国民同胞巻頭言

第620号

執筆者 題名
第58回合宿教室運営委員長
廣木 寧
「阿蘇合宿」の小林秀雄
- 今夏の厚木合宿への誘ひ -
澤部 壽孫 所謂「靖国問題」に思ふ
- 問題の根は中・韓ではなく国内にあり -
夜久 正雄 亜細亜大学アジア研究所 所報第54号(平成元年5月)所載
聖徳太子の憲法と「ブッダのことば」蛇の章・随想

(スッタニパータ)
寺子屋モデル編著 日本の偉人100人』(上)から新渡戸稲造

- 英文『武士道』で日本精神を世界に広めた真の国際人 -
国文研福岡事務所 8周年事業報告会
『郷土福岡の偉人たち』を披露
 

     

 ことしは小林秀雄さん歿後30年に当る。さう知って、あらためて小林さんの60年に及ぶ文業を思ひ直す。

 小林さんは人間の進歩といふものを少しも認めてゐなかった。僕らの生活のありやうは著しく進歩した。しかしそれは僕らが進歩したのではない。歴史は進歩の途上になんかありはしない。科学と社会思想が発達した西欧では思想が混乱し、その混乱が東漸したから、日本でも、歴史と人との関係が大きく変ったのである。歴史は、僕らが謙虚に教へを請ふ先生ではなくなり、僕らの観かたひとつでどうにでもなるものになった。小林さんはこの混乱の渦中にあって、史観といふもののあやまりを指摘され続けた。例へば、こんな風に。- 「日本の歴史が、自分の鑑とならぬ様な日本人に、どうして新しい創造があり得ませうか」

     

 小林秀雄さんは昭和53年に阿蘇で開かれた国民文化研究会主催の第23回全国学生青年合宿教室に出講された。演題は、前年に出版されて日本文学大賞を受賞し話題をさらつてゐた大著『本居宣長』に関連した「感想- 本居宣長をめぐって」であった。

 僕たちは文字なき世を遠く野蛮未開な世のやうに思ひなしてゐる。僕たちの頭は、歴史は進歩して来たのだと思ひ込まされてゐる。だから、紀元前のはるか昔に文字を発明した大陸の人々に、畏敬の念を覚えてゐるのである。

 日本人が独自の文字である仮名文字を、漢字をもとにつくり上げたのは平安時代のことであった。だから、奈良時代以前の作である『古事記』も『萬葉集』も、漢字を仮名として用ひた“萬葉かな”でつづられてゐた。漢字を仮名のやうに表記に用ひたのである。つまり、当り前のことだが、文字はなかったが、国語(日本語)はあった。その語彙の豊かさは『古事記』にも『萬葉集』にも明らかなのである。語彙の豊かさは情感の豊かさでもある。僕らの遠く及ばぬ豊かさの内に、宣長のいふ「上古」の人たちは生きてゐた。

 阿蘇の小林さんは宣長の「くず花」の文を引かれた。- 「文字を使ひなれた今の世の心で文字なき世のことを思ふと、すべてに、文字を使ひなれた今の世の方がはるかにまさつてゐると、誰も思ふだらうが、文字なき世の人の心に立ちかへれば、言伝へのみでも何の不便もなかつたはずだ」- 宣長は続ける、- 「文字は不朽の物なれば、一たび記し置きつる事は、いく千年経ても、そのままに遺るは文字の徳也、然れ共文字なき世は、文字無き世の心なる故に、言伝へとても、文字ある世の言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし」

 小林さんは、この「くず花」の文を引いた後に、自らの切実な体験から生れた言葉で、次のやうに述懐された。 「万事を外部にある文字といふ記号に托して、安心して了ふから記憶力といふ内部の力を働かすことを怠る。記憶力とは即ち精神力である。記憶力が鈍るとは、自発的な精神力が駄目になるといふ事です。過去を自分の力で常によびさましてゐるからこそ、僕は現在生きてゐるのです」

     

 人間は進歩などしてゐない。それどころか、自らが造ったもろもろの発明品に自己を托して僕らの精神は退歩してゐる。さういふ発明品に文字があり、史観がある。一切の史観を離れて、僕らは過去をよびさまさなくてはならない。宣長に、文字を知らぬ古への人々が「うきたることさらになし」と讃嘆されたのは、わが先祖たちが過去に、歴史に、支へられて現在を生きてゐたからだ。

 今年も八月に、歴史に学ぶ「全国学生青年合宿教室」が開かれる。場所は神奈川県厚木である。山ふところにある“七沢自然ふれあいセンター”でしばし俗事を忘れて先人の言葉に心をゆるさう。

((株)寺子屋モデル世話役講師頭)

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     歪んだマス・メディアの報道

 靖国神社への閣僚参拝にまたぞろ中・韓両国が言ひがかりを付けて騒いでゐる。如何なる恫喝にも屈しないとの安倍首相の言葉は良識ある国民が待ち望んだものであった。

 靖国神社は、戊辰の役、日清戦争、日露戦争および大東亜戦争で国のために尊いいのちを捧げられた私達の祖先の御霊が祀られてゐる。「靖国で会はう」と誓って散華された英霊がまつられてゐる。そもそも祖先の御霊をまつるのは我が国古来の伝統であって、英霊をまつるのに外国から文句を言はれる筋合ひは全くないのである。ところが、NHKや朝日新聞等のメディアは、その理不尽さには一言もふれずに、あたかも閣僚の靖国神社参拝や安倍首相の歴史認識の所為で日本と中・韓の関係が悪化してゐるかのごとき報道をしてゐる。

 中・韓両国が主張する「正しい歴史認識」とは日本が過去の戦争を謝って中・韓両国に何らかの代償を支払ふことを意味してゐる。その歴史認識に日本国内の反日勢力が賛同し、対日工作協力してゐる。問題は中・韓両国にあるのではなく、それを許してきた日本国内にある。日本の文化・伝統を極端に軽視して憚らない思潮は何時始まったのであらうか。戦後の占領政策もさることながら、明治以降、西欧文明を必死に吸収し同化しようとして来たが、日本人の一部がその途上で呑み込まれてしまったからではなからうか。

     明治時代の光と影

 明治天皇が、明治元年、天地の神々にお誓ひになった「五ケ条御誓文」で明治の御代は始まった。開国して、日本はそれまでの「藩」といふ壁で分けられた鎖国の体制から、世界にはばたき欧米列強に伍する「国」づくりのために、西欧文化を積極的に取り入れようとして、活気ある明治の文化を生み出した。同時に西欧諸国の東洋への侵略の動きから日本を守るべく全力を尽した。

 朝鮮を独立させる為に清国と戦ってこれを破り、日本へ迫らうとするロシアの侵略の牙、魔手を払ふべく、東洋の運命を一身に背負ってロシアと戦ひ勝利した。当時の朝鮮は清国の顔色を窺ふばかりであり、また清国には、アヘン戦争以来、欧米の列強から自国の独立を守らうとする気概は、全く失はれてゐた。明治天皇を中心に独立を死守した日本は世界の人々を驚嘆させた偉大な明治の時代を作り上げたのである。

 この事実を意図的に隠して、占領史観の眼鏡で過去を見て、日本が勝手に侵略したといふのは、歴史への冒涜以外の何物でもない。

 開国和親の方針で、西欧文化を積極的に取り入れようとする一方では、高層ビルと近代文明に代表される西欧文明に圧倒され幻惑された結果、日本の文化・伝統を蔑ろにする風潮が、特に知識人や官僚の間に蔓延し、その結果、維新の志士達が何よりも尊び大切に考へて来た忠孝を始めとする建国の精神は学校で教へられなくなった(明治10年代)。これを深く憂へられた明治天皇が、地方の実情を知る知事達の意向をも踏まへて出されたのが明治23年の『教育勅語』である。また、前年には井上毅らが徹底的に建国の精神を考慮して案文を練った『大日本帝国憲法』が公布されてゐる。

 しかしながら、建国の精神を忘れ、西欧文化になびいて、形の上では「愛国」を叫びながらも、自国の文化・伝統への共感なき思潮は、大正、昭和へと続き、軍部による政治が台頭してきた昭和初期には、世の指導層である学者や政治家を蔽ふかのごとき社会事象となってゐた。東京大学では、ことに法学部では西欧の学問が幅を利かせて、日本の歴史伝統は軽視されて教へられなかったといふ。元来、幕府の再来を望まれなかった明治天皇が明治15年に出された所謂、「軍人勅諭」によって軍部の政治干与は、許されてはゐなかったのであるが、軍部は天皇の御意志を無視して日本人本来の生き方とは反する政治を行った。

 この軍部の間違った思想を学者やマスメディアは正すべきであったのに彼らはその使命を果さず、逆に軍部に協力した。ABCD(米英中蘭)ラインによって包囲された日本は大東亜戦争に突入せざるを得なくなり、日本人は全国民が一丸となって戦ったが、武運つたなく敗戦になった。日本は負けたがアジアの諸国は独立を勝ち得たのである。

     占領政策と進歩的文化人

 敗戦になるや、軍に全ての責任を転嫁し、いち早く転向して自分の身を守ったのが進歩的文化人と称する知識人達でありマス・メディアであった。

 硫黄島、沖縄戦あるいは、特攻隊、人間魚雷などに見られた日本人の敢闘精神に震へ上がった占領軍は日本精神の消滅を図った。当初靖国神社を焼き払はうとした占領軍はそれをあきらめ、神道指令を出して戦前の日本人の生き方を徹底的に否定し、さらに戦没英霊を祀るといふ「万国普遍の国民道徳」を分らなくするため、靖国神社を一宗教法人になるやうに強制したのであった。

 また、日本人の本来の生き方とは程遠い「日本国憲法」を制定し強制的に受け入れさせた。さらには国語の革命(漢字制限と仮名遣ひの変更)等を行ひ徹底した検閲で言論統制と言論弾圧を行った。日本の悲劇は、この占領軍に協力したのが、日本の文化・伝統を極端に軽視する前述の知識人達であり、その流れをくむ日教組であったことであった。その人達が各界の指導的地位についたのである。憲法学者・宮沢俊義が唱へた「8月革命説」は占領軍に媚びたもので彼らには好都合な説であった。

 昭和天皇が、昭和27年に「平和条約発効の日を迎へて」と題し、
     風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり
とお詠みになり、真の独立を願はれたが、当時、このお声に耳を傾ける要人はゐなかったのもむべなるかなである。戦前は全て悪であると決め付け、戦後民主主義や平和憲法といふ美名の下に、自国の文化を侮辱する風潮は各界即ち、政界、官界、司法界、教育界、学界におよび全国津々浦々に広がって現在に至ってゐる。昭和初期から大東亜戦争終結に至るまでの思潮については吟味されるべきであらう。

     腹立たしい歴代内閣の愚行

 昭和五十七年、教科書検定誤報事件に端を発し、当時の自民党政権(鈴木内閣)は宮澤喜一官房長官談話を発表した。新聞と野党が中国に協力して教科書の検定を他国に委ねたのである。昭和60年8月、中曽根首相が靖国神社を公式参拝した時に、内部問題を抱へてゐた中国側は「日本軍国主義により被害を深く受けた中日両国人民を含むアジア各国人民の感情を傷つけることになろう」と言ひ立て、特に「東条英機ら戦犯が合祀されている」と批判した。

 しかし、既に昭和27年4月28日に平和条約が発効したことを受けて、翌年8月、国会(衆院)で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択され、さらに戦病者戦没者遺族等援護法が改められて、軍事裁判で処刑された者(千余名)を「法務死」として戦死者と同じく遇することとしてゐるのである。それから32年後、この間、日中で平和条約を締結してゐるにも拘らず、日本政府の要人たちは中国の言ひがかりに屈して、中曽根首相は、翌年(昭和61年)からの靖国参拝を取り止めた。他国の理不尽な恫喝に屈して祖先伝来の英霊をまつることを取り止めた中曽根首相は、国家の生命よりも保身のため日中関係を重んじたのである。現在に至る禍根を残した罪は重い。

          8月15日

     この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし

 右は昭和天皇の御製である。「この年のこの日」とは、中曽根康弘首相が靖国神社参拝を中止した日である。何と痛切な思ひに満ちた御歌であらうか。政治家の国家意識のなさと無知であると言ってはすまされない、国民の一人としてまことに申し訳ない気持ちで一杯である。御親拝の日が一日も早く実現することをこひ願ふものである。

 その後も、自民党政権は、謂れなき恫喝に屈して河野談話、村山談話、を発して、先人を貶め将来に禍根を残す愚行を重ねて来た。

 平成14年に来日したブッシュ米国大統領が靖国神社を参拝しようとしたが、こともあらうに外務省がそれに反対し、参拝場所は明治神宮に変更された。米国大統領が靖国神社に参拝してをれば所謂靖国問題は吹き飛んでゐたであらうに、国家の後先を考へない政治家と官僚の無責任には本当に腹立たしい限りである。

 昭和26年から昭和60年まで歴代の首相は公式参拝を行ってゐる。その事実を無視して、いまだ国内の一部には「政教分離の原則」を盾にとって靖国神社への公式参拝は違憲であるとの主張がくすぶってゐる。先祖代々行はれてきた伝統を憲法が否定するのであれば、憲法が間違ってゐるのであって、日本国憲法は一日も早く改正されるべきである。

 近隣諸国に侮られない軍事力をつけ、そのための法整備をすることも大事であるが、豊かな日本語と美しい文化・伝統を一人一人の胸に蘇らせて、それを守らうとする意志無くしては日本を守り抜くことは難しいと信じるものである。

(本会副理事長、元(株)日商岩井)

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     1、貪・瞋・痴

 私は手術中意識を失ったことがある。ずっと昔(昭和25年)のことになるが、胸郭整形手術で肋骨を切る手術中のことである。麻酔が完全にきかなかったらしく電気メスの電気が心臓にひびいて、死ぬやうな痛さと恐怖とを味はった。そのうち、気がつくと、光恍たる真白な光の中に目が覚めたのである。何の不安も無い。ただ白色の光恍たる光の中である。やがて光は消えて痛みの意識がもどる。呻き声が出る。気を失ふ。やがてまた白光恍たる光の中に目が覚める。あとで、死ぬ時は、最期はああいふふうになるのか、と思った。生きてゐる間は死ぬのがコワイが、いざ死ぬときは、不安は無くなってしまふ、光の中にあるだけのことか、と思ったら、何だか死ぬのもコワくなくなった、といふより、コワイと思ってゐる間は、死なないのだ、といふわけである(その後これに似た感じを味はったことがある。この病気が直って、恩師のお墓にお参りした時である。一瞬目が眩んで白光恍たる光が私を包んで消えた)。

 それで、といふほどではないが、老人になったら自然に煩悩がうすらいで、人間が清くなるのだらう、と思った。老いて清らかになった老人を何人か見てもゐる。ところが、私はだめで、老人にはなったが、煩悩はなくならない。なくなるどころか、薄らぐこともない。

 たしかに、煩悩の中の情欲は、なくなりはしないが、衰へたことは事実である。これも人によることだと思ふから、衰へまいとしてカキ立てれば何とか盛り返すことはあるかも知れないが、同年の老人たちもみな口にするから、一般的には、衰へる、と言ってよいであらう。

 しかし、ほかの感情は、衰へるどころか、ヒマになったせゐか、ますますひどくなるやうに感じられる。

 「煩悩」といふのは、「貪・瞋・痴」(むさぼり・いかり・ねたみ)が主であるといふが、どれもこれも、老来ますます盛んである。これではいかんと思って、信仰する聖徳太子の十七条憲法のいましめを唱へる。

 ○忿を絶ち瞋を棄て人の違ふを怒らざれ。
○群臣百寮、嫉妬あることなかれ。我既に人を嫉めば人また我を嫉む。嫉妬の患、その極を知らず。
○餮を絶ち欲を棄て明らかに訴訟を 辨へよ。

 私は幸ひに「群臣百寮(僚)」にもならず、裁判官にもならず、生涯私大の教員で、いまは年金生活者だから、収賄などできる身でもないが、悪事のもととなる「貪・瞋・痴」については、彼ら「群臣百寮」にひけをとらないだらうと思ふ。

 貪・瞋・痴いづれも、昔にくらべてかへってひどいやうに思へて悲しい。それで、さういふ気持が起る時に、慌てて太子のいましめを唱へるのである。

     2、聖徳太子の憲法とブッダの言葉

 中村元博士訳『ブッタのことば- スッタニパータ- 』といふ本がある。岩波文庫で出てゐる。「スッタ」は“経”、「ニパータ」は“集”の意といふ。“お釈迦さまの教へを集めたもの”といふ意味である。その表紙のカバーに「数多い仏教書のうちで最も古い聖典」とあり、「解説」に、「現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である」とある。

 その第一章は「蛇の章」である。最初から「蛇の章」とあるのでゾッとしたが、「解説」を見ると、「日本人は異様な感じを受けるであろう。しかしインドでは云々」とあって、「インドの風土的背景」では、「蛇が霊力を以って神々をまた人々を護ってくれる」と信じられてゐると説明してある。なるほどと思ふ。

 さてその「蛇の章」の1は、さらに「蛇」の題で、1から17の詩句で成り立ってゐる。

  「1 蛇の毒がひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。- 蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」

 太子憲法の「忿を絶ち瞋を棄て人の違ふを怒らざれ」と同じ戒めである。

 つづいて「2」は 「愛欲」、「3」は「妄執」、「4」は「驕慢」、「5」は「諸々の生存状態に堅固なものを見出さない修業者」すなはち諸々の生存状態に固執すること- 慳貪か?、「6」は「栄枯盛衰」、「7」は「想念」、「8」は「妄想」、「9」は「虚妄」、「10」は「貪り」、「11」は「愛欲」、「12」は「憎悪」、「13」は「迷妄」、「14」は「悪習」、「15」は「煩悩」、「16」は「妄執から生ずるもの」、「17」は「苦悩」について、それぞれからの超脱を説くのである(聖徳太子の17条憲法と同じ「17」とあるのも不思議であるが、これは次の項目につづいてゆくので、偶然の一致であらう)。右の「蛇」の教へを読むと釈迦の教へとは、一口で言へば、煩悩を捨てること、人生に対する執着を捨てることにあることがわかる。

 聖徳太子が読まれたのは、漢訳の大乗仏典であって、右の「蛇」の17条項をお読みになったわけではないが、“煩悩を捨てよ”と教へるのは、仏教すべての教へであるから、太子はこの教へを受容して、「貪瞋痴」を戒められたのである。その点は同じである。

 ところが、前掲の「蛇」の「一」に見るところは、「怒りが起ったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る」と言って、煩悩を断つことによって、「この世とかの世とをともに捨て去る」ことが出来るとしてゐるのである。

 「この世とかの世とをともに捨て去る」とは、現世の束縛を捨てるとともに死後の輪廻、三界六道の世界をも捨て去ることを言ふのであらう。人がこの世にあるのは、「人間」の生であるが、それは、人・天・地獄・餓鬼・畜生・修羅といふ六つの世界- 六道を輪廻する間の「人」の世界にすぎない。人間が死んだ暁には、次の世界生れ変って、永劫の苦の世界を流転する。これが、仏教の輪廻の思想で、「この世とかの世とをともに捨て去る」とは、この輪廻の苦から解き放たれて、永劫の安心・平和の世界に入るのである。

 この輪廻の信仰は、ヒンズー教にもある生れ変りの信仰と同じで、インドの「三つ子の魂」(梶村昇教授著『日本人の信仰』)と言ってよいかも知れない。煩悩を捨てることによって、その輪廻から解き放たれる、といふのが、前記のブッダの説教である。これは大乗仏典にも三界内外の煩悩からの超脱として説かれてゐる。

 ところが、聖徳太子「17条憲法」に、「貪瞋痴」を捨てよ、とすすめるのは、輪廻からの解脱ではない、団体協力生活の維持発展のため、といふことなのである。ここに大きな違ひがある。

 前述の「忿を絶ち瞋を棄てよ」とは、まづ「人の違ふを怒らざれ」とある。人との共同協力生活の上でのいましめである。それはさらにその結果どういふことになるかといふことについて、詳しく述べてある。

  「人皆心有り、心各々執あり。彼是とするときは我即ち非とす。我是とするときは即ち彼非とす。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫のみ。是非の理、ぞ能く定むべけむや。相共に賢愚なること鐶の端なきが如し。是を以て彼の人瞋ると雖も、還って我が失を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙へ」

とある。

 「忿を絶ち瞋を棄て」、人が意見を異にするときにも怒るな!といふのは、彼我相対の人生の姿に目覚めて、和合協力の生を実現するためである、といふのである。

   「群臣百寮、嫉妬あることなかれ」とあるのも同じである。

 「嫉妬」に直接該当する釈迦の言葉はないが、「迷妄」は「貪・瞋・癡」をいふ語釈(「癡」=「痴」)にあるから、これを当ててよいであらう。「13」に、「迷妄を離れた修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。- 蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」とある。

 太子憲法には、

<
  「十四に曰く、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。我既に人を嫉めば人また我を嫉む。嫉妬の患、その極を知らず。所以に智己に優れば則ち悦ばず、才己に優れば則ち嫉妬す。是を以て五百歳の後乃ち今賢に遭はしむとも千載以て一聖を得ること難し。其れ聖賢を得ざれば何もって国を治めん」

とある。お互ひに嫉妬しあふ世界では聖賢がゐても彼を発見することができない、それではどうやって国を治めることができるか、といふのである。お互ひに人の足を引っぱるやうなことをすれば、本当の指導者を選び出すことができない、- とは、民主主義が衆愚政治に陥る弊を痛烈に指摘したお言葉である。

 これまた「この世とかの世とをともに捨て去る」ためのものではない。国の政治のために人々がお互ひの嫉妬心をとどめよ、と述べられたのである。

 「貪り」については、憲法の方に直接の条項が無いので、裁判における収賄の例をあげたのであるが、それも、最後には、その結果が、「貧しき民依るところを知らず」「臣道も亦焉に於て闕く」とするのである。昭和現代のロッキード事件とかリクルート事件とかを見てゐるとつくづく思ひ当るところである。

 右のやうに見てくると、「ブッダの言葉」の条項の徳目を見る限りは、17条憲法の徳目と似てゐるが、その目的に大きな相違があることがわかる。

 それは一口で云へば、ブッダも太子も煩悩・迷妄を断つことをすすめることは同じであるが、「ブッダの言葉」は「この世とかの世」(現世ならびに、三界六道の輪廻)からの離脱を目的とするの対して、太子の憲法は、日本の国の政治の浄化- 国家国民生活の安寧を目的としてゐる。

 だからと言って「ブッダの言葉」を個人的超脱を目指す教へと言ひ切れないのは、輪廻思想そのものがヒンズー思想の根本にあって、これがインドの人の心の束縛となってゐる、とブッダが観じてゐると思はれるからである。つまりがブッダの言葉はヒンズーの思想の改革の路線に於て語られてゐるとみることができる。云はば民族的な宗教改革で、その点で単なる個人の超脱を求めてゐるといふことはできない。

 しかし、右のブッダの思想をそのまま日本人が受け容れるとすると、古代日本人には輪廻の思想が無いのであるから、意味をなさないことになる。ブッダの言葉を受け容れるのに、何の痛みも感じないやうなことになるのである。輪廻の思想や地獄・極楽の信仰が日本人に根づくのは「日本霊異記」(奈良時代)あたりからであらう。

 そこで聖徳太子は、現実具体の人生において- これが日本人の関心の的なのである- 煩悩がいかに働いてゐるかを示して、それを解決する道を示したのである。日本人の関心は、過現未にわたるこの世であって輪廻のあの世ではない。太子は、過現未のこの世を問題にしたのである。

     3、宗教と他界信仰

 一般に、死後の生を問題にするのが宗教で、この世の生を問題にするのが哲学・倫理といふが、それなら太子の思想は宗教ではない、といふことになるが、どうであらうか。

 他界を信ずるのが宗教であるとすると、キリスト教徒や仏教徒や回教徒やヒンズー教徒にだけ宗教があって、日本人の神道や日本的仏教は宗教ではない、といふことになる。もっとも日本人の祖先崇拝は祖霊信仰であるから、祖霊の世界を信じないわけではないが、その形は漠としてゐて他の宗教のやうな明確な形を持たないのである。

 キリスト教の天国を信じる人は、死んだら天国に行くだらう。浄土を信じる仏教徒は、浄土・極楽に行くのだらう。いづれも昇天するといふ。回教徒も同じであらう。ヒンズー教の信者も、死体をガンジスの河の流れに浄められて昇天する、といふ。「昇天」はいいが、さういふ生れ変りの信仰を持たない私は、どうなるのだらう?

 死体は火葬に附され骨は寺の墓地に埋められるが、私の心はどうなるのだらう。もちろん、死んでしまへば、心も働かないが、死ぬまへの心はどうなるのだらうか。したしい人の思ひ出の中にのこるだけで、全く働かないのだらうか。テレパシーのやうなこともあるのだから、死の直前の心が死を超えて働かないわけもあるまい、とは思ふが、魂が身体から抜け出て、働くのは、生き霊で、死んでからまでその魂が長くのこるのだらうか。それはわからない。残るとも云へるし、残らない、とも云へよう。ただ、確実なのは、コトバは残る、といふことである。心はコトバとなり、コトバは文字となって、いつまでも残るのである。日本語のある限り。私の言葉を読む後の人の心のなかに。- 読む人があれば、の話しではあるが。

 聖徳太子は、西紀622年、1366年前亡くなったが、17条憲法は、いまも生きて私の心のいましめとして働いてゐるのである。その意味では、キリストの言葉も「ブッダのことば」も同じである。孔子の言葉も生きてゐる。

 つまり、われわれは死んでも、この現実の国家国民生活の「広大なことばの世界」- いのち- の中に生きてゐる、といふことになる。このいのちの中に生れて来て、このいのちの中で死んでゆくのである。このやうな考へは、宗教的では無いのだらうか。

(亜細亜大学名誉教授)

- 亜細亜大学アジア研究所所報第54号・平成元年5月20日 -

 夜久正雄著  国文研叢書26  「しきしまの道」研究

 800円 送料210円

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     明治天皇とクラーク博士

 文久2年(1862)、盛岡藩の武士の家に生れた新渡戸稲造は、札幌農学校(現在の北海道大学農学部)を卒業、アメリカやドイツに留学した農学者であるとともに、京都大学教授、第一高等学校校長、東京大学教授、拓殖大学学監・東京女子大学初代学長等を務めた教育者としても有名で、農学、法学、哲学の博士号をも取得してゐます。

 さらに国際連盟の事務次長就任、貴族院議員選任など、その活躍は国の内外に及びました。昭和8年(1933)8月、第5回太平洋会議の日本代表としてカナダに渡り、会議の終了後、同年10月ビクトリア市を旅行中に倒れて712年の生涯を閉ぢました。

 もともと新渡戸家の家系は進取の気性の富んでゐました。祖父の傳は「十和田・三本木原」の新田開発を藩に働きかけ、その子の十次郎(稲造の父)の二代にわたって開発に取り組み、原野を水田に生れ変らせてゐます。今日の青森県十和田市の発展は傳、十次郎父子の労苦を抜きしてはあり得ません。

 新渡戸の幼名「稲之助」は新田開発成功の翌年に生れたことにちなんで付けられたものでした。

 明治九年(1867)6月、東北、北海道御巡幸(天皇が国内を見て回られること)中の明治天皇は三本木の新渡戸家にお立ち寄りになり、原野開拓に献身した傳、十次郎父子の功績を賞讃され、家族に「子々孫々克く農業に励めよ」とのお言葉を賜ってゐます。当時、東京で勉学中の新渡戸は母・せきからの手紙で、天皇の御言葉を伝へ聞いて、「農業発展に寄与することが、私の責任である」と考へたと、のちに記してゐます。

 新渡戸が学んだ札幌農学校と言へば、明治9年に来日して学校の創設に関り、「少年よ、大志を抱け」の言葉を残して翌年帰国したアメリカ人のクラーク博士が有名です。札幌農学校に二期生として入学した新渡戸は、クラーク博士から直接学んだ一期生の勧めでキリスト教に入信しました。

 のちに無教会主義を唱へ、「二つのJ」つまり、Jesus(イエス・キリスト)とJapan(日本)に仕へることを念願とした内村鑑三も新渡戸と同期に入学してキリスト教の洗礼を受けてゐます。

     名著『武士道』の誕生

 明治16年、東京大学に進んだ新渡戸は、際面接官に「私は太平洋の橋になりたいのです」と述べました。

 「日本の思想を外国に伝へ、外国の思想を日本に伝へる橋になりたい」といふ大きな願ひは15年余りのちに名著『武士道』となって実を結びました。

 “The Soul of Japan”(「日本の魂」)といふ副題のついた“Bushido”『武士道』は、明治32年、アメリカで病気療養中に英語で書かれ、まづ米国で出版されました。新渡戸38歳のときのことです。

 かつてドイツ滞在中にベルギーの法学者から「日本では宗教教育がなされないと言ふが、ではどうして道徳教育をしてゐるのか」と問はれたのに即答できず、やがて日本人に善悪の道徳観念を教へているものは武士道であったと気づいたのが執筆のきっかけとなったのです。それはまた、アメリカ人メアリーと結婚してゐた新渡戸が愛妻に語った「日本の思想や風習」をまとめたものでもありました。

 われわれが今日目にする『武士道』は日本語訳されたもので、新渡戸の教へ子の矢内原忠雄が訳したものが岩波文庫に入ってゐます。新渡戸の英文“Bushido”はその後フランス語。ドイツ語、ロシア語、ポーランド語。ノルウェー語、ハンガリー語など十七ヶ国に翻訳されて、文字通り「日本道徳の価値」を世界に知らせることとなりました。

 明治38年、日露戦争の講和をあつせん斡旋したセオドア・ルーズベルト米国大統領は、終戦工作のためアメリカ訪問中の金子堅太郎(ルーズベルト大統領とはハーバード大学の同窓生)から贈られた新渡戸の“Bushido”を読み、日本への認識を新たにしたといふ有名なエピソードもあります。

 新渡戸にとって、武士道とは「私が少年時代に学んだ道徳の教へ」「私の正邪善悪の観念を形成してゐる各種の要素」でした。新渡戸は、それらを「私の鼻腔に吹き込んだ」ものが武士道であったと言ってゐます。すなはち、武士の家に生れた新渡戸自身が成長する中でごく自然に身につけていったもので、それにキリスト教徒の立場から西洋や東洋の先人の言葉を多く引用対比しながら光を当たのでした。

 「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」など、現代の日本人にとって、改めて見直すべき精神性そのものが名著『武士道』には具体例を伴ひつつ溢れてゐます。

(以下略、もと現代カナ)

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 「(株)寺子屋モデル」「NPO法人教育オンブズマン」と併せた三位一体の活動を展開して八周年を迎へた事業報告会が、去る4月16日(火)夜、120名余の人達が集って福岡市内で開かれた。今回は昨年7月に致知出版社から刊行された『日本の偉人100人』(上下2巻)の出版記念会を兼ての開催となった。

 国歌斉唱で始まった報告会では、冒頭、寺子屋モデル代表世話役社長の山口秀範常務理事から主催者挨拶と「三事業の報告」がなされた。次いで来賓のローム・アポロ(株)取締役名誉会長、牧之内繁男様から御挨拶を頂戴した。

 懇親会では、石村悟氏((株)石村萬盛堂代表取締役、本会前理事)の挨拶に続いて、奧冨修一本会事務局長の発声で乾杯がなされたが、乾杯に先だって「新年度から公益法人としてスタートした本会は、これまで以上に自ら伝統文化を継承する団体として着実な歩みを続けて行きたい」との抱負が述べられた。しばし歓談の後、九州旅客鉄道(株)取締役会長、石原進様から御挨拶を頂いた。

 引き続いて『日本の偉人100人』の出版記念会にうつり、寺子屋モデル代表世話役講師頭の廣木寧氏が主催者挨拶を行った後、伊佐裕氏(伊佐ホームズ(株)代表取締役、本会理事)が執筆協力者を代表して挨拶をした。日本画家・東山魁夷の項を担当した伊佐氏は「若き日に東山さんに弟子入りすることを本気で考へた」との挿話を織り込みながら、偉人に学ぶことの教育的意義が語られた。

          ◇

 今回の事業報告会では、新刊の『郷土福岡の偉人たち』が披露された。西日本新聞の「タウン情報」(はかた版)に親子で親しむ人物伝tとして連載されたものに加筆を施して刊行したものといふ。本書では左記の人物が採り上げられてゐる。

○出光佐三- 日本人を励まし続けた「人間尊重」の人-
○廣田弘毅- 昭和日本の苦難を一身にに引き受けた政治家-
○野中千代子- 夫と共に富士山頂で 気象観測に挑んだ女性-
○加藤司書とその周辺- 幕末の筑前藩(平野国臣、黒田長溥、野村望東尼)-

 編著者の山口秀範氏は「刊行にあたって」で次のやうに記してゐる。

  〈今日、いやしくも日本の将来を語るときに、子供たちの「自尊感情」と「規範意識」の欠如を問題にしない人はありません。自分がこの世に生まれた価値を肯定できないという日本の子供たちの割合は、諸外国に比べて突出しています。また家庭や通学途中で、眉をひそめるような子供たちの言動を見ることも珍しくなく、かつて「礼節の民」を自他ともに認めていた日本はどこに消えたのかと憂慮されて久しいのです。

かかる事態に、「やはり道徳教育を強化すべきだ」という声がようやく高まり始めました。しかし「子供は大人の鑑」と言う通り、若い親たちのみならず多くの教師たちも、何をどう教え導けばよいのかと戸惑いを隠せません。今さら抽象的な徳目を並べてみても、子供たちの心に沁みとおるような徳育はできないでしょう。

かつて「修身」と呼ばれた人間 教育の中心は偉人伝でした。生き方のお手本に巡り会うことから、 子供たちはなすべき事と、してはならない事の区別を、次第に身につけて行ったのです。ことに「郷土の偉人」は身近で親しみやすく、小中学生にとって最適の道徳教材と言ってよいでしょう。

昨年の秋に「博多21の会」の例会で、「たくましい日本人を創る福岡からの教育維新」と銘打ったパネルディスカッションが開催されました。その席にパネリストとしてご一緒した福岡市教育委員会理事の大西浩明氏から、むしろ民間で作成した「郷土が生んだ偉人伝」を公教育に採用する方が早道かも知れない旨のご発言があり、そのことに意を強くしながら試作したのが本冊子です。〉

- カナ遣ひママ -

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 宴たけなはの中、(株)はせがわ代表取締役会長、長谷川裕一氏から御挨拶を頂戴した。最後に例年行はれる唱歌斉唱では今年は「背くらべ」が唱はれ、盛会の裡に事業報告会は終了した。

 

寺子屋モデル編著 『郷土福岡の偉人たち』 送別800円

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 編集後記

 先人の言葉に学ぶ- これほど人間的な営みが他にあるだらうか。人は血のみならず言葉でも過去と繋がるから人なのだ。「一身独立せざる者、国を思ふこと深切ならず」。さあ、今夏、厚木で己れを磨かう!

 (山内)

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