国民同胞巻頭言

第640号

執筆者 題名
北崎 伸一 普段から心掛けてゐること
- 折々よみがへる小林秀雄先生のお言葉 -
  ◇ 平成26年にお詠みになったお歌から
山本 博資 平成27年年頭及び最近ご発表の御製、御歌を拝誦して
小田村 四郎 憲法改正と歴史認識
新春詠草抄 賀状から

 東京駅の朝は早い。「ハーイ! ドクター! ヤクルト いかゞ?」と、ヤクルトレディ(乳酸飲料・ヤクルトの販売員)の元気な声が飛ぶ。八重洲南口に開業して10年が経った。

 奇しくも昨年の忘年会(関東地区の国文研会員達の集ひ)が東京駅八重洲南口の居酒屋で開かれ、長野・福岡・熊本からの会員も参加して盛会だった。宴たけなはの時、本紙編集担当の山内先輩から「君は、この近くで医院をやってゐるらしいが、何科ですか?」と聞かれて、「ハイッ、小児アトピーをやっとりますが、私としては人間科のつもりです」とお答へした。この大風呂敷≠フ広げやうに、先輩は感心したらしく、即座に「それは大切なことだ。そのことを書いてくれないか、あなたの仕事のことを」と執筆の依頼を受けた。その際、「日々の仕事と生き方は別のことではないと思っとります」と日頃の心掛けもお話した。

 医療制度改革の一環から「研修医義務化」に続いて、「研修指導医」の役割強化の動きが目立つ昨今…≠ネどと筆を運べば、一応の時勢論は書けるだらうが、しかし、それは、私の仕事を語ることにはならない。

 かつて本会初代理事長の小田村寅二郎先生から、昭和15年夏の菅(すが)平(だいら)合宿の前のことであったとお聞きしたが、若き日の先生が学風改革に向けた思想運動への理解を得るべく財界の幹部や企業の経営陣を回った折、少なからぬ人達から「学生には菅平(すがだいら)は涼しからう」といふ意味のことを言はれたといふ。つまり研鑽合宿とは言ふが、シナ事変の最中(さなか)の非常時に学生達が涼しい「菅平」(長野県)に集ってゐていいのか、それは思想生活と現実生活の乖離(かいり)ではないかといふ批判的な意味合ひの言葉だったといふのである。しかし、先生達が目指されたのは両者を一体的に把握するための修練の場として、日頃の学問をじっくり顧みるために菅平合宿を企画されたはずなのだが、形式に拘(こだわ)る人達には通じ難(にく)い面があったといふことなのだらう。

 何人であっても、実は生活は思想の現れのはずなのだが、無理に強く意識して一致させようと力むと逆に精神に変調を来して、統合失調に繋がりかねない場合がある(統合失調症の原因は多岐にわたるのだが)。精神科の専門医ではない私でも、これまでいくつかの病院で感情と思考をうまく統合することができなくなった患者を目にして来た。さうなっては実も蓋もない。しかしながら両者をひとつのものとにしたいと願ふ私は、仕事の折々に反省の意味も込めて普段の生活を努めて顧みるやうにしてゐる。

 固く構へて特別なことをしてゐる積りはないが、生き甲斐とはどういふことなのだらうかとか、「言葉」を弄ぶやうなことはしたくないとかと振り返るのである。楽しく生きるだけでいいのかとも考へるのである。何を以て「楽しいこと」とするかが実は大問題なのだが。

 四年前、3・11の東日本大震災から十日余り後、NHKに緊急出演した矢沢永吉さんは「自分にできる精いっぱいのことを考へて祈ってゐます」と語り、バラード曲「いつの日か」を唱った、ひとりきりでは生きられない…≠ニ。この放送を心強く聴いた被災者は多かったと思ふし、私も力づけられた。同じく唱はれた美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」も同様だったと思はれるのだが、歌詞の中に差別語があるとの声が一部から挙がった。この話を聞いた時、なぜ素直に歌に耳を傾けないのだらうかと訝(いぶか)しく感じた。

 現代人は妙な知識を注入されてゐるから、すぐに理屈を言ひたがると思ったが、同時に私も気を付けなければならないと思ったのである。その折、ふと頭をかすめたのは、以前どこかで読んで記憶してゐた「イデオロギーは責任を取りません」との小林秀雄先生のお言葉だった。それは思想と生活をひとつのものとしたいと願って来た私の胸に折々響くお言葉でもあった。イデオロギーとは「観念の体系」であって、現実を尤もらしく説明する理屈ではあっても、「喜怒哀楽」の感情とは別のものだと思ふ。喜びや怒り、哀しみは自分自身のものだ。その感情がなければ責任の取りやうがないと感じてゐる。

(東京駅前クリニック院長)

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     御製(ぎょせい)(天皇陛下のお歌)

     神宮参拝
 あまたなる人らの支へ思ひつつ白木の冴ゆる新宮(にいみや)に詣づ

     来たる年が原子爆弾による被災より七十年経つを思ひて
 爆心地の碑に白菊を供へたり忘れざらめや往(い)にし彼(か)の日を

     広島市の被災地を訪れて
 いかばかり水流は強くありしならむ木々なぎ倒されし一すぢの道

     ○第65回全国植樹祭(新潟県)
 十年(ととせ)前地震(なゐ)襲ひたる地を訪ねぶなの苗植う人らと共に

     ○第69回国民体育大会(長崎県)
 台風の近づきて来る競技場入り来たる選手の姿たのもし

     ○第34回全国豊かな海づくり大会(奈良県)
 若きあまごと卵もつあゆを放ちけり山間(やまあい)深き青き湖(うみ)辺(べ)に

       皇后陛下御歌(みうた)

     ソチ五輪
 「己(おの)が日」を持ち得ざりしも数多(あまた)ありてソチ・オリンピック後半に入る

     宜仁親王薨去
 み歎きはいかありしならむ父宮は皇子(みこ)の御肩(おんかた)に触れまししとふ

     学童疎開船対馬(つしま)丸(まる)
 我もまた近き齢(よわい)にありしかば沁(し)みて悲しく対馬丸思ふ

       ◇ 平成27年歌会始 お題「本」

     御製
 夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ

     皇后陛下御歌
 来(こ)し方(かた)に本とふ文(ふみ)の林ありてその下陰に幾度(いくど)いこひし

(御製・御歌は宮内庁のホームページによる)

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 天皇陛下についで、皇后陛下には昨年10月、80歳になられた。両陛下がお揃ひで八十(やそぢ)路(ろ)の御齢(よわい)を重ねられるのは、皇室史上、昭和天皇、香淳皇后に続いての御慶事であり喜ばしい限りである。御高齢にも関らず御公務を果される御姿を、われら国民は日々、畏きことと仰ぎまつるのである。

 新年に際して、天皇陛下の恒例の御感想が発表された。そのなかで、「本年は終戦から七70年といふ節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島・長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」とお述べになった。戦後70年に当る今年は、われわれが歴史とどのやうに向き合ふべきか、様々な意見が出るものと予想されるが、陛下のお言葉のなかに、基本的な指針は示されてゐると思ふのである。

 元日の各紙には、宮内庁が発表した御製三首、御歌三首がすべて掲載されてゐて、拝誦できたことは大いなる喜びであった。以下、拙い感想を申し述べさせていただく。

     御製  ~宮参拝

   あまたなる人らの支へ思ひつつ白木の冴ゆる新宮(にひ みや)に詣づ

 伊勢の神宮では、平成25年10月、第62回式年遷宮の中核となる祭儀「遷御の儀」が、皇大~宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)に於いて厳かに齋行された。14ある別宮の遷御も順次行はれ、平成27年3月に完遂となる。かつて「皇家第一の重事、神宮無双の大営」とその意義が説かれたやうに、皇室の大祭であると同時に、神宮にとってはその永遠性を物語るふたつとない営みである。20年ごとに御社殿から御装束・神宝に至るまで全てが一新される御遷宮には、わが国の文化の伝承と、国の窮まりなき弥栄を願ふといふ大きな意味が込められてゐる。

 昨年、3月25日から28日、天皇皇后両陛下は神宮御参拝及び神宮縁(ゆかり)の施設御視察のため三重県を行幸啓になった。今回の御親拝では、平成6年の嘉例に倣(なら)ひ、剣璽(けんじ)の御動座があった。三種の神器のうちの「剣(つるぎ)」(草薙(くさなぎ)剣)と「璽(たま)」(八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま))である。25日に伊勢市にお入りになった両陛下は内宮行在所で~宮祭主様のご挨拶を受けられ、神宮大宮司、少宮司に拝謁を賜り、さらに遷宮工事関係者に御会釈を賜った。26日、天皇陛下は外宮を御参拝になり、その後、皇后陛下が御参拝になった。内宮の御参拝も同様に行はれた。

 御製の上の句「あまたなる人らの支へ思ひつつ」は、御遷宮の諸祭儀・行事、御社殿の造営、及び御装束・神宝の調整に携った多くの人びとへの感謝の御気持ちの御深慮と畏くも拝して、君臣一体のわが国柄を思ふばかりである。白石の敷きつめられた新(しん)御敷地(みしきち)に立つ新しい御正殿、その簡素にして若々しく輝くやうな木づくりの御宮を「白木の冴ゆる」と御表現になった。「冴ゆる」といふ言葉に、少しも濁りがなく純粋で、混じりけのない「新宮」への御思ひが感じられる。匠たちの御社殿造営の技術の粋をも御称賛になってをられるものと拝察されるのである。

     来たる年が原子爆弾による被災より70年経つを思ひて

   爆心地の碑に白菊を供へたり忘れざらめや往(い)にし彼(か)の日を

 10月11日、12日、天皇皇后両陛下は、第69回国民体育大会秋季大会及び地方事情御視察のため、長崎県に行幸啓になった。この折、原爆犠牲者の慰霊と被爆者の御慰問を強く望まれて、11日には平和公園と惠の丘長崎原爆ホームを御訪問になった。原子爆弾落下中心地碑前の奉安箱には16万人以上の犠牲者名簿の写しが収められてゐる。両陛下は、この碑に白菊をお供へになった。

 この御製は、詞書に記されたやうに平成27年が原子爆弾の被災から70年の節目に当ることに改めて思ひをいたされ、この原爆による惨禍をもたらした「昭和20年8月9日」を決して忘れないとの強い御気持をお詠みになったものである。

 皇太子殿下でいらっしゃった昭和56年8月7日の御会見で、「日本人として忘れてはならない四つの日がある」と発言されてゐる。6月23日の「沖縄戦終結の日」、8月6日の「広島原爆投下の日」、8月9日の「長崎原爆投下の日」、8月15日の「終戦記念日」である。両陛下はこの4つの日を特別な日とされて、戦没者を初め落命された人達のため終日御慎みになられると漏れ承る。第4句の「忘れざらめや」との強い御表現に、われら国民に、他の3つの日とともにこの日を忘れてはならないと、言外にお示しになってをられると畏くも承(うけたまは)るのである。後記する沖縄県(6月)、広島県(12月)御訪問と合はせ、陛下の強い慰霊の御意思を拝し奉るのである。

     広島市の被災地を訪れて

   いかばかり水流は強くありしならむ木々なぎ倒されし一すぢの道

 12月3日、天皇皇后両陛下は、8月の豪雨災害による被災地御見舞ひ等のため広島市を御訪問になった。土砂災害で52人が犠牲になった同市安佐南区八木地区の被災現場を御視察。その後に、被災者の人たちをお見舞ひになった。現場では、寒空の下、両陛下はコートもお召しにならず、土石流の爪痕が残る山肌を見つめながら説明に御耳を傾けられ、土石流の上流と下流に向って深々と一礼された。そして、救助・支援活動にあたった関係者にも、労(ねぎら)ひの御言葉をかけられた。

 天皇陛下は、御誕生日にちなむ12月19日の御会見で、この災害について、「8月には大雨が広島市を襲い、土砂災害によって74人が亡くなりました。先日被災地を訪問しましたが、暗闇の中で木がなぎ倒され、大きな石が土砂と共に落下してくる状況を想像するだに恐ろしく、人々の恐怖はいかばかりであったかと思います」と述べてをられる。

 御製は、まさにこの被災現場を御視察になった状況をそのままお詠みなったもので、瞬く間に土砂を押し流した水の勢ひを「水流」と詠まれ、そのすさまじさを「一すぢの道」と御表現になった。豊かな水に恵まれたわが国土は、また、水による自然災害とも隣り合はせでもあることを如何なる時も忘れてはならないと諭(さと)してをられるものと拝察される。

 翌4日、両陛下は冷たい雨が降る中、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に白菊をお供へになり、被爆者が入る原爆養護ホームで高齢の入所者をお見舞になった。

     第65回全国植樹祭(新潟県)

   十年(ととせ)前地震(なゐ)襲ひたる地を訪ねぶなの苗植う人らと共に

 5月31日から6月2日、天皇皇后両陛下は第65回全国植樹祭並びに地方事情御視察のため、新潟県へ行幸啓になった。平成16年の新潟県中越地震、同19年の新潟県中越沖地震からの復興を経て、さらなる発展を願ふ大会テーマ「未来へつなぐ森の力〜復興から創造へ〜」のもと、植樹祭は6月1日、長岡市川口中山地区で行はれた。陛下は「アカマツ」「スギ」の二樹種を御手播きになり、「ブナ」「イタヤカエデ」「ホオノキ」の三種の苗木をお植ゑになった。皇后陛下の御手播きは「ケヤキ」「タムシバ」であり、「ユキツバキ」「ヤマボウシ」「ウワミズザクラ」を植ゑられた。

 この折に、中越地震の被害とその後の復興を伝へる小千谷市の「おぢや震災ミュージアムそなえ館」を御視察になられた。

 両陛下は中越地震及び中越沖地震の際にも見舞はれ、平成20年には被害の大きかった旧山古志村(長岡市)を視察されてゐる。

 御製は、「10年前の中越地震で大きな被害を受けた現地を訪れ、ぶな≠フ苗木を地元の人たちと一緒に植ゑたことよ」の意。「なゐ」は地震を表す古語。

 かつて日本国中広く分布し、雪の多い日本海側の山地では天然林に近い「ブナ林」が広範囲に広がってゐたが、戦後大規模に伐採され、その後にスギが植ゑられた。「ブナ」の復活の願ひもお含みになりお詠みになられたものと拝察する。

       第69回国民体育大会(長崎県)

   台風の近づきて来る競技場入り来たる選手の姿たのもし

 10月12日、天皇皇后両陛下は、長崎県立総合運動公園陸上競技場(諫早市)で行はれた第69回国民体育大会総合開会式に臨まれた。折しも台風19号が南九州に接近してゐたため、両陛下は県と市町村及び県警察が台風対策に専念できるやうにと、総合開会式後の御日程をお取りやめになり、一日繰り上げて同日御帰京になった。「台風の近づきて来る」ことへのお心遣ひには、いつもながら畏しと思はされるのである。

 上の句では、台風が近づく空模様の下で、屋外での開催をご心配なされてをられる御様子と拝察するも、下の句では、その御懸念を振りはらふがごとく、入場して来る選手たちを「たのもし」と御覧になる陛下のまなざしの温かさを拝するのである。

       第34回全国豊かな海づくり大会(奈良県)

   若きあまごと卵もつあゆを放ちけり山間(やま あひ)深き青き湖(うみ)辺に

 11月15日から17日、天皇皇后両陛下は、第34回全国豊かな海づくり大会及び地方事情御視察のため、奈良県へ行幸啓になった。16日、大淀町での式典行事の後、川上村のおおたき龍神湖で歓迎行事に御臨席になり、「あまご」の稚魚と「あゆ」の成魚を御放流になった。

 放流会場となった龍神湖は、紀の川支流吉野川に建設された大滝ダムによって形成された人造湖である。同県は海に面してゐない所謂内陸県であることから、「山は川を育み、川は海を育む〜山・川・海の自然の恵みを未来に」との理念のもと、「ゆたかなる 森がはぐくむ 川と海」といふテーマを掲げての大会であった。「あまご」は、サケ目サケ科に属するサツキマスと同種で、海に下らないで河川に留まる陸封型の魚の和名であり、「あゆ」は日本各地の清流に産する代表的な淡水魚で、幼魚は海に出て育ち4、5月頃に川に遡って急流に棲む。

 御製は、第1句「わかきあまごと」(七音)、第2句「卵もつあゆと」(8音)と字余りではあるが、あまごの成長とあゆの無事なる産卵を強く願はれるお心が拝察され、字余りを感じさせない。「湖(うみ)辺」は湖畔のこと。放流された魚たちが、吉野川流域の山々に囲まれた「青き湖辺」に元気よく泳ぎ出して行く様子が目に浮ぶやうである。

       皇后陛下御歌  ソチ五輪

   「己(おの)が日」を持ち得ざりしも数多(あまた)ありてソチ・オリンピック後半に入る

 2月6日から23日まで、第22回オリンピック冬季ソチ大会がロシア南部ソチで開催され、18日間の熱戦が繰り広げられた。日本選手団は、海外の冬季五輪で最多の8個(金1・銀4・銅3)のメダルを獲得した。選手たちは試合前には大きな重圧と向き合ふ。本来の力を発揮できず、期待されながらもオリンピックを「自分の日」にすることができず敗れた選手たちも多くゐたが、まだこれからの後半に期待しますと詠まれた御歌である。皇后陛下の温かな眼差しと御声援を思ふのである。

       宜仁親王薨去

   み嘆きはいかありしならむ父宮は皇子(みこ)の御肩(おんかた)に触れまししとふ

 桂宮宜(よし)仁(ひと)親王殿下には、6月8日に薨去(こうきょ)された。天皇皇后両陛下は、薨去の日から4回にわたり桂宮邸及び赤坂東邸を訪問されたほか、斂葬(れんそう)の儀(皇族の葬儀)の後に拝礼のために豊島岡墓地に行幸啓になった。宜仁親王は、三笠宮崇(たか)仁(ひと)親王の第2男子。三笠宮殿下にをかれては、第3男子の高円宮憲(のり)仁(ひと)親王を平成14年に、第一男子の寛仁(ひろひと)親王を平成24年に亡くされてゐる。

 御歌の結びの「とふ」とは「と言ふ」(と言ふことを聞く)の意。この御歌は、斂葬の儀に先立つ御舟入りの儀(一般の納棺に当たる儀式)の際に、三笠宮殿下が宜仁親王の御肩にお触れになったことをお聞きになり、「皇子」をお失ひなられた父君三笠宮殿下の深い御悲しみをお思ひになり詠まれたもの。「御子」ではなく「皇子」の敬称を御使用になってをられることに意を留めたい。

 三人の皇子に先立たれた三笠宮、同妃両殿下の御悲嘆は如何ばかりかと拝察するとともに、皇后陛下の細やかな御心遣ひが偲ばれる。二句目の「ありしならむ」は、御製三首目の三句目にも使はれてをり、「如何であったのだらうか」と、両陛下の御思ひの深さを拝するのである。

       学童疎開船対馬(つしま)丸(まる)

   我もまた近き齢(よわい)にありしかば沁(し)みて悲しく対馬丸思ふ

 戦時中の「対馬丸」の遭難は、知る人ぞ知る悲劇である。沖縄の那覇港を昭和19年8月21日に出航した同船は、翌22日午後10時過ぎ、奄美大島と屋久島のほぼ中間の悪(あく)石島(せきじま)付近を航行中に米潜水艦から魚雷三発を受け沈没した。乗船者は本土に疎開せんとした学童と一般県民。児童780名(対馬丸記念館のデータによる)を含む多数が亡くなった。当時、天皇陛下は10歳、皇后陛下は9歳であられた。同世代を見舞った悲劇に、両陛下は以前から強く心を寄せてをられたと漏れ承る。

 天皇陛下は、平成9年の御誕生日にちなむ御会見で、「数日前、戦争中1,500人近くの乗船者を乗せた学童疎開船対馬丸が米国の潜水艦に沈められ、その船体が悪石島の近くの海底で横たわっている姿がテレビの画面に映し出されました。私と同じ世代の多くの人々がその中に含まれており、本当に痛ましいことに感じています」と述べてをられる。陛下はこのことを、「対馬丸見出ださる」の詞書で、「疎開児の命いだきて沈みたる船深海(しんかい)に見出だされけり」とお詠みになってゐる。

 6月26日、27日にこの学童疎開船対馬丸の犠牲者を慰霊されるため、沖縄県に行幸啓になった。26日は糸満市の沖縄平和記念堂を御訪問になり、国立沖縄戦没者墓苑を御参拝。翌27日に那覇市にある対馬丸犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」を御訪問になり、白菊をお供へになった。続いて対馬丸記念館を御視察ののち、対馬丸遺族や生存者と懇談され、労(ねぎら)ひと励ましの御言葉をかけられた。皇后陛下はこの悲劇を深くお心に感じられ、先の天皇陛下の御思ひをも込められ、一気にお詠みになったものと拝察される。4句目「沁みて悲しく」に、強く心を寄せられ、悲しみを御自身のものとして捉へてをられる御様子が拝察される。胸に迫る御歌である。

 歌会始 お題「本」

 新年恒例の歌会始の儀は、1月14日、宮殿松の間において行はれ、その模様をテレビで拝見した。古式ゆかしい節回しで披講される預選歌を、身じろぎもされずお聴きになる両陛下の御姿に感銘を受けた。

       御製

   夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ

 わが国における稲作は、記紀神話が伝へる天孫降臨の物語─天照大御神が、天孫瓊々(にに)杵(ぎの)尊(みこ)の高千穂の峰への降臨に先立ち、三種の神器と穂を託(ことづけ)、皇孫(すめみま)に米作りを命じられた─に始まる。日本の国と「米」との関係は一体不離で古く神話的伝承にまで遡る。「瑞穂の国」がわが国の別称である。

 皇居における直接的な田作りは、先帝昭和天皇が昭和2年に始められたと承るが、以来、今上陛下によっても継承され、平成元年からは種籾を御手播きされるところから始められてゐるといふ。昨年は、生物学御研究所脇の御田で四月に御手播き、5月にお手植ゑをされ、9月には御手づからお刈り取りされた。伊勢神宮へは根付きのまま10月の神嘗祭(かんなめさい)に奉られ、収穫された新穀は宮中祭祀のなかでも最も重要な11月23日の新嘗祭(にいなめさい)供へられた。

 御製は、秋の夕闇が迫るなか、御稲刈りをされた時のことを詠まれてゐる。稲の束を力強く掴まれて、「根本」に鎌を当て、一気に刈られるご様子が拝察される。刈り取られる際の小気味良い音が聞えてくるやうである。遙か天孫降臨に発する田作りにお心を込められる陛下の御姿を畏くも拝するのである。

       皇后陛下御歌

   来(こ)し方(かた)に本とふ文(ふみ)の林ありてその下陰に幾度(いくたび)いこひし

 「来し方」とは、「過ぎ去った時」の意。皇后陛下は、「本」を「文の林」と表現され、林の木陰で憩ふやうに、過去幾度となく本によって安らぎを得てきたことを思ひ起され、本に対する親しみと感謝の御気持ちをお詠みになられた。

 平成10年の国際児童図書評議会(IBBY)ニューデリー大会で、皇后陛下は「子供時代の読書の思い出」と題するビデオによる基調講演をされた。世界中に大きな反響を呼び起したこの御講演は、のちに『橋をかける』の書名で各国で出版され、さらに多くの人々に感銘を与へたが、その中で「今日まで本から多くの恩恵を受けてまいりました」と、子供時代の読書を語られてゐる。

 尚、御製は、即位されてから毎年五首発表されてきたが、今年は三首になった。このことに関して宮内庁は、陛下の御負担を考慮して、御年齢に合ったかたちにしたと、合点のいかない不思議な説明をしてゐる。和歌は皇室と国民を結ぶ絆でもあり、毎年、国民は御製を楽しみに待ってゐるのである。この計ひはまことに残念なことに思はれてならない。

(宮内庁のホームページ、週刊「神社新報」、月刊『祖国と青年』を参照させていただきました。紙上をお借りして御礼申し上げます。)

 

(元川崎重工業(株))

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 昨年末の総選挙の結果は、自公の与党が圧倒的多数を維持し、安倍政権は今後長期的に政権運営が可能となった。順当な結果と言へるが、反面「次世代の党」が大幅に議席を減らし潰滅的打撃を受けたことは、日本にとっても大きな打撃であった。同党は政綱の冒頭に憲法改正を掲げ、国会に於ても例へば山田宏議員が慰安婦問題を追及し、河野談話発出の経緯を政府に公表させる等、今後の活躍が期待されてゐたからである。今後の同党の再建を期待するしかない。

       ◇

 安倍政権の最大の業績は、集団的自衛権の行使を容認したことである。

 集団的自衛権は個別的自衛権と並んで国連憲章に国家「固有の」権利と明記されてゐる(51条)。「固有の」(inherent)とは、「内在する」、「本質的な」といふ意味であり、フランス語では「自然権」(droit naturel)と規定されてをり、要するに国家として不可欠の権利である。現に個別的自衛権を肯定しつつ集団的自衛権の行使を否定してゐる国家は我が国以外に他に存在しない。

 また事実問題としても個別的自衛権と集団的自衛権は不可分となってゐる。兵器技術の発達と国際支援の進展により、一国の防衛を孤立して行ふことは困難となり共同防衛が常識となってゐる。この場合、集団的自衛権を一国が行使できないとなれば、その国家は同盟国と対等の交流はできず、保護国ないし従属国の地位に甘んずるほかない。到底独立主権国家とは云へないのである。

 にも拘らず歴代自民党政権は、「独立主権国家である以上、集団的自衛権を保有するのは当然であるが、その行使は憲法上許されない」とする見解を多年にわたり固執して来た。もともと現行憲法に国防の規定は皆無であるが、自衛権まで否定すれば(そのやうな憲法学者も存在する)、もはや独立国家と云へないことは何人の目にも瞭然としてゐるから、解釈上個別自衛権に限定してこれを認めて来たのであった。まだ連合軍の占領下であったし(他国の侵略に対しては占領軍が対応する)、独立回復後も日米安全保障体制に依存してゐたから敢て集団的自衛権にまで踏み込まなかったのである。

 これに対し、安倍首相はこの解釈変更が必要と判断し、既に第一次政権当時にいはゆる「安保法制懇」なる有識者会議を組織し、多方面より検討せしめた結果の報告に基き、今回、集団的自衛権の行使の容認を決定した。これは多年の懸案を漸く解決した画期的な決断であった。若干の留保が付いたとは云へ、これによって漸く我が国も一人前の国家になったといふことができよう。その意味で安倍首相の功績は大きいと評価すべきであらう。

       ◇

 しかし、より基本的にはこのやうな誤った解釈を採らざるを得なくさせて来た憲法の存在こそが問題なのである。衆知の通り、我が国は敗戦後、敵連合国の占領下に置かれ、絶対権力を握った占領軍は光輝ある我が帝国憲法を真向から否定し、日本弱体化のための占領軍作成の憲法を強制したのである。以来70年、余りにも長い期間であったが、我々国民はこれに従はざるを得なかった。その内容は、要するに「国民共同体たる国家」といふ観念そのものを否定し、長い歴史・文化・伝統を無視して、最高の価値を「天賦人権論的個人」に置き、そのやうな「根なし草的個人」に解体してしまふものであった。従って、その成立の経緯から云っても、この憲法は速やかに改正又は廃棄せしめなければならないのである。

 安倍首相は第一次内閣組閣以来、「戦後レジームからの脱却」、「日本を取戻す」を標榜して来た。「戦後レジーム」とは換言すれば占領体制のことだと云ってよからう。その象徴が現行憲法及びそれを規範とする各種体制である。現在までに教育基本法の改正をはじめ国民の努力により徐々に戦後体制の是正が図られて来た。しかしまだまだ独立国家たるには不十分であって、その典型は国家に不可欠な「軍」の不存在である。自衛隊は装備面に於て、徐々に強化されてはゐるが、その存在の基本そのものが確立されてゐない。三島由紀夫が最後の「檄」で訴へたやうに、「建軍の本義」が与へられてゐないのである。通常の国であれば、軍の最高指揮権(統帥権)は元首に帰属するが、我が国の元首であらせられる天皇と自衛隊との関係については何の規定もない。国家体制として根本的な欠陥といふべきである。

       ◇

 他方、戦後70年といふことから、「歴史戦」といふ語が産経新聞をはじめマスコミで取り上げられるやうになった。70年と云へば人間の一生に拘るやうな長期であるが、逆に云へば70年を経てもまだ敗戦から立直ってゐないといふことであらう。前述した憲法問題もさうであるが、戦争の歴史についても多くの見解が分立してゐる。これに対し、中韓両国は対日攻勢カードとして歴史認識問題を取り上げてゐる。韓国は荒唐無稽の「慰安婦問題」を朴槿恵大統領が事ある毎に言及し歪曲したまま世界に宣伝してゐる。反日は韓国の建国の理念かも知れないが、これによって国内世論に迎合し国民の支持を獲得すると言ふ戦略もあるだらう。中国もまた14億の膨大な国民の統一的支持を得るためには、反日こそ最も国民に訴へ易いテーマであることは同じである。政権をめぐり政争の絶え間なきこの国にとつてはかうした目標が必要であり、また韓国に同調させるメリットもある。その具体的事例として「南京事件」を誇大に宣伝する可能性が高い。

 しかし、明治以来我が国は多くの戦争を経験したが、自ら積極的にこれを企画したことは一度もなかった。いづれも自存自衛(第一次大戦だけは条約上の義務履行)のため止むを得ず戈を執ったものであった。即ち我が国の外交政策は一貫して受動的であった。

 この事実を根底から覆へしたのが、敗戦後の占領軍による歴史の書換へである。所謂「東京裁判史観」がそれであり、その裏には我が国に革命を起さうとする左翼マルクス主義史観が潜んでゐた。そしてその影響は今日まで多くの歴史教科書に未だに生きてゐる。

 そしてそれは中韓両国にとつて強力な援軍となり、対日攻撃に利用することができる。つまり歴史戦とは中韓両国或いは欧米諸国の一部との戦ひであるが、同時に国内の教育界言論界の一部に巣喰ふ反日歴史観との戦ひに他ならない。

 このやうな歴史戦は、教科書検定訴訟などを通じて以前から繰広げられて来たが、顕在化したのは昭和57年の第一次教科書事件以来のことであり、この時は宮沢官房長官が完全に屈服する談話を発表した。これは中曽根内閣以後の歴代内閣に引継がれ、河野談話、村山談話等が公表されるに至る。安倍首相もまた歴代内閣の声明を継承すると明言してゐる(1月5日記者会見)から、大きな変更はできないだらう。即ち我が国は実際の戦争に敗北したのみならず、戦後の歴史観において惨憺たる敗北を喫してゐるのである。

 安倍首相は戦後70年の今年8月15日に談話を発表する予定と伝へられるが、新聞報道によれば、「戦争への反省」、「戦後70年の歩み」、「未来への展望」の三部作になるといふ。その第一部において従来の歴代政権の姿勢から大きな変化は望めないにせよ、一国の首相の談話である以上、我が国の尊厳性を傷つけな
いやうできるだけ我が国の立場を顧慮した表現にして貰ひたいと思ふ。そこには国家の尊厳と、我々の父祖の名誉がかかってゐるからである。

       ◇

 前述したやうに70年の長期にわたって、当時の戦争が現実的政治課題となってゐるといふことは、世界史に殆ど例がない。しかも我が国はその当事国であるから、速やかにその総括を行はなければならない。それによって独立主権国家としての権威を確立することが我々の責務である。70年前のことを直接体験してゐた我々の世代が残り少なくなって来た現在、そのことを痛感させられる。「歴史戦」といふ言葉が喧伝される今年は、その絶好の機会と云ってよいのではないか。将来制定せらるべき「自主憲法」も、このやうな正しい歴史認識の上に起草されなければならないと思ふ

(本会名誉会長、元 拓殖大学総長)

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       姫路市 伊藤三樹夫
初日の出をろがむ折しも雪降りてま白き世界広がりてをり

       さいたま市 井原 稔
   昨年、鳴門海峡にて
白き波けたてて進む遊覧船行く手は遥か鳴門うづ潮
激しくも逆巻く波を乗り越えて船ををしくも進み行くかな

       熊本市 今村武人
   はやぶさ二号の記事を読みて
人々の思ひ懐きてはやぶさのはるかなる宇宙(そら)へ飛び立ちてゆく

       渋谷区 加来至誠
去年(こぞ)植ゑし梅木に鳥の飛び来たり羽休めをり花待つ枝に

       小矢部市 岸本 弘
   皇居(10月)
秋なれどなほやはらかく丈(たけ)高く皇后さまの桑の木生(お)ふる
   淡路島合宿(9月)
慕はしき友とつれだち月影に真砂を踏みしかの日忘れじ
   短歌通信
うたぶみは北に南に住む人の声にぎやかに聞くここちして

       茅ヶ崎市 北濱 道
   四土会に新たな友を迎へて
初めての人には分り難きこと気付かざりしを気付かされけり
初めての人を迎へて賑しく文読み得しは有難きかな

       交野市 絹田洋一
中国政府の弾圧に抗議するチベット僧の焼身自殺相次ぐ
テロのごと人を殺さず自らの身を焼き抗議す痛ましきかも

       世田谷区 小柳志乃夫
   昨年詠より
雪やみし都の夜空いや冴えて星屑あまたきらめきて見ゆ
出撃のとき前にして曇りなき若きをのこの遺影(かげ)に見入りき(知覧にて)
軽トラック改造したるシーローに若き友とゆくバンコクの夜を
若き日をともに過せし友どちとなごみてかたる時ぞ楽しき

       由利本荘市 眞田博之
   五十路を迎へて
文読みて昔と違ひし感想の湧き来し時ぞ楽しかりける
幾度も学びし御言葉今頃になりて沁み沁み思はるるかな

       由利本荘市 須田清文
かたきことあまたあるなかひとすぢのまことの道をあふぎゆきなむ

       下関市 寶邉正久
   戦後70年
にこやかのゑまひと決死もののふの重なりて見ゆあゝわが友よ

       柳井市 寶邉矢太郎
   皇居勤労奉仕
刃傷松の廊下の跡あたり黄の花群れ咲きほこりたる
いちめんにつはぶきの花群れさかるさま美しも魅入り見とれつ
つはぶきの花きつぱりと天にたつ姿りりしくあやかりたしも

       佐世保市 朝永清之
   この年もまた心あらたに
八十坂(やそざか)を目前とする齢なるを肝に銘じて生きむとぞ思ふ
七十年鱠(なます)吹き来し世の流れ糺しゆきたし微力なれども

       四街道市 豊増達夫
冬晴れの青空の下数多なる民の集ひて天長節祝ふ
出でませるみ姿拝し人波に小旗さざめき万歳とよめく
来む年は佳き年なれと大君はいとおほらかに寿詞(よごと)宣りたまふ

       西東京市 東中野修道
春が来て暖かくなればあまたなる新しきいのち出づるが待たるる

     お題「本」に寄せて

       府中市 磯貝保博
心打つ御言葉たどり御本より教へられつつ友と読み合ふ
幾たびも読み返すごと御言葉のあらたな思ひ胸に響きぬ

       小田原市 岩越豊雄
いづこより種来たりしか立ち枯れし松の根本に向日葵(ひまはり)の咲く

       川越市 奥冨修一
若き日ゆ読み続けたる古本の背の文字いつしかかすれてをりぬ

       宮若市 小野吉宣
いただきて植ゑし松の実芽吹きけり弐拾本餘のさみどり匂ふ

       福岡市 小柳左門
   父の書庫にて
あまたなる本の背表紙ながむれば父の学びし歩み偲ばゆ
古(いにしえ)の書(ふみ)を披きてさまざまに思ひめぐらすひと時楽し

       柏市 澤部壽孫
冬寒き夜も温かき友の本読めば共なる旅行く心地に

       佐世保市 朝永清
   北朝鮮の戦後、住居を追はれ、手に持てるだけの荷物のみで
   あばら家に収容されし頃を思ひ起して
衣類より大事なると持ち出しし化学の本を壁紙としき
窓枠も戸板も壊れし廃屋を本の紙片で塞ぎて住みにき
我が蔵書眺めつつ思ふ貴重本を壁紙にしき父の無念を

       鳥栖市 名和長泰
工夫せる周期表時計と交換に本とどきたりロサンゼルスゆ

       中野区 坂東一男
嬉しかり白内障の手術受け本読む楽しみ甦りけり

       横浜市 山内健生
日の本のみ国に生(あ)れしよろこびの来る年ごとにつのるを覚ゆ

       八千代市 山本博資
ふるさとの家片づけてなつかしも若き日読みし本を見つけて

 

   謹んで訂正いたします -1月号-

 ・1頁1段目1行 1015→2015
 ・4頁標題の筆者御名 唐木寧→廣木寧
 ・7頁2段目11行〜12行の短歌
  ますらをの悲しきいのちつみかさねつみかさまもる大和島根を

 

 編集後記

 朝日は昨年8月、強制連行∴ヤ安婦報道を「嘘報」と認めたが、未だにきちんとした後始末をしようとはしない(例へば1/22付の社説)。裏も取らずに証言<eープだけで、強制連行$£ョの紙面を作った異常体質だから、嘘報の後始末が出来ないのか、嘘報の後始末さへしない独善体質だから、強制連行<eープに飛びついたのか。鶏が先か、卵が先か。嘘報が「日本と日本人」を貶(おとし)めたことに気づかないのか、気づかないふりをしてゐるのか。保身しか眼中にないのか。嘘報容認の八月以降の朝日の論説こそ注視に値(あたひ)する。1頁引用の「イデオロギーは責任を取りません」とはまさにに至言!。戦後70年の「歴史戦」、問題は国内だ。

 御製御歌に国柄の有難さを改めて感じる。謹解を御精読下さい。
 (山内)

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