国民同胞巻頭言

第642号

執筆者 題名
工藤 千代子 若き防人たちの旅立ち
- 陸上自衛隊幹部候補生学校卒業式に参列して -
寶邉 正久 御製碑のこと
今秋の皇居勤労奉仕について
昭和天皇のお歌
鈴木 一 再掲載『国民同胞』第257号(昭和58年3月)から日本の滅亡はいかにして救はれたか(上)
  - 『日本への回帰』第50集「はしがき」から -
安倍内閣による憲法解釈の変更で浮上した「戦後日本」の病理
  平成26年9月淡路合宿教室 中西輝政先生の御講義から
「日本を取り戻すとは どういふことか」
新刊紹介  文藝春秋 刊  sc恆存〈学生たちへの特別講義〉
『人間の生き方、もの考え方』税別 1,500円
sc 逸・国民文化研究会編

 平成25年、大学を卒業した長男は、陸上自衛隊の一般曹候補生として横須賀での教育訓練を終へ、朝霞駐屯地に配属された。そこでの勤務の傍ら幹部候補生学校への準備を重ね、昨年4月、念願の入校を果した。福岡県久留米市にある幹部候補生学校では、卒業までの10ヶ月間、週末を除いた毎日、早朝6時起床から消灯23時まで、厳しい教育訓練が続く。座学を始め高良山(こうらさん)登山走、完全武装による不眠不休の百キロ徒歩行進とそれに加へての戦闘訓練など、試練の連続であった。

 入校して間もない5月、長男は銃を用ひた訓練で転倒し、目の上を10数針縫ふ怪我をした。幸ひ脳や視力に影響はなく、間もなく訓練に復帰することができた。また、不眠不休の百キロ行進中、激しい疲労に襲はれ意識を失った。この時も幸ひ数分後に意識を取り戻し、早足で行進に加はることができた。かうした事態を想定してのことだらう、予め上官から父兄宛に、本人には内緒で励ましの言葉を送るやうにとの御手紙を頂いてゐた。帰省の度に「十分に休養するように」と届くお葉書も含めて、息子たちは厳しさの中にも、温かな眼差しに包まれてゐたことを有難く思ったことである。

 母親として息子に手紙を書いた。

  晋さん(長男の名は晋太朗)、いつも厳しい訓練本当にお疲れさまです。また、今、百キロ徒歩行進の2日目、疲労がピークとなっていることでしょう。晋さんが1歳半の頃の写真を一葉同封します。これはペルシャ湾岸沖掃海艇が帰還された日のもの。ペルシャ湾では日中50度にもなる灼熱の中、飲み水も隊員1日にたったコップ2杯のみ支給、と言う過酷な環境下で、立派に任務を果たされてのご帰還でした。秋晴れの横須賀、たくさんの日の丸の小旗が海岸線に揺れていました。「万歳」「お帰りなさい」「有り難う」。響き渡る歓声に興奮した晋さんは、日の丸を振りながら坂道を行ったり来たり。自衛隊の方たちに「坊や、頑張れ!」と可愛がられて得意顔でした。そんな晋さんも今では幹部候補生となり、訓練の集大成を迎えています。これから我が国を護るのは、晋さんや今隣りにいる仲間の番となりました。どうぞ、あと少しだけ厳しい訓練に耐えて、強い精神力でのりきってください
(仮名遣ひママ)

 年が明けて1月24日、総勢291名が無事卒業の日を迎へた。陸自の幹部候補生学校は、霊峰高良山を背にした筑後川のほとりにある。初めて足を踏み入れた駐屯地は、訓練に必要なもの以外、無駄なものが一切ない。それだけに、校風の象徴である「質実剛健にして清廉高潔」の「剛健」と刻まれた碑と、青空を背にはためく国旗が美しい。私のやうに飛行機で遠く関東などから来た者もゐたが、九州各地から車で来訪した父兄が多いとの印象を受けた。聞けば、自衛官は九州出身者が多いとのこと。九州は防人の地であり、名高い戦国武将も多く、その誇りを受け継いでのことなのだらう。

 「卒業生姿勢を正せ!」「卒業生整列休め!」。起立して休めの状態でも、数分間少しも身動きすることがない。家族控室の和(やはら)いだ雰囲気と一変し、張り詰めた空気が式場を包む。ここで最も感動したのは、青年たちが肝(はら)の底から声高らかに歌ふ、気迫にあふれた国歌斉唱であった。この青年たちのほとんどが平成生れで、公立の学校で「ゆとり教育」を受けた世代である。けれども心の底では、ささやかでも防衛の一端を担はうと、それが為に自らの甘えを断ち切り、厳しい本物の教育を求めて、この学校にたどり着いたのだらう。ここでの厳しくも目まぐるしい経験を糧に、若きリーダーたちは、すぐさま各地の任務地へと跳んで行った。

 若干20歳代半ばで、各々20人から30人前後の部下を持つ。変転極まりなく動く複雑な世界情勢の中で、重い決断を迫られる事態にも遭遇するだらう。粛々と務めを担はうとする防人たちのためにも、この国のあるべき姿を求めて私も日々努力を重ねて行きたい。

(主婦)

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 亀山八幡宮本殿の程近い処に昭和天皇御製碑が建ってゐる。ただ「御製」といふ字が大きく書かれて昭和天皇御製とは書かれてゐない。先帝御在位の時だからまだ昭和天皇の御称号はないのだ。

 昭和60年、長い苦難の60年を共に戦ひ共に泣き共に手を取り合って御治世を奉謝するための御製碑を建立しようといふ議が起り、ではどの御製を碑とするか、時の宮司、先代の竹中所孝(のぶ たか)さんから、あんたならどう思ふかと私にもお尋ねがあった。

 数日して私は、終戦直後の御製と伝へられる

   爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

 では如何かとお答へした。宮司さんは昭和8年の御製

        朝海
   あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を

を示された。その時の感想を申したいのです。

 私がお選びした御製はこの度の大戦を「いくさとめけり身はいかならむとも」と歴代のどの御製にも見えないはげしい捨身の大御心を末の世までも仰ぎたいといふ思ひからに他ならなかったが、宮司さんの仰いだ御製は昭和8年新年にお示しになった御製で、御即位以来僅か8年、満洲に於て張作霖爆殺、満洲事変、国際連盟脱退と相継ぎ、コミンテルンの反日策動、太平洋上の激浪、この時期の状勢を直視された大みうたであった。

 昭和のはじめの「朝なぎの海」は深海に激動を抱いたままの海であり、昭和20年につづく海であった。後になって思ふことだがこの20年をつなぐ一本の道は「あめつちの神にぞいのる」といふ「ことば」ではなからうか。この「あめつちの」といふ御製は私たちは小学校の時に聞いたお歌であった。敗戦といふ未曾有の御裁断御祈念までつながって躍動するおことばが昭和御即位以来の御一念であったのかとさへ思はれたのです。議論の一つさへ無用でした。即座に相通ふものを感じたのです。

 私は宮司さんの親書を持って上京、明治神宮宮司高澤信一郎氏に御挨拶をなし御製の謹書をお願ひした。幸ひに大東塾鈴木塾監の御同道を得てお二人の談笑を聞きながら無事にお聞き届きを頂いた次第である。

 竹中宮司は皇學館を卒業してすぐ明治神宮に奉職された由だがその時の上司が高澤さんだったと聞いてゐたから、こちらのお願ひは即座に快くお聞き届け下さった気配だった。

 あとで思ふことであるが、両宮司の気脈の通ひ合ひは「あめつちの神にぞいのる」といふ大みことばのただ中にあったのかもしれない。

 誰にも読める大きい丸い字で謹書して下さった文字跡は幸ひに四国の青石に深く刻まれてここに建つ。建碑序幕は昭和60年11月10日御在位60年奉祝式典の日。

  ─執筆者は、当時。天皇陛下御在位60年下関奉祝会の役員─

(本会参与、寶邉商店相談役)
─『亀山氏子だより』第78号から─

(編註) 亀山八幡宮
起源は貞観元年(859)と伝へられ、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を主祭神とし、仁徳天皇・武内宿禰を合せ祀る。通称亀山さま。山口県下関市中之町1番1号に鎮座。

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 今年は国民文化研究会が設立されて60年を迎へます。60周年記念式典は11月7日(土)に「ホテルグランドアーク半蔵門」(東京・千代田区)に於いて開催されます。これに合せて皇居の勤労奉仕を式典の翌週の11月の第2週(9日〜12日もしくは10日〜13日の4日間)に行ひたく宮内庁に申請する予定です。体調不良を除き4日間の全日程参加が原則です。

60周年記念式典および勤労奉仕に地方からの皆様にもご参加頂き度く、ご案内申上げます。

 皇居勤労奉仕に参加ご希望の方は国文研事務所宛に氏名、生年月日、住所、電話番号(携帯電話番号)をご記入の上、ファックスあるいはメールにてお申込み下さい。一生の記念になります。

 お申込みは4月20日までにお願ひします。

 なほ、60周年記念式典については後日皆様に詳細をお知らせ申し上げます。

(事務局 澤部壽孫)

 

小柳陽太郎他編著(草思社刊) 『名歌でたどる日本の心』 ─スサノヲノミコトから昭和天皇まで─

 国文研版  頒価 1,500円  送料 300円

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     よるべなき幼子(をさなご)どももうれしげに遊ぶ声きこゆ松の木の間に

 昭和24年、九州地方ご巡幸の折、福岡市の郊外の、和白村(わじろむら)青松園(児童施設)に賜った御製。陛下は敗戦より「全国焦土を隈なく歩いて、国民を慰め励ましたい」とのご決意をお漏らしになり21年2月からご巡幸の第一歩が踏み出されることになった。「よるべなき幼子ども」は頼みとする親を失った満洲朝鮮からの引揚孤児たちである(『筑紫路を埋めた日の丸』による)。「うれしげに遊ぶ声きこゆ」木の間に聞える子供たちの声に耳を傾けてをられる陛下のお姿が目に見えるやうなお歌である。

 同じ九州ご巡幸のとき、熊本県の開拓地では「かくのごと荒野が原に鍬をとる引揚びとをわれはわすれじ」と引揚者と苦悩を分ち合ふお気持ちを強いお言葉でうたはれた。どん底から湧き起る祖国復興の息吹きは、この天皇のみ心と、それをお迎へする民のよろこびとの強いふれあひから起ったのである

     風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり

 「平和条約発効の日を迎へて五首」と詞書がある御製の第一首。

 次いで「国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに」と詠まれたその日は昭和27年(1952)4月28日であった。昭和の御世は開けて以来の国難、戦争、敗戦、降伏、占領とまことにあるまじき多難の歩みであった。先に拝した終戦のお歌のやうに、「身はいかならむとも」と文字とほり捨身のご決意によって、やうやく平和条約締結発効、独立の日を迎へることができた。

 「風さゆるみ冬は過ぎて」と、その年月を顧みられるお言葉に逆境の中の澄み切ったご心境と、「まちにまちし」といふお言葉に、ご心中に響きわたる国家主権回復のおよろこびが偲ばれる。

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     まへがき

 『波涛』(海上自衛隊関係者の雑誌)の編集子から父の思ひ出≠書くやう最初に手紙でご依頼を受けたのであるが、私はこの題名の下では書くことをご辞退したのである。

 理由は鈴木貫太郎について、父としての思ひ出といふものを、果して読者諸君は期待してをられるのであらうか。私は父と子との思ひ出といふものを、鈴木貫太郎の日本歴史における位置付けをよく承知してをられる方々にこそ、語りたいと思ふのであるが、「波涛」といふ海上自衛隊の若い集団の方々は、本当に終戦の意義を知ってをられるのか、私は大いに疑問に思ふのであへてご辞退を申し出たのである。

 あの敗戦時の広島の原爆の実況もさることながら、東京全都の焼野原もご存じない方々に、戦争の惨禍をどんなに説いても身をもって体験しないかぎりそれは無理であらう。日本が滅亡するか生き残るかといふ切迫感を、今これらの方々に再現することはとても不可能に思はれる事実昭和20年8月は、かつてローマ帝国に亡ぼされたカルタゴのごとく、一億玉砕を本当に覚悟せしめられてゐたのである、

 この時点における内閣総理大臣の心境を語ることは、今思ひ出しても肌に粟を生ずる思ひがする。この父を語る前に、父の一生を最も短い言葉で綴った一文をご紹介しよう。

     父貫太郎の一生

 2000余年の日本歴史に、いまだかつて経験したことのない日本本土の焦土化しつつある最中に、いはば日本民族が滅亡するか、残るかといふ、その死活の運命を託されて内閣総理大臣の大命を拝した父は、日本歴史上まれに見る悲劇の人物であったと言はねばならない。

 父の生れた慶応3年(1867)といへば、明治元年の前年である。明治維新の動乱と同時に生を享けた父は、日本歴史で最も波瀾の多い一世紀を象徴してゐる人物といっても過言ではあるまい。元来父は、海軍々人として終るべきはずであった。日清、日露の両戦役には、あるいは水雷艇の艇長として威海衛(いかいえい)(中国山東省の港)の敵港深く突入し、あるいは駆逐隊司令として日本海々戦に敵艦二隻を撃沈し、水雷戦術の第一人者といふ折紙をつけられたが、不思議にも武運に恵まれて身に一弾も受けず、部下にも戦死者を出してゐない。

 やがて海軍々人最高の栄誉たる軍令部長を歴任中、全く思ひもよらぬ侍従長の任命を受け、今上陛下(昭和天皇)の側近に奉仕することとなった。青年将校を中心とする国家革新の機運の騒然たるさ中である。

 果して、昭和11年2月26日、いはゆる二・二六事件に遭遇し、反乱軍伍長の撃った三弾は、眉間、心臓、睾丸と急所を突いたが、奇跡の連続で一命を取りとめ得たのは、正に終戦の大業に当らしめんとの天のたくめる配慮としか思はれない。

 軍人は政治に関与すべからず、これが父の信条であった。父は文字どほり政治は大きらいであった。かつて海軍最大の疑獄事件たるシーメンス事件を処理するため、最も政治色のない人物として海軍次官に抜擢されたときも、料亭や待合での話合ひはいっさいやらないことを条件にもちだしたくらゐであった。

 昭和20年4月5日、重臣会議は一致して小磯第二次戦時内閣の後継内閣首班として父を推薦したが、枢密院議長として重臣の一人に参加してゐた父は、頑として応じないので、木戸内大臣は陛下にじきじきの説得をお願ひし、父は陛下のご前において、自分は生来の武弁であって、政治には全くの素人であること、老齢で耳が聞えず、重大なる過ちを犯しては申訳ないことを申し上げて、ご辞退したのであるが、陛下の「耳が聞えなくてもよいからやれよ」との再度のお言葉を拝し、全くいかんともすることができず、つひに大任をお承けしたのだ≠ニその夜待ち受けてゐたわれわれに語ってくれた。

 そのときの悲壮な面持ちは、今でもありありと眼底にあって忘れることはできない。おそらく死生を超えた、ただ陛下の大御心を体し、いかにして日本民族を救ふべきかの一途に凝思した高い高い心境であったと思はれる。

 4ヶ月の終戦内閣は、口には一億玉砕を唱へなければ、いつクーデターが起らぬともかぎらない。父の真意はただ一人の閣僚にすら打明けることができないといふ苦しい月日がたっていった。日ごろ自分は旗振りであると自認してゐたとほり、原子爆弾とソ連の参戦の報を手にするや、一気呵成にご聖断方式によってさしもの終戦の大業は成就したのである。

 世になぜもっと早く終戦にできなかったかといふ人がある。多少の波瀾はあったが、大局的に見て一糸乱れぬ終戦にもちこみ得たのは、この時機を正に捕へたからにほかならない。早きに過ぐれば、必ずや陸軍によるクーデターとなり、遅きに過ぐれば、38度線による南北二つの日本ができてゐたであらう。幸ひにして陛下とともに日本民族は滅亡を免れたのである。

 しかし、8月15日早朝、国を売った鈴木総理を殺せといって、兵隊の襲撃を受け、わづか一、二分の差で身をもって難を免れ、悲劇の主人公の大団円とはならなかったのである。そして昭和23年4月17日、永遠の平和≠フ一語を残して郷里関宿(せきやど)(千葉県東葛飾郡関宿町、現在は野田市)の自邸に眠るがごとき大往生を遂げた。大勇院殿尽忠孝徳日貫大居士≠フ戒名は、かつて座右の銘とした奉公十則の内に驕慢なるべからず≠フ一条があるが、あへて自らこの戒名を書き遺していった父の自信のほども偲ばれる次第である。享年82歳。菩提寺千葉県関宿の実相寺に葬る。

     日本の滅亡はいかにして救はれたか

 人の運命程図り知れぬものはない。二・二六事件によって眉間と心臓と睾丸といふ急所に三弾を受けて、奇跡的に助かったものが、日本歴史始まって以来の国難に、最後の首相の大命を拝して、そして陛下のご聖断をお願ひするといふ前代未聞の方法によって、一億玉砕から日本を救ふことができたのである。大命降下した昭和20年4月5日の夜半、自分は、軍人は政治に関与すべからずとの明治陛下のご意図を体して、武人としてやってきたものであって、全く政治といふものを知らない。そのうへに老齢で耳が遠く、陛下の大事なお言葉も聞き漏らすことがあるやも知れぬ、と申し上げて、二度まで大命を拝辞したのであるが、陛下は「政治を知らなくてもよい、耳が聞えなくてもよいからやれよ」との再度のお言葉に、とうとうこのやうなことになったのだ≠ニ語る困り果てた父を前にして、私は一晩眠らずに考へざるを得なかった。思ふに父はこのとき程死ぬことは易く、生きることの難しさを痛感したことはあるまい。

 父はかねてより、満洲事変以来出先の軍部が統帥に従はず、勝手に戦線を拡大して行くことが、最大の癌だと申してゐたので、大命を拝した以上統帥権の確立について何らかの手を打つに違ひない。さすれば、青年将校による暗殺は必至である。しかし、親子の関係を度外視して今はこの日本最後の人物の生命を守らねばならぬ。しかし、これを他人に頼むことはできない。今は山林局長(農商務省)の職を辞して自ら首相の楯となって青年将校の銃口の前に立つべし、との結論に到達したのである。

 そこで総理大臣秘書官となって首相の影のごとく、いかなるときでも直ちに父の前に飛び出せる態勢に専念したのであった。果せるかな、8月15日国を売ったバドリオ(連合国側と接触して休戦協定を結び、結局は降伏したイタリアの首相)を倒せとの青年将校の襲撃により、自宅は焼かれたが、一、二分の差で難を免れたのは幸ひであった。

 父は4月7日組閣を完了してその第一声を国民に送ったが、その中で行け一億よ、余(よ)の屍(しかばね)を越えて≠ニいふ文句がある。79歳の老宰相が陣頭に立って聖戦完遂を誓ふ激励の言葉としかとれない一語であるが、実はその中に、終戦の大業を果すためには売国奴の汚名をも甘んじて受けねばならぬ。あるいは、一部国民に足で屍(しかばね)を踏みにじられるかも知れないといふ悲壮な決意が入ってゐたのであった。

 当時休戦とか講和とか和平とか終戦とか一語でも言はうものなら、クーデターは必至であった。されば閣僚の誰一人に対しても、あくまで戦ふの一点ばりで押し通したのは当然であった。7月26日ポツダム宣言が発せられ、8月6日広島に原爆が投下され、8月9日ソ連参戦の報を耳にしていよいよ来るものがきましたね≠ニ一気に終戦工作に驀進したのである。しかし、一億玉砕、国体護持を主張する軍部をして全面降伏を呑ませることは至難中の至難である。閣議は延々と続く一方、最高戦争指導会議も激論に明け暮れ、8月9日の深夜異例の御前会議となるのである。

 従来御前会議といへば、事前に一切の手筈を整へて陛下の御臨席を仰ぎ原案たる文書を読み上げて、一、二の質疑応答のうへ満場一致の形をとって終るといふ、いはば式典のやうなものである。それが突如として事務当局のお膳立てを全く除外して、原案もないまま御前会議となったのである。

 首相、外務大臣、陸・海軍両大臣、陸軍参謀総長、海軍々令部総長、そして枢密院議長を加へて七名が正メンバーとして陛下の御前に列席し、まづ、東郷外務大臣からポツダム宣言を受諾することを可とする旨の意見の開陳があり、これに対して阿南陸軍大臣から、尚我に戦力ある以上あくまで戦はねばならない旨の主戦論が展開され、米内海軍大臣と平沼枢密院議長は東郷説、梅津陸軍、豊田海軍の両総長は共に阿南説、議論の尽るところを知らぬ間に首相は立って御前に進み、陛下のご聖断をもってこの会議を決定したい旨を奏上したのである。

 そこで陛下は自分は東郷外務大臣の説に賛成である。念のためその理由を申し述べよう≠ニ仰せられて諄々としてお言葉があったのである。そのお言葉こそそのまま終戦の詔勅《玉音放送》となって、一般国民にお示しになられたのであって、まことに拝読するものをして言々句々その肺腑を抉(えぐ)られるものがある。10余時間に及ぶ続行中の閣議は、ここにご聖断をもって閣議決定にしたい旨の首相の発言によって一決し、直ちにポツダム宣言受諾の電報を発することとなった。外務省の原案は天皇の国法上の地位を変更する要求を包含しをらざることの了解の下に℃諾するといふのであったのを、平沼議長の強い意見によって天皇の国家統治の大権云々≠ニ改めたために、今度は米英側で大論争となり、遂に回答が十日までかかるに至ったうへに、天皇及び政府は連合軍最高司令官の制限の下に置かれる≠ニいふ条件が付いたので、ここで国体護持派すなはち主戦論者の陸軍側に反対が起り、閣議も最高戦争指導会議も遂に結論を得ざるに至ったのである。14日午前からのお召しにより閣僚全員と最高戦争指導会議関係者一同は再び宮中防空地下壕に参集し、再度のご聖断が下ったのである。

 このとき陛下は、第一回の御前会議のときと同じやうなお言葉があり、特にマイクの前に立たうとまで言はれたのである。国の運命をかけたこの一瞬、参列者は声を上げて泣き伏したと言はれる。(以下、次号)

(東京穀物商品取引所理事長)

【本文中の( )内は、編集部の補記である】

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 「歯止めは具体的にどうなってゐるのでせうか、十分に掛かってゐるのでせうか」
「行使容認は限定的だと言ひますが、実際に歯止めは利くのでせうか」
 「憲法第九条の精神を貫くためには、より具体的な歯止めが求められてゐます」
 「国際社会に理解してもらふことから始めることが大切だと思ひます」
 これは昨平成26年7月初め、NHKテレビから流れて来た声≠ナある。

 同月1日、安倍内閣は権利はあるが憲法上、行使できない≠ニする従来からの「集団的自衛権」に関する憲法解釈を変更した。それを受けての放送だった。

 かねて容認反対を打ち出してゐた朝日新聞や毎日新聞は、当然のやうに論難してゐた。曰く「憲法の基本原理の一つである平和主義の根幹を、一握りの政治家だけで曲げてしまっていいはずがない」、曰く内閣が「憲法の縛り」を外すなら、「歯止めは国民がかける」云々と、倒閣宣言もどき筆勢だった(7月2日付の社説)。国会での関連法規の審議に先だって論議の行方に枠をはめんとするかのごとき論調だった。

 賛否を言はずに解説するはずのNHKにして冒頭のやうだった。

       ○

 自らの力で自国を守るのが「個別的自衛権」であるならば、特定の国と相互に助けたり助け合ったりするのが「集団的自衛権」である。前者を根柢に据ゑつつもそれを補完するものが後者で、平生から両々相俟って機能するやうにして置くことで抑止力は各段に高まるはずである。これまで「集団的自衛権」は行使できないと公言してゐた国が他にあったであらうか。

 わが尖閣諸島(沖縄県石垣市)への野心を顕(あらは)にして、その海域から、さらに空域まで侵入しつつある中国の横暴ぶりを見れば、権利はあるが憲法上、行使できない≠ネどと言ってはをられないはずである。島嶼(とうしょ)をめぐって争ふフィリピンやベトナムに対する彼の国の高圧的な態度を見よ!。かうした情勢下にあって、猶も主要メディアは「歯止め」を強調する。

 そもそも「歯止め」とはどういふことなのか。辞書(『大辞林』)には「事態の進展・進行をとめる手段や方法」とある。「歯止めを掛ける」とは他動詞的に使ふ言ひ方であって、自らの行為に関して自らが歯止めを掛けるとは普通は言はないはずだ。ところが、歯止めは大丈夫なのか?歯止めは利くのか?「九条の縛りを解くな!」など大まじめに論じられてゐる。

       ○

 何ごとに拠らず、己の最善を尽すべく努めることは人間社会の基本である。ところが、こと国防、国の安全保障となると、右のやうに自国の手足をどう縛るべきかが議論の入口となる。「歯止めが曖昧だ」「いや、歯止めは掛かってゐる」との遣り取りはあっても、わが国の持つ智恵と能力を最大限に発揮して万全の態勢を整へよ!との声は、政党間の討論の場でも先づ聞かない。

 自らを縛らないと何を仕出かすか分らないと思ってゐるのだらうか。自らを縛ることが「最善な途(みち)だ」とでも思ひ込んでゐるのだらうか。いづれにしても、病的な「自国不信」「自己不信」と言ふべきであり、「国際社会に理解してもらふことから始めることが大切だ」との論に至っては、本末転倒した「自己喪失」「自信喪失」の告白に他ならない。

 ともかく、安倍内閣による憲法解釈の変更は只ならぬ病状を浮上させたのであったが、かうした観念の拠って来る源を正視し克服しなければ洋々たる前途は開かれないであらう。

       ○

 「占領軍が東京入りしたとき、日本人の間に戦争贖罪意識はまったくといっていいほど存在しなかった。彼らは日本を戦争に導いた歩み、敗北の原因、兵士の犯した残虐行為を知らず、道徳的過失の感情はほとんどなかった。日本の敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行き渡っていた」

 右は、70年前の昭和20年(1945)9月から6年8ヶ月(昭和27年4月の講和条約発効まで)、わが国を占領統治したGHQ(連合国総司令部)による「月報」記事である(佐P昌盛・井尻千男他共著『新しい歴史像の創造』所載)。ここには「自国不信」や「自信喪失」の片鱗もない。そこにあったものは「戦争贖罪意識、道徳的過失の感情はまたったくといっていいほど存在しなかった」日本人であり、「敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行き渡っていた」日本人であった。

 「歯止め」の必要性が語られる今日となんと大きな落差であらうか。しかし、それ故に、ここを起点に日本人のパラダイム(思考の枠組み)の転換をはかるべく占領統治が始まったのであった。即ち、「日本を戦争に導いた歩み、敗北の原因、兵士の犯した残虐行為」が脚色され強調されて一方的に流布されることになったのである。

 GHQは食糧支援の蔭で、新聞・ラジオ・雑誌・書籍・映画などを検閲体制下に置き総動員して、悪しき日本≠広く行き渡らせるべく「砲火なき」思想攻撃を続けた。その実態は、長崎での被爆の惨状を綴った永井隆博士の『長崎の鐘』が、GHQ諜報課がまとめた付録「マニラの悲劇」(日本軍の「暴虐ぶり」を強調した)を同時収録することで出版が許可されたといふ一例を挙げるだけで十分だらう。

 かくして、戦争贖罪意識∞道徳的過失の感情≠ェ醸成される中で、GHQスタッフが起草した憲法には陸軍ゼロ・海軍ゼロ・空軍ゼロ≠ェ謳はれ、「国の交戦権は、これを認めない」(第九条)と書き込まれたのであった。しかし、外から嵌られたかうした自立の否定の文言が、今日では「戦争への反省から自らの軍備にはめたタガである」(朝日社説)となるのだから、げに恐ろしきパラダイムの転換であった。

       ○

 「戦後70年」の今年は、占領統治終了(講和条約発効、主権回復)から数へて63年となる。しかしながら、いま猶、GHQ原案の憲法がそのままで国政の拠りどころとされてゐる。パラダイムが変換されたまま戻ってゐないのだから、「歯止め」必要論が当然のやうに語られるのも無理はない。だが、北朝鮮の核・ミサイル開発、核武装中国のさらなる軍拡と海洋進出など安全保障環境の変化によって、さすがにこのままで良いのかとの動きが生れてゐる。

 安倍内閣を憲法解釈の変更へと動かしたのもその一つであったし、政治家が憲法改正を口にすることもタブーではなくなった。しかし、その憲法改正は時勢の変化に拠るだけでなく「日本を取り戻す」、即ちパラダイムの「再転換」を根柢に据ゑたものであってこそ、父祖の歴史に結びついた確かなものとなるはずである。「自国不信」を払拭した上で、国のあり方に思ひを馳せ、伸びやかに憲法を語りたいものである。

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     日本の領土を取り戻す 
     日本の歴史を取り戻す
     日本の自主権・独立を取り戻す

 取り戻すべき第三番目は日本の自主権、つまり、真の独立といふ問題です。たしかに、見たところ日本は独立国家ではないですか。主権国家ではないですか。国連にも加盟してゐるし、世界で第三位のGDPを誇る主要国としてみんな認めてゐるではないですか。その通りです。日本は事実的にも法律的にも政治的にも間違ひなく独立国です。しかし、本当の意味で日本といふ国の主権、独立といふのは、どこの国にも引けを取らない形で、欠けることなくすべてが揃ってゐる実質的にも独立国といへるかと問はれれば、これはさうではありません。

 真っ先に日本人の念頭に上らなければならない問題がある。それは日本国憲法といふ問題です。日本国と銘打ってゐますが、この憲法はもともと日本国とは関係のない所で作られたものです。

 憲法といふのはやはり国の主権の核心部分ではないでせうか。「我々にとってこの独立といふ核心的価値なくして日本とは言へない。これは明らかにをかしい。一日も早くそれをまともなものにしなければならない」。このやうな視点で憲法の問題に取り組んでいくことが重要です。

 ホロコーストやネオナチと一緒にされることほど、日本人として許せない悔しいことはありません。まさに痛恨事と言ふしかありません。これは何があっても間違ってゐると世界に理解させなければなりません。このためには何百億円掛けても私は惜しくないと思ひます。それ程決定的な事です。「日本とドイツは違ふ」、このことを世界に向けて大々的に発信してゆかねばなりません。それをしないとこの国が永遠に取り戻せなくなる程崩れてしまひます。

 したがって我々日本人は、先の大戦におけるドイツの思想・行動との顕著な違ひを明確にして、今後歴史問題に関する国際社会における新たな戦ひに立ち上がらなければなりません。国内だけでなく、世界に向けて発信して戦っていくこと。これなくしてはこの国を取り戻すことは出来ません。

『日本への回帰』第50集所載

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 昨年3月、小林秀雄先生の合宿教室に関(かかは)る御本が『学生との対話』の標題で新潮社から刊行されたが、今年になってsc恆存先生の合宿教室での御講義録が文藝春秋から出ることになったと、白濱裕先輩から聞いて「えッ、本当ですか」といふ気持ちだった。sc先生は昭和37年、昭和41年、昭和50年、昭和55年の4度、合宿教室にお見えになった。昭和41年は私の生れた年である。直(ぢか)に御講義をお聞き出来たわけではないが、勉強会の折々に先輩方から、sc先生についてお聞きしてゐたので、刊行が待ち遠しかった。字数の制約で、ここでは紹介にしかならないが筆を執ってみた。

 本書は4回の「御講義」と、それを補足する感じで「学生との対話」(質疑応答)が収められてゐる。帯に「戦後最強の思想家が若者たちに説いた言葉、歴史、人生」とあったが、まさに思想家・sc恆存ここにありと、合点しつつ読了した。わが国を蝕む思想上の課題を、具体的な例を挙げながら、実に懇切に語ってゐる。

 「濃厚だった」。それが読み終へた感想である。50年以上も前のものもあるが、微塵も「古さ」が感じられないのは本当に驚きだった。それはsc先生の本質を見抜く視線の確かさと深さであり、また人間そのものは変りようがないものだからでもあると思った。

 印象に残った言葉を紹介したい。

「教養が身についていたら、新しい文明の利器が入ってきても、それにすぐ即応することが出来る」

 今の世の思想的混乱が50年前と、いや明治の「文明開化」以来、何ら変ってゐないと思はれて、さうした現実にいかに対峙すべきかの指針を改めて与へていただいたやうに思ふ。

「自分を超えたものに、歴史・自然・言葉の三つがある」

 人間存在の限界と真実が示されてゐて、歴史教育にたづさはる者として、次世代の生徒達にいかに歴史を伝へていくかの視座を与へていただいた。

 巻末の20頁余の「一度は考へておくべきこと─解説に代へて」が、これまた実に興味深い「sc恆存論」であって、本書の理解を大いに助けてくれる。筆者はご子息のsc逸先生で、ご家庭での父子の交流を偲ばせる一節もあって興味深かった。

 世間では、人も人の心も変ってしまったかのやうに「したり顔」で説く者がゐるが、さういふ言ひ方自体が、変りようのない人間の本性を物語るものだらう。なぜ人間は根本に立ち戻って考へようとしないのかと、何度も何度も問ひ掛けられてゐる感じで読み終へた。

 やはり国文研は優れた凄い勉強の場なんだとの認識を新たにした。まづは多くの会員にぜひとも一読してもらひたいし、知人にもご紹介いただき、大勢の人たちに思想の昏迷を直視していただきたいと思った。

(熊本県立熊本高校教諭 久保田 真)

 

『日本への回帰』第50集 〜昨年の[淡路合宿教室]の記録〜

 明治の先人の生き方    武田有朋
 万葉の「ますらを」たち  岸本 弘
 日本を取り戻すとはどういふことか  中西輝政
 明治天皇の大御心を仰ぐ  小柳左門
 国を守る大事       國武忠彦
 短歌創作導入講義     北濱 道
 創作短歌全体批評     青山直幸
ほかを収載 頒価900円  送料215円

 

夜久正雄朗読『古事記(ふることぶみ)』(企画発行・素心会)の新装DVD版

平成13年発行の『古事記』全巻朗読のCD版(8枚)をそのままPC版DVD─R(1枚)に収載。PCの画面上で、幸田成友校訂『古事記』を閲覧しながら同時に聴くことができる。 取扱・国民文化研究会  頒価2,000円  送料200円

 

編集後記

 日中韓の外相会談(3/21、ソウル)で中韓は「歴史」に固執。韓国とは昭和40年に、中国とは昭和47年に、「主権の相互尊重」を約束して正式国交が始まった。国交前ならともかく、その後の外交折衝の場で「歴史」が議題になることはあり得ず、中韓の非礼非常識は言ふまでもないが、かうした事態を招いたのは累年の自民党外交だった。歴史教科書に容喙され首相の靖国参拝を論難されても「友好第一」でやって来た。メディアも産経以外は中韓の拡声器だった。今も変らない。
(山内)

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