国民同胞巻頭言

第624号

執筆者 題名
工藤 千代子 受け継がれてゆく熱き血潮
- 「子どもは、輝きに満ちた日本の歴史を知りたいのだ」 -
日本政策センター所長
岡田 邦宏
『明日への選択』6月号所載- 「読者への手紙」-
「侵略の定義」とは何か
小柳 左門 織りなして生きる命
「武士たるべし」を示した福田忠之氏逝く
- 「福田さん、これからもお力をお藉しください」 -
平成25年 慰霊祭 斎行さる
  新刊紹介

 私が育った「戦後」は、物質的には豊かであったが、教育界もマスコミも「戦前」をすべて「悪」と断罪して、日本民族の情感を故意に断ち切らうとする時代でもあった。

 けれども、私が若い日に戦没学徒の「遺書」に出逢へたことは幸せなことであった。今は亡き夜久正雄先生の教へ子にあたる茶谷武さん(昭和20年ルソン島で戦死。数へ24歳)の遺書に初めて触れたのは高校生の頃であり、それは国文研の合宿教室に参加した長兄の本棚にあった『日本への回帰』第十三集に載ってゐた。夜久先生が御講義の終りに茶谷さんの遺書を読み上げられた、といふ内容だった。私は本の中に誘ひ込まれて、まるでその場にゐて、参加の学生と一緒にお聴きしてゐるかのやうな感覚を味はったのである(全文は、国文研叢書20『続いのちささげて- 戦中学徒・遺詠遺文抄- 』にも掲載。大学生の皆さんにぜひ御一読頂きたい)。

 遺書は「武モタウくオ役ニ立ツ時ガ参リマシタ」で始まり、「…私ノ肉体ハココデ朽ツルトモ私達ノ後ヲ私達ノ屍ヲノリコエテ私達ノ礎トシテ立チ上ツテクル第二ノ国民ノコトヲ思ヘバ又之等ノ人々ノ中ニ私達ノ熱キ血潮ガウケツガレテヰルト思ヘバ決シテ私達ノ死モナゲクニハアタラナイト思ヒマス」と続いてゐた。

 この遺書を読み終ヘた瞬間、私もまた茶谷さんが後事を託した「第二ノ国民」として生を享けた一人であることをしみじみと思った。先の大戦で約300万柱の英霊が、父母や故郷の人を守るために、二つとない命を捧げて守り抜いた国土に、私たちは今生かされてゐるのだと痛感した。以来、英霊の思ひを子孫に言ひつぎ語り伝へていくことが、私のよって立つべき「根っこ」となったのである。

 大学生になって、社会人となってからも、私自身も毎年のやうに合宿に参加し、心の友を得た(その時に出逢った人たちのお子さんと、わが子が合宿で共に研鑽を積んでゐることは嬉しいことである)。

 その後、私は結婚して一男二女の子宝に恵まれたが、先人の根拠のない「悪」を倦まずたゆまず流し続けるマスコミや日教組のどうにもならない濁流が子どもたちの心にも容赦なく入り込んできた。一つ例をあげれば、神奈川県立高校に進学した長男の社会科教師は、日本史で一年間「従軍慰安婦」と「原爆」ばかりの歪な授業を展開した。過去の文化を自らの判断で左右出来るといふ教師の傲慢さを正すために、主人は仕事の合間に幾度も学校に足を運び、校長や教科担当に対して改善を求めなければならなかった。子どもは、日本人の情操を切断するやうな荒涼とした歴史ではなく、輝きに満ちた日本の歴史を知りたいのだ。

 長男はその後、大学で政治学を学び、大学3年の9月より交換留学生として一年間念願の国立台湾大学で学んだ。この間、「台湾歌壇」の人たちとも交流が生れ、大学では座学ではあるが軍事も学んだと言ふ。大学卒業頃になると「大学院か、軍隊か」が当り前の会話となってゐる台湾の社会が、長男の内面にも影響を与へたのだらう、体を鍛へ、留学前には鉛筆のやうに細かった身体が、帰ってきた時には逞しくなってゐた。

 帰国後、長男は「自衛隊に入る。それ以外の進路はまったく考へてゐない」と言ひ切った。試験に合格を頂き「もし東日本大震災のやうな災害が発生したら、家族の安否より被災者の救助を優先するのでそのつもりでゐてほしい」と言ひ、横須賀へと向った。

 5月の連休の際「おい、早く」と主人の私を呼ぶ声に促されて玄関を見ると、休暇で帰宅した長男が制服姿で立ってゐた。厳しい訓練に耐へた顔はどこか誇らしげに見えた。日教組が子どもを一つのイデオロギーに染め上げようと試みても、子どもはそれを跳ね返す力を持ってゐる。

 壮烈な戦ひの末に戦死した人に及ぶべくもないが「熱き血潮」を受け継いだ若者がここにも一人ゐることが、在天の霊の僅かでも慰めとなれば嬉しいことである。

(元コピーライター、主婦)

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 「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない」との安倍首相の発言(編註・4月23日、参院予算委)を巡って、朴槿恵韓国大統領がオバマ米大統領との会談(編註・5月7日)で「日本は正しい歴史認識を持たねばならない」と批判したと報じられている。

 安倍首相の一連の発言は、第一次安倍内閣の際に閣議決定した答弁書や国会答弁と変わったわけではないのだが、韓国大統領の発言に呼応したかのように、韓国や米国、それに日本の一部マスコミも加わって、いわゆる歴史認識問題を理由とした「安倍叩き」をはじめたと言える。しかし、それらの記事や論説は、安倍首相のそうした「歴史認識」が戦争を美化するものだとか、反省していないと批判するものの、「侵略の定義」を巡る安倍発言の内容を検証した記事はほとんど見当たらない。

      *     *

 「侵略の定義」というと、国連が「侵略」を定義しているではないかと言う人たちがいる。確かに1974年の国連総会で決議された「国連決議3314」は通称として「侵略の定義に関する決議」と呼ばれている。しかし、話はそんなに単純ではない。

 この国連決議は、第1条で「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に述べられているものをいう」と書き、「この定義」の内容として第3条において「一国の軍隊による他国の領域に対する侵入もしくは攻撃」、「軍事占領」、「一国による他国の領域に対する兵器の使用」などの6項目を「侵略行為」として挙げている。

 一見すれば何やら定義らしく見えるが、「一国の軍隊による他国の領域に対する侵入・攻撃」と言っても、軍隊でない実力集団が侵入・攻撃した場合はどうなるのか。他国が実効支配している領域を自国領だと主張して侵入・攻撃したらどうなるのか…ちょっと考えただけでもその不完全さが目立つ。

      *     *

 しかも、この「侵略の定義」には「国際連合の憲章と両立しない…武力の行使」という大枠がはめられている。どういうことかと言うと、国連憲章と「両立する武力行使」については「侵略」ではない、とこの決議は言っているのである。国連憲章は加盟各国に自衛権を認めているから、自衛権に基づく武力行使は「侵略」とは言えない。第二次大戦前の不戦条約は違法な戦争を禁止したが、自衛戦争を認めた。その当時と事情は大きく変わっていないということである。

 では、自衛権の発動とそうでない武力行使とはどう区別されるのか。第二条にはこう書かれている。「国家による国際連合憲章に違反する武力の最初の使用は、侵略行為の一応の証拠を構成する」と。つまり最初の一撃をもって「一応」侵略行為とするというのである。何ともいい加減な話である。

 しかも、この第2条には続きがあって、「ただし、安全保障理事会は…侵略行為が行われたとの決定が他の関連状況(略)に照らして正当に評価されないとの結論を下すことができる」と書かれている。該当行為が侵略行為に当たるかどうかは、安保理事会が決めるというのである。

 その結果、あのイラクによるクウェート侵攻でさえ「侵略」とは認定されていない。中越戦争も同様である。国連決議で「侵略」という用語を使ったのは、朝鮮戦争の際の「北朝鮮弾劾決議」のなかで北朝鮮を「侵略者」と呼んだケースくらいではあるまいか。

      *     *

 つまり、この国連決議3314とは目安程度のものであり、実際は安保理が決定するというのである。安倍首相の発言はその事実を述べたに過ぎない。

 韓国では、日本による朝鮮半島統治(彼らの言う植民地支配)を「侵略」だと教科書で教えている。国連決議が過去に遡って適応できるはずもないが、当時の統治が、国連決議3314がいう「侵略」のどの定義にも該当しないことは確かである。安倍首相発言に対して「正しい歴史認識」を要求するなら、その前に自国の教科書が書いている「侵略」を定義してみるのが礼儀というものではあるまいか。

(かな遣ひママ)

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平成21年の新年歌会始の題は「生」でした。この年の天皇さまの御製は、

   生きものの織りなして生くる様見つつ皇居に住みて十五年経ぬ

でした。皇居にお住ひになって15年。その皇居には様々な動物が住み、植物が自然のままに育ってゐるとのことですが、それを陛下は「生きものの織りなして生くる」と表現されたことに、新鮮な驚きを覚えました。それは様々な生き物がお互ひを支へ合ひ、また時には争ひながらも均衡を保って生きる自然の摂理があることを、平易な言葉で語ってをられると感じたからでした。

 人間は一人では生きていけない、また人間は人間だけで生きるのではない。多くの生命とともに、大自然に生かされて生きて行く。それが私たちなのですが、一方では常に争ひがあり、また弱肉強食があるのも避けられない一つの事実でありませう。

 ダーウィンの進化論は生物に限らず、社会変革といふことについても思想上の大きな影響を与へましたが、実際の生物界にはそれだけでは説明のできない事象がさまざまにおきてゐる。ダーウィンは自然淘汰を提唱しましたが、言葉通りならば生物種の数は淘汰されて徐々に減っていくはずですが、現実は逆であって地球上の生物の種類はますます増加してゐます。

 京都大学の今西錦司(文化勲章受章)は、あるとき川のほとりに四種類のカゲロウの群れがそれぞれにすみ分けながらお互ひに生きてゐることを見つけた。それが彼の有名な「棲み分けの理論」に発展するのですが、適者生存や競争だけではない生物の世界に目覚めさせられた。それは人間と自然の関係、あるいは人間社会のありやうにもつながっていく大発見でした。その発見はある意味において西洋的な人間観と東洋的な人間観との相違をも予感させるものです。

 今西は言ってゐます。

  「最適応しているもの以外は切り捨てられるという関門など、どこにもなくて、適応のできたものも生きよ、適応が少々できていないものも生きよ、この世に生をうけたものはみな生きよ、というすばらしく広い抱擁力をもっているからこそ、自然は仏にも通ずるのである。私の棲み分け理論も、私の進化論も、みなこうした自然観と矛盾するものではない。むしろこうした自然観に根をおろしたものである、といったほうがよいのかも知れません。私の進化論は選択なんて不必要だ、なにもかも抱擁したらよいではないか、というのですから」

と。この言葉には山を愛し、サルを愛し、人を愛した今西の広い心情が表されてゐます。

 世界がかくも密接につながってゐる現在、競争は避けることのできないものであるのは事実で、日々対処しなければならない。しかしそれが人間の生きる原理とはならないのではないか。だとすれば、人生の価値観は、おのづから別のところに求めねばならない。そのやうなヒントを、今西の言葉は示唆してゐます。

 最初の御製と同じ歌会始での皇后さまの御歌は次のものでした。

   生命あるもののかなしさ早春の光のなかに揺り蚊の舞ふ

 早春の光のなかに、小さなゆすり蚊の群れが舞ってゐるさまを、皇后さまは「いのちあるもののかなしさ」と詠まれた。「かなしさ」とはまた哀しさであり、愛しさでもありますが、短い命を精一杯に生きる小さな生き物にも、皇后さまは共感されるのです。御歌にみちびかれて、こまやかな愛情にみちたものが私たちの生でありたいと、つくづくと思ふものです。

(もと現代かな)

(国立病院機構 都城病院名誉院長 福岡市・原土井病院長)

(初出 産経新聞- 九州山口版- 、平成23年11月)

=小柳左門著『白雲悠々』から=

 

小柳左門著『白雲悠々』

国立病院機構 都城病院長時代の八年間、産経新聞(九州山口版)に定期的に寄稿した随想その他を収載

四六判 189頁  本紙読者特価 送料込み700円

   お申込みは国文研事務局まで

 

廣瀬 誠著『和歌と日本文化』

人麻呂・憶良・赤人・旅人・家持らの万葉の歌人たちが、国の運命を背負って活躍する姿を活写

国文研叢書32 頒価800円  送料210円

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 本会会員、福田忠之氏には、病気療養中のところ去る6月14日、亡くなられた。昭和13年3月23日、鹿児島県串木野市のお生れで、享年76歳。

 鹿児島ラサール高校から鹿児島大学文理学部(西洋史専攻)に進まれ、社会科学研究会(社研)の会員として活躍された。昭和30年代、「社会科学」の研究サークルと言へば、マルキシズムに靡くのが当然とされてゐた中で、鹿大の社研は、唯物史観の誤りを生涯渉って鋭く指摘された川井修治先生(元本会副理事長)のご指導の下、本来の「社会科学」研究の場となってゐた。湯通堂義弘氏、江口正弘氏、野間口行正氏らとともに学ばれた。国立大学ではことに異彩を放つ「社研」だったはずである。

 鹿大御卒業後、神奈川県立平沼高校通信制教諭を皮切りに、昭和38年4月から、長らく通信制教育に力を注がれ、県立教育センターを経て、県立厚木南高校通信制教頭を最後に平成10年3月退職されてゐる。その後、神奈川県立歴史博物館(2年間)に勤められた。この間、厚木市内に居を構へられてゐる。

 福田氏は同年代や若い世代の会員とも広く交流されたが、ことに地元神奈川県にお住ひの先輩会員である足立原茂徳先生(厚木高校教諭、県教委を経て厚木市長4期)、小川良一先生(40歳代から長く高校々長を歴任)とのお付き合ひが深かった。

 御葬儀は6月16日、厚木市内の齋場で、相模三之宮日比多神社の山田隆権禰宜により神式で齋行され、鹿大先輩の上村和男理事長をはじめ関東在住の会員諸氏が参列した。

 当日、奏上された誄詞(弔辞)と追悼のお歌の一部を掲げて、そのたぐひ稀な高いお志をお偲びしたい。

弔 辞

 謹んで福田忠之先輩の御魂に申し上げます。

 福田忠之さん…。

福田さんからは、いつも大きな元気を頂いて参りました。お会ひする度に、お言葉から元気を頂いて参りました。心の元気を頂いて参りました。お会ひして帰る道すがら、いつも自分の心が浮き浮きするやうな感じになり、もっと前向きに勁く生きようと思ったものでした。

 私が神奈川県の高校教員になって、多数派の日教組勢力に与することなくやって来られたのも、福田さんといふお手本があられたからでした。福田さんのお言葉から力を頂いたからでした。

 明晰な頭脳をお持ちで、私などとても及びもつかないと、その都度、我が鈍さを思はざるを得ませんでした。激しい強いお言葉のうちに、どことなく温もりが感じられ、ユーモアが漂ふが如きお話し振りは、堪らない魅力でありました。

 お採り上げになる話題は、教育界のことに限らず、多彩で、政治・外交から経済、株のお話、その他、時には風俗やファッションにまで及びましたが、曖昧なところがなく、スパッと一刀両断に処するやうな鋭い切れ味が、これまた何とも言へない魅力でありました。

 福田さんは九州男児であり、男気に溢れた日本男児でありました。何よりも愛国者でありました。入学式・卒業式での「日の丸掲揚・君が代斉唱」をめぐる職場での遣り取りを語られる福田さんは、「子供みたいな意見を言うヤツがゐるから可笑しくて仕様がなかったよ」などと、実に愉快さうに孤軍奮闘ぶりを語ってをられました。

 教員は、とくに体育の教員は、江戸時代で言へば「武士」に相当する存在だ!、文武両道を鍛へたサムライの筈だ!との、お言葉が忘れられません。体育の教員に限らず、教師たるものは、男たるものは、すべからく「武士たるべし」とのお考へを述べられたものと、お聞きしたものでした。

 受験勉強中の火傷が因で、お手が不自由になられたとのことでしたが、さうしたハンデを全く感じさせず、勁く勁く生きられました。私にとっては鑑のやうな、模範とすべき「益荒男」でありました。「もし、火傷の事故がなかったら、もっともっと凄いことになりましたね」などと、失礼なことを申し上げたことが一度ならずありました。「戦ふ福田さんのお姿」に、心の底から感服させらてゐたからでした。

 自らに対しても厳しいところがおありだったと思ひます。世間に向ってもご自身に対しても厳しく対処されたことと拝察いたします。厳しく身を律してをられたからこそ、強く人を惹き付けるお言葉を吐露することになったのだと思ひます。

 福田さんは、私にとって、まさにお手本であり鑑でありました。

ふり返りますと、教員になる前から、私は国民文化研究会の一員として、足掛け47年の長きにわたり御厚誼に預かりました。津久井のお宅に伺った時は私がまだ教員になる前のことでした。奈良北団地のお宅にもお邪魔しました。中山のお宅には泊めて頂きました。厚木の今のお宅を新築された折にも、呼んで頂きました。その後も、何度かお尋ねしました。そのひとつひとつが走馬燈のやうに、我が瞼に、胸に浮かんで参ります。私が挙式した折には福田さんに披露宴の司会をお願ひしました。有難い限りのことでした。どれもこれも、私の人生にとって重要な一齣となってをります。

 最初のお子さんはお嬢さんで、若き日の福田さんは「ゆきの」〈雪乃〉と名付けたと言はれ、可愛くて可愛くて仕方が無いといった口振りで、お会ひした折に、「ゆきの」「ゆきの」と良く語ってをられましたね。その目を細めたお顔がよみがへって参ります。「ゆきの」ちゃんの「ゆき」は冬に降る「雪」で、「の」は乃木大将の「乃」だったと記憶します。次の男のお子さんのお名前が「けんみつ」〈劍充〉さんでしたね。「つるぎ、劍」が「充ちる」といふ漢字だったと思ひます。もう一人の下の男のお子さんは「たけまれ」〈武希〉さんでしたね。武士の「武」に乃木希典将軍の「希」の字だったと記憶します。

 女は優しくも勁く、男は潔きサムライたるべしとの福田さんの願ひが籠められたお名前だと、当時、理解しましたが、今思ひますと福田さんの人生哲学をそのままお示しになってをられたのだと感心いたします。

 福田さん…、素晴らしいお子様に恵まれしたね。さらに何より素晴らしい奥様に恵まれましたね。生意気なことを申しますが、福田忠之の人生は冨士子様といふ掛け替へのないご伴侶と共にあられた筈と思はずにはをられません。お宅に伺った折にも、お電話をお掛けした折にも、奥様の溌剌としたお声に接する度に、福田さんはお幸せだなあと感じてをりました。

 ここ3年半あまりは聖徳太子の法華経注釈書、『法華義疏』の輪読会で毎月お会ひしてをりました。今年の3月4月は休まれましたが、その間も「週2回の卓球には行ってゐるよ」とのお言葉をお聞きして安心してをりました。5月の勉強会にはお出になるとのことで楽しみにしてをりました。しかし、渋谷までは体にきついとのことでお休みになったため、先月、5月の輪読会は火が消えたやうな寂しさでした。

 勉強会のあとで一杯飲むのがまた楽しみでもあり、福田さんの歯切れの良いお話に耳を傾けるのがさらに楽しみでありました。その折、ご体調のことを語られ現代医学のあり方にも一家言がおありのご様子で、その問題点を縷々語ってをられたことがありましたね。もどかしく口惜しかったことと思ひます。深いご覚悟が秘められてゐるやうにも感じました。6月5日にお邪魔した際には一時間余り、色々とお述べになってをられましたので、今日のこの日がまだ信じられない気持ちです。

 福田さんからは沢山の元気を頂戴しました。これからも沢山の元気を頂きたいと思ってをります。福田さんのお言葉は私だけではなく、私ども国民文化研究会の仲間の心の裡に、これからも生き続けることと思ひます。今日は御礼を申し上げますが、「さようなら」と言ふつもりはありません。これからは、福田さんの御魂が天翔って、我々を見守って下さることを信じてゐるからです。

 福田さん、本当に有り難うございました。福田さんのお言葉には得も言へない温かみがありました。これからもお力をお藉しください。

 平成25年6月16日

公益社団法人 国民文化研究会  山内健生

 

       柏市 澤部壽孫
祭壇の遺影の先輩髪黒く在りましし日のよみがへり来る
奥様と三人の御子らに恵まれて幸多かりし一生なりけむ

       小田原市 岩越豊雄
み棺に見ゆる御顔凛々しかり薩摩の武士の面影のこし

       東京都 小柳志乃夫
舌鋒はするどく時にやはらかく肚のすはりしみ姿しのぶ(訃報に接して)
兄のごと慕ひきませし先輩の涙ながらの弔辞かなしも

       青森市 長内俊平
厚木には君いますとふ安らぎを失ひにけりさびしかりけり

       鹿児島市 江口正弘
はやばやと君逝きたまふ寂しさよ語るべきこと老いて多きに
何故に病の苦痛伝へずに逝きたまふかな心の友よ
自力にて洗面トイレ通へりと意志のの強さの死ぬる際まで

       小矢部市 岸本 弘
若き頃のお顔今なほ浮び来てなつかしきかな慕はしきかな

   厚木合宿にて福田忠之兄を偲ぶ

       千葉市 上村和男
ひぐらしの鳴く声ききつ坂道を登りてくれば亡き友偲ばゆ
亡き友と学びの庭に集ひ来しかの日も暑さ厳しき日なりき

       横浜市 國武忠彦
もろともに語らひ学び過ごしたる君逝きましてふた月の経つ
君去りてあした夕べに現るる君の面影なつかしきかな
なつかしき君の姿の見ゆるかなかがやく月をあかず眺めて

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 日ごとに秋が深まる9月23日(祝)午後、日本学生協会・精神科学研究所及び興風会・国民文化研究会の道統に連なる物故師友のみ霊を御祀りする慰霊祭が、東京・飯田橋の東京大神宮において厳かに営まれた。祭儀には、御遺族を初め関東近県の会員、今夏の合宿教室の参加の学生・社会人など44名が参列した。下関市から寶邊正久副会長が上京、参列された。

 御神前に、第58回合宿教室が神奈川県厚木市において開催されたことが奉告され、参列者一同はさらなる日々の精進をお誓ひ申し上げた。

 今次の慰霊祭には新たに福田忠之命が合祀され、鹿児島大学時代に一緒に学ばれた江口正弘氏(ご夫妻)、湯津堂義弘氏、鳥飼克美氏、山本次郎氏らも参列された。全国から137首の献詠歌が寄せられたが、紙面の都合でその一部を左に掲げる。

献 詠 抄
 御遺族

       (青砥宏一命御令息)松江市 青砥誠一
一年を振り返り見れば矢の如く惜しむ間もなく時過ぎにけり

       (島田好衛命御女婿)府中市 青山直幸
我が岳父とさやけき月をながめつつ酒汲み交し語りたきものを

       (長内良平命御令兄、加藤信克命御義弟)青森市 長内俊平
はるかにも祈りを合せまつりなむみちのくのはたての外が浜より

       (小田村寅二郎命・小田村泰彦命御令弟)東京都 小田村四郎
三年余の暗き世終り漸くに日射しの見ゆる春となりしか
忌はしき占領時代の終りしを喜びたまひし大御歌偲ぶ

       (近藤正人命御令弟)東京都 近藤正二
赤城嶺よ榛名の山よたらちねの母なる里に魂還りけむ

       (宮脇昌三命御令息)さいたま市 宮脇新太郎
思ひ出づ阿蘇合宿の同胞と熱く語りし遠き日のこと

       (山内恭子命御夫君)横浜市 山内健生
   小田村寅二郎先生
年かさね時すぎゆけどわが胸にいよよ浮びくみ顔したはし
   福田忠之先輩
日の本のもののふたらんと生きまししみ心仰ぐもかなしかりけり

会員

       奈良市 安納俊紘
国のため命ささげし丈夫の御霊眠れる靖国の杜

       府中市 磯貝保博
在りし日のみ姿偲び文読めば心あらたに力づけらるる

       神奈川県 稲津利比古
   福田忠之先輩
庭先に鳴く虫の音に聞き入りて失せにし先輩を暫し偲びぬ

       東京都 伊藤哲朗
   小田村寅二郎先生
先生の獅子吼されつつ語られしみ姿思ひぬ事跡たどりつ

       東京都 伊藤俊介
若者は元気に学べと言ひくれし大人のありし日偲ばるるかな

       さいたま市 井原 稔
仰ぎ見る大人の御業を受け継ぎて日毎たゆまず勤み行かむ

       清瀬市 今林賢郁
さはやかに祖国日本をわが胸にいだく若者らよあまた出で来よ

       横浜市 今村宏明
   福島宏之兄
静かなるふけゆく秋に語らひし君の姿のまた巡り来る

       小田原市 岩越豊雄
国のため逝きし人々しのびつつ浜辺に寄する波音をきく

       長崎市 内田英賢
皇国の民てふ自覚無かりせば国を守ること危ふしと知る

       宇部市 内田巌彦
   福田忠之先輩
片腕の御不自由をものともされずして舌鋒鋭かりし薩摩隼人は

       千葉県 内海勝彦
   『いのちささげて』
遺されしみ歌み文を読みゆけば胸に迫りく時へだつとも

       鹿児島市 江口正弘
   同窓福田忠之大人
とめどなく思ひ出で来る君のこと若き頃よりよろづのことの

       守谷市 大岡 弘
霧島合宿へ往路、台風のため車中で足止め
福田兄野間口兄と同席の愉快な旅路忘れかねつも(昭和46年夏)

       町田市 大島啓子
   福田忠之命
若き日の班員我を見つけては声掛け給ひし彼の日偲ばゆ

       東京都 大津留 温
むらぎものこころひとつに国民の団結をこそ望まるるいま

       札幌市 大町憲朗
   故皿田宏兄
故き友の須佐之男命思はするみ姿今も偲びまつれり

       川崎市 小縣一也
慰霊祭の日の近づけば在りし日の師友のみ名を呼びて偲ぶも

       川越市 奥冨修一
銀座に事務所が在りし時、福田忠之兄、野間口行正兄と帰りを共にして
時々は激論しあふお二人の姿にしばし時を忘れき

       川内市 小田正三
『国民同胞』に繋がる友らのみ心は月日を経ても変ることなし

       宮若市 小野吉宣
   夜久正雄先生
幾度も行きづまるごとに師の君のみ声をききつつ読みすすむかな

       熊本県 折田豊生
禍はあれど国のいのちの甦りゆくとき来むと念ふこのごろ

       横浜市 椛島有三
   小林国平氏の文章
高瀬大人と小林(国男)、小柳(陽太郎)両大人の絆の深き絶唱をよむ

       川崎市 上木原 巖
この夏も靖国神社、伊勢神宮と故郷の社を巡り詣でぬ

       千葉市 上村和男
真夏日の去りし夕べの虫の音に亡き友偲ばれ悲しみ増しぬ

       東京都 神谷正一
空ゆ海ゆ領土に迫る支那勢のかのふるまひを許すべからず

       熊本市 河崎由紀夫
先達の踏みしめきたる道を今一歩一歩とたどりてゆかむ

       小矢部市 岸本 弘
天翔るみ霊あふぎてゆく道に友のいませばなにたゆむべき

       横浜市 北浜 道
   若野秀穂命の遺文
千歳かけ友であれとの御言葉を胸に刻みて学びゆきたし

       延岡市 北林幹雄
歌つくる心とわざを示されしかの日のみすがた偲ばるるかも

       富山市 北本 宏
若人とともに語らふひとときに心なごめり江田島(合宿)のつどひ

       横浜市 國武忠彦
亡き人の心偲ばれわれもまたその悲しみに生きてゆきたし

       久留米市 合原俊光
皇国に命捧げて逝きましし師の君友ら偲びつつ生く

       横浜市 古賀 智
みこころのこもる御書の数々を読みて学びてけふの吾あり

       福岡市 小早川明徳
仲秋のみ祭りの日は先達の捧げられにし誠偲ばむ

       東京都 小柳志乃夫
たのむべき師友ゆきまし今年またご祭神の数そへるさびしも

       北本市 最知浩一
さ庭べの虫の音いつしか繁くなりみ霊祀りの秋となりしか

       柏市 澤部壽孫
   福田忠之先輩
年毎の祭りに御歌を寄せましし友祀らるる今年の秋は
先逝きし野間口兄と酌み語るみ姿浮びみ声聞ゆる

       大牟田市 志賀建一郎
若き日に思ひ定めし時々の事思ひ出づみ便り読めば

       小田原市 柴田悌輔
陽を浴びて白く輝く薄穂に今亡き先輩らを偲びまつりぬ

       東京都 島津正數
神上り給ひし大人らのうつしゑをかしこみをろがむ日は近づきぬ

       清瀬市 島村善子
このとしも慕はしき人を偲びつつ慰霊祭の日を心待ちにす

       由利本荘市 須田清文
   夜久正雄先生
望月のかげをしみればありし日にたまひしみ歌うかびくるかも
   山根清君
わが母は事あるごとに言ひたまふ君今まさばよかりしものをと

       下関市 寶邉正久
先師友らのみことば胸に畏みてまつりのにはに侍らむと思ふ

       下関市 寶邉幸盛
弓の道教へたまひし師の君の御姿浮びくことあるごとに

       霧島市 七夕照正
十三夜の月眺めつつ病床に臥せます先の帝を偲ぶ

       鹿児島市 徳田浩士
   福田忠之命
うららかな日ざしのごとく微笑みて大人はいませり蘊藉の人よ

       富山市 戸田一郎
日の本の正しき道を説きたまひ逝きし御霊よ安らかにあれ

       川崎市 冨永晃行
   黒上正一郎先生
十年前家族と詣でし徳島の奥津城はるかに拝まつる

       佐世保市 朝永清之
人我も世の騒乱に惑ふなく定めし道を歩みてぞ行かむ

       佐久市 中澤榮二
硫黄島のアスファルトの壁打ち砕き眠る遺骨を今拾はんとす

       東京都 難波江紀子
先達の皇国を思ふ真心とその功は永久に継ぐべし

       長崎市 橋本公明
   山田輝彦先生
合宿に創りし歌を笑まひつつ直し給ひしみ姿なつかし

       岡山市 波多洋治
眼前に歯舞の島見ゆる地に立てば悔しく涙湧き出づ

       東京都 坂東一男
コオロギの嬉々たる鳴き声聞え来て真夏日は過ぎ秋訪れぬ

       福岡市 藤新成信
難からむ日々を重ねて合宿に集ふ友らのあたたかきかな

       横須賀市 古川 修
   福田忠之先輩
防大の学びの帰途に浦賀にて酌みて語りし日々のなつかし

       北九州市 松田 隆
学徒出陣に征きし大人らは七十年経たる今の世を如何に見ますや

       岡崎市 松藤 力
ひたむきに国を想ひて刻苦されし先達偲びみ霊祀らむ

       倉敷市 三宅将之
我が領海に漁をする漁船にま向ひて中国の領海と宣ふ中国
日の本の領海とのみ言ひかへし何も出来ない我が国あはれ

       大阪市 薬丸保樹
   高円宮妃殿下のスピーチを聞きて
皇族のみ心こもるご挨拶に東京五輪の勢は増す

       福岡市 山口秀範
み教へに報はむ術を求めつつここまで来つれど道なほ遥けし

       八千代市 山本博資
   福田忠之先輩
国うれふ思ひのたけを語られし薩摩隼人の先輩偲ばるる

       調布市 湯通堂義弘
友を送る相模の街の星もなき夜の暗さに寂しさいやます

学生

       国学院大学大学院二 相澤 守
国の為精魂込めし先人は今も我らを見守り給ふ

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   長谷川三千子著  中央公論新社

『神やぶれたまはず - 昭和二十年八月十五日正午』(税込 1,890円)

 今から68年前の昭和20年8月15日正午、戦争の終結を告げる昭和天皇の玉音放送を聞いた直後の「あのシーンとした国民の心の一瞬」(河上徹太郎)- その「ほんの一瞬」、人々は一体何を聴いたのだらう。そこでは「いかなる精神史上の出来事があつたのか」(あとがき)。本書はその問ひへの答へを得るために、著者の長い思索を経て世に問はれた渾身の一作である。

 本書は10章で構成され、第一章・折口信夫「神 やぶれたまふ」にはじまり、以下、橋川文三「『戦争体験』論の意味」、桶谷秀昭『昭和精神史』、太宰治「トカトントン」、伊東静雄の日記、磯田光一『戦後史の空間』、吉本シ阮セ『高村光太郎』、三島由紀夫『英霊の聲』と続くのであるが、文献を丹念、緻密に読み込んでいく著者の解読の切れ味は鋭く、その筆致と相俟っていづれの章も実に興味深い内容となってゐる。又巻末の「補注」は懇切丁寧であり、読者にとつて理解をすすめる上で格好の資料とならう。

 第九章・「イサク奉献」(旧約聖書『創世記』)では、この物語の「盲点」に触れた後、読者は最終章・昭和天皇御製「身はいかならむとも」へと導かれる。

著者はこの最終章で、昭和天皇が終戦時にお詠みになった左記の四首のお歌、 爆撃にたふれゆく民の上をおもひ いくさとめけり身はいかならむと も
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり
海の外の陸に小島にのこる民のうへやすかれとただいのるなり

について言及した上で(故小田村寅二郎先生の一文も引用されてゐる)、昭和天皇のご覚悟について(それは「終戦の詔書」にはひと言も触れられてゐないが)次のやうに記すのである。

…8月15日正午に放送された「終戦の詔書」は、天皇ご自身の「自分はどうなつてもよい」といふ決意に裏打ちされたものであり、その時点において、このご決意は実質的に「死のご覚悟」であつた。国民たちに命が返却される、その瞬間-「もはや時間がないような瞬間」において、天皇の「死」と国民の「死」とは、ホロコーストのたきぎの上に並んで横たはつてゐた。(238頁)

…よく見ると、たきぎの上に、一億の国民、将兵の命のかたはらに、静かに神の命が置かれてゐた。…蝉の音のふりしきる真夏の太陽のもとに、神と人とが、互ひに自らの死を差し出し合ふ、沈黙の瞬間が在るのみである。(278頁)

これは、「精神史」のうへでは「神人対晤」の一瞬であり、「われわれは確かにその瞬間をもつた」と著者は云ひ、本書は次の言葉で閉ぢられる。

…折口信夫は、「神やぶれたまふ」と言つた。しかし、イエスの死によつてキリスト教の神が敗れたわけではないとすれば、われわれの神も、決して敗れはしなかつ た。大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれは本当の意味で、われわれの神を得たのである。(282頁)

われわれが長らく忘れ去ってきた、いや、忘れ去ってはならない、歴史の一瞬に宿った深層の意味を、本書はありありと浮びあがらせた。戦後を考へる上でわれわれは貴重な視座を得たと云っていい。精読をお薦めしたい希有な一書である。

(本会副理事長 今林賢郁)

 

編集後記

 9月20日付の産経紙に日中友好七団体の一つで、主要企業の首脳が加はる日中経済協会(会長・張トヨタ自動車名誉会長)が「11月、訪中団を派遣」することになったとの短い記事が出たゐた。一行には「有力財界人を含む110人が参加」、習国家主席や李首相ら中国要人との会談を目ざしてゐるといふ。かういふ人達は北京でどのやうに振る舞ふのだらう。わが尖閣諸島を「日本に盗られた」と国際場裡でしゃあしゃあと喧伝し、その領海領空を連日侵犯してゐる中国の指導者に対して、何と言ふのだらう。「貴国の言動は不条理で、日本国民は怒ってゐる。それを先づ直接伝へたい」旨を明確に言ふのが最低限の務めだらう。話はそこから始まる。大局的見地に立つとはさういふことではないのか。「日中友好」の空語を弄する勿れと言ひたい。

 本号が届く頃には、伊勢の神宮の第62回式年遷宮、「遷御の儀」が齋行されてゐることだらう(10月2日内宮、5日外宮)。既に出雲大社では御修造のため仮殿に遷座されてゐた大御神様の「本殿遷座祭」が執り行はれた(5月10日)。60年ぶりとのこと。革命放伐、断絶の支那文明とは全く異質の、尊い国柄を改めて実感させられる。

(山内)

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