終了したことを奉告し、併せてみ霊の変らざる御加護を祈念申し上げた。

 今年の慰霊祭には亀井孝之命、桑木崇秀命、坂東一男命の三柱が合祀された。献詠歌168首の内、紙面の都合で、その一部を左に掲げる。

   献詠(抄)

御遺族

       (青砥宏一命御令息)松江市 青砥誠一
   くだちゆく世をみそなはし御霊たち国の行く手を見守り給へ

       (島田好衛命御女婿)府中市 青山直幸
   坂東一男大人(うし)の御逝去を悼みて
心萎え臆する我を叱咤するごとく響けり大人の言葉は

       (小田村寅二郎命御令弟)東京都 小田村四郎
終戦の大御言葉を仰ぎしゆはや七十年となりにけるかも
國うちの総力を挙げて戦ひしみ民の心を忘れて思へや

       (桑木崇秀命御令室)東京都 桑木悦子
ほほ笑みし君の笑顔を思ひつつ靖國のみやに今日もまゐらん

       (近藤正人命御令弟)東京都 近藤正二
神州不滅と雄々しく唱ひみんなみ(比国)に草むす屍(かばね)と果てし君はも

       (宮脇昌三命御令息)さいたま市 宮脇新太郎
   国文研の六十周年を祝ひて
大人(うし)等(ら)数多(あまた)残せし書籍(ふみ)尊くも国の命を語らふごとく

       (山内恭子命御夫君)横浜市 山内健生
   亀井孝之先輩
若き日に先輩(とも)編みましし「詔勅集」手に取り見ればみ姿浮ぶ
   東京医薬専門学校長・桑木崇秀先生
学生に「日本」を知るべしと説きたまふ熱きみ言葉よみがへりくる

会員

       山根清兄  福岡市 安倍博之
天翔ける友の御霊の雄々しくも日の本守りつづけゆくらむ

       神戸市 天本和馬
若き日に教へを受けし師の君のみ姿今もまぶたにうかぶ

       奈良市 安納俊紘
終戦の日より数へて七十年み國のくにがら護り生きなむ

       奈良県 生駒 聰
明日香路を小田村先生案内せし三十(みそ)余年前(よとせまへ)の日のよみがへる

       横浜市 池松伸典
みたままつり近づきくれば亡き友の姿時折浮び来にけり

       六十周年出版編集  府中市 磯貝保博
国柄を伝ふる文のあまた載(の)る書(ふみ)を読みたき若き友らと

       亀井孝之大兄  東京都 伊藤哲朗
天皇(すめろぎ )のお側に仕ふる衛士(ゑじ)としての誇り語られし姿忘れじ

       神奈川県 稲津利比古
さよふけてかそけき虫の音に聞き入れば亡き師亡き友偲ばるるかな

       さいたま市 井原 稔
学ぶほど己に足らぬもの見えて求むる道のいよよはるけし

       清瀬市 今林賢郁
年毎の集ひを重ね重ね来て六十年(むそとせ)経ちぬこの夏迎へて

       福島宏之先輩  横浜市 今村宏明
懐かしき合宿の夜に先輩と涙で歌ひし荒城の月

       小田原市 岩越豊雄
打ち寄する波音聞きつつこの海のはたてに逝きし人らを思ふ

       脇山良雄先生  長崎市 内田英賢
穏やかな風貌なれど発します師の御言葉は雷と響きし

       宇部市 内田巌彦
師や友の数多(あまた)いまして賑しき集ひの夜の今懐かしき

       坂東一男先輩  千葉県 内海勝彦
朗らかに太き声にて話さるる大人のみ姿偲びてやまず

       川井修治先生没後十六年を過ぎ  鹿児島市 江口正弘
師を囲む宴(うたげ)の席の数々も遠き昔となりにける早や

       亀井孝之命  守谷市 大岡 弘
皇胤の無窮なること祈りつつ逝きたまひける先輩(とも)の文はも

       町田市 大島啓子
先頭に立ちて来給ふ小田村(寅二郎)大人の白き半袖のみ姿忘れじ
学びの道は一世(ひとよ)貫く道なりと深く身に沁みし彼の日忘れじ

       札幌市 大町憲朗
緑葉に黄葉の混じれる並木路を歩めば浮ぶ師友の御顔

       川越市 奥冨修一
木犀のほのかに香る一枝(ひとえだ)を祭りの場(には)に捧げたきかな

       川内市 小田正三
在りし日の人の面影懐かしく思ひ出さるる秋の夕日に

       西条市 越智敏雄
すめくににふさはしき憲法(のり)を打ち立てる国民運動守らせたまへ

       宮若市 小野吉宣
皇后陛下(きさいのみや)の詠み給ふごと戦死者は「御靈」となられ「国守り」ます

       熊本県 折田豊生
薄氷を踏みゆくごときまつりごと国のいのちを守らせ給へ

       東京都 加来至誠
川の辺に鳴く虫の音をききをれば果てにしみおやのみたましのばゆ

       福岡市 鎹 信弘
国の総理(をさ)に人を得たれば変りゆく兆し見ゆるを喜びまさむ

       東京都 梶村 昇
大人らみな土に帰りぬわれもまた近く往かむと野川歩めり

       国立市 金子光彦
つたなかる我を導きし大人(うし)たちの御魂祭りの日は近づきぬ

       定年退官  東京都 神谷正一
四十年(よそとせ)になんなんとせし国護る任を解かるる今日を迎へり
はや逝きし先輩(とも)に思ひをいたしつつ後のあゆみに思ひめぐらす

       横浜市 椛島有三
先人の御魂の声に耳澄ましこの難局を進みゆきたし

       坂東一男君を悼む  千葉市 上村和男
蟋蟀の鳴く音も寂し君逝きて深み行く秋の夕べに聞けば
       亀井孝之君を悼む
大君につかへまつらむと君誓ひ生きつらぬきし一生(ひとよ)たふとき

       小矢部市 岸本 弘
みいくさに敗れし日より七十年先つ帝(みかど)をしのびてやまず

       さいたま市 北崎伸一
今日を生き明日(あす)たのまじと思ふ身につるべ落しの秋の夕暮

       横浜市 北浜 道
我が生きる道をば示し給ひたる師友を静かに偲びまつらむ

       延岡市 北林幹雄
師の君のみことば偲び国がらを現す憲法(のり)を定めゆきたし

       富山市 北本 宏
レイテ沖ミッドウェーの敗戦の元をたどれば「科挙」軍人(いくさびと)

       筑紫野市 楠田幹人
先達の思ひ刻みてこれからの余生を如何に生きてゆきなむ

       椛島雅子さんと憲法カフェを開きて  藤沢市 工藤千代子
心知る友らと共に大人偲び憲法(のり)改むる集ひ開きぬ

       久留米市 合原俊光
皇国(すめぐに)のいのち蘇る日を期してつとめます友ら偲びつつ生く

       鹿児島市 小原芳久
怠りのことのみ多き我なれどみ教へ守り生きてゆきなむ

       福岡市 小柳左門
若き日に胸うたれたるみ言葉に導かれつつ生きゆくかしこさ

       東京都 小柳志乃夫
中国の脅威見えずや安保体制を戦争法案と騒ぐ人らは
みいのちを捧げ祖国をまもられしみおやの心忘れて思へや

       北本市 最知浩一
いつしかに涼しくなりてさ庭辺の虫の音しげく聞ゆるこのごろ

       白井傳先生  川崎市 佐瀬竜哉
磨かれし軍靴かかげて国守る決意示されし雄叫び忘れじ

       坂東一男先輩  東京都 澤部和道
いと太き声にて萬歳三唱を叫び給ひしみ姿浮ぶ(皇居新年参賀にて)

       亀井孝之兄  柏市 澤部壽孫
天皇(すめろぎ)のお側にありて衛士(ゑじ)として尽せし君を忘れかねつも
       桑木崇秀先生
「澤部通信(すりぶみ)」に「いのち」の御歌を寄せ給ひ十六年経つ夢のごとくに
       坂東一男先輩
五十年(いそとせ)の長き歳(としつき)月先輩の背中を慕ひ生き来し我は

       小田原市 柴田悌輔
師と友の在りましし日を偲びつつみたままつりを遠くをろがむ

       松吉基順(もとのぶ)先生  東京都 島津正數
国旗(みはた)揚ぐる作法は斯くと諭し給ふ師の御言葉は今も忘れず

       取手市 白石 肇
若き日に御教へ受けし先達の御霊安かれと祈る今日はも

       川崎市 末永 直
国のため誠尽して生きませし祖先(みおや)の道を践みて生きなむ

       亀井孝之先輩  由利本荘市 須田清文
あたたかきまなざし常に変りなく注ぎたまひし先輩(とも)を忘れじ

       下関市 寶邉正久
みたまたちと生ける友らと相集ふみまつりのには懐かしきかな

       霧島市 七夕照正
合宿に共に学びし今は亡き友の御声(みこゑ)の聞ゆる心地す

       富山市 戸田一郎
日の本に正しき道を広めむと尽したまひし御霊安かれ

       黒上正一郎先生のお墓に詣で  川崎市 冨永晃行
師の君と祖父との交り思ひつつ我が志を果さむと思ふ

       佐世保市 朝永清之
先逝きし師友の面影浮び来て寂しさつのる靈まつるころ

       佐久市 中澤榮二
自(みづか)らの領土を守る憲法に改正すべし時待たずして

       八王子市 中村祐和
同信の生活(くらし)をしたる高校(旧制松江高校)の今は亡き友を偲びまつりぬ

       東京都 難波江紀子
かくばかりみにくきことの多かればただ祈らるる国の行く末

       小林國男先生  長崎市 橋本公明
亡き友(高瀬伸一さん)の遺せし歌を朗々と歌ひ給ひし御姿浮ぶ

       岡山市 波多洋治
言はれなき戦争起す法案とレッテル張りて本質を見ず(安保法制審議)
かくまでも国民(くに たみ)の思ひ毒されしげに恐ろしき戦後教育

       福田忠之先生  秦野市 原川猛雄
あひよりて太子のみ文(法華経)を心寄せ共に学びし日々の偲ばゆ
       大日方学兄
若きより教への壇(には)に立ちませど病ひ襲ひぬ道半ばにて

       東京都 東中野修道
国のため斃(たふ)れし人のみ魂まつる国のあるべき姿待たるる

       柏市 日高廣人
今は亡き先達の聲ありありと耳にこだます「道を守れ」と

       鳥栖市 平尾文洋
外国(とつくに)の脅威迫れど国民は平和惚けにて目の覚めぬまま

       御殿場合宿にて  福岡市 藤新成信
日頃より太子の御本学び合ふ友らも見えてうれしかりけり

       山根清君  横須賀市 古川 修
硫黄島の慰霊について心こめ語りしおもかげ今もうつつに

       南アルプス市 前田秀一郎
懇ろに教へ給ひし師や友に導かれ来ぬこの幾年を

       北九州市 松田 隆
敷島の道を学びて我れ生きむ祖先(みおや)ら遺せし歌にふれつつ

       横浜市 松岡篤志
荒潮の海原に立つ日の本の憲法(のり)改(あらた)むる業(わざ)に励まむ

       倉敷市 三宅将之
安全をいかに守るかよそにして違憲議論ばかりの国会
国会の議論畢竟効なしと民衆煽ってデモ打つ野党

       大阪市 薬丸保樹
水害に遭ひたる人を事も無く救ひ出しけり自衛隊機(ヘリコプター)は

       亀井孝之さん  福岡市 山口秀範
天皇(すめろぎ)の御楯と励みし年月は君の一世の誇りなるべし
       桑木崇秀さん
敗戦の後遺症より若きらを目覚めさせむと筆執りましぬ

       坂東一男先輩  八千代市 山本博資
なりはひにひたすらつとめみまかりしますらをのこを偲び止まずも

       熊本市 渡辺五十二
空(くう)に生く先達の夢追ひ求めいつしか我れも古稀となりしか

学生

       國學院大學3年 横川 翔
亡き人を忘れざらむと集ひますみまつりの庭かしこかりけり

       黒上正一郎先生の御著書  日本大学3年 名和長高
幾たびも読み継がれたる書を我も友と開きて共に学ばむ

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 本書の特色は、神武天皇から明治天皇の初年までの事蹟が皇紀で綴られてゐることである。〝はしがき〟冒頭の「我が国の歴史書は学校の教科書を含め、全て天皇抜きである。天皇について書かれるとしたら、天智天皇の大化の改新、後醍醐天皇の南北朝くらいである。それも関係者の一人という位置づけで書かれる」といふ一節を読んで、何と大袈裟な、「全て天皇抜き」といふのは不正確だと難癖をつける向きがあるかも知れないが、しかしさう言ひたくなるほど、こと教科書に関しては実質的に「天皇抜きで」記述されてゐると言っても過言ではない。

 大阪の法律事務所で顧問を務める著者(昭和40年東大法学部卒)の現状への憂ひは深く、続けて「日本は世界で断トツに一番古い国である。しかし、世界に200余りある国で、子供に建国を教えない国は日本だけである。一番古い国ということは一番良い国ということを意味する。悪い国は途中で潰れて長続きはしない。今の主要国を見れば歴然としている。/ところが…」と記す。

 なぜ皇紀で綴ったかについては、「国の歴史においても、歳を数えるのは建国から何年とするのが当然のこと、日本では皇紀ということになる。今では知る人も少ないが、これが日本国の正式な年齢である。従って本書では全て皇紀を使用し、その時々の天皇がお決めになった年号を記し、参考のためにキリスト暦を括弧書きで添えた」と説く。

 かうした文面に、私などはある種の「新鮮さ」を覚えるが、それは現状が本来のあり方を見失ってゐるからだと言ふほかはない。どこの国でも伝統を正しく子弟に伝へて立派な後継国民に育てようと努めてゐるのに、わが国の公教育の焦点は一向に定まらない。近年、必修化した「小学校英語」などその典型であらう。

 筆者は「天皇とともに天皇の祈りの中で生きてきた日本人の歴史を書いたものである。学術書ではなく、天皇を中心とした日本の歴史を簡単に辿ってみた通史である」としてゐる。巻末の25頁にも及ぶ索引も有難く、どの頁からも著者の思ひが感じられる好著である。
(山内健生)

 

国民文化研究会60周年記念の集ひ

 時・11月7日(土)午後1時~6時
 所・ホテルグランドアーク半蔵門
 (参加費1万円)

○記念式典
 ◇記念講演  竹本忠雄先生
        小堀桂一郎先生
○ 祝賀会

 

訂正  謹んで訂正いたします

9月号7頁「合宿詠草抄」欄の「嶋田元子さんのお歌」に校正ミスがありました。左のやうに訂正いたします。
ひのき道を歩みて行けば茅葺きの宮様のお住居(すまひ)目に入(はい)りくる

 

編集後記

 慰霊祭の日の夜、NHKニュースは安保法制に猶も反対する作家の「第9条で平和が守られてきた」との声を流した。前日には「第9条があるので世界から尊敬されてゐる」との高校生の声を流した。報道に値ひするのか。尖閣・拉致に思ひが及ばないのか。
(山内)

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