国民同胞巻頭言

第619号

執筆者 題名
山内 健生 今こそ、「11月3日」公布の重みを想起せよ!
- 憲法改正の「原点」を忘れてはならない -
寶邉 矢太郎 “心を寄せる”といふこと
中村 正和 「日本の再興」のために(下)
- 国史に貫流する「わが国の道」を闡明にせよ -
『名歌でたどる日本の心』から
吉村 浩之 「特攻機」に祈りを捧げた人々
國武 忠彦 新刊紹介

 例年5月3日の憲法記念日が近づくと、新聞各紙は社説その他で憲法を論じてきたが、さうした中で、なぜ「5月3日」が憲法記念日となってゐるのかについて、まともに説いたものを読んだ記憶がない。

 最近は、政権中枢の官房長官が「新しい日本を作るため自分たちの手で憲法を改正する。まず96条から変えたい。参院選でも96条の問題は争点になる」(4月8日付産経新聞)と講演しても、少しも問題化しないほど改憲が自由に語られてゐる。ひと頃は政党幹部はまだしも閣僚が改憲を口にすることはタブーだった。様変りしたものである。さうであれば愈々以て、憲法記念日が「5月3日」となってゐる所以を確認する必要があると思ふ。そこに「改憲」の原点があると考へるからである。

 その前に「96条の問題」について少し述べてみたい。

 憲法改正に関る国民投票への発議に衆参両院で「3分の2以上」の賛成を要するとの第96条の規定を「過半数」に改める そのためには衆参で3分の2の賛成を要するのだが といふのが「96条の問題」である。護憲派が衆参のどちらかで僅かでも3分の1を超えれば憲法改正ができないといふ規定を「改めるべし」との声が与野党から挙がってゐるのである。これに対しては「憲法改正に高いハードルを設けるのは当たり前だ」(3月13日付朝日新聞社説)との“正論”を装った反対意見もある。

 「3分の2」規定は、日本国憲法を起草したGHQが「占領下の日本」(「武装解除」された丸裸の状態)、即ち「第9条」の永続を意図したもの(改正困難な「硬性憲法」)と見て間違ひなからうが、現在衆院では480名の議席のうち、自民党(295名)と日本維新の会(54名)が、「3分の2規定を改正することで基本的に一致してゐる。みんなの党(18名)も前向きであるから、第96条改正派が衆院では3分の2を遙かに超えてゐる。そこで96条に絞った改正案を今国会に提出することで、「第96条の改正」を7月の参院選の争点にしようとする動きが出てきてゐるのである。

 前記の官房長官発言はかうした政治情勢を踏まへたものだが、北朝鮮の同胞拉致や共産中国の尖閣窺を目の当りにすれば、「平和条項を盛った9条の改正で合意するのは難しい。だから、まずハードルを下げようというのだとしたら、邪道というほかはない」(同前)などとする護憲論が色褪せるのは当然だらう。そもそも第九条を「平和条項」などとしてゐるところに根本的な錯誤がある。

 さて、5月3日の憲法記念日であるが、「祝日法」第2条に、〈憲法記念日 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する〉と記されてゐる。憲法記念日は昭和22年5月3日に憲法が施行されことにちなむ日であるが、それは憲法100条に、「公布の日から起算して6箇月を経過した日から、これを施行する」とあることを承けたものであった。GHQ起草の日本国憲法は、昭和21年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行されてゐるのだ(主権喪失の被占領期に於ける「憲法」制定の不条理については、ここでは触れない)。

 公布の「11月3日」は言ふまでもなく明治時代の天皇御生誕の祝日「天長節」に関る「明治節」であった。公布とは広く国民に知らせることであるが、11月3日の重みは今日の「文化の日」の比ではなく、小学校で式があり紅白饅頭が配られたといふから、大人達には甘い思ひ出が蘇る日だった筈である。多くの国民が「良い日」(佳節)と認識してゐる日に公布されたといふことは、大安に挙式するのに似て、「良い日」に公表されたものは良いものに違ひなからうとの予断を抱かせることにもなった筈だ。自らの関与を検閲で隠したGHQは、巧妙にも国民感情を計算に入れてゐたといふことだらう。

 主権喪失期に、強要された憲法ではあったが、「帝国憲法73条による帝国憲法の改正」(上諭の一節)の建前で、明治節の佳節に公布されてゐる。即ち明治時代を連想させる中で、明治憲法の改正として公布されてゐる。それ故に占領下の公布ながら正統性を感じさせるものがあったのではないか。「11月3日」公布といふことで、憲法を受入れた国民心理を想ひ起せと言ひたいのである。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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     自衛隊の労苦

 『3・11東日本大震災ドキュメント』(震災発生の平成23年7月刊)と題して派遣現場の自衛隊の最前線の様子を届けた写真集に忘れられない一葉がある。

 4月2日から宮城県石巻市で慰問演奏を続ける隊員の一人が演奏後、幼児達に囲まれた保母さんであらうその人の前に立ち、眼鏡をとって流れる涙を手で拭ってゐる、また彼女も涙にくれてその隊員を見上げてゐるのだ。近しい人や住み慣れた家を失った人たちの悲しみを間近に感じながら活動を続ける隊員たちにとって、被災者と交はすこころの交流は、お互ひ生涯の貴重な財産になるに違ひない。

 政治家から暴力装置と呼ばれ、あの阪神淡路大震災のときも自衛隊が給水給食、入浴支援のために展開した避難所に「自衛隊は憲法違反だから、施しを受けてはいけません」と書かれたビラをまいた国会議員もをった(この女性議員は今も国会で妙な発言を続けてゐる)。

 身内の安否より被災民の安否を優先し、国の護りと民の安全だけを考へ、“いかなる任務もにっこり、了解とのみ言え“の貼り紙の訓令に徹し、性別も分らぬ冷たき亡骸を黙々と背負ふ人たちの労苦に手を合せぬ人はをらぬ。戦争中も兵隊さんがそばにゐてくれれば安心と思ってきた父祖たちの気持は脈々と継がれてゐるのだ。

     あれから2年

 通勤の途中の某中学校の玄関近くに「離れちょるけど応援しちょるよ」との横断幕が「がんばれ東北、立ち上がれ日本」の副題のもとに今も掲げられてゐる。訊けば往時、気仙沼の某中学校に全校一丸となって義捐金や物資を送った由。

 しかし今、この横断幕の文言に誰か眼を止める人がゐようか。私も眼には写るだけであると告白しなければならない。

 たしかにあの日の大惨害を目の当りにした国民は身を慎んだ。家族も家も無事な者は慎むしかない。物が無くて何の文句が言へよう。交叉点ではお互ひに車を譲り合ひ、日頃とはたしかに違ふ疎通感があった。

     ある高校生の詩

 その生徒とは石巻西高3年生の片平侑佳君。昨年、高文連主催による文芸作品コンクール「詩」部門で最優秀賞の栄誉に輝いた。「潮の匂いは」と題した詩の一節を次に引く。

   潮の匂いは一人の世界を連れてきた。無責任な言葉、見えない恐怖。否定される僕たちの世界、生きることを否定されているのと、同じかもしれない。誰も助けてはくれないんだと思った。自分のことしか見えない誰かは響きだけあたたかい言葉で僕たちの心を深く抉る。“絆”と言いながら、見えない恐怖を僕たちだけで処理するように、遠まわしに言う。“未来”は僕たちには程遠く、“頑張れ”は何よりも重い。お前は誰とも繋ってなどいない、一人で勝手に生きろと、何処かの誰かが遠まわしに言っている。一人で生きる世界は、あの日の海よりもきっと、ずっと冷たい。

 私などは大震災後、僅かばかりの寄付しかできず、これといった支援活動をなし得てゐなかったこともあり、我が納めた税金が震災瓦礫の処理にでも使はれればと思ふが、受け入れを実施してゐる自治体はごく僅かで、受け入れに前向きな自治体も住民の反発にあって事が進まない。我身に放射能の及ぶや手のひらを返したやうに絆といふ字を引っこめる。

 二年の月日は一人の人間に余りの辛酸を与へ、人生の闇を骨身に徹して知った者の言葉は私に棍棒を喰らはせるものであった。

 未来は見えず、もうs頑張れtないことを正直に告白することで、世への恨み節ではない、一人で生きねばならぬ覚悟を腹に括ったのである。

     皇太子殿下の御講演

 本年3月6日、皇太子殿下はニューヨークの国連会場で開催された「水と災害に関する特別セッション」で基調講演をなされた。「水と災害」に関して世界で初めての会合である。5日後に2周年を迎へる東日本大震災の激甚な災害を振り返られる中で特に、激震には辛うじて耐へた建造物も大津波にはひとたまりもないほどの水の破壊力の凄まじさを語られた。そして「我が国では過去においても大津波災害を繰り返し受け、そのたびに復興に向けて粘り強く立ち上がってきました。さうした被災と復興の記録は史実にも記載され、現代の人々が災害から復興し、次なる災害に備へる貴重な手がかりとなってきました」とお述べになり、その歴史書の一つ、鴨長明の『方丈記』の優れた災害文学の一面を紹介された。

 鴨長明が執筆して昨年は丁度8百年の節目に当る。彼が生きた時代は、大火、辻風、旱と洪水、そしてとどめは元暦の大地震と災害が打ち続く。殿下は『方丈記』の次の一節を引かれ、心にしみますと述懐されたのである。「すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」、当時、人々は情なくはかないこの世を話し合ふことで、欲望や執着も自然に離れ、心の濁りも多少は薄らぐかと思はれたが、年経れば地震のことなどもすっかり忘れ、言葉に出して言ふ人さへない。

 人の心の移ろひ易さ、その心の隙を衝いて災害は又やってくる。八百年前のことは今のことであった。そして殿下は「そのメッセージは何世紀もの時を超えて、被災し同じやうな境遇にある私たちの心を打つのです」とお述べになった。

     三たびの「おことば」

 一昨年3月16日、天皇陛下が国民に向かってお述べになられた被災地に「長く心を寄せる」といふおことば、重ねて一周年追悼式に於ても「国民皆が被災に心を寄せ」とも仰せられた。そして三たび二周年追悼式に於て、「今なほ多くの苦難を背負ふ被災地に思ひを寄せるとともに、被災者一人びとりの上に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願ひ、御霊への追悼の言葉といたします」とお述べになった。

 陛下が三たび仰られた「心を寄せる」とはどのやうな具体的内容を伴ふのであらうかと心の隅に懸ってゐた。頭で考へた概念的な「頑張れ東北」といふ言葉とは明らかに違ふおことばである。

 ところであの日以来続けてゐることがある。車の運転時、一旦停止で必ず三秒止まる。三秒は長い。あの日を忘れないために詰まらないことながらその実践である。

あの年の御製に「大いなるまがのいたみに耐へて生くる人の言葉に心打たるる」がある。

 両陛下は4月27日、甚大な被害を受けた宮城県南三陸町と仙台市を御訪問、被害状況を視察遊ばされ、避難所を御慰問なされた。伊里前小学校の高台の校庭から壊滅状態となった町を見つめられながら、黙礼遊ばされた。その御写真を拝見すると、サイパンのバンザイクリフで拝礼遊ばされたお姿と重なり、胸迫る。その後、体育館に避難してゐる被災者にお声をおかけになった。ひざを折られ、被災者の言葉に耳を傾けられた。その際の御製である。人の言葉に心打たれるといふそのおことば、被災者の声はすべて陛下の心に納められた。まさかここで陛下にお声をかけられるとは思ひもよらなかったであらう被災者は、親に抱きしめられたやうではなかったらうか。

 さうであったか。“心を寄せる”とは陛下にとっては民の上安かれとひたすら祈られることであったのかと思った。肉親の情といふほかない。民の嘆きあるところに必ずお出ましになり、その嘆きをひたすらお聴きになる。我らの遠い父祖の時代のときの天子様もそのやうになされてきたのであらう。

 さて災害はいづれまた確実にやってくる。そしてまた日々の生活に追はれる私たちではあるが、私たちの心も知らずしらず瓦礫の如きものが堆積する。しかし、陛下の“心を寄せる”といふ言葉をしをりとして仰いで生きていきたいものと思ふ。

(元山口県公立高校教諭)

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     江戸時代の躾

 戦後のわれわれは、個人の尊重と自由・平等、平和を繰り返し教へられてきた。しかし、家庭でも学校教育でも、人格的陶冶、精神的な鍛錬をほとんど受けずに育って来た。現代と戦前、明治、そして江戸の時代を比べると、昔の人がいかに教育熱心で、躾と人間教育に力を入れてゐたかが分る。特に、江戸時代の日本の教育と現代の教育とを比較するとその違ひは一目瞭然である。

 江戸時代、武士の正式な教育機関である藩校は全国215校(『藩校と寺子屋』教育社)を数へ、各藩は競ふやうに藩士・子弟に文武両道を学ばせた。それだけではない、江戸時代の各藩には、もっと小さな子供に対する教育があった。それは、会津藩の什や薩摩藩の郷中に代表される郷校と呼ばれる道徳心を育てるための躾教育であった。

 それは集落の6〜7歳から10〜11歳の子供、さらには14〜5歳までの年長者たちを一つの単位とし、先輩が後輩を指導する縦割りの教育組織であった。たとへば、西郷隆盛、大久保利通、大山巌などの幕末維新のリーダーたちは、薩摩の郷中において勉学・武芸・「山坂達者」(「青少年の心身を鍛練する」との意味)を通して徹底的な道徳教育を受けた。

 早朝から先輩の家に走って読み書きを習ひ、朝食後は馬追ひ、降参言はせ(決して降参したとは言はない)、相撲、旗取りなどの山坂達者で心身を鍛へ、午後に読み書きの復習をした後、さらに夕方まで剣・槍・弓・馬術などの武道を稽古した。

 そこには、人として、武士として、最も大切な「掟」があり、それは無条件に絶対に守らなければならない鉄則であった。「武道第一」「武士道の本義を油断なく実践せよ」「仲間との連帯を重んじよ」「軽薄な言動を慎め」「決して嘘をいふな」「負けるな」「弱い者いぢめをするな」「金銭欲・利欲をもっとも卑しむべきこと」等。良くない行為があれば注意を受け、場合によっては厳しい罰を受けた。

 そして、町人や農民は、武士にあこがれ、武士を手本として、自分たちの子どもを立派な人間にしようと寺子屋に通はせた。寺子屋での教育は、「読み・書き・そろばん」はもとより地名地理・書簡の書き方などの実学、さらには儒学書や日本の古典などの学問的教養にまでに及んでゐた。この庶民教育である寺子屋の躾も厳しかった。

 たとへば、『「型」と日本人』(武光誠著)に紹介されてゐる「子供礼式之事」には寺子屋で学習するにあたって守るべき作法が18条にわたって記されてゐる。その冒頭「1、着座畳に手をつき額をさげて心静に礼いたし席ニ先々よりすわり可申事」以下、作法と道徳とが入念に定められてゐるのに驚かされる。寺子屋においても、「礼儀なき子供は、読み書きを学ぶ資格なし」といふ鉄則があったのである。

 特に江戸後期、寺子屋の普及はめざましく、その数は日本全国で10万近くもあり(『江戸の教育力』高橋敏著)、わが国はまさに世界一の教育立国の観を呈してゐた。幕末、そして明治の日本は、後進の差別された有色人種でありながら、欧米列強の植民地化を阻止して、短期間で富国強兵の近代化を遂行した。その背景には、江戸時代の社会的経済的な基盤と高いレベルの教育力があったのである。

     わが国の道

 平成23年3月11日の大震災による犠牲と被害はあまりにも甚大深刻なもので、国民はその痛手から立ち上がることができないでゐる。被災地の復興と再建はまだ途上にある。だがあの震災は、同時に、「最も大切なものは何か」といふ根本的な問ひをわれわれに突き付け、日本人を覚醒させた。

 何が本当に大切なのか。地位、名誉、権力、あるいはお金か。そんなものではない。私は、あの震災を経て、「わが国の道」の大切さを痛切に憶ふやうになったのである。

 津波にすべてを呑みこまれて行く東北の惨状を知るに及んで、誰もが悲痛な思ひで「命」の尊さを噛みしめた。今ここに生きて在ることの有難さを思ひ知った。そして、極限状況のなかでも助け合ひ、励まし合ふ東北の人たちの姿に、「絆」「思ひやり」「日本人の底力」を見た。命がけで救助に向ふ人たちの姿に、日本人としての誇りと勇気と崇高さを教へられた。そして、日本人のこの雄姿は世界に発信された。

 だが、震災に決然と臨むこの日本人の姿は、外国の人々にとって驚くべき信じられない光景であったのである。その年の4月、アメリカの哲学者マイケル・サンデルはNHKで「大震災の世界をどう生きるか?」といふ特別講義を行った。参加したアメリカ人が、ニューオリンズのハリケーン(2005年)による災害時に起ったスーパーの掠奪や便乗値上げと比較して、「この大震災に際して、日本では掠奪や便乗値上げは一切なく、冷静で秩序があり、むしろ互ひに助け合ってゐた」と言った。

 日本人も発言し、被災した東北の人たちが『私たちは生きてゐるからいい。まだ困ってゐる人たちを助けて下さい』と言ったことを付け加へた。さらにある外国人が「日本人の行動に、本当に感心した。共感し、誇りに思ひ、希望のやうなものを感じた」と言った。そして、サンデル教授は、「日本人が示した勇気と美徳は、『世界の希望』『人類が目ざすべき目標』」と述べて、全世界の未来に新たな問題を提起したのである。

 わが国には「道」が確かに残ってゐたのである。今やわが国が、回帰すべき厳然たる「道」の残ってゐる世界で唯一の国かもしれない。今ならまだ間に合ふ。日本を建て直すことができる。そのために、失はれつつある「日本的なるもの」を取り戻さなければならない。その「日本的なるもの」に貫流する「わが国の道」を闡明にしなければならない。それが、必ず、わが国の復興と再建の柱となる。さらに、この「わが国の道」は、人類の未来にとっても、「可能性」「希望」「目ざすべき目標」と成り得るひとつの光明なのである。

 われわれにとって最も大切なものは、「わが国の道」である。わが国は、古の「神ながらの道」が精神となり、倫理となり、祈りとなり、「道」となった稀有なる国である。そして、この道をゆるぎなき信念によって守り続けて来たのである。従って、わが国において教育は、単に知識・学問の伝授にとどまるものではなく、それは同時に躾であり、道徳であり、心の修練であった。昔からわが国は、小さな子供の頃より躾と礼儀を学ばせ、他者への配慮、思ひやりを教へ、日本人としての心根と精神を厳しく鍛へることを忘れなかった。その教育と鍛練を土台として、「わが国の道」を深めて来たのである。

 このわが国の文化を、その日本の美意識を、「わが国の道」を絶対に失ってはならない。これを子どもたちに必ず伝へなければならない。日本浪漫派の保田與重郎は『後鳥羽院』の序(昭和14年)にかう書いた。

  「永遠の話の日よりつたへられ た、日本の燃ゆる火のそのまゝを今に燃焼せしめよ。我らが使命は火を護ることであった。(中略)それは我らの父祖の云ひつぎ語りつたへてきた誓ひであった。久しい間、日本の詩人の心の奥に燃えつゞけてきたものゝけだかさに、著者は眞の日本を思ふのである」と。

(神奈川県立小田原高校定時制教諭)

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          (米国)高柳勝平
   あけぼのの大地しっかと踏みしめて遠くわれは呼ぶ祖国よ起てと

          (ブラジル)村岡虎雄
   此の波のはてに祖国の美しと孫に 語らひよはひかさねる

 明治から昭和にかけて、多くの日本人が新天地に活路を開くべく、夢を抱いて海外に移住した。気候風土や言語、文化の異なる海外での生活は苦難に満ちたものであったが、遠く海を隔てた祖国日本への思ひと日本人としての誇りを決して忘れることはなかった。この二首はいづれも天皇が、年の始めに宮中で催される「歌会始」に詠進されたものである。

 1首目は昭和22年の「歌会始」(お題は「あけぼの」)に選ばれた歌で、作者は日系人でロサンゼルスに在住。夜が白白と明けはじめたアメリカの大地にしっかりと足を踏みしめて、敗戦に打ちひしがれた祖国の行く末を思ひ、「祖国よ、立ち上がれ」と同胞を励ます歌。

 遠くアメリカの地にあっても、祖国への深い信頼と誇りを胸に秘めて、力強く生きてゐる日系人たちの思ひが偲ばれる。

 昭和天皇が、この終戦直後2年目の歌会始のお題に「あけぼの」といふ言葉を選ばれたことは意義深い。新しい日本の再建をひたすら祈られるお気持ちからであらうと拝察される。その折の天皇のお歌は、

   たのもしくよはあけそめぬ水戸の町うつつちのおともたかくきこえて
 であった。「つち」は「槌」。

 2首目も平成6年の歌会始(お題は「波」)に選ばれた歌で、作者は日系ブラジル人 。「この波のはるかかなたには、自分たち日本人の祖先が守り続けてきた祖国がある。その祖国は、自然もそこに住む人々の心もどんなに美しいことか。その美しい祖国に誇りをもって生きていけよと孫に語り続けてきた」といふ感慨を詠んだ歌。ブラジル社会では、「ジャポネーズ・ガランチード」(日本人なら大丈夫だ)と言はれるやうに、日系人への信頼は強い。それは、日系人の心の中に日本人としての矜持と自覚をもって、力強く生きていかうとする生き方が脈々と受け継がれてゐるからだらう。作者はこの歌が宮中で披講される前に、その生涯をブラジルの地で終へられたとのことである。

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     手記に記された「同じ光景」

 沖縄の戦ひを間近く目にした人々の手記、体験記には、ある共通した光景が必ずと言ってよいほど書き込まれてゐる。それは、鬼神のごとく米艦に襲ひかかる特攻機の機影と爆音を万感の思ひで見つめてゐた沖縄県民や兵士の姿である。幾つか紹介する(《 》内が引用である)。

 初めに、沖縄県立第1中学校4年生(鉄血勤皇隊)、国吉昇氏の手記。

 《午後10時ごろであった。私は歩哨交代で、松の高地の丘に竹槍をもって勤務についた。不思議と静かな晩だった。夜空が美しく澄んでいた。やたらに人が恋しく、郷愁と感傷にしばしふけっていた。と、そのときである。突然芝居の太鼓を連続でたたくような音とグヮン、グヮン、ドッドッドッドッ! とすさまじい音が入りまじって、耳をつんざくように聞こえてきた。

 見るとそれは中城湾沖に停泊している敵艦船群の砲火が、上空に向かっていっせいに咆えだしているのであった。幾千、幾万の曳光弾であろうか。美しい光芒ををひいてまっくらな夜空に噴水のように打ち上げられている。不夜城を呈して美しく輝いていた敵艦船群の灯はいつのまにか消され、深遠なる闇の中に、ただものすごい対空砲火の火網だけが、くっきりとひろがって行った。

 と、その炸裂の音の中に、耳慣れたなつかしい爆音が聞こえるではないか。

 「あっ、特攻機だっ!」やがて敵艦船群から、数百条の探照灯が機影を求めて夜空をなめまわした。

 「頼む。やっつけてくれ。撃沈してくれ。」私は手に汗を握って見まもっていた。

 探照灯の中を、あたかもすべてを達観したかのように悠々と飛んでいるわが特攻機。敵火砲はそれに向かって集中している。- 中略-

 さらに右手の方から熾烈なる敵の対空火網を排しならがら、三番機が突っ込む。あっ!命中、大型戦艦ででもあろうか。大火柱を天に噴きあげた。そして4、5分の後には、そのまま海中に吸いこまれるように、燃えさかる火柱はなくなってしまった。今まで幾度となく聞かされた「轟沈」とはこのことをいうのであろう。私はただ全身の慄えるのをどうすることもできなかった。》

     (『みんなみの巌のはてに- 沖縄の遺書- 』金城和彦・小原正雄編)

 次に、第24師団第2野戦病院の衛生兵、小木曽郁男氏の記録。

 《我が特攻機が、初めて沖縄海面に姿を現したのは、3月27日朝(昭和20年)、といわれている。多くは夜であったが、豊見城の城址に身を伏せて、我々は屡々その活躍を望見することとなった。

 特攻機が接近すると、米艦の灯火は一斉に消え、怖ろしい轟音と共に対空火砲の奔流が輝く火の雨となって、空に向かって噴き上がった。やがて、高空からつぶてのように落ちかかり、或は、低空を真一文字によぎって、時にサーチライトや、曳光弾の火光に照らし出され、時に自身火を発して、糸を引いたように突入して行く、いくつかの機影を我々は見た。

 何とか命中してくれっと、激しい胸の痛みをこめて見守り続けた小さな影が、空しい炎となって海の上に墜ちるのを見た時の、口惜しさ、切なさ、そして、吸いこまれるように激突して、恐ろしい大火柱をあげた時の、その激情 - 。

     “やった!”
     “バンザイ!”

 そんな歓声が、あちらの茂みからも、こちらの岩角からも起こり、我々は、只ボロボロと涙をこぼし、胸を熱くして、暗い洞窟にもどって行くのだった。》

     (『秘録 狂気と痛恨の血戦記 あゝ沖縄』小木曽郁男・川邊一外著)

 6月23日、組織的抗戦は、牛島満司令官と長勇参謀長の自決によって終結した。米軍は占領地域に幾つかの収容所を設営した。その一つ宜野座収容所に収容されてゐた県庁職員、浦崎純氏の手記。

 占領居住地では米軍の軍政下、既に小学校も開校されてゐた。

 《特攻機はたいてい夜間と払暁にやってきた。けたたまし空襲警報が鳴りひびくと、米兵たちは緊張して戦闘配置についた。

 8月半ばのある日、宜野座の東方沖合に白昼、特攻機が急襲してきた。輸送船団を狙ったのだった。軍(米軍)の作業で働いていた人たちが盛んに拍手を送った。万才を叫ぶ者もいた。白昼行われたこの日の特攻機の攻撃は、近くの小学校の校庭からも手にとるように見えた。授業中の子どもがいっせいに校庭に飛び出して万才を叫びだし、狂喜していたが、先生も子どもたちを制止する気にはなれなかった。血は争えないのだった。》

     (『沖縄かく戦えり 20万戦没者の慟哭』元沖縄県庁人口課長 浦崎純著)

     なぜ民族的感応体験に触れないのか

 ここに取り上げたのは、ほんの一部である。不思議なことではあるが、これらの手記や体験記に共通して記述されてゐる

 ・「頼む。やっつけてくれ。撃沈  してくれ」
 ・“やった!”“バンザイ!”
 ・我々は、只ボロボロと涙をこぼし、胸を熱くして、…
 ・授業中の子どもがいっせいに校庭に飛び出して万才を叫びだし、狂喜していた…

等々といったエピソードに今日誰もが触れようとしない。なぜだらうか。特筆されるべき出来事と思ふのだが、不思議と無視してゐる。この様な民族的精神の感応体験は、軍国美談の象徴として平和の為には黙殺せねばならないとでも思ってゐるのであらうか。

 祖国の歴史は、苦悩が深ければ深いほど、悲惨であればあるほど、感動の事実に光をあて、未来への希望のしるべとして刻み、後世に伝へねばならないはずなのに。

     沖縄への「凄烈をきわめた本土の協力ぶり」

 最後に、特攻機を送り出す本土側の光景も一つだけ記しておきたい。

 大本営海軍報道班員として鹿児島の鹿屋基地に滞在して特攻機を見送った作家の山岡荘八は、戦後10年の歳月を掛けて『小説太平洋戦争』全九巻を執筆した。その中に次のやうな体験を記してゐる。

  《若い人々が次々に死んでゆく。これもいよいよ爆装してゆく零戦がなくなって、カンバス張りの練習機が持ち出され、予科練出身のそれこそ17、8歳にしかみえない少年兵が、リンゴの頬を並べて出撃していった夜など、私は、もう生きているのが呪わしいとさえ思った。》

 命令とは言へ、旧式の複葉練習機に乗せて出撃させねばならない飛行長も気が狂ひさうになる程、苦しく、悲しい思ひであった。近くの小学校の校庭で出撃を間近に控へた少年兵を整列させた飛行長は次の様に訓話した。再び山岡荘八氏の文章に戻る。

  《「いいか、みんな生命は貰ったゾ」
「はーい」
「これは練習機だ。燃料はみんなの知る通り片道しかない。武器もほとんどないにひとしい。しかし、これは金属ではない。よいか、金属ならば敵の電探にすぐにキャッチされるのだが、その心配はない…」
そう云ったあとで、その時の指揮官は、少しどもってつけ加えた。
「ただし、全くないとも云いがたい。翼の支柱は金属だからな」
「はーい」
「そこでだ。上空は飛ぶな。なるべく波とスレスレに飛んでゆけ。計器の見方はわかっているな」
「はーい」
「あまり低く飛びすぎると波に呑まれるぞ。その辺はきをつけて」

 その時一人の少年から質問が出たように記憶している。沖縄へ到着したら、いかなる艦種の艦艇をめざして突っ込むべきか、その攻撃目標の順位をたずねたのだ。

 すると命令者の顔は一度にゆがんだ。おそらく敵の艦種の見分け方など、まだよく教えてなかったからであるまいか。彼は眼をまっ赤にし、唇をゆがめて叫んだ。

  「艦種などはなんでもよい! 嘉手納湾にも中城湾にも敵はゴマンと蠢いているのだ。来たなと思ったら眼をつむれ。それからブンブン横にブン廻せ。必ず向こうで当たってくれる。まごまごしていると射ち落とされるぞ。みんな、わかったかッ」
「はーい」
私はその場にいたたまれず、校庭から走り出して、葉桜のかげで声をあげて慟哭した。》

 この少年兵達は、恐らく嘉手納湾にも中城湾沖にも姿を見せる事は、出来なかったであらう、火焔を引く特攻機の陰には、この様に沖縄の同胞の危急を救はうとする一心で我が身を忘れた、学徒や少年兵達の純白な魂が込められてゐたのである。

 山岡荘八は、最後に次の言葉で結んでゐる。

《沖縄県民の受難は言語に絶する。しかし、本土でのこれに対する協力ぶりもまた、一人の作家の人生観を一変させるほどに、凄烈をきわめたものであった。》

          ○

 中国の脅威に対処しつつ、沖縄の米軍基地を返還させる交渉は、戦後の重い政治課題である。幸ひ自民党政権に移行してから一歩々々進み始めてゐるが、ややもすると苛立ちと諦めから、国民の一体感に隙間が生じ始めてゐる様にも感じられる。敗戦から68年を経た今日、国外と結んだ勢力が沖縄と本土の心の繋がりを絶たうと妄動し出してゐる(「沖縄独立」工作)。かかる時代であるならば、一層日本人が一心同体となって戦った「歴史の事実」に光をあて、それを闇に埋もれさせてはならないと強く思ふのである。

(熊本製粉(株))

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『最新日本史・教授資料』 明成社 税込9,450円

“年代ごとに読める歴史事典”
- 戦後の歴史解釈からの脱却せんとする明確な姿勢 -

 新しい時代に向けて、どのやうな日本人の歴史像を描くのか、この重たい課題に応へるべく、日本人の誇りを伝へることを目指した高校歴史教科書『最新日本史』(明成社)が出版されたのは、昨年の3月のことであった。渡部昇一先生、小堀桂一郎先生、櫻井よしこ先生、中西輝政先生らの協力をいただいて、高校「日本史B」として、いはゆる大学入試を念頭においた教科書として編集されたものであった。

 本紙昨年十月号掲載の原川猛雄氏(元神奈川県立高校教諭)による〈紹介記事〉が『最新日本史』刊行の意義を説き明かしてゐたが、さらに、このたび教科書の補助教材として、『最新日本史・教授資料』(明成社)が新たに刊行された。A五版八百頁をこえる大著である。本書は、簡単にいへば、年代ごとに読める歴史事典であって、『最新日本史』を使って授業する際に必要とされる諸文献・関連学説が網羅的に収められてゐる。教科書の記述と対応するやうに編集されてゐるから、日本史の先生だけではなく、歴史を愛する読者にも、満喫できる内容となってゐる。1800を超える重要事項がわかりやすく詳しく解説されてゐる。

 一貫して窺へるのは、歴史への新しい発見と探究心であり、戦後の歴史解釈への疑問とそこからの脱却せんとするの姿勢である。

 たとへば、《日本文化のはじまり》では、「用語」解説として、黒曜石の分布と縄文人の交易などを取りあげ、「図版」説明では、縄文時代の石器と骨角器などの最新の研究成果を記述する。「囲み記事」には、縄文前期に表れた優れた漆文化の発見などを紹介してゐる。さらに、《世界史のへの窓》では、神話とは何かが、偉大なものを信じる力として二頁にわたって語られてゐる。新井白石「神トハ人ナリ」の解釈から儒教思想、これに対する本居宣長の態度、津田左右吉の神話観、エッカーマン『ゲーテとの対話』などが、簡潔な文章ながら紹介されてゐて興味深い読み物となってゐる。

 特に、「日本の建国伝承」には注目したい。「参考」として、天地開闢から天の岩戸、天孫降臨、山幸彦・海幸彦が紹介され、垂仁天皇による伊勢神宮創祀や皇統譜についても触れてゐる。「用語」では、神武天皇東遷伝承、崇神天皇、日本武尊などを詳しく解説。他の教科書会社の「教授資料」には決して見られない特色である。

 江戸時代の「儒学の発達」を見ると、儒教の主流を占めた朱子学の受容と批判、既存の解釈に依存せず直接原典から具体的な道を探究しようとした藤樹・素行・仁斎・徂徠などによる日本独自の学問の展開が辿られ、「歴史と古典の研究」では、『大日本史』などを解説する。

 ペリー来航による開国以降では、特に昭和に入ると詳しい。満州進出から建国、近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」、荻原朔太郎『日本への回帰』、『臣民の道』、ゾルゲ事件、南京事件、「十五年戦争」の呼称とその問題点、開戦と国民世論、朝鮮半島における日本語教育、神風特別攻撃隊と人間魚雷回天、戦没者の遺書、沖縄の学徒隊、原爆はなぜ広島と長崎に落とされたか、シベリア抑留問題など、いづれも力のこもった記述となってゐる。

 歴史とは、問ひかけである。どう意味づけるかである。戦後のさまざまな史観を斥け、歴史への新しい理解と認識を提供してゐる。高校歴史教科書『最新日本史』の市販版である『日本人の誇りを伝える最新日本史』(税込二千百円)とともに座右の書とされることをお薦めしたい。

【申込先】明成社
   電話 03(3412)2871
   FAX 03(5431)0759

 

皇居勤労奉仕の御案内

今秋も有志による勤労奉仕を考へてをります。今のところ10月の4日間を予定してゐます。
御希望の方は、国文研(澤部壽孫)宛にファックスまたはメールでご連絡ください。

   FAX03(5468)1470
   info@kokubunken.or.jp

 

- お知らせ- - - - - - - - - - -

新事務局長に 奧冨修一常務理事
平成17年4月以来、事務局長として尽力された稲津利比古常務理事に代って、4月から奧冨修一氏(元東急建設(株)常務取締役)が就任しましたのでお知らせいたします。

 

 編集後記

 改憲の発議要件を「過半数」にしようとの声に異を唱へるのはいいが、「平和」が危うくなるかの如き論説は願ひ下げだ。平和とは何か。尖閣危機を前にして猶、論を弄ぶのか。

(山内)

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