国民同胞巻頭言

第617号

執筆者 題名
亀井 孝之 「男系継承をいかに図るか」で論議の進展を
- 「皇室典範の改正」につき、安倍政権に期待する -
寶邉 正久 - 『眞情』第88号(平成24年11月15日)所載 -
乃木将軍薨去100年
乃木将軍の短歌
小野 吉宣 学生諸君へ、「日本神話」と明日の日本について
- 吉田松陰先生の『講孟余話』に学ぶ -
小柳 左門 日本語にやどる美しい感性
山内 健生 a href="#06">被占領期(昭和26年)、貞明皇后「御大葬」の校内放送
- 小学校入学早々の体験 -
  「南京取り立て裁判の怪」
- 奇妙な「南京裁判」を許すな -

 1月30日、安倍晋三首相の所信表明演説(1月28日)に対する各党の代表質問が衆議院本会議場で行はれた。日本維新の会を代表して登壇した平沼赳夫議員は、皇室典範改正と皇統の存続について首相の見解を質した。これに答へて安倍首相は、男系が維持されて来た重みを踏まへる必要があるとして、野田佳彦民主党内閣が検討した女性宮家創設については白紙に戻す考へを明言した。これまでにも首相は産経新聞のインタビューに「皇位継承は男系男子という私の方針は変わらない」(同紙、24・12・31付)と答へるなど信念を表明してゐたが、国会の場で明言したことに安堵の念を覚えた。

 と言ふのは、野田前政権が目論んだ女性宮家創設案についての「論点整理」に対する内閣の意見公募の結果、「将来、女系天皇につながる恐れがある、と反対する国民の意見が多数を占めた」(産経新聞、24・12・19付)にもかかはらず、「論点整理」が一人歩きしてしまふのではないかと懸念してゐたからである。

 言ふまでもなく、皇位の安定的な継承を維持するために、いかなる制度改正が必要かを論議することは重要な課題である。この点では野田前首相が取り組んだことは評価できるが、その場凌ぎの方策で論議した体裁を取り繕らうとしたところに間違ひの元があったと思ふ。

 制度改正を論議する場合、第一に検討すべき課題は、旧宮家の皇籍復帰の是非であらう。野田政権の「論点整理」では、旧皇族の男系男子孫の養子・復帰案は「検討対象としない」と無視されたが、これは皇位継承議論においては切り離せない重要な課題だからである。

 なぜならば、皇室典範には「皇長子」から「皇伯叔父及びその子孫」まで、皇位継承順位の定めがあり、継承資格に定められてゐる皇族がないときは「最近親の系統の皇族に、これを伝える」(第2条第2項)となってゐる。皇室典範は昭和22年5月3日から施行された法律であり、旧皇族がGHQの占領政策によって臣籍降下させられたのは、同年10月であったから、皇室典範に定めた「最近親の系統の皇族」とは「旧宮家の男子皇族」を指すことは明白である。従って、条文に定められた最近親の系統の皇族から皇位継承権を失はせたのがGHQの政策であったわけである。

 平成16年末に、当時の小泉純一郎首相の私的諮問機関として設置された「皇室典範に関する有識者会議」においても、野田政権が行った「有識者からの意見聴取」においても、旧皇族の復帰の意見を述べた識者が存在したにもかかはらず意見集約では無視され続けた。

 旧宮家の皇族復帰について、「戦後一般国民となってから生れた方まで皇族とするのは無理」とか、「今上天皇との共通の祖先は約600年前にさかのぼる遠い血筋である」とか等々の理由で反対する有識者と称する人々は、125代の歴代天皇が男系であるといふ認識に乏しいか、女系天皇を認めたいが為に発言してゐるのであらう。皇室典範制定時に皇位継承資格を持つ系統と認識されてゐた旧宮家の復帰案を真剣に検討すべき時が来てゐると考へる。

 次に検討されるべき課題は、皇室典範の一部改正である。

 具体的には、竹田恒泰氏が「皇族が旧皇族の男系男子に限って養子をとれるように皇室典範を変更する必要がある」(産経新聞、24・12・30付など)と指摘されてゐるやうに、「天皇及び皇族は、養子をすることができない」(第九条)とあるが、例へば「但し皇統に属する男系の男子を養子とすることを妨げない」を加へる。さうすることにより、既に男子の継承者がをられない常陸宮、桂宮の両宮家は旧宮家の男子を養子にすることができ、三笠宮、高円宮両家の女王には、ふさはしい男系男子を婿養子に迎へることで、宮家継承を可能にすることができる。

 安倍政権が、「男系継承をいかに図るか」といふ観点に立つ論議を具体的に進展させるやう期待して已まない。

(元皇宮護衛官)

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 森王琢といふ方がをられた。陸軍々人、福知山歩兵聯隊大隊長代理として南京攻略戦に参加され、「南京虐殺はなかった」ことを書き、話し、訴へつづけられた方である。戦後下関に住まはれ、平成11年下関で亡くなられた(91歳)。昔の豊浦中学校の卒業生である私の12期先輩、晩年のおつきあひだったが、よくお宅にお邪魔して昔話や時勢談を伺ったものである。その中で、乃木大将が凱旋して明治天皇に軍状を奏上された時のことを400字用紙の5枚位で書かれた短い文章を頂戴したことがある。お亡くなりになって直ぐ私たちの機関紙『国民同胞』に頂戴させてもらったが、それは第三軍乃木大将の幕下に在った大庭二郎閣下(後の大将)から直接承った話だと言ってかう書かれてゐた。

 「大山総司令官を始め黒木第一、奥第二司令官の奏上も終り、次いで乃木第三軍司令官が陛下の御前に参進して奏上する事になり次の間に控へた伊地知参謀長以下各参謀は乃木軍司令官の奏上の声を耳を澄ませて待って居た。然るに軍司令官の声は待てども聞えず参謀長以下如何なる事が起ったのか唯唯心配するのみ、只管大将の声待つ内全く意外にも御室から洩れ聞えて来たのは乃木大将の嗚咽歔欷の声であった。参謀長以下幕僚一同は事の意外に唯為す術もなく事態の推移を待つ他はなかった。暫くする内乃木大将の嗚咽の声も漸く鈴まり遂に一言の言上も無く御前を退出されようとされたその時『待て、朕が生きて居る限り卿の命は朕が預かるぞ』との陛下の綸言に大将は勿論次の間に在って大将の退出を待つ参謀長以下正に電撃に打たれた一瞬であった。斯くして乃木第三軍司令官の軍状奏上は大将の嗚咽歔欷に終った。明治天皇は一切を御諒解あらせられたのである。」

 ここのところを別の本から補記してみると、その本(岡田幹彦『乃木希典』)には乃木復命書の全文が記されその後半、

 「作戦16ヶ月間、我が将兵の常に勁敵と健闘し、忠勇義烈死を視ること帰するが如く、弾に斃れ剣に殪るる者皆、陛下の万歳を喚呼し欣然瞑目したるは、臣これを伏奏せざらんと欲するも能はず(以下復命書省略)乃木は(ここに至って)熱涙滂沱として下りつひにむせび泣いた。天皇もまた龍顔をくもらせ給うた。」

 森王さんの聞き書きとほぼ相かよふ。話はところどころ姿を換へて全国に拡がったと思はれる。

          ◇

 「感応相称」といふ仏語がある。聖徳太子が書かれた法華経の注釈書『法華義疏』の中に使はれた言葉で(衆生の「感」に仏が「応」へる、感と応が一つになるの意)、私たちの古い先輩加納祐五さんはその「感応相称」に君臣の二字を添へて「君臣感応相称」といふ言葉で御自分の体験する「国体」を語られたことがある。それをそのままお借りして言ひたい。乃木大将が全心身を挙げて陛下にお仕へし、もの申してゐる「感」の姿のすべてを、暖く包み納めてお「応」へになる、その「感」と「応」が通ひ合ふ姿、それがわが国の文化の中核にある。そのこと1君臣の感と応が一つになること、が日本国存立の中核をなしてきたとつくづく思ふのである。乃木さんの忠誠を深く嘉したまふ陛下と乃木さんのまごころの通ひ合ひ、遂に崩御のみ跡を追って自刃した、その消しがたい、亡びざる日本の姿に、明治の国民は感動したのである。

 それから百年を経て今日がある。明治が終った直後に欧州ではにはかに大戦が起り、次いで共産革命、支那動乱、大東亜戦争、その敗北と被占領とつづき、占領憲法、非日教育の被害は今日つづいてゐる。身辺の一事を記させていただく。私の出身中学は県立豊浦中学校(旧制)で創立は明治32年(今年は以来113年)、昭和3年に制定された校歌(作詞高野辰之、作曲信時潔)は次の通りで一番に始まり三番に終る。

   (1)乃木将軍の生れにしところ 狩野芳崖生れしところ
      剣に筆に偉人をいだす 霊気こもる地これ我が豊浦

   (2)二此の櫛崎に四王司山に 満珠干珠の二つの島に
      昔しのびて望にもゆる 健児集へりこれ我が学舎

   (3)大御光の宿れる旗を かざして高く正しく清く
      強き心と体に生きて 止まず進むが我らの理想

 学制改革によって学校は県立豊浦高等学校となったが校歌はそのまま継承された。然し一番は削除され、三番の「大御光の宿れる旗を」は「豊なる金字かかぐる旗を」と改竄された。「大御光」とは明治35年明治天皇長府行幸の折、本校新築講堂が第二行在所に充てられその際の御下賜金で校旗が調整せられたことを歌ったものだ。全校生徒が奮って感動奉迎した思ひ出を旧套として斥け、「乃木将軍」の一番を抹殺したのは戦後の何であったのか。現在校歌は学校行事の式典でも歌はず、辛うじて応援団演習で声枯れるまで(一番抜きで)歌ってゐるさうだが、一方同窓会総会では在校生ブラスバンドの伴奏で全章句が復元大合唱されてゐる。だがそれにしてもこの抹消と改句は恥づかしいことである。

          ◇

 大東亜戦争に敗れ、占領憲法によって独立力を自ら否定して、わが国は再起不能になってしまふのか。いやいや、さうではない。大東亜戦争終結の詔書の殆どのお言葉は、終戦をめぐる御前会議で昭和天皇が涙ながらに仰せになった御決断のお言葉そのままだと聞く。

     その一節
   朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ

 あの歴史上の時点において「國體ヲ護持シ得テ」と陛下は明らかに仰せられた。天皇陛下にとって國體の第一義は「国民(オホミタカラ)」の存続にある、との御意ではあるまいか。いまこれと併せて当時の御製二首を記す。

   爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
   国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

だからこそ国民にとって国体の第一義は皇統連綿の「天皇」にあるのではないか。昭和27年平和条約発効の日の御製を併せて拝誦したい。

   風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり
   国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに

 これからの再興出発点に立つお気持ちであらう。苦渋と歓喜の御実感がおほみことばのしらべに重ってゐるやうに拝せられる。

 さてこの度の東北大震災を克服しつつある国民の力は、今上陛下の御慈眼を受けて全国的に響き合ふ伝統的な国民文化力に他ならぬと自覚されてきたと思ふ。しかし一方、武力放棄によって生じた近隣国の軍事的侵略と捏造虚偽の宣伝被害はわが国の独立を犯すもの、理由の大半はわが方の無策にある。憲法改正して軍事力を整へることが第一。第二は教師と教科書を改正して義務教育から一貫してわが国の歴史と伝統を教師が語ること。教師が膝を打って頷き感ずるものでなければ教へられるものではない。「君が代」を姿勢を正して歌ふこと。伝統宗教に馴染む厳粛な第一歩を、全教員が慎ましく、いい顔で歌ふことから踏みだすこと。

 明治天皇と乃木将軍と明治の国民、その間に相通ふ「感応相称」、その事実と回想は今も生きて平成の民に大きい示唆を与へるのである。

(本会副会長、寶邉商店相談役)

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   弓張の月もいるなりいざや討て鷲 のすむてふ仇のとりでを
   黒駒の白泡はませますら雄が岩が根木の根ふみさくみゆく
   うつし世を神さりましし大君のみ あとしたひて我はゆくなり

 乃木希典は山口県出身の陸軍大将。明治37年(1904)8月19日、歴史に残る日露戦争・旅順要塞攻囲戦の第一回総攻撃が、乃木第三軍司令官の命令一下開始された。一首目の歌は夜襲戦の折の作。「弓張の月」とは弦を張った弓のやうな月。双頭の「鷲」はロシア皇帝の紋章で、ロシアの国旗にもデザインされてゐる。月冴ゆる夜の山腹をひた進む皇軍の兵士たち。弓張の月の引き絞るその矢の先にあるものは、ロシア軍の立て籠る要塞である。折しも、弓張月は山の端に沈まうとしてゐる。月が隠れれば、われを利する漆黒の闇となる。攻撃のための諸条件は今やすべて整へり、いざや討て。祖国の命運を賭け、まさに乾坤一擲の戦闘が開始されようとしてゐる、その緊張感みなぎる力強い歌である。「いる」は、「射る」に「入る(月が沈むの意)」を重ねてゐるのだらう。

 明治40年代には大和地方や京阪地方で陸軍大演習が行はれた。二首目はその折の作。「黒駒」とは黒毛の馬、「白泡はませ」とは馬の口から白い泡をふかせるほど馬を勇みたたせて、「ふみさくむ」とは踏み分け進の意。黒駒を御しながら、人馬一体となって岩や木の根を踏み分け進みゆく軍列の様子が、緊張した調べで表現されてゐる。

 三首目の歌は、大正元年(1912)9月13日の夜、明治天皇御大葬に際し、御霊柩(天皇の御柩)発進を告げる号砲の轟きを聞きながら殉死した乃木将軍の辞世である。「うつし世」とはこの世、「神さりましし」とは崩御されたの意。「みあとしたひて」の一語に万感の思ひがこめられてゐる。将軍の死出の旅路にお伴した静子夫人の辞世は「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」であった。

- 『名歌でたどる日本の心』から -

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     はじめに

 20世紀最大の歴史学者、彼の大著『歴史の研究』で有名なイギリスのアーノルド・トインビー博士は「どの民族も12・3歳ぐらゐまでに自国の神話に感動し触れる機会がなければ、いづれその民族は滅亡してゐる。古代エジプトやメソポタミアが滅びたやうに…」と述べて、千年のスパンで歴史を大観し、警告してゐました。ところであなた方、学生諸君は幼年期に、日本の神話に感動した体験がありますか? 学校の教育では、歴史でも国語でも教材に神話が入ってゐなかったでせうから教はった経験がないはずです。

 さうならばトインビー博士の言ふ「いづれその民族は滅亡してゐる」の箇所はどうなりますか。それはどこか他の民族のことではなく、私たち日本民族のこととして深刻に受け止めねばならないでせう。

     1、松陰先生と孟子の言

 孟子が「巻第14 尽心章句下」で「民を貴しとなし、社禝之に次ぎ、君を軽しとなす(国家においては人民が何よりも貴重であり社稷の神によって象徴される国土はその次で君主が一番軽いものだ)」と言へば、それを受けて吉田松陰先生は、『講孟余話』で次のやうに言はれます。

  「此の義、人君自ら戒むる所なり。蓋し人君の天職は天民を治むることなり。民の為の君なれば、民なければ君にも及ばず。故に民を貴しとし、君を軽しとす。是等のところは篤と味ふべし」

 孟子の言はんとするところは、君主が自分を戒めるところにある。思ふに君主の天職は天から預かってゐる民衆を治めることである。即ち民のための君であるからもし民がなかったとしたら、君主も必要ないことになる。それ故に「民を貴しとし、君を軽しとす」と。この箇所を「篤と味ふべし」と、松陰先生は仰るのです。

 歴史を深く味はへば味はふほど、シナ(China)の歴史の中では、ご存知の通り、孟子が理想とした堯舜の時代はいざ知らず、シナの歴史は、前の王朝が武力で倒される革命(revolution)によって次の王朝が生れます。則ち王朝が断続する国柄です。前の王朝を否定するのが革命ですから断絶は理の必然です。ですからシナの歴史では、いづれの時代も、人民は軽んじられ、君主の権力維持の方こそを重んじられたものとならざるを得なかったのです。「人民を貴いとし、君主を軽くす」とする、そんな君主など見当たらない。だから松陰先生は続けて「異国(シナ)の事は姑く置く」と言はれたのです。この事は松陰の思想と行動の本質を見極めるには見過ごせない最も重要な点であらうと考へます。

     2、神話と松陰先生

 松陰先生の心は、自然に日本の歴史の上代から神代へと向ふのです。読んで見ませう。

  「吾が國は辱なくも國常立尊より、代々の神神を経て、伊弉諾尊・伊弉冉尊に至り、大八洲國及び山川・草木・人民を生み給ひ、又天下の主なる皇祖天照皇大神を生み玉へり。夫より以来列聖相承け、宝祚の隆、天壌と動きなく、万万代の後に伝はることなれば、国土・山川・草木・人民、皆皇祖以来保守護持し玉ふ者なり。故に天下より視れば人君程尊き者はなし。人君より視れば人民ほど貴き者はなし。此の君民は開闢以来一日も相離れ得る者に非ず。故に君あれば民あり、君なければ民なし。又民あれば君あり、民なければ君なし。」

 松陰先生は「異国の事は姑く置く。吾が國は辱なくも國常立尊より、代々の神神を経て、伊弉諾尊・伊弉冉尊に至り、…」と我が日本の歴史のそもそもの始まりに心を寄せられて、国柄の特質を説かれるのです。

     3、天皇に直属する初一念 - 「吾が國は辱なくも…」-

 一人で読んでゐると読み飛ばしてしまひがちですが、何人かと輪読してゐると自分の心を無にして文章に集中できて著者の心に迫り深いところで著者と心が繋り感動が共有できるものです。そこで、何故「吾が國は辱なくも」と入れてをられるのか考へてみませう。立ち止まってぢっくりと考へてみて欲しいのです。

 「辱なくも」とは、自分は「分に過ぎた恩恵を受けてゐる」として、深甚のありがたさを表はす語です。誰から「分に過ぎた恩恵を受けて」ゐると感じてゐるのでせうか? この語はどの文章を修飾してゐるのでせうか? 松陰先生と対話をするやうな謙虚な気持ちになって再度読み直して欲しいと思ひます。

 最初の文章が切れる「皇祖天照皇大神を生み玉へり」の所が考へられます。皇祖天照皇大神が祀られてゐる伊勢神宮には、今日も全国からお礼参りをする人の列が絶えなく続きますが、中世から近世にかけてどんどん参詣が広まり、松陰先生の当時も盛んでした。

 だが松陰が受け止めた「辱なくも」といふ思ひ、ここだけにはとどまりません。

 次の文章を読めばその思ひは一層深まってゐることが伺へます。

  「夫より以来列聖相承け、宝祚の 隆、天壌と動きなく、万万代の後 に伝はることなれば、国土・山川 ・草木・人民、皆皇祖以来保守護 持し玉ふ者なり」

 とありますが、今日に至るまで歴代の天皇方が皇位を継承されて「宝祚の隆、天壌と動きない」と一気に言はれます。日本の神話が若き松陰先生の内心に息づいてゐたのだと思ひます。

 「宝祚」とは『日本書紀』に「皇祖天照皇大神が皇孫瓊々杵尊に八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣の三種の宝物を賜り」とあります。三種の宝物とは皇位継承のみ印として代々の天皇が受け継がれる神器のことです。勅では「葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治らせ」とあります。

  (若い学生諸君に1300年程も前の我が国古典の調べの素晴らしさを声に出して読み感じて欲しいと思ひルビを付けてゐます)

 松陰先生はすらすらと暗唱してをられたのではないでせうか。歴代の天皇方が皇位を継承されて、今日では今上陛下(当時は孝明天皇)が「就きて治らし」てをられる。『日本書紀』は「行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮りなかるべし」とあります(私が大学生時代によく歌った賛美歌を思ひ出させるやうな響きが感じられます。それ故に是は日本のバイブルと言はれるのでせうか)。

 「天壌の隆え」は松陰先生にとって抽象的な事では決して無かったはずと思ひます。「宝祚の隆えまさむ」といふ箇所に籠もる何物にも代へ難い祈りを身に滲みて感じてをられるに違ひありません。

 「辱ない」と言ふ皇室への報恩感謝の念はここにも溢れてゐて、次の文章へとほとばしるやうに流れて行きます。

   「此の君民は開闢以来一日も相離 れ得る者に非ず」

 われわれ日本国民から見れば天皇ほど尊い御存在はない。天皇から御覧になられる時は国民は大御宝である。さう位置付け国民の安寧を日夜祈ってこられました。この君民関係こそが有り難く、國が開かれてより以来一日たりとも君民が離れ得ないものである、このことこそ本当に歓喜の弦を掻き鳴らすやうに有り難く「辱ない」ことだ、と言ってをられると読み取ることができます。

 これこそが松陰先生の皇室に寄せられる初一念であり、(松陰先生のみならずさらには草莽の志士達の心を震はせて)明治維新(the Meiji Restoration)へと胎動する根元の力ではなかったでせうか。

     4、 松陰先生の真骨頂

 続けて「故に君あれば民あり、君なければ民なし。又民あれば君あり、民なければ君なし」とありますが、徳川家が将軍として支配してゐた江戸三百年の間も「此の君民は開闢以来一日も相離れ得る者に非ず」と松陰先生は言はれます。「此の義を辨ぜずして此の章を読まば、毛唐人の口真似して、『天下は一人の天下に非ず、天下の天下なり』などと罵り、国体を忘却するに至る。惧るべきの甚しきなり」と強く警告されるのです。

 最後に「故に君あれば民あり、君なければ民なし」とありますが、松陰先生はどのやうな場面を見て言はれたと思ひますか。さらに、「又民あれば君あり、民なければ君なし」と説かれてゐますが、これは語呂合はせで軽く言はれたのではないはずです。ここで言はれる「民」とは遠い時代の民だけでせうか。松陰先生は自分は天皇陛下の大御心の下にある民であると実感されてゐるからこそ、「辱なくも」(勿体ないことだ)との語が自然に出てきたのだと思ひます。「此の君民は開闢以来一日も相離れ得る者に非ず」。このわが国の歴史、即ち先人への確信が松陰先生の真骨頂であらうと考へます。

 如何ですか。この「民」にあなた自身が入ってゐると思はれますか?と問はれた時、もし「否」と答へるとしたら、冒頭に引用したトインビー博士の言ふやうに日本民族も滅びてしまふと考へざるを得ません。杞憂であることを祈りつつ筆を執った次第です。

(元福岡県立高等学校〈英語〉教諭)

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   君待つとわが恋ひをればわがやどのすだれうごかし秋のかぜふく

 萬葉集にをさめられた額田王のこの歌は千四百年も昔のものですが、女性の恋心が見事にあらはれてゐます。あなたはいつくるだらうと思ひをこがして待ってゐると、我が家のすだれが揺れる。あなたか、と思ふとさうではなくて風が揺らしてゐる。吹き渡る風に、ああ秋だなと感じる。秋といふ言葉には一抹の寂しさがあります。その繊細な感性は、そのまま恋する人への細やかな思ひやりをも感じさせます。

   父母が頭かきなで幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる

 奈良時代に防人としてはるか東国から九州にやってきた名もなき若者の歌ですが、方言をまぜた言葉遣ひがいっそう素朴な感動を呼びます。無事に帰ることができるかどうかもわからないこの旅、父母が頭をかきなでて「元気でゐてくれよ」と言ったその言葉は忘れることができない、と故郷の両親を恋ふる歌ですが、それは現代の私たちとちっとも変ることはありません。

 このやうに、ゆれ動く心そのままを受け入れ、その情感を深めていったのが私たち日本人の古代から受け継がれた文化でありました。ことに萬葉集には、その名が示すやうに実に多くの人々の言の葉が収められてゐます。天皇から庶民まで、なかには乞食の和歌さへ載せられてゐる。男や女の区別などない。つまり感動をあらはす言葉の前には、どんな人も平等であるといふ人間観があった。それは驚くべき日本の文化であり、世界にも稀有なものでせう。

 しかも古代の言葉が現代に息づく力を十分に持ってゐる。喜びや悲しみにみちた様々な姿を歌のなかに見、そして感動を覚える時、私たちはそこに自分一人ではない共感の世界があることを知るのですが、それはそのまま自分の心の広がりともなって、私たちの人生を潤すのです。

 古典をはじめとした素晴らしい文学は私たちにとってまたとなき宝です。それは人生を生きぬいてきた人々の心の表現であり、それを細やかに表すことのできるのは私たちの国語でしかありません。それだけ私たちにとって国語といふものには、言ふに言はれぬ彩があり、魂がある。まして方言で語られる話し言葉には、なんともいへない懐かしさがこもってゐます。美しい言葉をつむいでいくなかに、美しい心も宿っていく。美しい日本語を学ぶことによって、私たちは美しい心に目覚めさせられるといってもいいと思ひます。

 数学者の岡 潔は著書『春宵十話』の中で、「人の人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う」と述べ、とくに人の心の悲しみがわかることが最も大切であると言ってゐます。現実人生の中で私たちは様々な悲しみを経験しますが、さらに大きな悲しみをほかの人々の言葉に見出すとき、どれほど慰められ力づけられることか。

 近年、学校などでのいぢめ問題がますます大きく取り上げられてゐます。そこには人の悲しみに対して鈍感になった現代人の姿を垣間見ますが、それは昨今のテレビや漫画にみられる刺激的で汚い言葉と無縁ではない。平気で人をののしることを笑ひにしてゐる無感覚さに慄然とします。

 思ひやりの感情をどう育めばよいのか。その大切な手立ての一つは、生き生きとした情感あふれる言葉をとりもどすことでありませう。我が国は古来から言葉の宝に満ちてゐる。それらを子供の時期からしっかり身につけることで、人の喜びや悲しみを感じる心は自然に育まれるにちがひありません。豊かな感性を育むことが人と心を通はせ、やがて幸福をもたらすと思ふのです。

(国立病院機構都城病院長)

   小柳陽太郎他編著 価1,500円
   『名歌でたどる日本の心』
   国文研版  送料290円

 「失はれつつある歴史」を回復させるためには、歴史の書物を紐解いて、歴史の真実をあきらかにするのは当然のことでせうが、それと同時に大切なことは、歴史に登場する人の心にふれること、その人の心を私たちの心でしっかりと受けとめ、それを「感じる」ことではないでせうか。

 では歴史上の人物に直接にふれる、とはどういふことか、どうすればそのやうなことができるのか。それはーそれこそ日本でしかできない、じつに恵まれたことなのですがーその人が詠んだ「和歌」を読めばいいのです。私たちの祖先は遠い遠い神代の時代から現代に至るまで、五七五七七といふ一貫したリズムの中に、よろこびも悲しみも、そのすべての感情を託して生きてきました。

- 「はしがき」から -

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 昭和26年4月、私は小学校に入学した。担任の先生は母と同年配の40歳前後の女教師だった。

 入学してしばらく経ったある日、午前中だったと記憶するが、担任の指示で机と椅子が全部後ろに下げられ、黒板前の広く空いた床にクラスの全員47、8名が正座させられたことがあった。「きちんと座って手を前につけなさい」、さらに「額を床につけなさい」と何度も何度も注意され、ふだんよりも真剣な言ひ方だったので何事かと思ひつつ言はれるままに精一杯、かしこまった。

 間もなくして、黒板の上のスピーカーから、聞き慣れない笛の音が流れてきた。お祭りのとき耳にするお囃子とは少し違ふ音色で、何のことかサッパリ分らなかったが、きちんと座りなさい、額を床につけなさいといふ「先生の声」とスピーカーから聞えてきた「不思議な笛の音」は、どういふわけか脳裏に焼きつき、その後もふとした折に幾度となく思ひ起された。

 あの日から20数年後のこと、『歌人・今上天皇』(夜久正雄著)といふ本を読んでゐて、その中に「貞明皇后をしのぶ二首」と題された陛下(昭和天皇)のお歌に目が留った。「いでましし浅間の山のふもとより母のたまひしこの草木はも」「池のべのかた白草を見るごとに母の心の思ひいでらる」といふ御製だったが、その解説には「貞明皇后のおなくなりなられたのが、昭和26年5月…」云々と記されてゐた。お歌に目が留ったのは、もしかしたら、あのときスピーカーから流れてきた「笛の音」は貞明皇后の御大葬のラジオ中継だったのではないか、と思ったからであった。確認のため少し調べたみた。果して、予想した通りだった。昭和26年5月17日崩御、6月7日「貞明皇后」の追号が勅定され、御大葬は6月22日だったのだ。全く以て迂闊なことだった。

 20年余りの間、小学校入学間もない頃の不思議な出来事として記憶してゐたことが、実際には6月22日だったことが確められたわけだが、あの日の体験が貞明皇后の御葬儀に関るものだったと確信してからは、とてつもなく意味ある出来事に自分も参加してゐたんだと思ふやうになった。大げさに言へば私の初の皇室体験であった。「きちんと座りなさい」と何度も何度も繰り返した「母のやうな」先生の声は今も耳朶に残ってゐて、そのとき皇室に対しては「姿勢をあらためなければならない」といふことを体で学んゐたわけである。

 御葬儀の様子が校内放送で流されたといふことは、他の教室でも同じやうな光景が展開されてゐたことになる。御大葬の放送だったと気がつくまでは懐かしくも不可思議な思ひ出だったが、御葬儀の中継放送であったと確認できてからは、その意味を考へるやうになった。それは1学年4クラス規模の全校児童千百人余りの町立小学校(新潟県小出町、現・魚沼市)でのことだった。そして、全校的な追悼の取り組みは私の学校だけでなく、県内の他の市町村の、否、おそらく全国の小学校でも同様だったのではないかと思ふやうになった。御大葬のときには昭和天皇の「貞明皇后をしのぶ」といふお歌は未だ公表されてゐなかったやうだが、当時の国民はどのやうな思ひで御大葬の日を迎へたのだらうかと、さらに考へるやうになったのである。

 私の脳裏に焼きついた「正座してかしこまった」記憶から推測できるのは、母君を亡くされた天皇陛下のお悲しみをお察しし、さらに御夫君・大正天皇を早く亡くされた皇太后陛下(貞明皇后)の御生涯を追慕する国民的な連帯感情が濃厚だったのではないかといふことである。さうでなければ御大葬の様子が全校放送されるはずがない。後日分ったことだが、貞明皇后は養蚕や救癩、灯台職員への慰撫などにご尽力された方であった。かれこれ振り返ってみると、皇太后崩御の悲報を私は小学生ながら「かしこまって」受け止めてゐたわけで、あの日、私は有形無形の大事なことを教へられてゐたことになる。

 昭和26年といへば、ポツダム宣言受諾から6年後で、未だ主権喪失の被占領期であった。前年には朝鮮動乱が勃発してレッド・パージが行はれるなど冷戦によるイデオロギー対立の影が及んでゐた時代であったが、その一方で私のささやかな体験から窺はれるやうに、皇室を尊崇する伝統的な国民感情に揺らぎのないことが示された年でもあった。

 翌昭和27年4月、講和条約が発効して占領を解かれた日本は、昭和天皇のもと、本格的な経済復興へと歩み出すことになるのである。

(別冊『正論』11、「遙かなる昭和」所収)−もと現代カナ−

   補記

 貞明皇太后の御葬儀の際に全国の学校で黙が捧げられたことは事実であって、そのことについて、宗教ジャーナリストの斎藤吉久氏は、神道を「軍国主義」「超国家主義」の源泉と思ひ込み所謂「神道指令」で神道を差別的に圧迫したGHQが自らの神道観の誤りに気づいたからではないか、としてゐる(『正論』平成24年4月号)。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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 現在、奇妙な国辱的な裁判が東京地裁で始まってゐる。中国の法廷で出された判決を日本国内で執行せよといふ中国人の訴へを東京地裁が受理したからである。

 日本国民は日本の法律に守られ、それに違反しない限り罰せられることはない。罰せられるにしても、裁判で法律違反の判決が確定した場合に限られる。微罪のケースでは略式の起訴・命令などもあるやうだが、その場合でもそれに不服であれば裁判所の判断を仰ぐことができる。いづれにしても国民は国法を遵守してゐる限り(裁判所に拠って違法と判断されない限り)、法的責任を問はれることはない。

 司法権の独立は、国内的には三権分立の原則から国会(立法権)・政府(行政権)との相互牽制を意味するものだが、対外的には国家主権の一部として、国法(憲法・法律)以外何ら従ふものなしの意味のはずである。だから国民は国内にゐて国法に違反しない限り裁判所によって守られることはあっても、間違っても被告席に座らされることはないはずである。裁判は国法に準拠して行はれるからである。

 従って、中国での判決を日本で執行せよといふ中国人の訴へは、当然日本の裁判所で門前払ひにされるべきものだったが、どうしたことか東京地裁が受理したことから、審理が始まってゐるのである。

 昨年10月23日付産経新聞の「from Editor」欄、「南京取り立て裁判の怪」(大野敏明編集委員)を参照しつつ、具体的に概略を述べると左記のやうになる。

 原告の中国人は1937年(昭和12年)の所謂「南京事件」の被害者を名乗る女性で、展転社が平成10年に刊行した松村俊夫氏著『「南京虐殺」への大疑問』によって「精神的苦痛を受けた」として、松村氏と展転社を南京の人民法院に訴へた。著者と出版社に召喚状が届いたが応じる義務はなく出廷しなかった。南京法院は即日、両者に日本円で500万円超の賠償を命じる判決を下した。日中間には裁判の「相互保証」の取り決めがなく、南京法院の判決を日本で執行することはできない。そこでこの女性は東京地裁に強制執行を求める訴訟を起して受理された。「いってみれば南京で下った損害賠償金を、取り立てられるように日本の裁判所に訴えてきたのである」(大野記者)。

 もし、この裁判で原告の勝訴となったとしたら、南京で一方的に下された判決が、日本でも有効とされて執行されるといふ前代未聞のことになる。訴へを受理したこと自体が全くをかしなことで、国家主権の相互尊重といふ国際法の基本的原則にも悖る異常な事態なのである。どう考へても原告勝訴はあり得ないはずが、審理が行はれてゐるからには予断は禁物である。原告に力を藉す弁護士も存在する(だから裁判が始まったのだ)が、当然に展転社側には高池勝彦弁護士を初めとする19人の訴訟代理人(弁護団)が控へてゐる。その中に本会会員(参与)の中島繁樹弁護士も加はってゐる。

 これまで展転社は所謂「南京事件」を疑問視する書籍を多く刊行して来た。この訴訟には日本の出版界や各報道機関に対して、疑問符つきで「南京事件」を取り上げると厄介なことになるぞとの言外のメッセージ込められてゐるやうに感じられる。そこに原告側の狙ひがあるやうにも思はれる。従って一出版社、一個人の問題ではなく、「言論の自由」にも関連する事柄なのである。

 大きくは「尖閣」「教科書」「靖国参拝」等々で腰の退けた対中姿勢を執り続けたことで、日本国家が軽んぜられてゐることの現れだと思ふ。まことに残念である。仮に地裁段階であったにしても、原告勝訴などといふ恥づべき判決が出ないやうに裁判の行方を注視したいものである。

 いま評論家・近現代史研究家の阿羅健一氏を会長に「南京裁判 展転社を支援する会」が発足して、裁判費用を含むカンパを募ってゐる。

 郵便振替口座「00170−1−679142 展転社を支援する会」。

 昨年11月9日に開廷した裁判は、12月21日に第2回の審理が行はれ、3回目は3月15日午前11時から、東京地裁103法廷の予定。

※展転社 TEL 03(5314)9470     (山内健生)

 編集後記

 2月11日は「建国記念の日」だった。夜九時からのNHKニュースは、奉祝行事と反対集会を全く同等に報じてゐた。それは本質的にも間違ひだが、形式的にも全国で奉祝行事の数・参加者数が、反対派のそれの数百倍に達することは調べるまでもなく明らかこと。「報道の中立」を装って反対派を持ち上げるかうした惰性的報道は改めるべきで、国論が分裂してゐるかの誤った印象を全国の視聴者の脳裡に刻むもので百害あるのみだ。これを偏向報道といふ。

(山内)

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