国民同胞巻頭言

第614号

執筆者 題名
井原 稔 日本人としての原点への回帰を
- 戦後体制からの軛から脱却して「真っ当な国」に -
小柳 左門 明治天皇100年祭
明治天皇の大御歌を仰ぐ(下)
前熊本県立大津高校長
白濱 裕
日台友好の架け橋
〜 台湾修学旅行を実施して 〜
難波 浩 - 昨年秋に続き、国文研有志による勤労奉仕 終る -
皇居勤労奉仕に参加して
皇居勤労奉仕の歌(抄)
  皇居勤労奉仕の感想(抄)
新刊紹介 小堀桂一郎著 萬世一系を守る道
なぜ私は「女系天皇」を絶対に容認できないのか

 今年も残り20日あまりとなった。師走といふ時節柄に加へ総選挙も入り何かと気忙しいが、であるからこそ来し方を心静かに振り返る必要があるのではないか。

 さて、この3年間民主党による政権運営は如何なるものであったか。財源の裏付けのない詐欺的なマニフェストにより歴史的な(?)政権交代を果たした民主党であるが、最初の首相は信念なき軽い言動によりルーピーなる形容詞を冠せられ世界的な嘲笑を受けた。次の首相は市民ではあっても国民たる意識を持たぬ権力欲だけは強烈な危機管理能力のない人物であった。そして三人目の首相は消費税増税法案を可決成立させた後は政局運営の多くを日教組のドンたる人物に牛耳られ衆議院の解散が唯一の功績といふ有様である。

 真にもって嘆かはしい状況であるが、考へてみればそれは取りも直さず国民一人ひとりの精神的・文化的退廃がもたらしたものと考へざるを得ない。

     聖徳太子の教へに学ぶ

 このやうな混迷した状況であるからこそ、私達日本人は改めて本邦精神文化の原点とも言ふべき聖徳太子の思想に立ち返る必要がある。そこで現代に生きる私達にとって特に重要と思はれる太子の御教へについて以下に述べていくこととしたい。

 〈和の精神〉縄文時代以降徐々に形成されてきた精神的風土を踏まへて太子が理念として昇華したものである。太子にとって『和』とは付和雷同することではなく相共により高きものを志向するといふことであった。日本人として最も誇るべき資質であり強みでもある。

 〈国民同胞感〉太子の「共に是れ凡夫のみ」といふ深刻悲痛なお考へによる内的平等の精神世界を国民一人ひとりが共有することにより、お互ひが謙虚な気持で心を通ひ合せることが可能となり、更には大乗的な国民同胞感を抱くことが出来るやうになる。

 〈大陸文化摂取に見る主体性〉固有民族文化と大陸文化との交流接触の時代に太子は大陸の思想を批判しながら日本文化と綜合させようとなさった。「批判」も「綜合」も共に大変困難な事業であり主体性といふものが確立してゐない人に出来ることではない。太子は国家統治の暇なき御生活のうちに憲法十七條を制定なさり三経義疏を述作されたが、その偉大で強靭な御精神は唯々仰ぎ見るばかりである。

 翻って、終戦後におけるわが国の外来文化摂取の状況を見るに、歴史の連続性を断絶したが故に底の浅い脆弱なものだと言はざるを得ない。混迷を深め国の基本が溶け出してゐる現況を直視すれば、もはや所謂戦後民主主義の価値観や進歩的知識人の言辞の多くが破綻してゐることは明白である。

     今国民に求められるもの

 周知のとほり、国債や借入金などを合せた「国の借金」の総額は本年九月末日現在で983兆円を超えることとなった。事ここに至った理由として当面する選挙対策を重視してバラマキを繰り返してきた国会議員の責任は言ふまでもないが、それ以上に自助努力を怠り安易な行政依存に陥ってゐる国民の責任も極めて大きいものがあると言はなければならない。少欲知足の生き方、独立自尊の精神が今こそ求められる。「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません。あなたが祖国のために何をできるか考へて欲しい」(J・ F・ケネディ)といふ言葉は正しく日本国民にこそ問はれるべきであり、公共的精神の回復を図ることが喫緊の課題である。

 このほか、現在わが国は竹島や北方四島で、更には尖閣諸島で本邦固有の領土・領海を不法占拠され、あるいはされようとしてゐる。空想的な平和主義の虚妄性はもはや明らかであり、戦後体制の軛から脱却して自分の国は自分で守る、防衛力を強化することを臆せずに胸を張って主張し実行していく「真っ当な国」になっていかねばならない。これらのことが子や孫の世代に対する我々の責務であると考へる。

(元地方公務員)

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     国民を慈しまれる大御歌

 明治天皇は、わが国土の北から南の果てまで津々浦々に住む国民の暮らしを常に思っておいででした。歴代天皇の方々は国民を慈しむ御心を一貫して抱かれ、国民の幸を神々に祈る尊い伝統をひたすらに守り継いでこられてゐるのです。

          述懐
   照るにつけくもるにつけて思ふかなわが民草のうへはいかにと
                        (明治37年)

          神祇
   わがこころおよばぬ国のはてまでもよるひる神はまもりますらむ
                        (36年)

          国
   おごそかにたもたざらめや神代よりうけつぎきたるうらやすの国
                        (43年)

 天が晴れても曇っても、国民はどうしてゐるだらうと御心配になるのです。二首目の御歌には、自分は至らないけれども、国のはてまでも神は守られるとの謙虚な御心を拝します。三首目では、「おごそかに」との御言葉に、皇祖から受け継がれた御国を守る厳粛な御心を仰ぐのですが、「浦安の国」といふ優雅な言葉による体言止めによって、おだやかに凪いだ海のごとく安らかな国を祈られる御心が伝はってきます。

 ここに忘れえぬ手記があります。それは教育学者であった副島羊吉郎氏の書かれた「聖徳恋歌」といふ回想記ですが、東京高等師範学校に入学したその年(昭和3年)に四国88ヶ所遍路の旅についた副島氏は、徳島で聖徳太子の若き研究者黒上正一郎師を訪ねました。着流しの和服姿の師は、やせ形で背が高く、彫の深い顔の奥に大きな目が澄んでゐたとのことですが、師はすぐに懐から三井甲之の『明治天皇御集研究』をとり出してその一節を語り、つづいて明治天皇の大御歌を朗詠されたのでした。

          燈
   ともし火の影まばらにもみゆるかな人すむべきもあらぬ山辺に
                        (36年)

          薄暮眺望
   家なしと思ふかたにもともし火の影みえそめて日はくれにけり
                        (37年)

          山家燈
   ともし火のたかき処にみゆるかなかの山辺にも人は住むらむ
                        (41年)

 「黒上師の山家慕情の御製の、感動をこめた朗詠には、全身がしびれるような感動を覚えた。御製は小学校の読本にもいくらか出ていたようだが、これほどの感動はなかった。教える人の感動がなかったからであろうか。生命は生命からのみ産まれるのと同じく、感動も感動によってのみ湧き上がるものであろう」と記しておられます。この時の黒上師のお声を聞くことはできませんが、副島氏の全身のしびれるような感動、明治天皇の御製に深く感銘を受けられた黒上師の心がそのまま伝はってくるやうな文章です。

 これらの大御歌に詠まれたものは、遠く人里はなれた山辺にほのかに灯るともし火をご覧になった折のものですが、その悠然とした静かな調べのなかに、山ふところに抱かれて日々を生きる人々を思ひやられる深い大御心がおのずからしみじみと伝はってくるのを覚えます。

   海辺の高殿から波間に浮かぶ海人の小舟を眺められた折の御歌、
   高殿に身はありながらあま小舟うかぶ波間にゆく心かな
                        (34年)

 この御歌に三井甲之はかう記してゐます。「大御心を、波間にうかぶ小舟にはせさせ給ふごとく、み民のうへにもそそがせたまふとあふぎまつるのである。人生を表現するとは、人の心を自然にそそぎ、わが心を人の心にそそぐことである」と。

 その大御心はまた子供や老人にもそそがれます。

          菫
   母が手にひかれてあゆむうなゐこのたちとまりては菫つむなり
                        (40年)

 「うなゐこ」とは幼子のこと。母の手にひかれて歩みながら、立ち止まっては菫をつむしぐさを暖かく見守られるのですが、愛らしい子供の笑顔も見えてくるやうです。

          雪中行人
   老人があゆみゆくこそ哀れなれいまだ払はぬ雪のなかみち
                        (41年)

と、降り積もった新雪のなかの道を、あへぎつつ歩む老人を「哀れ」と思ひやってをられるのです。このやうに国民の上をお思ひになる大御心は、国運を賭けた日露戦争の折に怒涛のごとき御製群となって現れました。

     日露戦争における大御歌

 私のまだ幼いころの思ひ出に、家族で見た「明治天皇と日露大戦争」といふ映画があります。当時珍しい天然色で、嵐寛寿郎が演ずる明治天皇の威厳ある姿が印象的でしたが、この中で吟詠された明治天皇の御製に、意味は分らないでも感動したのを覚えてゐます。その中に息子を戦に出して田舎で農作業にはげむ老人を詠まれた御製がありました。

 子らはみな軍のにはにいではてて翁やひとり山田もるらむ

 「軍のには」とは「戦場」、「もる」は「守る」の意。まさに国民がひとつとなって国を守った戦争のさなか、銃後にあって故郷を守る国民を思ひ、ことに子を亡くした親に深い慈愛の心を注がれるのでした。

   国をおもふ道にふたつはなかりけり軍のにはにたつもたたぬも
                        (37年)

   国のためたふれし人を惜むにも思ふは親のこころなりけり
                        (37年)

 ましてや命を捨てて戦ふ兵士への御思ひは、ただならぬものでした。夏の暑い時節にもつねに軍服をお召しになり、冬の寒さにも火を近づけず、粗末な食事をとられて常に兵士と労苦をともにされました。戦死したすべての兵士の名簿を夜の更けるまでご覧になり、涙ながらに祈りを捧げられるのでした。

   はからずも夜をふかしけり国のた め命をすてし人をかぞへて
                        (37年)

   世とともに語りつたへよ国のため命をすてし人のいさをを
                        (37年)

   うづみ火もなにかもとめむいくさ人穴に寒さをふせぐ思へば
                        (37年)

 「うづみ火」とは火鉢の炭火。酷寒の満州で穴を掘って寒さを防ぐ兵士を思ひ、暖を求められないのでした。冬の夜、ご自分もまた戦場にともに立たせられる夢をご覧になり、

   窓をうつ霰のおとにさめにけりいくさの場にたつとみし夢
                        (38年)

 と詠まれ、酷暑には

   つはものはいかに暑さを凌ぐらむ水にともしといふところにて
                        (37年)

 と、水も乏しい戦場での兵を偲ばれ、

   いかならむ事にあひてもたわまぬはわがしきしまの大和だましひ
                        (37年)

   しきしまの大和心のををしさはことある時ぞあらはれにける
                        (37年)

 と、未曽有の国難にあってもたわまぬ国民の雄々しい大和魂に感動して詠まれるのでした。かくして全力を尽くした戦についにロシアを破ったのでしたが、敗戦の将に対する敬意をはじめ、武士道の節義を示した日本人の行動は海外から賞賛されました。

   ますらをも涙をのみて国のためたふれし人のうへを語りつ
                        (39年)

   国のためうせにし人を思ふかなくれゆく秋の空をながめて
                        (39年)

 この大御歌は、日露戦争の翌年に詠まれたものですが、明治天皇はただ戦勝を喜ばれるのではありませんでした。戦によって多くの国民をなくしたことに、どれほど悲痛な思ひをなされたことか。暮れゆく秋の空をながめながら、国のために命をささげた人の上をしのばれる大御心によって、亡くなった人々の魂も救はれていくと思はれます。

 明治天皇はいかなるときにも我が国だけでなく世界全体の平和を祈られ、常に国際的な視野から我が国の行く末を判断してをられました。日露戦争に際しても最後まで和平を試みられたのですが、その甲斐なく戦争に突入したのでした。

   よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
                        (38年)

   ひさかたの空はへだてもなかりけりつちなる国はさかひあれども
                        (39年)

 これらの大御歌に、願ひとはうらはらに乱れゆく世を悲しまれる深い御心を感じずにはおれません。ことに初めの御製をみた米国大統領のルーズベルトが強く心を動かされたことが、日本への信頼となり、勝利にも貢献したと伝へられています。

     命あるものへの祈りの大御歌

 明治天皇のご慈愛は国民のみならず、あらゆる生きとし生けるもの、すべての命あるものにそそがれました。なかでも心ひかれるのは虫の声を詠まれた大御歌です。

          虫
   さよふかく心しづめてきく時ぞむしの鳴くねはあはれなりける
                        (41年)

   ひとりして静かにきけば聞くままにしげくなりゆく虫の声かな
                        (42年)

 さまざまの虫のこゑにもしられけりいきとしいけるものの思ひは
                        (44年)

 秋の夜、御所にをられて一心に虫の声に耳をかたむけられる。その声にあはれを感じられるのですが、さらに静かにきくほどに繁くなっていく虫の声。心ひそめるほどにすみわたっていく感性を、あるがままに詠まれてゐます。やがて天皇様の御心と虫の命はひとつにとけあひ、全ての生きとし生けるものと同化される無私の大御歌へと昇華するのです。

 草花に寄せられる御製があまたあるなかで、散りゆくものへの限りない哀切の御心を多くの御歌に拝することができます。

   あらしふく庭のもみじ葉あさ霜のうへにちりたる色のさやけさ
                        (30年)

   うつろひてちらむとすなるもみじ葉をうつくしとのみ思ひけるかな
                        (44年)

   うつろへばうつろふままになつか しと思ふは花のいろ香なりけり
                        (45年)

 ここに「うつろふ」とは色が移ろひ変りゆくさまですが、いつしか色あせてゆく草の命をそのままに受け止められ、それどころかそこに「なつかし」「うつくし」と感じられるその大らかな御心。それはあるがままの人生に随順しつつ、精一杯の命を生きるものへの限りない共感でありませう。散らむとする花や紅葉の一瞬の命は、明治天皇の大御心につながることによって永遠にその命をつなぐのです。

     果てしなき大御心

 此処まで明治天皇御製を仰いでまゐりましたが、最後に次の一首を謹んで拝誦して拙稿を閉じたいと存じます。

   疾きおそきたがひはあれどつらぬかぬことなきものはまことなりけり
                        (38年)

 早い人も遅い人も違ひはあるかもしれないが、貫かないことがないのは「まこと」であるよ、と仰せになってゐます。どんな人もいつかはまことに目覚める。「まこと」は遠くにあるものではなく、誰しも素直な心に立ち返れば宿ってゐるものだ。

 だがこの世に生きていれば、さまざまにうつろふのが人の心であらう。しかしどんな時も「まこと」を貫いてほしい、との願ひがこめられた大御歌でありませう。

 明治が過ぎて100年を迎へる今日、我が国はただならぬ苦境に立ってゐます。しかしいかなることがあらうとも、明治天皇が大御歌によってお示しになった御教へを学び、ともに力を合はせてこの國を守っていきたいと念じてゐます。

- 平成24年10月5日謹稿 -
(独立行政法人都城病院長)

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 最近、外国への留学生の減少に見られるやうに、我が国の若者の「内向き志向」が指摘されてゐます。世論調査の国際比較でも、特にアジア諸国の若者と比較して、勉学への意欲や愛国心等において極端に低いデータが出てゐます。このやうな背景を踏まへ、グローバル化が進展する今日、国際感覚を磨き、日本人としての自覚を持たせるためにはまづパスポートを取らせ、日本を一歩出て外国の若者と交流することが第一歩であると考へ、大津高校では、昨年末、台湾への修学旅行を実施しました。

 「なぜ台湾か?」といふと、まず、修学旅行で最優先に配慮すべきことは、生徒の安全確保です。その点、台湾は親日的な人々が多く治安も良い。また、日本統治時代の建物や遺跡が大切に保存されてをり、それらを訪れることにより台湾のために尽した先人の遺徳を偲び、日本人としての誇りと自覚を深めることができる。また、バシー海峡や台湾海峡は日本の死命を制するシーレーンであり、地政学的な国際認識を深めるためにも最適である。その他、十二月の台湾は気候も温暖で、旅行費用もリーズナブルであるといふ点などを考慮して選定しました。

 さて、台湾への修学旅行は本県の県立高校で学年単位としては初めてといふことで、交流校や見学場所の選定、生徒の安全確認のため数度にわたって渡台し、入念に準備を行ひました。また、「物見遊山」の旅行に終らせないために、台湾の歴史や地理、国情などについて、事前にしっかり学習して臨むことが必須であると考へ、10月には台湾出身で日本に帰化された金美齢氏をお招きし、生徒たちに「二つの祖国0日本と台湾」と題するご講演を頂きました。金美齢氏は、日本統治下の台湾で、荒れ地を肥沃な水田地帯にするため、八田與一技師が建設のため心血を注いだ東洋一の「烏山頭ダム」や、台湾教育に身命を捧げ芝山巌に眠る「六士先生」の事績などについて紹介され、日本と台湾は運命共同体であり、東日本大震災に際して200億円を超える世界一の義捐金が寄せられた背景には、台湾のために血と汗を流したこれら日本人の存在があることを熱心に話されました。

 さて、12月7日、チャーターしたジャンボ機で阿蘇くまもと空港から飛び立ち、3泊4日の日程で台北市の芝山巌や台南の烏山頭ダムなどの史跡見学や、現地高校生と交流しました。交流会では、金美齢氏デザインによる「多謝」と染め抜かれたTシャツを着た生徒代表が、多額の震災の義捐金に対する謝辞を記した横断幕を掲げてお礼の言葉を述べ、双方から剣道の形や儀仗隊演技の披露、女子バスケットボールの親善試合などを通して友好を深めました。

 また、生徒たちは、日本語を学んでゐる台湾の生徒と一緒に台北市内の班別自由行動を行ひましたが、夕方、ホテルでの涙の別れのシーンは今でも瞼に焼き付いてゐます。

 生徒の感想文を読みますと、生徒達は、烏山頭ダムなど各地の史跡を訪ね、我が国の先人が遺した偉業に感嘆するとともに、台湾の若者の語学力とパワーに圧倒されながらも、「世界の中の日本」を意識し、日本人としての自覚と誇りを蘇らせてくれたやうです。

 唯一の心残りは、李登輝元総統のご講演を氏の内諾を頂きながら、諸般の事情により断念せざるを得なかったことです。ただし、予定した時間に元総統とご親交のある、司馬遼太郎氏の『台湾紀行』に老台北として登場する蔡焜燦氏に「台湾と日本精神」と題してご講演を賜ったことは、生徒にとって感銘深い忘れられない経験となったと思ってゐます。

 李登輝元総統は、近著(『日台の「心と心の絆」素晴らしい日本人へ』宝島社)の中で、東日本大震災の折、惨状の中でわが同胞が見せた秩序と思ひやりの精神に「武士道の精神が今も生きている証」であると賛嘆され、「台湾には日本の精神が今も生き続けていることを知り、感銘を受けた人々が数多くいます。さまざまな形で行われた復興支援や二百億円を超えるという巨額の義捐金が話題となりましたが、それは台湾人と日本人が心の絆で結ばれているからだと思います。そして、その絆は永遠に生き続けていくと思われます」と記してをられます。

 李元総統は、先年、来熊された折、芝山巌で土匪に襲はれ弱冠17歳で非命の死を遂げた「六士先生」の一人、熊本出身の平井数馬氏の小峯墓地の墓に詣でられました。願はくば世界的指導者の一人李元総統の謦咳に触れる機会を、是非、熊本の若者にも得させたいと思ふのは私だけではないと思ひます。

 往年の岩倉使節団を初め、最近の海外チームに籍を置くサッカー日本代表の若者達の活躍を見ても、島国に暮らす日本人は外国体験によって覚醒するDNAを持ってゐるやうです。「たかが修学旅行、されど修学旅行」。あらゆる面で国際化の波が押し寄せる中で、世界を舞台に雄飛する若者の育成に、熊本から近距離で治安も良く、親日的な台湾への修学旅行を大いに推奨するものです。必ずや、かつて台湾で活躍した後藤新平や新渡戸稲造のやうな、真の国際人が熊本から誕生するきっかけになると確信してゐます。

 と同時に、今後、本県の高校が陸続として台湾への修学旅行を実施することにより、ひいては「阿蘇くまもと空港」国際線の活性化、本県と台湾間の観光・物産等の振興に繋がればと念願してゐます。

     【生徒の短歌】
秋の日に異国の地へと旅立った心優しき麗しの国へ
交流会みんなで楽しくしゃべったよ班行動も楽しかったね
女子バスケ意地の張り合い白熱戦力出し切り結果に笑顔
台湾も大切なのは英語力使いこなせば世界広がる
八田さん台湾の歴史に名が残る存在大きい日本の先輩
台湾に潤い齎す烏山頭汗と涙の努力を残し
台湾のいろんな所見てまわり心に残る人の優しさ
初めての台湾の地で学んだよ日本人って愛されていると
台湾で人に出逢って気付かされた二つの国のそれぞれの良さ

     【生徒の感想文】 (1年 男子)

 私は、今回の修学旅行で、蔡焜燦さんの講演会で謝辞を述べさせていただきました。そこで、事前学習で蔡焜燦さんの『台湾人と日本人』という本を読み、日本の植民地統治のイメージが一変しました。歴代の総督による上下水道、鉄道、道路などのインフラ整備や八田與一さんの烏山頭ダムなどの経済の基盤になる財産や教育という知的財産も台湾に大きな影響を与えました。植民地が他国から一方的に支配され利用されるものだと思っていた私は、これらの政策にとても驚きました。と同時に以前の私を含めて多くの日本人が知らない現実に強い憤りを覚えました。

 私はもっと多くの日本人に運命共同体である台湾について知ってほしいと思います。台湾の歴史を知り台湾の人と話せば、必ず改めて日本の素晴らしさを知ることができます。日本の文化はもちろんのこと、今の日本人が忘れかけている日本人の精神を学ぶことができます。「勤勉で約束を守る」という日本精神は世界に誇れる素晴らしい日本の文化です。今を生きる私たちが改めて日本の文化を守り、後世に伝えるため、何をすべきで、何ができるのか、そしてどう実行するのかを深く考えるべきだと思います。- もと全文現代カナ-

(熊本県護国神社 社報第17号所載)

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 国民文化研究会有志による皇居勤労奉仕団の一員として、10月9日(火)から12日(金)の4日間、皇居及び赤坂御所に参入させて戴きました。本会としては、昨年に引続いて2回目の勤労奉仕といふことでしたが、今回の団長は磯貝保博副理事長で、副団長の岸本弘氏を含め総勢19名が参加しました。

 第1日目は朝8時、皇居・桔梗門に集合、皇宮警察官の点呼を受け皇居に参入。窓明館(休憩所)で、他団体(全6団体、160余名)の人達と共に、係員から作業場所の説明や諸注意を受けました。その後、先づ宮殿東庭を通って、二重橋を渡り皇居正門の方に進み、団体ごとに伏見櫓を背景に記念撮影を行ひ、その後作業に入りました。作業には庭園課の方が、日替りで付添ひ、作業場までの道すがら、途中の建物・施設名や、その中で行れる行事内容や、四季折々のお庭の変化など、こと細かな説明をいただきました。

 初日は庭園の草取りと落ち葉拾ひを行ひました。

 第2日目は赤坂御用地にての作業となりました。赤坂御用地は「園遊会」の会場となる所で「秋の園遊会」に向けての準備が始められてゐました。係りの人の案内で会場となる日本庭園の池を一巡し、園遊会の様子などの説明がなされました。

 枯山水の池に、すでに洗ってある那智の黒石をリレー方式で箕で運び、池の底に敷き詰める作業と周辺の枯葉や枯木の掻き集めを行ひました。

 午後からは、2時半より皇太子殿下からのご会釈を賜るため、早めにお住ひである赤坂御所のみ車寄せである庭に全員が整列してお待ちしました。

 皇太子殿下がお出ましになり、我々のすぐ目の前にお立ちになりました。清々しい凛としたお姿とおだやかな御顔を仰ぎ、思はず胸に熱いものが込みあげてきました。各団体の前に進まれ、団長が自らの奉仕団を紹介した後、御下問があり、最後に団長の一人が「皇太子殿下、皇太子妃殿下、萬歳」と先導し、全員で萬歳三唱を行ひました。

 第3日目は、午前中に車道の落葉を清掃した後、午後、天皇皇后両陛下の御会釈を蓮池参集所にて賜りました。

 団体ごとに整列し両陛下のご到着をお待ちするなか、2時丁度にお車が参集所に横付けされ、両陛下が下りてこられました。我々国文研奉仕団は入り口に最も近い所に整列してゐましたので、先づ最初に御会釈を賜はりました。

 一礼の後、磯貝団長から国文研の「合宿教室」に於ける古典輪読や短歌創作等の研修内容を短くも的確にご説明申し上げました。静かにじっとお聞きなられる両陛下のお姿や、賜った「お元気で…」とのお言葉に感銘を受けました。

 両陛下が各奉仕団をお廻りになられた後、磯貝団長が6団体を代表して「天皇陛下 皇后陛下 萬歳」を先導し、全奉仕者が声高らかに萬歳を三唱しましたが、まさに感激のひと時でした。蓮池集会所を後にされる両陛下のお車に全員で手を振りお見送り申し上げました。

 その後、今年陛下が5月にお手植ゑになり9月末に御自ら刈り取られた稲穂から脱穀作業を行ひました。この籾はその後厳選され種籾として来年の苗代に蒔かれ、陛下お手植ゑの稲の早苗となるとのことでした。 4日目は、午前中、賢所の前庭等に案内していただいた後、宮殿での公式行事の際に用ひられる、種々の盆栽(樹齢数何百年も超えるもの)を拝見。そして陛下御自ら田作りなされる水田の整備作業を行ひました。

 午後からは3日間使用した窓明館の清掃を国文研奉仕団が担当し、作業のすべてを終了することができました。

 昨年の『国民同胞』12月号で小野吉宣氏の「皇居勤労奉仕の記」を読んでたいへんな感銘を受け、今回の参加を念願した次第でした。早朝4時に起床し、厚木市から通った4日間は夢のやうでした。毎回作業が終了後、家路に付く前に、団員の皆さんとその日の感想を語り合ひ親睦を深められた事も忘れられない思ひ出になりました。

 

(元厚木市役所)

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          川崎市 山本伸治
   この秋も御会釈いただく幸せを身に沁み感じご奉仕終る
   御会釈を戴く程のご奉仕を務められしか心もと無し

          川越市 奥冨修一
   大奥の跡地は広き芝生にて松の廊下に昔を偲ぶ
   お手植ゑのみかんと梨の若木見えいにしへの種のここに息づく
   み言葉を聴き漏らさじと日の皇子をまぢかに仰ぐ息止るがに
   にこやかに笑みます皇子のみ言葉をかしこくも聴くみ車寄せに
   大君の刈り取り給ひし稲穂より種籾を取る作業楽しも

          府中市 磯貝保博
   薄日射す水面に蓮の生ひ茂る道潅掘は静まりてあり
   末永く健やかにませと祈りつつ萬歳唱ふる我が身嬉しも
   団員と心一つに共にせし四日の日々はつかの間に過ぐ
   来む年も再び会はむと胸熱く言ひて別るる桔梗門にて

          成田市 西 宏
   蓮の実の非想非悲想泥の中
   初茸や履を入れざる松の芝
   さざなみやゆらりすらりと秋茜

          小矢部市 岸本 弘
   友の肩ふれあふひまゆ大君と后の宮の笑みにこやかに
   み言葉をおもふにあまるみ言葉を告らし給ふるその大みおも
   大君と后の宮の御あゆみ見おくりまつる今日の幸はも
   すだ椎の大木の生ふるさ庭べのしづけさの中に日の御子を待つ
   「和歌をよむのはむづかしいですね」と語り給へり我らが長に

          横浜市 今村宏明・英子
   皇太子ご一家ま幸くませと祈りつつ心をこめて萬歳唱ふ
   目の前に凛々しき御姿仰ぎ見るこの感激を何にたとへむ
   次の御代背負ひ給ふる御覚悟を身に沁み感ず御姿あふぎ
   武蔵野の雑木林をそのままに宮居の庭に移し給ひぬ
   消えてゆく武蔵野の自然残さむと先の帝の造り給ひぬ

          八千代市 山本博資
   稲穂から素手にて籾を摘み落す慣れぬ手つきに籾の飛び散る
   うるち米糯米の名はそれぞれに「にほんまさり」と「まんげつもち」てふ
   平成の御代にまい年ふた品の種籾蒔かれ刈り取り給ふ
   稲の穂を手にして思ふ米作りわが日の本のもとゐなりけりと
   大地震のあとにいまなほ宮居にて節電し給ふと聞くもかしこし

          柏市 澤部壽孫
   大御姿を仰ぎまつりて胸つまり我ら揃ひて最敬礼する
   暖かき御眼差しを団長に注ぎ給ひて時止るがに
   団長の「東京都 国民文化研究会十六名」との声の聞ゆる
   去年の秋会ひまつりたる民草を忘れ給はず我が大君は
   御車の消ゆるきはまでみて御手振らす大御姿に涙あふれ来

          さいたま市 井原 稔
   畏くも宮居の庭に友皆と勤め励むは嬉しかりけり
   奉仕終へ友らと語らふひとときは常にもまして楽しかりけり

          小田原市 岩越豊雄
   休憩所の裏の木かげの細道をかけ給ふ皇子の御姿に遇ふ
   日嗣の皇子我に向ひて笑み給ふ御顔仰ぎて胸つまり来る
   ありも得ぬことに出会ひて我はただ奇しき縁に謝しまつるのみ

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          富山市 戸田一郎
 奉仕の四日間は穏やかな秋の日差しの中での作業であった。草むしりや落ち葉拾ひ、間近に迫った園遊会会場の小川に那智黒の玉石を敷き詰める作業など、都会の騒音から隔絶された`阮Lかで広々とした皇居内で、国文研の先輩方と共に野外作業に汗を流した。仕事に追はれる毎日に比べて、四日間は全くの別世界であった。
 今年も両陛下の御会釈をいただくことができた。一人の警備員もおそば近くにお連れにならず、両陛下が我々のそばに歩み寄られると、その気品と深い御心に打たれて心臓は一気に高鳴って来る。この至福の思ひを言葉で言ひつくす術を私は知らない。

          横浜市 池田秀子
 貴重なよい体験をしました。感謝申上げます。

          鎌倉市 浜崎祥江
 貴重な体験をさせていただいた彼の日々を夢の如く懐かしく思ひ出してをります。

          川越市 島田繁夫・百合子
 両陛下、皇太子殿下から御会釈を賜ったことに夫婦とも感激しました、秋の園遊会をテレビのニュースで目にした時、会場の芝生に座って説明を聞いたこと、玉石の路を歩いたことなどを思ひ出しました。貴重な体験をありがたうございました。

          川崎市 上木原 巖
 天皇陛下の御稜威にふれ、三徳の知・仁・勇を賜はりました。私は「赤子」たる気概のもと、皇室をお守りすることが日本国を守護することだと思ってをります。

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小堀桂一郎著 萬世一系を守る道
   なぜ私は「女系天皇」を絶対に容認できないのか
      海竜社 税別1,600円

 本書のテーマは、まさに標題・副題の通りであって、国の本末を見失って昏迷を深めるわが国の様相が、小堀先生の慨世の筆致によって改めて剔出された感じである。

 皇室を中心に2000年余の歴史を紡いできたわが国が、占領政策によって、伝統を見失ひ国家観さへ定かでなくなったが故の、昨今の政府・官僚達による皇室典範改定(「女性宮家」創設)の動きと言ふほかはないが、その無知と傲慢に著者は正面から真向ってをられる。そして、やがては「共和制革命」への途を開きかねないとの警告に、慄然たるものを覚えざるを得なかった。

 本書の構成は、「序章 凶変の年、平成17年- 何故『女系天皇』に反対なのか- 」で始まって、先づ総論的に皇位継承ついての謬見が批判されてゐる。「平成17年」と言へば、小泉内閣の下で、内閣官房長官の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が組織されて、“素人”委員10人が、僅か17回の討議で政府の当面する政治的必要性に応へて、初代の神武天皇以来、一度たりとなかった「女系天皇といふ異形の出現を可能とする」提言をなした年である。   先生はこの提言を「〈時流への迎合〉といふ、知識人として最も恥づべき姿勢」であると批判されてゐる(第3章、120頁)。全く同感であって、その根拠が被占領期に強要された日本国憲法(昭和22年5月施行)なのだから、不真面目にも程があると評者自身も腹立たしく感じたものだった。この7年前の“素人”の提言が扮装を替へたのが野田内閣による「女性宮家」創設の動きである。先生は「不文の伝統」を文字化した「明治の皇室典範」の精神的規範性に眼を向けるべきを説かれるのである。

 本書は「序章」に続き、
   「第1章 女系天皇容認論の誤りと危険性- 神話は神話であり歴史でない- 」
   「第2章 『大御心』と『道理』- 後世に向けての重要な教訓- 」
   「第3章 皇統萬世一系の道理- 男系継承を主張する根拠とは- 」
   「第4章 『国民の総意』なるもの- 和辻哲郎・中江兆民・ルソーから読み解く- 」
   「第5章 当面の課題について- 國體を護持するために- 」

 の各章から成り立ってをり、比較文化・比較文学・日本思想史ご専攻の先生ならではの重要な視点が数々提起されてゐる。ことに第2章で、慈圓の『愚管抄』や新井白石の『読史余論』の一節を引きつつ、「上なる『道理』への認識」の重みと大切さを説かれて、「…天皇個人の私情の発露には大御心の美称を奉ることは避けるべきです。臣たるもの、皇位継承といふ重大事例に向けて当今に『新儀』の勅裁を期待してはならないのです」(95頁)とされてゐる。

 また第五章では、次の旨を説かれてゐる。

 宮家の窮極の使命は万が一の場合の皇統断絶の危機に備へることにあるのであって、現行皇室典範では皇位継承権なしとされる皇族女子が「女性宮家」を創設し当主になることは全く無意味である。にもかかはらず陛下の御公務を補佐する名目で「女性宮家」創設をもくろむのは、政府を動かす官僚達がやがて女性の御当主に皇位継承権を認め、ゆくゆくは「女系天皇」(皇位継承の大原則の否定)へと導かうとする「隠れ共和主義者」であるからであらう、と。

 まことに正鵠を得た御指摘である。ご紹介の紙数が尽きて来たが、さらに被占領下、占領軍からの政治的経済的圧迫によって皇籍離脱を余儀なくされた宮家後裔の皇籍取得の道筋、即ち特別措置法の制定、現行皇室典範の補訂についても諄々と説いてをられる。

 本書では、単に国の現状への批判だけではなく、「皇室制度再建の具体的方策」が提示されてゐることからも、示唆に富んでをり、日本国存立の根本的あり方を考へさせられる御著書である。一人でも多くの方々に、是非ともお読み願ひたく筆を執った次第である。

(本会理事長 上村和男)

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 編集後記

 「解散で政治空白はつくれない」は与党幹事長の口癖だったが、民主党政権の3年3ヶ月こそ「政治空白」そのもの。その「空白」の最中の昨年1月末、朝日新聞の論説主幹曰く「もし同じようなことが自民党長期政権下で行われたとすれば相当厳しい論調で書いたものでも、やや慎重な書き方にとどめることもある」。今年9月30日付同紙“天声人語”は「無人島のために戦争なんて、とつぶやける国がいい。…」が書き出しだった。要するに尖閣に拘ることはないと言ひたいのだ。今や中国海洋監視船が連日、尖閣海域でわが領海に出入りしてゐる。メディアの腐敗堕落は酷すぎる。

 やや早めにお届けした今月号には、前月と同様の「折り込み」を入れてあります。「皇室伝統の大原則」を守るために、重ねて政府への「意見」具申をお願ひします。締切りは12月10日(当日消印有効)です。

 来年は62回目の神宮正遷宮を迎へる。日本再生元年としたいものである。

 (山内)

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