国民同胞巻頭言

第616号

執筆者 題名
定栄 安治 「わが日本は奇跡の国だ」
- だが、甘える時代は終った、独立自尊の心を取り戻さう -
  平成二十四年にお詠みになったお歌から
澤部 壽孫 平成25年年頭及び最近ご発表の御製、御歌を拝誦して
岸本 弘 夜久正雄著『古事記のいのち』を読む(4)
- 「古事記の主題」をめぐって -
新刊紹介
『日本人を育てた物語』編集委員会編
『国定教科書名文集 日本人を育てた物語』
錦正社 税別2,000円

 「わが日本は奇跡の国だ」と感じたのは、もう随分昔のことだった。最近では、官房長官が、国会答弁の中で、一昨々年、自衛隊を「暴力装置」と言った時にさう感じた。任命権者である総理大臣が彼を罷免しないばかりか庇ったからである。これには愕然とした。総理は自衛隊の最高指揮官であり、官房長官は総理の筆頭補佐役であるにも拘はらずである。

 国防に責任を有する内閣が国家の防衛を担ふ組織を「暴力装置」と呼んで否定するならば、その国の存続は忽ち危うくなること自明である。こんな心許ない政権が3年3ヶ月も続いたにも拘はらず、わが日本国は存立してゐる。政府が国防を蔑にしても国が続くとは、古今の歴史でも稀有なのではなからうか。むろん国際関係から来る僥倖もあらうが、改めて「わが日本は奇跡の国だ」、不思議だ、と思ったものである。

 「奇跡」とは、実際に起るとは考へられないほど不思議な出来事と辞典にはある。この奇跡をもたらしてゐる要因は何か。私見を述べてみる。

 その一つは、全国の津々浦々に、自らの職務を天命として日夜精魂を傾注し精進してゐる多くの国民がゐることである。例へば東日本大震災では、事あるたびに「緊張感を持って…云々」の首相発言が繰り返されたが、中央政府の危機への備へや心構へが脆弱であることを端的に現してゐた。その一方で、災害に遭遇した現地の人々は、大変な悲しみと苦難の中で自助と共助の精神で立ち上がるべく尽力されてゐる。逆に我々に力を与へてくれてゐる。

 私は鹿児島県で農業関連団体に約40年奉職した。県下を隈なく何度も廻って多くの得がたい体験をした。顕在化した問題について観察や意見交換を繰り返す中で、その底に潜む感情の機微に触れる機会が度々あった。誠心誠意、己の職務を遂行しようと努める方々との出会ひが、私見を醸成したやうに思ふ。

 「奇跡」を惹起してゐると思ふ要因の二つ目は、わが国の自然・言葉、伝統的で柔軟性に富んだ社会経済生活、そこから来る快適さ・居心地の良さではなからうか。

 東西の歴史を通覧すると、動乱が起きた時亡命者が続出してゐる。まづ我れ先にと逃げ出すのは前政権の中枢だ。わが国は、すでに古代に於いて半島・大陸などからの亡命者を受け入れてゐたが、外国へ亡命した日本人の話は、何故か聞いたことがない。まさに「奇跡の国」である。

 その三つ目は、わが国には先哲偉人や祖先達の「生きた」教訓・業績(遺産)が数多あることである。元寇の際の対応、明治維新の時の一致団結、終戦時の平穏な国情など、比類なきものであったし、近くは東日本大震災後の被災者達の秩序立った動きが世界を驚かせた。

 先哲偉人と呼ぶべき方々は、周囲の人々に奉仕し国に尽すことを最高の価値と信じて、生死を貫かれた人達であって、我々の師表である。聖徳太子に始って、光明皇后、二宮尊徳、上杉鷹山、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛等々と挙げれば限りがない。近隣某国はわが国を「歴史認識」で批判しながら、実は明治維新の富国強兵・殖産興業を手本にすべく、日本の歴史を研究してゐると聞く。

 いづれにしても、現在の我々は、日々、先人の余慶に浴してゐると考へるのが至当ではなからうか。例へば1400年前の聖徳太子17条憲法の精神が、そのまま我々の日常を導く「生きた」拠りどころとなってゐることなどである。

 広く世界各国の実情を思ひ浮かべれば、「わが日本は奇跡の国だ」といふ言ひ方は、決して大袈裟ではないはずである。その有り難さが分らず、外国籍の者に選挙権を認めよなどと主張する大政党まである。それが国家を否定する理屈であるのにである。こんな簡単な理さへ弁へない徒輩を国会の中に入れてしまった。

 今我々が直面している「竹島」「尖閣」などの諸問題は、「奇跡」に甘える時代はもう終った、本来の日本人が持つ情熱的且つ冷徹な思考と行動に立ち戻れ、独立自尊の生き方を取り戻せ、といふ先人の叱声と受け止めなければならない。[自らの見、自らの地」で実践遂行するに尽きると思ふ。わが郷土に、「木戸口を出れば、七人の敵あり」といふ教へがあるが、古今東西に通ずる真理ではなからうか、と思ってゐる。

(元 鹿児島県農協中央会)

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御製(天皇陛下のお歌)

       心臓手術のため入院
   手術せし我が身を案じ記帳せるあまたの人の心うれしき

       仙台市仮設住宅を見舞ふ
   禍受けて仮設住居に住む人の冬の厳しさいかにとぞ思ふ

       即位60年に当たり英国の君に招かれて
   若き日に外国の人らと交はりし戴冠式をなつかしみ思ふ

       沖縄県訪問
   弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦の日々思ひ島の道行く

       明治天皇崩御百年に当たり
   様々の新しきこと始まりし明治の世しのび陵に詣づ

       〇第63回全国植樹祭(山口県)
   海近き開拓地なるきらら浜に県木あかまつを人らと植うる

       〇第67回国民体育大会(岐阜県)
   小旗振りて通りて行ける選手らの笑顔うれしく手を振り返す

       〇第32回全国豊かな海づくり大会(沖縄県)
   ちゆら海よ願て糸満の海にみーばいとたまん小魚放ち  ※琉歌

皇后陛下御歌

       復興
   今ひとたび立ちあがりゆく村むらよ失せたるものの面影の上に

       着袴の儀
   幼な児は何おもふらむ目見澄みて盤上に立ち姿を正す

       旅先にて
   工場の門の柱も対をなすシーサーを置きてここは沖縄

 ◇平成25年歌会始 お題「立」

御製

 万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方恩納岳さやに立ちたり

皇后陛下御歌

 天地にきざし来たれるものありて君が春野に立たす日近し

(御製・御歌は宮内庁のホームページによる)

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 天皇・皇后両陛下には、お健やかに新春をお迎へになられたことを国民の一人として心からお慶び申上げたい。特に昨年2月に、陛下は御心臓の手術をお受けになられただけに喜びも一入である。陛下は、今年満80歳をお迎へになる。陛下の末永いご健勝を切に祈念するものである。

 元首が詩で国民にメッセージを伝へるのは日本だけであらうとしみじみとした喜びのなかに拙い感想を申し述べさせていただく。

御製

      心臓手術のため入院
   手術せし我が身を案じ記帳せるあまたの人の心うれしき

 陛下は、昨年2月18火日に冠動脈バイパス手術を受けられ、3月4日にご退院になられた。ご入院からご退院までの間多くの国民が記帳によりお見舞ひ申し上げたが、この御製には国民への感謝の御気持ちが詠まれてゐる。2月11日、冠動脈検査の為に東京大学医学部付属病院にて診察を受けられ、その結果、冠動脈の狭窄にやや進行してゐる部分が発見され、18日に手術を受けられる旨、翌12日に宮内庁から発表された。この発表を聞き、日本国中、深い憂ひにつつまれ、多くの国民が朝夕に手術の成功を神仏に祈った。17日にご入院、翌18日、東京大学医学部付属病院心臓外科と順天堂大学附属病院心臓血管外科の合同チームにより、午前11時から午後3時までの約四時間かけて手術は順調に行はれた。手術からご退院までの間、皇居、京都事務所、陵墓管区事務所、御料牧場などで合せて9万7千899人が記帳に参上した。

 陛下は記帳した一人一人の名前を自らご覧になられるといふ。三句目の「記帳せる」の「せる」は動詞「す」の未然形「せ」に動作の完了を表す助動詞「り」が加はった「せり」の連体形で、前半と後半をつないでゐて一首全体に切れ目がない。初句と二句で「手術せし我が身を案じ」と端的に述べられ、四句と結句で「あまたの人の心うれしき」と率直な感謝の言葉で結ばれてゐる。平易な言葉を連ねた五七五七七のよどみないしらべに国民への感謝の念が余すところなく表現されてゐる。

 神話の時代から今に至るまで、この真心のこもった歌の調べは歴代の天皇方に受け継がれて来てゐる。歴代天皇の御心を知らずして日本の文化伝統は語れない。西欧文化を尊重するあまり日本の美しい文化をないがしろにする風潮のはびこる世にあって、皇室には美しい日本の文化が脈々と受け継がれてゐるのである。

 ご退院3日後の3月7日には宮内庁病院で胸水を抜く治療もお受けになり、未だ万全の御体調ではないにもかかはらず、陛下はご自身の強いご意向により、3月11日午後、国立劇場にて催された東日本大震災一周年追悼式へ行幸啓遊ばされた。その折のお言葉の中で「被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています」と述べられた。

 このお言葉は12月の天皇誕生日の際にも今年正月の宮中参賀の折にも述べられた。困難に遭遇してゐる国民と常に共にあらうとなされる陛下のお姿を拝し、被災者のみならず全国民が深い感銘を覚える。

     仙台市仮設住宅を見舞ふ
   禍受けて仮設住居に住む人の冬の厳しさいかにとぞ思ふ

 両陛下は第14回国際コロイド界面会議にご臨席のため昨年5月12日に宮城県への行幸啓され、翌13日、仙台市若林区の七郷市民センターで奥山仙台市長から被災状況などをお聴きになったあと、仮設住宅に住む被災者をお見舞ひになり励まされた。その折の御製である。テレビで拝見する被災者に語りかけられる御姿には真心があふれてゐて気高い御姿は何人も及ばぬものである。

 「禍受けて」の「禍」は災害のこと。冬の寒さが特に厳しい東北地方で、大震災により身寄りを失ひ、住居を流され、仮設住宅に住む人たちにとって冬の厳しい日々はいかばかりであらうかと親身になって思ひやられる深いお気持ちが伝はってくる。結句の「いかにとぞ思ふ」は八音の字余りであるが、「ぞ」に陛下の御気持ちの深さが込められてゐて、字余りを感じさせない。また「仮設住宅」よりも「仮設住居」の方がよどみない調べになるばかりでなく、やさしいお気持ちが感じられる。

 一昨年年末にお詠みになられた御製「被災地に寒き日のまた巡り来ぬ心にかかる仮住まひの人」と合せて拝誦したい。

     即位60年に当たり英国の君に招かれて
   若き日に外国の人らと交はりし戴冠式をなつかしみ思ふ

 両陛下は5月16日から20日、エリザベス二世女王御即位60年に際しての午餐会のため、英国をご訪問になられた。その折の御製である。 陛下は、若き日、即ち平和条約発効の翌年、昭和28年(1953)、御年20歳の時に、昭和天皇のご名代としてエリザベス女王の戴冠式に出席され、欧米諸国を歴訪された。大東亜戦争で、日本は敢然起って東亜を植民地としてゐた欧米諸国と戦った。その怨恨が強く残ってゐた時代である。戴冠式で各国の元首・皇族の方々等と交歓されたことを、陛下は懐かしく思ひ出してをられるのである。「なつかしみ思ふ」に万感の思ひが込められてゐて字余りを感じさせない。

 午餐会は5月18日にウィンザー城で行はれ、20数ヶ国の王族・皇族などが一堂に会されたが、その中で、60年前の戴冠式にも出席されてゐたのは、陛下とベルギー国王アルベール二世のお二人だけであった。5月19日には日本大使公邸で在留邦人代表とお会ひになり「ほぼ60年前英国の対日感情が決して良好とは言えなかった時代に昭和天皇の名代として戴冠式に参列した私には、今日の日英間に結ばれて来た強い絆に深い感慨を覚えます」とお述べになってゐる。

 複雑に揺れ動く国際情勢の中に、長きにわたり、国の安泰を常に願はれ、国際親善におつとめになる陛下のお立場と御心労をあらためて偲びまつるのである。

     沖縄県訪問
   弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦の日々思ひ島の道行く

 沖縄県の祖国復帰四十周年に当る昨年、全国豊かな海づくり大会御臨席のため、11月17日から20日まで沖縄県へ行幸啓遊ばされた。この度も、先づ糸満市の平和祈念公園にある国立沖縄戦没者墓苑を参拝された。その折の御製である。両陛下の沖縄行幸啓は今回で4回目、皇太子時代も含めると9回目である。

 大東亜戦争で、多くが住民が直接戦闘に参加した沖縄戦は昭和20年3月末から6月23日まで続いた。沖縄戦での日本軍将兵戦死者は6万5千余、県民の死者は4分の1に当る10万人を超える。参拝を終へられた後であらうか。陛下の御目にとまった「あだん」の木の陰に、雨あられと降り注ぐ銃弾を避けて隠れる、人々の姿がありありと浮んでゐる。事実を事実としてしっかりご覧になってゐて、決してお忘れにならない。

 平成5年の「沖縄平和祈念堂前」と題する御製「激しかりし戦場の跡眺むれば平らけき海その果てに見ゆ」および平成7年の「平和の礎」と題する御製「沖縄のいくさに失せし人の名をあまねく刻み碑は並み立てり」を合せて拝誦したい。

     明治天皇崩御百年に当たり
   様々の新しきこと始まりし明治の世しのび陵に詣づ

 昨年は明治天皇崩御(明治45年7月30日)後100年目の年であったが、両陛下には、12月4日、京都に行幸啓され、明治天皇山陵及び昭憲皇太后山陵に御参拝になられた。その折の御歌である。これに先立ち、両陛下は7月18日に明治神宮に御参拝遊ばされてゐる。

 維新で開国した日本は、明治天皇といふ偉大な指導者のもとに、西欧文化を積極的に取り入れることにより近代化をはかった。それによって、活気あふれる明治の文化は生み出されたが、その過程でそれまでの日本にはなかったさまざまの事柄が始ったのである。その明治時代に思ひを馳せながら明治天皇山陵に御親拝遊ばされた時のお歌である。陛下の御胸に何が去来したのだらうか。

 不幸なことに日本は西欧文化を未だに消化しきれてゐない。明治天皇が明治四12年に「国」と題して御詠みになった御製「よきをとりあしきをすてて外国におとらぬくにとなすよしもがな」と御懸念になったごとく、日本の文化・伝統は軽視され、カタカナ文字が氾濫し、美しい日本語は消え去らうとしてゐる。皇室に関して全く敬語を使はない新聞やテレビによって、豊かな日本文化は失はれつつある。混迷を深めてゆく世を、陛下はどのやうなお気持ちで見つめてをられるのであらうか。国民の一人として、まことに申し訳ない気持ちで一杯である。

     第63回全国植樹祭(山口県)
   海近き開拓地なるきらら浜に県木あかまつを人らと植うる

 第63回全国植樹祭は、天皇・皇后両陛下の御臨席を得て昨年5月27日、山口県山口市阿知須にある都市公園・山口きらら博記念公園スポーツ広場で行はれた。その折の御製である。約1万2千600人が参加して行はれた干拓地きららの浜での植樹祭は快晴に恵まれ、天皇陛下は赤松、楠木、椎木を、皇后両陛下には黒松、藪椿、夏蜜柑をそれぞれお植ゑになった。また、天皇陛下には檜、イチヒ樫の種を、皇后陛下には杉、いろは紅葉の種をそれぞれお捲きになった。緑豊かな国土を念願されるお気持ちが伝はってくる御製である。

     第67回国民体育大会(岐阜県)
   小旗振りて通りて行ける選手らの笑顔うれしく手を振り返す

 両陛下ご臨席のもと、第67回国民体育大会は9月29日、岐阜市の岐阜メモリアルセンター長良川競技場で開かれた。両陛下は、開会式で四十七都道府県の各選手団が入場して、日の丸の小旗を振りながら両陛下の御前を行進するのをご覧になり、御手を振りお応へになった。その微笑ましいお姿が浮んで来る。平成の御代を担ふ若人達にお寄せになるご期待のほどが偲ばれる御製である。

     第32回全国豊かな海づくり大会(沖縄県)
   ちゆら海よ願て糸満の海にみーばいとたまん小魚放ち

 天皇・皇后両陛下は、昨年11月18日に沖縄県糸満市に於いて開催された第32回全国豊かな海づくり大会に御臨席になられた。その折の琉歌による御製である。琉歌は8・8・8・6の30音の四句からなってゐる。

 「ちゆら海よ願て 糸満の海に みーばいとたまん 小魚放ち」と読む。「ちゅら海」は=美しい海。「みーばい」と「たまん」はいづれも沖縄産の魚の名前。「小魚」は稚魚のことで「クイユ」と発音する。「放ち」は放流した。美しい海を念願しつつ、糸満の海に「ミーバイ」と「タマン」の稚魚を放流した、といふ意味である。平成五年に沖縄県で開かれた第四十四回全国植樹祭の折の御製「弥勒世よ願て 揃りたる人たと跡に 松よ植ゑたん

 念願しつつ、沖縄の人と一緒に、沖縄のかつての戦場の跡地に万感の思ひで琉球松を植ゑた)と併せて拝誦したい。美しく資源豊かな海と緑豊かな山を念願される陛下のお気持ちが偲ばれる。

皇后陛下御歌

     復興
   今ひとたび立ち上がりゆく村むらよ失せたるものの面影の上に

 天皇・皇后両陛下は一昨年に引き続き昨年も宮城県、長野県、福島県の被災地を御訪問になり、東日本大震災等の被災者をお見舞ひになった。その折の御歌である。津波によって多くの人命、家々、街並み、周囲の自然等が喪失してしまった。かつての面影を拠り所として今一度復興に立ち上がらうとしてゐる村々の姿を活き活きと詠まれてゐる。天皇陛下と50余年にわたり苦楽を共になさってゐる皇后陛下ならではの真心のこもった御歌である。

     着袴の儀
   幼な児は何おもふらむ目見澄みて盤上に立ち姿を正す

 一昨年の11月3日、赤坂東庭において9月6日に五歳になられた悠仁親王殿下の「着袴の儀」、「深曽木の儀」が行はれた。儀式の中で碁盤の上に立ち、しっかりと姿勢を正された悠仁親王殿下のお姿を御詠みになった御歌である。

     旅先にて
   工場の門の柱も対をなすシーサーを置きてここは沖縄

 昨年11月の沖縄県行幸の際、近代的な工場の両方の門柱の上にシーサー(沖縄の普通の伝統的家屋に取り付けられてゐる魔除けの焼物の唐獅子)が置かれてゐるのをご覧になり、お詠みになった御歌。沖縄の地であることを実感されつつ、微笑まれる御姿が目に浮んで来る。

歌会始 お題「立」

     御製
   万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方恩納岳さやに立ちたり

 昨年11月の沖縄への行幸啓で初めて恩納村の万座毛をご訪問された折の御製である。万座毛は沖縄県国頭郡恩納村にある景勝地で、東シナ海に面した海岸の絶壁に、象の鼻の形の岩が付いてゐるのが特徴。「毛」は原を意味し、「万座毛」とは一万人が座れる広い野原の意である。万座毛を歩まれながら彼方(琉球の古語で「あがた」)に「さやかに」、清くくっきりと立つ恩納岳をご覧になり、昔を偲ばれた御製である。「恩納岳の向うに恋人の住む村がある。あの山を押しのけて、こちら側に引き寄せたいものだ」といふ意味の琉歌を承けての御製であると拝察される。

 陛下は沖縄の歴史や文学をよく研究されてゐて、沖縄の古代歌謡である「おもろ」にもご造詣が深く、300首に上る硫歌をお詠みになってゐるとのことである。

     皇后陛下御歌
   天地にきざし来たれるものありて君が春野に立たす日近し

 昨年2月に天皇陛下は、御心臓の手術を四時間に亙って受けられた。皇后陛下の御心労はいかばかりであられたらう。御回復を願ってお過ごしになってゐるある日、長く厳しき冬が終り春のきざし(気配)の中に天皇陛下が間もなく回復され、春の野にお立ちになるお姿を確信なさったお喜びの御歌である。

 (本稿の記述に当っては宮内庁のホームページ、『祖国と青年』誌および「神社新報」紙を参照させていただきました。また三荻祥さんにお世話になりました。紙上を借りて御礼申上げます)

新春詠草抄 - 賀状から -
お題「立」に寄せて

     千葉市 上村和男
   岩場超え頂きに立ち見はるかす木曽の山脈雄々しくぞ見ゆ

      東京都 梶村 昇
   雪の富士紫かすむ山峡に聳え立つ見ゆ美しきかな

      佐世保市 朝永清之
   北朝鮮遺骨調査団の報道をテレビで見つつ
   唐黍の畑になりたる埋葬地に立ちし同胞の思ひを偲ぶ
   一本の木の墓標立て読経する同行僧の声聞ゆがに
   夕げまで立ち歩き居し幼子のにはかに屍き遠き日うつつに

      厚木市 福田忠之
   かなしきや海に浮べる大和島守り立ち抜く命かなしも

      町田市 三宅章文
   大津波引きにしあとにひとつ松立ちつづけたり命枯るとも

      八千代市 山本博資
    六月、京都・黒谷金戒光明寺の「会津藩殉難者墓地」を案内されて
   立ちならぶ墓石めぐりて思ひ知る斃れし藩士のかずの多さを
   すめろぎのご信任厚き容保は義を立てみやこを守り給ひき
   (文久3年10月9日、孝明天皇、京都守護職の会津藩主・松平容保公に御宸翰と御製を賜ふ)

      柏市 澤部壽孫
   幕末の志士のこころに立ち返り国造りする時は来たりぬ

      横浜市 亀井孝之
   山肌をまばゆく照らし出でし日を富士のすそ野に立ちて見上げき

      府中市 磯貝保博
    皇居勤労奉仕の折、両陛下の御会釈を賜りて
   立礼し姿勢正して目前に笑みたたへたる御顔拝しぬ
   末永く健やかにませと祈りつつ萬歳唱ふる我が身嬉しも

      鎌ヶ谷市 向後廣道
   守り立ちし遠き日もあり御訪英の御車出でます正門の辺に

      都城市 小柳左門
   うすがすむ春のみそらに八百年の綾杉は立つゆたかに

      熊本県 折田豊生
   人のみな立ち返るべきまさみちのひらくるを祈る年の始めに

      藤沢市 工藤千代子
   地震に遭ひ一年学びて憧れの学び舎に立つ吾娘笑顔なり

      宝塚市 庭本秀一郎
   一人立ちせむ日来るまで妻とともに力合せて育みゆかん

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1、最終稿にあたって

 これまで3回にわたって見て来たところは、著者・夜久正雄先生が『古事記』の研究者である以前に、『古事記』の愛読者の一人として、『古事記』とどのやうにつき合ってこられたかをたどってみたことになる。

 最終稿としての今回は、御著書の3章「国作りの叙事詩」と4章「古事記の主題」を見てゆきたい。ここにもこれまでと同じタッチで描かれた倭建命のかなり長い一節も含まれるが、この二つの章には、総じて『古事記』といふ書物の全体をどのやうに捉へるかといふ、研究者としての著者の見方が示されてゐると思はれる。このあたりは、『古事記』撰録1300年にあたって出版された、多くの著作にも取り上げられてゐるところであらう。

 自分は若い頃にこの二つの章を読みながら、よく分らなかった よく考へようともしなかったと言った方が正しいかもしれない ところが二つほどあったが、最近はなるほどと思ふところがあるので、そのことをまづご紹介しておきたい。

2、歴史的現実からの遡及としての神話

 著者は《神話と伝説との関係について考へてみますと、神話が先にできて、そのあとで伝説ができたとは必ずしも考へられません。歴史伝説ができたのちに、さらに人々が、それを想像の裡で遡及した結果、そこに神話が生まれたとみることもできます》とされ、また《伝説も神話も、歴史的現実からの同時的遡及によって生まれたものと見るべきであり…神話の方が伝説よりは、むしろ新しい遡及ではなからうか》と述べてをられる。

 そして著者は、《この論理からしますと、『古事記』の冒頭に書かれてある神世七代の神話が、一番古いものではなくて、実は逆に一番新しい神話だといふことになります》とされて、これを上図のやうに図示して説明されるのである。

 《図の底辺は客観的な時間の軸で、『古事記』の記述の順序です。縦軸は現実との距離といふわけです。矢印は伝承者の意思です。伝承者の意思は未来に向ってゐますが、同時に過去にさかのぼります。それはやがて過去の事実の記憶をはなれて神話の世界に飛翔します。そこで、現在からもっとも遠い神世七代が、現在の意思を最も端的に反映するといふことにもなるわけです》

 図で、〈伝承者の意思〉が遡及する基点を一応「推古」と示されてゐるが、他の箇所の記述等から推察すると、ここは『古事記』が編纂時のやうな形に体系化された時代を想定すればよいやうであって、それが推古天皇(聖徳太子)の時代を含む前後の時代、新しくは天智・天武天皇の時代、古くは継体天皇の時代にまで遡ることができるやうである。

 『古事記』に取り上げられてゐる神話・伝説は、『日本書紀』にもほぼ同様に取り上げられてゐるところであり、そこには多くの異伝の含まれてゐることを考へると、先に言ふところの〈伝承者〉は、時代的にもかなりの幅を以て考へなければならないやうに思はれる。

 いづれにしても、『古事記』や『日本書紀』に出て来る神話を、どうしてかうした神話が生まれたのだらうと、誰しも一度や二度は不思議に感じたところであらう。さうした思ひ(幼な心)はいつまでも大切にしながら、かうした著者の見解に耳を傾けてみるのも悪くはないと思ふ。

3、中大兄三山歌

 次の「中大兄三山歌」に関する解説のことも、若い頃は分ったやうでよく分らないところであった。『万葉集』(巻1・13ー15)に出て来る中大兄皇子(のちの天智天皇)のよく知られる次の長歌である。

《香具山は 畝火を愛しと 耳梨と 相争ひき。 神代より かくなるらし。 いにしへも しかなれこそ、 うつせみも 妻を あらそふらしき。》

 ここで著者は、《この長歌の第一文が、「き」といふ助動詞で終ってゐる》ことに注目されて、この「き」で終る文末表現が『古事記』の文末表現と一致すののだと言はれる。

 限られた紙面で著者のご説明を要約することは難しいので、結論に当る部分だけを引用すれば、《中大兄の「三山の歌」は…「妻あらそひ」の体験事実を、神話・伝説に仮託し、そこに現実の体験事実の存在の根拠を見出したもの》とされて、ここでも前項で取り上げた伝説・神話を遡及する〈伝承者の意思〉と同様の視点で見てゆかれるのである。そして『古事記』の記述と同様の過程をたどって、《神話・伝説形成の心理的順序とは逆に、「神代」から「いにいしへ」、さらに「うつせみ」(現身)への順序に叙述》されたのが、中大兄の「三山の歌」であるとされる。

 まことに舌足らずのご紹介であるが、著者のご見解についてはこのあたりまでとし、御著書のこの部分に2頁の見開きで載せられてゐる、三輪山麓からの大和三山の写真のことに触れておきたい。左に香具山、右に畝傍と耳成が写ってゐる。自分もこの夏、友人に案内されて三輪山麓の丘に立ち、この眺望に接したが、大和盆地のこの風景は、古代から何も変ってゐない。そのことがたまらなく懐かしく感じられる。倭建命が幼い頃に遊びまはられたのもこのあたりであらうか。大和三山の変らぬ眺めを思ふ時、大化の改新を遂行された中大兄皇子が、『古事記』編纂者と共通の視点に立って、歴史的懐古の情を「三山の歌」に託されたとされる著者の見解は、まことに興味の尽きないものがある。

4、飛鳥・白鳳の精神

 残された紙面も少なくなったが、ここであらためて、第一回に取り上げた黒上正一郎著『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』に戻ってみたい。それは四章「古事記の主題」の結びが、2章「古事記の魅力」と同様に「飛鳥・白鳳の精神」といふ言葉で括られてゐることからである。4章の結びは次のごとくである。

《中大兄三山の「神代」「いにしへ」が「現身」の作者の痛感の表現であるといふ同じ論理によって、『古事記』は神話・伝説を素材として、飛鳥、白鳳の精神を表現した一大叙事文学といふことができます。正に『古事記』は日本文化誕生の叙事詩です》

 著者の多くの御著作を振り返れば、かく語られる著者のお気持の中に、聖徳太子のお姿のあることは明白である。その聖徳太子像は、黒上先生によって導かれ、感得された聖徳太子像であることもいふまでもない。

 第1回の1頁目末尾から掲げた黒上先生の『古事記』に関する描写は、直ちに次の一文に続くのである。

《太子(聖徳太子)が「国家の事業を煩となす」と現生の悲哀に徹したまひ、而も之を同じく群生に察して大悲息むなしと告白したまひ、同胞憶念の永久苦闘に随順して、其の切実体験に大陸の学説教義を生命化したまひし綜合的御精神は、この民族生活の劇的生命を辿つてはじめて理解し得るのである》

 これはつまり、聖徳太子の仏教受容といふ御事業に触れられた一文である。ここにある「この民族生活の劇的生命」とは、具体的には『古事記』『日本書紀』に表現された神話・伝説を指すのであらうが、この時代をおほらかに謳ひあげた万葉歌人の情調をも含めて、黒上先生はしばしば〈記紀万葉の精神〉と呼んでをられる。

 『古事記』の撰録された時代は、大きく『万葉集』の時代に包まれてゐる。それは天智・天武天皇の時代を介して聖徳太子の時代にも接してゐる。黒上先生がこのあたりの表現に好んで引かれるのが、『万葉集』防人の歌である。ここにはその第四編から4首を取り上げてみた。

  忘らむて野ゆき山ゆきわれ来れどわが父母は忘れせぬかも
父母がかしらかきなで幸くあれていひし言葉ぜわすれかねつる
わが母の袖もちなでてわがからに泣きしこころを忘らえぬかも
蘆垣の隅所にたちて吾妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ

 かうした東国訛の残る防人の歌は、何度読んでも読み飽きることはない。特に最初の歌は、自分にとって『万葉集』との出会ひを衝撃的なものとした一首であった。「自分は遠い筑紫の国へ野を越え山を越えて向はなければならない防人なのだから、もう父母のことは忘れようと思ってやって来たが、どうしても忘れることができないなあ」と、若い防人の声が聞こえてくる。ここでも『古事記』と同様に、防人の歌は1300年の歳月を超えて、自分たちの心に迫って来るのである。

 「飛鳥・白鳳の精神」、それはとりたてて殊なる世界ではなく、日本人にとってなつかしいこころの故郷であり、そこに『古事記』も誕生したのである と、夜久先生は語りかけてをられるやうである。(了)

(24・11・3・明治節の佳日に)
(元富山県立高校教諭)

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 『古事記』に出てくる「天の岩屋」や「八岐のをろち」の物語、日本武尊の「草薙剣」や「弟橘媛」の物語は、戦前は総ての日本人が小学校で習ひました。国語や修身の国定教科書に載ってゐたからです。国定教科書によって、全国どこの町や村へ行っても同じ教科書で学び、日本人としての心を育んでゐたのです。

本書の特色が「帯」に次のやうに書かれてゐます。

  戦前の国語・修身の国定教科書から今読んでも心に残る名文を厳選し収録- 日本全国津々浦々、戦前の子供たち誰もが読んだ偉人伝や歴史物語など、戦前の日本人を育てた名文から戦後忘れかけた日本人としての心を再認識する-

 駒場東邦中学校(東京)の教頭を務められた佐藤健二先生が中心となって、本書が編集されたと聞いてをりますが、戦前の小学校第一学年から第六学年までの修身と国語の国定教科書から是非この文章は後世に伝へていきたいと思ふ優れた文章を撰び一冊の本に纏めたものです。

 この中には、佐野源左衛門常世の「鉢の木」の逸話、児島高や楠木正成の活躍、曾我兄弟の敵討ちの話、勝海舟と西郷隆盛の会談、震災で有名になった「稲むらの火」の濱口梧陵の話、伊能忠敬や間宮林蔵の話など、数多くの佳い話が収められてをります。このやうな物語を読んでゐれば、きっと次の授業が待ち遠しく勉強が好きになることでせう。

 そして、東日本大震災に際して、世界から賞賛された日本人の生き方や、日本全国の人びとが心を一つにして復興に取り組む姿の原点、さうした日本人の心を育んだ物語がこの本の中にあるやうに思ひました。

 本書では、原文の歴史的仮名遣ひをそのまま採用するとともに、片仮名は平仮名とし、漢字は適宜、常用漢字字体(略字体)を採用して、さらに振り仮名を付けたり、必要と思はれる箇所に註を付けるなど、若い読者にも読みやすいやうに工夫をしてゐます。

 本書は、大人が読んでも、正に『日本人を育てた物語』を再認識させる読み応へのある本になってゐますし、青少年や児童など幅広い年代者には、日本の偉人伝や歴史物語などを新鮮な感覚で学ぶためのよい教材となると思ひます。

 これまで、国定教科書に載ってゐる物語を読みたいと思っても、なかなか手軽に読むことはできませんでした。しかし、本書が刊行されたことによって、  多くの人が国定教科書の内容を身近に手にすることができるやうになりました。

 多くの皆さん方に、是非本書をお手にとって読んでいただきたいと思ひます。そして、お子さん方やお孫さん方にも是非勧めていただきたいと思ひます。

 なほ、本書編纂の中心となった佐藤健二先生は、筆者の中学高校時代の同級生であり、母校の駒場東邦中学校の教頭を長く務めた方であると共に、国民文化研究会会員(理事・顧問)でありました故戸田義雄先生(元国学院大学教授、同大日本文化研究所名誉所員)の御薫陶を受けた学究でもあります。

(小田村初男)

 

日本政策研究センターの最新刊
伊藤哲夫著 『日本国家のかたちを考える』

最近、各政党から憲法草案が発表されている。新たな憲法を構想するに当たって何よりも大切なのは、この日本国家を成り立たせていくべき根本たる「国家の機軸」を明確にすることだ。そのために今、学ばなければならないのは、本来、日本人が持っていた「天皇観」「国家観」ではないか。

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編集後記

 「元首が詩で国民にメッセージを伝へるのは日本だけであらう…」と、御製・御歌謹解(205頁)の冒頭で執筆者は記す。今春の歌会始には1万7千余首の詠進があった。その様子をテレビで拝見したが、陛下と国民の「題詠」が披露されるといふわが国柄の尊さに改めて感動を覚えた。御前で披講されたのは選に預った十首で、「残りの寄せられた歌は都道府県ごとに纏められ、天皇陛下のもとに届けられることになってゐます」とは、中継を締めくくるアナウンサーの言葉であった。まさに君民一和の伝統の国だ。巻頭でも、その恩恵に浴するわが国は「奇跡の国だ」と切言する。

 日の本の民の幸を実感する。

 (山内)

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