国民同胞巻頭言

第644号

執筆者 題名
第60回合宿教室運営委員長
伊藤 俊介
今年も、「瑞々しい心の交流」を!
- 今夏の合宿教室(御殿場)に多数のご参加を -
小野 吉宣 内政干渉を呼び込む新聞
- 日本を貶めるだけの朝日新聞の「元旦社説」 -
向後 廣道 戦跡に祈り歌ひゆく旅(前編)
西山 八郎 奈良への旅(追憶)
- 感じられた太子の清らかな御精神 -
佐賀大学理工学部四年
吉岡 勝也
学生からの便り
「和歌のご指導」、ありがとうございました

 来たる8月29日から3泊4日の日程で、静岡県御殿場市の「国立中央青少年交流の家」において全国学生青年合宿教室が開催される。埼玉大学名誉教授・長谷川三千子先生を招聘する本年は60回目で、いはゆる「還暦」である。その記念すべき合宿教室において、分不相応ながら運営委員長の大任をお受けした。ついては、一人でも多くの方の参加を!と願って筆を執った次第である。

 私が初めて合宿教室に参加したのは、大学2年生の平成9年8月のことで、厚木(神奈川県)で開催された時であった。その前年、大学に入学してすぐの頃から同窓OBの諸先輩方に誘はれて輪読をはじめとする勉強会に顔を出してゐたので、当然その年の合宿教室への参加を勧められた。だが、たまたま夏季授業と日程が重なり参加できなかった。その後も「来年こそはぜひ参加を」と諸先輩に言はれ、2年生の夏は参加することにしたのである。だが、正直に申し上げて当時の私は前向きに参加する気持ちにはなれなかった。「大勢で人の話を聞き、議論をして何になるのか」「どうせ偏った考へを持った学生ばかりが集まってゐるのだらう」と、そんなことを思ひながら合宿地の最寄り駅に降り立ったことが思ひ出される。

 しかし実際に合宿教室が始まり、諸先生方の講義を受けての班別研修や短歌相互批評を重ねて行くうちに、私の懸念が、如何に浅薄で独り善がりものであったかを痛感させられた。新たな仲間との合宿での日々がとても楽しかったのである。

 同じ御講義を聞いた後の班別研修では、班員それぞれが異なる感想や意見を持ってゐることを知り、同時に、講義の同じ箇所に自分と同じやうに感じ入ってゐる人がゐることを知る。同じ場所で同じやうに過しながらも、それぞれが詠んだ短歌は、各々の感性によって様々なものとなることを知り、同時に、思ひを言葉にすることの難しさを共に感じ悩みながら、言葉を考へ選んで、自分の気持ちにピタッとくる短歌になった時に達成感を感じる。そこには偏った考への入り込む余地など全くなく、共に感じて考へ、語り合ふといふ、とても瑞々しい心の交流があったのである。私にとってそれは、この上もなく楽しく充実したものであった。それは自分自身を深く見つめるといふ貴重な体験でもあった。

 そして、そのやうな夏を一緒に過した〝初めて会った仲間〟が、私にとって〝かけがへのない友〟となったのは当然であった。私はその後、国文研の学生寮「正大寮」に入って、個性豊かな学生と共に学び、語り合ひ、飲み、そのつきあひが今日まで続いてゐる。さらに諸先生・諸先輩方から、学生時代と同様に今も読書会などで多くを教はってゐる。社会人生活を重ねる中で、改めて気づかされることが多々あるものだといふことを折々感じてゐる。

 合宿教室のことを想ひ浮べるといつも瞼をよぎる光景がある。二度目の参加となった阿蘇(熊本県)での合宿教室の折に目にした幟(のぼり)である。宿舎の外に掲げられた幟には〝友よ!と呼べば友は来たりぬ〟と書かれてゐた。照りつける日差しの下、一瞬吹き抜けた風に幟が音を立ててはためくその光景は、私にとって永遠に忘れ得ぬ夏合宿の記憶である。「全国から仲間がかうしてここに集ひ、今年も去年と同じやうに共に学んでゐる。あぁ、これが友といふものなのだ」と幟を見ながら胸が熱くなったのであった。

 あの日に実感したことは私の人生の重要な一コマであった。「友」とのつきあひがどれほどその後の支へになってゐることだらう。現在、我が国は「戦後70年」といふことで様々な情報戦を仕掛けられてゐる。それを跳ね返す力は、どこから生れるのか。私たちが日本人としての誇りを取り戻すことが何より大切だと思ふ。古典に触れ、先人の言葉に学び、互ひに自分の思ひを語り合ひ、それを歌に詠む…、合宿教室はそのための稀有な学びの場である。

 全国各地からの多くのご参加によって、真の「心の交流」が展開されることを切に願ってゐる。

(FTIコンサルティング日本支社代表)

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     朝日新聞の元旦社説を読む

 元旦社説のタイトルは「グローバル時代の歴史─「自虐」や「自尊」を超えて─」となってゐた。

〝歴史の節目を意識する新年を迎えた。/戦後70年。植民地支配をした日本と、された韓国が改めて関係を結びなおした基本条約から50年という節目でもある。/しかし今、そこに青空が広がっているわけではない。頭上を覆う雲は流れ去るどころか、近年、厚みを増してきた感さえある。歴史認識という暗雲だ〟(傍線部・筆者)

 戦後70年となるが、日韓の頭上には、未だに「歴史認識」といふ暗雲が消えるどころか、「厚みを増して来てゐる」と朝日新聞は言ふ。気分もすっきり全国民が「お芽出度たうございます」と、すがすがしく迎へるべき年頭に朝日新聞の社説は右の一節で始まってゐた。

 つい先日の産経新聞の国際面(4月4日付)に次のやうな記事が出てゐた。「歴史問題で韓国『100回でもわびるべきだ』――韓国の聯合ニュースによると韓国外務省高官は三日、日韓の歴史認識問題について「加害者というのは、謝罪を百回しても当然ではないか。何回詫びようが関係ない」と述べた、といふ。

 韓国の反日=正義(親日=悪徳)の図式には辟易(へきえき)させられるが、近年のその官民挙げての反日言動の昂揚ぶりは最早民族病理学の範疇に入るのではないかとさへ思ふほどに常軌を逸してゐる。その直接的要因が30年余に渡って繰り返された朝日新聞の一連の「慰安婦強制連行」といふ嘘報にあることは否定できないはずだが、その後始末もせずに、冒頭のやうな説教を垂れる。まさに「顧みて他を言ふ」とは、このことだらう。

     イギリスには言はない

 帝国主義の時代、イギリスは、アヘン戦争を起した末に1842年(天保12年)の南京条約で「香港島の割譲」を強要した。中国(China)侵略の先駆であった。ついで北京条約(1860年)で「九竜半島南部の割譲」、1898年の新協定で隣接の「新界を九九年期限で租借」した。この三地区が所謂「香港」である。

 支配者はイギリス国王によって親任される総督である(任期5年)。総督は国王の名代として君臨し統治した(ちなみに昭和四十四年国民文化研究会は『青年・学生研修旅行団レポートー香港・マニラ・ミンダナオ巡訪と船内研修合宿』の小冊子を発行してゐた。その中で香港訪問の驚くべき報告がある。当地の香港大学には政治学部や法学部が無いといふのだ。被支配者(Chinese)に国家を統治する学問は不必要だといふ植民地政策の徹底であった)。香港が返還されたのは18年前の1997年であったが、「新界の99年租借」期限が来たからであった。だが、イギリスは侵略したとは決して言はない。

 ここで敷衍して日中関係を考へて欲しい。中国がイギリスに対して日本に突きつけるやうな「歴史認識」まがひを強要したとは聞いたことがない。言っても無駄だからだらう。毅然と却下する力がイギリスにはあるからではないのか。日本のマスコミは詫びればことが解決すると誤った外交認識を持ってゐる。それを拡散して、政府もその論調に添って動いた。そして次々に干渉を呼び込み、その結末が、例へば前記の韓国外務省高官の発言であった。

 戦後30年間フィリッピンのルバング島で文字通り孤軍奮闘された帝国陸軍少尉・小野田寛郎氏が帰還した際、「今の日本人に対してどう思はれますか」との質問に「戦後の日本人は戦ふべきを戦はず意気地が無くなった」と答へた。その折の光景が記憶に鮮明に残ってゐる。次々と出される腑抜けた質問に小野田少尉の怒りは高まってゐたに違ひない。

     なほも中韓を利したいのか

 ところで、戦後七十年に当っての「総理談話」に関して、朝日新聞は時には社説で時には世論調査の結果であるとして、手を変へ品を変へて村山談話にあった「植民地支配や侵略」云々の詫び言を入れるべきだ旨を説いてゐる。もしそれが入るなら「100回」でも言はされ続けることにならう。考へても見よ。もし10年ごとに談話を発するとして、韓国高官の言ふやうに「100回」となれば、「100回×10年=1,000年」である。子々孫々1,000年後までも詫びさせられると言ふ図式になる。ここはイギリスに学ぶべくもなく毅然とした態度を示すべきなのである。それが国際常識なのである。

 わが国は中韓両国とは、それぞれ国交開始の条約を締結して、互恵平等・主権尊重を約してゐる。今さら一時しのぎの迎合的な政治愚行を繰り返しては世界の物笑ひになるだけである。朝日新聞が評価する村山談話など、それこそグローバルな視点に立てば中韓を利するだけの噴飯ものなのである。

     結局は日本を貶める社説

 元旦社説はさらに説く。

  〝それぞれの国で「自虐」と非難されたり「自尊」の役割をになわされたり。しかし、問題は「虐」や「尊」よりも「自」にあるのではないか。歴史を前にさげすまれていると感じたり、誇りに思ったりする「自分」とはだれか〟

と問ひかけた後に「歴史のグローバル化」との小見出しを付けて、

  〝歴史が自分たちの過去を知り、今の課題を乗り越えて未来を切り開くための手がかりとしたら、国ごとの歴史(ナショナル・ヒストリー)では間に合わない、ということになる。/では、どんな歴史が必要か〟

と続く。

「自虐」や「自尊」を生む「自」国の歴史ではなく「グローバル・ヒストリー」こそが新しい年に相応しい歴史だと主張する。「グローバル・ヒストリー」とは〝国や文化の枠組みを超えた人々のつながりに注目しながら歴史を世界全体の動きとしてとらえ、自国中心の各国史から解放する考え方だ〟と無責任な書生論を垂れるのである。アジアの中でも自国の歴史認識にこだはり、他国にまでそれを押し付け同意を迫る隣の国に向ってこそ大いに主張して欲しいところだ。

 社説の結論部には「節目の年の支え」の小見出しがあって、

〝東アジアに垂れ込めた雲が晴れないのも、日本人や韓国人、中国人としての「自分」の歴史、ナショナル・ヒストリーから離れられないからだろう。日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える。/しかし、人と人の国境を越えた交流が急速に広がりつつあるグローバル時代にふさわしい歴史を考えようとすれば、歴史は国の数だけあっていい、という考えには同調できない〟

 歴史研究は学問である。学問研究は自由になされるべきで、政治的思惑や利権によって影響されることがあってはならない。同様に、巨大メディアが「グローバル時代」を持ち出して「歴史は国の数だけあっていい、という考えには同調できない」などと社説で主張することは「言論の自由」とは言ひながら、それを隠れ蓑にして、広く国民の思考に枠をはめ、延いては歴史分野の学問研究に先入観を植ゑ付けるもので、その自由を侵害することにはならないのだらうか。事実に基づいて発言するのがジャーナリズムでないのか。

 社説の結語は、

〝自国の歴史を相対化し、グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る。厳しい挑戦だ。だが、節目の年にどうやって実りをもたらすか、考えていく支えにしたい〟

となってゐた。要するに「日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える」として、一見、中韓をたしなめるやうな文言を挟みながら、グローバル・ヒストリーなる造語を弄して「節目の年」に「自国」日本の立場を明確にすることは、「実り」につながらないと結局は日本を貶めてゐるに過ぎない。穿(うが)ちすぎだらうか。

     朝日新聞が暗雲を厚くした

 そもそも「東アジアに垂れ込めた雲」とは何か。「暗雲」の正体とは何か。社説には具体的に触れられてゐないが、①総理の靖国神社参拝②歴史教科書③竹島・尖閣諸島④慰安婦等々のことだらう。いつからこれらが「暗雲」の発生源になったのか。竹島を除き四十年前には何ら問題にはなってゐない。総理大臣の靖国神社参拝も、歴史教科書の検定も、国内の左翼勢力との若干の軋轢はあったが、全く外交上問題にならなかったし、(竹島は昭和28年(1953)以降韓国が不法占拠してゐるが)尖閣諸島に中国船が近づくこともなかった。慰安婦の「い」の字もなかった。そもそも「歴史認識」が云々されることなどなかったのである。

 右の①から④までの問題化は自民党政権下のことであって自民党の責任は重い。振り返って見れば政府・外務省の無責任ぶりには本当に呆れてしまふ。さうした日本側の動きを批判するどころか、むしろ先走った論調で先導したのが、産経紙を除くマス・メディアだった。その中心にゐたのが朝日新聞で中韓の拡声器だったと言ってもいい。年頭社説の冒頭で、日韓国交50年の節目を迎へて、「歴史認識の暗雲が厚みを増してきた感がある」などと他人事のやうに書いてゐるが、韓国にあらぬ幻想を抱かせ暗雲を厚くしたのは他ならぬ朝日新聞であった。繰り返すが、その「慰安婦強制連行」の報道(嘘報)と論説とが一層厚くしたのであった。本当に腹立たしい社説であった。

(本会参与、元福岡県立高校教諭)

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     御製御歌を拝して

 戦後70年の節目の年、天皇皇后両陛下は4月にパラオ共和国を御訪問になり、ペリリュー島の南端にお立ちになって太平洋の島々、その海や空に散華された全ての戦歿者の御霊をお慰め下さった。

 両陛下には、戦後久しきにわたって戦歿者やその遺族に対して御心をお寄せ下さってゐるが、戦後50年、60年の年にも国内はもとより、海外にまで御慰霊の旅を続けてこられた。

 その尊い思し召しに、戦歿者の御霊はどんなにか喜ばれ、慰められたことだらうか。多くの国民も胸を熱くして感謝してゐることと思ふ。

 天皇陛下は、平成6年に硫黄島へ行幸になられた折に次のやうな御製をお詠みになられた。

     精魂を込め戦ひし人未(いま)だ地下に眠りて島は悲しき

 皇后陛下は、平成8年の終戦の日に寄せて次のやうな御歌をお詠みになられた。

     海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたの御霊(みたま)国護(まも)るらむ

 私ごとになるが、私は皇室守護の職務に40年余り勤めた後、ここ数年は海外の戦跡を巡拝し、また、厚労省による御遺骨収容事業への労力奉仕を続けてゐる。

 私が最初に訪れた戦跡は、昭和天皇から度重なる御嘉賞を賜った勇士の眠るペリリュー島であるが、両陛下が御訪問になられた硫黄島、サイパン島にもその後に訪れてゐる。これらの戦跡では御製・御歌を胸に拝誦しながら、国家の危急に際して身命を捧げられた御霊に、私なりに感謝の思ひを捧げてきた。

 かつて激戦が繰り広げられた山野や海の上、空の上を行くとき、僭越ながら御製・御歌にお詠みになられた情景が一層如実に浮かび上がり、そこに御霊らが漂ひ坐しますやうな思ひになる。故国を遠く離れた海にも陸にも、未だ多くの将兵らが「水(み)漬(づ)く屍(かばね)」「草(くさ)生(む)す屍」となって留まり、今も国家と国民を守って下さってゐる。そのことが一層身近に思はれる旅であった。

     戦跡巡拝記

 あの戦ひから既に70年といふ長い歳月が過ぎ、御遺骨の収容はますます困難になりつつある。しかし、縦令(たとへ)目に見える形は失はれようとも、御霊は必ずや何処からか見守って下さってゐるやうに思ふ。その御霊に感謝の祈りを捧げてお慰めし、将来にわたって遺勲を顕彰していくことは、今日に続く国家と、今生かされてゐる国民の義務でもあらう。

 このやうな思ひによる私の戦跡の旅は、退官してからここ数年で12ヶ国(地域)に及んでゐるが、この春に一区切りとして私なりに記録を整理し『戦跡の歌-戦跡巡拝と戦没者御遺骨収容の旅-』(415頁、税別2,000円 明成社刊)として出版した。素人の拙著であるが、かつて皇宮警察学校に勤務してゐた当時、学生に講義いただいたご縁から山内健生先生に差し上げところ、是非とも直接紹介の記事を書いて欲しいとのご依頼を受けた。そこでご厚情に感謝しつつ、私の辿った戦跡と活動の一端を極簡単に紹介させて頂くことにした(拙著では、開戦の日から終戦までを概ね時系列で収録した)。

 昭和16年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃より一時間半ほど早くマレー・シンガポール作戦に突入してゐる。開戦劈頭のこの作戦はまさに電撃戦であり、英軍と英軍将校指揮下のインド軍(英印軍)と90数回の戦闘を繰り返しながら半島南端までの千百キロを僅か55日間で突破し、ジョホール水道を渡って8日間でシンガポールから英軍を駆逐した。この第1編では戦車隊、銀輪部隊の勇戦と工兵部隊の活躍、そして私の年代には懐かしい「マレーの虎・ハリマオ」のことにも触れてゐる。

     戦友の遺骨を抱きし兵士らの思ひはいかにジョホールに立つ

 そもそも開戦の直接の要因は、米英を始めとする連合国による経済封鎖にあるが、それを打破して資源獲得を目指したのが南方作戦であった。そして、オランダの植民地支配に苦しむ蘭印(現インドネシア)の油田地帯へとわが落下傘部隊が降下した。国内では「空の神兵」と讃へられたが、現地には昔から「白馬の神が舞ひ降りてこの国を救ってくれる」といふ伝説があり、日本軍は畏敬と親しみをもって迎へられたといふ。

     あの山がメナド富士かや落下傘開きて神兵征(ゆ)きしこの空
     この空に真白き花となりゆきしますらをのこを想ひゆく旅

 泰緬鉄道は、タイからビルマにかけての4一5キロに達したが、戦時下に一年4箇月で完成させてゐる。米英合作映画等のプロパガンダにより俘虜虐待が喧伝されてゐるが、日本軍は技術的にも道義的にも優れてゐた。独立国タイには戦後もこの鉄道が残り僻地の開発に貢献したが、英国植民地のビルマ側は支配者の身勝手な思惑で撤去された。大東亜戦争の本質が垣間見(かいまみ)えやう。私は若い頃からタイ国とは多少の縁があり、その後は在タイ大使館にも勤務し現地を何度か訪れてゐる。

     敗れたる兵らは貨車に臥しつつもをろがみ過ぎしやみ仏の塔

 日本から遙かに離れたガダルカナル島(ソロモン国)やブーゲンビル島(パプアニューギニア国)にも、未だ多くの御遺骨が密林に海底に留まってゐる。私は、厚生労働省による御遺骨帰還事業に「全国ソロモン会」から推薦されて参加した。先遣の調査収容団が現地に保管依頼してゐた御遺骨1,300余柱を洗骨して荼毘に付し、ご帰国の途にお供した。ソロモン海と其処に浮かぶ島々の上空を何度も行き来したが、まさに英霊の海、空、島であった。

     御遺骨の白き袋に二柱と記しあり戦友死処を共にし
     傷付きて病みても共に歩み来て倒れたるかや肩を抱きつつ

 トラック諸島はサイパンやパラオと同じように、かつては国際連盟からの委任統治領であった。日本人の移住は明治時代から始まってをり、「冒険ダン吉」のモデルといふ立派な指導者も存在した。そして、戦時中の一時期は山本長官率ゐる連合艦隊の泊地とされたが、昭和十九年二月に艦隊が転進して間もなく「トラック大空襲」に遭遇した。島々の間の海には多くの艦船や零戦が眠ってゐる。

     船上の慰霊は波間に御酒(ごしゆ)注ぎ祈りひとつに友と戴(いただ)く
     「海ゆかば」捧げて戻る船上にみ魂ら応(こた)ふやスコールの音

 ビルマ戦線は、その全国土とインド北部や支那南部までの広範囲に及び、開戦直後から終戦時まで続く激戦に多数の将兵が散華した。私は子供の頃、竹山道雄原作の『ビルマの竪琴』を郷里のお寺での巡回映画や学校の学芸会で目にした。主人公の水島上等兵は、復員する戦友から離れて一人僧形となり、戦野に朽ちてゐく将兵の亡骸を葬り続けた。それから半世紀以上の歳月を経て、私は戦跡巡拝や御遺骨収容の旅に出てゐる。あの水島上等兵への共感が、潜在意識の中に留まり続けてゐたのかも知れない。この旅は中部ビルマに留まったが、北部での壮絶な戦ひにも強い思ひがある。

     明日もまた慰霊の旅路辿りなむリュックに祖国の酒を負ひつつ

 両陛下のサイパン御訪問時(平成17年6月)、私は皇居正門において挙手の礼を捧げて奉送迎申し上げた。そして、退官後に漸くサイパンへの旅が実現し、御立ち位置の後方から拝礼した。また、山深くに最後の司令部壕を訪ね、司令官らの訓示とそれを聞き立ち、突撃する将兵らの姿を想起した。

 その後はテニアン島に渡り、原爆格納の穴に米軍の非道を思ひ、南端の岬では長らく戦友らを弔ひ続けた元特攻隊員の僧侶が崖下に消えた話に強い共感を覚えた。

     その誓ひ果たして友らと安らふか南の海の底の深きに

 パラオは、退官後の戦跡巡りの最初の国であり、ペリリュー島守備隊の基幹であった歩兵第二連隊(水戸)の慰霊会に同行させて頂き、この会とのご縁は今に続いてゐる。近時は、両陛下の御訪問に関連する報道や出版物もあって、守備隊の勇戦と昭和天皇の御嘉賞、そして、「サクラサクラ」の訣別電報と指揮官らの最期、戦後も不屈の戦ひを続けた勇士らのことが、より多くの国民に知られるやうになった。とても書き尽せない奮戦死闘が、米軍上陸後も70余日にわたって展開されてゐる。

     遙かなるパラオの海に島山に還へらぬつはもの今も鎮まる

 このペリリュー島へは、両陛下の御訪問の時期に、村井少将のご子息や土田元一等水兵らと再訪した(次回にご紹介しよう)。

 フィリピンでは、ルソン島の中部から北部を巡った。最初に神風特別攻撃隊の嚆矢をなす敷島隊の五機が出撃したマバラカット飛行場の跡に立って、積年の思ひを果たした。ちょうど発進時刻の午前7時20分であり、「嗚呼神風特別攻撃隊」の歌を流しながら見えざる機影に向って帽振れをした。

 このルソン島は戦車戦が多く、道々でその勇戦の様を聞き慰霊碑に参拝した。ルソン島北部は棚田(世界遺産)の辺りまで辿り、山下将軍が終戦後に南方総軍の命に従って米軍の前に出頭したキヤンガンを訪れ、勇将の奮闘と悲運を偲んだ。

 この朝日機体に浴みつつゆきしかや敷島隊の五機は還らず

(元皇宮警察護衛部長)

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     萬歳寺の見心来復像

 十数年前、奈良市にある大和文華館から鳥栖市に一通の招待状が届き、上司と共に赴く機会があった。同館で開催されてゐた「元代の文化展」に地元のお寺(萬歳寺)から寺宝である円相画「絹本(けんぽん)著色(ちゃくしょく) 見心(けんしん)来復(らいふく)像」(国指定重要文化財)一幅が貸し出されてゐたことによるものだった。

 元代の美術品は中国においてはほとんど現存せず、日本国内においてもその数は極めて少ないのだといふ。掛け軸や絵画、彫刻など全国から集められた作品の多くは重々しい印象で異民族の支配を余儀なくされた時代における複雑な世相が反映されてゐるとの説明を受けた。織田信長が愛蔵し、後に名だたる武将に受け継がれいづれも非業の運命を辿ったといはれる掛け軸などもあった。

 そのやうな作品の中にあって萬歳寺の掛け軸は特異な画風を放ってゐたやうに感じられた。

 本城山萬歳寺(臨済宗南禅寺派)は、筑紫山脈の東端に聳える九千部(くせんぶ)山(ざん)(848メートル)の中腹にあり、応永年間のはじめ(600余年前)に以亨得謙(いこうとくけん)禅師によって開かれた古刹でシャクナゲや精進料理が楽しめる寺として近在の人に親しまれてゐる。萬歳寺は現在地に移った近世以降のある期間無住の状態が長く続き、一時は荒廃寸前の時期もあったが、その危機を乗り越え鄙(ひな)びた山村に長い時をひっそりと眠り奇跡的に受け継がれてきた寺宝の一つが、見心来復像だったのである。先代の和尚から何か大事なものが伝はってゐるといふ話は伺ってゐたが、昭和59年12月の専門家による調査で、現存するわが国最古の中国・元時代の円相画であることが判明し大きな反響を呼んだ。

 見心来復(1319~1391)は、詩文に優れた中国の高僧で、30年以上にわたり中国で修行を続けてゐた留学僧以亨得謙の師にあたり、以亨得謙の帰朝に際し、仏法伝授の証として自筆の賛を加へて贈ったのがこの円相画である。ほぼ実像に近い寸法で細部に至るまで写生された絵は、厳しい修行を終へて母国に帰った後も師と交はった日々を忘れずに仏の教へを遵奉し弘めていってほしいといふ見心来復の思ひが迫ってくる作品だった。

     聖徳太子二歳像と技芸天

 大和文華館を後にして、その日の夕刻、長年の念願を叶へるために元興寺へと足を延ばした。訪問した当時はまだ国宝の指定を受けてをらず、入館受付も厳しいものではなかった。日が暮れかけ閉館の時間まであまり時間もなかったので、入館料を払って早速中に入るとすぐに斑(まだら)模様の甍(いらか)が目に止まった。しかもその模様は屋根全体を覆ってゐるといふのではなく一部に偏ってゐたのである。不思議に思ってお寺の方にお尋ねすると、創建当時(奈良時代)からの瓦を使用できるものは大切に使ひ続け段々少なくなってこのやうな斑模様として残ってゐるのだといふ。風雪に耐え時代の変遷を見続けてきた瓦を見上げながら、受け継がれてきた時間の長さと守り続けてきた人々の思ひの豊かさを感ぜずにはをられなかった。

 廊下を渡りしばらく進むと大切に安置されてゐる聖徳太子二歳像の前に辿り着いた。学生の頃、何かの雑誌に載ってゐた二歳像の写真を切り取り、手作りの額に入れて折に触れ見続けてきたのだが、その実物にやうやく巡り会ふことができたのである。その張りつめた表情を拝しながら「悲能く苦を抜くことを明す。…群生と其苦楽を同じくすべし」(『維摩経義疏』文殊問疾品)と言はれた御生涯を偲び、作者が込めた太子を仰ぐ人々の気持ちにも思ひを馳せながら見入ったのだった。

 幼くはあったが像の面は、信念に満ちた表情にも、人の力の及び難い不可避なものに対する悲しみの表情にも見えた。そして、太子の心の奥底に深く息づき願求せずにはをれなかった平安な世への祈りが作者の手をして形となって表はれてゐるやうに感じられた。

 翌日は、秋篠寺を訪れた。深い緑の杉苔の小径を通り木陰の下をくぐりながら寺に入るとお堂のやうな建物があった。何が納められてゐるのかも知らずに歩を踏み入れると漆黒に包まれた小ぶりの堂内に何か大きな像が立ってゐて、外の明かりが差し込む出口近くの暗がりには椅子に腰を掛け静かに像と向き合ふ一人の参拝者があった。何を問ひかけようとしてゐるのか知る由もなかったが、向き合ふ先に私も目を向けてみた。暗がりに目が慣れてきて浮び上がってきたのは、これまで見たことのない不思議な魅力に満ちた立像だった。

 伎芸天像と言はれるその像は人の背丈よりも高く、しなやかにくねった腰と差し招くやうにおろされた手は、助けを求める童(わらはべ)を抱く慈母のやうな温かさと無尽の愛を注いでゐるやうだった。暗がりに立つ伎芸天はそこに生きてあるかの如く千年の時を超えて無言のうちに人々の悩みと苦しみに寄り添ひ安らぎと癒しを与へてきたのだらう。

     摂政聖徳太子の願ひ

 聖徳太子が御生涯を過されたのは、奈良の文化が開花する以前の閥族が専横と争ひに明け暮れてゐた国家建設の草創期ともいふべき苦難の時代であった。怨みが種となって疑心暗鬼を生み、骨肉相争ふ悲劇が身の回りで現実の姿として繰り広げられる様をどのやうな思ひでご覧になられてゐたことだらう。摂政といふ国家の命運を担ふべき立場にあられて現実世界に争ひのない慈悲の世界の実現を願はれた太子は、そのことのためにどれほど深く悩み苦しまれたことであらうか。残された御文章からその一端を遠くお偲びしたい。

 推古天皇12年(西暦604年)に発布された憲法拾七條には、政(まつりごと)にあたる者の心構へが綴られてゐる。混迷の世にあってまづ己が身と心を正し、国民の不安や恐れ、苦しみを少しでも取り除き安寧の世を建設していくために努めて欲しいといふ聖徳太子の強い願ひが伝はってくる。その第十条には、次のやうな言葉が記されてゐる。

 十、に曰く、忿(ふん)を絶ち、瞋(しん)を棄て、人の違ふを怒らざれ。人皆心有り。心各(おのおの)執有り。彼是とするときは則ち我は非とす。我是とするときは則ち彼は非とす。我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ。是非の理詎ぞ能く定むべき。相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端無きが如し。是を以て、彼の人瞋(いか)ると雖も、還(かへ)って我が失を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同じく擧(おこ)へ。

 凡その意味は、次のやうにならう。「政(まつりごと)にあたる者は、周囲の人々にいかりをぶつけたり、目を怒らせて威圧するやうなことをせず、自分と違ふことを言ふからといって怒ったりしてはいけない。人には皆固有の心があり、それぞれに執着して抜け難き思ひや考へがあるものだ。誰かがかうだと言へば自分は否さうではないと主張したくなるものだし、逆に自分はこれが正しいと思ふと主張しても、他人からはさうではないと反論されることも多くあるものなのだ。自分がすべてに精通し常に正しい判断をできるといふものではないし、自分から見れば足りない所が多くあるやうに思はれる相手であっても何も知らず何も分らない愚かな人間だと決めつけることなどできないのだ。つまり、人間は誰でも欠点だらけで未熟な存在であり助け合はなければ生きていけないものなのだ。従って、何が正しいとか何が間違ってゐるとかいふことを一体誰が容易に決めることができようか。互ひに賢い一面もあれば、愚かしい一面もあるのは、丁度金の輪に始めも終りもないのと同じことなのだ。だから、相手が怒ってゐるからといってその人の言ひ分に耳を貸さないのではなく、その原因が自分の中にもあるのではないかと振り返ることを忘れてはいけない。自分は間違ってゐないと確信したことであっても、もう一度冷静な心になって周りの人々の声に耳を傾け、もしそれが集議を尽して決めたことであるならばその結果を受け入れ、それらの人々と共に行動しなさい」。

     事繁き世であればこそ…

 日常の自分の生活を振り返るとき、思ひ当たることのなんと多いことか。些細なことで心が揺らぎ、ある時は独りよがりの思ひ込みに陥り、また怒りを抑へられず素直な心を失ひ、他者を認めようとせず、力を合はせることにためらひを覚えることが少なくない。だからこそ蟠(わだかま)りを捨てて素直に向き合ひ、協力し合ふことで生きた智恵が生れることを諭されてゐるのだと思ふ。

 事繁き世であればこそ、心を澄まして我が身を振り返り個我執着の私心を脱し他と共なる生に目覚めることの大切さを憲法拾七條は私たちに示してゐるのではないだらうか。

 元興寺や秋篠寺に伝はるこれらのお像にも苦悩濁乱の人生を歩まれた太子の悲痛なる体験から生れた清らかな精神が脈々と受け継がれてゐるのだと感じられた。

((株)寺子屋モデル)

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【編註】去る3月中旬、第47回全九州学生ゼミナール(全日本学生文化会議主催)は「誇りある日本か、貶められる日本か」のテーマの下、玄海青年の家(北九州市)において4泊5日の日程で開催され、34名の参加者によって真摯で熱い研修が行はれた。研修の中では和歌の創作もなされたが、それを受けて本会の澤部壽孫副理事長による添削指導「和歌全体批評」が行はれた。その指導に対する礼状である(仮名遣ひママ)。

 謹啓 陽春の候、澤部壽孫先生におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。先日は、ご多忙中にもかかわらず、第47回全九州学生ゼミナールにご出講いただき、私どもの和歌への丁寧な批評、ご指導をいただきまして、誠にありがとうございました。

 澤部先生は、批評の冒頭、「和歌の批評とは、作者が一体どのようなことを詠んでいるのか、作者の心を感じようとすることである」と述べられ、ご自身のお姿で以てそのことを示してくださいました。和歌全体批評の際、澤部先生は、和歌を詠んだ学生一人一人に質問をしながら、どのような思いを和歌に詠もうとしたのか、丁寧に聞いてくださいました。「批評」という言葉を聞くと、私たちはとかく「相手の悪い部分を指摘し、改めさせる」といったイメージを抱きがちですが、和歌の批評とはそのような他人を否定する行為ではなく、作者の心にどこまでも自らの心を寄せていき、作者の思いに共感する営みなのだと気づくことができました。和歌全体批評の際の温かな空間は、そのような共感によって、皆の心が一つに結ばれていったことで生まれた空間だったのではないかと思いました。

 また、対象を一所懸命に見て、和歌を詠むことが大切なのだと感じました。私たち人間は、美しい花や鳥のさえずり、友の表情など、何か自分以外の対象に触れたときに喜びや悲しみを感じ、心の躍動、感動が生まれます。自分の心に揺さぶりを与えた対象をしっかりと見つめ、自分はその対象からどのような感動を得たのかを正確につかみ、三十一文字で表現する。和歌を詠むとは、このような営みではないかと思いました。こうして、自らの感動が言葉で表現できたとき、私たちは、自分が自然や友など、さまざまなものに生かされているのだと気づき、生の充実感や生かされていることへの感謝の気持ちを実感するのだと思いました。

 しかし、戦後の日本では、和歌が詠まれることは大変少なくなりました。生の充実感を感じることができず、自分がたくさんの物や人に生かされている尊い存在であることにも気づくことができず、自ら命を絶つ子供達がいることを嘆かわしく思います。しかし、和歌の力によって、そのような子供達を必ず救うことができると私は確信しています。そのためには、私たち自身が、対象をしっかりと見つめ、自分の感動を丁寧に和歌に詠んでいくことを大切にしていきたいと思います。これからも、和歌のご指導を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。(後略)敬白

平成27年4月吉日 第47回全九州学生ゼミナール
実行委員長 吉岡 勝也

 第60回全国学生青年合宿教室

招聘講師  参加申し込み受付中
 埼玉大学名誉教授  長谷川三千子先生
三種の神器の謎を解こう! 「わが国の神話は、豊かな謎の宝庫です。われわれの問ひを投げかけ、古代の神話との対話を楽しみませう!」
8月29日(土)~9月1日(火)
国立中央青少年交流の家(御殿場) 学生2万円 社会人3万5千円
案内パンフのご請求は事務局まで

 

- 「4月号折り込み」のご協力のお願ひ -

〝美しい日本を子供たちへ  憲法改正、賛同の輪を広げよう!〟
 憲法改正を実現する1000万人賛同の輪を! 賛同者名簿送信先
  Fax 03・5157・5657

 

第18期 国民文化講座

 「父・福田恆存を語る ―戦後思潮の中にあって―」
 講師 演出家・翻訳家  明治大学教授 福田 逸先生
 6月13日(土)午後1時半~
 会場 靖国神社境内 靖国会館
  地下鉄「九段下」徒歩10分  定員150人
  会費 1,500円 学生500円
  お申し込みは電話およびファックス、またはメールで事務局まで

 

編集後記

今朝5/25の産経新聞に小さく「尖閣周辺に中国公船三隻」とあった。11日連続とのこと。産経では連日目にする記事だが、東海大の山田教授によれば、「尖閣諸島周辺には毎日中国船が来ているが、伝えていない新聞もある」。確かに今朝の朝日新聞は「伝えていない」。その代り?だらう、「憲法第九条が抑止力となって平和だった」との作家の言葉と「辺野古NO!集会」が写真付きで紙面を飾ってゐた。〝尖閣危機〟の震源地は国内にある。
(山内)

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