国民同胞巻頭言

第637号

執筆者 題名
山内 健生 「朝日」の病理
大岡 弘 明治天皇の靖國神社招魂式の御製に想ふ(上)
- 軍事費大幅増額への転換 -
平成26年 慰霊祭 斎行さる
岡山 英一 近代国家建設と歩みを共にした吹奏楽
- あるべき姿と進むべき道を見失った「異様な現状」を憂ふ -

 長年にわたる自らの慰安婦報道に誤りがあったとして、朝日新聞は8月5日と6日の紙面に検証記事を掲げた。9月11日には社長が記者会見する羽目になったが、文字通り「顧みて他を言ふ」お座なりの姿勢がさらなる批判を招いてゐる。何しろ自らの「嘘報」の後始末さへ第三者委員会に丸投げするといふ無責任ぶりだからである(この拙稿は「戦時慰安婦」に関する嘘報に限って記す)。

 一連の朝日批判の中で、論より証拠ならぬ「証拠(事実)より論(先入観・主張)」に重きを置く朝日の病理を如実に物語るものがあった。それも朝日新聞関係者が語ってゐる。『週刊文春』(9月18日号)に載ってゐた1頁ほどの記事によると、早い段階で、朝日の社内に「済州島で慰安婦狩りをした」との吉田某の話に疑念を抱く者がゐたのである。

 朝日新聞社に30余年間勤め、その後『(朝日新聞ウィークリー)アエラ』創刊時(昭和63年)に、同誌に異動した81歳の「業界では知らぬ者のいない名物記者」、長谷川熙(ひろし)氏が、『週刊文春』の取材に応じて、次の旨を「漏らした」のである。

  (『アエラ』創刊の頃)自分の真向かいに座っていた編集部員Xが、度々ヒソヒソと吉田清治氏に電話をしていた。吉田氏のような人物は「世間の圧力が強くなると日和ってしまう」「違うことを言い出す」、「取材するこちらが常に手綱を強く持っていないといけない」という趣旨のことも話していた

 吉田清治氏とは言ふまでもなく、慰安婦にするために済州島で女性を攫(さら)ったとの虚偽発言をした人物のこと。吉田某は昭和57年9月1日、大阪での集会で慰安婦狩りの「体験」を語った。朝日は裏も取らずにこの話を翌日の紙面で「四段抜きの大見出しと三段抜きの写真」を以て報じた(大阪本社版)。これがそもそもの発端で、与太話は朝日の報道によって注目され広く拡散した。この報道から32年後の今年8月5日、やうやくにして、「吉田証言」は虚偽だったとする記事を掲げたが、この間、関連記事が続報されたこともあって「吉田証言」は世界を駆けめぐり、韓国の「反日妄動」の拠り所とされ、今や中国もそれに加勢してゐる。一方、朝日の報道は国内の「反日自虐」勢力にも格好な宣伝材料を提供することとなり、おぞましいことに彼らは国際場裡で「吉田証言」を吹聴してきたのであった。

 ひと度、損はれた対日イメージは容易なことでは回復しない。

 朝日の内情を「つくづくやりきれない様子で漏らした」長谷川氏は、8月5日の「吉田証言」を虚偽とした検証記事を見て「これはまったく検証になっていない。実相と相当かけ離れている」と思ったといふ(「Xは…証言を覆さないように背中を押し、途中からは吉田氏と捏造の共謀関係に入った可能性すらあるのではないか…」とも述べてゐる)。そして81歳の「名物記者」は、『アエラ』誌から離れて「真相を明らかにし、記録に残すべきだ」との思ひに至って、8月末、遂に朝日新聞社七階の『アエラ』編集部から身を退いたといふ。

 この老記者の見聞談が雄弁に語ってゐるやうに、早い時期から、即ち秦郁彦教授が済州島での現地調査の結果、「吉田証言」の嘘を暴いたのは平成4年だが、その4年前には(『アエラ』創刊の頃、即ち今から25、6年前には)、慰安婦狩り証言の荒唐無稽を朝日は認識してゐたのである。それ故に、吉田某がぶれないやうにと時々電話で「手綱を強く」締める者がゐたわけである。「取材するこちらが常に手綱を強く持っていないといけない」と話してゐたとは、真に恐れ入ってしまふ。

 ところが、1996年(平成8年)2月、国連人権委へ提出されたクマラスワミ報告≠ノ「吉田証言」が事実として採用されても、朝日は異を差し挟まないどころか、「個人への国家補償を避けてきた日本政府に明確にNOのサインを出した」旨の社説を掲げてクマラスワミ報告≠肯定し、翌平成9年3月の「従軍慰安婦 消せない事実」といふ記事では、「(吉田証言を)裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」と逃げ、「強制性が問われている」などと焦点をはぐらかしてゐた。

 およそ報道機関の名に値しないキャンペーン新聞の手口であった。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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 明治天皇は、日本海海戦の25日前のことになるが、明治38年5月2日の夜半、宮城(皇居)の内廷にて次の御製を詠ぜられた。日露開戦以来の戦歿者のみ魂を靖國神社に合祀する招魂式に寄せられたお歌である。(小堀桂一郎著『靖国神社と日本人』、平成10年、PHP新書)。

          鏡
   國のためいのちをすてしもののふの魂や鏡にいまうつるらむ

 明治天皇をはじめ明治期の父祖達は、直面した国家存亡の危機にいかに対処し、その危急をいかに克服し得たのか、前掲の明治天皇の御製を手がかりに、その一端を振り返り、現在の安倍政権と各政党が果すべき課題について考へてみたい。

   1.軍艦製造費をめぐる紛糾

 今から125年前の明治22年2月11日、紀元節の佳節に、大日本帝国憲法(以下「帝国憲法」)が発布された。翌明治23年には、互選によって、貴族院の多額納税者議員、並びに、伯爵・子爵・男爵議員の選出が行はれるとともに、別途、貴族院の勅選終身議員の任命も行はれ、さらに、衆議院議員の総選挙が実施されて、皇族議員、並びに、公爵・侯爵世襲議員を含む貴族院議員252名、衆議院議員300名が定まり、11月29日、第1回帝国議会の開院式が挙行された。明治天皇は、貴族院の本会議場にて御声も高らかに勅語をお読み遊ばされた。この日を以って帝国憲法が施行され、成文憲法のもと、明治の立憲政治が開始されたのである。

 しかし、初期の帝国議会の運営は、混乱を極めた。当時、衆議院では、政府に反対の立場をとる政党の集合を「民党」と呼び、他方、政府を支持する政党の集合を「吏党(りとう)」と呼んでゐた。議会運営の停滞の原因は、前者の民党側が常に議会で多数を占め、かつ、民党側は、常に「政費節減」(行政費節減)、「民力休養」(課税軽減)を旗印に、政府予算案の大幅削減を主張し、一歩も譲らうとしなかったからである。

 第1回帝国議会では、明治24年度予算がからうじて成立した。政府は、初めてのことなので、通り易いやうに予算の中身を控へ目に抑へて提出したからである。政府は、総選挙を挟んだ第2回、第3回の帝国議会には、新規の軍艦製造費を含む25年度予算案を提出した。しかし、予算は成立せず、帝国憲法第71条「帝国議会ニ於テ予算ヲ議定セス又ハ予算成立ニ至ラサルトキハ政府ハ前年度ノ予算ヲ施行スヘシ」の規定に則り、明治25年度は、前年度予算の執行となった。そのため、「新規の軍艦製造」は見送らざるを得なかったのである。

 第4回帝国議会では、政府は、26年度予算案の中に、軍艦製造費の初年度分・332万円(継続総額1,955万円のうちの初年度分)を計上した。この軍艦製造費をめぐって議会は紛糾した。明治26年2月7日、衆議院では内閣不信任上奏案が可決され、翌日、星亨(とほる)議長は参内して明治天皇に上奏文を奉呈した。

 2日後の2月10日、明治天皇は、伊藤博文首相をはじめ各大臣、枢密顧問官等を宮中に召されて、勅語を下賜された。この御処置により政局は一変し、政府と衆議院の間に妥協が成立、貴族院もこれに同調し、明治26年度予算は成立を見たのである。

 明治天皇は、この勅語を「在廷の臣僚及(および)帝国議会の各員に告ぐ」といふ言葉で始められ、後半部でかう述べてをられる。

 「国家軍防の事に至ては苟(いやしく)も一日(いちじつ)を緩(ゆる)くするときは、或(あるい)は百年の悔(くい)を遺(のこ)さむ。朕茲(ちんここ)に内廷の費(ひ)を省き、6年の間(かん)、毎歳(まいさい)30万円を下付し、又(また)文武の官僚に命じ、特別の情状ある者を除く外(ほか)、同(どう)年月間、其(そ)の俸給10分1(じゅうぶんのいち)を納(い)れ、以(もっ)て製艦費の補足に充(あ)てしむ」。
(明治神宮編著『明治天皇詔勅謹解』、昭和48年、講談社)

 すなはち、今後6年にわたって毎年、内廷の費用から30万円を捻出され御下賜になる一方、文武官の俸給一割を軍艦製造費の一部に充てるとされたのである。

 予算の成立、執行により、時をおかず、富士、八島といふ二大戦艦の建造が始まった。しかし、時既に遅く、両艦は日清戦争には間に合はなかったのである。なほ、後日、一たび日清戦争の宣戦布告の詔書が渙発せられるや、広島(当時大本営が置かれてゐた)に召集された臨時の第7回帝国議会では、民党、吏党の両陣営は一致協力、臨時軍事費の支出を全院一致で可決した。

   2.軍事費大幅増への大転換

 日清戦争の宣戦布告から8ヵ月半後の明治28年4月17日、我が国は、圧倒的な勝利のもと11ヵ条より成る下関条約に調印し、ここに日清戦争の講和が成った。ところが、この調印の直後に、清国の要請を受けてゐたロシアは、フランス、ドイツを誘ひ込み、下関条約で我が国に割譲することになってゐた遼東半島の返還を強く勧告して来た(三国干渉)。我が国は、三国と引き続いて戦ふだけの軍事力を備へてゐなかったため、その恫喝的強要に応じざるを得なかったのである。

 その時、国民が一瞬にして体認したことは、各政党のみならず国民が一致協力して事に当らねば、また、充分な軍事力の備へが無ければ、我が国の存立が西欧列強の勢力下に置かれ、手も足も出なくなるといふことであったらう。そのことを明白に物語ると思はれるものが、以下に示す軍事費の推移である。

 松元崇(たかし)氏作成の表から、日清戦争勃発前の軍事費(一般会計決算の陸海軍省費)と、それが歳出総額(一般会計決算の歳出総額)に占める割合とを、臨時軍事費特別会計の無かった明治23年度から明治26年度までの4ヵ年について示してみると、次のやうになる(松元 崇著『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』、平成21年、中央公論新社)。

明治23年度 2,569万円(31%)
明治24年度 2,368万円(28%)
明治25年度 2,377万円(31%)
明治26年度 2,282万円(27%)

 日清戦争勃発前年の明治26年度までは軍事費は頭打ちで、むしろ微減の傾向にあったことが分る。

 同様に、日露戦争勃発前の軍事費と、それが歳出総額に占める割合とを、臨時軍事費特別会計の無かった明治29年度から明治35年度までの7ヵ年について示すと、次のやうになる(松元氏の表に34年度、35年度分を追加)。

明治29年度 7,325万円(43%)
明治30年度 11,054万円(49%)
明治31年度 11,243万円(51%)
明治32年度 11,421万円(45%)
明治33年度 13,311万円(45%)
明治34年度 10,236万円(38%)
明治35年度 8,577万円(30%)

 三国干渉後の明治29年度には、軍事費は一気に従来の3倍を超え、翌年には、さらに従来の5倍近くの値に増えてゐる。この格段に異なる軍事費の大幅な増加は、第9回帝国議会の成果による。

 第九回帝国議会の開院式は、明治28年12月28日に挙行された。明治天皇は、この開院式の勅語の後半部でかう述べてをられる。

 「国防は曽(かつ)て漸(ぜん)を以(もっ)て完実(完備充実)を期せり。今交戦の為(た)め欠損せるものを補充し、并(ならび)に自衛に必要なる設備をなさむとし、朕(ちん)が臣僚をして賛画(さんかく)(計画をたすける)の任に当らしめ、必要の支出に付(つい)て議会の協賛(協議し議決する)を待たしむ。而(しかう)して其止(そのや)むを得ざる国費の増加は、朕(ちん)が忠良なる臣民の進(すすん)で之(これ)を負担するに躊躇(ちゅうちょ)せざるを信ず」。(前掲『明治天皇詔勅謹解』)

 国会開設以来、有力な政党は、予算議定権と上奏権を用ゐて常に政府提出の政策の否定に走り、一方、政府は、解散権を行使してこれに対抗し、国政はただ停滞するばかりであった。しかし、日清戦争、三国干渉を経て、政府並びに各政党にも反省の機運が一気に生じ、政府および有力政党は、従来の方針を変更して提携協力することになった。

 第9回帝国議会に提出された政府予算案には、軍備拡張を求める大幅増額の軍事費が含まれてゐた。陸軍は、師団を六個師団増設する計画を示す一方、海軍は、7ヵ年の継続事業として、多数の一級品新鋭艦の製造・配備を目指す大計画を提出してゐたのである。この予算案は、衆議院では、政府に協力することに方針を変更してゐた自由党や国民協会の賛成によって、ほぼ原案通り可決された。貴族院においても、衆議院の議決通りに可決されたのである。

 その結果、日露戦争開戦時における我が国の艦隊は、日清戦争時の53隻、58,500トンの総兵力から、世界一級品の戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を中核に据ゑた「6・6艦隊」、すなはち、合計91隻、237,490トンの総兵力に増強されてゐた。また、開戦直前に、イタリアで建造されたアルゼンチンの装甲巡洋艦二隻を急遽(きゅうきょ)購入することに成功した。「日進」「春日」と命名された二隻は、開戦後に連合艦隊に編入された(以上は、田中健一、氷室千春共編『図説 東郷平八郎』、平成7年、東郷神社・東郷会)。

 日本国民も「臥薪(がしん)嘗胆(しょうたん)」、軍事費の大幅増額による厳(きび)しい国家の財政運営や、それによって齎(もたら)される増税等の国民生活への直接負担にもよく耐へ凌(しの)ぎつつ、これらの軍備増強に協力したのである。

   3.今、果たすべき課題(1)

 現在の我々の頭ではとても考へられないことであるが、明治20年代、30年代の軍事費は、国家の歳出総額の、実に27%から51%を占めてゐた事実に注目したい。平成25年度の一般会計決算を参考に、現在の我が国の歳出総額を約100兆円、防衛関係費を約5兆円とすると、現在の防衛関係費が歳出総額に占める比率は、わづか5%となる。現下の国際情勢を考へると、我が国も防衛関係費を大幅に増額して、少しでも自主防衛の道に歩を進めるべきではないかと思ふ。ここで参考になるのが、田母神俊雄著『田母神国軍』(平成22年、産経新聞出版)に示された構想である。著者の言を要約すると、次のやうになる。

 「防衛関係費を20年にわたり約1.3倍にするだけで、アメリカに頼ることなく、自力で自国を守ることのできる国軍を持つことができるやうになります。自国を守ることのできる軍隊をつくるためには、費用の負担についても、国民は覚悟をしなければならないのです」。

 氏は、国民に費用負担の覚悟を求めてゐるが、明治の父祖達の覚悟や苦労に比べると、なんと容易なことではないかと思はれてくる。

 現在は、国内総生産(GDP)に対する比率で国防費の多寡(た か)を論じる場合が多い。因(ちなみ)に、主要国の平成二十四年度国防費の対GDP比率は、米国4・0%、ロシア3・1%、韓国2・6%、英国2・2%である。一方、我が国は、1・0%を下回ってゐる(平成26年版防衛白書)。中国は、今年度公表分の国防予算だけでも、我が国防衛関係費の約4・2倍、ここ10年間で国防費を約四倍に増額してゐる。南シナ海、東シナ海の支配を目的に他国の島嶼(とうしょ)奪取を図らうとする中国共産党の野望に対抗するため、我が国政府は、明治の父祖達の事績に倣ひ、防衛関係費を一挙に大幅に増額して、それを長期にわたり維持すべきであると思ふ。

(次号に続く)

(元新潟工科大学教授)

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 去る9月23日(祝)午後、日本学生協会・精神科学研究所・及び興風会・国民文化研究会の道統に連なる物故師友のみ霊をお祀りする恒例の慰霊祭が、東京・飯田橋の東京大神宮において厳修された。

 祭儀には、御遺族を初め関東近県や富山県・福岡県からの会員、今年の淡路合宿参加の社会人・学生など四十七名が参列し、淡路島での合宿教室が無事終了したことが奉告された。併せてみ霊の御加護を謝し奉るとともに、来年の合宿教室に向け日々さらなる精進をお誓ひ申し上げた。

 今年の慰霊祭には、宮田良将命、松本淳命、井上慎一命、大日方学命、弓立忠弘命の五柱が新たに合祀された。

 全国から寄せられた献詠は137首に及んだが、紙面の都合でその抄出を左に掲げる。

献詠(抄)

御遺族

          (青砥宏一命御令息)松江市 青砥誠一
   御祖先(みおらや)の築きし功を仰ぎ見て学びてゆかむ時かかるとも

          (島田好衛命御女婿) 府中市 青山直幸
   むつみあふ山鳩見ればみまかりし岳父と義母の面影浮びく

          (長内良平命御令兄、加藤信克命御義弟)青森市 長内俊平
   はるかにも祈りを合せ奉(まつ)りなむ日の本つ國外(そと)が浜辺ゆ

          (小田村寅二郎命・小田村泰彦命御令弟)東京都 小田村四郎
   亡き友らのうつしゑまぢかにをがみつつみたまをまつる今日の一日(ひとひ)は
   やうやくにめざめんとする我が国のいのち甦れと共に祈らむ

          (近藤正人命御令弟)東京都 近藤正二
     菅平合宿を想ふ
   集ひたる友らの戦ひ獅子吼せし兄の姿は美しかりき

          (中島淳子命御尊父・御母堂)岐阜市 中島吾郎・玲子
   お盆の日玄関あたりコトコトと亡き娘(こ)(淳子)の帰る足音聞ゆ

          (宮脇昌三命御令息)さいたま市 宮脇新太郎
   父の魂いま神宮に還り来て大人らともども神酒を愛づらむ

          (山内恭子命御夫君)横浜市 山内健生
     小田村寅二郎先生の御霊前に
   新しく理事長として今林兄歩みだしけりと告げまつらなむ
     宮田良将先生
   若人の如くに御顔(かんばせ)輝かせ語り給ひしみ姿うつつに
     福田忠之先輩
   笑みつつも言の葉烈しく語ります在りし日の面輪今もうつつに

会員

          足利市 青野英海
   大和(やまと)魂(だま)を奮ひ立たせて日の本を取り戻さなむ首相言ふごとく

          横須賀航空隊跡 奈良市 安納俊紘
   予科練が訓練せしとふ坂道の土を踏みしめ当時を想ふ

          大日方学兄の通夜 横浜市 石井義昭
   亡き友の通夜の遺影ををろがめば共に学びし日々思ひ出す

          府中市 磯貝保博
   雨多き夏も終りてみまつりの亡き人偲ぶ日こそ晴れませ

          横浜市 池松伸典
   新たにも神まつらるる亡き友も先輩(とも)等と共に語らひをるらむ

          神奈川県 稲津利比古
     三月に急逝せし高校以来の親友・井上慎一君を偲びて
   耳を澄せかそけき虫の音に聞き入りて今は亡き友偲ぶ今宵は

          東京都 伊藤哲朗
   ひたぶるに國思はれし先生の御姿(みすがた)偲ばるる書(ふみ)読みをれば

          佐久市 市川絢也
   慰霊祭(みまつり)の案内(あない)届けばひと年(とせ)の早やも巡れる秋と気づきぬ

          さいたま市 井原 稔
   師の君の御書(みふみ)を朝夕読みまつるわれ進みゆくしるべ求めて

          清瀬市 今林賢郁
     『昭和史に刻むわれらが道統』を読みて
   師の書物(ふみ)を若き友らと読みゆけばかの日のみ声聞ゆる心地す
   きびしさのいや増す道を進みゆく我らをみ霊よ導き給へ

          横浜市 今村宏明
   さはやかな秋風吹けば思ひ出す駒場の下宿の先輩(とも)の笑顔を

          小田原市 岩越豊雄
     朝日の捏造報道
   戦ひに敗れし後の自虐なる歴史を改むる時は来にけり

          脇山良雄先生を偲ぶ 長崎市 内田英賢
   今は亡き師の君の御齢(よはい)に差しかかり往時の御(み)姿(すがた)御(み)思(おもひ)を偲ぶ

          大日方学兄のみ霊に 千葉県 内海勝彦
   君逝きて六月(むつき)過ぐれど懐かしきみ声み姿今もうつつに

          鹿児島市 江口正弘
     川井修治先生、福田忠之氏ほか亡き先輩方・同志の御霊に
   年齢(とし)重ね独り残れる心地して亡き人々を偲ぶこの頃

          守谷市 大岡 弘
     大合宿での慰霊祭
   月かげのいとさやかなり並び立つ我らを照らし祝ふがごとく

          町田市 大島啓子
   偽りの憲法手付かず敗戦後七十年を目前にして

          札幌市 大町憲朗
     大日方学兄を偲びて
   教師たる責任語る友の上に幸あれかしと思ひて来しに

          川越市 奥冨修一
     合宿地より黒上正一郎先生の故郷徳島をのぞむ
   はるかにも眉山(びざん)の灯り眺めつつ阿波路の浜ゆをろがみまつる

          宮若市 小野吉宣
     合宿教室の慰霊祭
   ますらをの悲しきいのちと宣(の)りたまふ友の御声よ届けと祈る

          東京都 加来至誠
   み霊祀る集ひのにはにおもむかむ鈴虫の鳴く声を聞きつつ

          熊本県 折田豊生
   逝きし友らの果し得ざりしみ思ひを抱きてぞ生きむ導かれつつ

          横浜市 椛島有三
   国守る御業(みわざ)を為せし先人の御魂を仰ぎつとめはたさむ

          大日方学君のみ霊に 千葉市 上村和男
   一人して虫の音聞けば若くしてこの世をさりし友の偲ばゆ
   年毎に忙しさ増す教育に心も身をも燃え尽きし友

          小矢部市 岸本 弘
     友らと黒上正一郎先生のお墓にお参りして
   五十歳の月日経につつ今日あるを師の奥津城に今告げまつる

          横浜市 北浜 道
   師の君の開き給ひし合宿を続けざらめや何おこるとも
   若きらと心の通ふ場を求め生きむと思ふ至らざれども

          延岡市 北林幹雄
   温容もみ言葉もまたみ国思ふこころとともによみがへりきぬ

          富山市 北本 宏
   捏造を重ね来たりて三十余年(みそよとせ)父祖を貶(おと)めし朝日新聞

          筑紫野市 楠田幹人
   先達の御教へ胸に抱きつつ残れる日々を生きてゆきなむ

          北九州市 久米由美子
     川井修治先生
   日の本の明日を思ひて若きらを集め教へし師の君忘れじ
     山田輝彦先生
   日の本の尊き歴史語り給ふ師の御姿の思ひ出さるる

          横浜市 國武忠彦
     大日方学君を偲びて
   今はなき友のおもわのしのばれて代りてたよりす悲しきかな(神奈川県教育問題研究会の案内を投函す)

          久留米市 合原俊光
     大日方学命を偲ぶ
   学風をたださむとする戦ひにささげたまひしいのちかなしも

          東京都 小柳志乃夫
   若き友四人新たに祭神とまつる今年の秋のさびしき
   なつかしき友しいまさば楽しくも酒くみかはし語らむものを

          宮田良将先生
   新たなる学問への意欲おとろへず導きませし御姿偲ぶ

          北本市 最知浩一
     大日方学兄を偲びて
   宴(うたげ)にて友は必ず故郷の信濃の國≠歌ひ給ひぬ
   かん高き声に真面目に歌ひあぐる友のみ姿忘れかねつも

          北杜市 坂本芳明
     大日方学兄、松本淳兄の御霊に
   忙しき勤めのなかに学びあひし十年(ととせ)前(まえ)の日我は忘れじ

          柏市 澤部壽孫
     松本淳命、井上慎一命、大日方学命、弓立忠弘命の御霊前に
   合宿に縁(えにし)を得たる若き友四人(よたり)を祀る日の近づきぬ
     宮田良将さんの御霊に
   維摩経の義疏の御本を待たずして逝き給ひたる大人(うし)の偲ばゆ
     小田村寅二郎先生のご霊前に
   淡路での合宿無事に終れりと告げまつらなむ御霊のみ前に
   参加者は少なかれども新たなる友を得たりとつげまつらなむ

          東京都 澤部和道
   わが家にも子を授かればあらためて御祖先(みおや)のお蔭と日々偲ばるる

          大牟田市 志賀建一郎
     『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』の輪読会
   読む度に悟りにも似た思ひあり忘れかねつも太子の御文は

          小田原市 柴田悌輔
     大日方学兄の御霊に
   涼風(すずかぜ)に吹かれて歩む道の辺に聞ゆる蝉の声の寂しき
   永らへばと惜しみ止まずも蝉のごと短きいのちに先逝きし君を
   今はもう会へぬ我が友偲びつつ蝉の声聞く林の中に

          東京都 島津正數
     同期井上慎一命
   西教寺合宿(春季幹部学生合宿)帰りに君の住む寮に泊りし彼の日偲ばゆ

          由利本荘市 須田清文
     大日方学学兄
   かんばせを思ひいだせば語りたまふみ姿み声のよみがへるかな

          下関市 寶邉正久
   みいくさに失せにし友をつぎつぎに思ひてやまず夏過ぐるころ
   朗々と唱ひましける歌のひびきなつかしみつつみまつりをおもふ

          都城市 竹下鉄郎
   紺青の澄みわたりたる秋空に亡き友人のみ心偲ぶ

          霧島市 七夕照正
     『国民同胞』を読みて
   亡き人を偲ぶ心のいと深き御文を読めば業績(みわざ)偲ばゆ

          鹿児島市 徳田浩士
     川井修治先生追悼集『ひとすぢ道』を拝す
   戦後体制たださんとひとすぢの道ただに求めし恩師逝きはや十五年

          富山市 戸田一郎
   日の本に生れしことの幸せを教へ給ひし御霊(みたま)安かれ

          川崎市 冨永晃行
   はらからとうからと心合せつつ御国を開く道に励まむ

          佐世保市 朝永清之
   天候の不順に過ぎしが秋来れば時を違へず曼珠沙華咲く
   ひとわれもかくありたしと思ふかな細事に惑はず道を違へず

          佐久市 中澤榮二
     大日方学先輩の訃報
   釜の飯共に食みたる先輩の訃報を聴けど信じられぬも

          八王子市 中村裕和
   七十年(ななそとせ)前西教寺合宿に参加して逝きし友をばとはに偲ばむ
   連なるは叶はぬ身なれど有難き友らの営む慰霊祭はも
   身を削りひとすぢの道教へむと奮闘(たたか)ひまししみ姿たふと

          東京都 難波江紀子
   先達の国を思ひし真心を我も継ぎなむ思ひあらたに

          長崎市 橋本公明
     山根清命に
   学び合ふ縁(えにし)生み出す合宿に心尽して努め給ひぬ

          岡山市 波多洋治
   政(まつりごと)の広くて深き在りてなほまた新たなるいのち燃やせよ

          東京都 坂東一男
   新しきリーダーのもと合宿に百八名のますらを集ふ
   難きこといやつぎ起る世にあれど一人になるも戦ひ生きむ

          西東京市 東中野修道
   同胞(はらから)に故なく叩かれ外国(とつくに)の誹(そし)りを浴びる国ぞ悲しき

          福岡市 藤新成信
   今はなき師の君友らを偲びつつ我らが行く末語り合はなむ

          横須賀市 古川 修
     若くして天がける大日方学君の御霊に
   言の葉の美しき友の先逝きて寂しかりけり今年の祭りも

          北九州市 松田 隆
     八月の長雨の後に畦道を散歩して
   久々の朝日に照され稲の穂にみずみずしくも朝露光る

          倉敷市 三宅将之
   晴れ晴れと秋のみ空の澄み渡り御霊祭りの日の近づきぬ

          大阪市 薬丸保樹
   国のためいのちささげし師と友の霊安かれと祈り過さむ

          福岡市 山口秀範
   慕はしきあまたの御名(みな)に連なりて友ら新たに加はり悲し

          八千代市 山本博資
     合宿教室閉会後、淡(あわぢの)路(あわぢの)陵(みさざき)(淳仁天皇陵)参詣
   御食(みけ)向ふ淡路の島の福良なる里に陵(みさざき)鎮もりて立つ
   淳仁のみかどのみたま幸(さき)くませと偲びをろがむ学びの友らと

          久留米市 横畑雄基
   先祖より受け継がれ來し国柄を守りぬきたし我が使命として

          熊本市 渡辺五十二
   胸内の国を愛する心こそ国守る力と先達は言ふ

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 式典や地元の祭りなどで自衛隊の音楽隊や学校の吹奏楽部の演奏を聴いたり、行進する様子を楽しんだといふ経験をお持ちの方は多いことと思ふ。光り輝く金管楽器や、沢山の鍵を自在に操作する木管楽器、颯爽としてリズムを先導する打楽器が奏でるこの美しい合奏形態は、我が国では明治の初めに生み出された。

   黒船来航は軍楽隊の伝来だった

 幕末期の、一歩誤ると独立を喪失して植民地になりかねない、現在では想像しがたい国家的緊張の中で、我が国にも近代国家に不可欠である防衛組織の創設が余儀なくされた。しかし欧米の軍事力の誇示は、何も乗り付けた黒船(軍艦)などの兵器ばかりではなかった。キラキラ光る楽器を携へた軍楽隊が、大きな音で音楽を奏でながら通りを行進し、町中で演奏会を催したのだ。当時の国民は、それまで見たこともなかった。

 容姿と、この軍楽隊の統制の姿と、全く体験のない西洋音楽の衝撃に、得体の知れない脅威を感じ取ったのではないかと想像する。ペリーの二度目の来航に際しては、予(あらかじ)め腕利きの絵師が集められてをり、軍楽隊の楽器や制服などが一つ一つ実に詳細に描かれ遺されてゐることからも、その影響力を知ることが出来る。

   薩摩藩藩士からなる初の軍楽隊

 かうした状況にあって、早くも明治維新の翌年、我が国に洋式の音楽隊が創設された。明治2年(1869)9月、薩摩藩の藩士約30名の青少年が軍楽伝習生として選抜され、横浜に集結、教官にはイギリスの軍楽隊隊長であったウィリアム・フェントンが採用された。ここに、我が国初の洋式の木管楽器と金管楽器と打楽器による吹奏楽団が誕生したのである。

 薩摩藩はフェントンに依頼し、イギリスのディスティン商会を通じて西洋の楽器を注文してゐたが、それらが到着するには、音楽隊の創設から一年近くの歳月を要した。無論、当時の我が国で西洋式の管楽器が製造されてゐるはずもなく、当初は横笛と、見やう見まねで作られた信号ラッパのやうなものと、幾種類かの太鼓を使って教練がされたといふ。

 明治3年(1870)7月4日、やうやくイギリスから楽器一式が届く。これらは全てイギリス随一の楽器工場であるベッソン社製で、総額1,500円であった。当時「かけそば」が5厘であったといふから、現代の貨幣価値で150,000,000(1億5千万)円といふことにならうか。正に巨額が投じられたのである。

 待望の楽器が到着するや、教練にはさらに熱が入り、記録によれば、なんと楽器が到着してわづか1ヶ月後の8月12日には横浜山手公園にて英国軍楽隊との演奏会が開かれ、さらに九月八日には当時フェントンが作曲した「君が代」を明治天皇の御前で演奏したとあるから驚く。なほ、この折の歌詞は、薩摩琵琶「蓬莱山」から採ったもので、現在の君が代と同じだが、旋律は明るく牧歌的な雰囲気だった(国歌「君が代」は、この後明治13年、宮内省の伶人林廣守が雅楽の曲に基づき作曲し、それを海軍軍楽隊の教官だったドイツ人音楽家エッケルトが編曲したものである)。

 未知の分野に対する先人達の熱心で真摯な取り組みが、短期間で驚くべき成長を遂げた事実は、日本史上でも極めて稀な文化的転機に直面した明治といふ時代の特徴の一つであると言ってよいと思ふ。

   吹奏楽団の合奏には精神修養の意味もあった

 薩摩藩から集められた伝習生による音楽隊は、やがて海軍、陸軍の軍楽隊へと拡大していった。明治期の軍楽隊演奏会の曲目を見ると、ヴァークナーやヴェルディーなど、錚々たるクラシック作曲家の作品や、舞曲、行進曲、また雅楽を編曲したものなど、現代の演奏会にも引けを取らない選曲がなされてゐたことに驚かされる。

 明治の終りには、広告宣伝や利用客の娯楽を目的として百貨店や遊園地などに吹奏楽団が誕生した。また、会社や工場では社内行事や社員の慰安を目的とした吹奏楽団が生れ、中等学校にも課外教育活動としての吹奏楽団が次々に生れていった。

 音響や録音機材のないこの時代において、吹奏楽といふ合奏形態は他の合奏形態に比べて格段に大衆に適してゐた。吹奏楽団の大きな音量は、一度に多くの聴衆に音楽を聴かせることが出来た。クラシック、愛唱歌、流行歌、軍歌など、音楽の垣根を越えて演奏することが出来た。金属製の楽器が多いため、天候に左右され難く、演奏する場所に困らなかった。そして、軍に始まった吹奏楽は、指導者を仰ぎ、技術を修得し、一致団結して音楽といふ一つの世界を創出する、精神修養の場でもあったといふのが、我が国の吹奏楽団における特徴の一つと言へよう。

 かうして吹奏楽団は、我が国における西洋音楽の導入に大きな役割を果し、また大衆音楽の担ひ手として、国民の士気を高めるのに大きく貢献した。そして明治、大正、昭和、平成と、ブラスバンドの愛称で親しまれ、国民の誰もが知る存在となっていったのである。

   早世の軍楽伝習生を悼む薩摩藩士達の献灯

 ところで、吹奏楽団が精神修養の場でもあることを述べたが、これは戦前と戦後とではまるで意味が違ってゐる。かつてはそこに、立派な国家の建設や国民の育成といふ背骨がはっきりと見え、「公」への貢献といふ理念が感じられたのだが、戦後はそこがすっかり抜け落ちてゐると言ってよい。現在は、学校の部活動においてさへ、ただ上手に音楽を演奏することだけを目的に練習してゐる場合が殆どかと思ふ。そこで次の事実を記しておきたい。

 かつて薩摩の伝習生が楽器の到着を待ちつつ教練に励んでゐた頃、この楽器の到着を待たずして、森山孫十郎(光昌)といふ伝習生が病没した。享年18歳。伝習生の一人は森山を悼んで、次の歌を詠んだ。

   風を妨げ霜を凌げと言ふ中につひにきえにしかなしかりけり

 伝習生らは、森山の墓前に献灯を立て、そこに彼の消息と、伝習生全員の名前をしっかりと刻み込んだ。志半ばで病没した森山の無念の思ひを、他の伝習生全員が我が事のやうに感じ取ってゐたことに思ひを馳せずにはをれない。その志とは何か。彼らは音楽を奏でることのみを目的としてゐたわけではなく、日本が近代国家として独立を果たすといふ一大国家事業の一翼を担はうとして、未知の技術を修得するために遙々薩摩からやってきた。音楽を奏でる目的が祖国独立のためであるといふことを、彼らはしっかりと背負ってゐたのではないかと思ふのである。

 幸ひにもこの献灯は今も遺ってゐて、東京杉並区の大円寺の境内の片隅に、伝習生の姿を彷彿とさせるかのやうに凛と立ってゐる。しかし、残念なことに、長年の雨雪寒暖によって表面があちこち欠けてをり、字も読みづらくなってゐる。

 日本の音楽史を語る上でも大変貴重なものが放置されたままとなってをり、何とかもっとよい状態に保存する手はないものかと思ってゐる。

   道を見失った我が国の吹奏楽団

 昨今、テレビ番組では、威圧的な指導者と、その指導者に従順で忠実な生徒がコンクールの賞を目指すといった涙ぐましくも一種異様な部活動の様子がしばしば採り上げられてゐる。一体何のために彼らはそこまでしてゐるのだらうか。

 もはや吹奏楽の指導は教育ではなく、よい賞を獲得するためのビジネスにさへなってゐる。学校を卒業すると、彼らの一部は一般の吹奏楽団に入り、再びコンクールでよい賞を勝ち取るために、威圧的な指導者に怒鳴られながら、30歳になっても40歳になっても寸暇を惜しんで練習に励み続ける。または、学生時代の反動で、ただ自分勝手に気楽に演奏できる仲間と余暇を楽しんでゐる。殆どの場合そのいづれかだ。

 あらうことか自衛隊の音楽隊ですら、御国を護ることなど考へもせず、ただ演奏活動を続けたいといふ理由で志願する者が増えたと聞く。

 彼らに、薩摩の伝習生のやうな先人達の魂の姿は、全くと言っていい程、語り継がれてはゐない。成る程、よい音楽が奏でられるやうになることは、結構なことだ。しかし、何のためによい音楽を奏でるのだらうかと考へる者は少ない。大円寺の境内の立つ風雨に曝されたままの献灯は、そのまま今の我が国の吹奏楽団の現状を示してゐる。

 このやうな先人の労苦の証(あかし)が、辛うじて現存してゐるといふことを、少しでも多くの音楽関係者が知り、多くの方がこの献灯を通じて先人達の胸中に思ひを馳せるやうになれば、これを如何にして後世に遺していくかといふ知恵もきっと生れてくるに違ひない。そして、我が国の吹奏楽団のあるべき姿と進むべき道も、見えてくるものと思ふのである。

(楽器店PROJECT(プロジェクト) EUPHONIUM(ユーフォニアム)代表)

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編集後記

 朝日新聞の恣意的な体質はいくつも例示できるが、例へばかつて社説で新しい歴史教科書をつくる会≠フ教科書を取り上げて、教科書として相応しくないと論じた。「このやうな教科書を通す検定制度はをかしい、厳格に検定せよ」とは言はずに、特定の教科書を批判した。気に入らない教科書を槍玉に上げて採択を妨害したのだ。採択予定の学校を訪ねて、その理由を「詰問」した記者もゐたと聞く。

 本号に抄出掲載した献詠歌に詠者の胸内が拝察せられ、作者各々の懐ひの涯なき深さを改めて感じる。

 

訂正  謹んで訂正いたします

 10月号7頁「合宿詠草抄」3段目の「高見澤玉江さん」の箇所の「宗教法人大成殿本営」を「宗教法人大成殿本宮」に。

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