国民同胞巻頭言

第639号

執筆者 題名
理事長
今林 賢郁
「終戦70年」、(昭和21年)年頭詔書を仰ぐ
- 「五箇條ノ御誓文」を掲げられた昭和天皇 -
伊藤 俊介 第17期第26回国民文化講座
「日本は中国からの脅威にどう立ち向ふべきなのか」
- 石平先生の御講義を拝聴して -
廣木 寧 日記に見る樋口一葉
拓殖大学政経学部2年
大貫 大樹
第59回合宿教室(平成26年9月、淡路)での「学生体験発表」から
合宿教室での学びで強く感じたこと
山内 健生 日本を取り戻す」ための憲法改正@
前文は「つぎはぎ」だらけ!で、国家理念なし

 平成27年(2015)の年が明けた。平成の御代もすでに4半世紀余を閲(けみ)したのだと云ふ思ひと共に、終戦70年となる今年の新年は、あらためて昭和天皇の御事(おん こと)に心が向ふのを覚える。

 今から70年前の昭和20年(1945)8月15日正午、昭和天皇はラヂオを通して、「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ大平ヲ開カムト欲ス」と戦争の終結を国民に告げられ(玉音放送)、戦後が始った。焦土と化した国土にアメリカ軍が上陸、占領が開始された。敗戦の衝撃と国土の被占領、苛酷な占領政策と国民生活の窮乏、国民の誰もが戦後の日々を生き抜くことに必死だった。

 昭和天皇はこのやうな国民を励まし、戦後日本の進むべき道筋を示す詔書を、終戦の翌年(昭和21年)の1月1日にお出しになった。「新日本建設に関する詔書」である。後に所謂「天皇の人間宣言」と呼ばれるものだが、詔書には「人間」や「宣言」と云ふ文言はなく、発表当日の新聞の見出しも、「年頭、国運振興の詔書を渙発 平和に徹し民生向上、思想の混乱を御軫念」(朝日新聞)、「新年に詔書を賜ふ 紐帯は信頼と敬愛、朕、国民と供にあり」(毎日新聞)となってをり、当時の国民がこの詔書を「人間宣言」と受け取った気配はないと云ってよい。ともあれ、この詔書を虚心に読みさへすれば、これが「天皇の人間宣言」などではなく、文字通り「国運振興」の「新日本建設に関する詔書」であることは明瞭である。

 さて、詔書は「茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇條ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ」と始り、「五箇條の御誓文」が引用された後、「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン」と続く。勁(つよ)いお言葉である。明治天皇を敬仰される、昭和天皇のお心の真っ直ぐなご表明であらうかと拝察される。日本の近代化は「五箇條の御誓文」とともに始り、その精神は「大日本帝国憲法」(明治22年)の制定によって明文化され、ここに日本は名実共に近代的な立憲国家としての体制を整へた。

 詔書の冒頭に「五箇條の御誓文」を引用されたのは、昭和天皇ご自身のご意向であったことは、後の記者会見(昭和52年8月23日)におけるご発言で明らかになった。日本の民主主義は決して輸入のものではなく、明治天皇が採用されたのであり、敗戦直後の日本人に誇りを忘れさせないために、あの宣言を考へたのだ、とお述べになった。その「五箇條の御誓文」を、ポツダム宣言受諾を告げた玉音放送から4ヶ月余り、昭和21年の年初、祖国復興の秋(とき)に直面して、昭和天皇は回顧され、われわれもこの精神に学びつつ国家再建に当らうではないか、この「國是」のままに復興の道を歩めば間違ひはない、との強い確信をもって国民に呼びかけられたのである。

 全国各地の都市は戦禍を蒙り、産業は振はず、食料は不足し、失業者は増大し、思想混乱の兆しも見える。しかし「家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國ニ於テ特ニ熱烈」ではないか、敗戦と占領と生活の困苦と云ふまことに困難な状況ではあるが、国民が団結し、助け合ひ、寛容のこころでお互ひに許し合ふ、そのやうな「氣風」が興れば、それはわが国の「至高ノ傳統ニ恥ヂザル」ばかりか、「人類ノ福祉ト向上トノ爲、絶大ナル貢獻ヲ爲ス」ことになるのだと結ばれる。

 自国の伝統に根ざした日本らしい日本の復活、その国の姿は世界の平和に寄与するのだと云ふ結びのお言葉は、そのまま今日の日本が世界に対して担ふべき命題であらう。また、今回の衆議院選挙では政府与党が多数の議席を獲得し、憲法改正もいよいよ現実味を帯びてきた。安全保障面の強化も進むであらう。政府に期待するところ大なるものがある。

 だが、これらの課題は、ひとり政治家諸氏のものではなく、国民であるわれわれひとりひとりのテーマでもある。自国への信頼と自信とを取り戻し、各々が揺るぎない国家観と歴史観を確立して、堂々とした日本人になること、それこそが国の根幹を支へる力となるに違ひない、その思ひが今更ながら胸をよぎる、戦後70年の新年である。

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     はじめに

 昨平成26年6月14日、拓殖大学客員教授の石 平先生をお迎へして、第17期第26回の国民文化講座が靖国会館(靖国神社境内)において開催された。会場を満席とする二百名を超える参加者を前に、先生から質疑応答を含め2時間余にわたり御講演をいただいたが、当日聴講させていただいた私のメモを基に、お話の一端なりとご報告したい。

     尖閣問題と中国の覇権主義的海洋戦略

 冒頭で、先生はまづ「中国からの脅威」の背景として、中国の国家戦略の転換について話された。すなはち中国は、古来より大陸国家として陸続きの近隣諸国への進出と対峙を伝統的な国家戦略として来た国であり、今日においては、近年の尖閣諸島問題に見られる日本に対する不当な領有権の主張や、南シナ海の島嶼への進出による東南アジア諸国との紛争をはじめ、海を隔てた周辺諸国との軋轢も厭はない形での海洋進出を行ってゐる。

 先生によれば、この「海洋強国戦略」はケ小平によって開始されたものであり、中華帝国以来の歴史上初めてとなる国家戦略の大転換であった。またケ小平は、この新たな戦略の実現にあたり、軍事力には経済力といふ裏付けが必要であるとの確信のもと、いはゆる改革開放により経済力強化を進めるとともに、その維持・強化に不可欠なシーレーンの確保を目指したのだといふ。さらに、これらのケ小平による戦略的政策は巧妙に隠蔽され、また彼自身の友好的態度もあったため、日本では当時の官民が揃ってその深謀遠慮に気づくことが出来なかったのは一大痛恨事であったとも、先生は厳しく指摘された。

 一方、尖閣諸島問題に関して平成24年に日本政府が行った国有化は、中国のこの海洋強国戦略への対抗として一定の効果を上げたとされた。すなはち、日本政府による尖閣国有化に対して中国政府は官製デモとして反日デモを大々的に組織し実行したが、ふだん許されない「中国において公開の場でデモを行ふ」といふことをやってしまったがために、反日デモがいつの間にか反政府デモに変質してしまひ、中国政府は逆に抑へにかかり火消しに追はれることになった。この事実は大変重要であり、以降、中国において大規模な反日デモは一切行はれることがなくなり、たとへば平成25年末の安倍首相による靖国神社参拝に対しても、中国政府は中国国民による反日デモや暴動といった動きをむしろ封じ込めるのに注力せざるを得なくなってゐたのである。

     習近平政権の危険性と尖閣問題の行方

 しかしケ小平以来の海洋強国戦略は、中国の現政権である習近平政権にまで確実に受け継がれてをり、さらに中国は海洋権益問題に関して、日本のみならず東南アジア諸国を含む周辺諸国に対して、沈静化どころか挑発を続ける状況となってゐる。

 先生は、ここに習近平政権に潜む危険性を指摘され、習近平が演説等において用ひる「民族の偉大なる復興」、「海洋強国」、「強軍路線」といふ三つのキーワードをその象徴として挙げられた。

 まづ「民族の偉大なる復興」とは、中華帝国の復興、すなはち歴史の清算を指すとされた。近代以前、中国はアジアのみならず世界の中心とも言へる存在であったが、近代以降の西欧列強の進出や日本の興隆により、中国は国際的に地位を低下させ中華民族は屈辱を味はふこととなった。習近平は、そのやうな近代史の清算を真剣に目指してをり、たとへば昨年4月の欧州歴訪においては、経済的な停滞に喘ぐ欧州各国が、いまや経済大国となった中国に庇護を求める樣子を演出し、いはば西欧列強への復讐を見せつけたのである。

 また「海洋強国」については、先に述べたケ小平から始まった新たな国家戦略を、習近平は自らの政権において「完成」させることを目指してをり、そのために尖閣問題をはじめとする海洋権益問題は、残念ながらその拡大と長期化が必至である。

 そして「強軍路線」とは、まさしく軍事力の強化であり、改革開放を経て経済力といふ裏付けを得た中国は、経済力強化の本来の目的である軍事力の強化を今まさに実行に移してゐる。この「強軍」といふ言葉を習近平は、たとへば昨年3月の全国人民代表大会開催時における人民解放軍幹部との座談会冒頭のわづか15分の演説において、33回も繰り返し使用してゐる。かたや中国の前政権トップである胡錦濤の標榜した路線は「平和的台頭」であり、当時も軍事力の増強は着実に行はれてゐたもののそれを表立っては打ち出してゐなかったのと比べると、習近平政権の超タカ派ぶりが歴然とする。

 これらを踏まへて先生は、習近平政権の本質は軍国主義であると指摘され、政権は第一に国内において言論の自由や人権の弾圧を推進し、第二に政権内における軍政一致の推進を図り、そして第三に対外戦争準備体制の整備を進めてゐると喝破された。また習近平政権のこれらの特徴は、歴代の中国共産党政権の中でも周辺諸国との紛争をも辞さなかった毛沢東の侵略路線を受け継ぐものであり、その危険性は計り知れないものであると述べられた。

 さらに先生は、我が国に対する中国の脅威は、習近平政権が本質として備へるこれらの危険性に加へて、政権を取り巻く経済状況によりさらに増大しかねないものでもあるとも指摘された。すなはち、習近平政権が国内での弾圧を優先的に推進してゐるのは、中国では経済発展にともなひ貧富の格差が急速に拡大し、国民の間に渦巻く格差への不満が政府への不満として表面化してゐる現実が背景にある。現に中国では、地方を中心に年間20万件もの暴動が発生してをり、その背景にある経済格差問題への対応に中国政府は苦慮してゐる一方で、中国の経済成長にも陰りが見え始めて、一部ではバブル崩壊の可能性も取り沙汰されてゐる。しかしながら、仮に中国経済が破綻するとすれば、習近平政権は国内の動揺を抑へるために冒険的な対外行為に出かねず、また逆に中国経済が無事に立ち直りさらなる成長を続けるとすれば、強力な経済力を背景に引き続き海洋強国戦略の完成に突き進むこととなる。したがって、日本をはじめとする周辺諸国にとっては、いづれにせよ中国の脅威は長期的に対応せざるをえない深刻な課題となるのである。

     いまこそ中国からの脅威にたちむかふべき時

 このやうな中国からの脅威に対して、日本はどう立ち向ふべきなのか。この長期的かつ深刻な課題への対応について、先生はまづ外交と日本の安全保障体制の強化を挙げられた。日米安保を基軸としつつ東南アジア諸国との連携を強化することにより、中国の海洋進出といふ覇権主義的な膨張を封じ込める必要がある。その点において、安倍首相が進める現在の外交戦略は非常に評価出来るものであるとされた。一方で先生は、外交や安全保障のみでは中国からの脅威には対抗し得ず、特に戦後占領軍により作られた憲法をひきずる日本の現在の体制では、集団的自衛権の行使に限界があるのを一例として、中国からの脅威をはじめとする日本を取り巻く現状に対応しきれてをらず、「日本はまだ『ちゃんとした国』になってゐない」との表現でその限界を厳しく指摘された。

 この状態をあらため、日本にとって最大の脅威である中国の脅威に立ち向ふためには、日本が戦後イデオロギーを清算して自らの手で憲法を制定し、新たな憲法にもとづいた強力な国家体制を整へることが必須であり、さうすることによってはじめて同盟国や東南アジア諸国から真の信頼を得ることが出来るのであるとされた。

 さらに先生は最後に、日本が強くならなければならないのは国家体制にとどまらないことを強調された。すなはち、外交にせよ、安全保障にせよ、日本の強化のためには、何よりもまづ日本人が強くならなければならない。そしてそのためには、日本の長い歴史において国のために命を捧げた先人の顕彰、特に近代以降の戦歿者を御祭神として祀る靖国神社の存在が重要であり、靖国神社は日本人の国防精神を支へる支柱であるとされた。

 日本人の精神的な強さといふ基盤があってこそ、はじめて外交や安全保障といった日本の国家戦略は血の通ったものとなり、国の強さとなると、その重要性を強調されて、先生は御講演を締め括られた。

     石平先生の御講演を拝聴して

 以上、先生の御講演を私なりにご報告させていただいたが、日本企業の海外におけるリスクの予防や対応の支援を生業としてゐる私にとって、先生のお話は、私自身が日々見聞きする中国の現実を、歴史的経緯や背景を踏まへて明快な論理で解きほぐしていただくものであった。

 また、中国からの脅威に対して、我々日本人一人ひとりが強くならなければならないとの先生の鋭いご指摘は、私が日々を如何に生きていくべきかについての指針を示していただいたやうにも感じられ、非常に感銘深かった。先生のご指摘になられた日本の課題とは、我々の人生に直結する課題であることを肝に銘じたい。

(FTIコンサルティング)

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     はじめに

 樋口一葉が亡くなってから110年あまりが過ぎたが、一葉の名は小説家として異彩を放ってゐる。しかし、夏目漱石といふ人をその小説だけから見てしまへば漱石の東洋的儒者の風貌が欠落するやうに、樋口一葉といふ人をその小説だけから理解しようとすると、一葉の志の高さを見落としてしまふことになる。一葉は小説には表現し難い自己を日記には表してゐるのである。

     感動深き二つの事件

 一葉が数へ年22歳の明治26年に、永く日本人の心に深き感動とともに印象づけられた事件が二つあった。

 一つは福島安正陸軍中佐(当時)のユーラシア大陸単騎横断である。五年ほど駐ドイツ公使館付武官を務めた福島中佐は帰国に当り、ベルリンからウラジオストクまで、ひとり馬に乗って踏破せんとした。功名心からではない。ユーラシア大陸の東方において勢力拡張が著しいロシアの動向を探るためであった。福島中佐は書いてゐる。

  「騎馬の旅行は一日僅か40キロ程度しか進まないが、山に登り、河をわたり、平野を過ぎなどしてゐる間に地勢地理を観察することも出来る。(中略)殊に、山間僻地(へきち)の寒村、荒駅に於いては住民の感情に飾り気なく、よくその国民性を露はしてゐるので、これらの事をよく調査観察しなければ、その国の真の姿は解らない」

 この単騎横断の途上チタを過ぎた頃、地元の警部長の使者の馬が中佐を追ひ駆けて来た。中佐の家族の手紙を届けに来たのだ。その手紙には明治天皇から御内帑金(ごないどきん)(天皇のお手許のお金)を賜ったといふ事が報じられてゐた。中佐は大陸の只中で涙を流した。

 福島中佐の行程は約1万5千キロ、所要日数は17ヶカ月(488日)であった。使役した馬の内、斃(たお)れたもの三頭、廃馬になったもの数頭に及んだ。また中佐自身もヴォルガ渡河では流氷衝突の危険を冒し、チューメン付近では30度を越える暑さの中を数日間にわたってコレラ地帯を通過し、ネルチンスクを過ぎては馬が暴走して氷上に落馬し、脳底に指が入る程の重傷を負った。

 福島中佐がベルリンを出発したのは明治25年の紀元節(2月11日、今の建国記念日)で、ウラジオストクに到着したのは明治26年6月12日のことであった。

 明治の日本人の心に深く刻まれた明治26年のもう一つの事件は、郡司成忠(なりただ)海軍大尉の千島短艇行である。郡司成忠は、後に一葉の小説を森鴎外ともども激賞した作家幸田露伴の実兄である。

 明治八年にわが国はロシアとの間に千島樺太交換条約を結んだが、当時の日本の国力では千島の保全は期し難く、時の政府は千島列島の最北端、ロシア領のカムチャッカ半島に面する占守(しゅむしゅ)島の住民の安全をはかるために、北海道に最も近い色丹島に移住させるなどの策を採って、千島の経営から逃げてゐた。

 かういふ時に、明治天皇が北辺の事情について御心にかけてをられることが察せられた。郡司大尉は朝野の人に日本国民の千島移住の必要を説き、まづ軍艦による移送を計画した。実現は困難であった。それで汽船、それから和船と計画してみたが、協力してくれる者はゐなかった。しかし時とともに募金も集まり、御内帑金(ごないどきん)も賜るに至った。郡司大尉は短艇、つまりボートによる航海を決断した。一行99名は、ボート三隻を含む5隻に分乗して、明治26年3月20日に墨田川より出発した。

 一葉はその日の日記に次のやうに書いてゐる。

  「北航端艇、墨田川に発程す。帝国大学、高等中学、高等商業、商船学校、三菱社、郵船会社、学習院、其他之(そのたの)諸学校数10校残らず送る。下谷広徳寺辺、浅草並木通あたりより人足(ひとあし)絶えず」

 郡司大尉は、一葉の日記に見られるやうに、国民的激励の中を東京湾を出て、日本列島に沿って北へ進んだ。五月下旬に青森県沖に達した時に事件が発生した。暴風雨に巻き込まれて一隻の船と一隻の短艇(端艇)が遭難して19名の人を失ったのである。

 一葉の5月23日の日記である。

  「23日も雨也、(中略)11時過(すぐ)る頃、新聞号外来る。『郡司大尉の一行暴風雨にあひ、行方しれず』とあり、又一報に、『大尉の行方はしれたり、委細はあとより』とありけり」

 以降、郡司大尉一行への憂慮の気持ちは日記に散見されるのであるが、今は、郡司大尉一行が択捉(えとろふ)島に到着したことを聞いた6月24日の日記を引く。

  「郡司大尉一行のえとろふ(択捉)
につきたりと聞くに、むねしづまる心地しながら、此後の事如何なさんとすらむ、先に移りたる人々の、食にともしく(乏しく)て死したるもありとか聞くを、其(その)たくわへなども多からずして出立ちにし人々よ。あはれ、こゝにも眼をはなつ人あれかし、北海道は紳士の遊び処にあらず、此人々はまこと身をすてゝ邦に尽さんとする人々ぞかし」

 短艇行といふ壮挙の報知の裏に隠れてしまってゐる北の果ての同胞の難儀を偲び、国民に注意を促す。一葉はまず細やかな、いたはりの気持ちを送り届けたいと願ってゐるのだ。

 福島中佐についても一葉は日記に折々に記してゐるが、今は、中佐の帰京の日のものを引く。明治26年6月29日のものである。この日、福島中佐はウラジオストクから横浜港に入港した。歓迎場は上野に設けられてゐた。

 「晴れ、薄曇也。福島中佐帰京に付、歓迎もやうのおびたゞしからむをおもひ、母君にも見せ参らせ度(たく)、もろ共に正午より上野に行。此ほどの事かきつゞくべきに非らず。3時頃帰宅」

     国の命運をわが事とする

 一葉の日記の不思議さは、自国の命運や世の成り行きへの強い関心が日々の生活の細々とした雑務と何の無理もなく共存してゐることである。つまり、幕末の志士の日記と商家の主人のそれとが一つになったやうなものである。例へば、右記の6月29九日の福島中佐の帰京の記事に続いて、

  「我れは直(ただち)に、一昨日たのみたる金の成否いかゞを聞きにゆく。出来がたし……伊東君より帰りたるは日没後なりし。此夜一同熱議、実業につかん事に決す。かねてよりおもはざりし事にもあらず」

と書き綴られてゐるのである。福島中佐の壮挙と自家の家運の衰へが同じ心の働きで捉えられてゐるのである。

 樋口家は明治20年に家督を継いでゐた長兄が死亡し、2年後に父親が事業の失敗の後に病歿するに及んで収入が全く途絶えた。一家は母と妹の内職で賄(まかな)はれた。この一家の緊急時に一葉はどうしたかといふと、友人が小説を出版して多額の原稿料を手にしたことに刺激され、職業作家を志したのである。しかし、事はうまく運ばなかった。実業に就くことを決断する3ヶ月ほど前の日記に一葉は、「我家貧困日ましにせまりて、今は何方(いづく)より金かり出すべき道もなし」と記してゐる。8月に転居して雑貨屋を開店するが、翌年の2月2日の日記に「きるべきものゝ塵(ちり)ほども残らずよその蔵にあづけたれば、仮そめに出んとするものもなし」と書くことになる。一葉は商売にも失敗したのである。

 一葉は今一度、文筆の世界に戻ることになる。そして後世に遺る名作「たけくらべ」「にごりゑ」「十三夜」などを書くのである。

 一葉は明治5年(1872)に今の東京都千代田区内幸町に生れた。本名は奈津。父親も母親も今の山梨県塩山市の生れである。二人は幕末の安政四年(1857)に江戸にやって来た。ともに農民の出であった。

 一葉の正規の学歴は11歳で終ってゐる。成績は極めて優秀で、本人は進級したいと思ってゐたが、母親の「女子にながく学問をさせなんは、行々の為(ため)よろしからず」との意見で、家事の手伝ひ、裁縫の稽古で15歳になった時、不憫に思った父親が、「萩の舎」といふ歌塾に入塾させた。「萩の舎」で和歌、書道、古典の勉学をしたことが、一葉の学問のすべてである。一体どこから左に記すやうな志の高さを身に付けたのか。高潔にして気性の烈しい儒者の人格に接する思ひである。

  「おもひたつことあり。うたふらく。

すきかへす人こそなけれ敷島のうたのあらす田あれにあれしを

いでや、あれにあれしは敷島のうた計(ばかり)か、道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。かひなき女子の何事を思ひ立(たち)たりとも及ぶまじきをしれど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず。かすか成(なり)といへども人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生いとはず天地の法にしたがひて働かんとする時、大丈夫も愚人も、男も女も、何のけぢめか有るべき。笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ。わが心はすでに天地とひとつに成(なり)ぬ。わがこゝろざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられて、やせ犬のゑじきに成らんを期す」(明治27年3月25日)

 一葉の生涯にわたる生活範囲は今の東京都内の二、三区を出ないであらうが、感動し、また憂慮した、一葉の心の振幅は、日本を優に越えて、ユーラシア大陸を西から東まで飛翔したことであらう。

     埋火の如き恋心

 一葉がうら若い女性であったことも日記には散見される。例へば、明治26年5月27日の日記である。

  「故郷は忘じ難し、はた忘ずべからざるもの也。されど故郷なつかしとて、ひたすらに心引かれてのみあらば、都会に出でゝ志ざす大事業のなるべきものかは。逢はでやみにし其人の上は、たとふるに恋の故郷ぞかし」

 一葉は生きて行くために、烈しく魅かれながら逢ふことを自ら断念した人がゐたのだ。

 職業作家にならうとして、妹の友人から紹介されて東京朝日新聞の専属作家であった半井(なからい)桃水(とうすい)を訪ねたのは明治24年の4月である。この出会ひから徐々に一葉の桃水への恋心が芽生えて行ったといふのが一葉研究家の指摘するところである。

 明治29年2月20日の日のことである。この年の11月23日に一葉は肺結核にて亡くなる。雨が軒をたたいてゐる。烏の声が聞える。一葉は文机(ふづくえ)に寄り掛かって眠ってゐた。……今日は、………2月20日だと指を折りつつ確かめた。自分が樋口奈津であること、数へ年の25になることも、今日が木曜日であることもはっきりした。……。一葉は夢を見てゐた。夢の中で、一葉は思ってゐる事を思ったままに相手に伝へてゐた。相手もこちらが思ってゐる通りにそのまま知ってくれてゐることが判り、嬉しく思ったことが思ひ出された。目覚めて現実に返ると、言ふまいと思ってゐること、語り難いことなどがいろいろとあったことが判って来た。

  一葉はもの思ひにふける。
「しばし文机に頬づえつきておもへば、誠にわれは女成けるものを、何事のおもひありとて、そはなすべき事かは」

 一葉は、夢の中で話せたことでも日記にはそのまま書くことが出来なかった。思ふことの幾分かは日記に書けた。しかし、夢の世界ではない現実の世界で相手に真向ひ、胸の中の思ひを伝へることなど、一葉には思ひも寄らぬ事であった。恋の心は埋火(うずみび)の如く一葉の中に、外に現れることなく、燃えてゐた。

 「我れは女なり。いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事か、あらぬか」

(『寺子屋だより』第37号の拙稿に加筆)((株)寺子屋モデル講師頭)

 山田輝彦著(国文研叢書24)
 『明治の精神 ─近代文学小論─』 価800円 送料215円

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     講義も班別研修も新鮮だった

 私が国文研と出会ったのは去年(平成25年)の夏休みの始めの頃でした。大学の研究内容で、私が関心を抱いたのは歴史学者、平泉澄(きよし)先生の思想でした。このテーマについてご指導して頂ける先生を探してゐました。拓大の或る先生から、「そのテーマならこの先生ではないか」として、紹介して頂いたのが「日本の文化」ご担当の山内健生先生でした。その時はまだ国文研の存在は知りませんでした。

 山内先生にお会ひして、ひと通り自分の考へをお話して帰らうとした時に、先生から厚木での合宿教室のパンフレットを見せられて「参加しないか」と誘はれました。正直に言ふとその時、私は参加を渋りました。その日程が別の講演会(産経私塾)と重なってゐたといふことと、さらに大きな理由は金銭的な面から前向きではありませんでした。しかしその点については先生にご配慮頂き参加費を分割払ひにして頂いたことで、行く決心がつきました。しかし私は人見知りといふこともあり、知らない人達ばかりの所に行くといふことに不安感を抱いてゐました。

 合宿が始まり講義をお聞きしてゐると、さういった不安感や後ろ向きな感情といふものは薄れていったやうに思ひます。どの講義も大学では絶対に聞くことの出来ない内容でした。このやうな講義をお聞きした後の班別の研修でも、講義を聞いてゐて理解できなかったところが、自分以外の人の意見を聞くことでなるほどとスッと自分の中で合点が行きました。また自分がどう感じたかといふことを人に伝へる機会は、これまでほとんどありませんでした。合宿での一つ一つの体験はどれもが自分の中では新鮮でした。

     目頭が熱くなり胸が一杯になった慰霊祭

 特に私が合宿に来て良かった、また来年も参加したいといふ気持ちになったのは3日目の夜に行はれた慰霊祭でした。

 慰霊祭とは平時・戦時を問はず日本のために生涯を捧げた数多(あまた)の先人の御霊をお慰めするお祭りです。そのお祭りの中では和歌朗詠、御製拝誦、祭文奏上が行はれます。

 あの暗闇の中での厳粛な空気といふものが未だに印象深く残ってゐて、あの時の感覚は忘れることが出来ません。目をつぶって和歌朗詠や祭文奏上を聞いてゐるうちに、目頭が熱くなり胸が一杯になったのを覚えてゐます。

 どのやうな感覚かといふのを言葉で言ひ表すのは難しいのですが、胸のあたりがもやもやしてそしてカッと熱くなりました。この時何を読み上げてゐるのかは、はっきりとは聞きとることは出来ませんでしたが、後で「感想文集」を見たら正確には次のやうな文言でした。

  「み国のために尊きみいのちを捧げ給ひし あまたの同胞(はらから)のみ霊を招(を)ぎまつり なぐさめまつらむと み祭り仕へまつらむとす」

 頭の中では、今の自分たちがかうして存在してゐるといふことは、先人の方々が命を懸けて日本の国を伝へ護ってきたお蔭であるといふことは分ってゐます。しかし頭の中や書物の活字の中だけで分ってゐた知識で、漠然としてゐたやうに思ひます。

 慰霊祭の初めのところで、三井甲之詠の「ますらをの悲しきいのちつみかさねつみかさねまもる大和島根を」といふ和歌が朗詠されたました。

 私は目をつぶり和歌朗詠や、御製拝誦、祭文奏上を聞いてゐるうちに、頭の中に「あぁさうだ、あぁごめんなさい」といふ言葉がぐるぐると出て来てゐました。あぁさうだといふのは頭の中で分ってゐた先人の「いのち」と「死」を体で感じとったところから出て来た言葉だと思ひます。ごめんなさいといふは祭文の中で次の言葉を耳にしたからのものだったやうに思ひます。

  「しかれども まことに口惜しきことに おぞましき自虐史観は全国の津々浦々 はたまた 教育 経済 政治 司法 マスコミ等の各界にまではびこりて 日本語は乱れ 道徳心は失はれ 国を守る気概は薄れ このありさまに胸ふたがれ憂ひつきざる日々となれり」

 命を懸けて日本の国を護らうと戦った先人の方々はここで書かれてゐるやうな乱れた日本、今の日本を作り上げるために死んだわけではないのにも関らず、そのことを私達は考へようともせず無視して今に至ってゐます。私自身はその現在を生きる日本人として申し訳ないといふ思ひになり、「あぁごめんなさい」といふ言葉がふと出て来たのだと思ってゐます。

     心の眼を養ふことが大切だ

 このやうに自分自身が肌で感じて、右のやうな感情を生み出したのは、あの夜の闇の中での慰霊祭といふ雰囲気の所為もあるかと思ひますが、あの時御霊は戻ってきてをられたからだと思ひます。だからこそあの厳粛な空気が醸(かも)し出され、そして私は今まで感じることのなかった貴重な体験が出来たのだと思ひます。

 この年の合宿で拙いながら次の和歌を詠みました。

     慰霊祭の和歌朗詠に胸打たれ忘るることの出来ぬ夜(よ)となりぬ

 この時受けた慰霊祭での感動をそのまま詠んだのです。

 かういった体験も合宿に参加してゐなければ持つことの出来なかった感覚だったと思ひます。慰霊祭がどういふものかといふことは知ってゐましたが、自分がその場に参列する機会はありませんでした。しかし普段自分が日常的に行ってゐるやうな机上の勉強だけでなく実体験によって会得する勉強と言ふのは大学では絶対に味はふことは出来ません。

 山内先生の授業で、人間には二つの目があるとして肉眼と心の眼の存在をお話ししていただいたことが有ります。私は国文研での勉強といふのは心の眼を養ふものだと思ひます。頭で考へることも勿論重要だと思ひますが、何かを感じる、感じ取れるやうになる、そのやうな感覚を持つことは大事だと思ひます。

 その感覚といふのは恐らく私が初めての慰霊祭で感じたあの感覚なのだと思ひます。私は心の眼を養ふ基礎としてあの感動を忘れずに温めてゆきたいと思ってをります。

 私はまだ大学2年で合宿に参加したのはこれが2回目ですし、国文研の事務所での勉強会にも中々参加できてゐません。まだまだ勉強することは沢山あります。これからも国文研での勉強を通して豊かな心の眼が持てるやうになりたいと思ひます。

 ご清聴ありがたうございました。

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 日本国憲法の「前文」を読んだとき、どのやうな印象を抱かれるだらうか。612字から成る憲法前文には3回ほど「日本国民」といふ固有名詞が出てくる。そのことで一見「日本」の憲法らしくはなってゐるが、別表のやうに外国の政治文書からの「つぎはぎ」だらけである。わが国の歴史や伝統はまったく考慮されてゐない。つまり国家理念なき机上の作文に過ぎないのだ。これでは前文から日本の国の姿が見えてこないのは理の必然であって、全面的に見直して、わが国の歴史と伝統と文化に則った文面に、「国柄」を説くものに改めるべきが当然である。

 かつて神奈川県の某県立高校の「生徒手帳」に憲法前文が掲げられてゐた。「生徒手帳」と言へば、ふつうは校歌や生徒心得、生徒会会則、自転車通学規則などが載ってゐるものだが、そこに憲法前文が載ってゐたのには少々驚いた。生徒指導の教員たちは、恐らく憲法前文に共鳴してゐて、この「素晴らしい文章」を生徒にも身近なものとして大事にして欲しいと願ったからに違ひない。また、横浜市内の某公立中学校では以前、公民科の教員が憲法前文を暗誦できるやうになることを夏休みの宿題にしたといふことも耳にした。この教員も善意から課題を出したに違ひない。しかしながら、日本国憲法制定の経緯を見るまでもなく、これらの教員は、人が良すぎる上に、見る目が曇ってゐる(ただし教員だけを責めるのも酷な気がする。朝日などのマスメディアこそが日本国憲法賛歌の震源地と見なして間違ひないからである。邦人拉致や尖閣危機を目の前にして猶、地方紙の多くも賛歌を鼓吹してゐる)。

 日本国憲法賛歌、それは多くの場合、前文と第九条への賛歌に他ならないのだが、どうして「他国の公正と信義」に“自国の生存を委ねて、防衛努力はしません”などと謳ふ、奇妙きてれつな文面になったのか。それは、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下、即ちわが日本国家が主権喪失した仮死状態の折に、GHQスタッフが草案を作成したからである。「日本の弱体化」といふGHQの大方針から憲法草案が練られたからである(それも巧妙にも「帝国憲法の改正」といふ擬制をとりながら)。

 国民投票法が制定され、憲法改正が具体化してきたことを踏まへて、櫻井よしこ・田久保忠衛・三好達の三氏を共同代表とする「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が昨年10月1日に発足した。同会のパンフレットを参照しつつ、憲法改正の要点のいくつかについて考へてみたい。(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

日本国憲法前文

われらとわれらの子孫のために…わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、…この憲法を確 定する。

国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、そ の権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

日本国民は…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭 を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会 において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有すること を確認する。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの 崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

アメリカの政治的文書および国際関係文書

われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的もって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する(アメリカ合衆国憲法)

人民の、人民による、人民のための政治(リンカーンのゲティスバーグ演説)

日本は、その防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。(マッカーサーノート)

われらは、その国民が、われら三国国民と同じく、専制と隷従、圧迫と偏狭を排除しようと努めている、大小すべての国家の協力と積極的参加を得ようと努める(テヘラン宣言)

すべての国のすべての人類が恐怖と欠乏から解放されて、その生命を全うすることを保証するような平和が確立されることを希望する(大西洋憲章)

われらは、相互にわれらの生命、財産及びわれらの 神聖な名誉にかけ、…この宣言を擁護する(アメリカ独立宣言)

 

 編集後記

 師走の衆院選の結果は周知の通りだが、それは明治23年の第1回から数へて47回目だった。現憲法は帝国憲法第73条に基づく「帝国憲法の改正」の建前だった。GHQ統治下、初の元旦に発せられた詔書は明治天皇の「五箇条ノ御誓文」から始まってゐる。“戦後70年”の正月を迎へて、「明治との連続性」にあらためて思ひが及ぶ。

 ことしも御支援御叱声下さい。(山内)

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第60回全国学生青年合宿教室  招聘講師決まる!

埼玉大学名誉教授 長谷川三千子先生
日時: 平成27年8月29日(土)〜9月1日(火)
場所: 国立中央青少年交流の家  静岡県御殿場市中畑2092

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