国民同胞巻頭言

第626号

執筆者 題名
内海 勝彦 「貫く棒の如きもの」
- 大正・昭和・平成の「詔」を仰ぎて -
名和 長泰 「南風競ふ」(下)- 懐良親王御陵墓へ -
今村 宏明 皇居勤労奉仕の四日間
寶邉 矢太郎 平成25年慰霊祭に参列して

 毎年、師走になると思ひ出されるのが高浜虚子の次の名句である。

   去年今年貫く棒の如きもの

 この句は昭和25年12月20日、虚子76歳の作といふ。

 去年から今年へと時は移りゆくともそれらを棒のやうに貫流するものがあるとの意味であるが、日本にとっての貫く棒、それは時代を経ても変ることのない、万世一系の皇統である。

 およそ国の文化伝統は、次世代の人々がしっかり継承してゆかうと強く思はなければ途絶えてしまふ。歴代の天皇さまはどのやうなお気持ちで皇位を継承して来られたのか、国民の一人として、大正、昭和、今上の天皇さまの践祚後「朝見の儀」(践祚後に臣下にお言葉を賜ふ儀式)で下された勅語で仰いでみたい。

   大正天皇(大正元年7月31日)

  「朕俄ニ大葬ニ遇ヒ、哀痛極リ罔シ。但タ皇位一日モ曠クスヘカラス。國政須臾モ廢スヘカラスヲ以テ、朕ハ茲ニ践祚ノ式ヲ行ヘリ。(中略)朕今萬世一系ノ帝位ヲ践ミ、統治ノ大権ヲ継承ス。祖宗ノ宏謨ニ遵ヒ、憲法ノ條章ニ由リ、之レカ行使ヲ愆ルコト無ク、以テ先帝ノ遺業ヲ失墜セサラムコトヲ期ス。(後略)」

 昭和天皇(昭和元年12月28日)

  「朕皇祖皇宗ノ威靈ニ頼リ、萬世一系ノ皇位ヲ継承シ、帝國統治ノ大権ヲ總攬シ、以テ践祚ノ式ヲ行ヘリ。舊章ニ率由シ、先徳ヲ聿修シ、祖宗ノ遺緒ヲ墜ス無カランコトヲ庶幾フ。(中略)遽ニ登遐に遭ヒテ、哀痛極リ罔シ。但皇位ハ一日モ之ヲ曠クスヘカラス、萬機ハ一日モ之ヲ廢スヘカラス。哀ヲ銜ミ痛ヲ懐キ、以テ大統ヲ嗣ケリ。朕ノ寡薄ナル、唯兢業トシテ、負荷ノ重キニ任ヘサランコトヲ之レ懼ル。(後略)」

 この二つの詔勅に共通することは、次の三点であらう。

1、皇位に一日も断絶があってはならず、国政は一瞬たりとも疎かにしてはならぬといふご意志。

2、任の重さを自覚されつつ、祖宗(天照大神に始まる歴代天皇方)の遺徳をしっかりと受け継ぐとのご覚悟。

3、憲法に従ふといふご決意。

 今上陛下のご即位後朝見の儀のおことばはどうであったであらうか。

 今上陛下(平成元年1月9日)

  「大行天皇の崩御は、誠に哀痛の極みでありますが、日本国憲法及び皇室典範の定めるところにより、ここに、皇位を継承しました。深い悲しみのうちにあって、身に負った大任を思い、心自ら粛然たるを覚えます。(中略)

 ここに、皇位を継承するに当たり、大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし、いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ、皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません。」

 ここにも昭和天皇(「大行天皇」は諡号奉告前のご尊号)の御遺徳をしかと受け継ぐとのご決意が述べられてゐる。

 今上陛下は、ご即位20年に際しての記者会見(平成21年11月6日)で、「私は、この20年、長い天皇の歴史に思ひを致し、国民の上を思ひ、象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ、今日まで過ごしてきました」と述べられた。

 折しも宮内庁から御陵、御葬儀の簡素化の概要が発表されたが「極力国民生活への影響の少ないものとするのが望ましい」との陛下のご意向とのことである。誠に畏れ多いことである。陛下には今の時代の国民生活や社会の変化に配慮される一方で、時代を超え、はるか悠久の昔から続く変ることなき歴代天皇のお姿を仰いでをられるのであらうと拝するばかりである。それはいかなる時も常に国民と共にと願はれるお姿である。私にはそれが時代は移りゆくとも決して変ることのない、日本の歴史を貫く、太く、尊い棒の如くに思はれるのである。

((株)HIエアロスペース)

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     大刀洗飛行場

 本校は、校歌で「高良山下の学園に…」と歌ひ始めるとほり、間近かに高良山がある。校門から小一時間も歩けば高良大社に着く。さらに10分も進めば山頂の森林公園に着き、北側の眺望が開ける(下の写真は二枚を接続)。ここが延文四年(1359)「大保原(大原)合戦」・「筑後川の戦ひ」が戦はれた場で、まさに征西府毘沙門岳城付近から眺めてゐることになる。

 中央を右(東)から左(西)へ筑後川が流れる。「あ」は懐良親王が陣を敷かれた宮ノ陣で、宮ノ陣神社には将軍梅がある。その右に九州自動車道が南北に走ってゐる。「い」は基肄城址がある基山、「う」は大宰府政庁跡、「え」は宝満山、「お」は合戦に勝利した菊池武光公が太刀を洗った太刀洗である。大刀洗公園には馬を下り、太刀を洗ふ菊池武光公の銅像がある。この銅像は戦前に設置されたもので空襲で受けた弾痕がある。

   (語注)「大刀洗」は明治期に太刀を「大刀」と誤記して官報に記載されたため公用されてゐる表記。

 大刀洗には大正5年(1916)に陸軍の大刀洗飛行場が作られ、以来次第に規模を拡大し、大正14年(1925)には日本最大の航空部隊が駐屯することとなる。

 昭和初頭には国内と朝鮮・大陸を中継する航空基地となり、郵便・貨物・旅客の輸送を担ふだけでなく、日本最大の航空教育隊もあった。昭和19年1月には特攻隊も編成された。ところが昭和20年(1945)3月末、米軍による大規模な空襲を受け壊滅的な被害を被る。菊池武光公銅像の弾痕は、この空襲の際のものと考へられてゐる。

 大戦末期の特攻基地として鹿児島県知覧が有名である。本校中学生も鹿児島方面への「校外学習」に出かけ、鹿児島市内やJAXAの内之浦宇宙空間観測所などを訪問するが、知覧特攻平和会館は毎年訪れる。会館のホームページによると昭和16年(1941)大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が設けられ、連日隊員の訓練を重ねたが、国際情勢が次第に緊迫し険悪となるにしたがひ、遂に昭和20年3月本土最南端の航空基地として陸軍最後の特攻基地になった。

 終戦間際、太刀洗駅からは多くの特攻隊員が出撃基地・知覧へと出征した。昭和60年(1985)国鉄甘木線が廃止され、無人化で取り壊しになるところだった太刀洗駅の駅舎を借り受け、昭和62年(1987)私設「大刀洗平和記念館」が開設された。地道に蒐集された特攻隊員の遺品は平成21年(2009)新たに開館した「筑前町立大刀洗平和記念館」に移管、展示されてゐる。

     懐良親王の英魂

 懐良親王(1329?- 1383)の御生涯は次のやうな記述がある。

 第96代後醍醐天皇(1288 - 1338・御在位1318 - 1339)の皇子で、足利尊氏離反にあたり、延元元・建武3年(1336)まだ幼い(7歳?)ながらも征西大将軍に任じられ、五条頼元らに守られて九州に向はれた。

 先づ四国伊予国に渡り、興国3・康永元年(1342)頃、薩摩に入られた後、肥後の菊池武光や阿蘇惟時とともに九州一円で激戦を重ね、九州における南朝勢力として征西府を確立、正平16・康安元年(1361)から文中元・応安5年(1372)までは九州の首府・大宰府にあられた。建徳2・応安4年(1371)に足利幕府が遣はした今川了俊らに翌年大宰府・博多を追はれ、菊池武光とともに高良山、さらに肥後菊池へと撤退。足利直冬も幕府に屈服して九州が「平定」されると、天授1・永和1年(1375)懐良親王は征西将軍の職を良成親王(後村上天皇皇子)に譲られた。筑後矢部に隠居され、弘和3・永徳3年(1383)50余歳で薨去された。

 懐良親王と宗良親王の御歌を拝誦し英魂を留め置かれしを知る。

   建徳2年秋の比、中務卿 宗良親王 のもとへ申し送り侍りし
   日にそへてのがれんとのみ思ふ身にいとゞうき世のことしげきかな
   (新葉和歌集1270。信濃にあった兄親王に書き送られた御歌)

     宗良親王返歌
   とにかくに道ある君が御世ならばことしげくとも誰かまどはむ

     建徳2年9月20日、鎮西より便宜に
   しるやいかによを秋風の吹くからに露もとまらぬわが心かな(李花集)

     宗良親王返歌
   草も木もなびくとぞ聞くこの比のよを秋かぜとなげかざらなん

     懐良親王御陵墓参拝

 懐良親王の御陵墓といはれるところは久留米市の龍護山千光寺、福岡県八女市星野村の玉水山大円寺、熊本県八代市の中宮山悟真寺などにあり、宮内庁は八代市のものを御陵墓として公式に認定してゐる。

 九州自動車道八代インターチェンジから国道3号線に下り、南へ約2キロほどの所に御陵墓はある。

 傍らを流れる中宮川は水量の多くない穏やかな流れで、川底には平らな石のタイルが敷きつめられてゐるのに驚く。八月の暑い日だつたので子供たちが川に入って遊んでゐた。

 懐良親王御陵墓地は平地で、大きな杉・檜・楠の木立があり、美しい玉垣に囲まれた中、緑に覆はれた円墳である。木漏れ日のさす地面には厚く苔が生え、六百年の時を感じさせる。緑鮮やかな苔には、最近見かけることが少なくなった羽黒蜻蛉が翅を休め、御陵墓の空気を一層静かなものにしてゐる。

 御陵墓の正面側(上の写真、右手前)の急な斜面に「勅使坂」といふ人一人が通れるほどの山道がある。登つてゆくと懐良親王菩提寺の悟真寺にでる。尾根の頂のやうな場所にあり木々も多い。大きな蜜柑のやうな実をつけた木もあった。

     「蘇峰徳富先生詩碑」

 本堂から少し下ったところに大きな石碑がある。熊本出身の思想家、歴史家徳富蘇峰の詩碑である。堂々たる筆跡だが、すぐには読めない漢字もあり写真に撮って読むことにした。

  南風終不競 帝子英魂
遥拝瀬尚在 悟真寺猶存
人生重大節 成敗何足論
乾坤留正氣 千秋奉至尊
(読み下し)南風つひに競はず、帝子は英魂をむ。遥拝の瀬はなほ在り、悟真寺はなほ存す。人生大節を重ぬれば、成敗何ぞ論ふに足らん。乾坤は正氣を留め、千秋に至尊を奉る。
(語注)○=エイ@うず・める(うづむ)(ア)地中にかくしうめる。(イ)地中に犠牲や玉などをうめて地を祭ること。また、その祭り。Aはか(墓)。○遥拝の瀬=悟真寺にほど近い球磨川にある取水堰。『八代郡誌』にその鎮守高田の賀茂宮にて 懐良親王が吉野を遥拝せられたとある。○悟真寺=征西大将軍懐良親王の菩提寺。

 征西大将軍として菊池氏はじめ九州の南朝勢力を率ゐて奮闘された懐良親王は終に形勢利なく筑後の矢部に隠居され戦ひの中に終焉を迎へられた。この御陵墓には親王の英魂も埋めとどまってゐるに違ひない。六百年の星霜を経る間、わが国には幾多の激動があった。それでもなほ「遥拝の瀬」はすぐ近くの球磨川にあり、菩提寺である悟真寺もここにある。ご生涯を国家存亡にかかはる重大事に捧げられたのであるから、どうしてその成敗をあげつらふことができるだらうか。この地で分るやうに、天地にはいまだ正気が留まってゐる。とこしへに御皇室を敬ひ申し上げる、といふ徳富蘇峰の懐良親王、御皇室への尊崇の至情がこめられた詩で大変感動した。

(久留米大学附設中学校教頭)

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 平成25年19月15日から18日までの4日間、国民文化研究会の有志から成る3回目の皇居勤労奉仕団(岸本弘団長以下、男子14名、女子6名、合計20名)に参加しました。この時期の奉仕には他に5団体があって、総勢、約180名です。

 第1日目

 皇居桔梗門に、朝八時集合。昨日までの長く続いた暑さはどこへやら、台風が近づいたせゐか涼しく、身の引き締まる思ひです。老いたれども何かのお役に立ちたいと言ふ気持ちが皆の顔に現れてゐます。皇宮警察の警官による身分証明による本人確認が終了した組から、4列の隊列で、桔梗門をくぐり、奉仕団の控へ所である窓明殿に入り、4日間の奉仕活動の説明を受けました。

 今日のご奉仕は宮殿周辺と決り、隊列を組んで出発し、一般参賀で皇族方がお立ちになる長和殿の前の東庭を通り、大刈込みが美しい南庭に入り、午前中はこの南庭及び、我々が一般参賀で集る広い東庭の落ち葉掃きを行ひました。人数が多いので、広い庭もみるみるうちに清々しくなります。お昼を窓明殿に戻り頂いてをりますと宮内庁側からの決定で、今夕、関東地方に台風が上陸し、明朝九時頃まで、大雨大風とのことで、本日の午後の作業は中止、明日は11時半集合と決まり、午後2時から天皇陛下皇后陛下の御会釈を賜はるとのことです。

      団員 澤部壽孫
   雨のため午前中にて口惜しくも作業を終へて帰り路につく

 第2日目

 都内近郊の交通機関は出発見合はせが続き、11時半集合に間に合はない参加者が数名ゐましたが、何とか電車も動きだし、最終的に御会釈の少し前に全員揃ふことができました。ろくにご奉仕もしてゐないのに、両陛下の御会釈を賜はるといふことは何と畏れ多いことでせう。参加者全員心の中で思ってゐました。

 第1日目の初めに、昭和天皇の御製が団長から配られました。その中の一首です。

     昭和天皇御製
   皇居内の勤労奉仕(昭和20年)
   戦にやぶれし後の今もなほ民のよりきてここに草とる

 大東亜戦争の末期、空襲に曝され、着る物も食べる物もなき、国民をこれ以上苦しませてはならないと思はれ、ご自分の身は如何ならうとも、国民を救ひたいとの終戦のご決断により日本は連合国のポツダム宣言を受諾、米国占領下に置かれました。本土決戦も辞せずと決死の覚悟をしてゐた国民は、昭和20年8月15日、この陛下の終戦を伝へる玉音放送を聞き、ただ茫然とし、自己喪失と飢ゑと貧困の夜と昼とが続きました。陛下は只々国民を飢ゑから救ふため、わが身を顧みられずに、食料を国民に与へてほしいとマッカーサー元帥に申し伝へました。空襲の飛び火により皇居の明治宮殿は焼失し荒れ果た中で、各御門には、銃剣を身につけた占領軍の歩哨が立ち、まことに痛ましい状態にありました。

 此の状況を耳にした宮城県の青年有志60名が宮殿の焼け跡を整理するために勤労奉仕を申し出たのです。昭和天皇がこれらの人々にお会ひになったのは、国民との直接の絆を持たれる喜びに他なりません。今上陛下も勤労奉仕団にお会ひになることは、国民との直接の接点の一つとして大切にされてゐるとのことです。東京に居られる限りは、奉仕団に必ずお会ひになり、各地の天候や稲作、景気の状況などをお聞きになるのは、国を知ろし召される御心からと聞いてをります。

 今上陛下に左記のお歌(平成7年)があります。

   勤労奉仕団の人々より今年の作柄を聞きて
   豊かなる実りなりしといふ人の多き今年の秋を喜ぶ

 御会釈を賜るべく各団体が蓮池参集所に整列してお成りを待ちました。二組目に並んでをりました岸本団長に向って、昨夜の台風による被害はなかったか、御所の庭でも大きな木が倒れましたとの陛下のお言葉に、皇后陛下も頷かれて両手で大きな丸を作って、木の太さをお示しになりました。何といたはり深い思召しでせう。常に国民の幸せのみを祈られる御心のこもったお言葉に、ただ畏れ多く、ありがたく、わが心は震へました。

 ご公務の直後でせうか、天皇陛下はダブルのスーツをお召しになり、皇后陛下も淡い肌色がかつた銀鼠色の御召し物でのお出ましでした。休む間もなきご公務を少しでも減らしていただかなければと思ひつつも、かうしてお出ましいただき、ただ有難く感じました。

 最後に全員で万歳を三唱しました。「天皇陛下、皇后陛下万歳」のわれらの声は蓮池参集所の硝子戸が割れんばかりに響きわたりました。

 陛下のお側にあられて慎み深くお車にお乗りになる皇后陛下の御姿は実に見事な日本女性の鑑であると拝しました。走り出すお車に向って、いつまでもお元気でと、ひた祈りつつ力の限り手を振りました。両陛下は笑みを浮べられ、勿体なくも御手を振っていただきます。奥の御席の天皇陛下は身を乗り出して御手を振られます。何と言ふ温かい君と民との心の響きあひでせうか。

 午後の作業はあまり時間も無くなり、昭和43年から先帝陛下の思召しで一般開放になってゐる東御苑を回り、ご説明は宮内庁の庭園科の若い女性職員です。まだ入省間もない所為か、言葉は流暢ではありませんでしたが一所懸命に説明してくれました。江戸城天守台や竹林、香淳皇后ゆかりの桃華楽堂、昭和天皇の御発意で作られた武蔵野の面影を再現した雑木林、江戸城松の廊下跡などめぐってゐるうちに時間が無くなりこの日の作業は終了です。

 第3日目

 ひんやりした朝ですが、空は晴れ渡り、絶好の奉仕日和、今日こそは働くぞと皆気合十分で赤坂御用地西門に八時集合。赤坂御用地はその中央に、春秋二回の園遊会の会場になる赤坂御苑があり、その北側に、東宮御所、南側に各宮家のお住ひがあります。大きな楠、樫、椎、椋の木があり、銀杏の大木はあふれる程の実をつけてゐます。園遊会の会場になる、「心字池」の周りの落ち葉清掃、台風のために折れた枝もきれいに片付きました。

 その後、皇太子殿下の御会釈を賜はると言ふことで東宮御所お車寄せ前庭に集合整列、静もれる中にお出ましを待ちました。一同最敬礼にてお迎へし、二組目に並んだ我々の前に殿下がお近づきになりました。「東京都から参りました。国民文化研究会、総勢20名でご奉仕に参りました」との岸本団長の透きとほる大きな声に殿下は優しく微笑まれて、日頃の活動についての御下問がありました。緊張の中にも団長は、「私たちは、ご皇室を大切にして生きてきた日本人の心を、次の世代に伝へるべく、若い人と一緒に学ぶ事に務めてをります」とゆっくり、はっきりと、申し上げました。殿下からねぎらひの御言葉をいただき、ただ有難く目頭が熱く潤みました。吾等に対する、労はりの思召しは、連綿として続く、国民と共にありたいと願はれる、皇統の御精神であり、その御精神はそのまま皇太子殿下に受け継がれてゐると確信いたしました。凛々しくさらに穏やかで、次の御代を背負ひ給ふ御覚悟が御身から滲め出てゐる御姿と僭越ながらを拝しました。

 「皇太子殿下、皇太子妃殿下万歳」の声は東宮御所の前庭に轟き渡りました。心の底から、皇太子ご一家の益々のご繁栄を祈りつつ、心を籠めて、声の限りに万歳を唱へました。

 慎ましくも毅然たる皇太子殿下とわれら国民との共感のひと時でありました(因みにこの時、万歳を首唱したのは「福岡中小企業経営者協会」奉仕団の団長として参加してゐた、同じく国民文化研究会会員の北川文雄さんでした)。

 午後のご奉仕は通路の清掃です。赤坂御用地は西門から東門へ向ふ長い道路があり、青山通りの青山一丁目の交差点から、青山警察までの長さで平行して続く苑内の道路です。台風のため落ち葉と枯れ枝、折れ枝が沢山ありました。此の道路は各宮家の玄関にも通じてゐます。草を取る者、小枝を拾ふ者、落ち葉を掃く者、箕で落ち葉を集める者、大きな袋に落ち葉を集めて捨てにゆく者、それぞれに手分けして、力の限り、時間のある限り作業しました。長く続く真っ直ぐな道路を振り返ると、きれいに掃き清められてゐて、やうやく少しご奉仕ができて良かったなと言ふ気になりました。

 第4日目

 愈々最後のご奉仕の日となりました。今日のご奉仕は御所周辺とのことで、まづ賢所に向ひます。此処は天皇陛下が大切な祭祀をお務めになる所で、此の門塀の前で我々が拝礼できるなど畏れ多い限りです。正面中央の賢所に天照大御神様がお祭りされてをり、ここは陛下が大御神と一体となられる精神交流をなされ、無私の慈しみの心に共感なされる最も神聖なところと洩れ承ってゐます。天皇陛下は日常のご公務のほかに、ここで数多くの宮中祭祀をお務めになってゐます。

 例へば一月一日の四方拝には、未明から起床され、寒い中、斎戒沐浴されて後、衣冠束帯に身を整へられて、五時半のまだ暗い中、神嘉殿の前庭に敷かれた薦の上に正座され、伊勢神宮を初め国中の神々を拝礼されます。その御姿は松明の灯りだけに照らされ、まことに神々しい限りだと聞きます。引き続き歳旦祭の為、昇殿されて賢所で天照大御神と御交流の拝礼をされて、その左の皇霊殿にて歴代天子の徳を仰ぎ、ただ国民を思ふ御覚悟と御奉告をなされ、右の神殿にては、八百万の神々に感謝の拝礼をされると聞いてをります。その他にも、祈年祭や神嘗祭、新嘗祭など30以上の祭祀があり、ひたすら「国やすかれ民やすかれ」の祈りを重ねてをられます。

 賢所の門塀の周りの草を採り落ち葉を片付けたのち、午後は陛下がハゼの研究をされてゐる生物学研究所を過ぎて、陛下の御手植ゑになる稲田での作業です。テレビや新聞のお写真で拝見する、陛下がお田植ゑやお刈り取りをされるあの水田です。ここに入ってご奉仕することは何とも幸せなことでせう。他の奉仕団は、庭にシートを広げその中に輪になって、機械を使はず手で稲穂を一粒一粒摘みます。9月に陛下自ら刈り取られた稲ださうです。機械で、御手植ゑ以外の稲の脱穀のお手伝ひする団体もあります。

 我々は田んぼの中に入って、干してある稲束を稲懸けからおろし広場に広げたシートの上に積み上げてゆきます。竹竿も田んぼの中から抜き取り手渡しで運びだし竹竿の泥の汚れを洗ひ落します。数本づつ縄で束ねてリヤカーに積み倉庫に搬入。我々も稲の脱穀のお手伝ひをしました。午前も午後も、時間のある限り精を出して作業を終了させました。畏くも我が大君の稲田にて働く喜びに胸が熱くなりました。靴の泥汚れなど落とす間もなく窓明殿の戻りお別れのあいさつとなりました。

 勿体なくも陛下より御下賜の皇室写真集と干菓子をいただき桔梗門を出て、皆と喜びを語り、別れを惜しみました。「国民文化研究会有志による皇居勤労奉仕団はまだ三回目ですが、これは故小田村寅二郎先生を初め国民文化研究会の先輩たちのご活躍の続いたお蔭です」と岸本団長は締め括りました。

(インフリッヂ工業(株)会長)

来年の皇居勤労奉仕について

 本号掲載の「皇居勤労奉仕の4日間」の通り今年もお勤めを果すことできました。来年も10月中旬の四日間を予定してをりますので、参加を希望される方は3月15日(必着)までに事務局にお申し込み下さい。澤部壽孫

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 去る9月23日、東京・飯田橋の東京大神宮にて執り行はれた国文研の慰霊祭に初めて参列した。高齢の父(編註・当会副会長寶邉正久先生)に付き添ひ思ひ切って下関から上京した。初めて訪れる東京大神宮の境内はそれほど広くはなかったが参拝する人達の長蛇の列であった。安産祈願とて息子夫婦もお参りしたことがあるといふ。

 隣の社務所会館での式場では今まさに始まらんとするところであった。一歩斎場に進めばその厳粛な空気に身の引締まる思ひであった。祭壇の両脇に掲げられた多くの御遺影は、日本学生協会・精神科学研究所ならび興風会・国民文化研究会に繋がる方々である。真白き布地に掲げられた御遺影が優しいライトに映え、神々しい。

 慰霊祭次第に従ひ、祭文奏上を宮司様がなされた。140数名の御祭神の御名を読み上げられるのを聴きつつ、その細いながらも独特の声調に感銘した。うしろの方では聞き取りにくいが、「参列者には祝詞は聞こえなくていいんだよ、み霊に届けばいいのだから神主はぼそぼそ声でいいんだ」と関正臣先生が生前言はれたことを懐かしく思ひ出した。約40分にも及んだが長くとも思はず、覚えのある御名が呼ばれると懐かしい。山根清命の名もはっきりと届いた。さあっと天に駆け上がってもう7年になる、50歳に若さであったが畏敬すべき後輩であった。

 参列者には全国から寄せられた137首の献詠歌を掲載した刷り文が渡されたが、その中から幾首かが会員の北濱道氏により読み上げられ御神前に捧げられた。

 その中で長崎市の橋本公明氏が山田輝彦先生に捧げられた歌は筆者には心に残った。

 「合宿に創りし歌を笑まひつつ直し給ひしみ姿なつかし」。言の葉のあやまりが指摘され、それを聞き入るわれらが笑ひどよめくとは、まづ歌を一首作ってみた者が誰しも経験することなのである。お互ひの心が開放されるよろこびを味はふ一瞬である。不思議なことだ。この山田先生の短歌全体批評を夜久正雄先生は「おたがひにうたのあやまちただしつつなごむ心よ何にたとへむ」と生前詠まれたことがある。『短歌のすすめ』を著はされた両先生に学ぶ道遙けしだが挫けずに歩きたい。

 お祭りのあとの直会では、上村和男理事長を始め何人かの御挨拶の最後に父が登壇し「私は91歳になりました」との一声に会場は沸いた。入院手術後の病床に伏してゐてよく覚えてゐるが平成6年7月号の『国民同胞』に加納祐五先生が書かれた文章が身に染みたと前置きし、「忍時経歴としての日本史」と題してつづられた加納先生のお気持ちを偲んだのであった。

 どの辞書にも見られない「忍時」といふ不思議な響きをもつこの言葉は桑原暁一先生が20歳代の昭和八年に書かれたものに見られる。

  「自分の生命が芽ぐみはぐくまれた故郷の地に還って自己を周囲につながらしめよ。(中略)その現実に随順するが救ひのただ一つ道であると知らねばならぬ。(中略)諸君、この不退転の一路をば忍時経歴し来ったのが日本の歴史そのものなのだ」。

 加納先生はこの言葉を受けてさらに肉迫される。故郷の地とは「日本人にとって、それは日本である。試みに日本の歴史に思ひをひそめてみよ。愛憎違順する現実人生の苦艱から逃避することなく、よくこれに随順して人の心を温め、人の心を結んで、人生をして意味あらしめるために奮闘した幾多先人の行迹に満ちみちてゐるではないか。それはまた、如何なる艱難の時代に処しても国家社会を分裂解体に導くことなく、よく統一を維持する原動力であった。これが忍時経歴としての日本史であり、その伝統は畏くも明治天皇の大御心にすべをさめしめられた」。そしてまた「我々の思想のいとなみの原点には黒上正一郎先生によって開導された聖徳太子への信と研究があった」とも述べられ、我々の先輩たちが先の戦争中に行った思想の戦ひとは何であったか、先輩たちの戦ひの跡を顧みられたのがこの御文章である。当今の政治家の如き日本歴史に対して無研究なる輩にはなるまいと思ふのである。

 11月19日から4日間、筆者は山口県日本会議奉仕団17名の一人として皇居勤労奉仕に参加させて戴いた。抜けるやうな爽やかな秋空が4日間続き、この上ない喜びを満喫した。最終日は両陛下の御会釈を賜る日である。皇居内の蓮池参集所で整列した160名はその時刻を待った。輝くばかりの重厚な黒塗りのお召し車がしづしづと間近に迫った。両陛下はお揃ひで最初の福島県からの奉仕団の前にお進みになった。いろいろな御下問があり、異例の時間に及んだ。辛い日々労はれる優しいお言葉に団員たちは涙にくれ、我々もうなだれるばかりである。被災地御訪問も慰霊の旅でもあられた。被害甚大のところでは、傘を閉ぢられ黙礼される両陛下であった。

 平成の御代に国民が被った幾多の災害のその折々をお詠みになった御製、御歌を我々は拝することができる。加納先生はまた平成6年12月号で、7月号の御論を承けて、「日本の歴史は(中略)幾多先人の忍時する苦闘の相続でありこれが『数千年の純信』と云はれた歴史の姿である。この姿をよく象徴するものは、神代より『ひろくなり狭くなりつつ』遂に絶えることのなかった敷島の道であり、それは御歴代天皇の大御心に統べをさめられてゐる」ともお述べになってゐる。

(元山口県立高等学校教諭)

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 編集後記

 新聞やテレビは連日「尖閣諸島の領有をめぐって対立が深まる日中関係は…」などと当り前のやうに報じてゐる。「領有をめぐって…」などと聞くと、いかにも双方が五分五分の立場にあるかのやうな印象を受ける。「日中両国は野田佳彦前首相が尖閣の国有化を決めたことで険悪になり、12年から1年以上、正式な首脳会談は実現していない」(朝日11/20)。この記事は「険悪になった」原因は日本側にあるとしてゐる。沖縄県石垣市の私有地・尖閣の島々を国有地にしたことで、なぜ隣国が騒ぐのか。関係が悪くなるのか。そこを掠取せんと狙ってゐるからだらう。他国の領土を自国のものだと言へば領土問題があることになるのか。何時から尖閣領有を言ひ出したのか。尖閣諸島を日本領と見なしてしてゐた証拠はいくらでもある。それでも厚かましく日本に盗られた言ひ募る。「中国の横車で…」とすべきを、傍観者的に「領有をめぐって対立してゐる」とする日本メディアの報道をこれ幸ひと、遂に11月23日、中国政府は尖閣上空を含む東シナ海に防空識別圏を設定した。当然に日本の防空識別圏と重なる。尖閣の「海」が侵され、今度は「空」だ。「陸」はどうなるのか。

(山内)

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