国民同胞巻頭言

第645号

執筆者 題名
柴田 悌輔 所謂「歴史認識」について
- 中韓に迎合する動き≠ノ憤りを覚える -
布瀬 雅義 日本こそ「中華」と説いた山鹿素行
- 荒井桂著『山鹿素行「中朝事実」を読む』(致知出版社) -
元皇宮警察護衛部長
向後 廣道
戦跡に祈り歌ひゆく旅(後編)
久米 由美子 新鮮で心が躍る体験だった
- 改めて振り返る「合宿教室」 -
小田村四郎名誉会長「憲法改正と歴史認識」(本年2月号掲載)から抄出
集団的自衛権について

- 個別的自衛権と集団的自衛権は不可分である -

 最近「歴史認識」といふ言葉が、マス・メディアを賑してゐる。安倍晋三首相が8月に発表するとされる所謂「戦後70年談話」の内容はどうあるべきか。さきの大東亜戦争において、中国、韓国などを日本が侵略したと、安倍首相が明言し、且つそれに対する「お詫び」の文言を「談話」に含めるか否か。「侵略」を認め、且つ謝罪すれば、正しい「歴史認識」を安倍首相が示したことになり、言及しなければ、安倍首相は間違った「歴史認識」の持ち主で「歴史修正主義者」であるといふことになるやうだ。

 わが国と「主権尊重・内政不干渉・平等互恵」を約束して正式な国交関係を樹立した筈の中韓両国が、この時期に被害者≠強調し、日本を非難する理由は見え透いてゐる。世界にさうした見方を広めることで、日本に対して少しでも優位に立ちたいといふこと以外にないだらう。その上、中韓ともに国内で「反日」を鼓吹して来たから、今さら「反日」の看板を降ろせないし、それをしたら政権が保(も)たない!?のではないか(歴史的に見れば、わが日本と戦ったのは現在の中国共産党政権ではなく、米英が支へた蒋介石の国民党政権であり、朝鮮半島の「韓国人」は日本国民として米英と戦った。名越二荒之助先生の『日韓2000年の真実』によれば、例へば昭和18年の志願兵募集の際には6,300人の採用に対して48倍の30万余の人が応募した)。

 だが、日本において朝日新聞などのメディアは、一時しのぎの形で出された(私には「一時しのぎ」の作文としか思はれない)村山、小泉、といった過去の「首相談話」を継承せよと主張して、結果として中国、韓国の思惑に加担してゐる。無責任な政治的作文に過ぎない過去の「首相談話」を根拠に、「歴史認識」を云々してゐることは愚劣この上ないことと言はざるを得ない。

 もっと根本的な疑問がある。「歴史」といふ言葉を、このやうに使って良いものだらうか、といふことだ。

 「歴史認識」が語られる際の「歴史」とは、大東亜戦争を指すと考へていいだらう。それならせめて、「先の大戦への認識」とでもして貰ひたい。大東亜戦争は長い歴史の一断面であって、歴史全体ではないからである。そして、大東亜戦争を「歴史」と表現するには時間的に近すぎるとも思ふのである。他国の人間ならいざ知らず、いやしくも日本の言論に関与する人達が、歴史といふ言葉を、こんなに安易に使って良い筈がない。

 歴史とは、人間の紡(つむ)いできた過去の事実そのものであると、私は考へる。さうした歴史を、悔やんだり、反省したり、恨んだり、罵(ののし)ったりしたところで、過去の事実(歴史)が変るはずもない。日本の歴史とは、「日本人が過去に生きて来た生き方」、そのものである。日本の歴史には、2千年といふ長い時間の積み重ねがある。そのうちのほんの短い間の過去である大東亜戦争では、日本と日本人を護る為に、私たちのごく身近な父や祖父の世代が命を懸けて戦った。さうした「私たちの父祖たちの生き方」を、護られた私たちが、何故中国、韓国に詫びなければならないのか(戦争は不幸な政治的現実であったが、それ故に日韓基本条約や日中平和友好条約などで公的に政治的にケリが付いてゐる。従って20年前、「戦後50年」を迎へる際、「謝罪決議をせよ」と朝日新聞などが主張するまでは、今ほど露骨に中韓が「歴史認識」を振りかざすことはなかった筈だ)。

 中国、韓国が安倍首相の「歴史認識」を非難するのは勝手だが、それに共鳴するかのごとき国内の動きに、私は憤(いきどほ)りすら覚えてゐる。中国人の「中華意識」と、韓国人の「小中華意識」の伝統には、抜きがたいものがあって、彼らの意識に基づけば、「蛮夷」である日本は、常に彼らに膝を屈し、低頭してゐるべき存在になるのだらう。日本のメディアや一部の知識人がそんな彼らに迎合してゐるやうでは、世界各国に誤解が広がるばかりである。さらには自国の歴史に無知な日本の若者たちに、無用な劣等感を植ゑ付けてしまふ。一時(いつとき)も早くかうした愚かしい議論に終止符を打って欲しいと、心の底から願ふものである。

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   「万世一系」に驚いた宋の太宗

 永観2年(984)、宋に渡った東大寺の僧・「(ちよう)然(ねん)は第二代太宗に謁見し、筆談で日本の国情を語るうちに、話が皇統の歴史に及んで、初代・神武天皇から64代の今上天皇(円融天皇)に至るまでの事績を記した「年代記」を示した。

 太宗は、日本で一系の天皇が続き、臣下も代々世襲であることに驚き、「これ蓋(けだ)し古の道なり」(これこそ遠い時代から理想の政治のあり方と憧れてきた道ではないか)と嘆息した。

 そもそも宋は907年の唐の滅亡後、5代10国の戦乱の中で960年に軍人だった趙匡胤(ちようきよういん)が建てた国で、その子が第二代の太宗である。この時点では建国後24年に過ぎない。そんな皇帝は64代も続く日本の皇室に驚いた。

 太宗の嘆息も空しく、宋は143年後の1127年には北の金に圧迫されて南に逃れて南宋となり、その南宋も1276年、元に滅ぼされる。元の後も明、清、中華民国、中華人民共和国と相次いで興亡を繰り返す。現在の共産中国も建国わづか66年で、亡国の兆しが見える。

   「万世一系」の史実

 この史実を踏へて、支那を世界の中心とし、周辺諸国は野蛮と見下す「中華思想」から日本人を覚醒させ、「日本こそ真の中華である」と説いたのが、寛文九年(1669)に成った山鹿素行の『中朝事実(ちゆうちようじじつ)』である。この書は吉田松陰など幕末の志士に影響を与へ、明治維新の思想的原動力となった。そこでは『日本書紀』などを引用しながら、その意味を論じてゐる。『日本書紀』も素行の論考も漢文表記のため、現代人にはやや近寄りがたいが、最近、致知出版社から刊行された荒井桂氏の『山鹿素行「中朝事実」を読む』では、読み下し文がついてをり、我々にも読みやすくなってゐる。

 それによれば、「万世一系」に関連して、素行は次のやうに記す。

 「そもそも外朝支那は、易姓革命が30回近くおこり、そのうえ夷狄(周辺諸民族)の侵入王朝も数世に及んでいる。春秋時代240余年の間、臣下が国の君主を弑(ころ)した例もまた25回に及んでいる。ましてやその先後の乱臣賊子の数は、いちいち挙げて数えることもできないほど多い。

 朝鮮も、箕子が王となった後、四王朝が交替した。国が滅びて支那の郡県(直轄領)となったり、あるいは、高氏絶滅する事二世、あの李氏28年の間に王を弑すること四度であった。ましてやその先後の乱逆のさまは、まるで禽獣が傷つけ合うようであった」
[78頁]

   「天皇統治の成果」

 世界でも稀(まれ)な皇室の連綿性は、わが国の長い歴史の中で国民が安定した平穏な生活を送ってきたことの証左でもある。中国のやうに、王朝が次々と倒れるのは、過酷な搾取で民の支持を失ったからであり、しかも王朝交代時には、しばしば大規模な内乱となって民が犠牲となる。

 国家を家庭に喩へれば、国土が広大で人口が多く、経済や文明も発達してゐる国は、大きな屋敷を構へた豊かな家といふことにならう。しかし、さういふ家の中で、財産をめぐって親子喧嘩や兄弟喧嘩が絶えず、親が追ひ出されたり、子どもが家出をするやうな状態が続いてゐたら、そこは他家が目指すべき理想の家庭と言へないだらう。

 逆に家は小さく、生活は慎ましくとも、祖父母は大切にされ、夫婦は和合し、子どもは厳(きび)しくとも愛情を持って育てられてゐる家の方が、はるかに見習ふべき模範的な家庭と言へるだらう。後者の家のやうな国柄を築いてきたのが「天皇統治の成果」であって、それは現在の日本国民が大いに誇って良い先人たちの事績であり、子孫に伝へるべき財産である。その国柄は先人の努力の結果であって、それがどのやうに実現されてきたのかを知らなければ、伝へることもできない。この点を史実を通じて説いたのが『中朝事実』である。

   「民が富めば君が富んだことになる」

 「天皇統治」の理想を示す逸話の一つとして、仁徳天皇の「民のかまど」を素行は引用してゐる。私なりに要約すると、次のやうになる。

 天皇が高台から遠くをご覧になると「民のかまどから煙がたちのぼってゐない。不作のため貧しくて炊事もままならないのではないか」と仰せられ、「向(むか)う三年、税を免じ、百姓の苦を安んぜよ」と詔(みことのり)された。宮垣が崩れ茅葦屋根が破れても修理されず、そのため風雨が衣を濡らし、星の光が破れた隙間から見えるといふ有様だった。三年が経って、天皇が高台から再び望むと、炊煙が盛んに立ってゐた。皇后に「朕はすでに富んだ」と言はれた。「民が富めば君が富んだことになる」と。

 そのころ、諸国から「三年も課税を許されて、宮殿は朽ち破れてゐるのに、民は富んでゐます。もしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かへって天罰を蒙ります」との申し出が盛んに寄せられた。天皇はさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けにならなかった。六年の歳月がすぎ、天皇はやうやく宮殿の修理をお許しになった。民は督促もされないのに、材木を運び、土を入れた篭を背負ひ、日夜をいとはず力を尽して作業をした。かうして瞬く間に宮殿が完成した。それ故に聖帝(ひじりのみかど)と称へられてきた。

   「親を助ける子のやうに…」

 仁徳天皇の事績は課税を控へただけではない。『日本書紀』巻11の記事から、素行はかう述べる。

 「仁徳天皇は、人民の生活生業を最重視したまい、河水の流れを良くし、堤防を築いて河水の横流を防いだので、その土木工事のために、人民は、親を助けようとする子のように進んで協力し、天佑神助も得られたのであった。そのため、堤防の岸が崩れることもなく、水源が涸れることもなかった。土砂がたまって流れをさまたげることもなく、田のあぜや境が流失することもなかったのである。仁徳天皇の人君としての徳の何と偉大であったことか。

 その後も、水路の開発に尽力したまい、その恩恵によって人民百姓は、豊かで余裕が生じ、凶作の年の憂患がなかった。ましてその上に、橋や路を造成して人民に利便をもたらし、果ては、氷室を以て、陰陽寒暑を調整するなど、政の在り方を常に規制し改善して、天神が、この国を授けたまうた恩恵に応答したまうのである」
[168頁]

 水利事業に尽されたのは仁徳天皇だけでなく、垂仁天皇も景行天皇も尽力された。天皇が子を養ふ親のやうに努めたので、人民も「親を助ける子のやうに進んで協力」したのである。親は真心から子に接し、子もそれを感じとって親に真心を尽す。それが人間の本性である。「天皇統治」の本質は、ひたすらに国民の幸福を念ずる天皇の御心から始まり、それにお応へしようと民が真心から国のために尽す所にあった。

   「吾れを視るがごとくすべし」

 前節の文中にある「天神が、この国を授けたまうた恩恵」とは、皇祖神天照(あま てらす)大神(おほみかみ)が天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、地上の葦原の中つ国(日本)に降(くだ)りて統治を命じた際に、三種の神器を授けたことを指してゐるのだらう。

 三種の神器は勾玉(まがたま)(心の寛(ひろ)い思ひやり)、鏡(知)、剣(勇気ある決断)である。天照大神は特にこの鏡について、以下の神勅を与へた。

 吾(あ)が児(みこ)の宝鏡(たからのかがみ)を視まさんこと、当(まさ)に吾(あ)れを視るがごとくすべし、與(とも)に床(みゆか)を同じくし殿(みあらか)を共にして、以て齋鏡(いはひのかがみ)と為すべし
(天孫よ、この宝鏡を視るのは大神を視ることに他ならない。常に同じ住居に一緒に在ることで、そのように努めなさい)
[88頁]

 子が鏡を見れば、そこに映るのは子自身の顔である。しかし、そこに自分(天照大神)の顔を見よ、とは、どういふことか。

 天照大神は稲や麦、粟(あわ)、稗(ひえ)などを見つけた時、「是の物は、顕見(うつ)しき蒼(あをひ)生(とくさ)(民)の、食(くら)ひて活くべきものなり」(これらのものは現実世界に生きてゐる民が食べて生きていくべきものだ)と喜んだ。そして自ら、稲を天(あまの)狭田(さなだ)及び長田(ながた)に殖(う)ゑた。

 即ち、歴代の天皇は常に鏡を見て、天照大神の民への思ひを想起し、自分がそれを継承してゐるのかどうかを自省しなければならないのだ。

 民の家から炊煙が見えないのを悲しみ、また順調に稲を得られるよう水利事業を行った仁徳天皇の統治は、まさしく天照大神の民への思ひを受け継いだものであった。

   昭和天皇の病床でのお心配り

 この『中朝事実』を幼き裕仁親王(後の昭和天皇)に贈ったのが、乃木希典大将だった。崩御された明治天皇の後を追って大将は自刃したが、学習院院長として養育を任されてゐた皇孫殿下(裕仁親王)に最後のお別れとして、この書を献上したのだった。後に「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」と言はれた昭和天皇は、この『中朝事実』を丹念に読まれたのではなからうか。

 昭和天皇は崩御の少し前の昭和63年の秋、病床において、長雨が続いてゐるが「米の作柄はどうか」と心配されたといふ。病床におありでも、作柄を心配されるお気持ちは、天照大神が稲などを見つけて「蒼生の食ひて活くべきもの」と喜ばれ、仁徳天皇が民のかまどを心配されたのと同じ無私の御精神である。

 万世一系とは血筋の一系のみではなく、民の幸せを祈られる御精神が一筋に継承されてきたことをも意味するだらう。さういふ国柄を明らかにしたのが『中朝事実』であり、その国柄を継承しようと代々努めて来た先人たちによって、わが国の平安と安定が築かれてきたのである。

(会社役員、在アメリカ)(国際派日本人養成講座第888号、一部改稿)

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 天皇皇后両陛下は、平成6年2月16日に硫黄島へ行幸啓になられた。この時期、私は在外勤務中であり、両陛下の御姿を拝し得なかったが、後に御製・御歌を拝して深く感動した。

   硫黄島での合同慰霊顕彰式

 壮烈な硫黄島での玉砕戦の様相は、右の行幸啓の頃から再び国民一般にも知られるやうになったと思ふ。さらに映画「硫黄島からの手紙」等により、栗林兵団長の指揮統率ぶりや人となりも多くの国民の共感を呼ぶやうになったが、私は同時に海軍司令・市丸利之助少将にも強い共感を抱いてゐる。

 海軍航空隊の権威で予科練の創設にも尽力した市丸少将は、航空機の失はれた硫黄島基地にあって栗林中将と心一つに地上戦を戦ひ、最期の突撃を共にした。東京大学名誉教授の平川祐弘先生は、武人にして歌人でもあるこの少将を『平家物語』の平(たいらの)忠度(ただのり)に譬へてゐる。壕中で米国大統領宛にその非を諭す手紙を書き上げたが、突撃時に部下が腹に巻いてゐた英訳文は米国に届いてゐる。

 今、硫黄島は自衛隊の航空基地となってをり、特定の公務員とその補助的業務に携はる者以外は渡島が許されない。そして、厚労省所管の御遺骨収容帰還事業には、同省から承認された団体である日本遺族会、硫黄島協会、日本青年遺骨収集団、小笠原村関係団体、それに前述した水戸二連隊ペリリュー島慰霊会等の会員が参加してゐる。硫黄島協会等は遺族中心の会であるが、私は特例的にこの会と「水戸二」の末端に加へて頂いてゐる。

 私の最初の渡島は、平成25年3月に実施された日米合同慰霊顕彰式への参列であった。昭和六十年に始まったこの式典は、米軍上陸の南海岸に近い場所に建てられた「再会の碑」の両側に、日米双方の高官や自衛隊基地司令、米海兵隊の将官らが並び、遺族や元海兵隊員らも同席した。両国軍楽隊の演奏する中、摺鉢山を背景に海兵隊員が捧持する両国旗が入場する様は、悲壮な戦ひながら敵味方ともに祖国のために身命を捧げて、最善を尽した後の爽やかさのやうなものが感じられた。

 その後は日米それぞれに慰霊祭が行はれ、日本側は天山の慰霊碑に硫黄島協会の西会長(戦車隊長の遺児)らが追悼の辞を捧げ、参列者全員が白菊の花を献じた。島の周辺の空、海では特攻作戦も行はれてゐる。

   特攻の勇士は何処(いづこ)に鎮(しづ)まるや山より見遣(や)る海の静けさ

   御遺骨収容の日々に

 御遺骨収容帰還事業への私の参加はこの年の秋から始まり、これまでに5回延べ63日間硫黄島に滞在してゐる。

 最初の派遣での活動場所は、栗林中将の兵団司令部壕にも近い戦闘壕であり、機銃の弾薬箱に覆ひ被さった御遺骨や階段から突撃態勢の御遺骨が収容された。

 2度目は滑走路西側の集団埋葬地の延長線で、90数柱の御遺骨を収容した。頭部に被った状態の鉄兜や接近戦用の地下足袋の真新しいゴム底、家郷へ便りしたとみられる万年筆なども回収された。

 3度目は硫黄島でも酷暑の7月であった。泥土の沸騰する「硫黄が丘」に近く、作業靴の底が溶けるやうな場所もあった。壕の先端では円(えん)匙(び)(スコップ)を土に差すたびに熱気が吹き付け、この壕を掘り進み立て籠もった将兵の苦難がいかばかりか追体験した。

 4度目は21日間といふ長期派遣であり10箇所近い壕をひたすら掘り続けた。未だ一万余の将兵が地中に留まってゐるが、収容活動は年々難しくなってゐる。

 5度目は今年1月のこと。担当した壕は東海岸を望む台地に80数メートルを上り下り、壁には小部屋が幾つもあった。転進命令を受けた後に艦砲射撃で壕口が塞がったのか、当時のままの状態で書類や身の回りの品が多数発見された。その妻らしい差出人の名と住所の記された木箱と在中品には胸を打たれた。

 参加者との交流にも多くの感動があった。栗林家本家のご当主からは、大将の生ひ立ちと人となりを伺ひ、沢山の直筆書簡などを拝見した。また、ある遺児は、父親がこの島から発信したハガキを持参して何度も渡島を続けてゐる。その父も壕口や草陰から見守ってをられることだらう。

   御遺骨の袋の底の温もりが吾が手に伝はる生ける身のごと
このペンにて書きし便りは届きしか愛(かな)しき人待つふる里の地へ
年少兵ここに在りしかロウソク岩間近き壕よりハモニカの出づ

   ペリリュー島に御姿を仰ぐ

 天皇陛下の思し召しにより、初めて海外への御慰霊の旅が検討された折、関係者らによってパラオやミクロネシア方面での現地調査が行はれてゐる。結局、現地の諸事情によってサイパン島のみの御訪問(平成17年6月)となったが、両陛下はこの10年間、ずっとパラオ方面のことも御心に御留め下さってゐた。そして、この4月9日にはペリリュー島南端の「西太平洋戦歿者の碑」に白菊をお供へになり御拝礼下さった。

 また、海を隔てて隣りにあるアンガウル島に向って御拝礼下さった。太平洋の島々や空、海に散華された英霊は感涙に咽んだことであらう。

 私は平成21年の1月にこの島を訪れて以来、水戸の慰霊会関係者との交流を続けてきた。そして、会の事務局長らのご配慮もあって、両陛下の御拝礼の折には、会員として遺族、戦友ら関係者の末席に加へていただき、間近に御姿を拝し、御言葉を拝聴した。私の旅路も終り近くになってゐるが、感無量のひとときであった。

   両陛下の御手の白菊み魂らも安らぎますやペリリューの天(そら)
御前(おんまへ)の海鎮まりてアンガウル彼方に横たふ七十年を経て

   ペリリュー島余話

 この島への私の再訪は、両陛下の御訪問前後の一週間であり、村井少将のご子息、土田元上等水兵、水戸の事務局長ら関係者に同行した。

 ペリリュー島の戦ひは、守備隊長(第十四師団歩兵第二連隊長)中川州男(くにお)大佐の知略と果敢な指揮ぶりが知られてゐるが、その指揮所には師団参謀の村井権治郎(ごん じらう)少将が滞陣し終始中川大佐を支へてゐた。年配者で最上級でありながら人情味ある明るい性格で、末端の兵士らにも優しく接してゐたといふ。

 この少将のご子息(79歳)は、病後の体調をみながらの参加のやうであったが、ご遺族らに御会釈を賜った折には後列となり、ご先導者からはご紹介もなかった。一人背広を着用して姿勢を正し、少将の遺影を胸にして位置を崩さず、静かに御言葉を拝聴してゐた。その前々日、民間団体が斎行した慰霊祭に参列した折には、玉串奉奠の求めにも遠慮されてゐたが、再三の要請により静かに応じられた。村井少将の人徳が偲ばれるやうな方であった。

 村井さんとは、大山西側の険しい地形を辿って自決の洞窟壕までお供した。年齢的に今回が最後かと壕の奥まで入った後、壕口にお供へし「父よあなたは強かった」をハーモニカ吹奏した。この歌は、母親が弟の子守歌代りに歌ってゐたと語ってくれた。向ひ側の崖下には、多くの御遺骨が留まってゐるといふ。

   山深く岩根伝ひて自刃の地その 遺児(こ)は捧ぐふる里の水

 生還者34名の一人である土田さん(95歳)は、記者の事前取材に対して「陛下の御前には軍神となった一万の将兵が並んで報告申し上げ、陛下からは御言葉を戴くだらう。…国民に知られてゐなかった島に陛下がおいでになり、英霊も喜んでゐよう。私にはその姿が見えるはず」と語ってゐた(筆者要約)。この元兵士は、両陛下の御前でこのことを申し上げようとの思ひであったが、当日は感動で言葉が出なかったといふ。

   御前(おんまへ)に万余の将兵並ぶらんと御幸を明日に老兵は云ふ

 この村井さんと土田さんが一緒に島北部の「みたま」碑に拝礼した折、期せずして二人がハーモニカを合奏した。土田さんは始めに水戸の兵士らが大陸で歌っていた「梅と兵隊」を吹奏し、村井さんは「海ゆかば」を吹奏した。そして、当時流行ってゐたといふ「丘を越えて」等を合奏した。最高位だった陸軍少将のご子息と海軍の一兵士(航空隊の見張兵)との合奏は、この島の将兵等が心一つに任務を全うしたことを象徴するやうな場面であった。

 土田さんは、お年を思はせぬ快活さで、戦場の明け暮れを昨日の如く語ってくれた。見張り台に立って敵機の接近や友軍水上機の来援を目撃した。潜伏中は将棋を手作りして戦友を和ませ、戦友が繰り返し語る身の上話を記憶した。夜間に活動し夜明けの鳥が「ピッチャー・ホイ」と鳴き出すと壕に戻ったといふ。

 生還者が最終的に壕を出る決断をする場面では(土田さんは不在で後刻に戦友に聞いた話と前置し)、小さな穴から説得する旧軍の少将に対し、壕中からは「陛下はご無事か」との問ひがあり、そこで皇室の御安泰を知らされた将兵らは歓喜の声を上げたとゐふ。壕を出てからは付近に葬った戦友の墓に拝礼し、その後に整然と武装解除に応じてゐる。

 ペリリュー島守備隊は、昭和天皇の御嘉賞を胸に壮烈な持久戦を展開し、やがて指揮官らは皇居を遙拝して自決し、戦後まで不屈の戦ひを続けた将兵は皇室の御安泰に安堵して矛を収めたのであった。

 水戸の事務局長は、この島へは35回目の渡島であった。3月には厚労省による御遺骨収容に参加し、パラオのレメンゲサウ大統領らが壕口で手伝ってくれた際の写真入りの新聞は宮内庁へ速達で送ったといふ。御訪問当日、別便で先着した宮内庁の幹部らはその場所を視察されたといふ。

 護国の御霊よ安らかにませ。

 

向後廣道著『戦跡の歌』

本紙読者特別頒価税・送料込 2,000円

申込先 hikogo2@jcom.home.ne.jp   電話090(8686)4505

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   今も蘇る合宿教室での感動

 今年3月、福岡県北九州市内の小学校を退職して、38年間の教員生活を終へた。この間自分を支へてくれたのは、大学時代に参加した国文研の合宿教室だった。合宿での学びや、そこでの師や先輩、友との出会ひが教職生活の幾多の場面で支へとなった。

 私が合宿教室に初めて参加したのは、今から42年も前のことである。昭和48年8月、阿蘇での合宿(第18回合宿教室)が初めてで、以後大学時代、4年間続けて参加した。その時の感動が今もなほ、心の奥に残ってゐて、折々に蘇る。そして、教職に就いてからも数回参加させていただいた。

 この阿蘇での合宿を契機に、大学時代に自分の生き方の根っこを作らうと志し、さうした中で日本人として生きる喜びを教へてもらった。合宿に参加するたびに、全国各地から集まって来られる師や先輩方はまるで、以前からの知り合ひであるかのやうに思はれて、日本といふ大きな家の懐(ふところ)に抱かれるやうな感じがしたものだった。

   大学入学までの日々

 中学時代、連日のやうにテレビで目にしたものは、大学生たちが学内にバリケードを築きヘルメットをかぶりデモを行ひ、授業ができない学園紛争の様子だった。そして、高校に入学した昭和45年の秋には、ノーベル賞候補作家と言はれた三島由紀夫氏が現憲法の不当性を訴へて自決した事件が大きく報道された。私には、そのころの日本の状況がまるで分らず、日本の国を暗くて空しいもののやうに感じてゐた。人は何のために生れ生きるのか、何のため大学に行き、学ぶのか分らなかった。

 大学にも、社会にも、魅力を感じることはできなかった。戦時中の日本は世界に顔向けできない悪いことをしたといふ戦後教育を受けてゐたので、戦後の日本が経済的に繁栄したと聞いても、その中で暮らしてゐても、不毛な社会であるやうに感じてゐた。そんな中で、唯一私の心が動いたのは青年海外協力隊だった。日本を脱出して、海外の困ってゐる人達のために働かうと応募の手紙を書いたところ、丁寧な断りの返事が届いた。何の技術も知識もない自分が行っても役に立つわけはないと思ひ直して、漠然とではあるが大学に進んで生きる意味や学ぶ意義を考へようと思った。

   川井修治先生との出会ひ、そして参加した合宿教室

 昭和48年4月、鹿児島大学教育学部に入学した。父が教師であり勧められたことも教育学部を選んだ理由であった。学内には、立看板があり、一部の左翼学生が連日ハンドマイクでアジ演説をしてゐたが、その他は予想に反して平穏だった。私は教育問題研究会といふサークルに入部した。顧問は川井修治先生だった。入部してまもなく、川井先生が古い木造のサークル棟の一室においでになり、新入生6人を含む部員15人程に「大学で何を学ぶか」といふことをお話して下さった。

 「君たちは、大学に何をなしに来たのか、大学において人生観を確立しなければならない。

 人生観とは、人間観、歴史観、国家観の3つである。どんな歴史観、国家観を持つかで人生が変ってしまふ。正しい人生観を4年間で確立してほしい」
といふお話だった。先生は、ご自身のシベリア抑留体験や西洋史のご研究を通して、日本のことも語られた。まさに私が求めてゐたものであり、大学の教授が部室まで来られて直々に話をしてくださることに感動した。川井先生は、他に社会科学研究会と信和会の顧問をされてゐた。そして、それらのサークルは相互に交流があり、互ひの部室を訪ねて語り合った。信和会は一軒家を借りて共同で生活してゐたので、そこで先輩方の話を聞くこともできた。

 そして、その年の夏、国文研の阿蘇合宿に初めて参加したのだった。いろんな大学や職場からたくさんの青年たちが集まり、講師の話を聴き、それをもとに班別で話し合ったり、輪読をしたり短歌を詠んだりした。新鮮で心が躍る体験だった。

 先生方が班に入られて、学生の話をお聞きになり色々と体験を踏まへたお話をして下さった。長内俊平先生、青砥宏一先生、末次祐司先生、夜久正雄先生が女子班に付いて下さった。私には、知らない者同士が集まった合宿で、心を開いて語り合ふことは難しいことだと思ってゐたが、さうではなかった。初めて会った者同士でも、ここまで真剣に話をすることができるのかと驚いた。

 自分自身の心を見つめて素直な言葉で語る難しさと心地よさ、また他の人の話に耳を傾けることの大切さを痛感した。それらは、教育の現場でも不可欠のことであった。

 大学時代の4回の合宿では、sc恆存先生、小林秀雄先生、村松剛先生といった一流の招聘講師、小田村寅二郎先生ほかの国文研の先生方の講義を直接聞くことができた。直(ぢか)にかうした先生方のお話を聴講できたことは、大いなる感動であり、その中から戦後教育の問題点や自分が学ぶべきことが見えてきたのであった。私自身が今までなんとなく感じてゐた日本の国への苛立ちは、自分の国を愛し得ない悲しみからに他ならなかったのだ。

   学ぶことが喜びに変った

 合宿が終って、大学にもどり、輪読で聖徳太子や吉田松陰の文章に触れることになった。先輩方と学んで行く中で、先人の方がたが、真剣に日本のことを思って生きて亡くなられたことを知った。そのころ、勧めていたいだ岡潔先生や小林秀雄先生、戸田義雄先生その他の先生方の著書を読む中で、「美しい珠を連ねた魂が連綿と繋がってゐる。日本はそのやうに美しい日本人の歴史なのだ」といふ言葉に触れた時、嬉しくてたまらなかった。私は学ぶことが喜びに変った。少しづつ、西郷隆盛など歴史上の人物に関する本を身を入れて読み始めた。

 また短歌を学んだことにから、『古事記』『万葉集』の時代から歌ひ継がれてゐる敷島の道の文化に驚かされ、私も拙いながら短歌を詠むやうになった。明治天皇の

     あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな

といふ御製を初め、たくさんのお歌を教へ子たちと朗唱した。

   女子学生合宿と、両親の思ひ出

 鹿児島県の指宿市鰻(うなぎ)池(いけ)の「森と湖の里」で、大学一年の冬だったと記憶するが、九州地区の女子学生が集まり合宿を行った。福岡教育大学の学生も多く参加してゐて、その友達と今でも交流が続いてゐる。川井先生、山田輝彦先生の話をお聞きし、和歌の創作をした。囲炉裏の火を囲み皆で語らった。そこは我が家から車で20分ほどの場所だった。その時私は熱を出して少し具合が悪くなり、父が母と一緒に迎へに来た。その折、先生方に両親を紹介した。先生方とお会ひしたことで、両親がそれからも私の学びを大いに応援してくれたことを懐かしく思ひ出す。

 後に山田先生から故郷の開聞岳(かいもんだけ)に関するお話をお聞きした。

 開聞岳は薩摩半島の最南端にあって、小学生のころから遠足などで良く登る山だった。その円錐形の山は知覧から飛び立った特攻隊員たちが最後に別れを告げた山であった。これが見納めと開聞岳の上空を何回かまはり出撃して行ったといふお話には涙がこぼれた。自分の故郷であるのに一度も学校では教へられたことはなかった。その時、戦後の教育の中で失はれてゐるものがあることを実感した。それは自分の教師としての目的意識をもった時でもあった。

   学内での学びを重ねて

 川井先生は、大学内でも、女子の短歌の集ひを指導してくださった。
学生たちで詠んできた短歌を相互批評して、さらに先生が直してくださった。緊張感の中にも楽しい時間だった。

 また、正月には、先生の御宅に3つのサークルの部員が集まり、百人一首のかるた会が恒例だった。集まった中で4人対4人で行ふかるた大会は、にぎやかだった。いろいろな先輩方を知る機会でもあった。卒業された先輩方も来られてゐてご紹介いただいた。

 入学当時は漠然とした思ひで選んだ教育学部だった。だが、私たちが学んだ戦後教育の中には「教へられなかった日本」があることが、先生方に学び友と研鑚を重ねる中ではっきりした。それを伝へていく使命があることを強く感じて卒業した。

   教師となって

 福岡に教師として赴任してからは、水(すい)鏡(きよう)天満宮で小柳陽太郎先生のご指導による短歌の学びを続けた。また、津屋崎の東郷神社の研修所での女子合宿に何回か参加させていただいた。

 最初に赴任した福岡県宗像郡の小学校では、日教組の先生方ばかりの中で一人、国旗国歌が入学式、運動会、卒業式で掲げられず唱はれてゐないことを質問した。職員会議では、毎回緊張したが、2年目の卒業式から正された。そのころ、郡内で2番目だったと聞いた。その後の赴任校でも自分の思ひを伝へてきた。自分なりに日本の素晴らしさを子供たちに伝へた38年間だった。

(元福岡県公立小学校教諭)

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 安倍政権の最大の業績は、集団的自衛権の行使を容認したことである。集団的自衛権は個別自衛権と並んで国連憲章に国家「固有の」権利と明記されてゐる(51条)。「固有の」(inherent)とは、「内在する」、「本質的な」といふ意味であり、フランス語では「自然権」(droit naturel)と規定されてをり、要するに国家として不可欠の権利である。現に個別的自衛権を肯定しつつ集団的自衛権の行使を否定してゐる国家は我が国以外に他に存在しない。

 また事実問題としても個別的自衛権と集団的自衛権は不可分となってゐる。兵器技術の発展と国際支援の進展により、一国の防衛を孤立して行ふことは困難となり共同防衛が常識となってゐる。この場合、集団的自衛権を一国が行使できないとなれば、その国家は同盟国と対等の交流はできず、保護国ないし従属国の地位に甘んずるほかない。到底独立主権国家とは云へないのである。

 にも拘らず歴代自民党政権は、「独立主権国家である以上、集団的自衛権を保有するのは当然であるが、その行使は憲法上許されない」とする見解を多年にわたり固執して来た。もともと現行憲法に国防の規定は皆無であるが、自衛権まで否定すれば(そのやうな憲法学者も存在する)、もはや独立国家と云へないことは何人の目にも瞭然としてゐるから、解釈上個別的自衛権に限定してこれを認めて来たのであった。まだ連合軍の占領下であったし(他国の侵略に対しては占領軍が対応する)、独立回復後も日米安全保障体制に依存してゐたから敢て集団的自衛権にまで踏み込まなかったのである。

 これに対し、安倍首相はこの解釈変更が必要と判断し、既に第一次政権当時にいはゆる「安保法制懇」なる有識者会議を組織し、多方面より検討せしめた結果の報告に基き、集団的自衛権の行使の容認を決定した。これは多年の懸案を漸く解決した画期的な決断であった。若干の留保が付いたとは云へ、これによって漸く我が国も一人前の国家になったといふことができよう。その意味で安倍首相の功績は大きいと評価すべきであらう。

 しかし、より基本的にはこのやうな誤った解釈を採らざるを得なくさせて来た憲法の存在こそが問題なのである。衆知の通り、我が国は敗戦後、敵連合国の占領下に置かれ、絶対権力を握った占領軍は光輝ある我が帝国憲法を真向から否定し、日本弱体化のための占領軍作成の憲法を強制したのである。以来70年、余りにも長い期間であったが、我々国民はこれに従はざるを得なかった。その内容は、要するに「国民共同体たる国家」といふ観念そのものを否定し、長い歴史・文化・伝統を無視して、最高の価値を「天賦人権論的個人」に置き、そのやうな「根なし草的個人」に解体してしまふものであった。従って、その成立の経緯から云っても、この憲法は速やかに改正又は廃棄せしめなければならないのである。(タイトルは編集部で付した)

 

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 編集後記

 例へばフランスでは「登録が権利を与へる」旨のカードが高校などで配られる。10余年前の産経の記事によれば、徴兵制を廃止したことから、17歳の男女に「国防への準備動員日」(一日体験入隊)への参加が義務づけられ、登録した男女は駐屯地に出向き国防に関する様々な講習を受けるといふ。そして参加証明書が発行され、18歳からの選挙権が与へられる。まさに「登録が権利を与へる」のだ。さらにこの証明書がないと運転免許の取得ができないし、大学入学資格試験の受験もできない。先月、国会で公職選挙法が改正され、来夏の参院選からの「18歳選挙権」が決定との報道があったが、「18歳の中身」が大分違ふやうだ。自らにどう歯止めを掛けるかで始まる安保論議も、他国とは異質だ。
(山内)

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