国民同胞巻頭言

第621号

執筆者 題名
澤部 壽孫 小学生に英語を教へても国際人にはならない
- 「日本語」を取り戻さない限り日本の再生はない -
久米 秀俊 「わが夫の君の雄叫びきこゆ」と詠んだ祖母
- 「富山丸」と運命をともにした祖父への絶唱 -
井原 稔 第16期第25回国民文化講座
呉善花先生の御講演をお聞きして
- 御講演、御著書から知る日韓理解の難しさ -
高木 悠 国民文化講座での御製拝誦
東京大学大学院理学系研究科修士課程1年

 終戦直後に占領軍は、日本人の魂を消滅させる為、国語を革命(漢字の制限および仮名遣ひの変更)し、徹底した検閲(言論統制と弾圧)を行った。教室では古事記、万葉集等の古典は軽視され、教育勅語も教へられなくなり、また、愛国を意味する言葉や唱歌も全て使用を禁じられた。その結果、今日では、学力は低下の一途を辿り、大学生が外や漱石の文章を読めなくなり、また巷には意味不明のローマ字やカタカナの社名が溢れてゐる。言葉遣ひの乱れは止まるところを知らず、NHKのアナウンサーが敬語を平気で間違ふ。ことに皇室に関する新聞報道は読むに堪へない。恐ろしいことに誰もこのことを異常とは思はない。

 私達の祖先の叡智が生み出した豊かな日本語を破壊することによって美しい日本の伝統・文化を消滅させようと意図した占領軍とそれに協力した知識人の目論みは見事に成功しつつある。個性尊重の米国式教育法が間違ってゐたと判明した今日、漢字制限を撤廃し、歴史的仮名遣ひに即刻戻すべきであらう。ついでに言へば、幼年時代には漢字はいくらでも覚えられる。

     江戸時代の学問の仕方に学ばう

 緊迫した国際情勢の中で偉大な明治を築いた我々の祖先は、幼年時代に古典を素読させられることを学問の出発点とした。意味は分らないまま、古事記や万葉集、太平記、論語の章句を暗記させられたのである。そこには古典に揺ぎ無い信頼をよせてゐた私達の祖先の姿が垣間見られるし、素読によって基本的な語彙を豊富に身につけた子供達の個性は強くたくましく鍛へられた。江戸時代の親達の教育方法は今こそ吟味されるべきであらう。

     教育再生実行会議の猛省を促す

 5月28日に安倍総理に手渡された教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大総長)作成の「これからの大学教育の在り方について(第三次提言)」を読んで慄然とした。提言案は、「小学校英語の拡充」、「海外で活躍できる人材の育成」がねらひで、小学5、6年生で必修化されてゐる週1回の「外国語活動」について、正式な教科にして専任教員を確保することや、実施学年の引き下げ、指導時間の拡大などの検討を求めてゐる。提言案には「日本人としてアイデンティティと幅広い教養を持ち…」との表現はあるが具体策は何も述べられてをらず、古典や日本語に対する記述もなく、母国語への愛着が全く感じられない。

 大部分が「グローバル化に対応する教育環境造り」、「徹底した国際化」の為に割かれ、低学年での英語教育の開始が要望されてゐる。藤原正彦氏の名著に『祖国とは国語』(新潮文庫)があるが、まさに私達が国語(日本語)を捨て去った時に日本は滅びるのである。国語をおろそかにした小学生に日本人としてのアイデンティティが生れるはずもない。グローバルスタンダードとは米国人の考へに同調することであると錯覚し、国際化とは英語を話すことだと勘違ひしてゐるとしか思へない。

     先づ「日本人」を育てよ!

 小学生時代こそ徹底して国語教育に力を注ぐべきであって、万葉集の一首を子供達に読ませて感動を与へることがどれ程大切か言ふまでもなからう。この大事な時期に授業時間を削って英語を教へるといふことは愚かとしか言ひやうがない。自国の文化・伝統を身につけた人こそが他国の文化を理解し味はふことが出来ると思ふ。足掛け12年間海外に駐在した商社マンたる筆者の体験から言へば、日本の文化・伝統について質問された時に答へられない人は外国では尊敬されない。また、英語教育の開始時期は中学で良いと思ふし、それも読み書きを十分に教へるべきであると思ふ。重要なことは、古典に通じ、日本の文化・伝統を理解し、誇りを持つ若人の育成である。

 私達の祖先の生き方を学べば、自然に道徳心は身につき、愛国心は芽生える。かうした若人こそが真の国際人として多様化する国際関係の中で日本をリード出来る力を持つのであって、英語を喋る人とは本質的に違ふことを認識すべきである。占領軍が押し付けた憲法を改正することと、教育を正常化して美しい日本語と豊かな文化・伝統を取り戻すことは真の日本を取り戻す車の両輪なのである。

(元日商岩井(株))

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 今年の正月に愛媛県今治市の実家に帰省した折に、祖母(久米キヌヨ)が大切に祖父(久米均)のご仏壇にしまってあったと言って、母が私に封筒を手渡した。封筒には「喜寿を祝ひて 愛孫 秀俊の述懐」と記されてゐる。祖母は、平成9年に満95歳で天寿を全うしたが、この中に入ってゐた手紙は、昭和55年夏、九州大学大学院1年生の私が、実家での祖母の喜寿のお祝ひに参加できなかったことを申し訳なく思って祖母に送ったものだった。その最後に次の拙詠が載せられてゐた。

    吹揚神社※に詣でて(※今治城藩主藤堂高虎を祀った由緒ある神社)
戦ひに征かれし祖父の無事祈り朝毎ここに詣でられしか
朝五時のまだ薄暗き頃なるに日毎詣でて欠かさざりしとふ
祖父の海に果てし朝は心乱れ祈れざりしとふ知らせ聞かぬに
無事を願ふ切なる思ひで祈られし神の御前に黙し立ちたり

(昭和55年8月)

 祖母は明治35年に愛媛県周桑郡に生れ、祖父と大正14年に結婚した。祖父は今治市で文房具店を一代で築きあげた商人であったが、大東亜戦争終り近い昭和19年6月29日に、鹿児島県徳之島沖で戦死した。

 私は学生時代に、祖母が毎朝、近くの神社にお参りし、出征した祖父の無事を祈念してゐたこと、ある日、どうしても胸騒ぎがして平静に祈れなかった日があり、あとからその日が祖父の歿した日であったことなどを聞かされてゐた。祖母は戦死した祖父にいつも大変な敬意を払ってゐた。祖母は、祖父の出征の時の顔写真が掲げられた仏壇に朝夕手を合はせ、祖父のお墓は、年中常に「しきび」を絶やさないやうにし、朝に沸かした湯と炊いたご飯の最初のひとすくひは、必ず祖父の仏壇にお供へしてゐた。かうしたことがわたしの心に強く残ってゐて、大学院1年生の折、この短歌を詠んだのだらう。

     激しい言葉にはっとする

 祖母が私の手紙をご仏壇に大切に保管してくれてゐたことを知り驚いた。わたしが就職したあとも頻繁に手紙やはがきを送ってくれたことを思ひ出し、探してみた。その便りには、必ずと言っていいほど短歌が添へられてゐて、庭に時々に咲く草花のこと、日々の出来事を通じての感懐などが詠まれてゐた。その中に、祖父のことを詠んだ次の一首を見つけ出した。

   南海のその水底にしずみ給ふわが 夫の君の雄叫びきこゆ

(昭和55年7月)

 昭和19年6月6日に応召された祖父は、沖縄防衛のために編成された丸亀連隊球部隊に配属され、6月29日、任務地沖縄へ向ふ途中、鹿児島県徳之島沖にさしかかった時に、乗船してゐた輸送船「富山丸」が米軍潜水艦の魚雷三発を受け沈没し、戦死した。当時、富山丸には約四千余名の将兵・船員が乗船してをり、そのうち約3,700名が亡くなった。その中に私の祖父がゐたのである。この死者の数は、タイタニック号や戦艦大和の死者よりも多い悲惨なものだったといはれる。

 祖母の短歌の第五句は「雄叫びきこゆ」と記されてゐる。祖母には、祖父のどのやうな「雄叫び」が聞えてゐたのだらうか。激しい言葉にはっとさせられた。

 祖母は日記を克明に付けてゐた。当時の日記や手帳などに祖父のことを詠んだ短歌、その他の文章がないか調べてみた。そして、この歌は私に送ってくれた一首のみではなく、四首連作であったことを発見した。

  この海ゆ水底深く沈み給ふ勇士のみ霊永久に安かれ
夫の君もこの海底にいますかと立ち去り難き我が思ひかな
部隊長と同じ定めの船の中残る遺族も心通ひて
南海のその水底に沈み給ふわがさき守の雄叫び聞ゆ

(昭和55年7月)

     戦死者に思ひを寄せる祖母の姿

 祖母は、富山丸遭難の日から20年経った昭和39年6月に第1回を開催して以来、毎年開催されてゐた慰霊祭に遺族団の一員として参加してゐた。この連作短歌は、祖母が昭和55年6月29日の第17回海上慰霊祭に参加した時に詠んだものである。

 遺族団は、旅客船をチャーターして富山丸が昭和19年に進んだ通りの行程をり、6月27日に鹿児島港を出港。28日に富山丸が最後に立ち寄った奄美大島古仁屋港に寄港し、しばらく休憩。その後、富山丸遭難地点で海上慰霊祭を行ひ、徳之島に上陸。遭難地点を見渡せる徳之島の風光明美な丘で、徳之島町と富山丸遺族会が主催する慰霊祭が取り行はれた。その海上慰霊祭での思ひを詠んだものである。

 1首目は、戦死された勇敢な将兵の方々のみ霊よ安らかに眠られむことを、といふ意味。

 2首目は、その「勇士のみ霊」の中に祖父がゐることが思はれてきて立ち去りがたい、といふ意味。

 3首目は、軍隊の中の上下関係にかかはらず、同じ船の中、同じ思ひで戦って戦死した方々と同じく、海上慰霊祭に参加する遺族も、みな心が通ひあってゐるよ、といふ意味。 私の祖父は、陸軍中尉であり、部隊長を支へる立場にあったと聞いてゐるが、上に立つ者から若い兵に至るまで、皆が同じ思ひで戦ったこと、遺族も同じ思ひであることを伝へたかったのではなからうか。

 4首目は、祖父を「わがさき守」と呼び、夫の無念の雄叫びが聞えてくる、といふ祖母の絶唱である。

 祖母は、祖父を、そして富山丸で亡くなった将兵の方々を「勇士」、「さき守」として尊崇してゐたのである。

 祖父は、38歳の昭和12年に中支出征後、各地を転戦した。昭和15年に召集解除され帰還した後、わづか4年足らずの後に、45歳で再度、最前線の沖縄に派遣されることとなった。祖母にとっては、なぜ、夫が二度までも召集されるのか、なぜ、最激戦地の沖縄に、と思っただらう。一人残され、子供たち三人をどのやうにこれから育ててゆけばよいか、不安を抱へていただらう。

 しかし、祖母の短歌には、自分の苦労のことは一切言葉にされてゐない。戦後、祖母は、某生命保険会社に入社し、子供たちの学資、生活費を自ら稼いだ。生来の明るさ、人間の魅力で会社生活においても皆を引っ張り、場を盛り上げるリーダー、人気者として大いに活躍した。また、日々の生業に励む一方で、祖母は自ら何度も靖国神社にお参りしてゐた。社会人になったばかりの私にも、祖父が祀られてゐる靖国神社にお参りするやうにとの手紙が多額のお小遣ひとともに届いた。そして、時の総理大臣が靖国神社に公式参拝をしないことを折々に悔しさうに話してゐた。戦死した英霊の思ひを酌まないのは国民に非ずと憤ってゐた。

 かうした祖母の生涯を思ひながら短歌を読むと、目的地沖縄に至る前に敵潜水艦の魚雷に攻撃されて戦死した人たちの無念の思ひをじっと憶念してゐる祖母の姿が浮んでくる。妻と三人の子供を遺して逝った祖父の無念を、祖母は思ひやってもゐただらう。かうした祖母の思ひが、「わがさき守の雄叫びきこゆ」といふ言葉に籠ってゐるのではないか。

     戦死者に捧げる鎮魂の言葉

 私は、実際に、富山丸で戦死された方々が、どのやうな死に方をされたのかあらためて知りたいと思ひ、「富友」と名付けられた富山丸遺族会が編纂した文集(昭和47年刊行)を読んだ。

 富山丸の生き残り将兵である三角光雄氏が、亡くなった方々を弔ふために、轟沈した海域を眼下に収める徳之島亀徳港近くの丘に、轟沈後20年を経た昭和39年に、私財を投じて慰霊塔を建立した。その碑文は、三角氏により作成されたものであり、戦死した方々に捧げる鎮魂の祈りである。左はその一節である。

  「柴田大佐以下3,600余名の兵 員と47名の富山丸乗組員は船と運命を倶にし、辛うじて身を海中に投ぜし兵員も、燃えさかるガソリンの炎にあふられて、火傷するあり焼死するあり、戦場の常とはいへ、凄惨の極にして焼熱地獄の中に陛下の万才を唱へ、無念の涙をのみつつ散華しゆく諸兄の神々しき姿は現として髣髴たり」

 船には、戦場での燃料にと、ドラム缶千500本ものガソリンも積載されてゐた。米国潜水艦が発射した魚雷が船に命中した際には、流出した大量のガソリンに次々に引火した。沈没した船を逃れ、漂流物につかまって風下に泳いでゐた将兵の方々は、まさに火の海の中でこと切れた。

 しかし、その「凄惨の極」の中で、難を逃れようと必死で泳ぐ将兵の方々の軍歌を歌って皆で励まし合ふ光景が、また、漂流する木片につかまることができる人数には限りがある中、「おれは泳ぎが得意だから」と言って、自ら木片を離れていく将兵の光景が、生き残った方たちによって伝へられてゐる。さらには、火炎が海面に広がる中、陛下の万才を叫ぶ声が、死に直面した苦しい声とともにそこかしこから聞えてきたことも目撃され、記録に残されてゐる。その記録『三発の魚雷』(山下律彦著)には、「私はこの生か死かという両極限に立った時のこの将兵の崇高なる姿をどうしても忘れることができない。私は、折にふれ、それらのことを人々に話してきたのであるが、自分が経験しないこと、あるいは先入観のあることからか、そう容易に信じてくれそうにもない。私は、自分の子孫たちだけにでもこの様子を知ってもらいたいと思った。そうだ、『記録にとどめておこう』と考えた」と書かれてゐる。

 今年6月29日には、徳之島において第50回目の慰霊祭が行はれる。奥様や子息の方々の多くが既にこの世を去られる一方、孫、ひ孫の世代の方たちが多く慰霊祭に参加されるさうだ。当時、負傷者の救助や治療、戦死者の弔ひに献身的に尽力された島民の子供たちも多数参加するさうだ。

 私も、子孫の一人として、祖母、そして戦死された方を偲び、その思ひを後世の人達に伝へる営みを続けていきたいと思ってゐる。

(大阪湾広域臨海環境整備センター)

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     はじめに

 ことしの国民文化講座(5月18日)は、日韓の比較文化論で御活躍の呉善花先生(拓殖大学国際学部教授)をお招きして、「言語から見る日本人と韓国人」との演題で御講演を頂いた。

 先生の御著書等を通じて日頃から共感を覚える方々が多いことに加へ、最近の日韓関係の冷却状況を踏まへて、どうしたら両国の関係正常化が可能になるかとの問題意識からか、会場である靖国会館「偕行の間」には200名を超える人達が参集して盛況であった。

 先生は昭和58年に留学生として来日以来、ことしで30年になるとのこと。しかし、いまだに日本語の濁音の発音と聞き取りに苦労されてゐることからお話を始められた。そして、この長い滞日生活を経て日本に対する評価として「日本は豊かであり、格差は少ないし、治安も良い。世界各国が理想としつつも実現できなかったことがこの日本で実現されてゐる。他国にないものが一杯ある。誇るべき宝物の宝庫である」と述べられたことが印象に残った。

 以下、私のノートに基づき、先生のお話の一端を報告したい。さらに御著書から教へられたことを踏まへつつ、併せて「日韓相互理解の難しさ」についても拙見を述べてみたい。

     改めて教育の歪みを痛感した

 平成16年、拓殖大学国際学部の教授に就任された先生は、外国人ながら(既に日本国籍を取得されてゐるが)、その翌年から「日本の歴史と文化」の講座を担当することになったといふ。そして受講学生の様子を次のやうに紹介された。

  「日本に生を享けた者にとって、自分とは何かを知ることは、取りも直さず日本とは何かを知ることでもあるが、受講の学生は目を輝やかせて聞いてくれる。そして劇的に変化していく様子が手に取るやうに分る。学生の一人は『今まで自分は根のない人間であった。日本を知ることによって生きがいと誇りを持てるようになった』との感想を書いてゐる」。

 かうしたお話を拝聴するにつけ、わが国においてはこれまで人間教育がいかに蔑ろにされて来たか、なかんづく「日本の歴史と文化」について正しい教育が行はれて来なかったかを痛感しないわけにはいかなった。多くの歴史教科書が左翼系の歴史学者によって著作編修され、教育現場においては日教組による自虐的な歴史教育が深く浸透して来た状況を慨嘆せざるを得ない。幸ひ昨年3月に明成社から高校の歴史教科書『最新日本史』が出版された。執筆者はいづれもわが国の良識を代表される方々であり、このやうな教科書が国民の間に広く周知され現場で使用されることを願ふばかりである。

     日本と韓国は同じ文化圏か?

     (1)敬語に見る日韓の違ひ

 日本と韓国は世界で最も敬語が使はれてゐる国と思はれると指摘された先生は大略次のやうに述べられた。

 日本では身内の者を第三者に紹介する時、控へ目に表現する「相対敬語」であるのに対して、韓国では儒教精神の影響もあって他人の前であっても身内の年長者に対して敬語を用ゐる「絶対敬語」である。例へば内でも外でも父親は「お父様」である。このやうに敬語の使ひ方一つとっても、両国の間には大きな違ひがある。

     (2)日本語特有の言ひ回し

 さらに先生は、日本語は語順が韓国語と同じで習得しやすかったが、ただ日本語独特の言ひ回しはなかなか理解できなかったとして、左の事例を紹介された。

 受身形の表現方法は日本語独自のものであり、日本人の本質、即ち日本文化の本質がそこから窺はれるのではないか。日本語では「泥棒に入られた」とか「女房に逃げられた」といふ受身形の表現をする。そこには鍵の掛け方が「甘かった」自分も悪かったとか、女房だけでなく自分の方にも落度があったといった思ひ(ニュアンス)が込められてゐる。これに対して、韓国語の場合(中国語も同じであるが)、「泥棒が入った」とか「女房が逃げた」といふ能動形の表現になる。ここではすべて泥棒が悪い、女房が悪いと言ひ張り、自分にも落度があったとは決して言はないし、すべて他人の所為にする価値観が滲み出てゐる。

 右のお話をお聞きして、日本と韓国は共に仏教や儒教の影響を受けてゐると言はれてゐるが、両国は同じ文化圏にあるとは言へず、寧ろさう考へることが大きな誤解を生み出す源になってゐるのではないかと思ったのである。

     漢字廃止がもたらした弊害

 次に韓国での言語表記の実情について、次のやうに紹介された。

 1970年代半ばから、韓国ではハングルのみが使用されるやうになり、漢字使用が廃止されたことに伴ふ弊害が出て来てゐる。

 表音文字であるハングルが創られたのは1443年のことであるが、その後400年余りの間ほとんど使用されることはなかった。官僚等の知識人は漢字・漢文を用ゐてをり、そのことで優位性を確保して来たので、何も庶民用のハングル文字の普及を図る必要性は感じてゐなかったからである。

 1886年(明治19年)に福沢諭吉の発案で『漢城周報』が「漢字ハングル混じり文」で発行されたが、ハングルが本格的に使用されるやうになったのは日韓併合以後のことであり、朝鮮総督府が広く教育の普及を図るなかでハングルが使用されるやうになった。このことは改めて記憶に刻むべき事実である。

 ここ約40年間、韓国社会においてハングルのみが使用され漢字が廃止されたことにより、現在60歳以下の人は完全なハングル世代である。漢字が消えたことにより、

@古典が読めない、
A指導教授が1970年代までに執筆した論文を学生が読めない、
B同音異義語の判別が困難になった、
C抽象的概念がなくなり哲学的思索が出来なくなった、
D語源が分らなくなり自国語か外来語かの区別がつかなくなった、

等々の弊害が生じてゐる。

 一般に民族主義は、文化的な伝統を維持発展させていくことに努めるものだが、韓国におけるハングル専用政策はこれを断ち切る作用を果してしまった。そして今日の韓国社会では、ものの考へ方が浅く即物的になり、金銭至上主義の傾向が蔓延する嘆くべき状況に陥ってゐる。

 右のお話には、思ひ当る点が多く、近年、日韓の関係を難しくしてゐるもう一つの看過できない要因であると思った次第であった。

     反日と侮日の歴史的背景

 日韓の相互理解と両国関係のあるべき姿を追求していく場合に、韓国における反日教育と日本侮蔑意識の歴史的背景を把握することは必要不可欠であるが、先生の御著書には次の三つの観点が示されてゐる。

   (1)日本統治時代の史実の改竄・捏造

 韓国における反日教育は、韓国人のアイデンティティーを高めるために利用されたものである。その反日民族主義は、決して「日本による植民地統治」といふ歴史的事実を通じて形づくられたものではなく、日本統治時代の史実を改竄・捏造することによって形成されたものである。

   (2)自民族優位主義

 韓国の反日姿勢は植民地時代についての日本人の反省によって融解するやうな甘いものではない。韓国における自民族優位主義がすべての出発点であり、そこには他民族蔑視の観点が含まれてゐるが、その蔑視の対象を日本に定めてゐることが極めて特徴的なところである。

   (3)中華主義と華夷秩序

 この自民族優位主義と日本蔑視の観点は、韓国に古くからある中華主義と華夷秩序の世界観にしっかりと根づいて続いてきたものである。韓国はずっと中華文明圏にあり続け、日本はずっと「化外の地」にあり続けたとの意識に基いてゐる。さらに明滅亡以後は、自らこそ唯一の正統な中華文明の継承者だといふ「小中華主義」を生み、中国以上に強固な中華主義を持つやうになっていった。

 こうした韓国内の事情をわれわれ日本人は十分に認識しておく必要がある。どんなに韓流ドラマが放映されても日韓関係は好転しないだらうし、韓流ドラマが日本人の間に虚像の韓国イメージを広めてゐるやうに思はれるのである。

     日韓の相互理解は可能か

 日韓の相互理解の可能性を検討していく前に、韓国におけるいはゆる「歴史認識」に関する言論弾圧の事例も知らねばならないが、先生の御著書の中から二つほど御紹介させて頂く。

 そのひとつは李榮薫ソウル大学教授の場合であり、もう一つは韓昇助高麗大学名誉教授の場合である。2004年と2005年の事件であるが、両氏は新聞や月刊誌で、日韓併合に関して「日本の統治は韓国の経済や社会の近代化等に大きな寄与を果たした」と日韓併合を再評価し、所謂従軍慰安婦問題については、「朝鮮総督府が強制的に慰安婦を動員したと、どの学者が主張しているのか(いないではないか)」、「大きな被害ではなかったにもかかわらず、屈辱を受けたといふ老婆を前面に出して何度も補償金を要求する、これが高尚な民族の行為といえるのか」といふ趣旨のことを述べたのであった。

 これが決定的な親日反民族行為として大問題になってしまったといふのである。このやうに正しい意味での自己内省が、そして「韓国人自身の過去の清算」への動きがわづかながら出はじめたのだったが、いづれの場合も、徹底的な、かつ感情的な言論封殺が展開され、発言者は社会的に抹殺されてしまったといふのである。

 朴槿恵大統領は今年2月の就任以来、「歴史問題」を用ゐた日本攻撃を執拗に続けてゐる。そして3月1日には日本を念頭に「加害者と被害者の立場は千年過ぎても変らない」との演説を行った。評論家の石平氏は、これは明らかに、韓国といふ国が未来永劫「被害者」の立場から日本を恨み続けていくことの意思表示であると捉へてゐる。

 そもそも、歴史認識たるものに多様な見方や考へ方があるのが当然であって、しかるに一方の主張が全面的に正しくて、他方がそれを100パーセント受け容れなければならないといふのは、あまりにも幼稚で偏狭な態度と言ふほかはなく、「千年過ぎても」では「百年河清を待つ」どころの話ではないのである。

     不即不離、時に突き放す

 韓国における現在の「反日有理」の実情は、どんな暴言でもでっち上げでも「反日」なら許されるといふ風潮に覆はれてゐるやうだが、それを踏まへた上で、日本としていかなる姿勢で韓国と向き合っていくべきかを考へてみたい。

 日本は今日まで日韓併合条約以降の朝鮮統治に関して、時には度を過ぎる反省や謝罪を口にしてきたが、韓国ではさうすればする程要求や主張を強めて尊大傲岸になる一方であった。韓国においては、他国を貶めて相対的に自国の評価を高めやうとする「卑しい力学」のみが働いてゐると考へざるを得ない。

 ところで、日本は昭和40年に日韓基本条約を締結して、韓国と国交を正常化し、経済協力協定を結んだ。韓国はこの協定に基づく日本からの莫大な資金援助と技術協力によって経済的発展が可能となったのである。にもかかはらず、かうした事実はほとんど国民に知らされてをらず、「韓国独自の力」によって達成されたものとして教へ込まれてゐる。いはば自分の都合の悪いところには蓋をして、自らの主張に関しては白髪三千丈の如く誇大に言ひふらす、全くもって真っ当な人間のすることではない。日本にとって韓国はワン・オブ・ゼムの存在に過ぎないが、韓国にとって日本は気になって仕様のない最大の関心国なのである。反日も侮日も劣等感の裏返しに過ぎないと思へば分らなくもないが、いい迷惑であり、これでは何時になっても互恵平等の関係構築は出来ないだらう。

 右のやうな観点から、今後わが国としては、安全保障や経済連携、文化交流等の分野で必要最小限の関係を維持するにとどめ、譲るべきところは譲るとしても(これも相互性の外交原則を踏まえるべきだが)、主張すべきところは国家の威信にかけて毅然として堂々と主張していくべきであると考へる。これまでのやうな一時凌ぎの、その場かぎりの「軽口」を繰り返してはならない。その典型が平成5年の「河野談話」であった。

 日本人の多くが、韓国人と仲良くやっていくことが大切なことと考へてをり、先生御自身もでき得れば近い将来新しい真の日韓関係の時代が開かれることを期待してをられることは承知してゐるが、自国をいたづらに卑下してまで他国と交誼を結ぶことは両国にとって決して望ましい結果を招来することはないであらう。当面は不即不離、ある意味では突き放してみる外交展開も必要ではないかと思ふのである。

 韓国は地理的に一衣帯水の間にある国ではあるが、根本的価値観が違ひすぎて、限りなく遠い存在であると言へやう。それはまた日中関係にも言へることなのである。

          ○

 本稿を執筆するに当り、呉善花先生の次の御著書を拝読し参照させて頂いた。日韓の関係を考察する上に、教へられる点が多く、マス・メディアが日々たれ流す韓国情報がいかに一面的で表層的であるかを気づかせてくれる御著書である。

 ご一読をお薦めしたい。

   ・『韓国併合への道 完全版』文  藝春秋発行
   ・『私は、いかにして「日本信徒」となったか』ワック発行
   ・『虚言と虚飾の国・韓国』ワック発行

(元地方公務員)

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 本年で第16期第25回となる国民文化講座〈5月18日〉は、呉善花先生を講師にお迎へして、靖国会館で開催されたが、例年と同じく御講演に先立って「御製拝誦」が行はれた。今回は私がその大役を務めさせていただいたが、私が拝誦した御製は明治天皇のお歌五首であった。先づ五首それぞれについて拙い感想を述べさせて貰った上で、拝誦を行った。貴重な体験だった。

     をりにふれたる (明治35年)
   青森の雪はいかにとけふもまたあふ人ごとにいひかはしつつ

 明治35年は、日本列島が大変な寒波に襲はれた年である。この年の一月に、北海道の旭川では氷点下41度を記録してゐる。これは、日本の観測史上最も低い気温で、今なほ破られてゐない。当時、日露関係は緊迫してゐて、近い将来に起きるかも知れないロシアとの戦争に備へて、青森の歩兵第五聯隊の兵士210人が、八甲田山で雪中行軍を実施した。その途中で吹雪に見舞はれ遭難、結果199人が亡くなるといふ大惨事が起きたのは、まさにこの大寒波が襲った時であった。

 青森は豪雪地帯である。この寒波は雪を伴ってゐたのであらう。「けふもまたあふ人ごとにいひかわしつつ」といふ御表現から、明治天皇が大雪のことを大変に心配されてゐたご様子が伝はってくる。

 今年、平成25年も多くの雪が降った。八甲田山の麓に位置する酸ヶ湯では、観測史上最多の積雪量を記録したことは記憶にも新しい。

 私はこの春、機会を得て皇居の勤労奉仕に参加した。いくつかの団体が一定期間(4日間)共に作業するのだが、今回一緒になった団体の中に、青森からの一団があった。勤労奉仕の初日に、天皇陛下から揃って御会釈を賜った際、各団体ごとに、陛下から御下問があって、この青森からの一団には、大層ご心配のご様子で、降雪のことをお尋ねになられた。そして、団体の代表がお答へする言葉に、じっと耳を傾けてをられた。そのお姿が強く印象に残ってゐる。

 今回、この御製を拝誦させていただいたのは、このお歌を拝読した際、明治天皇が大雪をお心に掛けてをられるご様子と、今上陛下が大雪をご心配になってをられるご様子とが重なったからである。常に国民の暮しに思ひを馳せられるお心持は変らないのだ、といふことを強く感じたのであった。

     山    (明治37年)
   おほぞらにそびえて見ゆるたかねにも登ればのぼる道はありけり

 明治37年、日露戦争開戦の年に詠まれた御製である。大空に向って聳えるやうな非常に高い山であっても、登らうとすれば必ず登る道はあるのだ、といふ意味である。直接的には山のことを詠まれてゐるが、明治37年といふ年から、日露戦争のことを思はざるを得ない。日露戦争は負けることの許されない戦ひであった。負ければ、日本の国そのものがなくなってしまふかも知れないのである。本当に苦しい戦ひであった。ぎりぎりの戦ひであった。その中にあって、明治天皇は、どんな高嶺にも「登ればのぼる道はありけり」と詠まれた。日露戦争勝利は「おほぞらに聳えて見ゆるたかね」にも似てゐるが、そこに向って、必ずや道は切り拓かれてゐるはずだ、いや切り拓いて行かねばならないといふ明治天皇の強い御意志を感じるのである。

 百余年後の現在の日本も同様ではなからうか。東シナ海から西太平洋海域の覇権を狙ふ中国が、わが尖閣諸島(沖縄県石垣市の一部)を窺ってゐる情勢下、明治天皇のお心を仰ぎつつ、強い意志を持って進んでゆかなければならないと思ふ。これは決して戦ひを好むといふことではない。守るべきことは守るといふ覚悟が求められてゐるのである。

 明治天皇の強い御意志を感じることによって、私自身も勇気づけられ、励まされるやうに思ふ。をりにふれて拝誦する一首である。

     神祇    (明治37年)
   くにのため身をかへりみぬますらをに神も力をそへざらめやは

 「そへざらめやは」といふのは、「力を添へてくれないことがあらうか、いや力を添へてくれるに違ひない」といふ強いご表現である。この御製を拝誦すると思ひ出されるのが、似た表現が使はれてゐる、同じ明治37年にお詠みになった「くにのため身をかへりみぬますらををあまたえにけりこの時にして」といふお歌である。日露戦争といふ国家の一大事の時に、自らの身を顧みず雄々しく戦ふ「ますらを」が、よくぞこんなにもゐてくれたものだとの、ご感慨が伝はって来る。このご感慨があられたからこそ、そのやうに自らの命を顧みず戦ふ「ますらを」には、必ずや神々も力を貸してくれるに違ひないといふ、ご確信につながってゐるのだと思ふ。同時に、身を顧みず戦ってゐる「ますらを」に、どうか力を貸していただきたいと、神々に祈ってをられる明治天皇のお姿が遙かに偲ばれるのである。

 自らの「身をかへりみ」ず戦ふといふのは大変なことである。しかし、日露戦争の時、我々の先人はこのやうに戦って国を守ったのである。そして今がある。有難いことである。

 二首目のお歌には、明治天皇ご自身のご決意が詠まれてゐる。この御製には、日露戦争に臨む国民の姿が詠まれてゐる。これらの御製を併せて拝誦すると、日露戦争の時、国全体が一丸となってゐたのだといふことが強く感じられるのである。

     をりにふれたる    (明治39年)
   親も子もうちつどひてやいくさ人ことしは家の花をみるらむ

 「いくさ人」は、まさに先の御製に詠まれた、「身をかへりみ」ず戦った「ますらを」であらう。その「ますらを」も、戦争が終結した今年は、戦地から自分の家に戻って来てをり、家の庭に咲いた桜の花を家族そろって見てゐるのであらうか、とのお歌である。「いくさ人」自身が親であり、また子であったであらう。戦地では雄々しく戦ったますらをも、今日は穏やかな表情で花を観賞してゐるに違ひない、そんな情景をお詠みになってをられる。

 春になった家族と共に花見をするといふのは、普段であれば何でもないことかも知れない。しかし、「身をかへりみず」戦ふ覚悟を持って戦地に赴いた「いくさ人」にとっては、再び子供と共に、或は親と共に花見が出来るといふのは格別なものであり、感慨深いものであったに違ひない。そして、この御製からは、そのやうな情景にあたたかな目を向けてをられる明治天皇のお心が伝はって来るのである。「よもの海はみなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」と詠まれた明治天皇は、再び平和な世が戻ったことを深く深くお喜びになってをられたであらう。

 一方で、戦地で命を失ひ、帰国の途につけなかった兵士もゐた。その家族もまた、そのやうな夫や息子とは再び生きて会ふことは出来なかった。明治天皇が、これらの命を失った人々のことや、遺族の身の上を数多く詠まれてゐることも忘れてはならない。

     柱    (明治42年)
   橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより国はうごかず

 「とほつみおや」は祖先のことを言ひ、「橿原のとほつみおや」で、橿原の地で日本の国を御建国なさった神武天皇を指す。古事記では、神武天皇の東征の物語と、御建国の場面は、次の言葉で結ばれる。

  「かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏はぬ人どもを退け撥ひて、畝火の白檮原の宮にましまして、天の下治らしめしき」

 「橿原のとほつみおや」といふ御表現からは、この古事記の言葉とともに、古事記に描かれる神武天皇の東征の物語が自然と思ひ出されて来る。また、この御製はスケールが大きく、ゆったりとした調べを持ったお歌であると思ふ。さういふところからも、この御製を拝誦してゐると、自づと日本の歴史が偲ばれて来る。

 その神武天皇が日本国の礎をお築きになってから、今に至るまで国のかたちは変ってゐないのだ、と詠まれてゐる。明治天皇の御実感と御確信であらう。そして、そのやうな国を守り伝へていかねばならぬといふお気持ちも感じるのである。

 初代神武天皇から明治天皇まで122代、今上陛下までだと125代、国のかたちが変らないといふのは、改めて考へてみると、実にすごいことである。思ふに、日露戦争の時に国が一体となったといふのも、国のかたちが変らないといふことの一つの表れだったのではなからうか。

 この御製に詠まれてゐるやうな、長い間に渡って国のかたちが変らない、この日本の国に生を享けたことを有難く思ふ。そして、その豊かな歴史を少しでも学び、伝へてゆきたいと思ふ。

 (補記)今回、国民文化講座のやうな場所で、御製を拝誦させていただき有難うございました。明治天皇の御製を拝誦すると、自づと背筋が伸びるやうに思ひます。明治天皇が、実に澄みきったお心持で、お詠みになってをられるからだと思ひます。

 なほ、今回御製拝誦を担当させていただくに当っては、内海勝彦先輩から多くのご助言を頂戴しました。篤くお礼申し上げます。

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 編集後記

 日本の「百」を「五十」に、自国の「零」を「五十」に…。先づは五分五分にして「尖閣」を掠め取らうとする中国の「棚上げ論」。こんな「子供騙し」に乗せられる「大人」も醜いが、「棚上げ」の詐術をなぜ新聞・テレビは正面から批判しないのか。何が「言論の自由」だ。その病状は深刻だ!。

(山内)

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