国民同胞巻頭言

第622号

執筆者 題名
理事長 上村和男 「憲法改正」は世界に誇れる国造りの信念で
- それは「真の自立国家への第一歩」である -
井原 稔 わが国文化の独自性と豊饒性について
- 韓中両国との対比から見えてくるもの -
島津 正數 被災地の中高生とカタール国を訪問して
- 岩手・宮城・福島各県の生徒達とともに -
山内 健生 「国民文化研究会設立趣意書」を読む(昭和31年1月)
平成26年歌会始の詠進要領
  新刊紹介

 参議院選挙(7月21日投票)が終った。改選議席121に対して与党が七76議席を獲得した(自民65、公明11)。既に昨年暮の衆議院総選挙で民主党政権は崩壊して第二次安倍晋三内閣が発足してゐたが、この度の選挙の結果、衆参とも与党が過半数を占め、衆参の所謂「ねぢれ」は解消された。

 選挙後の記者会見で、安倍首相は「国民から背中を押してもらった。“ねぢれ”に終止符を打つことができた。これからは政治の停滞を野党の所為にはできない。衆参の多数を生かすことで国民の負託に応へたい」旨を語った。その言や良しであるが、参院では自民党単独では非改選と合せても115で過半数に達しない。引き続き連立を組まざるを得ないが、その公明党は「平和の党を自任」してゐて、「憲法改正ではブレーキ役を果たそうとし、首相が検討する集団的自衛権の行使容認に『断固反対』の立場だ」(産経、7月23日付)といふから、厄介だ。

 いづれ憲法改正を軸に政界再編が図られなければならないと考へるが、右の観測記事に見られるやうな、「平和」を願ふが故に、「憲法改正」にブレーキを掛け「集団的自衛権容認」にも反対するといふ非論理的な「平和」幻想こそ、先づは打破すべきものだらう。憲法に手を着けると平和が危うくなるといふ幻想である。危うくなるやも知れず、さうならないかも知れない。確実に言へるとは真の自立国家への第一歩であるといふことである。戦後68年の「平和」を保障してゐたのは、占領軍(GHQ)起草の日本国憲法(即ち、非武装〈=武装解除〉憲法)ではなく、初めの被占領の7年間は口惜しいことだが「連合国軍(米国主体の占領軍)」の存在であり、昭和27年の独立回復以降は「日米安保体制」である。日本列島は一日たりとも非武装だったことはない。

 集団的自衛権行使容認にしても、日米安保体制に双務性を加味することで抑止力をさらに高めるものだから、「平和」維持と矛盾するものではない。応分な負担を相互に担ひ合ふ共同防衛的な概念が集団的自衛権である。ことに共産中国が「尖閣諸島」奪取の意図を露骨に示してゐる今日、日米安保体制強化につながる集団的自衛権の行使容認は喫緊の課題である。「日本も主権国家であるから、国際法上、集団的自衛権を保有してゐるが、憲法の解釈から行使することはできない」などとする従来の政府見解が空文であることは明らかで、かうした退嬰的姿勢が、尖閣への領土的野心を掻き立てて来た面も否定できないだらう。自らの手足を縛る奇妙な憲法解釈を速やかに改めるべきである。

 ただし、国土防衛は集団的自衛権行使容認で済む問題ではなく、何よりも先づわが国が領土保全の強い決意を具体的に示すことが肝要である。例へば尖閣諸島に関しては実効支配をさらに確かにするべく「有人島化」に向けて一歩、踏み出さなければならない。さうなると一層大変なことになるぞと脅すかのやうに、中国公船が連日尖閣諸島沖の日本の領海に出入りを繰り返してゐるが、許し難いことで、かうした現況を見れば、「集団的自衛権行使容認」の是非で時間を浪費する暇はないはずである。連立は目的ではない。安倍総理は場合によっては他党と組んでも構はないぐらゐの決意で臨むべきだらう。

 参院選では専ら「アベノミクス」の是非が問はれ、安倍内閣の経済政策への期待が選挙結果に出た感じである。その意味では、選挙後、首相が「強い経済は国力の源泉であり、外交力も安定した社会保障も強い経済なくして成り立たない」と述べた通りであるが、経済も外交も社会保障も、そして教育も国家の独立自存が前提あることは多言を要しない。

 占領軍スタッフが僅か一週間で起草した現憲法を改めることが、総理の言ふ「戦後体制からの脱却」であらう。「保有してゐるが憲法の解釈から行使できない」などと妙な見解が出されて来たのも、現憲法が根本的には日本の弱体化を意図した占領政策の産物だからである。本来であれば占領統治終了の時点で改廃されるものだった。北朝鮮の邦人拉致とミサイル開発、尖閣危機の到来などで、やうやく憲法改正の気運が醸成されて来た。第96条先行改正に向けて3分の2の多数派を参院でどう形成するのか。憲法改正は世界に誇れる国造りに他ならないとの信念で取り組んでいただきたい。

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 ことしの国民文化講座(5月18日、於・国会館)における呉善花先生の御講演に関しては、拙見を本紙の先月号に書かせて頂いたが、引き続いて、御講演の内容を敷衍しつつ、韓中両国との対比から見えてくるわが国文化の独自性と豊饒性について思ふところを述べてみたい。

     韓中に見る歴史と文化の断絶

 呉先生によれば、朝鮮半島の諸国は古代以来2,000年間におよそ1,000回の侵略を受けて来たため古いものはほとんど破壊され失はれてしまったとのことである。また外来の仏教や儒教も、朱子学を除いては、異質なものを徹底的に排除する李氏朝鮮の治世下において定着することはなかったといふ。加へて、先月号で具体的に紹介したやうに、漢字の廃止といふ近年の愚行によって歴史と文化の断絶が著しく、今や1970年代の論文を読むことさへ、学生には困難になってゐるとのことである。

 中国の場合はどうか。「中原(黄河中流域)に鹿を逐ふ」春秋戦国時代から、秦・漢や隋・唐・宋などを経て、元・明・清の時代に至ると版図を著しく拡大して、今日のおぞましき「異形の大国」中華人民共和国に至る。この間、韓国とは較べものにならない規模で、漢民族のみならず周辺民族入り乱れての建設と破壊と殺戮が繰り返されてきた。易姓革命で前王朝を否定するわけだから連続性などあり得べくもない。「中華四千年の断絶の歴史」なのである。

 また文化的な側面においても、春秋戦国時代に諸子百家が出現し百家争鳴の観を呈した後は、唐代における李白・杜甫の如き天才的な詩人のほか宋代の朱熹や明代の王陽明の如き大儒が出現したことを除いては、ほとんど見るべきものがない。「仁」(思ひやり)や「義」(人の践むべき行ひ)を説く儒教の精神とは懸け離れた存在が歴代王朝であって、それを臆面もなくさらけ出してゐるのが現代中国である。まさしく遅れてやって来た帝国主義(覇権主義)国家といふほかはないのである。「尖閣」だけでなく、フィリピンから島を盗りベトナムの島嶼を狙ってゐる。

     仏教や儒教の受容に見る神道のこころ

 かうした韓国や中国の実情に比べて、わが国の文化は何と連続性と多様性に富んだ豊饒性に満ちてゐることか。現代に生きる私たちが1,300年前に編纂された『古事記』や『萬葉集』を読むことが出来るのである。

 森羅万象すべてのものに生命的霊性を感じ取り神々と崇める日本根生ひの宗教ともいふべき神道が中核にあったればこそ、外来の仏教や儒教を調和的に受容しつつ融合・共存することが可能となったのである。

 イギリスの仏教研究家のチャールズ・エリオット卿などは「神道が仏教より受けた影響よりも、仏教が日本に来て神道から受けたものが大きい」と言ひ切ってゐる。さうであればこそ、「一切衆生悉有仏性」と「山川草木悉皆成仏」といふ広大無辺な大乗仏教の教へが日本で花開いたと言へるのではないか。

 他方で、仏教における「西方浄土」や「西方十万億土」といふ遠い死者の国の教へにもかかはらず、日本人は今も先祖がきはめて身近な場所から自分たちを見守ってくれてゐると感じてゐる。かうした民族古来の他界観念は、今日においても毎年の彼岸や盆など年中行事のなかに脈々生きてゐる。「彼岸」も「盆」も仏語ではあるが、これらの諸行事は仏教思想では説き明かせないのである。

 また儒教の場合にしても、その本場である中国や朝鮮半島では主知的

 観念的な朱子学に絡めとられ形式主義に流されたことで衰亡してしまった観があるのに対して、わが国では徳川幕府の方針により朱子学だけが正学とされてゐたものの、知行合一を旨とする陽明学が広く受け入れられ、中江藤樹をはじめ大塩平八郎、吉田松陰等の人材を数多く輩出し、それがやがて明治維新への一つの大きな流れとなっていくのである。

 ユダヤ・キリスト教やイスラムの世界では労働を罰と捉へ、また儒教の文化圏では労働者や技術者は軽侮の対象であったが、わが国では古来働くことに生きがひを感じ、そこに喜びを見出してきた。その淵源は『古事記』の伝へる神々の世界に色濃く認められるのである。

 かうした精神的風土があるからこそ、観念を弄ぶのではなく寧ろ実践を重んじる陽明学が大きく発達していったのではないか。

     桜の花に寄せる日本人のこころ

   春ごとの花に心をなぐさめて六十路あまりの年を経にける

 この西行の歌は、30有余年の公務員生活を定年退職した私ごときにも、しみじみと心の中に入り込んで来る。青春時代の挫折体験から不完全燃焼の時期が少なからず続いたが、そこから少しづつ這ひ上がり、ささやかな成功体験を通じて自信回復の道を一歩一歩辿ってきた私である。その軌跡は総じて低空飛行といふべきもので遠回りばかりをしてしまったやうな気もするが、道草をしたからこそ見えてきた風景も多々あったやうに思ふ。

 さて、西行と言へば「願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」があまりにも有名であるが、高校時代の恩師である桑原博史先生(筑波大学名誉教授)は御著書『西行とその周辺』で、

  「西行の和歌の本質は絶えず心情が対象と一体化している点にある。西行はその歌集『山家集』で自然を以て仏意の顕現と見る態度でこれを讃えており、宗教を基底に風雅を楽しむ精神世界に生きていた」

と述べてをられる。

   吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき
   あくがるる心はさても山桜散りなんのちや身にかへるべき

 これらの歌はまさしく右の精神世界の極致を示すものと言へよう。西行がとらへた桜花の心象風景は果して仏意の顕現であったであらうか。西行が伊勢神宮参拝の折に詠んだと伝へられる。

   なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる

といふ歌の心と合せ考へると、西行の心眼に写ってゐたのは日本古来の神々の姿ではなかっただらうか。

 このやうな桜の花に寄せる日本人の思ひ入れは、その後においてもわが国固有の感受性の源泉の如きものとなって時代を超えて繰り返し姿を現す一貫性が認められる。

 例へば、本居宣長の「敷島のやまとごころを人問はば朝日ににほふ山ざくら花」や「春ごとににほふ桜の花見ても神のあやしきめぐみをぞおもふ」といふ短歌であり、高浜虚子の「ものの芽のひとつひとつに春の神」といふ俳句である。いづれも日本人らしい宗教感覚が実に見事に表現されてゐると思ふのである。

 立山信仰の本拠地である富山県岩峅寺御出身の文芸評論家佐伯彰一氏の御著書『神道のこころ』に次のやうな記述がある。

  「神道のこころとは、多元的な価値観をみとめながら、自然との一体感、もろもろの生き物との共存、そして、われわれの祖先、死者たちとの途切れざる連帯に重点をおくところの宗教的精神である」

 およそ韓中両国とは次元を異にする深さと豊かさが指摘されてゐる。

     日本語に見る独自性と豊饒性

 日本文化の豊饒性を神道とともに支へてきたのが日本語である。自然と共生する中で育まれ成長してきた日本語は、漢字といふ文字文化との接触・受容・葛藤のプロセスを経て、ものの見事に独自性と豊饒性を発揮することとなるのである。

 漢字には「音」とともに「訓」の読みを付けて、漢字文化の影響を受けながらも十分消化し切って自在に使ひこなしてゐる。

 拓殖大学名誉教授井尻千男氏(本会顧問)によれば、日本は漢字を採用したが、それは道具として使ったのであり、日本の言語構造は無傷であった。これが可能となったのも、異民族の支配を受けなかった地政学的有利性のほかに、文字以前の遙か古い時代から和歌(らしきもの)を詠んできたからではないか。漢字仮名混じり文や平仮名・片仮名の発明は、漢字文化圏からのいはば「言語的独立宣言である」と、先生は主張されてゐる。

 漢字を国字化し自家薬籠中のものとした日本民族の優れた叡智に関しては、感謝の念とともに、漢字を廃止してしまった韓国の惨状を聞くにつけても、感嘆の思ひを禁ずることができないのである。

 しかし、わが国においても、漢字廃止の危機がなかったわけではない。江戸時代末期から明治期に掛けて、前島密や福沢諭吉らによる漢字廃止論が提唱され、ローマ字国字論もあったが、森外や山田孝雄らによって「国語国字の伝統」、歴史的仮名遣ひは守られてきた。ところが、今次大戦後の昭和21年3月、第一次アメリカ教育使節団が学校教育での漢字の弊害とローマ字の利便性を指摘したことから、当用漢字が定められ仮名遣ひが改変(現代仮名遣ひの制定)されてしまった。その後、当用漢字は常用漢字に改められ今日に至ってゐるが、日本文化の連続性と豊饒性を維持し発展させていくためにも、ローマ字表記(表音表記)を前提とした現代仮名遣ひの問題点、即ちその非歴史性・非学問性を広く認識する必要がある。

 現在、政府の教育再生実行会議ではグローバル化への対応として英語を小学校の正式教科とすることが論議されてゐる。国語力が外国語学習の基礎であることを見落した軽薄きはまりない議論といふほかはない。日本人としてのアイデンティティーを確立するためにも、小学校段階では国語教育の充実強化こそ、肝要である。それこそが安倍内閣の「日本を取り戻す」道につながることになると思ふのである。

(元地方公務員)

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     カタール国からの「復興支援」

 一昨年(平成23年)11月のある夜、外務省から一本の電話が私の勤務先、「公益財団法人ユネスコ・アジア文化センター」(以下、ACCUと記す)に入った。内容は、カタール国が東日本大震災の復興支援として一億ドル(約100億円)を拠出することになってゐるが、ACCUとして「教育復興の観点」から応募してみないか、といふのであった。早速、松浦晃一郎ACCU顧問(前ユネスコ事務局長)と相談したところ、翌平成24年は日本とカタール国の「国交樹立40周年」でもあるので、これを記念して中高生40名と引率教員四名からなる訪問団を編成してカタール国に派遣しようといふことで案が固まった。

 予算額の算定し、旅行会社の選定作業を進めて、申請書類を外務省を通じて、駐日カタール国大使館に提出したところ、幸ひにも採択された。

 ACCUは、「教育、科学、および文化の面での国際協力を目的とする」ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の精神に則って、アジア太平洋地域諸国の文化の振興と相互理解に寄与するために、政府と民間の協力によって昭和46年に設立されてゐる。ユネスコと連携を図りながら、アジア太平洋地域のユネスコ加盟各国と協力して、教育協力、人物交流などの事業を推進してゐる。

 このたび訪問団派遣は、アジア太平洋地域の人々に「共に学ぶ場」を広げたいとするACCUの教育交流事業にもかなってゐると判断して企図したのであった。申請が通ったので、岩手、宮城、福島の被災各県から四十名の生徒をどう選抜するか、先づは被災地の学校の選定から始めたが、何とか派遣団が編成され、昨平成24年2月7日(火)から2月13日(月)までの間、カタール国を訪問した。ACCU事務局長の私も同行した。

     準備作業が順調でホッとする

 中学生30名、高校生10名から成る一行の中で、海外に行ったことがある者は、女子中学生一名のみ。引率の教員、随行者も含めてカタール国に行ったことがある者は、皆無であった。

 岩手県からは被災が甚大で防災教育に熱心な地域として釜石市の唐丹中学校一校が選ばれ、宮城県については大きな被害を受け防災教育にも力を入れてゐて国際交流も盛んな地域として気仙沼市の松岩、鹿折両中学校が選ばれた。それぞれの選定は市教委の手で行はれた。福島県の場合は、県教委と相談の結果、原発被災地から避難者を受け入れてゐる二本松市の安達高校と同校に避難してきてゐる浪江高校が選ばれた。

 40名のうち、安達高校の生徒を除く34名全員は大地震と大津波による被災者で、家族または親族を失った者、あるいは家を流され、学用品や思ひ出の品々を流失してしまった者達であった。六名の安達高校の生徒も原発事故による風評被害などで県内に残るべきか否か苦悩してゐた若者であった。

 当初は、この派遣事業が被災各県の学校に理解されるかどうか事務局長としては心配であった。学校やご家族に受入れられるのか、渡航まで順調にことが進むのかが気掛かりであったが、結果は各学校とも募集人員の約三倍の応募者であって、ホッとしたのであった。

 このプログラムの最大の目的は、千年に一度といふ大震災を体験した中高生が異文化体験と国際交流を通して、視野を広げ、前向きに生きる気持ちを取り戻してくれること、そして支援の手を差し伸べてくれた多くの方々に日本からの感謝のメッセージを伝へることであった。

     カタール国での交流の日々

 2月7日(火)夜行便で成田を発ち、2月8日(水)早朝カタール国のドーハ国際空港に到着。その足でAhmed Bin Hanbal Independent Secondary School For Boysといふ学校を訪問した。日本風に言へば「アーメド・ビン・ハンバル独立男子中等学校」となるのだらうか。同校の生徒や先生方に三県の被災状況を動画を交へて説明し、防災教育の重要性についても話をした。次に門司健次郎駐カタール日本大使(ACCU前顧問)を表敬訪問した。

 2月9日(木)は、カタール国にキャンパスを設置してゐる米国の二つの大学を訪問したのに続いて、日本でもテレビなどで良く耳にするアルジャジーラ衛星放送局(アラビア語による国際ニュース専門局)、「ドーハの悲劇」(1993年、サッカーワールドカップのアジア地区最終予選の対イラク戦で、終了間際のロスタイムで失点して本大会への初出場を日本が逃したこと)の舞台となったアル・アハリサッカースタジアム、そしてイスラム美術館を見学した。その後、Qatar Eastern Language Center(カタール東方言語センター)の生徒と交流会を持った。

 2月10日(金)は、助成元になっていただいた非営利団体ROTA(Reach Out To Asia、「アジアに手を差し伸べる」)主催のWheels & Heels(自転車・車椅子・ジョギング・徒歩の大会、参加30数ヶ国)に加はった。釜石市の唐丹中学校の生徒10名が日本の代表として「ソーラン節」を大舞台で披露し、音楽に合はせて書を大きく書くパフォーマンスも演じた。拍手喝采であった。日本の元気な若者の姿を見せることができて良かった。舞台の袖には「押し寄せる津波」が映し出され、多くの国からの参加者に震災の惨状を伝へた。

 カタール国滞在最終日となった2月11日(土)は、サウジアラビアとの国境付近にある広大な砂漠を見物し、四輪駆動車に三名づつ分乗して起伏に富んだ砂漠を駆け巡った。砂漠に入る直前、転倒を防ぐため四輪駆動車のタイヤの空気が少々抜かれた。全員が安全ベルトを締めての乗車であった。

 初めは砂漠の中の道なき道を隊商のやうに一列になって進んだが、しばらくすると、急斜面を下りては上り、上っては下りての繰り返しで、高低差は百メートルはあった。横転するのではないかと、スリル満点であった。砂漠の崖を後ろ向きに降りる四輪駆動車もあったし、前向きに直滑降で降りる車もあった。何度か上り下りを繰り返して進むと湖に出会ひ、最後は広大な海が見えて来た。ペルシャ湾である。対岸はイラン。明るい青緑色ターコイズ・ブルーの海であった。

 日本を出発した時は2月で冬の真っ最中であったから、誰も水着を用意して来た者はゐない。ところが、しばらく海を眺めてゐた生徒が、洋服を着たまま、男子も女子も、海に入ったのには驚いた。一人の生徒が海に入ると次々に濡れるのも厭はず海に入ったのである。躊躇してゐて海に放り込まれた者もゐたので、全員がずぶ濡れになって、大はしゃぎであった。

 驚いて「なぜ海に入りたくなったのか」と尋ねると、生徒は口々に、「私たちは皆海沿ひに生れ、そこで育った。しかし大震災以後は、故郷の青い海は津波のために、真っ黒な海に変り、夏が来ても誰一人泳いだ者はゐなかった。ところが、今日砂漠に来てみると、思ひがけず青い海が広がってゐて、嬉しくなったからだ」と言ふのである。大震災から一年近くの間、生徒たちが言ふに言へないつらい気持ちを胸に収めて過してきた来たんだなあと、生徒たちの胸中が偲ばれて、束の間の解放感ではあったが、このプログラムを企画して良かったと思ったのである。

     前向きに生きる若者を応援したい

 勉強とは何か。受験とは何か。進学とは何か。これらは一行の生徒達にとっても課題であったらう。これらも大事だが、耐へる力、生き抜く力を身に付けることも大事だと思ったし、その前に、自分の生れた日本とはどのやうな国なのか。日本人とは何か。日本の国の素晴らしさや、日本人として生れた幸せを感じ取って欲しかった。これからもかうした視点で被災地の生徒達を応援したいと思った。言ひたいことがあったら臆せず言へ、自分らしく生きろよと、応援したいと思ったのである。

 短期間ながら、不自由な避難所生活から一歩離れて、カタール国を訪問したことは、彼らに大きな影響を残したやうであった。プログラム終了後のアンケートでは、複数の回答を可とした調査ではあるが、第1位は「海外のことに興味を持つやうになった」(76%)。第2位は「視野が広がった」(74%)。第三位は「好奇心、興味の幅が広がった」(63%)であった。以下、「自分の将来について考へるやうになった」(40%)。「気持ちが前向きになった」(37%)。「英語の勉強にやる気が出た」(37%)が続いた。

 カタール国の面積は11,400平方km余で(秋田県より少し狭い)、人口は140万人余。降水量が年間50ミリほどでは農業は灌漑に頼るほかはなく、工業もそれほど盛んではない。しかし石油や天然ガスなどの天然資源に恵まれてゐる。2012年の統計によれば、一人当りGDP(国内総生産)は99,731ドルで世界第2位である(日本は46,735ドル)。七世帯に一世帯が金融資産100万ドル(約1億円)以上を保有してゐるといふ。それは所謂オイルマネーがもたらしたものであり、近年では金融センターとしてまた保養地としても注目されてゐる。

 それに比べて、日本は工業国とは言はれながら、国土の3分の2が森林であり、降水量も地域によって差違があるがカタール国の30倍050倍である。湿潤で田園地帯もあって国土の表情は多様性に富んでゐる。生徒達は、カタール国訪問を契機に、世界の様々な国の実情に興味を持って広い視野から学んで行かうとしてゐる。異文化体験、国際交流の重要な意義はここにある。今後とも溌剌として前向きに生きる若者、世界で活躍できる人材の育成に努めていきたいと考へてゐる。

 カタール国は、技術的な難しさから他国が撤退していく中で、日本の技術者が最後まで頑張って液化天然ガスの精製工場を完成させたことから、「日本と日本人」に感謝してゐる大変な親日国であった。

(公益財団法人 ユネスコ・アジア文化センター事務局長)

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 国文研顧問、故夜久正雄先生(亜大名誉教授)からの資料の中に標記のやうな「国民文化研究会設立趣意書」があったのでご紹介いたしたく筆を執った次第である。老婆心ながら、「趣意書」が世に提示された時代状況に関して、独り善がりながら、いくつか註記を附し振りがなを附けたことをお赦しいただきたい。

          ○

 戦後10年を経た今日、世界状勢の波瀾は年とともにそのはげしさを加へつゝある(註1)にもかゝはらず、青年、学生の中には、その本来の求道意欲と清純なる理想を失ひ、時代の激動を直視する力もなく、怠惰なる日々の幸福に安住する傾向が少からず見受けられます。しかもその間にあって偶々正義感に溢れる青年、学生達がゐても、たゞ徒らに情熱だけが先走って、その根底に緻密なる学問的分析や内面的反省を加へないうちに、早くも左翼理論の網の目にたぐりよせられ(註2)、特定の政治目的に動員されるといふ傾向が、圧倒的に時代の風潮を支配してをります。

 殊に最近における左翼運動は、所謂統一戦線戦術に則って、沈静した形態をとりながらも(註3)、他方、平和運動、各種ゼミナール等の方法によって、一見学問的な体裁をかゝげ、素朴な正義感に訴へつゝ、愈々幅広く押し進められてゐる現状でありますが、その絶大なる影響力は、現在とみに混乱を呈してゐる内外の客観状勢に支援されて、清純なる青年、学生の心情を揺り動かす所、正に端倪を許すべからざるものがあるといへませう。

 勿論、青年、学生の大半は、かゝる左翼運動の、余りにも観念的な目的意識と、手段を選ばぬ策略的行動に対しては、本能的疑惑と反撥とを感じてゐることは疑へぬ事実でありますが、遺憾ながらその本能的な直観を、確乎とした思想によって、裏づけ、自らの力を信じて奮ひ立つにはあまりにも無力であると思はざるを得ません。

 しからば、この様な青年の精神に宿る基本的弱点、それは果して何か? 私達は一先づそれを次の二点に集約して見ることが出来ると思ひます。その一つは、敗戦を契機として瀰漫し、しかも近代的思潮によって粉飾されたエゴイズムによる国民的同胞的統一感情の喪失であり(註4)、他の一つは階級史観によって導かれた物の見方(註5)、例へば現実の政治を見ても資本主義か社会主義か、保守か進歩か、とわりきってしまはなければ納得出来ないといふやうに二者択一の思考法による学術理論、文化感覚の衰微であります。

 されば今こゝに精確なる学術によって左翼理論の誤謬の根底をつくと共に(註6)、国家民族の生命に対する素直な情感の中に同胞的共感の世界をとりもどし、以てこの放砂の如く孤立せる学生及び青年の心の中に統一的な拠点を与へることが、何ものにも代へがたい焦眉の急務であることは一点の疑ひもさしはさむことの出来ぬ事実でありませう。

 私達はこれ迄、九州・中国地方を中心とした各大学、高校及び社会各分野に職を奉じつつ斯様な念慮から微力乍らも各々の持場にあって、志ある青年や学生に訴へて参ったのでありますが、昨今の愈々逼迫の度を加へつゝある内外の情勢に鑑みて、もはや地方的分散的行動に止る段階ではなく、少くとも九州・中国地方を中心とした相互交流の結合体を形成し、以て予想される将来の危機に備へむものと(註7)、今こゝに「国民文化研究会」の設立を決意するに至ったものであります。

 さればといって私達は一党一派の行動隊となって現実の政治闘争の只中に突入するといふが如き意図はもたず、たゞ青年学生の情意の中に真実の文化感覚を奪回し、学問的精神を振起し、ひいては正しい政治を具現すべき力源をともに培ってゆくことが唯一の念願であります。

 もとより力足りぬ私達にとって、それが如何に至難の業であるかは肝に銘じてをりますけれども、あまりにも微温的な空気に低迷しつゝある青年、学生の胸に、孤独の悦楽を押し流す民族的精神交流の歓喜を与へうるならば、とたゞそれのみを祈りつゝ行動する以外にはありません。

 こゝに敢へて私達の衷心よりの念願と企画を愬へ、有識者各位の御指導と御協力とを切にお願ひ致すものであります。(もと現代かな)

 

昭和31年1月  国民文化研究会

      本部 熊本市池田町999 (1)
      東京事務所 (2)
      東京都港区赤坂青山南町4の21「興風会」気付
(1)元常務理事、故瀬上安正氏の御自宅
(2)前理事長、故小田村寅二郎氏の御自宅

(註1)「戦後十年を経た今日、世界状勢の波瀾は年とともにそのはげしさを加へつゝある…」
第二次大戦後、米国とソ連が鋭く対立して世界を二分してゐた(米ソ冷戦)。「東西ドイツ」、「南北朝鮮」、「南北ベトナム」といふ分裂国家出現の背景には、国際社会で覇権を競ふ米ソの綱引きがあった。シナ大陸では国共内戦の結果、中国国民党の「中華民国」は台湾に追はれ、中国共産党によって「中華人民共和国」の建国が宣言されて「二つの中国」が出現してゐた。ここにも米ソ対立の影が及んでゐた。

(註2)「早くも左翼理論の網の目にたぐりよせられ…」
世界を二分する米ソの対立は国内にも影を落して、ソ連を「社会主義の理想郷」として憧憬する言論が幅を利かせてゐた。この頃、社会主義諸国はソ連を中心に一枚岩を誇示してゐた。そのため「人類の未来」は社会主義化にあるが如き言説が、大学や論壇でまことしやかになされてゐて、それに添って考へる若者が知的であるとされてゐた。

(註3)「最近における左翼運動は、所謂統一戦線戦術に則って、沈静した形態をとりながらも…」
昭和20年代後半、山村工作隊による火炎瓶投擲や交番襲撃などの武装闘争で、国民の顰蹙をかった日本共産党は、この頃、暴力革命のイメージを払拭するためにソフト戦術を展開してゐた。「米軍基地拡張反対」などを叫び、表向き「平和」を高く唱へることで、左翼色薄めて広く各層へ浸透しようとしてゐた。

(註4)「敗戦を契機として瀰漫し、しかも近代的思潮によって粉飾されたエゴイズムによる国民的同胞的統一感情の喪失であり…」
“無謀な戦争”に突入したのは「個の確立」が不十分だったからであり、敗戦は個を尊重しない「遅れた思想」の結果であるとする占領軍(GHQ)お仕着せの高踏的な評論が罷り通ってゐた。これからの時代は、何よりも「個」を大事にすることによって、「私」の権利を守らなければならないとされた。先人の生き方は「個」を蔑にされた見本とみなされ、先人の生き方に共鳴し共感を覚えることで醸成される国民的連帯感情の基盤が日々壊されつつあった。

(註5)「階級史観によって導かれた物の見方…」
マルクスの説いた唯物史観から来る発展的な歴史観で、歴史の現段階は支配階級(資本家)と被支配階級(労働者)の対立闘争 階級闘争 の時代であるとするものであった。やがて搾取されてゐる被支配階級が支配階級に取って代り、「社会主義の到来」は必然であるとされた。

(註6)「左翼理論の誤謬の根底をつくと共に…」
左翼理論の説く「平等」思想は、元来、「共に生きる」ことを善しとして来た日本人の良心をくすぐった。しかし両者は似て非なるものであり、左翼理論から来る「平等」思想は人間を「量」的に捉へるものであった。即ちそこで唱導された「計画経済」とは、人それぞれの内面世界、精神性(心の在り方)を慮外のこととして、誰もが同じ物を欲して同じやうに考へることを前提としてゐた。「心の自づからなる動き」を考慮しないから「強制収容所」を必要としてゐた。実際に、押し並べて社会主義政権は強制収容所とともにあった。しかし社会主義体制の現実を見ようとしない言説が若者達を迷はせてゐた(昭和50年代に至っても「北朝鮮では税金がなくなりました」などと日教組教育新聞は羨望の眼で説いてゐた)。

(註7)「以て予想される将来の危機に備へむものと…」
一方で左翼思想から来る階級闘争理論によって「国民相互の親和的な[横]の連帯感情」が壊され、他方では「個の確立」を高唱するエゴイスティックな啓蒙的な論説によって先人との連続感、即ち「経時的な[縦]の連帯感情」が損はれるとすれば、日本国家を内から支へる伝統的な国民的基盤の崩壊につながる。それはまた巡って観念的な階級史観の温床になりかねない。

 この趣意書が執筆された昭和31年当時のわが国の知的雰囲気は、社会主義志向の生き方が進歩的であり良心的であるといふものだった。「ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)自壊」(平成3年)を目の当りにした今日からは信じられないことだらう。それは個別的歴史性を否定する普遍主義の思潮でもあったが、趣意書は主にその左翼普遍主義による「国民的同胞的統一感情の喪失」に警鐘を鳴らしてゐる。

 それから約60年、社会主義志向が退潮した今日、既に指摘されてゐた「近代的思潮によって粉飾されたエゴイズム」が、今度はグローバリズムの衣をまとひ国全体を覆ってゐる。経済合理主義といふ名の普遍主義である。それは家庭や学校における人間関係を麻痺させるプライバシー保護の観念を伴ってゐる。かうした「個の尊重」最優先の風潮はまたニヒリズムを招き寄せる土壌ともなってゐる。個別的な歴史性を無視しては心の闇は深まるばかりだらう。

 かくして趣意書が願ふ、「あまりにも微温的な空気に低迷しつゝある青年、学生の胸に、孤独の悦楽を押し流す民族的精神交流の歓喜を与へうるならば、とたゞそれのみを祈りつゝ行動する以外にはありません」といふ国民同胞感の探求の意味合ひは一層重くなってゐると思ふのである。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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お題 「静」

 歌に詠む場合は「静」の文字が詠み込まれてゐればよく、「静謐」、「動静」のやうな熟語にしても、また「静か」「静まる」のやうに訓読しても差し支へありません。

詠進要領

1、詠進歌は、お題を詠み込んだ自作の短歌で一人一首とし、未発表のものに限ります。

2、書式は、半紙(習字用の半紙)を横長に用ひ、右半分にお題と短歌、左半分に郵便番号、住所、電話番号、氏名(本名、ふりがなつき)、生年月日及び職業(なるべく具体的に)を縦書きで書いてください。

無職の場合は、「無職」と書いてください(以前に職業に就いたことがある場合には、なるべく元の職業を書いてください)。なほ、主婦の場合は、単に「主婦」と書いても差し支へありません。

3、用紙は、半紙とし、記載事項は全て毛筆で自書してください。(一部略)

   お題 静

 ○○○○○○○○○○○
  ○○○○○○○○○○
(山折り)
〒住所
電話番号
ふりがな
氏名
生年月日
職業

注意事項(抄)
次の場合には、詠進歌は失格となります。
4、詠進歌が既に発表された短歌と同一又は著しく類似した短歌である場合
5、詠進歌を歌会始の行はれる以前に、新聞、雑誌その他の出版物、年賀状等により発表した場合(一部略)

詠進の期間
9月30日までとし、郵送の場合は、消印が9月30日までのものを有効とします。

郵送のあて先
「〒100-8111 宮内庁」とし、封筒に「詠進歌」と書き添へてください。
詠進歌は、小さく折って封入して差し支へありません。

お問ひ合せ
疑問がある場合には、直接、宮内庁式部職あてに、郵便番号、住所、氏名を書き、返信用切手をはった封筒を添へて、9月20日までに問ひ合せてください。
(参照・宮内庁ホームページ)

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     小柳左門著『白雲悠々』

 読者特別頒価 送料込 700円  お申し込みは国文研事務局まで

 先ごろ、八年間務めた国立病院機構 都城病院長を退職した著者が、産経新聞(九州山口版)に定期的に寄稿した随想を中心に編まれたものが本書(180頁)である。

 『白雲悠々』の題目は、日々仰ぐ霧島高千穂の天孫降臨の霊峰に、悠々と流れる白雲から採ったといふ。雄大で美しいその姿を仰ぐ時、心に浮ぶのは明治天皇御製「あさみどり澄みわたりたる大空のひろきをおのが心ともがな」であったともいふ。「大空のように広い心でありたい、悠然と空をゆく雲のようでありたい」との願ひこめてのタイトルいふが、それは著者の平生の心がけであったらうことは、行間に横溢してゐる。

 著者の現在の心境を述べた「はしがき」の一節には大いに感じるものがあった。

  【都城にいるあいだに、霧島新燃岳の噴火があって大量の降灰があり、つづいて東日本大震災が起こりました。現代文明のなかで生きている私たちに、その生き方を迫られるような思いでしたし、今からもその大きな傷あとを負い続けながら私たちは生きていくことになるでしょう。しかしどんな中にあっても、私たちの先人は困難を乗り越えて素晴らしい世の中を築き、人の生き方を示して下さっています。これからも先人の教えに学びつつ、日々を大切に新しい人生に向かいたいと願っています】

 産経新聞への寄稿文のほかにも、本会合宿教室での講義や、「新成人合宿での講演」も収められてゐて、どの文章も筆者の若き日からの求道的研鑽の只ならぬ積み重ねを偲ばせるものとなってゐる。テーマは「生命のあり方」から「子育て」「医療」「現代科学」まで多岐に渉ってゐるが、若者の視線は確かで温かく、根柢を貫くものは古典への深い理解と祖国への愛情である。多くの方々のご精読を願ってやまない。

(山内健生)

 

編集後記

 集団的自衛権容認などに触れた「防衛白書」を朝日社説(7/10)は「あまり軍事に偏っては、そのこと自体が緊張を高め、日本の安全損なう」と評した。その一週間余り後、五隻の中国軍艦が対馬海峡→宗谷海峡→太平洋上→沖縄近海と、ぐるり日本列島を一周。「靖国」「慰安婦」を懸案″化した朝日新聞は、猶も空論で世を迷はす。
(山内)

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