国民同胞巻頭言

第615号

執筆者 題名
上村 和男 第2次安倍内閣への期待
- 先づは参院選(7月)の勝利で政権基盤の強化を -
戸田 一郎 科学的に考へよう
- 原子力発電と放射線のこと -
大岡 弘 第15期第24回国民文化講座(昨年5月)
竹本忠雄先生の御講演を拝聴して

- 「何が天皇をつくるのか」 -
岸本 弘 夜久正雄著『古事記のいのち』を読む(3)
- 5章「愛の歌」をめぐって -
内田 巌彦 近頃思ふこと
「日本の心」を取り戻す努力を

 3年余に及んだ民主党政権への評価が問はれた総選挙が終った。結果は周知の通りの「自民党圧勝」であった。民主党内閣の内政・外交のやり方を見れば、当然の結果であらう。それにしても第一党の獲得議席が平成17年「自民党296」→平成21年「民主党308」→今回「自民党294」と振り子のやうに振れる小選挙区中心の選挙では、国政の継続性が担保されるのだらうとか些か懸念を覚えざるを得なかった。

 二大政党による政権交代を指向するとして導入された制度ではあったが、国家観や教育観が通底する政党間の政権交代ならまだしも、本質的に民主党は日教組や自治労といふ旧態依然たる組合に軸足を置く左翼政党であった。党綱領もなく、もともと政権を担ふ識見も力もなかったが、マス・メディアの煽る「反自民ムード」と「財源の裏付けなき迎合的公約」(マニフェスト)によって政権を握ったのだった。鳩山- 菅- 野田の三内閣によって、その実態が白日の下に曝されたことは今後のためには良かったと思ふ。今度の選挙で民主党は「57」議席に激減したが、多少時間を要しても政界が再編され、左翼思想と絶縁した大政党間の緊張感に満ちた「国会論戦」を見たいものである。その方向に進んで欲しいと願はずにはをられない。

 選挙では確かに自民党は大勝したが、国民の大多数が自民党を支持したわけではなかった。民主党政権があまりにも不様であったがためであって、それは投票率が60%に満たなかったことに表れてゐる。それでも自民党が勝利したのは、この難局を任せられるのは自民党しかないと有権者が判断した結果と言ふほかはない。自民党の責任は重大である。

 選挙で声高に叫ばれたのは原発・エネルギー政策であった。ことに原発に関しては「ゼロ」「卒」「脱」の語が踊り、与党民主党まで「ゼロ」を掲げて、福島第一原発事故による国民の不安を選挙に利用した嫌ひがあった。しかし空振りに終った。「原発ゼロ」のみを強調した前首相は選挙区で落選した。代替エネルギーの確かな見通しを欠いたまま多くの党派が、「脱原発」を叫んだのは無責任の極みであって、この点では「安全性が確認されれば再稼働あり」とした自民党が支持されたと言へよう。

 北方領土や竹島、さらには近年の中国のわが尖閣諸島への露骨な野心などを見れば、独立国に相応しい安全保障政策の確立は急務であって、それを阻んでゐる占領憲法の改正こそ、選挙の争点となるべきだった。しかし、民主党が逃げた(民主党には憲法についての定見がない)ため低調に終った。それでも自民党が憲法改正草案をまとめて選挙に臨んだことは一歩前進だったし、「自主憲法の制定」を打ち出した日本維新の会は「54」議席を獲得した。憲法をめぐり政界が具体的に動き出しさうな気配がある。大いに期待したい。

 安倍晋三総裁が再度首相の大任を担ふが、九月の総裁選以降、氏自ら「私は政治的に一度死んだ人間だ。もう怖いものはなくなった」と覚悟のほどをたびたび強調してきた。二度目の総理就任は昭和23年10月の吉田茂氏以来のことで、これについて、産経紙は「5年3ヶ月前、病に抗せず退陣を余儀なくされた安倍氏は今回、尊敬する幕末の志士、吉田松陰の戒め『一蹉跌を以て自ら挫折するなかれ』を実践してみせた」と記してゐた(「再登板- 本格政権への道- 」12/17付)が、前途は多難である。メディアの中には、安倍自民党が自立国家として正常な途を辿らうと努めることに、「米国からも日本の『右傾化』への懸念がだされている折でもある」(12/17付、朝日社説)などと冷評してゐるものもある。彼らは決して「これが右傾化なんですか。貴国はどうなんですか」と国外に問はうとはしない。国外の声を口実に自国の自立を阻まうとする奇妙で病的な売国的習性と言ふべきである。

 新政権が先づなすべきことは、民主党政権の無策で低迷した経済を活性化させ、7月の参院選挙で勝って、衆参で多数を占めることだ。さうなればメディアは少しは考へを改めるだらう。安倍政権には、「憲法」もさることながら、教育を歪め子供達の心を蝕んでゐる村山談話・河野談話、さらには教科書検定の際の「近隣諸国条項」等の、政治的愚行の数々を速やかに正して欲しいものである。

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1、日本で初めての原子力発電重大事故

 1昨年の3月11日、東京電力福島原子力発電所で事故が起って以来、原子力発電と放射線のニュースがテレビや新聞で毎日のやうに報道されてゐる。放射線を必要以上に恐れ、さらに原子力発電を“悪の塊”のやうに声高に叫ぶ人々が目につく。しかも困ったことに、エネルギーや放射線について俄勉強の政治家が、大声で叫ぶ人々に安易に迎合し、原子力発電の全廃を主張してゐる。もっと冷静に、科学的にこの問題について考へたいと思ふ。

2、あまり知られてゐない“自然放射線”

 私達は大地から、宇宙から、食物から、空気から常に放射線を浴び続けてゐる。これらを“自然放射線”、または“環境放射線”といふ。私たちは母親の胎内にゐるときから今日に至るまで、ずーっと放射線のシャワーの中で生活してをり、この自然放射線がゼロであれば私たちはもっと健康になれるのか、または不健康になるのかは誰にもわからない。つまり私たちは放射線を浴びながら現在の健康を保ってゐるのである。

3、放射線と放射能

 “放射線”とは紫外線よりもっとエネルギーの大きい目に見えない光(電磁波といふ)や、光に近い速さで飛ぶ粒子(電気を持った粒子や電気を持たない粒子など)を総称して放射線と呼ぶ。医療で使ふX線も放射線に含まれる。

 放射線を出す能力を“放射能”と言ひ、放射能を持ってゐる物質を“放射性物質”といふ。場合によっては放射能を放射性物質と同じ意味に使はれる場合もある。

 放射性物質が貯蔵されてゐる建屋の壁が一部破損して、そこから放射線が外部に漏れ出てゐる場合は建屋の壁の穴を塞ぐだけでよい。しかし問題なのは放射性物質が建屋から外部に飛散する事故であり、これを“放射能漏れ”といふ。放射性物質が地面に付着したところで放射線を出すからである。不幸にして今回の東京電力の事故はこの放射能漏れである。

4、放射線・放射能の測定

 『放射線の測定』…その場所の放射線の強さは“空間線量率”といふ値で、測定器の目盛は「○○シーベルト毎時」と表示される。その場所に一時間ゐた場合に受ける放射線の量を示してゐる。この数字を24倍(1日は24時間)すれば1日に受ける放射線の量であり、さらに356倍(1年は365日)すれば、その場所で1年間に受ける放射線量を示してゐる。

 インターネットには文部科学省の管理の下に“全国および福島県の空間線量率測定結果”が、10分間ごとの平均値をリアルタイムで表示されてゐる。ちなみに、私が事故以来4回ほど訪ねたいわき市立四倉小学校の空間線量率は11月24日14時10分現在で0・133マイクロシーベルト毎時である。この値のままで一年間に浴びる量を先に述べた要領で計算すると1165マイクロシーベルト、つまり1・156ミリシーベルト(1000マイクロシーベルトは一ミリシーベルト)となる。

 外部被ばくの世界平均が0・87ミリシーベルトであることを考へると、必ずしも高いと言へないことが分る。しかも人間は一度に100ミリシーベルトの放射線を浴びても「放射線による障害の有無は判定できない」事が分ってゐる。

 『放射能の測定』…事故から一年を経過し、福島県産の農産物が出回るやうになり、今度は「農産物から出る放射線の量」が問題になった。野菜類については1kg当り100ベクレルを超えてはいけないことになった(平成24年3月31日以降)。1ベクレルとは一秒間に一個の放射線が出ることを言ふ。国際食品規格委員会の規格(コーデックス規格)では野菜1kg当り1000ベクレルを基準としてゐることから、日本の規制値はその10倍も厳しいことが分る。

5、私達も放射線を出してゐる

 大地には必ず放射性物資が含まれてゐる。これらは根を通して野菜や果物の中に取り込まれ、また牛や豚の餌となって牛乳や肉製品にも含まれる。それを食べる私達は体内に放射性元素を蓄積し、体重60kgの日本人の平均放射能は7000ベクレル(一秒間に7000個の放射線を出してゐる)である。ただ、私達の体は水分を多く含んだ細胞で覆はれてゐるため、ほとんど体外に出ることはない。しかし、体重1kg当り120ベクレル(7000ベクレル÷60kg)の放射能を持つことから見れば、野菜の規制値が1kg当り100ベクレルは相当健康に配慮した数字であるといへる。

6、原子力発電は危険か?

 日本の原子力発電は、東海村に建設されたイギリス製コルダーホール型原子炉により、昭和38年(1963)10月26日発電を開始した。以来およそ半世紀、今度の事故が起るまで電気エネルギーの30%を供給しながら日本では原子力発電による重大事故は起ってゐない。それほど日本の原子力発電技術は優秀なのである。

 今回も、“地震による揺れに対して原子炉は停止した”。予想される天変地異に対して原子炉はプログラム通りに防護措置をとったのである。しかし千年単位でしか起らない予想以上の津波が原子炉を破壊した。だれもが予想しなかった津波による原子炉破壊を「だから原子炉は危険だ!」と、言へるであらうか。この事故は原子炉の問題ではなく、簡単にいへば、今後は津波対策を充分に施せばよいのである。しかもこの事故の放射線被ばくによる死者はゼロである。

7、“原子力発電の停止”は国を滅ぼす

 日本のエネルギー自給率は四%しかなく、先進諸国の中で最低である。しかし火力発電用の石油や石炭、液化天然ガス(これらを化石燃料といふ)は一度燃やせばそれで終りであるが、ウラン燃料による原子力発電の場合、燃料のウランは精製して長期間使用できるのでs準国産エネルギーtと呼ばれ、これを加へるとやっと18%の自給率になる。日本の原子力発電がほとんど停止させられた今、その不足を補ふために火力発電所がフル稼働してゐる。化石燃料の輸入が増大し、世界的に化石燃料の価格は上がり、31年ぶりの貿易赤字の一因となってゐる。

@火力発電が増加した結果、二酸化炭素の排出量が増え、2009年9月、当時の鳩山由紀夫首相が国連の演説で「2020年までに温室効果ガス排出量を1990年比で25%削減する」と表明した国際公約は守ることができなくなった。

A再生可能エネルギーまたは自然エネルギーと呼ばれる中で、水力発電は発電所の建設可能な場所が限界に達してゐること、風力や太陽光発電等で民間が発電した電気を電力会社が買ひ取り、電力料金に上乗せするため、電気料金が上がる。

B国内の風力発電一基の平均発電能力は3000kW、しかも年間の稼働率は10%台、それに対して原子力発電所は一基がおよそ100万kWであるなど、再生可能エネルギーは供給の安定性や供給能力及び発電コストにおいてとても原子力発電には及ばない。

C電気料金の高騰により製造原価が上昇、メーカーは国際競争に対応するため電気料金の安い外国に移転を余儀なくされる。結果、国の経済規模は小さくなり職場が減り、失業者が増え、国や地方自治体の税収入が減り、公共サービスの質が低下する。

Dエネルギー基盤の脆弱さは、経済・外交および国防上の大きな弱点となり、それに伴ふ国力の減退は、発展途上国への経済援助や国際交流のための資金などの規模が縮小し、国際間での発言力が弱まる。

E大手電機・機械メーカーはアメリカの業者と提携し、外国の原子力発電所建設に意欲を燃やしてゐる。しかし国内で発電所の建設はおろか運転も全廃すれば、これまで培った高度な技術は失はれ、提携国からも信頼を失ふ。

8、日本の技術を信頼しよう!

 今回、原子炉事故だけであれば国の経済的な被害や国民の不安はもっと少なかった。傷口を拡大させたのは“事故原因の冷静な判断と、原発停止による不利益”をよく考へないままに総理大臣が全国の原子力発電所の運転を止めさせた結果である。

 戦後しばらく“電気休み”といふ日があった。発電能力の小さかった当時、わづかな電気を優先的に生産工場に回すため、朝から夕方まで一定の時間(例へば、8時018時)一般家庭に電気は来なかった。それから今日まで、豊かな電力を供給するため先人たちはどれだけ努力してきたことであらうか。その結晶が“原子力発電”であると私は思ってゐる。

 深く考へることなく、風潮に流されたまま我も、我もと“原発反対”を叫ぶ人々と、その声に迎合しようとする政治屋の群れ。大きな声はよく聞える、反対運動は目立ちやすい。

 しかし、冷静に現実を見つめ、遠い将来をおもんばかるとき、私は日本の原子力発電の必要性を多くの人々に理解していただきたいと考へてゐる。

(元国立石川工業高等専門学校講師)

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 平成24年度国民文化講座(第15期、第24回)は、昨年5月19日國神社境内の國会館で開かれた。講師の本会顧問、筑波大学名誉教授の竹本忠雄先生は、平成18年(第9期)に続いて二度目の本講座への御出講であった。当日は110余名が参会して、質疑応答を含め二時間余に及ぶ御講演に耳を傾けた。演題は、「日本を守る『天つ日嗣』の世界的意義- 皇位継承問題をめぐって- 」であり、我が国の本質にせまる御考察の展開であった。

 先生の講演に臨まれる御姿勢は、レジュメの以下の文章に窺はれた。

  「一個の文明は、その優質をもって人類に貢献すべき天与の使命を持っている。我が日本は、何よりも、世界最古の皇統の歴代天皇が神武以来の民利優先思想を率先実行するという君臣一致の国風を誇りとし、この君主たる一系の天子が男系たることは当然の事実としてこれに疑義を挟む者はなかった。いま、この根本が崩れようとしている。政府の誘導に危険を感じ、すでに何人もの識者が的確な指摘を表明してきた。私はこれにおおむね賛同しつつ、自分なりの別の観点からの照明をこころみたい」。

 『皇后宮美智子さま 祈りの御歌』、『天皇 霊性の時代』の二著に続いて、先生は、このたび、『天皇皇后両陛下 祈りの二重唱』(海竜社)を上梓された。これら三部作の内容にも関連されて、また、日・仏比較の視点にも立たれて話をされたが、筆者が興味を抱いたところを中心に、以下、紹介させていただく。

1、日嗣の皇子の新嘗祭の御歌

 平成16年の歌会始の儀において、皇太子殿下の御歌の披講に当たり「ひつぎのみこ」と告げられた時、参列してをられた先生は、はっと、居ずまひを正さしめられたといふ。皇太子殿下の御威光を透かし見たやうな古い大和言葉の響き。この「日嗣の皇子」といふ言葉に、「日を嗣ぐのだな、しかし、一体、何をどのやうに嗣がれるのか」と思はれ、その後、皇位継承問題の本質とは、「何を天皇は継承されるのか」、「何が天皇をつくるのか」といふ根本的問ひに対して、その答へを推察することにある、と気付かれたさうである。

 その答への一端として、今上陛下が皇太子時代にお詠みになった御歌を紹介された。古来皇室第一の重儀である「新嘗祭」に関する御歌である。お父君の昭和天皇が、二時間づつ二度(「夕の儀」と「暁の儀」)、深いお虔しみのもと御神事を厳修なされてゐる間、「ひつぎのみこ」は、ひたすら「ともしび」を視つめ続けていらっしゃる。その祭儀の間に「何ものか」を身に著けていらっしゃると先生は考へられ、そのみ心を次の九首に偲ばれた。

     ともしび(昭和32年 歌会始)
   ともしびの静かにもゆる神嘉殿琴はじきうたふ声ひくく響く

          ○

     新嘗祭七首(昭和45年)
   松明の火に照らされてすのこの上歩を進め行く古思ひて
   新嘗の祭始まりぬ神嘉殿ひちりきの音静かに流る
   ひちりきの音と合せて歌ふ声しじまの中に低くたゆたふ
   歌声の調べ高らかになりゆけり我は見つむる小さきともしび
   歌ふ声静まりて聞ゆこの時に告文読ますおほどかなる御声
   拝を終へ戻りて侍るしばらくを参列の人の靴音繁し
   夕べの儀ここに終りぬ歌声のかすかに響く戻りゆく道

          ○

     祭り(昭和50年 歌会始)
   神あそびの歌流るるなか告文の御声聞え来新嘗の夜

 連作四首目の「小さきともしび」とは、蝋燭のやうに燃えつつ灯る、光り輝く明かりのことであらうか。皇太子殿下は、御祭典中、神嘉殿の母屋に隣接する西隔殿に、天皇陛下の剣璽、そして壺切御剣とともに着座される。御眼に映るものは、いかなる「ともしび」であらうか。

 さて、夕の儀、そして時を経て暁の儀を終へ、天皇陛下が、いよいよお帰りになられる時、陛下は、初めて御殿正面の戸口からお出になられるといふ。この時、純白の絹の御祭服をお召しの天皇陛下のお姿は、焚きたてる庭火の明かりにあかあかと照らされて輝くばかりに神々しく、「日本のすめろぎ、今まさにここにある」と、奉仕の人々は心うたれて感激にひたるさうである。そして、お話は大嘗祭へと移った。

 大嘗祭とは、新帝が御即位後初めて斎行なされる、規模の大きな新嘗祭のことである。「小さきともしびを視つめてをられた御存在」から、一転、新帝は、「祭祀を御親ら執り行はれるお立場」に転ぜられる。従って、もはや、新嘗祭の御神事を御歌にお詠みになられることはなくなるのであると、今上陛下の御述懐を紹介されながら、話された。

2、何が天皇をつくるのか

 「何が天皇をつくるのか」といふ主題に関するお話を簡約して示すと、かうなるであらう。

 「神話の初めに原初の『神聖』として出現され、後の天孫降臨の際に高天原から天降られた日本の『根元的神聖』の本体である『稜威の霊』が、大嘗祭において、新天皇と合体されるものと思はれる」。

 これが、先生が提示された御見解であった。「天照大神の御出現以前の超古代に既に出現されてゐた、絶対的根元的パワーが、天皇をつくるのである」と。

 これまでの「大嘗祭」の論議では、天照大神といふ、国民に広く知られてゐる具体的な御存在がひたすら強調されて来た。これに対して、竹本先生は、より根元的、より抽象的な「稜威の霊」といふ御存在に気がつかれ、この御存在の重要なることを強く説かれたのである。新たな視点で提起された大胆な御見解である。

 先生の御見解を筆者なりに紹介すると、以下のやうになる。

@まづ、『古事記』上巻の天孫降臨の次の記述に着目された。
「故、爾に天津日子番能邇邇芸命、天之石位を離れ天之八重多那雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋にうきじまり、そりたたして、竺紫の日向の高千穂之久士布流多気に天降り坐しき」。

A次に、前掲の太字部分を「いつの・ち・わき・ち・わきて」と読まれ、さらに、「いつのち」を「稜威の霊」と解釈された。(これについては、山本健吉氏の著書『いのちとかたち』に示された、「ち」を「道」、「風」、「霊」と重ねて読みとる解釈を、先生は採られたさうである。)この「甦る力の根源となる御霊」、「威力の根源となる御霊」を意味する「稜威の霊」こそが、実は日本的霊性(神道)の大元であり、天皇の「御稜威」の元であると、先生は考へられた。そして、「『稜威の霊』が、強風の吹くやうに、幾重にも重なる天の雲を押し分けて、また分けて、道をつくり、またつくって、風を巻いて降ってゆく」と読めるとされた。

B天孫降臨の劇とは、『古事記』に従へば、プロデューサーの高御産巣日神の演出のもと、主宰者である天照大御神が、「至高の神聖」を伝へる役割の主役・邇邇芸命に、「至高の神聖」の実体である「稜威の霊」を託されて、降臨せしめられたと見ることが出来るとされた。

C神道を多神教とのみ捉へる見方が一般化してゐるが、神道の根元には、『日本書紀』に「神聖」と記されてゐるやうな絶対的なる唯一神的「神聖」があると捉へられた。天照大神の御出現よりはるか以前に出現された根元的神聖である「稜威の霊」と、天皇とが、大嘗祭並びに新嘗祭には合体されるものと考へられた。この「至高の神聖」といふものを、歴代天皇は、「神聖」授受の祭祀を通して身に著けられて、今日まで「日嗣」の「日」- 「神聖」として伝へて来られた。この現存する「神聖」こそが天皇をつくるのであると、先生は、考へるに到られた。

3、拝聴しての筆者の感想

 もし「稜威の霊」といふものが現存するとすれば、それは、伊勢の内宮の御神体「八咫鏡」に御鎮座の皇祖・天照大神の御神霊と考へた方が、筆者の心には受け容れ易い。

 新嘗祭の祭典主要部開始時の神・人の配置を考へてみると、神嘉殿の母屋には、最高の賓客であられる皇祖・天照大神御一神。他の天神地祇は後方に侍る御存在である。お迎へする側は、母屋には天照大神に対坐されて天皇陛下御一人。侍る者として母屋に隣接する西隔殿に皇太子殿下、東隔殿に掌典長。そして陛下の介添者の女官(采女)が控へる。

 神事を概観すると、天皇陛下の御所作は、大別すれば、新穀の御饌、御酒などの神饌を御親ら捧げられる御親供、御拝礼の上の御告文の御奏上、そして、皇祖・天照大神から神饌の御饌(米、粟の御飯)、御酒(白き酒、黒き酒)を賜はり、御親らそれらを聞し召される御直会の三種である。

 直会の御儀では、天皇陛下は低頭され、拍手称唯なされる(筆者註・「称唯」は「譲位」と音が近いので、これを避けるために古来、文字を転倒して訓ませるといふ)。拍手をして「おお」と称唯することは、目上の者より物をいただく時の作法である。天皇陛下が捧げられた神饌の有する「新しきいのち」によって、御神徳をいや高く更新なされた皇祖・天照大神。その大神から陛下は神饌の御饌、御酒を賜はり、それらをお召し上がりになることによって、天照大神の高き霊威を御身に帯せられ、「天孫降臨の際の皇御孫命」としての実を更新なされるものと拝察する。

 このやうに、天照大神御出現以前の始元神ではなく、天照大神御一神の御霊威である「神聖」を、神武天皇以降の歴代天皇方が祭祀を通して継承されて来られたと考へる方が、筆者には受け容れ易いのである。

- 10月1日稿 - (元新潟工科大学教授)

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1、『古事記』と歌謡

 今回は御著書の中でも、特に『古事記』の歌謡についてまとめられてゐる、五章「愛の歌」についてみてゆきたい。著者はこの章の冒頭に《『古事記』といふ書物全体が、古代国家興隆といふ主題をもって、一貫した筋書の叙事詩になってゐるのです》とされて、続けて《これらの伝説の多くは、歌を中心にした一種の「歌物語り」にもなってゐます》と述べてゆかれる。

 事実、全体としてさほど分量の多くない『古事記』の中に、110首にあまる歌謡が記されてゐる。ここで著者は《いはば、神話や伝説といふ物語の中に、そのクライマックスとも思はれる箇所に、星の様にちりばめられた沢山の歌謡が輝いてゐます》と述べてをられるが、これらの歌謡が『古事記』に記されてゐなかったら『古事記』の魅力は半減してゐたであらう。と同時に、『古事記』といふ〈叙事詩〉を完成させた時代の人々の〈文学性〉の高さを思はないわけにはゆかない。

2、狭井河よ くもたちわたり

 そして最初に取り上げられてゐるのが、中巻冒頭の神武天皇の崩御のあとに出て来る、イスケヨリヒメの「狭井河よくもたちわたり」の歌謡を含む一節である。原文は次のやうになってゐる。

《故、天皇崩りまして後に、其の庶兄、当芸志美美命、其の嫡后、伊須気余理比売に娶くる時に、其の三の弟たちを殺せむとして、謀つ間に、其の御祖、伊須気余理比売患苦ひまして、歌みして、其の御子等に知しめたまへりし、その歌曰、
 狭井河よ くもたちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ。かぜふかむとす。
又歌曰、
 宇根崋山 昼伯基、ゆふされば かぜふかむとぞ 木の葉さやげる。》

 神武天皇と三輪山の大物主神のみむすめ・イスケヨリヒメ(皇后)との間には三人の皇子がをられたが、この三人の皇子の腹違ひの兄(庶兄・神武天皇の日向時代のお子様)のタギシミミノミコトが、神武天皇が崩御されたあと、義理の母に当るイスケヨリヒメを娶って皇位を奪はうとされ、皇位継承の邪魔になる三人の皇子を殺さうとされた。その事の危急をイスケヨリヒメが三人のお子様に密かにお伝へになったのが「狭井河よ くもたちわたり」にはじまる二首のお歌である。

 著者はこの二首のお歌について、《この記述のとほりこの歌は、単なる叙景の歌とみることができません。神秘的な暗示を含んでゐます。第一首の「狭井河」といふのが、象徴的で、この物語の中では、これは単なる平板な河の名ではありません。この記述のすぐ前に、神武天皇とイスケヨリヒメの相聞(恋愛)御結婚の物語があって》として、狭井河の近くにあったイスケヨリヒメの家で、一夜を共に過ごされたことをお詠みになられた、神武天皇の次のお歌が記されてゐる。

《葦原の 醜こき小屋に菅たたみ 弥清敷きて、わがふたりねし。》

 著者は《イスケヨリヒメにとっては、「狭井河」は、なつかしい御自身の故郷であると同時に、神武天皇との恋愛・相聞の思ひ出の土地でもあった》と指摘される。

 そして二首のお歌の意味を考へてゆく中で、《二首とも、「風吹かむとす」「風吹かむとぞ」といふところに、歌の中心があります。つまり、「風が吹かうとする」といふ、未来の事態に対する予想に重心があるので、単なる叙景の歌ではありません。作者の心は、来るべきあらしの予感に震へてゐるのです。…『古事記』の記述は、この歌を象徴の歌としてこの物語に組み入れ、来るべきあらしを国家の動乱の暗示とみたのです》と解説される。

 著者は柿本人麿の「もののふの八十氏川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも」などを引きながら、イスケヨリヒメのお歌の創作年代を考察される中で、《柿本人麿以後になりますと、このイスケヨリヒメの歌のやうに、自然と人生との一体感の強い、神秘的・暗示的な歌は殆どなくなってゐます》と指摘してをられるお言葉にも注目させられる。

3、おきつとり 鴨著くしまに

 次にご紹介したいのは、上巻の最後の部分、つまり、天孫降臨のあとの日向神話(筑紫神話)の中で語られる「海幸・山幸」の物語。天つ神のみ子・ホヲリノミコトと海の神のみむすめ・トヨタマビメとが、この物語の最後の場面で取り交はされるお歌である。詳しい物語の展開は省いて、歌謡に関する『古事記』の原文にすすみたい。

《然れども後は、其の伺たまひし情を恨みつつも、恋心にえ忍へたまはずて、其の御子を治養しまつる縁に因りて、其の弟、玉依毘売に附けて、歌をなも献りける。其の歌曰、
あかだまは 緒さへひかれど、しらたまの きみがよそひし たふとくありけり。
爾、其のひこぢ、答へたまひける歌曰、おきつとり 鴨著くしまに わがゐねしいもはわすれじ。よのことごとに。》

 著者の解説は次のとほりである。

《二首とも、海辺の国の民謡をおもはせる歌です。第一首「あかだまは 緒さへひかれど」は、「赤玉はその玉をつけてゐる緒さへ輝くばかり美しいが、それにもまして白玉のやうな貴方さまのおすがたは貴いものであったなあ」といふ意味でせう。…赤玉とか白玉とか云ってゐるところが、海辺の生活者らしい歌、この場合には、豊玉毘売らしい歌になってゐるのです》と。

 そして二首目について、《第一句「奥つ鳥」は「鴨」の枕言葉の役割をしてゐます。鴨の寄りつく島に、「率寝し」は「連れて行って寝た」意味で、やはり漁村などにある奔放な恋愛をあらはしてゐます。「愛する女を自分は忘れまい、未来永劫に」といふので、この忘れまいと誓ふのは、この歌の場合は、もう二度と会ふことができなくなったからです。会ふことのできぬ女性を永久に忘れまいと誓ふその心は、肉体的愛欲と別離とを超えるところの》ものとされて、さらに、《「おきつとり鴨著くしまにわがゐねし」といふ文明社会に見ることの稀になった原始的生活の力強さと、「いもはわすれじよのことごとに」といふ精神の高唱と》を読みとらなければならないと指摘される。

 かうした二首の歌謡からも、われわれは祖先のみづみづしい情感を読みとることができる。それもまた『古事記』を読む楽しみである。

3、倭方に 西風ふきあげて

 今ひとつご紹介したいのは、下巻の仁徳天皇のところに出て来るクロヒメの物語である。クロヒメは吉備の国より喚上げられたが、大后(皇后)・イハノヒメの強い嫉妬に堪へきれず故郷にお帰りになる。そこで天皇はクロヒメを忘れ難く、淡路島への行幸を口実に、吉備の国まで逢ひに出かけられるのである。

  《乃ち其の嶋より伝ひて、吉備国に幸行しき。爾、黒日売、其の国の山方の地に大坐しまさしめて、大御飯献りき。是に大御羹を煮むとして、其地の菘菜を採める時に、天皇、其の嬢子の菘採む処に到り坐して、歌曰ひたまはく、
やまがたに 蒔ける菘菜も、吉備ひとと ともにしつめば、たぬしくもあるか。天皇上り幸す時に、黒日売の献れる御歌曰、倭方に西風ふきあげて、
くもばなれ 離きをりとも、われわすれめや。又歌曰、倭方に ゆくはたがつま。隠水の下よ延へつつゆくはたがつま。》

 著者は「やまがたに 蒔ける菘菜も」にはじまる歌に、《この物語の牧歌的情調の背景には、吉備の国の国土を大和の王者にささげるといふ宗教的儀礼のおもかげも見うけられます》とされて、まことによく似た情景として、『万葉集』開巻劈頭の雄略天皇御製「籠もよ み籠もち ふぐしもよ みふぐしもち…」を引かれるのである。

 あとの二首については、万葉歌人の人麿・憶良・家持などが、歌人である以前に、中央集権国家完成のために地方に下り、全心身的に働いた「ますらを」であったことを思ひ起し、《これらの歌は、なにもクロヒメの歌とみないでもよろしい。大八島国家の中心、大和から地方に下ってきた当時の官僚を、大和に帰るに当たって別れの思ひをこめて見送った地方の乙女たちの歌と見てもよろしい》とされて、《離別の哀切が、これほどうつくしく歌ひあげられた歌を、私は多く知らないのです》と、万感の思ひを込めて語られる。

          ○

 前稿で著者の、《ヤマトタケルノミコトをめぐる『古事記』の歌は、実に私の愛誦歌であったのです》のお言葉も紹介したが、それは著者に限らず、『古事記』を愛読される方々の多くが、それぞれの愛誦歌を挙げて共感されるところであらう。『古事記』本文の簡潔な文体と相俟って、『古事記』の歌謡の豊かな情調には強く魅せられるものがある。

(24・9・30記)

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 昭和40年夏、大学1年生の私は城島高原(大分)で開かれた第10回合宿教室に初めて参加した。以来、昨夏の阿蘇での第57回合宿教室に至るまで、通算16回も参加させて頂いた。

 この間岡 潔・小林秀雄・福田恆存・村松剛といった著名な先生方の御講義を拝聴する機会に恵まれ、同時に国民文化研究会の先生方からも、日本の詩歌、古典等を題材として、日本の国柄と幾多の困難を乗り越えて来た国の歴史について多くを教はった。

 全国各地から集まって来た人達と共にそれらに耳を傾け考へ、そして班に戻って、とことん語り合った。

 戦後教育の中で育った私は、合宿での御講義を通して、先人の心、即ち「日本人の心」の大切さといふものを初めて知った。それは本当に清新なものとして胸に焼き付いた。中でも幕末の志士吉田松陰の『講孟余話』に触れた折の驚きは昨日のことのやうに今も鮮やかである。

 昨年の合宿の班別研修でも、「我が国の祖先がこれほど素晴らしいとは知らなかった。日本の歴史や文化に誇りを持てたことが嬉しい」とか、「この気持ちを周りに伝へたい」とか、といふ感想を何人もの方から伺った。

 このやうな感想を洩らされた方は阿蘇の地まではるばる足を運んで下さった甲斐は充分にあったと言へるわけで、私も初参加の頃が思ひ出され嬉しかった。

 このことは主催者(国民文化研究会)に「自国の歴史伝統について正しく教へられてゐない若者のために、日本の伝統・文化の素晴らしさ、日本人の心の美しさに触れる機会を何としても作りたい」といふ思ひがあるからであって、その悲願にも似た思ひは合宿教室が始まって以来、半世紀以上経った今日まで受け継がれてゐる。昨夏の阿蘇でも、それを感じることができた。

 合宿が閉幕して、山を降りると誰しも日常生活が待ってゐる。ふだんの生活では「日本人の心」を感じることは難しく、合宿期間中に覚えたやうな瑞々しい気持ちを抱きながら日々を送ることは容易ではない。

 しかし、よく考へてみるとその取り組みへのヒントは表現こそ違へ、合宿期間中登壇された諸先生方の御講義の内容及び配布資料の中に既に用意されてゐるのである。一言でいへば“普段から「日本人としての心を取り戻す」努力を怠らない”といふことである。それに尽ると思ふ。

 私は勤務先の昼休みの時間に、毎日10分間ほど或る本を読んでゐる。それは『黒上正一郎先生のうたと消息』(国民文化研究会発行)といふ御本である。これは聖徳太子の御思想の研究家黒上先生と、先生を中心として、昭和初期に、発足した一「昭信会」と東京高等師範学校「信和会」の学生達との間で交はされた書簡と短歌を集めたものである。国民文化研究会の道統を辿る思ひで、この御本を少しづつ読み始めて約2年になる。この御本は金言に満ちてゐる。もう既に10回くらゐは繰り返し読んでゐるが、心が動かされる文章や歌には「聲がある」といふのが実感である。

 「日本人の心」とはひと筋の清流のやうなものではないかと私は思ってゐる。この清流こそが日本を日本たらしめ、度重なる国家存亡の危機をそのつど救って来たのであり、その清流を神代から今の世にまで代々継承されてをられるのがご皇室だといふことである。このことを忘れてはならないと、近頃ことに思ふのである。

 国の独立が危機に瀕した幕末、皇位にあらせられた孝明天皇は

 澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろず國民

 とお詠みになった。志士たちは、この御歌に孝明天皇が天下の情勢を憂慮されてゐる深い御心を感じ取って決起したのであった。かくて、世界史上例のないほどの大偉業・明治維新は成ったのである。

 ところで、今「維新」の語を口にする人たちは、歴史を貫く「清流」を感じてをられるだらうか。殺伐とした世相を思ふにつけても、押し並べて現代人には「日本人の心」を取り戻す努力が、そしてそれに学ばうとする謙虚さが必要なのではなからうか。

(SIS(株))

編集後記

 「女性宮家創設」への意見公募では、寄せられた「約26万7千件の多くを反対意見が占めた」(12・19 日経)ことで皇室典範改正は見送りといふ。11月号本欄でも触れたが、意見公募自体が大問題だったのである。なぜ官僚たちは太古からの「不文の伝統」に目を塞ぐのか。今後とも要注意である。

 内政外交とも失ふことの多かった民主党政権が退場した。尖閣危機は民主党政権で深まったが、それ以前からの退嬰的姿勢に因があったことを忘れてなるまい。

 今年10月には62回目の神宮の正遷宮を迎へます。連綿と続く国風に思ひを致しつつ、日本再生の確かな年したいものと思ひます。

平成25年元旦 山内 健生

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