国民同胞巻頭言

第641号

執筆者 題名
坂東 一男 近頃、痛切に思ふこと
- わがノート【古稀の徒然】から、そのU -
柴田 悌輔 「国家」とは何か
- 風靡する「グローバリゼーション」論の中にあって -
今村 武人 聖徳太子の苦闘と「和」の思想について
- 熊本「国文研」秋合宿(昨11月)での発表から -
資料
(一社)新しい歴史教科書をつくる会「つくる会FAX通信」第356号1/23から
朝日新聞が社説で高校教科書記述訂正を批判

数研出版「現代社会」などの慰安婦記述について
同紙こそ正面から真摯に問題を受け止めよ
山内 健生 「日本を取り戻す」ための憲法改正A
憲法とは、「国柄」のことである
- 17世紀の「十七条憲法」は今も生きてゐる -
 

 四年余り前に、標記と同じ題で拙文を書いた(平成22年11月号所載)。 その中で@「先の大戦の呼称」、A「総理の靖国神社参拝」、B「領海侵犯の中国人船長の釈放=vについて、痛憤してやまない所懐の一端を認めたのであった。【古稀の徒然】とは、日々の思ひを書き止めてゐるノートの名前である。

 概略を記すと

@「日本側の呼称である大東亜戦争≠フ使用を禁じた占領軍が、戦争の本質を見えにくくするために意図的に広めた太平洋戦争≠フ語が今も広く用ひられてゐる」

A「外国訪問の総理が米国アーリントン国立墓地に花束を捧げて米国戦歿将兵に敬意を表してゐながら、靖国神社に参拝しない」

B「領海(尖閣近海)侵犯と巡視船への体当りで逮捕した中国船々長を放免して、領海侵犯は許さないとの意志を世界に発信することを怠った」

といふ三つで、こんなことを続けてゐていいのか、先人の労苦に思ひを致すべきではないのかと述べたのであった。

 四年前に指摘した三点は、少しは良くなってゐるのだらうか。この間、危なっかしい民主党政権が交代したのは良かったが、総体として、わが国は本来の国のあり方に近づいてゐるのだらうか、との思ひを抱きながら、【古稀の徒然】は現在も折々書いてゐる。

 永年、奉唱してゐる明治天皇の御製に

     思はざることのおこりて世の中は心のやすむ時なかりけり                    (をりにふれて 明治45年)

といふお歌がある。陛下の御心には遙かに及ぶべくもないが、目まぐるしく変化する国際情勢の中で、最近のノートから一つだけ抄出してみたい。

 ○(1月某日)新たなるテロ勢力の擡頭について。昨年暮の総選挙で与党が大きく勝利して、憲法改正への途が開かれる期待が膨らむ昨今ではあるが、足元を見れば総理の靖国神社参拝さへブレーキが掛かる現状にある。かうした最中、邦人二名が「イスラム国」に拘束され、政府に二億ドルの身代金を要求してきた。彼ら二人は危険を承知でシリアに渡った。人質に取って政府を脅すといふ行為は許しがたいが、改めて北朝鮮に拉致された邦人のことが頭をよぎる。北朝鮮に対する怒りが湧いて来た。世論はともすると目先のことに目を奪はれがちだが、自らの意思で中東に出向いた二人と一方的に拉致された人達とは明確に区別すべきであらう。

 ここ二年来、安倍首相は拉致被害者救出が最優先課題だと強調し、北朝鮮は秋(昨年)の早い時期に何らかの報告をすると言ってゐた。しかし言ひ逃れを繰り返すのみだ。かつて武家の時代には「敵討ち」と称して「恥辱」を雪(すす)ぐことが見られたのだが、明治六年の太政官布告で公共の秩序に反するとして禁止された。近代的な法治国家に移行したのだ。国内法はそれでいいとしても、外国が絡んだ拉致事件にはどう対処するのか。拉致された人達が気の毒でならない。政府として何も手が打てないのか。

 朝鮮総連ビルも落札業者が転売して入居を続けるらしい。この時期、メディアはもっと拉致被害者の救出に触れるべきではないか。

 学校の帰路にさらはれし少女(をみなご)は壁(船室の壁)に縋りて泣き叫びしとふ 

(横田めぐみさんのことを)

 ○(2月某日)二名の邦人は無慈悲にも惨殺されるといふ結末となった。国会は非難の決議を採択して、その中で、政府に「国際社会と連携して」「海外の在留邦人の安全確保に万全の対策を講ぜよ」と要請した。しかし、議員諸氏は、憲法に縛られて危険に瀕した邦人の救出に「万全の対策」を講じ得ない日本の現状を承知してゐるのかと言ひたい。いまの憲法の下では日本は「国際社会と連携」することにも制約がある。

 残念な事件ではあったが、憲法による足枷(あしかせ)が明らかになり、憲法改正への道筋が見えて来るならばせめてもの幸ひであった。

(元アサヒ飲料(株)役員)

ページトップ  

     はじめに

 「グローバリゼーション」といふ言葉は、何時頃から世を風靡するやうになったのだらうか。今では当然のことのやうにもてはやされてゐる。「人、モノ、カネが国家の枠組みを超えて移動し、世界の産業や文化、市場の統合が進む現象をいふ」と時事用語事典にはある。そこでは国家とか国家意識といふ垣根を取り払ふことが理想とされてゐる。そのためには、日本人も国際人として通用する事が大切だと思ふ風潮が強くなってきた。国家とか民族といったローカルな言葉に拘らずに、世界的な規模で「ものを考へ」、世界に通用する人材を育成したい、或いは目指したいとの考へ方が、今では主流になってゐる。一見したところ、悪くない考へ方のやうに思ふ。

 だが世界で公用語の代りをしてゐる英語を充分に使ひこなせたとしても、それだけで国際的に通用する人材とはいへまい。世界で通用するためには先づ自らを語らなくてはならないはずだ。国際人といふからには、先づは自国の事に通暁し、更に自国の文化、歴史について、正確に他国の人に伝へる能力が求められる。日本といふ国には、どんな歴史があるのか。日本人とはどんな「国家意識」を持つ、或いはどんな宗教心を持つ民族なのか。さうした智識を身に付けてゐなければ、グローバルな人材とはいへないのではないだらうか。私は今改めて、自分が属してゐる国とは何か、つまり「国家とは何か」について、考へてみたい。

     国家の定義

 世界には現在、二百近い様々な形での国が存在してゐる。では「国家」の定義とは何か。私は「国家」には、固有の文化がある事が必要条件だと思ってゐる。そして「固有の文化」を持つには、「そこに居住する人々」、つまりは民族が、共通して語る事の出来る固有の言語がなくてはならないと思ふ。だが同一の言語を語る人々が、その地域で生活してゐるだけでは国家とは言へないだらう。その地域に「生きる」人々が、永年続けてきた「生き方」の積重ねを、現在も継続してゐてこそ、国家といへるのではないか。その「生き方」の積重ねの記録が、民族の、ひいては国家の「歴史」となる。つまり「国家」とは、同一の民族が同一の言語を話し、更に一つの歴史を共有する人々が、居住する地域であると、私は考へたい。

     中東における国家

 先ほどの国家の定義に当嵌まらない一例として、中東諸国の事を考へてみたい。中東での情勢が不穏である。かうした記事が、最近のマス・メディアを賑はしてゐる。だが石油に関する以外、中東といふ地域は日本人にとっては、元來馴染みが薄い。「中東」にはどんな国々があり、それらの国々がどんな経緯で生れ、どんな歴史を持ってゐるのか。私も含めて多くの日本人は、それらの点に余り詳しいとはいへない。

 実は中東といふ言葉が指し示す地域は、第一次世界大戦の前と後とでは、まるで変ってしまってゐる。第一次世界大戦以前のヨーロッパでは、中東とはインドを中心とした地域を指し、それよりもヨーロッパから遠い地域を極東、近い地域を近東と呼んでゐた。ただその当時の近東全域(ペルシャ湾からスエズ運河までの間の地域)を、支配してゐたのは、オスマントルコ帝国であった。從って第一次世界大戦以前では、中東とはインド、パキスタン等を指し、近東とはオスマントルコ帝国そのものを指してゐた。だがオスマントルコ帝国は第一次世界大戦で、敗戦国となり、戦後にその領土の大半が、イギリス領となった。

 この時点で近東とは、縮小された現在のトルコ国を指し、それ以外の旧オスマントルコ帝国の領土だった地域を、改めて中東と呼ぶ樣になった。

 旧オスマントルコ帝国領は一つの国にされずに、多くの国々に分割された。その分割は英仏間のサイコス・ピコ協定によって、1916年に策定された。この地域にはそれまで国境線はなかったのを、イギリスとフランスは、砂漠の地図の上に、勝手に線を引いて国境線を決めた。それで生れた国々が、イラク、ヨルダン、シリア、レバノン、クウェート、アラブ首長國連邦(UAE)、そしてサウジ・アラビア等である。それらの地域が現在では、「中東」と呼ばれる樣になった。そしてその地域(中東)に「居住する人々」を、一般的には「アラブ人」と呼ぶのである。

     アラブ国家

 「アラブ」といふ語源は、アラヴァ(大砂漠)であるといふ。現在の中東諸国の成り立ちから考へて、アラブ人の国が、「国家」の定義に当嵌まるとは、とても思はれない。

 先づ第一に、一つの国が一つの民族で構成されてゐない。これは英仏両国が中東の国々を、地図の上で機械的に定めた事に因る。一つの国に多くの部族が居住し、それらの部族の言語は、必ずしも共通しない。

 そしてアラブ人にとって、部族が違へばお互ひに敵対するのが、永い間の常であった。中東ではひとつの国家に、ひとつの民族が住んでゐるのではない。敵対する多くの部族が、国民として属してゐる国々なのである。

 彼らの多くがイスラム教を信仰してゐる事から、アラブ人の「固有の文化」は、イスラム教であると理解するのにも無理がある。イスラム教は、主としてシーア派とスンニ派に別れ、更にその中でも細かく、多くの宗派に別れてゐる。しかも一神教の常として、排他性が強く、宗派の違ひは、お互ひに敵対する大きな原因ともなってゐる。

 更に中東における特異な点を挙げれば、イスラム教においては、「権威」と「権力」が、現在でも一部の宗教指導者に集中してゐる事である。日本も欧米も、中世において、流血を伴ふ闘争によって、宗教の権威と世俗的政治の権力の分離に成功してゐる。この事で宗教は権威である事で、文化として発展した歴史を持ってゐる。

     「国家」における文化と歴史」の連続性

 中東の国々に有るのは、「部族」の文化であり、歴史である。中東の国々は、第一次世界大戦の後に、英仏によって人工的に創られた国々といふ理由で、文化と歴史が無い国々となってしまった。だが「文化と歴史」の無い国、又はそれらが「中断」されてゐる国々は、中東の諸国に限らない。

 現在の世界で大国と呼ばれる国々に、果して、「固有の文化」と「歴史」が有り、更にそれが継続してゐると言へるのだらうか。

 先づアメリカについて考へてみたい。アメリカの正式な国名は、ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ(略称USA)である。ネイション(NATION)の語源はネイティヴだらうから、ネイションといふ英語は、自然に成立した国と理解できる。だが「ステイツ」といふ英語には、どこか人工的に創られた国といふニュアンスが、私には感じられてならない。アメリカといふ国は、大英帝国から独立して、僅か240年程度の歴史しかない。そしてその国の民族はといへば、「民族の坩(る)堝(つぼ)」と表現される程、他国からの移民によって成り立ってゐる。それがアメリカといふ国の特徴なのである。そんなアメリカといふ国を成り立たせてゐる「基」は、「文明」である。私は「文明」の定義を次の樣に考へる。

   「誰でも參加でき、普遍的で、合理的で、機能的なもの」

 私は今現在、喧伝されてゐるグローバリゼーションといふ言葉が意味する内容は、単にアメリカ式の「文明」に、參加する事だけに過ぎないのではないかと考へてゐる。「文明」といふ言葉に対し、「文化」といふ言葉がある。「文化」とは、ひとつの特定の集団にしか通用しなく、決して普遍化出來ないものと、私は理解してゐる。

 私はアメリカといふ世界一の大国は、「文化」と「歴史」を持たないといふ点で、中東の諸国と同じであると、考へざるを得ない。そしてロシア、中国、フランスといふ国々も、自国の歴史と文化を否定する「革命」を経験した事で、従来から続いてきた国家と民族の文化を断絶させてゐる。

 日本はほぼ一つの民族で成立し、一つの言語で意思を通ひ合はせてきた。さらに二千年以上断絶しない歴史を永続させてゐる。さうした歴史の流れの中で、日本人は自分たちの文化を、如何にして育んできたのか。「文化」といふものは、決して国家や民族を超へる普遍性を持たないと、私は考へてゐる。だからといって、文化が偏狭であっていいとも思はない。他の国に伝へる努力は必要である。

 世界に通用する人材でありたいのなら、世界の状況、情勢も正確に把握しなければならないのは当然である。だがそれ以上に自分が属する、民族の文化、国家の成り立ちについて、熟知してゐる事が必要である。そしてその文化を正確に、世界の人々に伝へる能力を身に付ける必要がある。私にはそれがグローバルな人材となる最低の条件である樣に思はれてならない。

((株)柴田 取締役社長)

ページトップ

     はじめに

 戦後教育では、アメリカ型の教育が移植され、「民主主義教育」、「人権教育」、「平和教育」等々をキーワードとして、個人の生き方の確立、つまり「個性尊重」「生命尊重」、「生活安全」を実現することが目標とされた。これだけを見れば、何が問題なのだと思はれる方もゐるだらう。しかし戦後教育のねらひは、わが国の伝統的な教育観の否定であり、国家観を喪失させ、家族の人間関係を軽視するものだった。

 これでは子供が健全に育つはずもなく年々その弊害が顕在化してゐる。例へば在学中の「いぢめ」や「不登校」に始まって、「ドメスティック・バイオレンス」(家庭内暴力)、卒業後も「フリーター」(アルバイトやパート等で「気儘に」生計を立ててゐる人)から「パラサイト・シングル」(親と同居し親に依存してゐる未婚者)等々まで、さまざまな問題が指摘されてゐる。「スマホ漬け」(四六時中、スマートホンを手放せない状態)、で友人とはスマートホンでいくらでも話すが家族とは口を利かない若者も多いといふ。「幼児虐待」のニュースを耳にして、慄然とさせられることも少なくない。

 どう考へても「本来の日本人の姿」からはほど遠い。

 しかし行政はこれらの問題に、小手先の対応しかできてゐない。「いぢめ」の解決には「心の教育」が大切だとして、「いぢめの実態調査」「いぢめ撲滅のルールづくり」、「個人情報流出調査」等々で統計上の件数さへ「ゼロ」に近づけばいいといふやうな対策が講じられてゐる。一方で、「自殺」が多いからとして、その防止ための「命の教育」が叫ばれ、「自分の人権を守れ」とか「自殺はみんなを不幸にする」、「君を生んでくれた親を思へ」といふやうな指導が行はれてゐる。数を減らすにはどうするかといふ対症療法でしかない。

 「心の教育」だ、「命の教育」だと言ってゐるのは、私には言葉を弄ぶ欺瞞にしか見えない。「生きる力」が叫ばれ出したのは20年ほど前からだらうか。なぜ、現状を見据ゑて、戦後教育の根本を正し、日本人の本来の生き方に戻らうとしないのかと、残念でならないのである。

     1 見失はれた日本人としての価値」

 現在、熊本地区での「三土会」(第三土曜日に行はれてゐる月例勉強会)ついて、少しお話したい。

 三土会では、黒上正一郎先生の御著『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』を輪読してゐるが、その巻末に載ってゐる高木尚一先生の文章に次の一節がある。

  「日本文化の先駆的開拓者が、古来外来文化との接触交流の時機に際して、いかにこれを批判し、これを摂り入れるかに、どんなに苦闘精進をつづけて来たかといふことについて、文献的にまた史実に基づいて克明に究めよういふ欲求は、まだまだ高まってはゐない。そのために、我が国民は外国文化に対して自主的に立ち向はうとする意志力に欠け、内治、外交共に活力を失ひつつある。このことは、国家の為、まことに憂ふべきものがある」

 昭和32年に書かれたものであるが、当時も今もまったく状況に変りがない。

 戦後は「日本人としての価値」を無視した教育が国民に浸透したため、国民は全体的に意志力をなくし判断力も欠いてゐるやうに見える。あるとすればアメリカから輸入された「民主主義」「自由主義」といふ言葉であって、つまりはファッションとしての言葉だけである。もともと私たちの国はアメリカとは全く違ふ歴史を歩んできたわけだし、アメリカにはアメリカなりの「公共への奉仕」を国民に要求するものがあるはずなのに、それを見ようとしなかった。敗戦による思想の混乱もあったし、それ以上に占領軍(GHQ)によって「日本文化」を貶め、日本の過去を否定する意図的な政策が実施されたことで、「日本人としての価値」を見失って、耳障り良い「主体性の尊重」や「価値の多様化」に飛びつき、気づいてみれば「価値観の喪失」といふ精神の荒廃に見舞はれてゐたのだ。

     2 「苦闘精進」といふこと

 このまま私たちが日本人の本来の生き方を取り戻せなかったとしたら、さらに日本は精神的に蝕まれて、滅びてしまふのはないかとさへ最近は感じるのである。

 そもそも「日本人の本来の生き方」とは何なのか。私は、前記のやうに数年前から久保田真、濱口知久、末次直人、福田誠の諸氏ら熊本の先輩や知友と黒上先生の『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』(「太子の御本」)の輪読会に参加してゐる。その中で考へさせられることが多い。この「太子の御本」から、「十七条憲法」「三経義疏」、太子の思想に繋がる『古事記』、上古日本人の心を伝へる『万葉集』など、日本の歴史を貫く思想の源流を学んでゐる。

 日本の歴史のどこの時代を切り取っても、或いはどの人物の思想を勉強しても、私にはすべて太子の御思想に結びつくやうに感じられる。太子の御思想を学ぶことは、日本の歴史や日本人の考へ方の基本に立ち返ることのやうに思はれるのである。

 黒上先生は、旧東京高等師範学校に講演に来られた時、「私はただ聖徳太子の言葉を聞いていただければいいのです。私は聖徳太子の言葉を伝へるために生れてきたのです」と言はれたといふ。そして聖徳太子の言葉の真意を尋ね究めるために、太子像を前にお香を焚いて、太子の御言葉が聞えてくるまでお祈りをされたと言はれてゐる。このやうに先生は非常なる御決意を以て、太子研究に没頭された方だったと思はれる。かうした先生の研究態度は、いはゆる実証主義の立場ではなく、それでは決して把握できない人間の真実に迫るものだったと、その気迫に圧倒される思ひがする。

 御自分の解釈を排して、ひたすら太子の真実に迫らうとされた先生の研究態度、太子への信で貫かれた先生の人生姿勢には強く惹かれるのを覚える。私にとって、「太子の御本」はかなり難しい本だが、諸先輩諸友と輪読会を続けることで教へられることが多い。わが人生の栞として読み継いでいかうと気持ちを新たにしてゐる次第である。

 黒上先生は国史を大きく三期に分けられて、第一期は推古朝以前、第二期を東洋の文化を受け入れた推古朝から西洋文化を受容した明治期まで、第三期を明治以降とされる。先生が指摘されてゐるやうに、日本は外来文化と接触するたびに「日本」の在り方を意識し、それによって、国の独立を守ってきた。そのときの中心的人物、つまり精神的指導者が聖徳太子であり、明治天皇であると仰がれてゐる。このやうに記された黒上先生も、また聖徳太子や明治天皇と同じやうに心の中で「日本のアイデンティティの確立」のために御自身と戦ってをられたと拝察される。先生が近代文明を直接的に批判された御文章は拝見したことはないが、そのやうに思ふ。従って「太子の御本」に出てくる「苦闘精進」といふ言葉には注意しなければならないと、繙く度に感じてゐる。

 外国の文化が日本に入ってきたとき、当時は儒教や仏教だが、外国文化に染まらずに学ぶべきは学ぶとして、いかにして我々の独立を守ったらよいのか、我々自身の存在を失はずに、どうしたらよいのか、その苦しみはただならぬものがあったと思はれる。「苦闘精進」とは、太子の苦悩に共鳴共感し感服されたであらう先生ならではお言葉だと心底から思ってゐる。そして、この苦悩は紆余曲折を経ながらも、その後の日本の歴史の中で貫かれたもので、例へば、明治天皇の五箇条の御誓文にも引き継がれてゐると思ってゐる。

     3 「和」といふこと

 太子の取り組まれた「苦闘精進」の意味を理解する上での大事なポイントは、自分一人だけが高みに立って分ったやうな気持ちになってはならないことだと思ふ。十七条憲法の第一条の「和」がそれを考へるキーワードとなる。

  「一に曰(いは)く、和を以て貴しとなし、忤ふこと無きを宗とせよ。人皆党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここを以て、あるいは君父に順はず、また隣里に違ふ。しかれども、上和ぎ下睦びて、事を論ふに諧ふときは、すなはち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」

 教科書には、「一に曰く、和を以て貴しとなし、忤ふこと無きを宗とせよ」といふ一部分だけをとり出して紹介してゐるので、この「和」の意味を「争ひをしないことが大事だ、人に逆らふやうな事をすると争ひごとが起きる。何事も丸く収めるやうに」といふやうに捉へがちである。しかし、その後の条文を読めば、太子はそのやうなことは一言も言ってをられない。「人はみな徒党を組みたがる、自分の事柄しか考へない。自分の主張に拘って、自分の主張が正しいのかどうなのかを冷静に考へやうともしない」、「自分の主張がどうなのかを何度も見直してみるといふ冷静さを持ちなさい」と言はれてゐるやうに思はれる。そのことを「和を以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」と言ってをられるのだと思ふ。

  「太子の御本」から引用する。
「論語に於いて和の貴しとするのは、禮、換言すれば道徳秩序を維持するが爲に内心の和を必要となすのであって、而も和そのものは禮を以て節せざれば其の意義を全うせずと教ふるのは、ここに和の思想は道義生活實現の手段と見らるるのである。(中略)而るに太子の憲法に於いては、和の貴むべきを示させ給ひて、直ちに人皆黨(たむら)あつて達者少なき人生事實を洞察せさせ給ひ、それ故に自ら凡夫たるを省みて個我執着の弊を打破し、全體協力生活の精神にめざむることに依つて上下和睦して、君父隣里に忠順なるべき生を實現すべしと示し給ふのである。この上下和睦の内的根柢に立つとき、一切の事業は自然に真實の道理と合一し、國家生活は総ての波瀾と障碍(しょうがい)とを打破して開發進展せしめらるべきことを宣(のたま)ふのである」

 つまりは「正しい議論」のすすめなのだ。よく学校で「民主主義(デモクラシー)」といふ言葉を使って、個々人の意見を聞くことを教へてゐながら、実際には話し合ひも少なく多数決方式で決めてしまふ。人々の意見を単純に数の力で輪切りにしてしまふ。まったく情の通はない、寒々しい人間関係となってゐる。このやうな弱々しい人間関係だから、「いぢめ」「スマホ漬け」などの問題が惹起するのではないかと思ふ。

 黒上先生は「自ら凡夫たるを省みて個我執着の弊を打破し、全體協力生活の精神にめざむる」ことにより「和」の精神の実現につながると言はれる。この一節にある「凡夫」の語は憲法第十条の「共にこれ凡夫のみ」にも出てくるが、個々人の意見はあるだらうが(これを否定しない)、自らを顧みつつ互ひに情を通はせ心を通はせながら、周囲と共に行へとの教へに符合すると思ふ。独断の戒めだと思ふ。

 これに関連して桑原暁一先生は『日本精神史抄』(国文研叢書2)の中で、次のやうに記されてゐる。

  「法隆寺の五重塔の美しさについては、自分などが今さら何も言ふことはない。ただ一言だけ言ふことが許されるならば、それは上求菩提、下化衆生の精神そのものである、といふことである。両の手に広く衆生を抱きつつ、急がず、あせらず、だんだんと衆生を上へ上へと引き上げて行くといったらよいであらうか。またそれは『和』の形といってもよい。太子にとって『和』とは相共により高きものを志向するといふことであった」

 法隆寺の伽藍は理屈抜きに美しいと感じるが、あの五重塔には太子の「和」の思想を表現したものだと言はれれば、なるほどその通りであると納得させられる。古代の人々は太子の和の精神を形あるものにして、後世に残さうとしたに違ひないと、その情熱に頭が下がる思ひがする。

 太子以後の日本の歴史とは、先人たちが「相共により高きものを志向」しつつ、御皇室を中心とした「和」の実現に力を尽してきた歴史でないかと思はれるのである。

     4 世界の中の日本の思想

 このやうな「和」の思想を日本人だけのものにしてはならないといふことである。「日本の伝統思想こそは最も真理にかなった最も知的に考へることを可能としてくれるものだ」と胸を張って答へることができるやうになったとしたら、本当の意味で淡路合宿で言ふところの「詩と哲学の恢復」になるのだと思ふのである。

 冒頭で述べたやうに、日本人は戦後、戦争に負けて自信を失ってゐる。欧米の文化が自分達の文化より優れてゐると本気で思ってゐる。これは明治の開国期まで遡るもので反省すべき点だが、敗戦によって一層深く染みこんでゐる。最近は、学校教育でも日本の美術や音楽に関心を向け始めた。しかし、まだまだ西洋文化・思想の二番煎じに過ぎない。外国文化との比較の対象としか扱はれてゐない。「太子の『和』の思想は、論語から引用されたのです」といった言ひ方である。

 さうではなく、我々が欧米人やアジア諸国の人に向って、「日本の伝統文化はこれこれです」と胸を張って言へるやうにならなければならない。ただ説明するだけではだめである。聖徳太子が「三経義疏」の所々で、「私の釈は少しく異れり」と記して大陸の高僧達の仏典解釈を批判したやうに、現代の私たちも「あなたたちが信じてゐる民主主義(デモクラシー)や人権思想といふものはかういふものだが、この点の考へが間違ってゐる」といふことを堂々と言はなければならない。

 日本は、世界で一番の道義国家と信じてゐる。「相共により高きものを志向」して来た歴史があり、この歩み自体がわが国の国体、国柄である。陛下と一般国民が同じテーマで短歌を詠み合ふのが日本の国である(歌会始)。元首と国民が同じ題で詩を作ってゐる国は日本以外にどこにあるだらうか。昨日、学校の「政経」の授業では国連職員が先進国で一番少ないといふ話をした。日本の若者が自分の国に自信を喪失して、自国に誇りを持てずにゐる。今、最も憂へるのはこのことである。

(熊本県立第二高等学校教諭)

ページトップ  

 朝日新聞は1月22日の社説で、教科書会社の数研出版が、「現代社会」など高校の公民科の教科書3点から「従軍慰安婦」の記述を削除したことを批判しました。そして、同社ならびにその訂正申請を認めた文科省、さらに全教科書から「慰安婦」「朝鮮人強制連行」の記述を削除するよう指導することを文科省に求めた「つくる会」の姿勢を問題としました。そこで、この朝日社説について、当会の見解を表明します。

 (1)この度の数研出版による「従軍慰安婦」の記述削除について、当会は、子供たちに「真実の歴史」を正しく教えようとする教科書発行会社としての矜恃を示したものであると評価します。他方、高校のほとんどの歴史教科書には依然として問題のある記述が多数残ったままです。他社も数研出版にならうべきです。

 (2)朝日社説は、まず、数研出版の文科省への訂正申請が「誤記」の枠で認められたことをとりあげ、軍の関与の下で慰安所がつくられたことは事実であるから「従軍慰安婦」は「誤記」にあたらないと主張しています。しかし、「従軍慰安婦」という言葉は1970年代につくられ、戦時中に「強制連行」された慰安婦を暗示する言葉として使用されてきました。これを裏付ける唯一の根拠は、慰安婦強制連行の下手人であったと自ら名乗り出た吉田清治の嘘の証言でした。この吉田証言を朝日新聞が自ら虚偽と断定し、記事を取り消したにもかかわらず、この期に及んでも「従軍慰安婦」という言葉に正当性があると主張することに驚きを禁じえません。

 (3)次に、朝日社説は、数研出版が訂正の経緯と理由を丁寧に説明すべきであると批判していますが、訂正の経緯と理由はまさに、昨年8月の同紙の虚報取り消しに端を発したものであり、その経緯を最も認識しているのが同紙です。同紙は自らの恥をさらに多くの国民に周知して欲しいと求めているのでしょうか。

 (4)また、朝日社説は、「つくる会」が、「『慰安婦問題』は問題として消滅した」と主張したことを「極端な主張」であると論難しました。しかし、慰安婦問題なるものは、「戦時中の慰安婦が日本軍によって強制連行されたものだ」という認識にもとづいて組み立てられたものであり、朝日新聞が報道によって捏造したものです。そのもとになった唯一の根拠が崩壊した以上、問題そのものが消滅するのは理の当然です。この議論のどこが極端なのでしょうか。

 (5)朝日社説はさらに、「つくる会」の主張は「日本人が人権を軽視しているという国際社会の見方を生む」と非難しています。しかし、「日本人が人権を軽視している」という非難は、事実に基づかない、日本を貶めるための外国の言いがかりであり、その材料を提供してきたのが、他ならぬ朝日新聞です。日本は戦前も戦後も現在も、世界で最も人権・人道を重視した国であることを、胸を張って主張すべきです。

 (6)慰安婦問題の争点は、「軍による強制連行があったか、なかったか」というこの一点に尽きます。強制連行があったとする唯一の証拠、吉田証言の嘘が明らかになると、朝日は「強制連行が問題ではない、慰安所の強制性が問題なのだ」と言い出しました。これについては、昨年十二月に発表された朝日新聞慰安婦誤報問題の第三者委員会の検証結果でも「すりかえ」であると指摘され、批判されています。それにもかかわらず、このような社説を掲載するとは、同社の姿勢に反省と改善のあとが全く見られません。

 (7)朝日社説は「慰安婦問題は日本にとって負の歴史だ」と書いています。言葉としてはまさにその通りで、自らデマを世界に発信して自国を貶めた「慰安婦問題」こそ、日本にとって恥ずべき「負の歴史」です。その捏造に関与した人物・報道機関・外務省・政治家は、ことの重大性と犯した罪の重さをしっかり認識し、世界に広がったこのデマを払拭し、一日も早く日本の名誉回復がなされるよう努力する義務があります。

 (8)朝日社説は、「論争のあるテーマだが避けて通るべきではない」と言います。朝日が自信をもって私どもの主張を批判するなら、多くの国民が見ることのできる公開討論を企画してはどうでしょうか。当会はいつでもお受けいたします。

当会は虚構の「従軍慰安婦」「強制連行」のデマを払拭するため、これまでも様々な活動を続けてまいりましたが、一向に反省が見られない朝日新聞や関係者など日本を貶める勢力の動きを絶対に許しません。今後とも日本の名誉回復のため、「慰安婦の真実国民運動」に結集した各団体とともに力強く活動を展開してまいりますので、皆様のご理解、ご支援をよろしくお願いします。

 TEL 03(6912)0047
 FAX 03(6912)0048

(カナ遣ひママ)

ページトップ  

 憲法といふ語がconstitutionの訳語であることは周知のことだが、なぜ「憲法」の二文字が当られたのか。それは七世紀初めに制定された聖徳太子の十七条憲法から来てゐる。そこには「氏族(私)を超えて公共を尊ぶ道徳政治の理想」が「透徹した人間観」とともに説かれてゐて、「政治の基本原理」と「官吏の遵守すべき原則的な心構へ」を述べたわが国最初の成文法であったが、明治時代、国家の根本法典、constitutionの訳語に当られたのである(中村元氏)。「憲」には「おきて」「てほんとする」などの意があるし、「法」も同様だが、さらに「憲」には「たかい」「たかくする」の意もある。

 7世紀の十七条憲法は法規範と道徳が渾然となったものであった。わが国が近代的な国民国家、法治国家として装ひを新たにした際、その根本法典に冠したものは千二百余年前の「憲法」の語だった(その内容も、プロシアなど西欧諸国の憲法典を参考参照しながらも、古く記紀の時代にまで遡及して、歴史の中から浮上する国のあり方を再確認したものであった)。

 十七条憲法は、聖徳太子の時代だけでなく、奈良・平安時代はもとより、鎌倉・室町の武家政治の時代、乱世の戦国時代、そして武家政治が完成したと言はれる江戸時代にあっても、いつの時代でも為政者が意識した法規範だった。太子の仏教思想の研究家・花山信勝氏は「明治天皇の『五箇条の御誓文』の精神は、やはり聖徳太子の『憲法』の御精神からきております」と指摘してゐる。「五箇条の御誓文」は、さらに昭和21年元旦の「国運振興の詔書」(新日本建設の詔書)の冒頭に掲げられてゐる。そこに直接引用の語句はないが、精神史的には十七条憲法は「戦後70年」の今も生きてゐる。

 ところで、constitutionの語意を手近な英和辞典でみると、「憲法」だけでなく、「構成・本質・骨子」「体格・体質・素質・性(たち)」などがある。次のやうな例文も載ってゐる。

   she has a cold constitution. (彼女は冷え性だ)

 他を非難する際に「あいつは性(たち)が悪い」と口にすることがある。「性(たち)」とは「素質」のことであり、生れつきの性(さが)のことである。右の例文の「冷え性」も、当人の意思とは無関係の先天的な体質である。constitutionの意味するものは、個々人にとっては父母、祖父母、曾祖父母…と血脈を遡って受け継いでゐる身体的な特質となる。ここから容易に類推できることは、「憲法」とは、共同体(国家)に受け継がれてゐるルール、即ち代々の先人達が積み重ねて来た共同体の「遺伝的先天的なルール」のことである。少し大きな英和辞典には「憲法」と並んでハッキリと「国体」「国柄」と記載されてゐる。

 革命国家や歴史の浅い国はともかく、歴史を重ねてきた国家には当然ながら「遺伝的なルール」がある。それを成文化するかしないかの違ひはあるが、成文化すれば、a written constitutionとなるし、文章化しなくてもconstitutionは存在する。よく例示されるのが、イギリスの場合で成文憲法がない。しかしマグナ・カルタ(大憲章、一二一五年)を初めとする種々の法典から、王と内閣、王と議会、内閣と議会などの関係を律するルールが慣習的に確立してゐるから、それが憲法となってゐる(不文憲法)。「イギリスには憲法がないが憲法はある」。

 現行の高校「政治経済」の教科書では、日本国憲法と帝国憲法との相違を強調し、「国民主権・基本的人権の保障・平和主義を三大基本原理としている」(東京書籍)として、GHQスタッフが原案を作成した日本国憲法に理ありと言はんばかりの歪んだ記述になってゐる。しかし、共同体の「遺伝的特質」が憲法であるとの常識に立てば、「第1章 天皇」こそ、GHQも無視し得なかったわが国の歴史的特質が反映したものであり、憲法の最も重い条項なのである(勿論、「主権の存する…」「内閣の助言と承認…」「皇室の財産授受…」云々など検討を要する条文は多々あるが)。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

ページトップ  

近日刊行! 昨年の[淡路合宿]の記録 『日本への回帰』第五十集

 明治の先人の生き方   武田 有朋

 万葉の「ますらを」たち   岸本 弘

 日本を取り戻すとはどういふことか   中西 輝政

 明治天皇の大御心を仰ぐ   小柳 左門

ほかを収載 価900円 送215円

 

編集後記

 2月号本欄で触れた1/22付朝日の社説に関連して、「つくる会」通信を七頁に掲げた。全く雑な論説だ。実質無策だった外務省の怠慢もひどい。メディアと野党は「戦後70年談話」に“謝罪”を入れろと妄動。出すなら「平和条約」の再確認を盛ればいい。
(山内)

ページトップ