国民同胞巻頭言

第643号

執筆者 題名
内海 勝彦 聖徳太子の御精神と皇室の伝統
- 両陛下の「パラオへの慰霊のご訪問」に思ふ -
鈴木 一 再掲載『国民同胞』第257号(昭和58年3月)から
日本の滅亡はいかにして救はれたか(下)
中島 繁樹 現行憲法前文に見る憲法欠陥の由来
- 「改正理念」の本旨を忘れるな -
柴田 悌輔 私にとっての「sc恆存」- 改めて『常識に還れ』を読み返して -
山内 健生 「日本を取り戻す」ための憲法改正B「5月3日」だけでは憲法は分らない
- 「11月3日」公布の重みを想起せよ -

 国民文化研究会(国文研)の合宿教室で度々採り上げられてゐる黒上正一郎先生の御著『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』の勉強会が各地で行はれてゐる。私も学生の頃から知友先輩とともに何度となく拝読してきたが、難解な文章には苦労しつつも仲間の発言に毎回気づかされ教へられることが多く、輪読の有難さを感じながら現在に至ってゐる。さうした中で最近思ったことを述べてみたい。

 この御本を読む時、私はいつとはなしに聖徳太子のお姿と天皇皇后両陛下、すなはち皇室のお姿を思ひ合せながら読むやうになってゐた。例へば、維摩経義疏(ゆいまきようぎしよ)の文殊問疾品(もんじゆもんしつぽん)にある「群生(ぐんじよう)とその苦楽を同じうす」との太子のお言葉はそのまま昭和天皇、今上陛下が常に願はれてきた「国民と共にありたい」とのお気持ちそのままであると感じられるのである。また、同じく「大士は其の身の苦を忘れて苦を同じうして化することを明かすなり。此の句は悲能(よ)く苦を抜くを明かす」との太子の御釈について、黒上先生は、中国大陸の註釈学者が功徳知恵のある菩薩が迷へる衆生に慈悲を起すといふやうに謂(いは)ば上から見下す教化のやうに説くのに対して、太子は「『其の身の苦を忘れて苦を同じうして化す』といふ、僅かの註にも個我を全体に没し、蒼生と労苦を共にする平等の『いつくしみ』を反映せしめ給ふ」と論じられてゐる。

 つまり、太子の「他と共なる生」を願はれる慈しみのお気持ちが、人々の喜び、悲しみ、苦しみなど人生における様々な情意をすべをさめて下さるといふのである。

 かうした太子の御精神がそのまま現代に承け継がれてゐるのが、天皇皇后両陛下の行幸啓のご様子であらう。さる4月8、9日、両陛下は10年来お心に懸けて来られたパラオ共和国への慰霊のご訪問を果された。

 4月9日、日本軍約一万人が亡くなったペリリュー島を訪問され、最南端にある「西太平洋戦没者の碑」に白菊の花束を供へて拝礼された。その後、海の先に見えるもう一つの激戦地、アンガウル島(日本軍約1200人がほぼ全滅)に向っても深々と拝礼された。そのご様子を拝した時、10年前サイパンのバンザイクリフで、海を望んで黙祷を捧げられる両陛下のお姿が二重写しとなって蘇った。10年間この日をどれほど待ち望んでをられたことかと胸が熱くなった。

 ペリリュー島では、激戦を生き残った兵士、そして戦歿者の遺族にもお言葉を懸けられた。両陛下の慰霊のご訪問を仰いで感無量なるものがあったに違ひない。それは以下の新聞報道からも容易に察せられた(仮名遣ひは原文のまま)。

 ペリリュー島守備隊の兵士で生還した元海軍上等兵は陛下からのねぎらひのお言葉を頂いて、「34人のうち私が幸運にもここに来ることができた。一万の英霊たちが喜んでいると思いました」と語ってゐる。アンガウル島からの生還者は陛下からお言葉を頂戴した際、「ありがとうございます。戦友に代わって、御礼申し上げます」とお答へしたといふ。また、父を自決で失った遺族は「陛下と対面させていただき、父を含めた一万人の英霊は感謝しているのでは」と述べてゐる。戦車に乗った父の写真を首から下げてゐた女性は、皇后さまから「父上のお写真?」と尋ねられ、「よかったねと父と喜び合いたい」と話してゐる。兄を亡くした女性は陛下のお姿を拝見して、パラオご訪問を長く思はれてきたお気持ちに感謝し、「兄も遺族も報われた。英霊は手を振っていたと思う」と語ってゐる。

 同行の記者は、陛下の「ご苦労さまでした」といふお声が戦友全員に届いたと思った、と記してゐた。

 ここには、先に述べた太子の「悲能(よ)く苦を抜く」といふ御教示そのままの精神世界がある。両陛下の国民一人一人に寄り添はれるお心が、戦後を生きて来た人々の苦難の人生を包み込み、その苦しみを癒やし、人々に慰めを齎(もたら)されたのである。

 両陛下のパラオご訪問に、改めて君民一体の日本の国柄を仰ぎ見る思ひであった。それは太子の時代から、いや神武建国の理想にまで遡る皇室の永き伝統であると思ひ至るのである。

((株)IHIエアロスペース勤務)

ページトップ  

 かくして日本の国は滅亡を免れ、25年にして自由世界第2位の大国となったのであるが、この聖断方式を考へだしたものは誰か。これこそ8年間侍従長として側近に奉仕し、陛下のお気持ちを最もよく知り尽してゐた父首相の、最後の切札であったのである。

 ここで父の述懐談をご披露しておきたい。世に陛下のご聖断によって日本の国は救はれたといふが、それならば開戦のときはいかに。日本を戦争に投入せしめたご責任は陛下にあるのではないかといふが、法理上のご責任は陛下にはないのである。旧憲法では《天皇は神聖にして侵すべからず》とあって、いはゆる天皇無責任〔無問責〕論を規定してあった。すなはち一切は憲法の諸機関の決定したものを、陛下はただ裁可されるだけであって、これに対する拒否権はないことになってゐる。故に陛下はどんなにご不満であっても、手続きに過ちがなければ裁可されねばならないのである。もし、気に向かないからといって裁可しないでよいといふことになると、これは専制君主制となって、もはや立憲君主制ではないことになるのである。

 今までに陛下が自ら責任をとって国の運命を決定せられた場合が二度ある。一度は、二・二六事件の際、時の岡田首相は暗殺されたと報ぜられ、内閣の機構が動かなくなった折《反乱軍を討伐せよ》とご命令になって、初めて陸軍首脳は決心がきまったのであった。そして二度が終戦のときのご聖断である。陛下の思召(おぼしめ)しを伺ひ、それをもって政府の決定とする方式がそれである。残念ながら開戦のときにはこの方式がとられなかったのである。

 現に開戦を決する御前会議は、昭和16年9月6日近衛首相のときに開かれてゐる。このときは前日の5日に近衛首相が参内して、明日の会議の議題についてご説明申し上げたのであるが、その国策決定要項には、

1 帝国は自存自衛を全うする為、対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概(おほむ)ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す。

2 帝国は右に並行して米英に対し 外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む。対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並びに之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し。

3 前号外交々渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於いて直ちに対米(英、蘭)開戦を決意す。

といふものであったが、これをご覧になった陛下は非常に驚かれ、これでは戦争が主で外交が従ではないか。あくまで外交々渉を主にすべきであると強くお諭(さと)しがあったので、近衛首相は直ちに陸・海軍総長を御前に出るやうに取計らひ、両総長も陛下の仰せられるとほりである旨をお答へし、翌6日の御前会議が開かれたのである。

 原案の朗読の後、原枢密院議長から陛下のお気持ちを体して、外交が主でやむを得ざる場合に開戦を決意する旨の意味と解するがいかにとの質問があって、及川海軍大臣は然る旨をお答へしたのであるが、前日のこともあり、両総長から何らの弁明のなきを非常にご不満に感ぜられ、自ら明治陛下の御製

 よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

をお示しになり、あくまで外交々渉によるべき旨を諭されたのであるが遂に原議長の文意解釈にとどまり字句の修正のなかったために、この原案はそのまま決定裁可され、軍部末端に伝達。128日真珠湾攻撃は実にこのときに決まったのである。

 死を賭してご聖断を仰ぎ、国の運命を決する途あるを初めて終戦後知った近衛首相は、若しあのとき終戦と同じ方式をとってゐたらと責任を痛感され、国際裁判の呼び出しを前にあへて毒を仰がれたのであらうと父は語ったのである。

(東京穀物商品取引所理事長)
【本文中の〔 〕内は編集部の補記である】

■鈴木貫太郎記念館■

〒270-0206 野田市関宿町1273

 終戦時の鈴木貫太郎総理の記念館。鈴木総理が愛用してゐた海軍時代や侍従長時代の礼服、また当時を偲ばせる遺品、白川一郎画伯の描いた「最後の御前会議」の油絵などを展示してゐる。

 財団法人鈴木貫太郎記念会により昭和38年開館した施設で、現在は野田市教育委員会が管理運営してゐる。社会教育課04(7125)1111(内線2655)

 休館日は月曜日(祝日の場合は開館)と年末年始である。  小堀桂一郎著  『宰相 鈴木貫太郎』文春文庫  税別 437円

- -

ページトップ

     どこを改正するのか

 憲法改正の国民投票は、早ければ再来年には実施されるかもしれない、といふ観測がある。憲法改正の投票権年齢を18歳とすることがすでに決まってゐるので、これに合せるため、ことし中に公職選挙の選挙権年齢が18歳に引き下げられる。それが実現したのち、来年夏の参議院議員選挙を行ひ、その後あたらしく構成された国会で憲法改正の発議をする。憲法改正の国民投票は再来年にも可能である、といふ希望的観測である。

 憲法改正に向けて国会が歩み始めようとすることに、もちろん私に異論はない。しかし、この国会での議論を進める立場の与党幹部の発言に私は少々疑問を感じる。衆議院の憲法審査会会長保岡興治(おき はる)氏は、「憲法の全章について各党がオープンな場で具体的な意見を出し合ひ改正項目の絞り込みを進めていく」と言ひ、自民党の憲法改正推進本部長船田元(はじめ)氏は、「各党との議論で共通してゐたのは、環境権などの新しい人権設定、財政規律、緊急事態の取り決めだ。各党が関心を持ってゐるところから深堀りしたい」と言ってゐる。

 このやうなやり方で改憲テーマを取り上げるのは、改正反対派を改正手続きに招き寄せる方便なのであらうが、この環境権条項、財政規律条項、緊急事態条項といふやうなテーマは、長年言はれて来た現行憲法のもともとの欠陥箇所でもなんでもない。私は失望さへ覚える。施行後70年間待ってやうやく訪れる改正チャンスに、まづ第一に、本来の欠陥の補正を断行すること、これこそが改正の本来の目的に沿ふことではないか。

     現行憲法の欠陥

 昭和21年2月、日本政府は、占領軍50万の司令官マッカーサーから司令部作成の憲法草案の受諾を強要された。日本政府がこの受諾を拒否することは不可能であった。かうして強要され、後にほぼそのまま「日本国憲法」となった現行憲法は、日本の歴史と伝統を根本から否定する代物であったといふ、まぎれもない事実の故に、根源的な欠陥を内包してゐた。

 その欠陥の本質的部分は、現行憲法の冒頭の前文の最初の一節に明らかである。この草案はすべてマッカーサー司令部が書いたのであり日本国民の意思はすべて無視されたにもかかはらず、前文第一節の第一句は「我等日本人民ハ国民議会ニ於ケル正当ニ選挙セラレタル我等ノ代表者ヲ通ジテ行動シ、此ノ憲法ヲ制定確立ス」であった。

 敗戦に終ったとは言へ、又いささかの過誤があったとは言へ、大東亜戦争は自存自衛のための日本の存続を懸けた必死の戦ひであったことは、当時の大方の日本人の揺るぎない確信であった。にもかかはらず、右の冒頭第一句に続いて、第二句にはアメリカ合衆国憲法前文の引き写しがあり、これに続く第三句の言ひやうは、今次の戦争は日本政府の間違った行為によって起こされた必要のない戦争であった、といふのである。さういふ前提のもとで、「政府ノ行為ニ依リ再ビ戦争ノ脅威ニ訪レラレザルベク決意スル」といふ宣言であった。

 日本国民は明治23年、先進諸国にならって近代的な立憲主義憲法すなはち大日本帝国憲法を採用し、以来この憲法を不磨の大典として律儀にひたすら遵守して来た。天皇を国家元首とする君民一体の政治の理想が昭和期に日本を対外戦争に至らしめたのではない。この日本の政治原理は終戦時においても変更すべき点はない、といふのが、当時の日本人の共通の理解であった。にもかかはらず、マッカーサーが強要せんとする憲法の前文第一節は、天皇統治の政治原理は人類普遍の国民主権の原理に反するといふ、一方的決めつけをしてゐた。そして、「我等ハ此ノ憲法ト抵触スル一切ノ憲法、命令、法律、及詔勅ヲ排斥及廃止ス」としてゐた。

 かつてわが国の帝国憲法時代に天皇の詔勅とされたもので人類普遍の原理に反するやうな内容のものが存在したとは考ヘられない。帝国憲法が人類普遍の原理に反するといふ言説は当時日本に存在しなかった。

     幣原喜重郎の苦悩

 この昭和21年2月13日、マッカーサー司令部が日本に押し付けようとした憲法草案、すなはち後に日本国憲法と称せられる現行憲法の、冒頭の前文の第一節は、右のやうに当時の国民の理解と著しく隔絶した明確な事実誤認を前提とする文言だった。この草案前文は改正案ではなく歴史否定宣言案であった。日本政府が苦悩したのは当然である。

 時の内閣総理大臣は幣原喜重郎であった。幣原内閣はマッカーサー草案をそのまま受諾することを要求された。受諾しないときは天皇の御身柄の安全は保障されないと考へよ、と通告された。この案は幣原内閣がみづから考案したものとして公表せよ、と命ぜられた。

 憲法本文の規範規定ならば不都合なときは将来改正すればよい。しかし、歴史否定宣言は後で取り消せるものでもあるまい。幣原内閣の苦悩は想像を絶するものであったと思はれる。

 幣原内閣はこの草案を日本政府による改正草案であるとして3月6日公表した。その前日の閣議の席上、幣原首相は特に発言を求めて次のやうに述べたと伝へられる。

 「かような憲法草案を受諾することは極めて重大な責任である。おそらく子々孫々に至るまでの責任であらうと思ふ。この案を発表すれば、一部の者は喝采するであらうが、また一部の者は沈黙を守るであらう。しかし深く心中われわれの態度に対して憤激を抱くに違ひない。だが、今日の場合、大局の上からそのほか往く道がない」(芦田均日記)

     新憲法に反対した憲法学者たち

 憲法草案は公表された3月6日の午前中に枢密院に付議された。憲法学者の美濃部達吉は同年1月に枢密院の枢密顧問官に任命されてゐた。美濃部によれば、改正草案のやうに天皇をただの象徴にする制度は、「わが国体を根底から変革するものであり、わが国民の歴史的信念をくつがへし、国家の統一を破壊するもの」である。美濃部は枢密院の審査委員会の中でただ一人、改正草案に反対した。6月8日昭和天皇ご臨席のもと枢密院本会議が開かれ、この改正案がついに採決に付され鈴木貫太郎議長が賛成者の起立を求めたとき、美濃部だけがうつむいて座ったままであった。

 次いで改正案は、衆議院と貴族院に協賛を求めて付議された。その貴族院で声を大にして反対をしたのは、憲法学者の佐々木惣一であった。その意見は、「帝国憲法の根本は政治を民意と合致して行ひ、また国民の自由を尊重して政治を行ふといふ原理にたってゐる。帝国憲法を今回提案の如くに改正することは私の賛成せざるところである」といふのであった。

 議会を通過した改正案は10月29日、最終決定のため再び枢密院本会議に付され、昭和天皇ご臨席のもとに可決された。議長は清水澄であった。憲法学者でもあった清水はこのときの責任をとって、翌年9月静岡県熱海市の錦ヶ浦で投身の自決をしたのであった。

     批判を封ぜられた憲法

 新憲法は実はマッカーサー司令部の意思であることを指摘し又はそのことを批判することは一切許されなかった。幣原喜重郎にしても首相退任後でさへ終生、第9条の軍備不保持規定が彼の発案であるといふ世間の理解を否定するすべがなかった。この状況は占領終了の昭和27年4月まで続いた。その結果、世間では新憲法は前文も含めてその全章が戦後日本の理想となり、この状況は占領終了後も変はることがなかったのである。

 かくて、今次の戦争は日本政府の間違った行為によって起された必要のない戦争であったといふ、実は誤りである新憲法前文第一節の事実認識が、日本人の新しい世代の人々に当然のこととして受入れられて行った。平成5年の細川護煕(もりひろ)首相の侵略戦争発言も、平成7年の村山富市首相の戦後50年謝罪発言も、その悲しい帰結であったと言ふほかはない。

 新憲法は、新しく人権保障規定を他方面にわたって整備し、さらに内閣総理大臣の権限を強化して国家意思の統一的運用を保障するなどして、20世紀憲法としての先進性を示してゐるのであって、私はこの点において欠陥があると考へてゐるのではない。欠陥は前文の歴史認識にある。幣原首相があのとき指摘したやうに、新憲法の前文が歴史を否定し事実誤認を固定する文言を持ったことの弊害は、極めて重大であった。それは子々孫々に至るまでの責任であった。

     憲法改正理念の本旨

 終戦時ないし占領期に生きた日本人は新憲法前文のうそを知ってゐた。昭和30年11月、自民党を結成した人たちは、「初期の占領政策の方向は主としてわが国の弱体化に置かれてゐた。不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を分裂弱化させたものが少なくなかった」との認識に立って、「現行憲法の自主的改正を始めとする独立体制の整備を強力に実行する」と誓った。現行憲法の改正すべき問題点は、まさにその点にある。現行規定に見当たらない環境権、財政規律条項、緊急事態条項を新しく付け加へるといふやうなことではない。その種の改憲テーマは現行憲法の本質的欠陥なのではない。われわれは、現行憲法前文に現れてゐる本質的欠陥の是正こそ憲法改正理念の本旨であることを、忘れてはならない。

(中島法律事務所弁護士)

ページトップ  

 本年2月、sc逸(はやる)氏と国民文化研究会(略して「国文研」)の共編で、文藝春秋から『人間の生き方、ものの考え方』といふ書物が刊行された。文芸評論家のsc恆存(つね あり)氏による国文研の「全国学生青年合宿教室」での四度にわたる講義と、その折の質疑応答が本書に収められてゐる。この本の副題が「学生たちへの特別講義」となってゐる所以である。編者のsc逸氏はsc恆存氏のご子息で、英文学者(明大教授)で演出家でもある。

     「思想とは何か」を教へられた

 sc恆存氏が最初に合宿教室にご出講になったのは昭和37年のことで、大学2年生であった私は、その講義を聞きたいばかりに、東京から熊本県の阿蘇まで夜汽車で馳せ参じた一人であった。当時の私は、sc恆存といふ文学者を、勝手に自分の精神的「師」とも仰いでゐた。

 現在の青年、学生たちが「sc恆存」といふ文学者に、どれほどの評価をしてゐるのかは寡聞にして知らない。だが私にとっての「sc恆存」とは、かつて「思想とは何か」といふことを、私にヘへてくれた文学者であった。

 時代を支配する思想といふよりも、むしろ主義(イデオロギー)とでも言ふべきものが、世の中で力を振ふことがある。ところがその時代が過ぎてしまふと、さうした「主義」はいつの間にか、忘れ去られてしまふ。だが時代を超えて、人を頷かせる力を持つ「思想」といふものは、確かに存在する。sc恆存氏はさうした力を持つ思想の持ち主であったと、今になっても私は考へてゐる。私がsc恆存氏の本格的著作を初めて読んだのは、昭和35年に新潮社か発刊された『常識に還れ』といふ著書であった。

     60年安保騒動をめぐって

 思ひ起せば、昭和35年(1960)といふ年は、アメリカと日本との間に交されてゐた旧来の「安全保障条約」(略して安保条約)を、新しい条約に改訂した年であった。従来の安保条約は、日本をアメリカにとっての軍事基地とすることを意図し、日本には何の見返りも無いものだった。それは独立と引き替へに結ばれたもので、敗戦国日本にとっては、宿命でもあったらう。

 7年近くもの間、占領下にあった日本が、サンフランシスコ講和条約を締結して、世界で独立国の一員となる為には、この条約の内容の不公平さに、注文を付ける立場にはなかった。これに対し新安保条約は、不完全ながらも、双務的な性格を持つ条約となった。つまり日本はアメリカに軍事基地を提供し、兵站の義務を負ふ代りに、日本にとって一旦有事の際には、軍事力を持たない日本を、アメリカが軍事的に守るといふことを明確にし、必要がある場合には日米双方が随時協議する旨を盛り込んだものとなったからである。当然従来の条約よりも、一歩前進した改訂と言っていいものだった。

 ところが当時の社會党を中心とする革新勢力が、この「新安保条約」への改訂反対運動を起して、多くの学生を巻き込み、国民的な運動にまで発展させた。米ソ冷戦下、今では信じがたいことだが「社会主義は平和勢力である」といった論がまかり通ってゐた時代であった。さうした中で、デモ参加の一女子大学生が死亡した事件が起きた。この事件が当時の日本人の、反政府反アメリカの感情を大いに刺激した。予定されてゐたアイゼンハワー米大統領の来日が直前で中止になるなど、条約は改訂されたものの、この混乱の責任をとる形で、条約改訂を推し進めた岸信介政権は退陣を余儀なくされた。世にいふ「60年安保騒動」である。

     単なる時務論ではなかった

 『常識に還れ』といふ著作は、かうした社会的事件を、著者sc恆存氏が、事実のみをつぶさに検証し、その反対運動並びに、その運動を支援する言論を、厳しく批判した論考であった。現在では考へ難いだらうが、当時この「新安保条約」阻止運動を糾彈することは、文筆家である者にとっては、言論界から抹殺されることを覚悟しなければならない程に、勇気のゐる仕事であった。

 この度の『人間の生き方、ものの考え方』を読んでんだのをきっかけに、私は本当に久しぶりに、『常識に還れ』を読み返してみた。そして、再び「ものを考へる」といふ知的働きをする喜びを味はった。この著作が単なる時務論であったなら、私に新たな知的刺激を与へる筈もない。何しろ50年余も昔の事件を取り扱った論考なのである。

     不穏な最近の世界情勢

 私はこのところの世界情勢に不安感を抱いてゐる。中東での動乱には宗教的対立と、石油利権が複雑に絡み合ってゐる。地理的には遠い世界の出来事のやうに見えるが、日本にとっては死活的なエネルギー政策の観点から見れば、無關心を決め込む問題である筈がない。

 一方東アジアにおいては、中国の軍事的経済的擡頭が、眼に見えて大きくなってゐる。それに比して、アメリカの覇権力の低下は隠しようがない。これは日本の安全保障にとって由々しき大事だらう。かうした日本にとつての多くの不穏な情勢の下で、日本の国論が再び分裂しそうな形勢が見受けられる。同盟先をアメリカに限るべきなのか、はたまた中国とも結ぶべきではないのかと、日本の言論界が右顧左眄し始めてゐる。ATTB(アジア開発投資銀行)への參加をめぐる議論などがその適例だらう。法治さへ確立し得ない中国の主導ではATTBの公正なる運営が担保されるのか。

 私は日本が軍事力を伴った敢然とした独立性を保って欲しいと考へてゐる。だがそれを許すほど、世界情勢は甘くはないだらう(アメリカの腹の底も見定めなければならないし、同時に露骨な中国の海洋進出に対処するために、アメリカを日本から「逃がさない」ことも必要だらう。日本としてアメリカをどう活用するかが真剣に考へられていい)。私の希望は別として、今少し実現性のある、解決策を考へ出す必要がある。それには「常識」を働かさなければならない。

     現実に教へられる生き方

 いかなる場合でも、正確な情勢分析は必要である。長期的スパンで考へるためには歴史の智識も当然ながら必要である。その上で最も望ましい心構へといふか、拠りどころこそが、まさに「常識に還れ」のひと言ではないだらうか。私は現代にあって、これから最も必要な「人間の生き方、ものの考へ方」が、この著書の次の一節に、篭められてゐると考へてゐる。

  「今の世の中には、何もかも揃つてゐるのに、常識だけが欠けてる。故意にさうしたかのやうに、常識だけが欠けてゐる。職人は少し手のこんだ仕事をするとき、あらかじめ寸法を出さずに、『物にヘはつてゆかう』と言ふ。常識とは現実に随ひ、現実に教へられる考へ方であり、生き方である」
 私は改めて考へてみた。「常識」とは何だらうかと。
 この著書冒頭の「序にかへて」の内容は實に含蓄に富んでゐる。
「私の生き方ないし考へ方の根本 は保守的であるが、自分を保守主義者とは考へない。革新派が改革主義を掲げるやうには、保守派は保守主義を奉じるべきではないと思ふからだ」
 そして更にかう続ける。
「保守的な態度といふものはあつても、保守主義者などといふものは、ありえないことを言ひたいのだ」

 sc恆存氏は「保守的態度」と、「保守主義」とを峻別してゐる。主義とかイデオロギーといふ言葉には、凝り固まった「考へ方」に固執するといふイメ―ジがつき纏ふ。物事を正しく判断するには、現実の正確な分析と智識の積み重ねの上に生れた柔軟な「考へ方」があって然るべきである。その「考へ方」を「常識」と呼んで、悪い筈もない。sc恆存氏は「常識」とは、「現実に随ひ、現実に教へられる考へ方であり、生き方である」と明言してゐる。この言葉を単なる「現実肯定主義」と、受け取っては間違ひである。

 これからの私たち日本人に求められるものは、「現実を否定する革新主義」ではなく、「現実に引きずられる保守主義」でもない強靱な「考へ方、生き方」が、必要ではないだらうか。それをsc恆存氏は、「常識」と名づけたのである。この度の新刊書『人間の生き方、ものの考え方』を読んで、私は改めてさう強く感じるのである。多くの人達にこの書物を読んで、「常識」を鍛へてもらひたい。私は切にさう願ふのである。

((株)柴田代表取締役)

歌だより

 去る3月29日(土)から30日(日)に懸けて、関東地区の会員17名が神奈川県箱根で小合宿をもった。その折の詠草の一部である。

          さいたま市 池松伸典
樹々の間ゆさしのぼりゆく朝日見つつ友らと共に御製(み うた)を拝す

          茅ヶ崎市 北濱道
先人の言葉を次々伺へば深き世界に導かれゆく(大岡弘先輩の発表)

          八千代市 山本博資
地震(なゐ)により学び給ひしみをしへを若き友らに語り給ひき(坂東一男先輩)

          中野区 坂東一男
各々の持ち味生かす神奈川の友らの力に成りし合宿
良く眠り目覚めし朝(あした)の空に鳴く鶯の声かそけく聞ゆ

          大田区 島津正數
数多なる発表資料を準備して皇位継承の課題説きたり(大岡弘兄の発表)
現代の数多の事件を引き起す基(もとゐ)は規範意識の欠如にありと(岩越豊雄兄の発表)

          横浜市 山内健生
理事長の具体的なる提言を心ひとつに皆と聞きゆく
部下あまた率ゐし日を語らるる坂東(一男)さんのお声力強しも

          柏市 澤部壽孫
若き日にたちまちかへり思ふまま語り合ひけり夜の更くるまで

ページトップ  

 祝日法によれば「5月3日」は憲法記念日で、「5月3日=日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」(第2条)と記されてゐる。そのため毎年のことだが、「5月3日」が近づくとテレビや新聞などでは憲法に関係する報道や論説が多くなる。しかし、なぜ「5月3日に施行されたのか」について管見にして論じたものを目にしたことがない。

 4月半ば都内で何気なくもらったチラシは所謂護憲派のもので、「平和といのちと人権を! 5・3憲法集会」と大きく書かれてゐた。そこには「私たちは、『平和』と『いのちの尊厳』を基本に、日本国憲法を守り、生かします」云々とあった。「5・3憲法集会」ではノーベル賞作家の「お話」があるやうだが、日本国憲法が「平和といのちと人権」を保障してゐるといふのは戦後日本に蔓延してゐる質(たち)の悪いプロパガンダの最たるものだと思ふ。どう考へても、護憲=「平和・いのち・人権」はそのまま繋がらない。さらにチラシには「集団的自衛権の行使に反対し、戦争のためのすべての法制度に反対します」云々とも記されてゐたが、これほど奇妙な主張もないだらう。尖閣諸島が狙はれてゐるのに何もするなと言ってゐる。動物的な「いのち」しか眼中にないらしい。

 祝日法に話を戻すと、確かに日本国憲法は昭和22年5月3日に施行されてゐる。施行日が5月3日になった理由は表向きは簡単だ。前年の昭和21年11月3日に公布されたからである。即ち「100条(第1項)この憲法は、公布の日から起算して6箇月を経過した日から、これを施行する」となってゐたからである。さうであれば施行日以上に公布日に意味があるとみるのが常識ではなからうか。ところが11月3日との関連で憲法を論じたものを読んだ記憶がない。「5・3憲法集会」を催す護憲派はもとより、改憲を主張する人達からも公布日の重みについて聞かされたことがない。

 ポツダム宣言受諾による降伏文書調印(昭和20年9月2日)から、講和条約発効によって主権回復(昭和27年4月28日)までの6年8ヶ月間は、被占領期で主権行使の主体は連合国軍総司令部(GHQ)であった。即ちわが日本国家は人体に譬へれば中枢神経麻痺の仮死状態にも等しい異常事態だった。この時期に公布されたのだから、その主体はGHQであり、草案の作成はGHQスタッフによる一週間余の作業であった。そして「この草案を受け入れなければ陛下の御身に差し障りが生じるであらう」旨を言はれて強要されたのである。

 当時、GHQが草案を作成したことは伏せられ、それを報じることは禁じられてゐた。新聞・ラジオ・書籍などのメディアはGHQの検閲下にあった。むろん識者の多くはGHQ製であることを見抜いてはゐた。永井荷風の日記『断腸亭日乗』に「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし」(昭和22年5月3日)とあるのは有名な話だが、あくまでも「帝国憲法の改正」の建前で、「枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正」(上諭の一節)として、昭和21年11月3日に公布されたのだった。

 即ち日本国憲法は帝国憲法(明治22年2月11日─紀元節の佳節─発布)第73条に規定に基づいた帝国憲法の改正として公布されてゐる。押し付けの実質は変りようがないが、建前にせよこの手順を践むことで形式的ながら法的正統性が加味されたのだ。しかも公布日は11月3日の明治節の佳節(明治時代の天長節─天皇誕生日─。四大節の一つ)であった。明治との連続性を大いに匂はせる中で国民に発表されたのであった。少しでも抵抗少なく受け容れさせようとしたGHQの情報作戦とみていい。従って歴史に繋がる自主憲法とするためには「11月3日公布」の原点、当時の国民感情を折々想起しつつ論議すべきだと思ふのである。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

 

編集後記

 陛下のパラオご訪問の折の「お言葉」を二頁に謹記した。拝読するだに、粛然たる思ひにさせられる。巻頭で説くがごとく皇室の永き伝統を現(うつつ)に仰ぐばかりである。
(山内)

ページトップ