国民同胞巻頭言

第646号

執筆者 題名
理事長 今林賢郁 「安保法制」論議に思ふ
- 「武」なき「平和」は絵空事である -
大岡 弘 再考・「皇祖神の系譜」(上)
- 国史の認識に不可欠な神代紀 -
資料 新しい歴史教科書をつくる会「FAX通信」第367号(7月9日)
世界遺産登録でのユネスコ大使の声明は「第二の河野談話」
- 政府は直ちに大使発言を撤回し、将来の禍根の根を絶て! -
小柳 雄平 明治大学教授 福田先生の御講演(国民文化講座)
「父、福田恆存を語る」をお聞きして
- 戦後思想の中にあって -
書籍紹介

 初代神武天皇の「神武東征」の物語は、『古事記』によれば、神武天皇が兄君五瀬命(いつせのみこと)とご相談になり、「いづれの地(ところ)にまさば、天(あめ)の下の政(まつりごと)を平(たい)らけく聞(きこ)しめさむ。なほ東(ひむかし)のかたに行かむ」と語られる一節からはじまる。神武天皇は兄君五瀬命とともに日向(宮崎県)を出発、大和の地へ向って進軍を開始されるが、大和平定への道のりは平坦ではなかった。進軍を妨げる幾多の勢力に立ち向ひながら、人心を惑はす「荒ぶる神ども」には「言(こと)向(む)け和(やは)し」─ことばで説諭する一方、「伏(まつろ)はぬ人ども」に対しては、「撃(う)ちてし止(や)まむ」撃って撃って撃滅させるぞ、と裂帛(れっぱく)の戦闘意思を示される。説諭と撃滅、文と武、かうした苦難と苦闘を重ねた後に、橿原の宮において天下を治められるのだが、ここから浮びあがる神武天皇の印象は「文」よりも「武」、強い武人そのものである。国内の騒擾(そうじょう)を鎮め、平和と秩序が担保されてはじめて民の安穏は確保される。その妨げになるものには躊躇なく武力を発動する。上代の父祖たちは、大和の国をはじめられた神武天皇に、そのやうな、断固たる武の姿を仰ぎ見たのではなからうか。国の統一と民の生活の安定のために武力は不可欠であった。

 明治維新は「神武創業の始(はじめ)」(慶応3年12月9日「王政復古の大号令」)に戻ることからはじまった。始に還(かへ)ることがそのまま維新(これあらた)であり、再生である、との確信がここには込められてゐる。幕末、西洋列強は市場と資源を求めて次々とアジアを植民化し日本にも危機は迫ってゐた。独立のためには富国と強兵が急がれなければならない。この国策を進めるために指導者たちは明治天皇に武人・神武天皇の再来を期待し、また天皇ご自身もそのやうにあらねばならぬ、と決意されたのではあるまいか。

 かうして、明治天皇に率ゐられて近代国民国家への道程を邁進していく中で、わが国は日清戦争(明治27~8年)と日露戦争(明治37~8年)の二つの大戦に遭遇した。当時「眠れる獅子」と怖れられた清国に戦ひを挑み、また「世界最強の陸軍国」と云はれた大国ロシアとも戦った。国民はこの両戦役を、文武の大権を総覧された明治天皇の下で戦ひ抜いたが、明治の先人たちにとって、国の危機は他人事ではなく、自分たちの生活に直結する切実な大事であったに違ひない。この自覚に支へられた義務と責任の感覚が生み出す緊張感こそ、両大戦を勝利に導いた大きな力のひとつであったと云っても過言ではあるまい。

 現在国会では安全保障関連法案が審議されてゐるが、野党や一部メディアは、尖閣諸島領海に連日、中国公船が出没してゐる現実には目を塞いで、この法案を「戦争法案」と呼び、「徴兵制につながる」と煽(あふ)り、「日本が戦争をする国になる」とも云ふ。そして歯止め、歯止めと云ひつのる。こんな自国不信者には先づ己の口を歯止めせよ、と云ひたくもなるのだが、それにしても、このやうな議論を聞いてゐると、われわれはこの戦後、平時にあって有事に備へる心の用意と覚悟をいかに怠ってきたことかと痛感させられる。

 平時にあって「文」は限りなく肥大化する一方で、「武」はその分だけやせ細り、文によって唯々武は悪であり、唾棄すべきものとされる。だが、文はそのなかに武を含むことで軟弱を免れ、武の硬直は文の力で正される。このやうに考へれば、平和は武の裏打ちによってはじめて実体を伴った価値となり、それがなくなれば、平和主義は所詮絵空事の理念に堕すること位は弁(わきま)へたいものである。

 今われわれに必要とされるのは、文武相互の緊張した関連を一体として捉へ直す精神の強靭さであらう。文武は切断されてはならない。「日本人の命と平和な暮しを守るため、あらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行う」(安倍首相)ために、われわれは今一度「武」の意思を取り戻さなければならない。「神武創業の始」の気概よ甦れ、と思ふ所以である。

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 皇位継承問題を論じる場合、「神話伝承と歴史を混同してはならない」と語られることがある。筆者もさう思ひ、「人ノ代」における歴史事実の積み重ねの方を重視し、神代の叙述には、上古の人々の思想が反映されてゐるとはいへ、歴史事実と同等には扱へないと思ふことがある。しかし同時に、人心に及ぼす影響の点では、古来絶えることなく続いて来た日本民族の神々への直接信仰の方が、「人ノ代」の経験のみに基づく人智よりも重きをなす場合が実はしばしばある、とも思ふ。以下では、皇位継承問題を考へる上でも大切と思はれる、「皇祖神の系譜」について論じたい。

 皇統第一代の神(じん)武(む)天皇から数へて第125代の今上陛下は、男系のみで継承されてきた万世一系たる「神武王朝」の正統な御子孫であられる。そればかりではなく、さらに古い「神代」においても、神武天皇の御祖先神達は、始祖イザナギの神から発する男系継承の御子孫方でもあられる。このことを論ずるに当り、本稿では、その要点となる江戸時代の国学者・本居宣長と谷(たに)川(かは)士(こと)清(すが)の見解をそれぞれ紹介し、記紀の誓(うけ)ひ・詔(のり)別(わけ)の段(くだり)において、女(め)神(がみ)であるアマテラス大(おほみ)神(かみ)が「男(を)神(がみ)の役割」を担はれて、その結果、アメノオシホミミの尊

   1.小林秀雄氏の天武天皇観

 小林秀雄氏の講義録『学生との対話』(国民文化研究会・新潮社編、平成26年)に、次の、氏の簡潔な言葉が載ってゐる。

 「『古事記』は、まず天武(てんむ)天皇が考えて、その天皇の遺志を継いで後世になってできた書物です。天武天皇の志は、天皇がなぜ権威を持って日本を治めているのか、それは天皇が神から発した子孫だという言い伝えがあるからだと書き表したかったのです」。

 御著書『本居宣長』(新潮社、昭和52年)では、氏は次のやうに書いてゐる。

 「(天武)天皇は、この機会に、国家の統治者として、又これと離せなかった氏族宗教の司祭として、皇室の神聖な系譜とこれを廻る諸家の、その氏神にまで遡る出自の物語を、改めて制定し、その権威の確認を求めた。国民の側に、これを疑はしく思ふ理由が存しなかったのは、物語の経緯をなすものが、先づ大体、自分等に親しい古伝承の上に立つものだったからであらう」。

 小林氏は、「天皇が神から発した子孫だといふ言ひ伝へ」、すなはち、「皇室の神聖な系譜」こそが、現実の「天皇統治」の権威の源泉であって、その確認のために、天武天皇は、『古事記』、『日本書紀』の編纂開始を指示されたのだと解される。これは一つの見解であるが、筆者には、重要な指摘と思はれる。

   2.詔書渙(かん)発(ぱつ)にひそむ御英断

 昨年、『昭和天皇実録』が公開された。『文藝春秋』では、早速、半藤一利氏らの鼎談が企画された。そこでは、昭和21年元旦に渙発された詔書の起草をめぐる『実録』記事を、話題の一つに採り上げてゐる(平成26年11月号)。その『実録』の部分を、以下に紹介する。

《昭和20年12月27日の記事》
「(昭和天皇は、)詔書案中に五箇条の御誓文の趣旨を挿入するよう御希望になる。なお天皇は、後(ご)水(みづの)尾(を)天皇が御病気治療のため譲位されたことに触れ、天皇が現(あら)人(ひと)神(がみ)とされていた時代は非常に不自由なりし旨を述べられる」。

《昭和20年12月29日の記事》
(引用者注・この日政府詔書案に修正を加へたGHQ修正案が届いた。その中でGHQは「天皇を以って神の裔(すゑ)なりとするのは架空なる観念である」と書き換へてゐた。昭和天皇は、これに対して)
「朕が神の裔でないとすることには反対である」。
(引用者注・と御意見を述べられた。結局この部分は、3日後に渙発された詔書では触れられてゐない。)

 25年前に上梓された木下道雄著『側近日誌』(文藝春秋、平成2年)には、昭和20年12月29日の条に詳しい関連記事が載ってゐる。当時侍従次長だった木下氏は、詔書案について相談するため、前田文相、次いで吉田外相とそれぞれ面談した。氏が詔書案中最も気に入らなかったことは、次の一事である。

 「(朕と我国民との間の紐帯は、)日本人を以て(木下注・これをMac自身はEmperorと書き改めた)神の裔なりとし他の民族に優越し世界を支配すべき運命を有すとの屡々(しばしば)日本人の責に帰せしめられたる (木下注・これは学習院ブライスの原文に首相が加入せる文句)架空なる観念に依り説明せらるるものにも非ず、と云う所である。日本人が神の裔なることを架空と云うは未だ許すべきも、Emperorを神の裔とすることを架空とすることは断じて許し難い。そこで予はむしろ進んで天皇を現(あきつ)御(み)神(かみ)とする事を架空なる事に改めようと思った。陛下も此の点は御賛成である。神の裔にあらずと云う事には御反対である。

 よって、予は改めて考え直し、左の文を作った」。

 昭和20年の年末は、12月15日にいはゆる「神道指令」が発出され、我が国の文化伝統に対し、GHQの本格的な破壊工作が開始された時期であった。昭和天皇はその渦中にあられて、木下侍従次長とともに、「天皇は現人神ではない」とすることには賛成されたが、「天皇は神の裔ではない」とすることには反対され、その御姿勢を貫かれたのである。

 今日の時点で昭和天皇の御治績を振り返る時、この事実を再確認することは極めて重要なことと思はれる。何故なら、「天皇は神の裔にあらず」と公式に認めたとなれば、そのことは、昭和天皇ばかりでなく、各時代の天皇方がこれまで御斎行になってこられた重要な祭祀、大嘗祭(だいじょうさい)や新嘗祭(にいなめさい)、神嘗祭(かんなめさい)や神宮祭祀までもが、歴代天皇方にとって「祖先祭祀」ではなくなるとともに、今後の天皇方にとっても、それらは、「祖先祭祀」ではないことになってしまふ。もしこれが実現してゐたら、我が国の民族信仰にとって計り知れない打撃となってゐたはずである。元旦詔書の渙発を強要された昭和天皇が、その時下されたこの御英断は、五箇條の御誓文を詔書冒頭に掲げられた御英断とともに、特筆されるべきことと思ふ。

   3.昭和天皇の「皇祖神の系譜」御認識の拝察

 それでは、昭和天皇は、皇室の御祖先神の系譜(皇祖神の系譜)をどのやうに認識してをられたのであらうか。二つの資料のみによる管見となるが、以下に私見を述べる。

 参考になる資料の一つは、昭和天皇が使はれた歴史の教科書『国史』(全五冊)の記述である。この『国史』は、当時、東宮御(お)学問所御用掛であった白鳥庫吉(しらとりくらきち)教務主任(学習院教授、東京帝大教授を歴任)の手になるもので、その目次は、「第一章 総説」に始まり、「第2章 神代」、「第3章 神武天皇」、「第4章 崇神(すじん)天皇及び垂仁(すいにん)天皇」と続いてゐる(『昭和天皇の教科書 日本歴史(上)』、勉誠出版、平成12年)。

 この「第2章 神代」の最後の箇所に、皇祖神の系譜が掲げられてゐる。神名の「正漢字」表記をカタカナ表記で示すと、それは以下のやうになる。

イザナギの神(イザナミの神も並列記載)―アマテラス大(おほみ)神(かみ)―アメノオシホミミの命―ニニギの命―ホホデミの命―ウガヤフキアヘズの命―ワカミケヌの命(神武天皇)

 いま一つの資料は、井(ゐ)原(はら)頼(より)明(あき)著『増補皇室事典』(冨山房、昭和十七年)である。この中に、「神代の大統」といふものが勅裁を経て大統譜の首部に登録されてゐることが記述されてゐる。しかし、その具体的記述は見当らない。ただし、別に「神代御略系」といふものが示されてゐて、しかも「凡例(はんれい)」には、この「神代御略系」については、宮内省図(づ)書(しょ)寮(りょう)並びに同諸陵寮を煩はしてその正確を期したと特記されてゐる。「神代御略系」は、始祖イザナギの尊、イザナミの尊から始まる。そして、次の代の天照(あまてらす)大(おほみ)神(かみ)とそれ以降の系統は、表記の漢字に差異はあるものの、前掲『国史』の系譜と同一である。従って昭和天皇は、「皇室の御祖先神の系譜」として、『国史』に記述された内容を受け容れてをられた可能性が高いと判断される。天照大神の弟神である素(す)戔(さの)嗚(をの)尊(みこと)の系統は、皇祖神の系譜とは別系統である。

   4.『大日本史(だいにほんし)』本紀(ほんぎ)の巻頭文

 『大日本史』本紀は、皇統第一代・神武天皇の御治績の記述から始まる。しかし、その冒頭部においては、神武天皇の御祖先神の天照大神から説き起こし、神々の系譜を略述した後、この神代の部分を格調高き一文で締めくくってゐる。その大要は、以下の通りである。

 「神武天皇は諱(いみな)彦火火出見(ひこほほでみ)、小(をさな)名(な)は狭(さ)野(ぬ)。天祖大(おほ)ひるめの尊(みこと)、高天原(たかまのはら)を治めたまふ。是を天(あま)照(てらす)大神(おほみかみ)と為す。天照大神の子正(まさ)哉(か)吾(あ)勝(かつ)勝(かち)速(はや)日(び)天(あまの)忍(おし)穂(ほ)耳(みみの)尊(みこと)、高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)の女(むすめ)栲(たく)幡(はた)千千(ちち)姫(ひめ)を娶(めと)りて、天(あま)津(つ)彦彦(ひこ)火(ほの)瓊瓊(に)杵(ぎの)尊(みこと)を生みたまふ。(中略、この間、三種の神器、天壌無窮の神勅、天孫降臨、日向(ひゅうが)三代等の記述あり)瓊瓊杵尊より下、葺(ふき)不合(あへずの)尊(みこと)に至るまで、世世相襲(つ)ぎ、天津日高(あまつひこ)の号あり。後世之を尊びて亦(また)皆天祖と称す。天祖の胤、無窮に伝ふ。故に騰(とう)極(きょく)は之を日(ひ)嗣(つぎ)と謂ふ。上(じょう)世(せい)の事は年代悠遠、神異測られず。総て之を称して神(かみ)代(よ)と曰ふと云ふ」(建国記念事業協会・彰考舎編『訳注大日本史一、本紀』、彰考舎、昭和18年第3版)。

 『大日本史』の記述では、天忍穂耳尊を「天祖天照大神の子」と認識してゐる。また、瓊瓊杵尊より葺不合尊までの日向(ひゅうが)三代を、「天祖」と称してゐる。従って、天照大神―天忍穂耳尊―瓊瓊杵尊―彦(ひこ)火火(ほ ほ)出(で)見(みの)尊(みこと)―葺不合尊の五世代・五(いつ)柱(はしら)の神々を、総て「天祖」と称してゐることになる。「天祖」は、「皇祖」に置き換へてもよい言葉と思はれる。

 次いで、騰極(登極)、すなはち、天皇の御即位は、直接的には皇位の継承を意味するが、同時に、「天祖の胤」を窮まりなく伝へる意味も有すとする。すなはち、『大日本史』が述べる神統初代の天照大神、すなはち、「日の神」の、その「胤」の継承でもあるが故に、皇位の継承を「日嗣」と言ふ、としてゐる。そして、「人ノ代」の皇統初代神武天皇より以前を「神代」と総称して、明快に「人ノ代」と区分けしてゐる。

 神武天皇から遡ること天忍穂耳尊までの世々は、「人ノ代」の人智を越えた霊妙なる神代の世界ではあるが、これに「人ノ代」の理屈を当てはめて、あへて「胤の継承」について検討してみると、この範囲におけるそれら神統の継承は、明らかに総て「男系男子の血統による父子継承」と看(み)做(な)せる。しかし、その一代前、世(せい)系(けい)第一(『皇統譜』に記載といふ)とも地神(ちじん)第一代(『神皇正統記』)とも称される天照大神と、その御子(みこ)であられる天忍穂耳尊の間の「胤の継承」となると、これを、一体、どう解釈したらよいのか。『大日本史』は、これを「天照大神の子」とだけ簡潔に表現してゐる。『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』等を参考にしたことが割(わり)注(ちゅう)から読みとれるが、納得するに足る先学の十全な学問成果があったからであらう。その先学の一人が谷(たに)川(かは)士清(ことすが)であり、いま一人が本居宣長ではなかったかと、筆者には思はれる。

   5.神武紀への神代紀の付加

 谷川士清と本居宣長は、江戸中期にそれぞれ伊勢の国に生れた。約20歳年上の士清は、宝暦(ほうれき)12年(1762)に、『日本書紀』の注釈書『日本書紀通証(つうしょう)』35巻の大著を刊行した。一方、宣長は、寛政(かんせい)10年(1798)に、『古事記』の注釈書『古事記伝』44巻の大著を書き上げた。二人は、ともに医を業としてゐた。交際が深まるにつれ、参考書を互ひに貸与、融通し合ふ親密な仲になったといふ(谷川士清先生事跡表彰会編『谷川士清先生伝』、大日本図書、明治44年)。

 さて、『大日本史』は、明暦(めいれき)3年(1657)、徳川光圀(みつくに)の命により編纂が開始されたものだが、文化(ぶんか)7年(1810)に、初の版本26巻が、第七代水戸藩主・徳川治紀(はるとし)より朝廷に献上された。それに先立つ七年前の享和(きょうわ)3年(1803)には、特筆すべきことが行はれてゐる。

 「神武帝紀首、天祖世系を加書、及びその他紀事の間、本書(『日本書紀』のこと)に従ふ等の事数条を請ひ、上公之を可とす」(岡崎正忠『修史復古紀略』)。

 すなはち、『大日本史』神武紀の首部に、前述した天祖世系と神器神勅のことが書き加へられたのである。

 これについては、三木正太郎氏の論文「大日本史と国学者」がある。

 その中で三木氏は、谷川士清が、安永(あんえい)3年(1774)に既に藤堂家所蔵の『大日本史』紀伝に眼を通し、
「もし神代紀を除外してしまへば、無窮の皇統をはじめとして各氏の出自を知ることができず、国体の本源が明確にされない」(『読大日本史私記』)と批判してゐること、また、本居宣長も寛政5年(1793)に書き始めた『玉勝間(たまかつま)』の中で、「神代史を除外して神武天皇より筆を起したのは、外国の史書に捉はれたためで、彼我(ひ が)国体の相違を考へないところより出た誤りである」と批判してゐることを、それぞれ紹介してゐる(日本学協会編『水戸学集成5 大日本史の研究』所収、国書刊行会、平成九年復刻版)。『大日本史』神武紀に神代紀が略述付記されたことは、士清、宣長両者による『大日本史』批判が、水戸藩の史臣達に受け容れられたからなのであらうか。

 神代紀を抜きにしては、天皇の御存在や天皇を戴く日本の国柄、日本通史の理解も不可能である。『大日本史』が用ゐた「天祖の胤、無窮に伝ふ」といふ簡潔な表現に、神代から続く「男系継承」への篤信が見い出せるのである。

(元新潟工科大学教授)

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(1)7月5日、ドイツのボンで開かれたユネスコの世界遺産委員会は、明治日本の産業革命遺産を世界遺産に登録した。8県23の遺産について、西洋以外で産業化が初めて成功した例として歴史的な価値が認められたものだ。

 しかし、これについて韓国が、「遺産群の中には朝鮮人の強制徴用が行われた施設がある」と主張して異議を唱えたため、6月の日韓外相会談で日本側が朝鮮半島出身の「徴用工」に言及することで合意していた。

 ところが、韓国政府はこの合意を踏みにじり、会議の直前になって「強制労働」force labor だったと発言すると言い出した。そのため、日韓両政府代表の協議に時間が取られ、予定から一日ずれ込んで決定されるという結果となった。

(2)そもそも、戦時労働力の不足を補うための国民動員は、英米をはじめどこの国でも行われたことであり、これを戦後、強制労働だったなどと言い出して糾弾している国はどこにもない。

 日本では昭和14年に国民徴用令が制定され、朝鮮半島には遅れて昭和19年に適用された。当時、朝鮮半島出身者は日本国民の立場にあり、日本国民として同等の扱いを受け、規定の賃金も支払われたものである。朝鮮人が特に不利に扱われた事実は断じてない。

(3)問題は、満場一致で世界遺産が決定したあと、現地での日韓双方の合意に基づき、日本のユネスコ大使が次のような声明を行ったことだ。

"there were a large number of Koreans and others who were brought against their will and  forced to work under harsh  conditions"
(その意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた─外務省訳)

 これでは、あたかも暴力的に拉致し、強制的に働かせたというイメージで受け取られる表現であり、ありもしないのに、日本国家が犯罪的行為を行ったかのような表現になっている。これほどひどい譲歩をしたことは、日本外交の誠に重大な失敗である。

(4)これについて、岸田外務大臣は、「強制労働」forced labor という表現を要求した韓国に対し、「働かせた」 force to work という表現で合意したものであり、この表現は強制労働を意味するものではないと釈明している。

 しかし、その説明は誰も納得させることの出来ないものである。なぜなら、両者は英語としては同じ意味に他ならず、forced to work を「強制的に労働させた」などと訳しても少しもおかしくはない。

 欧米人は意思の自由を人格の自由の根幹とみなしており、force という単語が含まれている限り、形容詞的に使われようと動詞的に使われようと、自由意思に反する労働、すなわち強制労働という意味になることは自明である。

(5)要するに外務省は、世界遺産登録の実現を優先させて、日本の国益と名誉を毀損する重大な誤りを犯したのである。日本外交の完全なる敗北である。

 実際、韓国では、日本政府が初めて公式に強制労働を認めたものとして大宣伝を始めており、欧米のメディアもこぞって同様の報道を行っている。

 「つくる会」は、慰安婦問題の負の遺産を解消すべく、20年間にわたって必死のたたかいを続けてきたが、本来、河野談話の撤廃、東京裁判史観・自虐史観からの脱却によって「日本を取り戻す」との期待を込めて成立した安倍政権のもとで、「第二の河野談話」ともいうべきこのような声明を出すことになるとは、深い失望感を禁じ得ない。

(6)しかし、まだ、挽回の手段はある。今後の禍根となる今回の外務省声明を、政権として直ちに取り消し、世界に向けて公表することを、当会として強く要請する。また、そうした要請行動に、国民各層が立ち上がり、歴史の歪曲を阻止し、日本の尊厳を守る行動を起こすよう、広く訴えるものである。(カナ遣ひママ)

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 今期第18期(第27回)の国民文化講座は、去る6月13日、靖国神社境内の靖国会館に於いて開催された(参会者は110名)。講師は演出家で翻訳家、明治大学教授の福田先生であった。標題の通りのご尊父、福田恆存先生についての講演を興味深く聞かせていただいた。

 恥かしながら私は福田恆存先生の著書を読んだことがなく、脚本にも触れたことがない。またシェイクスピアの翻訳は読んだことはあったものの、他の翻訳家との違ひを考へたこともなかった。ただ翻訳家であり、また戦後の論壇の中で、多勢に無勢をものともせずに、戦ひ続けた思想家で論客であったといふことは承知してゐた。お話は昭和56年生れの私にとっても、多くの示唆を与へられるもので、その著作へ大いなる興味を抱かせるものであった。

 講演では、「父・福田恆存」がなぜシェイクスピアの翻訳をすることになったのかといふことから始められ、さらにその人生観、人間観を福田恆存先生(以下、福田と略記させていただく)の文章を引用しながら解説していかれた。

 私の脳裡に刻まれたことのいくつかを左に記して、報告としたい。

   福田恆存が翻訳で目指したもの

 大学生の頃に中学校時代の恩師からシェイクスピアを勧められた福田は、昭和8年に次のやうな経験をしてゐる。

 「築地小劇場で薄田研二のハムレットを観てゐた私は、それが原文に比していかに間のびしたものであるか、シェイクスピアの人物の意思と行動力を抹殺し、彼等をいかに無気力なものにしてしまつてゐるか、その事に不満を懐(いだ)いてゐたのである。シェイクピアはしょせん読む為の戯曲に過ぎないのか、昔はともかく今日では上演不可能なものなのか、私はさう思ひかけてゐた。…」(「シェイクスピア劇のせりふ―言葉は行動する」)

 この原文と訳文のリズムの違ひを敏感に察する感覚、また生き生きと振る舞ふべき登場人物を「無気力」に表現してしまふ翻訳に苛立ちを覚えたといふ福田の感性の鋭敏さに、私は感心した。

 戦後、積極的に言論活動や執筆活動を展開してゐた福田は、昭和28年から29年にかけてアメリカ、イギリスに留学するが、この時偶然が重なり、イギリスで「オールド・ヴィック劇場におけるシェイクスピア全作品上演計画」に遭遇する。演出家ベントール、主演リチャード・バートンの舞台を観賞したことで、シェイクスピア劇の上演は日本では不可能ではないかと思ってゐた気持ちが晴れて、日本でも上演はできる、真似してやらうと、何度もペンライトを持って劇場に赴き、その台詞(せりふ)や動きをメモしたといふ。

 帰国した福田はシェイクスピアの翻訳上演に取り組むことになり、徐々に上演の機会を増やして行くことで、日本でも上演可能なことを知らしめたのだが、そもそもシェイクスピアの何を訳したかったのかといふことで、次の文章を紹介された。

 「私が目ざしたのは現代語訳ではない。勿論私は現代の日本人の一人であり、現代の日本語しか喋れもせず書けもせぬ。だからあへて現代語訳を目ざす必要は無い。大事な事は先に述べた様に寝そべってゐる様な現代日本語を起上がらせ、シェイクスピアの躍動的なせりふの力をどうしたら生かせるかといふ事である。そして、それはシェイクスピアの為でも、英文学、英語の為でもなく、現代日本の文学、および現代日本語の可能性の為なのである。…」(同前) つまり今ある日本語をより豊かなものにしたいといふことであらう。まるで、江戸時代までの形式にとらはれた歌風を批判して、写実的な近代短歌を確立した正岡子規の「歌よみに与ふる書」のやうな力強さだ。

 また翻訳したソポクレスの「オイディプス王・アンティゴネ」について自らの解題した中で、福田は「翻訳は常に自国語によって他国の領土をかすめ取り、さうすることによって、自国語の語義や語法を拡張しようとする文化的・平和的略奪行為である」と記してゐるといふ。

 日本語の可能性に挑戦し、より豊潤な言葉で表現することを、言論を生業(なりはひ)とする者としての務めと感じてゐたのであらう。

   「ハムレットの身悶えを伝へたい」

 かうした翻訳と同時並行的に福田は、教育問題(日教組批判)、国語問題(現代仮名遣ひ批判、正仮名遣ひの遵守)、昭和30年前後、跋扈(ばっこ)してゐた平和論に対する論争などに精力的に打ち込むことになる。

 この頃に代表的な評論「人間・この劇的なるもの」を書くのだが、これはハムレット論的に人間論を説いているといふ。留学するまでに福田の書いたものは観念的であり、理屈的であったが、帰国後は観念に肉付された言葉を発するやうになったとのことである。先に書いたやうな言葉に対する考へ方に変ったのがその理由ではないだらうか。

 「私が狙ったのはシェイクスピアのせりふの潜(ひそ)む強さ、激しさ、跳躍力、そこから出て來る音声と意味のリズムである。ハムレットが言ってゐる事を伝へるのではない、ハムレットは今、この時、なぜ、かういふ言葉で、かういふ事を言ふのか、その気持ちを伝へなければならない。しかも、一つの行動が他の行動を生む様に、言葉が言葉を生み、喚(よ)び起す様に、その必然性が目に見える様に耳に聞こえてこなければならない。…」(同前)

 ひとつの言葉が次の言葉、行動を生み出すやうなリズム、躍動感、緊張感があるものを福田はつくりたかったのだらうと思ふ。

 「芝居のせりふは語られてる言葉の意味の伝達を目的とするものではない。一定の状況の下において、それを支配し、それに支配されてゐる人物の意思や心の動きを、表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する事、それが目的であり、意味の伝達はその為の手段にすぎぬ、さう言つては言ひ過ぎであらうが、むしろさう割切つておいた方がいい。…」(同前)

 「ハムレットの言葉はハムレットの口を突いて出てくる、その身悶(み もだ)えであり、身振りであつて、彼はどんなに悲劇的な危険の瞬間においても、自分の言葉が身振りとしての律動に乗って宙に飛び散つてゆくのを、実はひそかに楽しみ、その楽しみに酔つてゐる。…言葉で自分を鞭打ち、言葉で自分にまじなひを掛け、さうして自分を言葉の次元にまで引き上げようと暴れ廻つてゐるのである。それをまた私は演戯とも呼んだ。

 シェイクスピアの翻訳において、一番大事なことは、そのせりふの『意味』ではなく、さういふ身悶えを、さういふ身振りを、弾みのある日本語に移すことである。…」(「翻訳論」)

 言葉といふものはその空間にただ浮遊してゐるのではなく、もっと具体的に聞き手の背中を突き飛ばす、観客に情熱を湧き立たせる、わくわくさせる、さういふものでないといけないと、御自身も演出に携ってをられる先生は解説された。言葉の意味の背後にある心の動きを声に出す事を意識して福田は翻訳をしていったのである。

   福田恆存の人間観

 また身近な「父と子の会話」の中で経験したことをもとに、福田の人間観を次のやうに紹介された。

 「今」と認識した時点でその事象は過去のものになるので「現在」といふものはなく、人間にあるものは「過去」しかない。人間より先にあって我々を育ててくれるものは「(日本の)歴史」「自然」「言葉」である。踏み潰された蟻は自分がどうやって死んだかを理解してゐないだらう。人間も同じことで、ただ交通事故死、病死などといふ理屈はつけてゐるが、運命は誰がもたらしたものかは解らず、偶然が重っただけで、蟻と人間の死に違ひはないのではないか。福田は人間の宿命、死といふもの、時間、歴史の必然性を突き詰めて考へて、自分のことを運命には抗(あらが)へない「楽天的運命論者」と言ってゐたといふ。

 また、良く考へもせずに物事を解ったやうな顔をすることを嫌ひ、世の中で最も信じたいのは自分自身だが、最も懐疑的に見なければならないものも自分自身であると確信してゐた。これが福田の人間観であると述べられた。人質を取って立て籠った殺人犯に向って、「あなたの気持ちは解る」と言って近づくインテリ達が、殺人犯に揶揄される戯曲「解ってたまるか!」は、この実感を表した作品であり、またこの作品を通して福田の「平和論」論争や憲法論争における徒労感についても触れられた。

 自分自身のことさへ、突き詰めて考へれば解らなくなるはずなのに、安易に他人のことを解ってしまふ風潮、抗へないものであることを無視し、少しでも理解できればそれだけで全てを把握したかの如く錯覚して、本質を見誤ってゐる世の風潮と対峙してきた福田は、どこに論争を仕掛けても空を切る思ひであったといふ。そして、いつの間にか自分の立ってゐる場所もなくなって行った言論の世界、そんな究極の孤独から得た「明るい絶望」「爽やかな孤独」「肯定的な虚無感」が福田の壮大な信仰であったと締めくくられた。

   講演をお聞きして

 質疑応答では、いたづら好きで家族を驚かせたり笑はせたりする福田恆存先生の日常の一端が紹介されのも興味深いことであったが、思想家・福田恆存は、物事の本質を掴もうとして自分自身をより深く見つめ、その中で相手、周りの人に心を伝へ、感動をともにしたいと、「孤独」の中にあっても、やむにやまれず物事を表現した人だと思った。

 今私は住宅設計といふ仕事に携はってゐるが、私もこのやうに生き生きとした表現を図面に出していきたいものと思った。

(伊佐ホームズ(株))

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関野 通夫著  定価500円
『日本人を狂わせた洗脳工作 ─いまなお続く占領軍の心理作戦─』

自由社 ブックレット

 天皇陛下は年頭の御言葉の中で、「本年が終戦から70年の節目の年であり、戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが大切であり、私どもに課せられた義務であり、後に来る時代への責任である」とお述べになった。この御感想から始まり、70年総理大臣談話や憲法改正の事案がマスコミを賑はせてゐる。歴史を見直す書籍も陸続として刊行されてをり、本書もその中の一冊である。刺激的な書名であるが、上梓に至る経緯を辿ると、的確な書名であることがわかる。

 現在もわが国に敵意を示す国があり、反日侮日の言動を弄(ろう)してゐることは理解できるにしても、同胞である日本人が、何故に今もなほ、自国を貶(おとし)めることを国の内外で行ってゐるのか、その根源を探求することであったと、著者は述べてゐる。その諸悪の根源として本書で取り上げたのが、連合国軍総司令部(GHQ)が、占領国・日本で施した「ウオー・ギルト・インフォメイション・プログラム(War Guilt Information Program 略してWGIP)である。これがどのやうな内容であり、どのやうに実行されたが、簡潔に纏められてゐる。

 結果的には戦後の日本人の思考に重大な影響を与へ、現在も清算出来ず「後に来る時代への責任」も果してゐない今日の状況を憂慮し、「一刻も早くお届けすべきだと判断」(「あとがき」)して、上梓したといふ。WGIPが、どれほど日本の歴史、文化、価値観、立場を否定し、事実を曲げて教育してきたかを改めて考へる上で、時宜を得た刊行である。

 このWGIPなるものの文書を剔(てき)出(しゆつ)した文芸評論家・江藤 淳氏の著書『閉ざされた言語空間』(平成元年刊)では、WGIPを「戦争についての罪悪感を日本人に植えつけるための宣伝計画」と名付けてゐる。著者は、江藤が取り上げたWGIPの存在を否定するかのやうな電子百科辞書の記述に疑問を抱き、探索の末に証拠文書を確認してゐる。自動車メーカー製造技術者(元ホンダアメリカ現地法人社長)の経歴を有し、事実をもとに物事を思考する著者の本領が発揮されて、「客観的証拠」としての事実(WGIP原資料の存在)を公開した功績は大きい。本書でも触れられてゐるが、日本の左翼・反日派に共通する「結論を導くのに使った情報(証拠)の検証を行わない」等のやり方の対極に位置するものである。

 GHQが、終戦直後の昭和20年9月に先づ新聞に対して開始した「検閲」、及び昭和21年5月3日に開廷された極東国際軍事裁判(所謂東京裁判)に焦点を合せた本書では、慎重にしかも隠微に手順を踏んで実施された「WGIP」により、日本人がどのやうに洗脳されていったかが分りやすく示されてゐる。これらの詳細は本書に譲るとして、一例を挙げれば、検閲を忠実に実行した「朝日新聞」への指令内容も明らかにされてゐる(因みに東京裁判における東條元首相の陳述に関する「天声人語」を、江藤は「奴隷の言葉」と評してゐる)。昭和27年4月28日の独立回復(講和条約発効)以後も、GHQが起草した現憲法を始め、検閲と東京裁判の内容を、我われ自身の責任で見直し清算してゐない実態の根源を示してゐる書でもある。WGIPの文書発掘については、同じ著者による『正論』5月号の論文も参照されるとよい。

 GHQによる日本文化伝統の破壊工作や共産主義思想に覆はれた当時の思想的状況に挑戦し、東京裁判の不当性、無効性を訴へ続けた竹山道雄氏の著書『昭和の精神史』(昭和31年刊)及び前述の『閉ざされた言語空間』との併読をお勧めしたい。『昭和の精神史』は講談社学術文庫に、『閉ざされた言語空間』は文春文庫に入ってゐる。

(元川崎重工業(株)山本博資)

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第六十回全国学生青年合宿教室

参加申込み締切り迫る!
招聘講師  埼玉大学名誉教授 長谷川三千子先生
      「三種の神器の謎を解こう!」
        わが国の神話は、豊かな謎の宝庫です。
         われわれの問ひを投げかけ、古代神話との対話を楽しみませう!

8月29日~9月1日  御殿場市・中央青少年交流の家
 学生2万円 社会人3万5千円

霊峰・富士のふもとで、国のあり方を語り合はう!
世界の中の「日本」を語り合はう!

案内パンフのご請求は事務局まで

 

 編集後記

 憲法学者の多くが“集団的自衛権”は違憲!と言ってゐるといふが、奇妙なことだ。憲法は「法の中の法」であり「国家の最高法規」であるから、憲法学は本来「国家学」と表裏する。その学識を欠くから、国の安全保障(国家の存続)よりも、条文の字義が優先するといふ条文擁護学を恥かし気もなく公言するのだらう。国家あっての憲法学であり憲法解釈ではないか。世界の物笑ひの知的怠慢である。況(ま)して被占領期に押しつけられた条文だ。
(山内)