国民同胞巻頭言

第627号

執筆者 題名
理事長 上村和男 総理の靖国神社参拝を切望す
- 「憲法改正」を確かなものとするために -
加来 至誠 交流と回帰
- 祖国日本に帰り来て -
布瀬 雅義 「反日」で漢字まで追放した韓国
- 日本が普及させたハングルにしがみつく「倒錯」 -
山内 健生 合宿教室で学んだこと
「国のいのち」を感じ取ったことで気持ちが楽になった
高知新聞社刊 税別1,740円
祖父たちの戦争高知連隊元兵士の記録

 第二次安倍内閣の発足(平成24年12月末)から一年余りが経過した。改めて三年余に及んだ民主党政権の非道さを実感してゐる。よくもまあ三年も保ったものだとの思ひとともに、三年で潰れて本当に良かったとの思ひが一年余り経った今も胸の中で渦巻いてゐる。

 言ひたいことは山ほどあるが、「靖国神社には参拝しないと内閣で申し合せた」などと閣僚が麗々しく記者団に語ったのが民主党内閣だった。この閣僚は一体、どこを向いて発言してゐるのか、と腹立たしかった(それでも野田内閣では二閣僚が参拝したが)。自民党政権も、結果的には似た面がなくもない。しかし、首相や官房長官が積極的に参拝自粛を呼び掛けるやうなことはなかった。

 鳩山- 菅- 野田と三代に渡った民主党内閣は、中韓両国に対して外交原則から外れた迎合的姿勢を見せた。自民党政権の対中韓外交にも問題がなかったかと言へば、必ずしもさうとも言へないのだが、民主党政権の場合は遙かに常軌を逸してゐた。鳩山首相は北京で「これまで米国に依存しすぎた。アジア重視で行きたい」と妙な大風呂敷を広げ、菅首相はわざわざ「『朝鮮王室儀軌』をお渡ししたい」と言って図書協定を結ぶ媚態を示し、野田首相に至ってはその一部を持参して大統領に手渡した。その返答が翌平成24年8月の大統領の竹島上陸であり、陛下への非礼発言であった。

 尖閣海域での領海侵犯も民主党政権下で頓に増えた。侵犯をくり返す中国公船は、退去を勧告するわが巡視船に向って、「我らは職務を遂行してゐる。日本船こそ退去すべし」と露骨に応答する事態となってゐる。中国漁船による巡視船体当り事件では逮捕したはずの船長を無罪放免し、体当りの証拠映像を「隠し」たことで与し易しと見られたのである(ロシア大統領による国後島上陸を許したのも、民主党政権の時であった)。

 なぜ今あらためて、その「負」に論及したかと言へば、何よりも国の尊厳を守らなければならないと考へるからである。著しく「国の尊厳」が傷ついたのが民主党内閣時代だったと考へるからである。そのことをもう一度確認することで他山の石としたいのである。

 かつて大長編『ローマ人の物語』の著者・塩野七生女史は「もしも小泉首相が今年も靖国参拝を決行すれば、日本と中国と韓国ではニュースになるだらう。しかし、止めれば、世界中のニュースになるだろう」(『文藝春秋』平成17年8月号)と述べた。この小泉内閣以降、8年余りの間、総理の靖国神社参拝が途絶えててゐる。「自民党政権も、結果的には似た面がなくもないが…」と前に記した通りである。さうした中で安倍首相が参拝したら、ぜひ参拝して貰ひたいが、今度は「世界中のニュースになるだろう」。日本もまともな国になるのかと世界は思ふはずだ(恒例となってゐた総理の靖国参拝に対して中韓が何か言ひ始めたのは昭和60年からで、それに「配慮」したのだから情けない)。

 先の国会で特定秘密保護法が成立した。まともな自立国家への第一歩と言っていいものだらう。これは同じく設置法が国会を通ってゐた「国家安全保障会議」(日本版NSC)と相俟って、軍事、外交、テロ、スパイ関連の情報など絶対に漏れてはならない情報の「機密レベルや取り扱いルールを定める」といふもので、同様の法律は諸外国にもある。国民の生命と財産を守るため、同盟国友好国のNSCと情報を共有して協力に遺漏なきを期すためのものだ。

 かうした法整備が大切なことは言ふまでもないが、運用するのはあくまで人間である。正しい国家観と歴史観の持ち主でなければならないが、ごく自然に粛々と戦歿同胞の慰霊が行はれるやうな国情であってこそ、真っ当な判断力が広く行き渡ることになる。それはまた世界の国々から真の信頼を勝ち得る途でもある。

 日本版NSC設置によって、「集団的自衛権の行使」容認が当然視野に入ってくるだらう。さらには憲法の改正も避けられない。憲法改正が単なる字句の修正でいいはずはなく、根柢に自国の歴史への愛情がなければならない。これらに通底してゐるのが、総理の靖国神社参拝である。それはまた国民教育の根源でもある。年初に当りその実現を強く願ふものである。

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 私は去る8月末、15年に及ぶ在外勤務を終へて帰国し、9月に退官しました。昭和48年4月に外務省に入って以来40年余、やうやくゴールインすることができました。この間、多くの方々に支へられ、励まして頂きました。深い感謝の念を覚えずにはをられません。

 私はこの40年余の外交官生活の中で9つの国に住みました。アメリカ、カナダ、フィンランド、ニュージーランド、オーストラリアといふ五つの先進国、そしてインドネシア、ケニア、中米のエルサルバドルそしてホンジュラスという四つの発展途上国です。

 本稿においては、特命全権大使として最後の二年余を過ごした中米ホンジュラス共和国での務めと生活を振り返りながら、ホンジュラスで私が考へた日本の使命といふことについてお伝へしたいと思ひます。

     ホンジュラス共和国の現状

 ホンジュラスは、北米大陸と南米大陸を結ぶ中米地域のほぼ中央に位置します。人口は約800万人、国土の広さは約11万平方キロメートルで日本のほぼ3分の1弱です。言語は他の多くの中南米諸国と同様、スペイン語です。ホンジュラスは太平洋と大西洋に面し、美しい海岸線と大いなる山並、そして肥沃な平野に恵まれ、豊かな可能性を感じさせる国ですが、現実は厳しいものでした。

(1)まづ目につくのは、貧しさであり、富める者と貧しい者との格差でした。一人当たり国民所得はおよそ2千ドル、日本のほぼ20分の1です。首都テグシガルパには富裕層が暮らす地域や、大きなショッピング・モールや立派な病院や大学もありますが、しかし貧しい人々も多く、首都をめぐる山地には粗末な住居が軒を連ねて建ち、貧しい人々が身を寄せ合って暮らしてゐる地区がいくつもあります。

 地方を訪ねると水道も電気もないといふ村も少なくありません。そのやうな村の一つ、サバナベルデ村に、日本大使館の草の根無償援助で電気を通すことになり、私はその引き渡し式に参加するために村に赴きました。車で行けるところまで行き、あとは道路がないので40分ほど馬に乗って山を越えて入るとのことでしたが、馬は見当たらず、結局歩いて山道を行きました。三十分ほど行ったところで馬が待ってゐました。村では人々の大歓迎を受け、引き渡しの式典が始まりました。冒頭、両国国歌が演奏されるのですが、君が代は機械の不調で音が出ません。私は意を決しアカペラで大きな声で君が代を歌ひました。

 人々が貧しさから抜け出すためには、働く機会、雇用の増大が必要です。そのためには経済が発展しなければならず、力強い投資活動が必要ですが、これが動き出してゐません。またこの村の場合のやうに車が通る道路が通じてゐなければ、農産物を市場に運ぶことも困難です。道路・電力等のインフラが足りません。

(2)凶悪犯罪が多いことには心が痛みました。統計上、ホンジュラスは殺人事件犠牲者数が率にして世界最悪です。2011年そして2012年において年間の犠牲者数は10万人当たり85人前後、一日に約20人が犠牲になりました。テグシガルパ市内には銃を構へた警備員の姿が目立ちます。通りを歩くことはお勧めできません。旅行中の日本人大学生がショッピング中に後ろから頭を拳銃で殴られ金品を奪はれたり、在留邦人夫妻が富裕層の住む住宅地域を車で移動中に強盗に襲はれ、ご主人が傷を負ひ金品を奪はれたりしました。

 治安悪化の背景には、近年、国際犯罪組織が南米から北米に軽飛行機や船で麻薬を運ぶ中継地としてホンジュラスをますます利用するやうになったこと、マラスと呼ばれる青少年ギャング団の活動が活発になったこと、警察・司法部門が犯罪組織に買収されるなどして、十分な捜査・取り締り、公正な裁判が難しくなったことなどの事情があります。

 政府は腐敗した警察組織を立て直すために努力してゐますが、容易ではありません。国民は警察を信用してゐません。

(3)生活環境に目を向けると、市内の色々な場所にゴミや生活廃棄物が投げ捨てられてゐます。古いバスやトラックが黒い排気ガスをまき散らしながら走ってゐます。市民が憩へるやうな公園はほとんどありません。街の中に花壇を見かけることもありません。公共の場所に花壇などつくっても花が盗まれてしまふのださうです。

     新しい動きと日本の協力

 しかし一方で、私はこの国の中で依存から自立へ、相互不信から協力へ、と新しい動きが現れ始めてゐるやうに感じました。そして日本はそこで大切な役割を果たしてゐると思ひました。いくつかの例を挙げます。

(1)日本から約70人の海外青年協力隊・シニアボランティアが派遣されてゐました(現在は治安悪化により半減)。その多くの方々から、現地の同僚との間でよいパートナーシップを築き働いてゐたこと、その同僚たちが一生懸命働いてゐたことなどを聞きました。

(2)農村開発は重要な課題で、日本の協力を通じ、農民への技術指導がより重視されるやうになり、農民たちが協力して仕事にいそしむ仕組みが徐々に広がってゐます。そして地方自治体が地元の人々にもっと目を向け、その考へ方を尊重し、共に開発に取り組むといふ手法が国内で広り始めてゐます。

(3)岡山市に本部を置くAMDA(医療保健分野を中心に援助を行っているNGO)は、ある地方都市に日本の無償援助資金を活用して出産を控へた女性のための「妊婦の家」(山間部に住む妊婦に都市の施設での出産を促すための一時滞在用施設)を建設しました。私はその開所式の挨拶の中で、出産を控へこの施設で過す方々が花を見ながら心穏やかに過せるやうに花壇を設けてはと呼びかけたところ、地元の方たちがこの構想を具体化し始めました。

(4)日本の無償資金協力として実施されたテグシガルパ郊外における地滑り防止のための大規模なプロジェクトが去る八月に完成しました。

 これは地深く掘った井戸に地中に張り巡らしたパイプを通して水を集め、地滑りの危険を緩和するといふ中南米で初めてのものですが、施工企業(安藤・間組)は現地側技術者の養成に力を入れてゐました。その結果、二人のホンジュラス人技術者が、中米における先進国といってよいコスタリカの地質学会に招かれ、プロジェクトを通じて学んだことを発表するといふ展開になりました。

 このやうな動きは始まったばかりですが、私はここに重要なヒントがあるやうに思ひます。すなはちこれらの動きは、日本が介在する中で、ホンジュラスの人々が自らの潜在的力に目覚め、お互ひに協力しながら事態をよりよくするために主体的な努力を始めた、といふことを象徴してゐるやうに思はれるのです。

 確かにホンジュラスの抱える問題は複雑です。しかし右のやうな動きが広がっていくならば、徐々にホンジュラスの国はよくなっていくとの希望を私は持ちます。

     今あらためて仰ぐ太子のみ教へ

 そして日本は、そのやうな人々の志を理解し、その努力を温かく見守り、人々を励ましていく、といふ態度で関っていくことが大切であると考へます。なぜならば、そのやうな長い目で見ながら人のまごころを信じるといふ態度こそは、古来、日本人が尊んできた生き方であり、これからも大切にしていかなければならないものであると思ふからです。

 古代日本を混乱から救ひ、新しい日本の文化を花開かせ、今に至るまで多くの日本人が深い尊敬の念を抱く聖徳太子はかう述べられました。

  「人にはそれぞれ個性があり、我欲もあるのでお互ひの間に争ひが 生じるのも無理はないが、和らいだ心で話し合ひをすればきっと調和が生まれ道理が通じる。さうすればいかなることも成し遂げることができるだらう」

 これは17条憲法の第1条の冒頭「和を以て貴しとなす」に続く言葉を私なりに解釈したものです。

 聖徳太子は、ここに人としての生き方に基づく日本の国の理想を掲げられました。聖徳太子は、「違ひやいさかいがあるからこそ、それを超えて達成される調和や平和は一層、尊いものとなる。そしてそれは和らいだ心での対話を通じれば実現可能なのだ」と言ってをられるやうでもあります。聖徳太子は、我欲や歪みを免れがたい私共一人ひとりの心を直視された上で、なお仏性霊性を信じ、心の転換と物事の成就、事態の開展への希望を宣明されました。私は、聖徳太子が掲げられた国の理想は古代のみならず、現代においても、そして未来においても妥当するものと思ひます。そしてその理想は世界に通用するものであると思ひます。

 私にとって、ホンジュラス在勤はそのやうな聖徳太子の理想を胸深く抱いての2年4ヶ月でありました。

 「衆生の在る所至らずといふ所なし。故に衆生の類是れ菩薩仏土と云ふなり」(黒上先生の御本『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』125頁)のお言葉を想起すると元気になりました。

 若い頃の私にとって「菩薩」とは、御本の中の言葉でありました。しかし、かつて外交官生活における危機の時期に真の人間学を説かれる宗教家・高橋佳子氏との出会ひを通じて「菩提心とは本当の自分を知り、他を愛し、世界の調和に貢献する心」とご教示いただき、中米ホンジュラスにおいて40年の外交官生活を締め括ることとなった私にとって、聖徳太子が説かれた「菩薩」の理想は観念の域を超えて私の心身を駆け巡り、私を支へ導くものとなりました。

 私は菩薩の道といふ、わが人生をかけてめざす道を志す歓びを教へられました。

 私はあらためて学生時代に国民文化研究会の諸先生方また諸先輩、友人皆様とのご縁をいただき、聖徳太子との邂逅を恵まれたことの幸を想ひ、御厚恩に深く感謝申し上げます。

 菩薩の道の理想、それは一人ひとりの日本人の志にとどまらず、新しい時代そして世界に臨む日本の使命であると私は確信してをります。

(前ホンジュラス駐在特命全権大使)

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     ハングル表示で待たされる

 先日、関西空港からパリへ飛び立たうとした折、手荷物検査場の入口にあった各便の出発ゲート番号を示す電光掲示板で、自分のフライトを再確認しようとした。ところが、その表示がハングルで、なかなか日本語に切り替らない。「なんでハングルまで表示する必要があるんだ」と不愉快な思ひをしながら待たされてゐる時間は実に長く感じられた。

 やうやく日本語に表示が変って、手荷物検査と出国処理を終へて、ゲートまで往復するシャトル便に乗らうとすると、そこにもゲート番号を表示する電光掲示板があった。一人の男性白人客がそれを眺めながら、じっと待ってゐる。その時の表示は中国語だった。

 英語表示を見るには、最悪、日- 韓- 中と三倍もの時間、待たされることになる。急いでゐる客だったら、いらいらして「こんな空港、二度と使ってやるものか」と思ふだらう。

 外国人用の案内は英語だけで良い、といふのが国際常識である。中国語、韓国語を入れて「おもてなし」をしてゐるつもりだらうが、他の国々の人々にはかへって迷惑をかけてゐることに気づくべきだ。近隣諸国を大切にといふなら、なぜ、台湾の正漢字、フィリピンのタガログ語、ベトナム語、タイ語、マレー語、インドネシア語などの表示はしないのか。

 世界には無数の言語があるから、各国民を平等に扱はうとすれば、結局、実質的な国際コミュニケーション言語である英語で表記するしかない、といふのが国際社会の智恵なのである。

     日本語そのままの用語

 ハングルで書かれると日本人にはチンプンカンプンなのだが、もともと朝鮮半島は漢字圏だったので、漢字で書いてくれれば、理解できる用語は多い。

 窓口(チャング)、改札口(ケーチョング)、入口(イブク)、出口(チュルグ)、乗換(ノリカエ)、踏切(フミキリ)、横断歩道(ヒンタンポド)、手荷物(ソハムル)、大型(テーヒョン)、小型(ソヒョン)、受取(スチュイ)、取扱(チュイグプ)、取消(チュイソ)、割引(ハルイン)、行方不明(ヘンバンプルミヨン)、弁当(ベントー)等々。

 何の事はない。漢字で書いてくれれば、旅行者も大抵の用は済みさうだ。しかし、なぜ、こんなに日本語と似た単語が使はれてゐるのか。豊田有恒氏は著書『韓国が漢字を復活できない理由』で、かう述べてゐる。

  「韓国の漢字熟語は、中国起源でなく、日本統治時代に日本語からもたらされたものである。明治以来、欧米の文物の摂取に熱心に取り組んだ日本は、論理、科学、新聞など多くの訳語を案出した、これらの訳語が、韓国ばかりでなく、漢字の本家の中国でも採用されていることは、よく知られている。」

 たとへば鉄道関連用語は、日本人が欧米の鉄道を導入する際に案出し、日本統治時代に朝鮮において鉄道が敷かれるのと同時に移入された。だから、同じ用語が使はれるのは、当然なのである。多くの用語は、日本語から漢字のまま移入され、韓国語の漢字の読み方(発音)で読まれた。だから、日本語の音読みに近い。窓口(チャング)は日本語の音読みなら「ソウコウ」、受取(スチュイ)は「ジュシュ」、行方不明(ヘンバルプルミヨン)は「コウホウフメイ」と、似通ってゐる。ただ乗換(ノリカエ)、踏切(フミキリ)などは、どういふわけか、日本語の訓読みがそのまま残ってゐる。

     漢字語の八割以上が和製語

 豊田氏は、現在、韓国で使はれてゐる漢字語の八割以上が日本製だと指摘してゐる。特に、日本統治時代に政治、科学技術、企業経営、スポーツなどの近代化が進んだので、それらの分野の専門用語はほとんどが日本語起源である。

 たとへば、科学・数学の分野…科学(カハク)、化学(ファハク)、物理(ムルリ)、引力(イルリョク)、重力(チュンニヨク)、密度(ミルド)、組成(チョソン)、体積(チェジヨク)、加速度(カソクト)、電位(チョスイ)、電動(チョンドウ)、元素(ウォンソ)、原子(ウォンジャ)、分子(プンジャ)、塩酸(ヨムサン)、算数(サンスウ)、代数(チースウ)、幾何(キハ)、微分(ミブン)、積分(チョクブン)、函数(ハムスウ)等々。

 経営関係では…社長(サジャン)、専務(チョンム)、常務(サンム)、部長(ブジャン)、課長(カジャン)、係長(ケジャン)、打合(ターハブ)、手続(スソク)、組合(チョハブ)、株式(チョシク)、売上(メーサン)、支払(チブル)、赤字(チョクチャ)等々。

 韓国は、これらのすべての用語を日本語から借用し、それで近代科学技術を学び、近代的な企業経営を始めたのである。

     漢字廃止で同音異義語の羅列

 科学技術から企業経営、交通や法律・政治まで、近代的用語がほとんど和製漢字語で取り入れられてゐるのに、漢字を廃止して、ハングル表記するとどうなるか。

 日本語以上に韓国語は複数の漢字が同じ読みを持つから、同音異義語の羅列となってしまふ。

 たとへば、長、葬、場はすべて「ジャング」なので、会長、会葬、会場はすべて「フェジャング」と同じ発音になる。「会長が会葬に会場に来た」は、「ヘジャングがフェジャングにヘジャングにきた」となってしまって、これでは文脈から判断するのも難しい。話し言葉ならまだしも、書き言葉でこれでは、物事を正確に伝へるには大きな障害となる。

 神社も紳士も「シンサ」なので、「ヤスクニ・シンサ(靖国神社)聞いたことある?」と聞かれた若い女性が「偉人かな」と答へたさうな。「ヤスクニ紳士」と間違へたのだ。確かに日本人にとっては偉人を祀った神社ではあるのだが。

     ひらがなだけの文章の読みにくさ

 従って、書き言葉から漢字を追放したら、日本語を「ひらがな」だけで書くやうな事態になる。たとへば、こんな具合である。

 おそんふぁさんによると、かんこくじんはせかいいち、どくしょりょうのすくないこくみんで、かんこくとうけいちょうのちょうさではへいきんどくしょりょうは5・3さつ/ねん。どくしょばなれがしてきされるにほんじんでもねんかんやく19さつ。かんじはいしがしゅよういんで、はんぐるだけでは、ひらがなだけのほんをよむようなもの。

 こんな文章は、よほど忍耐強い人でなければ読み通せないだらう。しかも読むスピードは何分の一かになってしまふ。

 同じ文章を漢字交じりで書けば、

 「呉善花さんによると、韓国人は世界一読書量の少ない国民で、韓国統計庁の調査では平均読書量は5・3冊/年。読書離れが指摘される日本人でも年間約19冊。漢字廃止が主要因。ハングルだけでは平仮名だけの本を読むようなもの」

となる。

 重要な言葉は漢字になってゐるので、漢字だけ追へば、だいたいの意味はとれる。ここが日本語の仮名漢字まじりの優れた処で、逆に中国語のやうに全部漢字だったら、こうはいかない。それにしても、こんな平仮名だけの本を年5・3冊も読むのは日本人には到底できない。まして仮名漢字まじりの本が存在する現実においては。逆に韓国人の個人的能力、意思力はすごいのではないか、と考へてしまふ。

     漢字は「日帝の残滓」の誤解

 それにしても、なぜ韓国はこんな便利な漢字利用をやめてしまったのか。

 漢字使用を制限したのは、戦後すぐの1948年、李承晩大統領による「ハングル専用法」である。米軍占領下で日本が抵抗できないのを見透かして、勝手に李承晩ラインを引いて竹島を奪った大統領である。徹底的な反日教育を実施して、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどの反日家であった。

 「ハングル専用法」は、「大韓民国の公文書はハングルで書くものとする。ただし、当分のあいだ必要な時には漢字を使用することができる」とした。政府の公文書のみを対象にしたものであったが、それでも、「当分のあいだ必要な時には」といふ留保をつけてゐるのは、漢字抜きは無理があると分ってゐたからだらう。

 日本統治時代は漢字・ハングル混じり文が推奨されてゐた。従って漢字は「日本帝国主義」の残滓のやうに誤解され、排斥の対象となった。逆に、ハングルは民族のシンボルとして祭り上げられたのである。

 実際に歴史を良く調べれば直ぐに分ることだが、それまで教養のない女子供の使ふ「牝文字」「わらべ文字」などと軽蔑されてゐたハングルを普及させたのは日本統治時代の教育だったのだから、ついでにハングルも「日帝の残滓」として追放すべきだった。さうなると韓民族は文字を持たない民族になってしまふのだが。

     朴正煕大統領の反日ポーズとしての漢字追放

 漢字排斥をさらに推し進めたのが、韓国中興の祖とされる朴正煕大統領だった。朴大統領は国民の反対を押し切って、日韓基本条約を締結したが、日本寄りと見られることを避けるために、反日姿勢として、1970年前後に教育カリキュラムから漢字を追放した。しかし、これは朴大統領の反日ポーズだったやうで、片腕だった総参謀長の李在田が会長となって、「韓国漢字教育推進総連合」が作られ、まづお膝元の軍隊で漢字教育を復活させた。また、学界、言論界からの訴へを入れるといふ形で、中等教育で漢字教育を復活させた。

 しかし、その後、ハングル派の巻き返しもあって、漢字教育をやったり、やらなかったり、と朝令暮改が続き、漢字教育を受けた世代と受けてゐない世代が斑のやうになってゐる。

 いづれにせよ、漢字・ハングル交じり文は「日帝の残滓」といふ反日イデオロギーだけで、漢字追放までしてしまふのだから、その激情ぶりは凄まじい。

     和製漢字語追放による「純化」

 「反日」政策としての漢字追放は、さらに日本語起源の漢字語追放にまで進む。韓国の「国語審議会」である「国語純化文化委員会」が「日本語風生活用語純化集」を作って、七百語ほどの「日本語っぽい」単語を韓国語風に「純化」しようとした。日本語は「不純」だといふわけである。

 たとへば「売切」(メージョル)は、「みな売れること」(ターバルリム)、「改札口」(ケーチャルグ)は「票を見せるところ」(ピョ・ポイヌン・ゴッ)、「踏切」(フミキリ)は「越えるあたり」(コンノルモク)といふ具合だ。日本語で言へば、漢語を大和言葉で置き換へようとすることである。だから、「改札口を通って踏切を渡った」を「純化」表現では「票を見せるところを通って、越えるあたりを渡った」となる。

 いくら「反日」を信条とする愛国的韓国人でも、毎日、こんなまだるっこしい会話はしてゐられないだらう。折りに触れて、こういふ「純化」が試みられてゐるが、不毛の努力に終ってゐるやうである。

     「漢字・仮名交じり文が、日本人の教養と民度を高めた」

 韓国での「反日」を動機とした漢字廃止、和製漢語廃止を見てゐると、「漢字・仮名交じり文が、日本人の教養と民度を高めた」といふ豊田氏の主張もよく理解できる。

 たとへば、英語で"Cetorogy"といふ単語があるが、専門の学者でもなければ、米英の一般人は知らない単語である。しかし、これを日本語で「鯨類学」と書けば、中高生以上なら、「鯨に関する学問」だらうと想像がつく。Apicultureも同様だ。普通の米英人にはチンプンカンプンの単語だが、日本語で「養蜂業」と言へば「蜂を飼ふ仕事」だと推測できる。

 このやうに、漢字の造語能力をフルに活用して、一般大衆にも近づきやすい形で、近代的な学問、政治、科学技術の体系を構築してきたのが、幕末以降の我が先人たちの努力であった。

 中国や朝鮮は、その日本語を通じて、近代的な学問を導入した。たとへば、「中華人民共和国憲法」の中で、中国語のオリジナルな単語は「中華」しかない。それ以外の「人民」「共和国」「憲法」は、みな日本語からの借用である。だから人民主権も、共和政治も、立憲政治も、看板だけで未だに身についてゐない。

 朝鮮半島では、日本統治時代に漢字・ハングル交じり文が普及して、せっかく近代化のステップを踏み出したのに、「日帝の残滓」というイデオロギー的激情で、それを自ら拒否してしまった。

 その千鳥足ぶりと比較すると、我が先人たちの偉大な見識と努力が、改めて見えてくるのである。それを知らずに、電光掲示板でハングルや中国語で表示することが国際化だ、などとするのは浅慮といふべきで、ご先祖様が草葉の陰で泣いてゐよう。

 小学校からの英語学習が始まったやうだが、国語の読み書きの習得が何より先決であらう。授業時間は限られてゐるのだ。小学校時代は国語にどっぷりと浸る時期ではないのか。日本語で正確かつ論理的に、そして礼儀正しく丁寧な読み書きができない日本人が、いくら外国語を流暢に話しても、国際社会に通ずる人間にはなれないのである。

(参照・豊田有恒『韓国が漢字を復活できない理由』祥伝社新書)

(在イタリア 会社役員)
- 国際派日本人養成講826号 ・一部改稿 -

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 昭和40年、大学3年の夏の第10回合宿教室(大分・城島高原)に参加したことで、山路忠重兄・岩越豊雄兄らとのつき合ひが深まった。招聘講師は岡潔先生と花見達二先生だった。亜細亜大学商学部に入学以来、新聞配達をしてゐたため翌夏の合宿には行けなかったが、学内での交流は続き金田士郎兄・長谷川賢司兄・平塚俊三兄などとも良く語らった。

 4年生の12月上旬、岩越兄が寄宿してゐた自協学舎(川崎市)で持たれた2泊3日の亜大合宿には、朝刊の配達があったので日帰りで参加した。初日の夕刻、夜久正雄先生がお見えになり、夕食を共にされた先生から御講義を賜り、夜遅くまで御指導を頂いた。その後お帰りなる先生と電車で一時間余りご一緒することとなった。その折、卒業後の進路を尋ねられ、自分は歴史の教員を志望してゐるので(そのための教員免許状は亜大で取得できることになってゐたが)、他大学の文学部史学科(夜間)に編入学し、昼間、軽く働くつもりである旨をお答へした。しかし、若干の迷ひもあって、先生にはお話しなかったが、亜大職員の採用試験を受験して結果待ちの身であった。

 卒業後、夜学に通ふことにしてゐる学生がゐるといふことが、国文研事務所で人手を求めてをられた小田村寅二郎先生のお耳に入ったらしく、年が明けた一月十日の昼前と記憶するが、「デンワマツ5721526オダムラ」との電報が届き、何事かと近くの公衆電話ボックスからお電話をした。すると、卒業前で授業がないなら来週から事務所に来なさいといふことになった。小田村先生御担当のゼミ形式の小人数授業「研修」を受講してゐたし、前々年の11月には銀座の事務所に伺ってゐたので有難いことと事務所に出向いた。

 電報を頂戴した「1月10日」は、実は亜大職員試験の2次選考日(面接)だったのだが、朝刊の配達から戻って小休憩の筈が微睡み、面接には行かなかった(この日面接に臨んでゐたら、どうなってゐただらうか)。

 それから、最後の定期試験の時を除き、3月末までは朝刊の配達を済ませると事務所に出かけた。そして、4月からは「2年限定職員」といふ手書きの辞令を頂き、夜は五反田の立正大学史学科に通ふ「教員への道」の第一歩を踏み出した。

 2年後の昭和44年4月、幸ひにも志望通り高校の日本史の教員になれたが、合宿教室に参加しなかったら、どんな人生になってゐただらうかと時々考へることがある。合宿参加を契機に、大学では小田村先生の授業を受けるやうになり、また国文研の諸先輩諸友と学びを重ねる裡に政党政派の対立を超えた「国」がある、個々人の生命を包摂する歴史的な「国のいのち」があるといふことを 深く実感するやうになった。これは何よりも大きな収穫だった。

 もとより当時流行してゐた左翼思想は中学校入学の頃には既に嫌ってゐた(中学校1年生の時が勤評反対闘争のピークで、その後警職法改正問題があり、日教組がピケを張って道徳教育の講習会開催を暴力的に妨害する騒ぎもあった。中学校3年の秋から高校1年生の夏が所謂60年安保騒動であった。全学連の国会構内乱入が中3の秋で、直後の1月には新安保条約調印で渡米する岸首相の出発を阻まんと全学連が空港ビルをバリケード封鎖。また社会党の分裂- 民社党の結党- 、安保「強行」採決、ハガチー事件や東大女子学生が安保反対デモの仲間の中で圧死する事件、アイゼンハワー米大統領の訪日中止、新安保条約の自然承認…等々は昨日のことのやうに覚えてゐる。またその秋には衆院選を前に演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺されてゐる。党首の暗殺で同情票が社会党に集り「反共と議会主義」を掲げて発足した民社党は出鼻を挫かれた。三井三池の労働争議もこの頃だった。米ソ冷戦の渦中、まだ中ソは一枚岩で、「ベルリンの壁」構築もあって、それらを背景に「進歩的文化人」が空論を吹聴してゐたのが「60年安保」の頃であった)。当時、大真面目に社会党をギャフンと言はせる一言はないものかなどと考へたものだった。

 「国文研の学問」と出会はなかったら、単なる反社会党的な立場に立つ、左翼裏返しのイデオロギー人間になってゐたかもしれない。「国のいのち」を実感するやうになって、そこから物事を見ることが大事だと思ふやうになって気持ちが随分楽になったことを覚えてゐる。そして、左翼人士がなぜ自国の伝統に対して冷淡で侮蔑的なのか、その理由が自づと見えて来たし、所謂「反左翼」はそのまま「保守」ではないといふことも見えて来た。何時しか「古典」を踏まへない単なる時務論では薄っぺらなものになると考へて、国学院大の大学院に通ふべく30歳を前に夜間高校への転勤を目指してゐた。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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 本書は、先の大戦で屈指の激戦地であったニューギニアの戦ひに一人生き残った兵士がゐた。彼は戦死した戦友との約束を果すべく、昭和55年に全財産を妻子に渡して、ニューギニアに移り住み、60歳から85歳までの26年間を現地で戦歿同胞の遺骨の収容に当った。その兵士の名は高知県出身の西村幸吉氏。筆者は高知新聞社の社会部記者・福田仁氏で、同紙に平成23年1月から9月までの連載記事をまとめたものである。

 福田記者は学生時代に本会の合宿教室に参加してをり、その御縁で結婚披露宴にも招かれた。この度、福田兄の連載記事が、かうして一冊にまとめられたことを知ってうれしかった。連載中から読者の反響が大きく、それが刊行につながったらしい。本書の内容を一部紹介する。

 東部ニューギニアでの一連の戦闘に投入された陸海軍の将兵は12,500人で、そのうちの高知連隊を基幹とする「南海支隊」7,393人だったが、五5,432人が戦死した。

 「南海支隊」は昭和17年1月にラバウル(豪州領)を占領し、ラバウルは日本陸海軍の一大拠点となった。次いで連合軍の反攻の拠点であるニューギニア南岸のポートモレスビーを制圧して、制空権、制海権を掌握しようと図った。西村上等兵は、「南海支隊」歩兵第144連隊第2小隊 第5中隊第3小隊に属してゐた。ニューギニア北岸のバサブアに上陸した「南海支隊」は、17年の7月にオーエンスタンレー山脈の入口にあるココダに構築されてゐた豪州軍のココダ陣地を奪取する。バサブアからポートモレスビーまで直線で約百六十キロであるが、未開の地・オーエンスタンレー山脈(標高4,073メートル)を越えて後退する豪州軍を追尾しながら絶壁の続く道なき道を先発隊として任務に就いたのが第5中隊であった。不可能に近い「陸路攻略」に足を踏み入れ、食料の補給が期待出来ない状況下で先を急がねば餓死の危険にさらされるなか、豪州軍と戦闘しながら、西村の小隊42人は、9月にココダ街道の最高地点(2,190メートル)を越えた地点「一本木」に辿りつくが、そこで千人の豪州軍と遭遇する。この戦闘で第3小隊は壊滅し、西村も右肩を機関銃弾が貫通するが一人だけ生き残る。豪州軍の死者は少なくとも150人であった。

 傷が癒えてからは飢餓とマラリアで生と死の間を彷徨する。41人との約束を守って、西村はその極限の状況でも、「戦友名簿」を肌身離さず持ってゐた。さらに高知連隊がニューギニアから撤退してビルマの戦場に向ふ際、西村の船が魚雷攻撃を受けて沈没しても「戦友名簿」は失はれず、その後ビルマでの幾多の戦闘をくぐり抜けた末に高知に持ち帰られた。

 

「記録を取らなかったら、戦闘の意味がない。小隊長は戦争が終わったら遺族に説明しなければならない。ただ『死にました』だけでは遺族は納得ゆかないでしょう。皆死んだから、生き残った私がやるしかない」

 「みんなあ死んだから、証言する人はほかにおりません。でも郷土の新聞にこの名簿が載ったら、遺族は満足してくれるはずです。ああ、うちの死んだ者も浮かばれると得心してくれるはずです。わたしのことは、どうでもいい。だけどこの41人が向こうに命を埋めてそのまま消えてなくなるのは我慢できないのです」

 戦闘が始まると小隊長の副官的な役目をつとめた西村へ戦死の報告は逐次、口頭で伝へられ、その内容を自分の手帳に書き留め通信用の紙に走り書きして小隊長に提出した。これが「戦死者名簿」であり、死亡時刻は五分刻みで負傷状況も具体的に記されてゐる。

 西村の強い希望でこの名簿は高知新聞に掲載され多くの遺族の心を慰めることになる。

 あとは直接、本書を手にしてお読み頂きたい。兵士と遺族の心を弄ぶ戦後の風潮に新たな涙が湧き来るのを禁じ得ないはずである。

 38歳の福田記者が90歳の西村幸吉氏を埼玉県加須市の自宅に訪問したのは平成22年4月のことで、連載は翌年1月からスタートしてゐる。福田記者は二ューギニアにも行って取材してゐる。本書は「平成25年高知県出版文化賞」を受けた労作でもある。綿密な取材が評価されたわけで、多くの方々の御講読を願って止まない。

(澤部壽孫)

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お知らせ

今年の合宿教室は9月!!  9月5日から3泊4日
国立淡路青少年交流の家で

 

編集後記

 昨秋厳修の62回目の神宮正遷宮に改めて太古に連なる「現在」を知らしめられた。東京五輪を意識してか「小学校英語」の拡充策が練られてゐるやうだ。国語力こそ基礎学力であり日本人育成の要だ。先づは国語力だ。小学校英語で「心」が育つのか。時期を誤るなかれ。「根」を見失ふなかれ。

 今年もお力添へ下さい。元旦 山内健生

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