国民同胞巻頭言

第633号

執筆者 題名
合宿教室運営委員長
廣木 寧
「先人の詩と哲学」の奪回を
- 第59回全国学生青年合宿教室(淡路)の開催近し -
三宅 將之 小学校での英語教育は大いなる無駄
- 「言葉」はそんな生易しいものではない -
國武 忠彦 国民文化研究会・新潮社編
〝小林秀雄「学生との対話」〟刊行の経緯(2)
小野 吉宣 「国威の失墜」
- 民主党政権が残したもの -
山内 健生 国語の力こそ、外国語学習の基礎ではないのか
- 英語教室〔〇歳&ママクラス〕の〝驚愕〟 -

 イギリスの著名な陶芸家バーナード・リーチ氏が、東京オリンピックを3年後にひかへた昭和36年(1961)に5回目の来日をした。リーチ氏の初来日は明治42年(1909)のことで、東京の街を歩いたリーチ氏は鷗外、漱石と袖がすれ合ったかもしれない。

  リーチ氏は往時をふり返る。―

 「21歳の初来日のときには、 自動車もイギリス風の道路も飛行機もラヂオもテレヴィも美術館も共産主義もありませんでした。50年ほどのうちにこんなにも変ってしまった国は他にありません。今の日本はありとあらゆるものを持ってゐます。そして日本にとって危険なのは自分自身を持ってゐないといふことなのです。わたしはこの若々しい日本の望みと信念は、一体何なのだらうといつも自分自身に問ひ続けてゐます。こんなに巨大なエネルギーを持った日本は、一体どの様な道を歩まうとしてゐるのでせう。その道とは安定性のある仕事、屋根、寝台、食物そして出来れば娯楽などのことなのでせうか」

 同じころ(昭和37年)、アメリカのプリンストン大学に留学してゐた30歳の文芸評論家江藤淳氏は、大学で年に何回か開かれるコンファレンス(学会)に出席した。その秋の学会の主題は「新しい日本・その将来と期待」といふものであった。この二日にわたる学会の印象はアメリカのある識者の「日本は今や巨人(ジャイアント)であるが不安な巨人である」といふ発言に要約されると江藤氏は思った。―戦前の日本がアジアの盟主を自任してゐたとき、欧米は懐疑の眼でその自信過剰を冷たくながめてゐたが、戦後17年経ち、日本の再生が欧米によって驚異の眼で見つめられてゐるとき、日本はかへって自信喪失に陥ってゐる。―かういふ日本と同盟国であるアメリカはどう処するべきか、そんなことが話に出たといふ。

 74歳になるイギリス人と若い日本人は、当時の日本に同じものを見てゐた。リーチ氏はそれを〝ありとあらゆるものを持ってゐて、自分自身を持ってゐない〟と憂慮した。江藤氏は、四分五裂になってゐる日本人のウェイ・オヴ・ライフ、と言ってひとりアメリカで痛憤した。コンファレンスでの日本側の発言はほぼ経済問題に沿ってゐて、とても日本人の鬱屈したアスピレーションのはけ口はどこにも示されてゐなかったからである。

 なぜ日本人は「自分自身を持ってゐない」のであらうか。江藤氏の言葉をかりれば、〝ジャパニーズ・ウェイ・オヴ・ライフ〟を失ったからである。それは取りも直さず、歴史の喪失から来てゐる。歴史には、日本人の詩と哲学があふれてゐる。リーチ氏が「この若々しい日本」といふとき、そこに明治からの日本を知る人の、戦後日本への危惧と憂慮の念がこもってゐると感じるのは僕だけであらうか。わづかに戦後の「16年」をわが歴史と思ってゐる日本人を憂へての表現ではなかったか。

 これはリーチ氏も同趣旨のことを言ってゐるが、日本人はおどろくほど活力にあふれた民族なのである、と江藤氏はいふ。さういふ日本人は「安定性のある仕事、屋根、寝台、食物そして出来れば娯楽など」にその「巨大なエネルギー」を注ぎこむだけで満足するであらうか。終戦時、廃墟と化した日本の都会には近代の明かりは一つもなく夜空にはこんなにあるのかと思はれるほど星が輝いた、漆黒(しっ こく)を導く〝ぬばたまの〟といふ古(いにしえ)への枕詞が実感された、といふ。その廃墟から、おどろくほど短時日に、欧米に驚異の眼で見られた「日本の再生」が成ったのは衣食住の安定を求めたが故だけではない。完全なる独立国家としてわが国を保持して行きたいといふ、熾烈(し れつ)な、戦前の日本人の詩と哲学によってであった。

 リーチ氏が認識し危機を感じとった「日本人が自分自身を持ってゐない」といふ問題は、平成日本の新たな問題の急所を突いてゐることは付言するまでもなからう。9月5日から兵庫県南あわじ市で、中西輝政京都大学名誉教授を講師にお迎へして第59回全国学生青年合宿教室が開かれる。「日本人の詩と哲学」が探求される。多くの学生青年が来られんことを。

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   国立大学入試で出題された英作文

 わたしは、外国語を趣味や好奇心や向学心から勉強するのもいいことだ思ひますが、必要がないと結局は実用にならない気がします。必要といふのは、生きるためにどうしても必要といふことです。移民とか占領によって母国語が禁じられた場合、または商売のためとか、通訳のやうな職業のためとか。だから、その時必要でない人が、これからは国際社会の一員として英語ぐらゐは喋りたい。などといふ抽象的で悠長な希望から、ひとつの外国語が簡単に自由になるなんてことは起らないと思ってゐます。言葉はそんななまやさしいものではないと思ってゐます。

 右の一文は、平成3年2月、国立岡山大学の入学試験(二次)に出題された、「次の文の主旨を50語程度の英文にまとめよ」といふ問題に与へられた文章である。

 私はこれを読んで思はず苦笑ひした。出題者はおそらく、長年大学で英語を教へて来て、学生達の出来の悪さを半ば諦めに似た気持で見遣ってきた教師であらう。そんな時、誰が書いたものかこの文章が目にとまり、自分のやりきれない気持をこの文章に託して入試に出すことによって溜飲を下げたに違ひない。

 さういった大学人のつぶやきがそこに感じ取られるのである。

   国際語としての英語が必要な国々

 30数年前、文部省から教員海外教育視察に派遣され、スカンディナヴィア航空で一緒になったスウェーデン人と見受けた人に、「あなたは英語を話しますか」とスウェーデン語で話しかけた。返って来た言葉は英語で「直接、英語で話しかけたら良いですよ」とのことでした。

 その人は更に、スウェーデンは人口1000万足らず、デンマーク、ノールウェイの人口は500万前後で、外国からやって来る人々に自分たちの言葉を話して貰ふなんてことは期待できない。従って我々の国では国際語たる英語を小学校の中・高学年から教へてゐるし、英・米から輸入されるテレヴィ番組などはスーパーもなく吹き替へもなく放映されてゐるのですよ、とつけ加へた。いざスウェーデンに着いてみると、どこへ行っても英語で用が足せる、中学生位になると、英語で十分コミュニケイションが可能だ。

 ドイツ人やフランス人は自尊心が強いから英語を話さないのだとよく言はれるが、かならずしもそれだけではなく、実際話せないから話さないのである。スーパーマーケットでは英語はなかなか通じない。百貨店でも、少し複雑な話になると、英語の良くできる店員を呼んで来る。フランスの人口6000万余、オーストリア、スイスその他を含めてドイツ語人口約1億。

 人口1億とか5000万とかの国になると自国語で十分生活できる。1000万以下だと何らかの国際語が必要といふことになるのだらう。その後ドイツ、フランス、北欧圏を数回訪ねたが、事情は変ってゐない。

   外国語を身につけるには、母国語を身につけた方法こそが一番近道である。
   これは本当か?

 母国語を身につけるには四六時中、母親や家族の誰かと接触し、話しかけられ、自らも話すことの繰り返しを通じて、5・6歳までには幼児は母国語を大体身につけてしまふ。

 この時期までに何らかの言語を身につけなかった子供は、永遠に人間の言葉を身につけることは不可能なのだ。そのことは生れて間もなく狼に育てられたといふ「アマラとカマラ」の二人が10歳を越えて発見され、人間の言葉を教へられたが十分に身につけられなかったことを以て証明されてゐる。

 母国語を修得したと同じやうにやって外国語を身につけて効果がある年齢には限度がある。個人差もあらうが大体小学校低学年1、2年から中学年3、4年位であらう。

   バングラデシュから来た子供達

 岡山大学農学部でバングラデシュの農業技官が研究に携ってゐた。奥さんと二人の息子を呼び寄せるので、上の子は小学校1年生、下の子は幼稚園で、学校は1、2年学年を下げて行かせた方が良いのではないか、と相談を受けた。私はその必要はないと言った。家では両親とベンガル語で、学校では日本語、放課後は外で日本の子供達と岡山弁で過し、3、4ヶ月で日本語を話し、半年もするとはぼ何不自由なく日本語を使ってゐた。ただしそれは彼らの年齢相応の言語能力に限られてゐた。

 3年ばかり日本にゐて、3年目には親と日本人との日常会話の通訳までするやうになってゐた。バングラデシュに帰国すると、日本語を修得したとほぼ同じ位の期間のうちに、日本語は忘れてしまったさうだ。

   私の甥や姪の場合

 台湾からの留学生と結婚した私の妹には、三人の娘と一人の息子がある。長女小学校一年生、次女幼稚園、三女3歳、長男1歳の時、台湾へ移り住んだ。娘三人は日本語で育ち、三女はまだ完全ではないが、日本語で喋り始めてゐた。長男はまだ日本語は喋れなかった。

 毎年一家は年に一度は日本に帰って来てゐた。来るたび、小遣ひをやると小学生向けの本を数冊買って来て、2、③日のうちに読んでしまってゐた。小学校高学年になると、小学生向きとか中学生向きとかに関係なく何でも読むやうになってゐた。

 台湾では家では日本語で、学校では中国語(北京官語)、放課後近所の子供達とは台湾語で過してゐた。長女は日=中、中=日の翻訳をやり、次女は大学院卒業後、米国オレゴン州のポートランドで数年間微生物の研究に携り、日・中・英語の(台湾語を含めて)ポリ・リングイスト(多言語使用者)であり、三女は英文学を専攻して、英=日の翻訳をやってをり、長男も日・中・台のポリ・リングイストである。

   外国語を修得するのに、母国語を身につけた方法が一番の近道だ、と言ふ
   人々が見落としてゐる点

 それは次の重要な三点である。

 ①母国語を身につけた年齢、零歳から十歳位の期間は、脳の成長期と平行してゐる。このことは母国語修得と脳の成長とが密接な関係があることを意味し、12歳位以後の外国語修得は母国語の修得とは別の要素が必要であることを意味するのである。

 ②朝から晩まで母国語を話してゐる人々の言葉を聴いて、喋って身につけたといふ時間。

 ③読書により言語の世界が大きく広がったといふ点。

 バングラデシュの子供達の日本語の場合は、①②の点が3年程度とあまりにも短かったこととと③の点が欠けてゐたといふことだ。

 私の甥や姪の場合は、日・中・台と何年も接して生活して来た、さうして日・中の読書も相当量こなして来たので或る程度成功したのである。

   対象言語に接する量

 昭和33年までの中学・高校の英語では、総語彙数6800であったのが徐々に削減され、平成になってからは2700となった。私の中学時代とあまり変らない。一週の時間数も私の場合は5~6時間であった。

 先人達の経験では2、3年の間に単語の数3000が意味用法とともに身につくこと、比較的易しい英文を3000頁読むことを目指すべきだと言ふ。

 また、一説には、単語は36回出くはすと記憶するとある。であるならば、教科書を36回くり返し音読すると暗唱できるだらうとやってみた。30回目位で暗唱できた。2年生で3年の教科書まで暗唱することが出来た。英文が暗唱できてゐるので、構文とか文法の説明も難なく理解できた。素読の効用である。中3では『小公子』の原文にとりかかり、高校ではヘクター・マロウの『レミの冒険』の英訳本、その他注釈書を3000頁位読んだ。ラジオではFENの「イージー・イングリッシュ」を録音し繰り返し聴いた。大学に入ると種々の英語通訳の経験を1年の時から挑戦した。

 中学生の時お世話になった『ジャック・アンド・ベティー』の著者、ジャック・スアード氏は、米国陸軍専門学校の日本語学校で、2年半にわたって毎日10時間の厳しい日本語の訓練を受けたが、氏のグループ10名のうち、一人は自殺、もう一人の自殺未遂者が出た。日本語学校全体では何人もの発狂者が出たといふことだ。サイデンステッカー氏とか、近年日本に帰化したドナルド・キーン氏などもこの日本語学校の出身者であることはよく知られてゐる。

          〇

 小学校教育で週英語1、2時間やってみても、大いなる無駄であるのみならず、教育全般に多大なる害を与へるであらう。言葉はそんな生易しいものではないのである。

(元岡山県立高等学校教諭 本会参与)

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   窮余の一策だった〝聴講記〟

 合宿教室での小林秀雄先生と学生と間の「質疑応答」が活字化されるにしても、最初の課題は、その音源

(テープ)は国文研に現存するのか。先生御出講の第一回目の「現代の思想」(講義・昭和36年)から53年、第5回目の「感想―本居宣長をめぐって」(講義・昭和53年)から36年もの時間が経過してゐる。存在してゐても、テープは劣化してゐないか、音声は聞き取れるのか。

 次の難題は、たとへ音声を活字化しても、それを本にして発行することが許されるのか。これが最大の課題である。これについては、新潮社の元編集者・池田雅延(まさのぶ)さんには、いろいろと思ひ出があるやうだ。小林先生は、自分の話し言葉を無断で公表することは許されなかった。ご自身の手が加はらない限り絶対許されなかった。このことは、池田さんも、小林先生のお嬢さん明子(はるこ)さまも何度も聞かされて、骨身に沁みてゐる。

 「國武先生もご存じでせう」と訊かれた。私は、とっさにあの時のことだと思った。小田村寅二郎先生が受けた衝撃である。第1回目の「現代の思想」(昭和36年)の際、小林先生は録音を取ることも、話したことを活字にすることもキッパリと断られた。

 小田村先生は、いつものやうに、ご講義を録音テープに取り、速記録から原稿に起して先生の校閲を賜り、合宿報告記を発行する。いつもこの手順で進めてきた。しかし、小林先生は録音も文章化も峻拒された。さあ、困った。拒否されると、参加者がもっとも楽しみにしてゐる小林先生の講義内容・質疑応答が合宿報告記に掲載されないことになる。あの時の小田村先生の困惑は、いかばかりであっただらうか。

 許可なく録音を取ることは、「逆鱗にふれる」行為である。池田さんは、合宿教室の主催者たちは「小林先生の逆鱗に触れるかもしれない恐怖と戦いながら、密かにテープを回していました」と『学生との対話』の〝あとがき〟に書かれてゐる。私は、これを読んだときドキッとした。

 延広真治(のぶひろしんじ)氏(当時・東京大学助教授)の「小林秀雄の語り」(『文学』特集小林秀雄・昭和62年・岩波書店)には、次のやうな一節がある。

  「ただつきまとうのは、小林秀雄は録音テープにとられていることをいつ知ったのか、いや最後まで知らなかったのではないか(少なくとも、第1回目の峻拒は明記されている)、という疑念である。それはともあれ、このように我々が、ありし日の清声に接することが出来るのは、小田村寅二郎はじめ国文研会員の千辛万苦の末の賜物なのである」

 私は、この延広氏の疑念については、どう答へればよいのか。小田村先生は、録音を取ってはいけないことを知りつつ録音に取った。事前に許可を得ることもなくテープを回した。速記録を作成し、先生の校閲をいただき、文章化するためには最小限の行為であった。問題は、速記録が出来上がった段階で起った。速記録をそのままお渡しするのか、または、こちらである程度文章化してお渡しすればよろしいのか。推測だが、再度文章化をお願ひするなかで再び峻拒されたのではないか。

 合宿教室での録音は、いつも速記者の西川伍朔(ごさく)さんが取ってゐた。汗を拭きつつテープを回す姿が懐かしく蘇る。しかし、もし、この録音テープが回ってゐなかったら、どういふことになってゐたのか。私の〝聴講記〟はあり得なかったし、新潮社のCDもなかったし、茂木健一郎氏(脳科学者)の「テープを聴いて変わった」といふ衝撃もなかったことになる。沢山の人が、CDを聴いて小林秀雄の本を読むことになったといふ話もなかったことになる。

 とにかく、小林先生は文章化を峻拒された。小田村先生は困った。困った末に思ひついたのが〝聴講記〟である。小林秀雄を勉強してゐる参加学生の一人に〝聴講記〟を書かせ、お目通しをいただく、といふ窮余の一策を思ひつかれたのである。〝聴講記〟は私に課せられた。字が下手なので、小田村先生は学生の福島宏之君と行武靖枝さんに清書をさせて、小林先生にご覧いただくことになった。その結果は、懇切な訂正とご加筆を賜り、掲載のご承諾となって、合宿報告記(『続々国民同胞感の探求』昭和37年)に記載が許された。この時の喜びは表現できない。どんなにうれしかったことか。

   感じられる小田村先生の心配り

 第2回目の「常識について」(講義・昭和39年)は、第1回目から3年後のことであるが、いつものやうに文章化についてはご相談申し上げたと思ふ。小林先生からは、『展望』(10月復刊号~11月号)に連載するので、それを合宿報告記(『新しい学風を興すために』第3集・昭和40年)に転載してよろしい、といふご内諾をいただいたものと思はれる。このことについては、小田村先生からお聞きした記憶がある。

 ところで、質疑応答についてはどうするのか。編集部としては、これを載せないわけにはいかない。どうしても載せたい。そこで、「要旨だけをメモ式に記して」といふ条件付きで、小林先生のご了解をとったのではないか。質疑応答の冒頭に〝あとがき〟があり、「その要旨だけをメモ式に記しておく。ただし文責はすべて記者にあることをお断わりして置く」と編集部の責任を強調してゐるからである。そして、ほんとに簡単な要旨が「メモ式」に記されてゐる。この簡単なまとめ方をみると、小林先生にできるだけご負担とご迷惑をお掛けしてはならないといふ心遣ひなのではないか。

 しかし、それにしても、小林先生にはお見せしなければならない。お見せすれば先生のことだから、多少なりとも手を加へられたのではないかと思ふ。小田村先生のことだから、当然、この手順を踏まれたと推測する。事後には、いつものやうに合宿報告記をお送りしてゐるし、御礼のご挨拶を申し上げてゐる。このあたりの小田村先生の心配りには行き届いたものがあったと思ふ。

 第3回目の「文学の雑感」(講義・45年)については、どうだったのか。これは、合宿報告記『日本への回帰』(第6集・昭和46年)に、講義内容の要旨が記載されてゐる。

 副タイトルに、「ご講義の要旨」と大きく明記されてゐる。そして、その初めに編集委員の山田輝彦先生(福岡教育大学教授)が「一文」を記してゐる。

 そこには「小林秀雄先生のご講義の要旨を私が筆記しましたものを、小田村寅二郎氏を通じて先生にご覧いただきましたところ、ご多忙中にもかかわらず、まことにご懇切な訂正ご加筆を賜り、特に本書に掲載することをご承諾くださったものであります。ここに編集者として、小林先生に厚く御礼申し上げます」とあって、講義内容の「要旨」といふことでご承諾をいただいたことがわかるが、質疑応答は載ってゐない。

   さらに加筆され『諸君!』誌へ

 第4回目は、「信ずることと知ること」(講義・昭和49年)である。

 これは、合宿報告記『日本への回帰』(第10集・昭和50年)に詳しく記載されてゐる。山田先生か、もうお一人の編集委員の小柳陽太郎先生(福岡県立修猷館高等学校教諭)のどちらかが速記録から集約されたのか。

 「はしがき」の最後に、「講義要旨の記載をお許し頂いただけでなく、御多忙な中を、心をこめて訂正、御加筆下さった小林、木内両先生に深甚の感謝を申し上げる次第である」と記されてゐる。さらに、この時は質疑応答の要旨も掲載されてゐる。これにも、小林先生の訂正、ご加筆を頂いたことがわかる。しかし、この「信ずることと知ること」は、昭和51年に全面改訂の上、『諸君!』
(7月号、文芸春秋)に発表された。

 これに関しては、郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」(「文芸春秋」平成5年)に次の記事がある。

 

 「昭和51年1月20日、小林秀雄は30年近く住みなれた山の上の家から、広さも半分以下の町なかへ転居した。(略)さながら山を降りるダビデの観があつた。風呂敷包のなかは、愛用の万年筆とインク壺と書きかけの「信ずることと知ること」の原稿とが入つてゐた。

 この原稿には思ひ出がある。昭和49年8月に、国民文化研究会(代表小田村寅二郎)主催の第19回学生青年合宿教室が霧島で開催された。その折になした講演が翌年の3月に、講演速記を整理して、『日本への回帰』第10集に収めて刊行された。一読して感動した福田恆存は、このままではごく一部の人々にしか知られないから、雑誌に載せて広く世に知らせたいと申し出た。「筆者としては充分に意をつくしてゐないから、もう一度手を入れたい」といふ事で、同書の必要な部分を切り抜いて原稿用紙に貼りつけて、手を入れ始めた。一月(ひとつき)ぐらゐと見たが、二月(ふたつき)たつても三月(みつき)たつても出来上らず、遅々として進まなかつた。放置してゐたわけでは決してなかつたのである」

 改訂が遅れたのは、郡司氏によると、丁度、連載「本居宣長」の最終章にあたって、先生は大変な思ひをされてゐたときと重なったからだと推測する。完成したのは、昭和51年3月15日であったと記してゐる。

 しかし、右の郡司氏の文にある「講演速記を整理」したといふのは誰だらうと、ふと思った。編集委員ではなく、小林先生ご自身が書かれたのではないかとさへ思ふ。それほど、いつもの報告記の文章と出来が違ふのだ。整然としてゐる。あまりにも多くの訂正、ご加筆をいただいたから、あたかも先生ご自身が書かれたかのやうな文章にみえるのかも知れない。

(次号につづく)

(昭和音楽大学名誉教授)

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   「子供には苦労させたくない」

 私は昭和46年から平成23年まで40年間、高等学校の教師を勤めた。平成に入って生徒の親たちと面談してゐて、この傾向は少しをかしいぞと感じたことが間々あった。

 「私たちは苦労して来たから子供たちには同じやうな苦労をさせたくない。だから、先生、いい大学に進学できるやうに勉強を指導して下さい」と言ふ親が大半を占めて来たことである。子供の進学に対しては大変熱心であるが、このやうな若い親たちの内面には「苦労すること」=「不幸」と云ふ単純な図式が抜きがたくあるやうに感じられたのである。

 小林秀雄先生は国民文化研究会主催の第九回合宿教室で『常識について』といふ演題で講義をされた(昭和39年8月、鹿児島県桜島)。講義の後の質疑応答が興味深い。新潮社のカセット文庫にも入ってゐるが、近刊の『小林秀雄 学生との対話』(国文研・新潮社共編)にも収められてゐる。そこに出て来る「学問の喜び」の箇所が今日的であると思った。

 学生の《先生は学問とは知る喜びである、道徳とは楽しいものであると言われましたが、私には苦しいことのほうが多いのではないかと思えますが、いかがでしょうか》との質問に、左のやうに答へてをられる。

 

《喜びといっても、苦しくない喜びなんてありませんよ。学問をする人はそれを知っています。嬉しい嬉しいで、学問をしている人などいません。困難があるから、面白いのです。やさしいことはすぐつまらなくなります。そういうふうに人間の精神はできてるんのです。子供の喜びとは違うのです。

 喜びというものは、あなたの心の中から湧き上がるのです。僕が与えることができるものではない。学問が喜びであるか、苦しみであるか、というような質問は、質問自体がおかしい。それはあなたの意志次第です。自分を信ずることで解決するのです》(『小林秀雄 学生との対話』八九~九〇頁)

 人間の精神のメカニズムは苦労に真向ひ挑戦することから真の喜びが心のうちから湧き上って来ると言はれる。「困難があるから、面白いのです。やさしいことはすぐつまらなくなります」。このことは体験的に私たちは知ってゐることである。だが、しかし何となく厳しさを厭ふ精神の退廃があり「楽しいこと」=「幸せ」であり、「苦労する」=「不幸」だと短絡した人が世論を形成してゐるやうだ。教師に求められるのは「楽しい、分りやすい」授業である。「苦労の少ない人生」を目指して、有名進学校へのコースを歩ませるのが「教育界へのニーズ」と成ってしまって、わが子を保育園から塾に通はせてゐるのが現状である。

   民主党政権の罪業

 政治の世界でも、国民は目新しいスローガンに惑はされ、「国民のニーズ」に応へてくれるのが民主党であると考られたやうで、一度やらせてみてはといふ「ふわっと」とした空気が醸成されて5年前(平成21年9月)、「選挙による」政権交代が実現した。総理になった鳩山由紀夫氏は、美辞麗句を並べ立てれば内政も外交も上手く行くと信じてゐたのだらうか。その総理演説を聞いて呆気に取られた。

 日本とシナ(China)を挟む海を「友愛」の海と呼んで、「血を流す戦ひの海でなく平和の海としたい」と繰り返し言った。繰り返すたび自己陶酔してシェークスピア劇のリア王にでもなった気分だったのだらうか、悦に入ってゐるやうに見えた。演劇の世界で劇(フィクション)を演ずる役者なら喝采を浴びそれで許されるだらうが、こんな演説を狡猾な隣国は如何に見てゐるだらうか、と考へると空恐ろしい気分になったのは私だけではなかっただらう。

 小林秀雄は「精神は脳機構の随伴現象に過ぎない…問題はそれを直すことだ。自由、平等、友愛の思想は既に命を失ってゐた」と昭和26年『文藝』で述べてゐた。朝日新聞等の左翼系マスメディアが誘導する「声」を世論だと信ずるオプチミストの鳩山首相は小林の発言には耳を傾けなかったのであらう。わが国にとってこれほど不幸なことはなかった。総理演説を聞いて、シナは日本に付け込むチャンスは今ぞ、日本から報復を受ける恐れはないと高を括ったに違ひない。シナは攻勢に出始め、これでもかこれでもかと尖閣沖への侵犯を繰り返すやうになった。

 次の菅内閣の時であった。領海侵犯の警戒をしてゐたわが海上保安庁の巡視船にシナ漁船が故意に衝突する事案が発生した。船長を逮捕したと思ったら、レア・アース(希土類)の禁輸で脅されると忽ち腰砕けとなって直ぐに船長を釈放してしまった。衝突の一部始終はビデオに納められてゐたにも関らずが公表することさへも出来なかった。これ以後、さらにシナは尖閣海域への出没を繰り返して侵犯を恒常化しつつある。

 キリストが「山上の垂訓」で「右の頬を打たれれば、左も向けなさい」との教へを垂れたことは有名である。だが、考へてもみよ。国際政治の場で、逮捕した犯罪者を脅しに屈して釈放した菅政権の行為は、相撲に喩へると相手に恐れをなして土俵に上らうともせずに先方に不戦勝の白星を与へたやうな不様なことだった。ことは、国家国民の安寧に関る現実的なシビアーな問題で、「目には目を」で対処すべき事柄なのだ。否、「目を擲(なぐ)られないやうに」抜かりない備へを平生から講じておかなければならないのだ。それが国際政治の常識である。

 しかし、領土と領海を守るために自らの身体を危険に曝してゐる現代の防人(海上保安官)達に悔し涙を流させるだけになってゐたのだ。この点は、現在の安倍自民党政権でも、まだ十分とは言へないやうだ。

   小沢一郎氏の「醜い所行」

 民主党政権実現に功のあった小沢一郎氏はあの頃(平成21年12月、当時は与党民主党の幹事長)、韓国を訪問、皇室のことにも触れて、「日本の天皇家は大陸出身者であった。朝鮮半島を経て日本に渡り、日本の統治者となった」旨を学生達を前に講演してゐた。

 小沢氏と同じ年代の私であるが、中学生時代に社会科の先生が「天孫降臨」などおよそナンセンスであると頻りに語ってゐたことを覚えてゐる。「皇室の先祖は、大昔の古墳時代に大陸から騎馬民族を大勢引き連れて日本に渡来してきた。近畿を中心に勢力を保持してゐた先住民族の支配者を打ち滅ぼして、代って日本の主権者になったのだ」と授業中、話されたのを聞いた記憶がある。

 昭和30年代は日教組全盛の時代で、天皇軽視論の横行してゐた時代である。小沢氏も私と同世代だからこの説が頭にこびり付いてゐたのだらうと思はれる。私は大学生になって国民文化研究会の合宿教室に参加するまではこの学説に呪縛されてゐた。小沢氏は『古事記』にある「うしはく」(領有・支配)と「しらす」(知る・統治)の相違を知らないのだらうか。或いは、コリアン(韓国人)に取り入るために、現在では考古学者でさへ見向きもしない「騎馬民族説」を敢へて韓国で語るといふ軽率極まりない行為に及んだのだらうか。無教養と卑屈さをさらけ出した真に醜い所行であった。

   17条憲法を味読せよ

 問題はどこにあるのか。聖徳太子憲法17条の冒頭の一節、「一に曰く、和を以って貴し為し」は良く知られてゐて、いろんな場面で触れられてゐる。日本社会の特性を物語るものとして人口に膾炙してゐることは喜ばしいことだが、要路に立つ人達には17条憲法の全文を丁寧に読み味はって政治外交に携って欲しいものである。例へば第六条である。

  「六に曰く、悪を懲(こら)し善を勧むるは、古(いにしへ)の良典なり。是を以て、人の善を匿(かく)す无(な)く、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。其れ、諂(へつら)ひ詐(いつは)る者は則ち國家を覆すの利器たり、人民を絶つの鋒劒たり、亦佞媚(ねい び)なる者は、上(かみ)に對(むか)ひては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢ひては則ち上の失を誹謗す、其れ此の如き人は、皆君に忠无(な)く民に仁无し。是大亂の本(もと)也」

 大意を記せば以下のやうにならう。「人の持つ善性を見逃すことなく、人の悪性に気づいたら直ちに矯正せよ。卑屈で言葉を弄ぶ者は、国家を気儘に扱ふ権力者となり、人民の暮しを蔑(ないがしろ)にする。他人に媚びて気に入ってもらふやうに振舞ふ者は、上司に対しては部下の過失を説き、部下に向かっては上役の落度を非難中傷する。このやうな人物は、押し並べて主君に対する忠誠心がなく、人民に対する仁慈のやさしさも無い。このやうな人物が国家の要職に就くならば国家が大いに乱れることとなる」。

 聖徳太子17条憲法が出されたのは推古天皇12年(604)で、今から千四百年前のことになるが、人の本性を深く洞察すれば本質的には現代と変りがないことに驚きを禁じ得ない。17条憲法の説く人間観の確かさには脱帽させられる。

 「諂(へつら)ひ詐(いつは)る者」は「則ち國家を覆すの利器たり」。小沢氏は韓国に「諂ひ詐る」発言をした。韓国人は脇の甘いこの発言に今が日本に付け込む好機と受け取ったに違ひない。国威の失墜である。この翌年、菅内閣は迎合的な「日韓併合百年談話」を発して、さらに隙を見せた。これらがその2年後(平成24年8月)の、李明博大統領の島根県の竹島不法上陸とわが天皇陛下に関する非礼な言辞に繋がったのだ。

 現在の朴槿恵大統領の「反日」言動には憐れみさへ覚えてゐるが、もし尖閣沖での巡視船体当り事件の際、「衝突ビデオ」を直ちに公表して逮捕した船長を起訴してゐたら、国際社会のシナを見る目は、シナとの関係は変ってゐたであらう。海洋進出に舵を切って軍拡に突き進むシナに対して、主権国家として最低限のことさへなし得なかったのが民主党政権であった。

(元福岡県立高等学校教諭)

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 今朝もわが家の郵便受けに「英語教室の受講生募集」の案内が入ってゐた。そこには「英語・英会話コース」①スタンダードプラン〔2・3歳児/4・5歳児〕〔小1~小3/小4~小6〕とか、②スーパーラーニングプラン〔4・5歳児〕〔小1~小3/小4~小6とかと書かれてゐた。英語教室によっては〔キッズ英語一歳半から〕を謳ってゐるところもあれば、〔〇歳&ママクラス〕を用意してゐるところもある。英語学習は早いほど良い!と言はんばかりだ。

 どこかをかしい。平成23年度から小学校で英語授業が始まってゐる(5、6年生対象で週1回。成績評価はしない)。かねて経済界は国際商戦を戦ふためには英会話のできる人材の育成が不可欠だとして早期の英語学習の実施を要請して来たが、その要望がやうやく実現したわけである。すでに10年ほど前から教育特区で英語を小1から取り入れてゐるところもある。小5からでは遅いとして、さらに文部科学省は「小3から英語を導入し、5~6年生では評価を行ふ正式教科にする」方針とも伝へられてゐる。英会話教室を運営する某社の調査によれば、小学生以下の子をもつ親の約八割が「英語教育の早期化」を良いことだとしてゐるといふ(5/8付産経「教育」欄)。

 大手の英語教室のパンフレットには「英語圏の子どもたちが母語を習得するように、年齢・成長に会わせたきめ細やかなコース設定で…」「幼児期に英語の音やリズムにふれることは、英語を正しく聞きわける耳と発音する力、英語のリズム感をを育てるのにとても重要です」「この能力のピークは六歳までとされており…」云々とあった。かさねて言はう、やはりをかしい。私は英語を学ぶ必要はないと言ってゐるわけではない。良き日本人の育成が先だと言ひたいのである。国語の力が外国語の学習でも基礎だと言ひたいのだ。学習の時期を考へろといふことである。

 乳幼児期は、国語の世界にどっぷりと浸って、親の口許を見つめながら言葉(国語)を学び、次いで少年期には読み書きを身に付ける。さうした過程で人格が形成されるはずである。乳幼児への外国語教育など発達心理学から見てもをかしいはずだ。LとRの発音がネーティブ・スピーカーのやうに行かなくとも、国語(日本語)の世界に親近感を覚え、その豊穣さを感じ取ってゐる人間こそが諸外国の人達に伍して行けるのだ。小学生時代の漢字の書き取り、朗読、作文、名句の諳誦などで培はれた国語力が、さらには国語の語彙が外国学習の基礎学力となるのだ。

 国際経済戦でものを言ふのは何よりも優れたメイド・イン・ジャパンの製品であり、それを作り出さうと誠心誠意、仕事に打ち込む実直な日本人の心である。早期の英語教育から国際競争を勝ち抜く力は生れて来ないどころか、逆に自国文化(国語)を軽視する底の浅い人間を生み出すことにもなりかねない。藤原正彦氏がかねて指摘するやうに、もし英語力が国際商戦の要なら、何故英国は衰退したのかの説明がつかないではないか。そもそも戦後日本を経済大国たらしめた企業戦士たちは「小学校英語」とは無縁の世代であった。

 社内言語を英語化した妙な会社があると思ってゐたら、文部科学省が省内の会議の一部を英語で行ふ方針を決めたといふ(4/30付日経、電子版)。狙ひは「英語教育をめぐる議論を活発化させる」ためだとか。正気なのか。一私企業が社内で英語を強要するのはその経営者の識見に疑問符をつければ済むが、中央官庁の、まして「国民の育成」(「国民の底力」涵養)に責任をもつはずの文部科学省までがとなれば、事態は深刻だ。「領土の危機」は目に見えるが、肝心の文部科学省がこんなことでは国の将来はどうなるのか、心許ない限りである。

          ○

 別に詳しく論じなければならないことではあるが、小学校段階から英語学習を実施する「選抜された英才教育」は考へられて良い。ただし、そこでは当然に、先づは国語の読み書き、作文の指導と添削、古典名句の暗誦、読書などの教育を徹底的に施す。常に並行して国語に力を入れる。「日本の文化を世界に持ち出す」との教育理念を明確にする。しかし、「悪平等」的な、何でも横並びの戦後的価値観が、それを可能にするだらうか。このことの方が実は問題なのではないのか。昨今の国情を見ると、自国の歴史と伝統に愛惜の念を覚えるリーダーの養成、「公」「私」をわきまへた献身的な人材の育成こそ急がねばないのではないのか。《6/25付『国民新聞』所載、一部加筆》

(拓大日本文化研究所客員教授)

 

編集後記

 何ごとによらず失敗のないやうに自己の最善を尽す。しかし自衛権行使に関しては、朝日毎日東京など各紙は歯止めが大事、手足を縛れと声高に説く。GHQが使嗾した「自国不信」工作の「見事な成果」だ。
(山内)

(拓大日本文化研究所客員教授)

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