国民同胞巻頭言

第629号

執筆者 題名
野間口 俊行 情報発信の体制を強化せよ
- 自国の誇りを貫いた遣唐副使・大伴古麻呂に学ぶ -
本田 格 「歴史的仮名遣ひ」の呼称は不適切であり、「正仮名遣ひ」と呼ぶべきだ
柴田 悌輔 『本居宣長』(小林秀雄著)を読み続けて
奥冨 修一 源 実朝
- 子規が讃へた歌人将軍 -
神奈川大学法学部4年
市川 絢也
大学生活を振り返って
- 国文研の勉強会で学んだこと -
絹田 洋一 歌たより 太平記を読む

 かつて恩師・川井修治先生(元本会副理事長、鹿児島大学名誉教授)は御講演(平成2年11月)の中で、次のやうに述べられた。

  「歴史といふものは、個人においてはその人が生きて来た生きざまを示すものと言へます。自分の生きざまに自信が持てず、蔑視や悔恨の念を抱く者が、どうして今の世に大手を振って生きることができるでせうか。同様に民族においてはその民族が生きて来た跡を示すものです。自民族の歴史を否定する国民は、果して厳しい国際社会を生き抜いて行くことができるでせうか。…自国の歴史を公正に捉へる努力をしないで、ないがしろにした結果、日本国民は大きなツケを払はされてゐるのです」

 先生の真摯な生き方が示された厳しいお言葉である。あれから23年が経過した。

 心ある人々の地道な努力にも拘らず、日本国民は「大きなツケ」を払はされてゐる。いはゆる「南京虐殺事件」、「従軍慰安婦(像)問題」などはその最たるものであらう。これらは日本民族の矜持に関る事項である。現在、当地の国文研会員と一緒に中学校の歴史教科書の比較研究を行ってゐるが、「自民族の歴史を否定する」やうな記述が多くの教科書で見られる。先般、政府は中・高校の学習指導要領解説書を改訂したが、是非とも子供たちが安心して学べる教科書をつくって頂きたい。

 さて、最近の国際情勢を考へるとき、「争長事件(席次争ひ)」の故事が思ひ浮ぶ。『続日本紀』(講談社学術文庫現代語訳)、天平勝宝6年(754)の記事に次のやうに記されてゐる。

 「正月三十日 遣唐副使・大伴宿禰古麻呂が唐国から帰国した。古麻呂は次のように奏上した。…天子(玄宗皇帝)は蓬莱宮の含元殿において朝貢を受けました。この日、唐の朝廷は古麻呂の席次を、西側にならぶ組の吐蕃(チベット)の下におき、新羅の使いの席次を東側の組の一番の大食国(ペルシア)の上におきました。そこで古麻呂は次のように意見を述べました。『昔から今に至るまで、久しく新羅は日本国に朝貢しております。ところが今、新羅は東の組の第一の上座に列なり、我(日本)は逆にそれより下位におかれています。これは義にかなわないことです』と。その時、唐の将軍呉壊実は、古麻呂が席次を肯定しない様子を見て、ただちに新羅の使いを導いて西の組の吐蕃の下座につけ日本の使い(古麻呂)を東の組第一番の大食国の上座につけました」

 大伴家の武人としての血を引き継ぐ堂々とした態度であり、遣唐副使になるやうな人物だから、当代一流の知識人でもあったのであらう。

 それにつけても今日ほど国民の中に世界に対する発信力強化の必要性が認識されてゐる時代はないのではないか。韓国の異常なまでの、国を挙げての反日運動に対して、「そこまでするのか」といふ思ひが日本国民の中に充満してゐる。韓国経済は外貨準備高の少なさやウォン高などの脆弱性をかかへてゐる。一般国民が生活に困らない国際関係を作っていくのが一国のリーダーの責務であらうに、韓国の現状にはいろいろと考へさせられてしまふ。

 韓国の歪んだ自己主張はさておき、日本人には「他人の悪口は言はない」、「誤解されてゐるなら、自分の誠意をみせればいつか理解してもらへる」といふ道徳観念が強くある。かうした徳性は今後とも大事にしなければならないが、その一方で、言ふべきは言ふ、主張すべきは主張することも真剣に考へて、実践しなければならない。「南京虐殺事件」や「従軍慰安婦(像)」等を顧みれば緊急を要することである。これまでの発信力の弱さがここまで問題を大きくした。

 安倍内閣はNHKの首脳人事の刷新を図るなど、正常な情報発信のための体制を構築しつつあるが、大いに期待したい。これからの日本人は、天平の昔の古麻呂を見習って、堂々と正論を発信し続けなければならない。

(鹿児島県信用保証協会)

ページトップ  

   仮名遣ひ「改変」の主役はローマ字論者だった

 まだ誤解してゐる人もゐるやうだ。戦後すぐの国語改革で、漢字制限と仮名遣ひ改定が実施されたのだが、そのきっかけにGHQによる勧告(「アメリカ教育使節団報告書」)があったのはたしかであり、それを受けて一つは当用漢字表となり、一つは現代仮名遣ひ表となって結実したのである。

 しかしここで注意しなければならないのは、GHQがすすめてゐたのは、将来的な表音文字の採用を視野に、漢字の制限か全廃であって、仮名遣ひについては何の言及もなかったことである。二つともアメリカの力による改革だととらへることは、大きな間違ひだと言はなければならない。仮名遣ひなど、アメリカ人には何の関心もなかったはずである。仮名遣ひ改定に、大きく動いたのは他の誰でもなく、日本人自身なのである。

 その日本人だが、多くの一般の国民から、仮名遣ひについて、不便この上ないから何とか改定してほしいといふ声が、昔から上がってゐたのだらうか。また識者の間からも、さういふ声がよほど強かったのだらうか。とりわけ詩人や小説家など、文筆に携はる人たちに、その要望が以前から多くあったのだらうか。驚いたことに、そのやうな事実はないのである。

 GHQの勧告は、日本の教育一般に関はるものであった。その勧告は命令のごとく受け取られ、それに基づいてさまざまな改革がなされてゆくのだが、そのなかに、国語改革がある。しかし、仮名遣ひの問題が突然のやうに議論の対象になり、十分な議論のないままに、制定の運びとなったのだった。その裏には、日本人の、国語学者などの一部の人間が中心になって、この時とばかりに動き、アメリカの力を背景に、かねてからの自説を強引に押し通したといふのが実際だといふべきである。動いた人間は、やはり根は、将来的に文字をローマ字に変へてゆかうといふ論者だった。

 時は占領下にあり、自信を失った人びとにとって、国語改革、とりわけ仮名遣ひなど、ほとんど眼中にない問題だったのではなからうか。それは生活に直接関はらず、切実なことではなかったのである。しかも仮名遣ひは強制ではなく、昔からのものを使ふことも自由だった。仮名遣ひ改革がどういふことを意味するのか、考へる余裕などなかったに等しいだらう。厳しさを伴はない分、そのとほりに、表立った反対論の声は大きくならなかったのだった。

   「古典の日」を制定したが…

 ところで「現代仮名遣ひ」が施行されて、すでに半世紀を優に超えてゐる。それは十分に定着したのであり、今さら、否定することは現実的ではない。逆に「現代仮名遣ひ」に利点を見出すことも、さう難しいことではない。初学者や、ふだん読書やもの書きに慣れない人にとっては、最初から入りやすいものになってゐると言へる。読みやすく、書きやすいものであり、さらに便利だといふこともできるかもしれない。

 だが日本人が経済的な豊かさといふものを経験し、さらに21世紀に入って、自然や文化など、すべてにおいて日本独自の伝統が見直されてゐる現在、改めて文字について、仮名遣ひといふものについて、その意義を考へることはけっして無意味ではない。むしろ積極的に考へなければならないのではなからうか。

 折しも「11月1日」が「古典の日」として、国の制定する記念日となったことは記憶に新しい。平成24年(2012)に法制化されたばかりである。衆参両院とも全会一致といふから、「古典」の意義を認めない人は先づゐないと見てよい。

 その「古典」だが、「概要」によると、辞書の意義以上に幅広く見られ、必ずしも「古典文学」だけをさすものではないやうだ。とすれば、「古典芸術の日」か「伝統芸術の日」とでもすべきだったと思ふが、この日はもともと、『源氏物語』成立から一千年を記念した催しをきっかけにしてつくられたものである。

 「古典の日」といふからには、はっきり「古典文学の日」と名づけてほしかったと思ふが、いづれにしろ「古典」は、言語表現によるものが中心になるはずである。古典作品が尊重され、より多く読まれることが望ましい、そのやうに期待されてゐると考へてよいだらう。しかし、その古典をどう読むべきなのか。現代語訳やマンガで十分、といふことにはならないはずだ。やはり原典にふれ、原文で読むことが基本とされなければならないのではなからうか。

 だがここに問題があることに気づく。その「古典」は、今の「現代仮名遣ひ」で書かれたものではない。仮名遣ひが違ふといふことだけで、そこにははっきり断絶があり、原文を読んでも古めかしく感じ、とても親しむ気持ちにはなれないといふことである。とくに子供はさうだらう。

   古典がなじみにくいものになった

 周知のとほり、古典の仮名遣ひは「歴史的仮名遣ひ」とも言はれるが、一千年間を経た由緒正しいものであり、実は、つい最近まで使はれてきたものなのである。言ふまでもないが、戦前まで、すべての日本人が使ってゐたものであった。それが、戦後の占領下に、憲法が変へられたのとほぼ同時期に、国語改革の名のもとにいきなり変更させられたのである(ちなみに戦後の日本国憲法の公布が昭和21年11月3日で、現代仮名遣ひの公布は同月16日であったから、その条文の表記は正仮名遣ひとなってゐる)。

 その結果どうなったか。圧倒的に「現代仮名遣ひ」が優位に立ち、それが支配的になった分、古典との距離が広がり、古典がなじみにくいものになったのである。今ふだんの生活で、古典の仮名遣ひを使へば、多くの場合違和感を持たれてしまふことになるだらう。現在でも文筆家のなかで、「歴史的仮名遣ひ」で著作を表す人が少数ながらゐる。しかしそれでも、出版社の意向などから、公刊以前の原稿段階にとどめてゐるのがほとんどだらう。それが現実なのである。

   「歴史的…」の呼称は不適切

 ここでいよいよ、「現代仮名遣ひ」と「歴史的仮名遣ひ」といふ、二つの呼称自体を問題にしなければならない。その命名に、国語改革の立役者の、国語学者金田一京助の力が預かって大きいことが知られてゐるが、実はこの呼び名が、対照にはなってゐないことを先づ指摘しなければならない。そのためには「現代的」「歴史的」とすべきだったのだが、「現代的」では、いかにも弱いと考へられたのだらう。

 それに対し「歴史的」といふ言葉は何だらうか。はっきり「歴史」としなかったのは、反発を想定し、表現を和らげたのだらうか。しかし、それはいかにも過去のものといふ印象を与へるのである。一方は(「現代仮名遣ひ」は)現代にふさはしく新しく、これからのものであり、一方は(「歴史的仮名遣ひ」は)現代にふさはしくない、時代遅れのものだといふ感じを与へるのである。

 だが、さうした印象自体に問題があることは言ふまでもないことだ。古典に使はれる「歴史的仮名遣ひ」は、けっして過去の遠いものではなく、実は今なほ使用に耐へることができ、「現代仮名遣ひ」よりもずっと矛盾点の少ないものなのである。何よりも一千年の歴史を持つものであり、そのこと自体を貴重なことだと言はなければならないはずである。

 ところが驚くべきことに、金田一京助といふ人は、一千年といふ年月を無価値と見なし、そんな古い仮名遣ひを使ってゐるから文明国に遅れをとり、敗戦の原因にもなったとまで言ってゐるのである。

 この人の文章を読むと、本当に日本の国語学者なのだらうかと思ってしまふ。金田一を支持した桑原武夫がさうだが、古典など一部の人間が読めればよいとしたごとく、金田一が日本の古典に価値をおき、それに通じた形跡はほとんど見られない。古典をよく理解してゐたとは到底思へないのである。そのやうな人たちが国語改革といふ一大事を推し進めたことを、多分多くの人は知らないだらう。

 古典の仮名遣ひが大きく後退してゆく背景の一つに、この「歴史的」云々といふ、呼び名による印象の影響が大きかったことが上げられる。それは、現在の中学国語の教科書に、一年のときから登場してくる言葉なのである。学校教育の場で、子供の意識が押さへられてゐることは決定的な意味をもつと言はなければならない。

 「歴史的仮名遣ひ」といふ呼称が不適切そのものであり、それは「正仮名遣ひ」と呼ばなければならないはずである。一方「現代仮名遣ひ」は、現代的でも何でもない、ただ簡略なといふだけのものである。それは「略仮名遣ひ」とでも呼ぶべきだ。いはゆる「現代仮名遣ひ」はそれなりの意義を持ち、それは将来的にもあってよいのである。だが、それは「正仮名遣ひ」ではないことを、少なくとも子供たちには教へなければならない。言葉を正してこそ、物事は始まると私は思ふ。

(北海道大学国語国文学学会員)

ページトップ

   1回通読するのに10年…

 小林秀雄が、昭和40年代に雜誌『新潮』に連載してゐた「本居宣長」を一冊の書物として、新潮社から刊行したのは、昭和52年の秋の頃だったと思ふ。雜誌連載時には、私はせいぜい拾ひ読みをする程度の読者であった。高価(4000円)な書籍ではあったが、そんな私でも早速購入してみた。しかし一度通読してみて、私は自分が内容を充分に理解出来たとは、とても思へなかった。文章自体が難解といふのではない。同時期に執筆された「考へるヒント」に較べると、「本居宣長」の文章の方が、読者にとっては、むしろ懇切丁寧とも感じられる位である。だが通読する為には、余りにも多くの副次的な資料の智識が、必要であるのに気が付いた。

 「古事記傳」、「紫文要領」、「排蘆小船」、「石上私淑言」等々といった宣長の著作。さらには、徂徠、仁齋、契沖といった江戸期の学者たちの著作を読み込む事が、この書物の内容を理解するには、欠かせない条件と思はれたのである。

 平成元年(昭和64年)の9月頃であったらうか、私が学生時代に読書会を共にした小幡道男、山本博資両君に、三人でこの書物を、輪読の形式で読み始めてみないかと、相談を持ちかけた。友人とは有り難いものである。両君は快諾してくれた。副次資料の調査も、三人で手分けすれば可能ではないかといふ、私の見込みもあった。

 だが実際には小幡君の労に頼りきる場合が、圧倒的に多かった。その後、山本伸治君、今村宏明君、稲津利比古君たち旧友数人も加り、取敢へず読み了へたのが平成11年の6月であった。月に一度の読書会ではあったが、ほぼ10年といふ歳月を要したのである。

 ところがこの著書は、一回通読した程度では、本当に理解出来たやうな気持がしないのである。勿論私たちの読解力の足りなさが原因ではあったらう。だが非力ながらも、まう一度通読すれば、理解も深まるのではないか。そんな期待を込めて、暫く休んだ後に、始めたA回目の通読が、今年平成26年3月頃には、読了する予定となった。

 理解が深まったかどうかは別として、読書会のメンバ が各自、自分の理解の程度を、同人誌的な性格を持つ『葦牙』に発表してきた。その『葦牙』も平成16年以来の10年間で、15号を昨年暮れ迄に発刊出来た。それで一区切りといふわけではないが、これを機会に、私はこの著書の読後感を語りたくなった。

   著者は12年を費やしてゐた

 この書物が世に出る経緯を詳細にいふと、小林秀雄が「本居宣長」を雜誌『新潮』に発表し始めたのは、昭和40年の6月号である。毎月連載されてゐたといふ記憶はないが、昭和51年12月号に載せられた63章が最終章で、これが新潮社刊の『本居宣長』では49章に当る。そして翌年の昭和52年9月に、最終章である50章を著者は書き加へて、同年10月に、この書物を刊行してゐる。

 『本居宣長』といふ著作を世に送り出すに当り、如何に著者が原稿を推敲し、重複を割愛したかは、雜誌の内容と引き比べてみると、よく理解出来る。つまり小林秀雄はこの著作を完成させるのに、12年間を費やしてゐる。私たちがほぼ20年を費やして読み続けたのも、読者としての当然の務めだったと、私は今改めて感じてゐる。

   読書会は小林秀雄の言ふ「対話」だった

 刊行後間もなくの昭和53年に、小林秀雄は国文研主催の夏合宿に出講してゐる。その講義録が「感想」- 本居宣長をめぐつて- といふ題名で、合宿レポートに記載されてゐた。

  「まう一つ注意すべき事がある。それはディアレクティックといふ言葉の使ひ方です。ディアレクティックといふ言葉は、現在では非常に面倒な哲学の用語となつてゐる。それに比べると、プラトン或いはソクラテスの使つたディアレクティックといふ言葉は、まことに簡単明瞭である。僕らが使つてゐる対話といふ日常語の語感を、決して離れた使ひ方をしてゐない。信じ合つてゐる人たちが、談笑し、議論する。自分の心を本当にさらけ出して会話をする。その楽しさ真実さ。その中に本当の智慧が行き交ふ、これは誰もよく感知してゐる事だ」

 辞書によれば、ディアレクティックとは、弁証法と訳されてゐる。まさに「面倒な哲学の用語」である。だが小林秀雄はそれを、「対話」といふ日常語の語感だといふ。

 いま一度、記してみる。

  「信じ合つてゐる人たちが、談笑し、議論する。自分の心を本当にさらけ出して会話をする、その楽しさ真実さ。その中に本当の智慧が行き交ふ、これは誰もよく感知してゐる事だ」

 私たちが望み、そして実行してきた「読書会」の営みを、小林秀雄が「対話」と名づけてゐた事が私には嬉しかった。現代では「対話」といふ用語が実に無雜作に使はれ過ぎる。韓国や中国ともっと対話を試みるべきだ。多くのマスコミは対話といふ用語を、こんな具合に使ふ。小林秀雄のいふ通り、「対話」が「信じ合つてゐる人たちが、談笑し、議論する」意味で考へるなら、日本人が本当に韓国人や中国人と、「対話」が出来る筈もない。

   「とにかく想像力を磨くのです」

 レポートの巻末で、小林秀雄は学生の質問に答へて、こんな事を語ってる。

 「とにかく想像力を磨くのです。 想像力は空想力とは違ひますよ」

 『本居宣長』の50章に、こんな文章がある。人は自分の「死」を体験は来ないが、「想像」は出来るとし、更にこんな風に言葉を続ける。

  「上古の人々は、さういふ死の像を、死の恐ろしさの直中から救ひ上げた。死の測り知れぬ悲しみに浸りながら、誰の手も借りず、と言つて自力を頼むといふやうな事も更になく、おのづから見えて来るやうに、その揺るがぬ像を創り出した。其処に含蓄された意味合ひは、汲み尽し難いが、見定められた『彼の世』の死の像は、『此の世』の生の意味を照し出すやうに見える」

 「想像力」とは、文字通り像を生み出す力を言ふのだらう。自分の思ひを、友人に理解して貰ふ様に言葉を選んで語り、友人の語る事に素直に耳を傾ける。これが「想像力を磨く」事には必要なのである。『古事記』に登場する、上古の人々は皆さうしてゐた。

 私たちは「読書」といふ営みの中で、本当の「対話」をする為の、苦しみと楽しみを味はい、精神の緊張感と共に、想像力を磨いてきたと、私は思ってゐる。

((株)柴田代表取締役社長)

ページトップ  

 鎌倉幕府の第三代将軍であった源実朝は12歳のときに兄頼家(二代将軍)が殺害されたため若くして将軍職を襲いたのだが、実朝自身も28歳のときに、鶴岡八幡宮の銀杏の陰に潜んでゐた甥の公暁に殺された。近年、この大銀杏が台風によって倒れて話題になったことがある。頼朝亡きあと、頼家、実朝と相次いで非業な死を遂げてゐた。かうしたことからも解るやうに実朝が生きた時代は公家から武家へと大きく転換しようとするなかで世相は不安定を極めてゐた。頼朝が弟の義経を生かしておかなかったやうに肉親の相剋も凄まじかった。実朝はこのやうな境遇にゐて自分の運命を予感しつつ、少年期から青年期の多感な時期を征夷大将軍として歩んだ。その実朝の実像を彼が遺してくれた歌集『金槐和歌集』に見ることができる。

 明治時代に短歌の革新を成し遂げた正岡子規に「金槐和歌集を読む 八首」がある。

   人丸ののちの歌よみは誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝
   大山のあふりの神を叱りけん将軍の歌を読めばかしこし
   路に泣くみなし子を見て君は詠めり親もなき子の母を尋ぬると
   はたちあまり八つの齢を過ぎざりし君を思へば愧ぢ死ぬわれは
   世の中に妙なる君が歌をおきてあだし歌人善き歌あらず
   幾百とせ君の名苔にうづもれぬそれを思へばいたましきかな嗚呼
   君が歌の清き姿はまんまんとみどり湛ふる海の底の玉
   鎌倉のいくさの君も惜しけれど金 槐集の歌のぬしあはれ

 一首目。子規は病床にありながら、万葉集以降の閉塞した短歌の世界を痛烈に批判した人であるが、人丸(柿本人麻呂)以降のわが国の短歌の歴史において真に歌人と言へるのは実朝であると最大限の共感と歓喜をこのやうに表現したのであった。

 四首目は自分より若くして亡くなった実朝に比べて自分はどんなに恥かしい生き方をしてゐることか、消え入ってしまひさうだと嘆いてゐる。

 三首目の歌は『金槐集』の次の歌に答へる形になってゐる。

   いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる

 この歌の詞書には「旅の途中に幼児が母を呼んで激しく泣いてゐたので近くにゐた人にその理由をたづねたところ、この子の両親は既に亡くなってゐる、と聞いて詠んだ」とあって実朝が道端に泣く幼い孤児の身の上を知って愛しさのあまり、将軍の立場であることにもおかまひなく涙を流してゐる様子が何の衒ひもなく表現されてゐる。

 実朝の「いとほしや」「見るに涙もとどまらず」といふ純朴で飾り気のない真情を、子規はそのまま七百年の時を超えてしっかりと受け止めてゐる。人と人との「真心」は時空を超えることができる。歴史への共感とはこのやうなものであることを学ぶことができる貴重な事例ではないだらうか。

 二首目の歌も、左の『金槐集』の歌を承けたものであらう。

   時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめ給へ

 この歌は青年将軍実朝の20歳の時の作といはれてゐる。「大山のあふりの神」とは、相模国の大山阿夫利神社の御祭神のことで、大山は古来雨を降らす神の鎮まる山とされてきた。

 農作物にとって適度な降雨はそのまま慈雨となるが、大雨や洪水は大災害である。大雨が降り続いた時に実朝は将軍としての責任と自覚とに揺れ動く心のままに「雨やめ給へ」と一心に念じたのである。

 子規はこの歌を評して「このようないきおいが強くおそろしい歌はまたとなく、八大竜王(雨を降らす神様)をしかりつけるところは、竜王も降参しさうな勢ひが出てゐる」と言った。

       あら磯に浪のよるを見てよめる
   大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも

 この歌は『金槐集』の中の秀歌として取り上げられることが多いが、それは下の句の浪の動きを四つの動詞を畳み込んで巧みに表現してゐるところにある。

   アララギ派の歌人、斉藤茂吉は、

  大海の磯にとどろき渡って寄せてくる浪は、われてくだけてさけて飛散する。その強烈に、雄大な光景はまことに心地よいといふのであって、(『金槐集』)の中でも)珍重すべき緊張した歌である」

と賛嘆してゐる。

 しかしながら、文芸批評家の小林秀雄の評価はまったく異なってゐる。

  「かういふ分析的な表現が、何が壮快な歌であらうか。…青年の殆ど生理的とも言ひたい様な憂悶を感じないであらうか。…自分の不幸を非常によく知ってゐたこの不幸な人間が、ある日悶々として波に見入ってゐた時の彼の心の嵐の形である」

と指摘した。

 実朝の背負ってゐる境遇に思ひを馳せるとき、この小林秀雄の言葉は誠に鋭いものに思はれてくる。

   山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心わがあらめやも

 この歌は『金槐集』の最後のものである。当時の太上天皇(後鳥羽上皇)からお手紙をいただいた時の実朝の喜びの心情が吐露されてゐる。「よしんばこの世に山が裂け散り、大海が乾き涸れるやうな天変地異が起らうとも、大君(天皇)に対してふたごころ(反逆の心)をいだくやうなことは絶対にありませぬ」といふ忠義の心を表してゐる。

 この天皇への真情を詠みあげた歌を小林秀雄は少々難解な表現ながら「金槐集は、この有名な歌で終ってゐる。この歌にも何かしら永らへるのに不適当な無垢の沈痛な調べが聞かれるのだが、彼の天稟(才能)が、遂に、それを生んだ、巨大な伝統の美しさに出会ひ、その上に眠った事を信じよう」と書いてゐる。

 「巨大な伝統の美しさ」とは何か。それはわが日本の国に営々として受け継がれてきた天皇と国民とが信頼の絆でむすばれてゐる国柄のことである。鎌倉時代以降、行政権限が武家に移ってから、明治維新にいたるまでの七百年近くの間、これほど率直に皇室に対して敬愛の念を示した将軍が他にゐたであらうか。

 実朝のこの歌は征夷大将軍の歌として千古の光を放ってゐる。

(本会事務局長、元東急建設)

 

廣瀬誠著(国文研叢書32)『和歌と日本文化』(頒価800円 送料210円)

 萬葉の大山脈が大きくうねって傾き、天平宝字3年正月5日、万感こめた家持ちの賀歌を最後として地平に没したあと、萬葉の調べは絶えた。平安時代の和歌は『古今和歌集』を原点として展開し、その余勢は近代まで続いてゆく。/その地平を破って突如噴出し、萬葉の調べを天高くかなでた大山塊があった 。子規が、萬葉以来・人麻呂以来の第一人者と激賞した源実朝だ …。

ページトップ  

 最後の試験も終り、今春から大学時代を過した横浜を離れ故郷の長野県佐久市に帰り、社会人としての一歩を踏み出します。

 そして、それに伴って働き方とは何なのだらうかとか、どのやうな心構へで社会人生活を送って行かうかと考へてをりますが、現在ははっきりした答へはありません。しかし、必ず答へにたどり着けるものと思ってゐます。理由は、大学生活の多くの時間を過した国民文化研究会(国文研)があったからです。国文研では、夏の全国学生青年合宿教室や、地区別の定期的な勉強会などを通して新たな発見や考へ方を得ることができました。以下、それぞれの勉強会で得たことを振り返ってみたいと思ひます。

       青雲会

 私が、国文研の勉強に加はるきっかけは青雲会といふ読書会に顔を出したことからでした。大学2年生の5月、小学生からの友人である高木悠君(現、東京大学大学院二年)に誘はれて、正大寮で行はれてゐた『古事記』の輪読会に参加したのです。

 当時、私が『古事記』について知ってゐることはほとんどなく、日本史の授業で書名を聞いたことがある程度で具体的な内容などは何も分らず、誘はれた時「参加するよ」とは言ったものの少し心配になってゐました。なぜ『古事記』を読むのだらうかといふ気持ちもありました。

 しかし、実際『古事記』を読んでみると、その内容は人間味に溢れ、遙か昔の出来事であるのに登場人物の行動に共感できるものがありました。そのためこのやうな素晴らしい文章が日本に古くからあることに驚きました。加へて、さらに他の古典を読んでみたいといふ気持ちにもなりました。

 元来、青雲会の世話役は高木悠君でしたが、昨年の九月以降は私が引継ぎ世話役といふか連絡係の立場で青雲会に関りました。当日は予習をして臨み、会の進行も務めました。次回の予定をメールで送ることもしました。学生だけでなく、社会人の方々も参加する青雲会の運営に係った経験は私に緊張感や責任感を持たせ、人としての成長につながりました。

       国文研塾

 国文研塾は、小柳志乃夫先輩や北濱道先輩が中心になって学生に呼び掛けて行はれる勉強会です。おもに吉田松陰関連の文章を読みました。そのなかで多くの時間を割いたのは「講孟箚記」でした。理解するのにかなり大変でしたが、松陰のどの文章もかっこよく感動しました。

 とくに、松陰が弟子の入江杉蔵に送った次の文章はとても印象に残ってゐます。

  「杉蔵往け、月白く風清し、飄然馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦すべし。今日の事誠に急なり。然れども天下は大物なり、一朝奮激の能く動かす所に非ず、其れ唯だ積誠之を動かし、然る後動くあるのみ」

 これを読んだときは、誠について考へ、積誠とはどういふことだらうかと長く考へました。もちろん、「酒も飲むべし、詩も賦すべし」といふ部分も強く印象に残ってゐます。

これからも吉田松陰の文章を読んで行きたいと思ひます。

       短歌の会

 短歌は、難しいものと思ひ込んで敬遠してゐました。しかし、澤部壽孫先輩や「詩も賦すべし」といふ松陰の言葉に後押しされて詠みました。短歌の会に提出した自分の作品が添削されたのを読んで、なるほど素直に自分の気持ちを詠むとはかういふことを言ふのかといふことが分って来ました。この様なことを気づかせてくれる勉強会に参加できて、大変に嬉しく思ってゐます。

       全国学生青年合宿教室

 全国学生青年合宿教室では、日頃の地区別勉強会と違って宿泊を伴ってゐましたから、十分に時間をかけて、多くの学生からいろんなことを聞けて非常に勉強になりました。

 また、昨年の厚木で行はれた合宿では、導入講義でお聞きした庭本秀一郎先生の仕事に対する姿勢は今後の参考にしたいと思ひました。

 主な活動として四つを挙げましたが、このほかに國武忠彦先生の「小林秀雄講読会」、青山霊園や多磨霊園の散策など、多くの先輩方に指導していただいて充実した学生生活を送ることができました。今後、社会人になっても勉強を怠らずに生きて行きたいと思ひます。そして、国民文化研究会の会員として日本の文化・伝統が続いて行くよう研鑽して行きたいと思ひます。

ページトップ  

       赤坂城の戦ひ- 河内の武将楠正成、

   鎌倉幕府軍と戦ふ

 菊水の旗二流れ松風吹き靡かせて楠氏現はる
 東西の山の木陰ゆ烟嵐を巻きて現はれし兵三百騎 ※煙嵐(もや)
 馬歩ませ静かに寄する三百騎を東国勢は怪しみ眺めし
 鬨を上げ雲霞のごとき東国勢三十万騎に駆け入り行きぬ
 東西南北四方八面を切り廻る魚鱗懸の楠勢は  ※魚鱗懸(先が尖った陣形)
 不意衝かれし東国勢は僅かの敵に驚き騒ぎて敗走せしと
 東国勢を大混乱に陥れし楠氏のつはもの鬼神のごと見ゆ
 千早城の戦ひ- 楠正成再挙、籠城戦

   百日に及び、鎌倉幕府滅ぶ

 正成の籠りし城を落さむと幕府勢百万押し寄せ来たり
金剛山の麓二三里は敵兵の充ち満ちたりて尺寸の地なし ※尺寸(わづか)
一面に旗翻る秋の野のすすきの原に風吹き渡るがに
大軍の剣戟陽に映え輝きて暁の草にしく霜のごと ※剣戟(剣、矛)
援軍なくいつ終るともなき戦ひを続けし主従の絆偲ばゆ
千人の小勢に手こずる有様にをちこち味方の挙兵広ごる
「足利殿裏切り」の報せに千早城を囲みし軍勢逃げ去り行きぬ
勝つ望みなき籠城を百日の間戦ひ抜きたり猛き兵

 ※ 12月6日(金)夕方〜8日(日)昼に開かれた「京都冬合宿」- 学生八名、会員5名- で、『太平記』の講義を担当。久しぶりに読み、心が躍りました。

(大阪府立枚方高等学校教諭)

 

皇居勤労奉仕の御案内

今秋も10月中旬の4日間に勤労奉仕を予定してをります。参加を希望される方は、3月15日(必着)までに、事務局(澤部壽孫)までお申し込み下さい。

FAX 03(5468)1470  メール sawa123@jcom.home.ne.jp

 

「建国記念の日」を迎えるに当たっての安倍内閣総理大臣メッセージ

「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨により、法律によって、設けられた国民の祝日です。

この祝日は、国民一人一人が、我が国の今日の繁栄の礎を営々と築き上げた古からの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を誓う、誠に意義深い日であると考え、私から国民の皆様に向けてメッセージをお届けすることといたしました。

 古来、「瑞穂の国」と呼ばれてきたように、私達日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣を祈り、美しい田園と麗しい社会を築いてきた豊かな伝統があります。

 また、わが国は四季のある美しい自然に恵まれ、それらを生かした諸外国に誇れる素晴らしい文化を育ててきました。

 長い歴史の中で、幾たびか災害や戦争などの試練も経験しましたが、国民一人一人のたゆまぬ努力により今日の平和で豊かな国を築き上げ、普遍的自由と、民主主義と、人権を重んじる国柄を育ててきました。

 このような先人の努力に深く敬意を表すとともに、この平和と繁栄をさらに発展させ、次の世代も安心して暮らせるよう引き継いでいくことは我々に課せられた責務であります。

 10年先、100年先の未来を拓く改革と、未来を担う人材の育成を進め、同時に、国際的な諸課題に対して積極的な役割を果たし、世界の平和と安定を実現していく「誇りある日本」としていくことが、先人から我々に託された使命であろうと考えます。

 「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、改めて、私達の愛する国、日本を、より美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにしています。

 国民の皆様におかれても、「建国記念の日」が、我が国のこれまでの歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、自信と誇りを持てる未来に向けて日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします。

   平成26年2月11日 内閣総理大臣 安倍晋三

(首相官邸ホームページから)

 

 編集後記

 やや時期を逸するが、安倍首相のメッセージを掲げた。2月11日夜7時のNHKニュースは例年の如く都内での奉祝と反対の集会を「同列」に扱ってゐた。「報道の中立」を装った反対派への肩入れといふ他はない。例へば道路拡張工事に関する賛成反対とは訳が違ふ。「建国記念の日」にわざわざ反対集会を開くとは反体制の極みの革命運動ではないか。しかも参加人数はどう見ても十分の一以下だ。
(山内)

ページトップ