国民同胞巻頭言

第613号

執筆者 題名
山内 健生 尖閣危機は「日中国交」の当然の帰結である
- 片務的な「思ひ入れ外交」40年を総括せよ -
大岡 弘 内閣官房公表の『皇室制度に関する有識者ヒアリングを踏まへた論点整理』の問題点
- 恐るべき皇室伝統破壊の企み -
小柳 左門 明治天皇百年祭
明治天皇の大御歌を仰ぐ(上)
岸本 弘 夜久正雄著『古事記のいのち』を読む(2)
- 2章「古事記の魅力」をめぐって -
新人物往来社 刊 打越孝明著 明治神宮監修  税別2,000円
『絵画と聖蹟でたどる明治天皇のご生涯』

 今、はっきりしてゐることは、中国がわが国を舐めきってゐることである。埼玉県在住の某氏所有の尖閣の3つの島(沖縄県石垣市)を、東京都が買ひ取らうが、政府が買収して国有化しようが、他国には一切関係ない民事上の所有権の変更である。ところが石原慎太郎都知事が目指した都による買ひ取り計画(尖閣の有人島化)に難癖をつけてゐた中国が、国有化したことで、わが政府を正面から非難してゐる。なぜか、これまでの両国関係が正常ではなかったからだとしか言ひやうがない。

 例へば朝日新聞の9月29日付社説など本来は珍説である。9月11日の尖閣国有化の2日前、APECの開かれたウラジオストックで、胡錦濤国家主席が野田佳彦首相に国有化反対を伝へてゐたのに「直後に尖閣諸島の購入に踏み切った。体面を重んじる中国には受け入れがたかった」などと、その後発生した「反日暴動」の原因は日本にあったかの如く説いてゐる。まともな二国関係であったなら、他国の首脳がわが国内の所有権移転に異議を表明すること自体が、わが国の体面を汚してゐることになるのだ。

 その遠因は国交開始時点にあったと考へる。昭和47年(1972)9月、田中角栄首相と大平正芳外相が北京を訪れ、台湾の国民党政権(中華民国)と断交して共産党政権と国交を開くといふ、「十割」譲歩の外交を行ってゐるからである。当時の毛沢東・周恩来らの共産党政権にとって、日本が蒋介石国民党政権との関係を断つこと以外に望むものは何もなかったはずだ。望むものを百パーセント与へて「日中国交」は始まったのである。政治の決断と言ってしまへばそれまでであるが、次いで日中航空協定では、大平外相が記者会見で、日本に乗入れてゐる台湾の中華航空機に印された国章(青天白日満地紅旗)を「国旗と認めない」とわざわざ発言する始末だった。この頃、民間では日本オリンピック委員会が北京の競技団体の意のままに台湾選手団をオリンピックやアジア大会から閉め出さうと国際場裡で画策してゐた- これに関しては拙文(『諸君!』昭和49年1月号所載)以外にまともに論じたものを見たことがない-。

 かくして国交開始の当初から中国は与し易しと心底では日本を侮ってゐたのではないのか。以後、40年間、「日中友好」の名の下に片務的な対中「思ひ入れ」の関係が続いた。振り返れば歴史教科書の記述には干渉され、総理の靖国神社参拝もなされない異常な状況になってゐる。

 尖閣問題に限ると、中国領だとの主張は、東シナ海に石油埋蔵の可能性が示唆された後の昭和46年からであり(それまでは尖閣諸島を日本領とした地図を国内で発行してゐた)、昭和53年、日中平和友好条約の批准書交換で来日した小平副首相は「領有権を棚上げにして、次の世代に解決を任せよう」と煙に巻いた。棚上げとは、他国のものを奪ふための詐術であって、領土の主張を互ひに手控へようと言って油断させて、「百」の権利を持つ相手と権利「零」の自分を「50」「50」の均等関係に持って行かうとするものだった。ところが棚上げどころか、1992年2月、尖閣を自国領と「領海法」に書き込んでゐる(この秋、両陛下の御訪中)。

 初めの頃は漁船群の領海侵犯に加へて時たま海洋調査船が侵入する程度だったが、徐々にそれが頻繁になり、一昨年9月の漁船の巡視船への体当り事件、つひに今年1月から「尖閣は核心的利益である」と言ひ出した。この間、自民党政権も民主党政権も、口では「日中間に領土問題はない」と言ひながら、実効支配の強化策を執ることなく、尖閣を無人島の儘に放置して彼の国の領土的野心に結果として油を注いで来た。民主党政権になって日米安保体制が揺らいだ分だけ一層舐められてゐる。

 今や連日のやうに中国海洋監視船が尖閣沖に現れてゐる。わが巡視船の警告に対して「正当な任務を遂行中。日本巡視船は退去せよ」などと応答して、様相は一変してゐる。当面は日本に「領土問題の存在」を認めさせ、次の踏台にしようと圧力を強めてゐるが、一切譲歩妥協してはならない。早急に、集団的自衛権の行使を明言して日米安保条約による抑止力を高めるとともに、尖閣の有人島化に向けて具体策を実行すべきである。

(拓大日本文化研究所客員教授)

ページトップ  

 内閣官房皇室典範改正準備室は、去る10月9日、今後の議論の参考にさせていただくためとして、一般国民からの意見募集の受付を開始した。実施期間は12月10日(月)までの2ヶ月間、対象は、10月5日に内閣官房が公表した『皇室制度に関する有識者ヒアリングを踏まえた論点整理』(以下、『論点整理』と略)に対してである。極めて重大な案件なので、以下に、この『論点整理』の憂慮すべき問題点を指摘したい。

   1 『論点整理』の基本的視点 - 「ひと握りの官僚達の暴挙!」

 現在直面してゐる課題は、宮家数の減少、皇族数の減少が不可避なことである。今後、「皇族の規模」を適正に維持していくためには、有効適切な方策を見い出すことが肝要である。『論点整理』が提示した「検討に当っての基本的な視点」を簡約して示すと、以下のやうになる。

(1)皇室の伝統を踏まへ、かつ、戦後の象徴天皇制度と整合性が図れること。

(2)男系男子による皇位継承を規定する皇室典範第一条には触れないことを大前提とする。

(3)旧11宮家の男系男子孫の皇籍復帰論は、今回の検討対象からは外す。

(4)規模を適正な範囲にとどめ、財政支出を抑制できること。

(5)改正対象を内親王にとどめ内親王の御意思が尊重できる仕組みであることが望ましい。

 これらの『論点整理』の視点には、「皇室の伝統を踏まへ」とはあるものの、「皇室の伝統」とはいかなるものであるかを、明確には表明してはゐない。内閣官房の官僚達は、そのステップを意図的に避け、「男系による皇位継承」に直接関はる前掲(2)、(3)の最重要事項を、今回の対象から外してゐる。これでは、「女系天皇」、「女系皇族」への道を切り拓くべく、その前段階となる「女性宮家」の創設へ向けて走り出してゐるとしか、考へられないのではないか。ひと握りの官僚達の、かかる暴挙を許してよいのだらうか。

   2 皇室伝統の大原則

 我が国の長い歴史の中に見い出された皇室の伝統は、よく「万世一系の天皇」や「万世一系の皇統」といふ言葉で表現される。これは、我が国の歴史では、傍系も含めてある幅を持った同一の系統の皇統が、一度の例外もなく、男系のみの継承でもって引き継がれて来たことを意味し、今後もかくあれかしとの願ひを込めて用ゐられる用語なのであらう。この「同一の系統の皇統」といふ内実の基本的特性を具体的に見てみると、それは、次の四つの事実に集約され得ると思はれる。

@明治の皇室典範、並びに、現行皇室典範のそれぞれの第一条に、同様に成文化されてゐるごとく、「皇位は、皇統に属する男系の男子(祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子)がこれを継承する」こと、これが皇位継承の基本であった。

A反面、歴史上には女性が皇位に即かれた事例が散見される。しかし、それらは、あくまでも臨時、異例の措置であった。その場合は、皇統に属する男系の女子でなければならず、かつ、御在位中、並びに、それ以降は、独身でなければならなかった。この「生存する配 偶者を持つことを許さず」が、女 性天皇に課せられた「不文の法」であった。

B皇位継承権を有する宮家当主の位の継承も、前掲@、Aと同様であった。

C皇位、並びに、宮家当主の位の継承は、父から子への直系継承とは限らず、幅の広い傍系継承をも含むものであった。

 なほ、ここに言ふ「皇統に属する」とは、「父系のみを遡り辿ることによって、必ず歴代天皇方のうちのどなたかに繋がることが出来る」ことである。以上の四点は、「皇室伝統大原則」とも言へるものである。これらの大原則に従ふことによって、「皇位の男系継承」が保障される。また、「皇位の男系継承」の基盤である皇族といふ「聖域」が、「聖域」であり続けることが保障されることになる。すなはち、皇族といふ領域内の男性方が、総て「皇位継承権を有するところの、皇統に属する男系の男子」のみであり続け、天皇と皇族から成る「皇室」といふ「聖なる領域」のこの本質を、変質させずに存続させることが出来るのである。

   3 今、採るべき方策

 「皇室の伝統」を弁へた方策としては、皇位継承権を有する男系男子が当主である宮家といふものを中心に考へるべきである。その家族構成も含めて、それらの宮家の集合体である「皇族」の規模をいかに適正に維持するかが、最重要の課題であると考へる。従って、女性皇族が婚姻後も「皇族の身分」を保持しつつ、その世帯の女性当主となり、さらには、その世帯を宮家にする案など、本来、出てくる余地は全くないはずである。何故なら、それは、前述した「皇室伝統大原則」のAとBに、明らかに抵触するからである。このやうなことを防ぐために、明治の皇室典範も現行皇室典範も、冒頭第一条に、最も大切な事柄として、皇位継承権者の資格を明快に謳ってゐるのである。これは、「男系のみによる皇位継承」を明確化し、少しの翳りも生じさせないためである。皇族といふ「聖なる領域」の「聖なる性格」に、少しでも翳りを生ぜしめてはならないからである。従って、『論点整理』の「T A案」並びに「U B案」、すなはち、「女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案」は、あってはならないことなのである。女性皇族の世帯の一員である配偶者及び子に皇族としての身分を付与するか否かに拘らず、皇室伝統に照らして考へれば、排撃すべき対象となる。婚姻により女性当主の宮家が創設されれば、当初から配偶者がゐることになり、そのこと自体が、既に皇室伝統に反する。次の段階として、皇室典範第1条の改定へと進む可能性が出て来る。その時、皇室は、「聖なる性格」を喪失する方向に向ひ、やがて、亡びる運命に陥るであらう。

 前述した「皇室伝統大原則」からすれば、まづ真っ先に、旧11宮家の男系男子孫の皇籍復帰論を採り上げるべきなのである。そして、それへの移行をより円滑にするための移行措置として、『論点整理』が「困難と判断せざるを得ない」として排撃した「尊称保持案」を採用すべきである。すなはち、「女性皇族に皇籍離脱後も、『皇族の身分』ではなく『皇族の尊称』を御沙汰により付与していただき、女性皇族の方々には、その尊称をお使ひになられて、皇室の御活動を御支援いただく案」を採用することこそが、最も無理のない措置と思はれる。明治皇室典範の第44條は、次のやうに謳ってゐる。

 「皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍内親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ」と。

(元新潟工科大学教授)

ページトップ

 明治維新を迎へた我が国は、アジアに押し寄せる西欧列強の侵出のなかで近代国家を建設し、日清戦争、日露戦争といふ国難を乗りこえて独立を保ち、輝かしい時代を築きました。私たちの父祖はそのために多大の犠牲をはらって渾身の努力を傾けましたが、困難にありながら徳義ある国としての道を常に求めて導かれたのが明治天皇でした。その明治天皇が崩御されたのは明治45年(西暦1912年)のことで、今年はちゃうど100年目に当ります。

 明治天皇の崩御によって国民は深い悲しみに包れましたが、歌人三井甲之はかう書き記してゐます。

  「明治天皇が神あがりました時、全国民は驚き悲しみやがて大御稜威をしのびまつりて眼さめしめられたのであります。明治天皇をお慕ひ申し上ぐる全国民の感情に永久の據りどころを与へさせ給うたのは実に『明治天皇御集』でありました。事ある時あらはるる大和心を不断に導かせ給ふのが『明治天皇御集』であります」

 御集とは、天皇さまがお詠みになった和歌、大御歌(御製)の歌集です。明治天皇は崩御されましたが、その御心は大御歌となって永久に私たちに恵みを与へて下さってゐます。明治天皇100年祭を迎へた節目の年にあたって、ここに明治天皇の大御歌を仰ぎつつ、あらためて私たち自身の、また日本の進むべき道しるべとさせて戴きたいと願ふのです。

     敷島の道

   白雲のよそに求むな世の人のまことの道ぞしきしまの道
                       (明治37年)

   天地もうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな
                       (37七年)

   おもふことうちつけにいふ幼児の言葉はやがて歌にぞありける
                       (40年)

 明治天皇は「世の人のまことの道」とは何かといふことを常に求め続けられ、古今東西の教へを学ばれました。そして行き着かれたところは、「白雲のよそ」、つまり白雲のやうに自分の立ってゐるところから遠くに求めるのではなく、実に私たち日本人の遠い祖先から言ひ継ぎ歌ひ継いできた「しきしまの道」にあることを確信なされた、と拝するのです。

 ここに「まこと」とは真の言であって、人の真心が言葉となって表れることです。その「まごころ」をそのままに表したものが、「しきしまの道」でした。「敷島の」は「大和」にかかる枕詞であり、大和心そのままを表現する言葉への道、つまり和歌の道をさします。言ひかへると、思ひを和歌に詠むことが、天皇さまにとってはいつはりのない真心、大和心を求めつづけていくといふ日々のご修行と一つになってゐました。「天地もうごかすばかり」と強いお心で、まことの道を究めようとされたのですが、その基はかざることのない幼児の率直な言葉であり、その明るい素直な心こそが歌なのだ、とお詠みになるのでした。

   ことのはのまことの道を月花のもてあそびとは思はざらなむ
                       (40年)

 しきしまの道は月花のもて遊びではない。まことに至る道、それは自分を写す鏡でもあります。喜びも悲しみもこの世にあるものすべて、あるがままの人生に随順しながら、心と言葉をひとつに整へていく、その中にこそまことがあると示されてゐるやうです。理想をかかげて突き進むといふ勇ましいものではなく、実人生のなかに道を求めていく。それは、あらゆる運命を国民とともにともにして生きていかうとされた、ただならぬご決意ともいへませう。

 明治天皇は、60年のご一生の間に9万3千首をこえるといふ信じられないやうな数のお歌を詠まれたとのことですが、つまりその数だけ御心をお澄ましになって日々努めてをられたと拝察されます。しかしそれでもなほ、歌をすなほに詠むことは難しく、

   むらぎもの心のうちに思ふこといひおほせたる時ぞうれしき
                       (38年)
と、御心に思ふことがやうやく言葉とひとつになったことをお喜びになり、

   敷島のやまと心をうるはしくうたひあぐべき言の葉もがな
                       (45年)
と、大和心を美しく歌ひあげる言葉を求め続けられるのです。そのようにして

   こともなくしらべあげたる言の葉の花にぞにほふ国のすがたも
                       (40年)
と、力をいれず、あるがままに歌ひあげた言葉にこそ美しい花のように国のすがたもにほふと、まるで神代を思はせるやうにほのぼのと詠んでをられます。

   まごころをうたひあげたる言の葉はひとたびきけば忘れざりけり
                       (41年)

   まごころを限りなき世にとどむるもやまと詞のいさをなりけり
                       (40年)

 これらの大御歌について、三井甲之は「ひとたび聞けば忘れざる、まごころをうたひあげたる歌、これ人の心にすむ永久生命の表現である。はかなき此の世に、永久にのこり伝へらるるものは、忘れられざる記憶であり、感銘である」と記してゐます。「永久生命」といふ言葉は私の学生時代以来ずっと忘れがたく心に響き続いてゐますが、私たちの人生は結局は永久なる真実を求めてさまよひ歩く旅路でもありませう。そこに忘れられぬ感動、感銘をうけたとき、人はこの世に生きるまことの喜びを感じるに違ひない。それを導くものこそが「しきしまの道」であるよと、明治天皇はお示しになってゐるのです。

   教育へのご叡慮

 明治時代には西欧からの技術や文化、思想などが怒涛のごとく押し寄せ、わが国民の政治経済から生活にわたって多大の影響を及ぼしました。そのなかで明治天皇がとくに大御心を悩ませられたのが、国民の徳義、そして教育のあり方でした。最初に示した「白雲のよそにもとむな世の人のまことの道ぞしきしまの道」の御製にお示しになったことも、我が国の伝統を見失ひ、西欧を憧憬し一辺倒となりつつある人心へのおほきな危惧であられたと思ふのです。学校教育では徳義や修身は忘れ去られ、学術や知識の伝達にのみ走っていく風潮に対して、日本の将来がこのままでよいのかといふご憂慮を明治天皇は常にお持ちでありました。それは元田永孚の著した「聖喩記」に詳しく記されてをり、明治天皇のなみなみならぬ御意思を感じます。その結実として明治22年に「教育勅語」が発布されましたが、そこには国民精神のあるべき方途が明確に示され、しかも明治天皇はまづご自分自身がこれを守っていくことを宣言されたのでした。

 しかし教育勅語の精神はいつしか忘れ去られ、明治天皇が抱かれたご憂慮は、以来百年を経た現代日本においても最大の問題でありつづけてゐることを、私たちは肝に銘じなければなりません。

     学問
   事しげき世にたたぬまに人は皆まなびの道に励めとぞ思ふ
                       (37年)

   なにごとに思ひいるとも人はただまことの道をふむべかりけり
                       (同)

 明治天皇は学生たちにむかひ、様々な事に煩はされる世の中に出る前に、どのやうな人も正しい学びの道に励めと教へられ、なにに志さうとも人は「ただ」「まことの道」をふまないといけないと詠まれるのです。「皆」「ただ」といふ言葉にこめられたみ思ひをしっかりと受け止めなければならないと思ひます。

     国
   よきをとりあしきをすてて外国におとらぬ国となすよしもがな
                       (42年)

と、外国の素晴らしさを認めつつも、悪いところは捨て、この日本があらゆる意味で立派な国となることを願はれました。

     道
   おのが身はかへりみずして人のため尽くすやひとの務めなりける
                       (42年)

   人の世のただしき道をひらかなむ虎のすむてふ野辺のはてまで
                       (45年)

自分の身を顧みることなく、人のために尽くす心こそが人の務めであるとの御教へ。国民とともに「ただしき道」を開いていかうとの御心は晩年に至るまで変らず、野辺の果てまでもすべての国民にその願ひを託されてゐるのです。

     巌上の松
   あらし吹く世にも動くな人ごころいはほに根ざす松のごとくに
                       (42年)

ともすればあちこちに移ろひやすい私たちの心ですが、どのやうな時にも巌に根ざす松のごとくあれと諭される大御歌です。それは昭和21年元旦、昭和天皇が敗戦になやむ国民に向って、

   ふりつもるみ雪にたへて色かへぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ

とお示しになった御製と重なりあひ、受け継がれゆく歴代天皇さまの雄々しく広やかな大御心を覚らしめられるのです。

   ご自省のお姿

 明治天皇は教への道に導かれつつ、国民にお勧めになる前に、まず天皇としてのご自覚に常にたたれてご自身を振り返っておいででした。私たちは大御歌によって、その気高いお姿を拝することができます。

     述懐
   暁のねざめしづかに思ふかなわがまつりごといかがあらむと
                       (35年)

 明け方に寝床のなかにお目覚めされ、ご自分の政の道はいかがであらうかと、静かにご自省してをられる。日露戦争前夜の一時もゆるがせにできないこの時にあって、国民の運命を担ってをられる天皇のただならぬ緊張感を感じないではをられません。

   ひとり身をかへりみるかなまつりごとたすくる人はあまたあれども
                       (36年)

   世の中を思ふたびにも思ふかなわがあやまちのありやいかにと
                       (40年)

 政を助ける人はたくさんゐるけれども、最後の責任はご自分にあると「ひとり」ご自分を深く省みてをられる。さまざまな困難な時にあたって国民を統治されるそのことに、ご自分にあやまちがないかと自問してをられる。皇居の奥におひとり、ご自分を振り返られるそのお姿に、粛然とさせられるのです。さらに、

   むらぎもの心のかぎりつくしてむわが思ふことなりもならずも
                       (44年)

   あさみどり澄みわたりたる大空のひろきをおのが心ともがな
                       (37年)

 「むらぎもの」は心にかかる枕詞ですが、単に「こころ」と詠むよりも強い意志を感じます。自分の思ふ事は実現しないかもしれない。そうであっても、心の限りを尽したいものだと詠まれ、また澄み渡った大空のやうに広い心を自分の心としたいものだと詠まれてゐるのです。

 なんと有難くまた爽やかな大御歌であることか。常にまことを尽し、澄み切った広々とした心でありたいとの明治天皇の御願ひを、私たち国民自身がしっかりと心に刻みつつ心を合はせて生きていきたいと思ふのです。

- 平成24年10月5日謹稿 -(独立行政法人都城病院長)

ページトップ  

1、著者の『古事記』読書体験

 前稿では主に御著書の「はしがき」「あとがき」から、著者がどのようなお気持で『古事記』に接してこられたのかをたどってみたが、そこには三井甲之・黒上正一郎といふお二人から強い影響を受けられたことが記されてゐた。さうした著者の『古事記』の読み方を、具体的な物語に沿って紹介してをられるのが二章の「古事記の魅力」であり、5章の「愛の歌」と思はれる。今回は二章の「古事記の魅力」をたどることとした。

 はじめに、この章の冒頭、(1)「はじめて『古事記』を読んだころ」の中から抜き出した次のいくつかのお言葉には、著者の『古事記』読書体験とも言へるものがここにも書きとめられてゐる。

 《私の『古事記』は、通読して、その全体系を理解することから出発したのではありません。部分部分の強烈な印象といふ窓から、全体を掴まうといふ態度でした》

 《私が『古事記』に求めたものは…もっと直かに人生を生きる原理- 人生の根もとになる心もち- 感激の源泉とでもいふものを、求めたのです。ですから、過誤と愛欲と動揺に満ちた神々英雄の群像に、生そのものの姿を感じとったのです。それは、人生に没して恩愛の情念のままに生きぬかうとする態度であるし、自己の幸福を国家の運命の中に没してしまふ英雄たちの悲劇的生涯に対しての、一種のあこがれでもありました》

 《ヤマトタケルノミコトをめぐる『古事記』の歌は、実に私の愛誦歌であったのです。
 ヲトメノ トコノベニ ワガオキシ ツルギノタチ ソノタチハヤ
 の歌は、その字足らずが惻々として胸をうつ、正に絶命口号の詩であり、短歌史上最大の傑作と感じられました》

 夜久先生の読書体験に、自分の読書体験を重ね合はせることなどまことにをこがましいことであるが、私自身の『古事記』読書体験を振り返っても、夜久先生のお言葉には親しみを感じられてならない。

2、サホビメの伝説

 そんな著者が、具体的な物語として最初に取り上げてをられるのは、中巻の垂仁天皇のところに出て来る(2)「サホビメの伝説」で、次の一節に始まる。(御著書には次の冒頭部分の原文は省略されてゐるが、補足して引用する)

 《此の天皇、沙本毘売を后と為たまへる時に、沙本毘売命の兄、沙本毘古王、其の伊呂妹に、「夫と兄とは孰か愛しき」と問曰へば、「兄ぞ愛しき」と答曰へたまひき。爾に沙本毘古王謀曰りけらく、「汝、寔に我を愛しく思ほさば、吾と汝と天下を治りてむとす」といひて、即ち八塩折之紐小刀を作りて、其の妹に授けて、「此の小刀以て、天皇の寝ませらむを刺し殺しまつれ」と曰ふ》

 ここで著者の解説に進むと、

 《垂仁天皇の后サホビメが、兄のサホビコに強制されて、天皇を弑せんと計り、「おのが膝を枕として」無心に寝ていらっしゃる天皇のお頸を刺さうとして三度まで小刀をふりあげたが、「かなしさにえたへずして、泣く涙、御面に落ちあふれき」とあります。天皇がおどろきなさってその理由を問ふ時》といふことで、次の垂仁天皇のお言葉に続く。

 《「吾は異き夢見たり。沙本の方より、暴雨零り来て、急に吾が面を洽しつ。又、錦色なる小蛇、我がみ頸になも纒繞りし。如此の夢は、何の表にか有らまし」》

 この場面を、著者は《- この劇的な叙述。夢による暗示の魅力。落ちかかる涙と、はやさめ(早雨)との連想。暗殺の小刀と錦色の小蛇との連想。その連想は、一種独特のスピードがあって、そのスピードが、人生の進行のスピードを感じさせるのです。激動する時代の動きと、それに対応して生きてゆく人間の緊張を、感じさせるのです》と、

 『古事記』の文章は簡潔である。その簡潔な文章が語りかけて来るものを如何に読み取るか。そんなことがここには端的に示されてゐるやうに思はれる。どうすれば著者のやうな読み方が出来るのだらうか。やはり、何度も何度も読みこんで、それぞれの場面が、おのづと目に浮かぶまで読みこむしかないだらうと思はれる。さうした意味では、やはり『古事記』は、一度は原文に触れて、その言葉のリズムを味はっていただきたいと思ふ。続いて、この物語のその後の展開を、

 《天皇はお后の告白を聞いて、「ほとほとに欺かえつるかも」とおっしゃって、直ちにサホビコ攻撃の軍を集めて、戦闘に入ります。情意と行動との一体感。…その充実感が、いさぎよく心をうちます。ところがサホビメは天皇のもとを逃れて、兄のサホビコと一緒に死ぬのです。この恩愛の矛盾!愛のかなしみ- それが道徳的に正しいとかまちがってゐるとかいふことよりも、そこにこもってゐる感情の真実さといふもの、理性で抑制することのできない感情のうねりといったものが、私たちの青春の心をはげしくゆさぶるのでした》と、著者は若き日の感動に思ひを馳せられる。

 ここでも、描かれてゐるのは古代の物語、読んでゐるのは現代のわれわれといふ態度では、決して著者のやうな読み方はできないであらう。著者はこの物語の中に入り込んで、自分がサホビメともなり、垂仁天皇ともなって読んでゆかれるところに、『古事記』の世界に生きた人々の心の痛みも伝はって来るのだらう。

3、目弱の王の悲劇

 またこの章の(7)に、下巻の仁徳天皇から四代下がった安康天皇のところに出て来る物語として、「目弱の王の悲劇」が取り上げられてゐる。

 《目弱の王の死は、悲劇の連続ともみられる『古事記』の中でも、特にあはれな物語です。王子の母は長田の大郎女(大日下王の嫡妻)ですが、安康天皇は事によって王子の父にあたる大日下の王を殺して母の大郎女を皇妃としました》の書き出しから、次の一節が引かれてゐる。

 《此より以後に、天皇神牀に坐しまして、昼寝ましき。爾、其の后と語らひて、「汝、思ほすこと有りや」と曰りたまひければ、「わが天皇の敦沢のふかければ、何の思ふことか有らむ」と答曰したまひき。是に其の大后の先子、目弱王、是年七歳になりたまへり。是の王、其の時しも、其の殿の下に遊びませりき。爾、天皇、其の少王の殿の下に遊びませることを知しめさずて、大后に詔言りたまはく、「吾は、恒、思ほすこと有り。何ぞといへば、汝の子、目弱王、成人りたらむ時、吾が其の父王を殺せしことを知りなば、還して邪心有らむか」とのりたまひき。

 是に其の殿の下に遊びませる目弱王、此の言を聞き取りて、便ち天皇の御寝ませるを竊伺ひて、其の傍なる大刀を取りて、其の天皇のみ頸を打ち斬りまつりて、都夫良意富美が家に逃げ入りましき》

 ここで著者は次のやうに語られる。

《『古事記』叙述の目弱の王の悲惨な境遇に同情しない者はない。その簡潔な劇的表現は充全です。「目弱」の名は、父を殺され母を奪はれた盲目七歳の悲劇の王子の復讐を正当化するごとくです。この間、母妃長田の大郎女のことに一言もふれてゐないのは、かへってそこに想像の余地を残して、事件の神秘的要素を深くしてゐます》

 そして《目弱の王の最期は、さらに悲劇でした》とされて、目弱の王子をかくまったツブラオホミの言葉につづく次の一節を引かれる。

 《爾、力窮き、矢も尽きぬれば、其の王子に白しけらく、「僕は手悉傷。矢も尽きぬ。今は得戦はじ。如何にせむ」とまをしければ、其の王子、「然らば更に為むすべ無し。今は、吾を殺せよ」と答詔りたまひき。故、刀以て、其の王子を刺し殺せまつりて、乃ち己が頸を切りて死せにき。》

 ここに著者は《七歳盲目の王子が、おのが頼む豪族の長の太刀に自らを刺さねばならなくなった時の悲劇性》にふれて、《『古事記』の文体は叙事的で明瞭ですが、その意図は暗示的で象徴的です》と指摘されて、《人生の不可抗力といふことを、つまり運命といふものを感じないではゐられないのです》と、物語の深層に目を向けられる。

 このことは、〈人生の不可抗力〉としての〈運命〉といふものを、われわれはどこまで正視できるであらうかといふ、遠い祖先からの問ひかけにも思へる。この誰しも簡単には答へ得ない問ひかけに対して、最近、無意識のうちにも答へてくれたものがあったやうに思はれる。それは昨年の大津波に被災した東北の子供たちが、悲しみに必死に堪へながら見せてくれた態度であり、言葉ではなかったらうか。そんなことがしきりに思ひ返されてならない。

          ○

 今回、御著書の中からご紹介できたのは二篇の物語に過ぎないが、『古事記』を読みながら、われわれの心に映るものは、われわれの心そのものとも思へてくる。

 また著者は、この章の最後に、《『古事記』の叙述は、飛鳥・白鳳の精神といふ太い一本の線から出たさまざまの表現である》と結論づけてをられるが、〈飛鳥・白鳳の精神〉とは一体何であったのか。あらためて心惹かれる思ひがする。

(平成24・9・14記)(元富山県立高校教諭)

ページトップ  

 明治天皇百年祭の今年、聖徳記念絵画の全容を紹介する書籍が刊行された。明治神宮外苑に建つ聖徳記念絵画館には、明治天皇の「御降誕」から「大葬」までが八十枚の絵画でたどられてゐる。本書の「帯」に、「明治天皇、そして明治という時代を知るための《第一級史料》。選び抜かれた画家たちによる渾身の名作絵画80作品を読み解く」とあるが、全くその通りであって、国の独立を保持せんと苦闘した明治の時代の緊張した様相が、各頁からにじみ出てゐる。それは小堀鞆音・松岡映丘・前田青邨らの画伯の筆致を負ふところ多大なるは当然であるが、自づからなる「明治の精神」の顕現でもあったと、頁をめくりながら改めて考へさせられたのであった。

 以下【 】の箇所は、本書巻末の「明治神宮の歩み- 大正・昭和・平成- 」からの抄出である。

 【平成24年(2012)は、明治45年(1912)7月30日に、明治天皇が崩御されてから百年にあたります。天皇の崩御は国民にとって耐えがたい悲しみでした。

 明治天皇の聖徳をお慕いして神宮創建を望む国民の声を受け、大正2年(1913)10月には神社奉祀調査会が発足します。大正3年4月11日には昭憲皇太后が崩御。全国民の追慕の声はさらに高まり、明治神宮奉賛会が発足。明治神宮の造営事業が始まりました。

 そして明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする官幣大社として、大正9年11月1日、鎮座祭が執り行われました。

 国民が待望した神宮の造営事業では、植樹のために全国各地から10万本が献木されました。また、11万人もの全国青年団が神宮造営の勤労奉仕に身を投じています。彼らは18歳から25歳くらいまでの青年たちで、造営工事を大いに助けました。さらに明治神宮奉賛会には全国から浄財が寄せられ、総額1000万円に及んでいます。

 こうして、御祭神が鎮まる内苑と、聖徳記念絵画館や各種スポーツ施設の並ぶ外苑が造営されました。聖徳記念絵画館は、大正15年(1926)10月、明治神宮外苑の中心施設として竣功しました。壁画全80枚が揃い開館したのは昭和11年4月のことでした。

 陳列されている80枚(日本画40枚・洋画40枚)の壁画(縦3メートル、横2.7メートル)は、明治天皇および皇后(昭憲皇太后)のご事績を描いたものです。幕末から明治時代の重要な場面が描かれています。聖徳記念絵画館の壁画を読み解くことで、明治天皇のご生涯をたどり、危うい場面の連続であったわが国の近代を学ぶことができるのです。】

 本書では80枚の絵画が一枚宛、見開き2頁で紹介されてゐる。見開きの左頁に「絵画」が掲げられ、右頁が「その説明文」で、天皇と共にあった明治の時代を偲ぶことができるやうになってゐる。そして説明には必ずその絵画に関連する「写真」が小さく添へられてゐて、それによって絵に時間的空間的な膨らみや臨場感が与へられてゐる。この写真があることで絵画が生き生きと感じられるのである。著者のご苦心が偲ばれるところである。また「聖蹟に行ってみませんか」との小見出しで絵に描かれた現場が地図で示されてゐる。これによっても、明治の時代を描いたこれらの絵画が平成の現代とつながってゐることを自づと教へてくれる。著者の配慮は行き届いてゐる。さらに絵画に描かれてゐる人物が特定されていて具体的に名前がその官職とともに記されてゐるのも興味深く、しばし時の経つのを忘れさせてくれる。

 本書は「世界に冠たる近代国家へ」と歩み出した明治の歴史を具体的に知って学ぶための好箇のテキストであり、世代を問はず広く繙かれることをお薦めしたい好著である。

 ちなみに聖徳記念絵画館の建物が昨年、重要文化財に指定された。中央・総武線「信濃町駅」下車歩いて5分ほどの所に建つ絵画館に足を運ばれて、「絵画」の現物を通して、偉大なる明治を偲ばれることもお薦めしたい。年中無休とのこと。力づけられるに違ひない。二度三度と訪ねたくなるに違ひない。

(山内 健生)

ページトップ  

 編集後記

 2頁〜3頁の大岡弘兄による政府(内閣官房)の「論点整理」批判をご精読下さい。まさに「恐るべき皇室伝統の破壊の企み」だ。恣意的な論点整理で世間を謀らうとしてゐながら、アリバイづくりか、政府は国民からの「意見」を求めてゐる。このこと自体が実は大問題であるが、この際は本号「折り込み」もお読みいただいて、「皇室伝統の大原則」を守るために、どしどし「意見」具申をされるやうにお願ひしたい。

 ことしは明治天皇百年祭。大御歌に御心を仰がんとする小柳左門兄の謹稿は次号まで続きます。

 (山内)

ページトップ