国民同胞巻頭言

第609号

執筆者 題名
坂本 太郎 他者に思ひを馳せられる生徒の育成を
- 現下教育現場の「喫緊の課題」 -
本田 格 「戦後の国語改革」とは何だったのか(上)
- 論争以前に -
今村 武人 古典と歴史の中に自分の志を見出さう
- 今年度「新入生講話」の実践から -
中島 繁樹 『施行65年 昭和憲法の改正を志す』
新刊紹介 桑木崇秀著
『自虐史観から脱却して誇り高き日本へ
大東亜戦争生き残りの老医が語る 歴史の真実と日本の使命』
展転社 税別1,200円
  第五十七回全国学生青年合宿教室
夏の阿蘇高原で、日本と世界を考へよう!

 現在私は熊本県の公立中学校で働いてゐる。最近の教育現場での課題は、新学習指導要領が本年度から施行され(小学校では昨年度から)、その確実な実施にむけて各学校でどのやうな教育課程を編成するかといふことにある。

 新学習指導要領の理念である『生きる力』とは、@基礎・基本を確実に身に付け、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考へ、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力である「確かな学力」、*2自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思ひやる心や感動する心などの「豊かな人間性」、Aたくましく生きるための「健康や体力」、の三本柱で成り立ってゐる。これは正しく「知・徳・体」のバランスのとれた人間の育成を目指してゐることに他ならない。

 しかしながら、生徒や保護者の意識は「確かな学力」=「よい成績」であり知識偏重の感は拭へない。本県では中高一貫の県立中学校がそれぞれの地域の拠点校に併設され、県立中学校の適性検査(選抜試験ではなく、あくまでも適正検査としてゐるところに中途半端な気がしないでもない)に合格すれば、高校受験をすることなく地域のいはゆる進学校に入学できるとあって、小学校低学年から学習塾に通はせる家庭が増加してゐる。この不況の中、熊本の片田舎であっても学習塾だけは以前より活気を帯び、大盛況であるとは何とも皮肉なものである。

 私は以前この欄に、子どもたちの「規範意識と自立心」の希薄化について拙稿を寄せて、家庭の教育力(しつけ)の重要性を述べた(平成21年12月号)。あれから2年半が経過したが、状況は大きく変ってゐない。もしかすると悪化してゐると感じる場面も少なくない。

 つい先日の出来事であるが、部活動の大会で生徒を引率したことがあった。その会場で、ある生徒が他人のラケットを「拝借」してくるといふ事件が起きた。あらうことかその生徒は、そのラケットを同級生に見せびらかしてゐたといふではないか。さすがに周りの生徒も「返した方がいいよ」「やばいよ」と忠告をしたらしいが、本人曰くどうせ分らないからとそのまま持ち帰ったらしい。そのことを知ってゐる生徒が自分の父親に話したことから、ことが明らかになって、私も、その保護者もまさかこの子がと、はじめは耳を疑った。大会主催者に連絡をとり、ラケットの持ち主が確認できたため、生徒とその保護者、顧問である私で相手の学校に出向いて謝罪した。先方の生徒は、買ってもらったばかりのラケットを紛失し、それをどう親に伝へようかと随分悩んでゐたらしい。さうしたことに生徒は、思ひを馳せることがなかったのだらう。

 自分の行動が他者にどのやうな影響を及ぼすかを考へようとしない、想像力に欠ける身勝手な生徒が増えてゐる現状に、私たち学校現場の教員はもっと危機意識を持つ必要があるのではなからうか。前述の新学習指導要領の改訂のポイントの一つに「道徳教育の充実」がある。相手の立場や気持ちを考へて行動できる生徒の育成を目指して、道徳の授業をはじめあらゆる機会を捉へて指導を行ふことが喫緊の課題と思ふ。

 一昨年同郷の久保田真先輩(高校教員)から一冊の本を頂いた。長内俊平先生の『文化と文明0祖國再生の道を念じて0』である。その中に次のやうな詩が紹介してあった。

  「肝苦りさ」といふのは沖縄の言葉で 「胸が痛い」いふことなんやて 沖縄には「可愛想」といふ様な同情の言葉はないんやて他人のことを自分のこととして初めていへる「肝苦りさ」私はこの言葉を心から言へる様になりたい

 この詩に続けて長内先生は「肝苦りさ」といふのは、相手の悲しみが我が悲しみとなる、他人事とはどうしても思へない、自他一体の心情となることだと述べてをられる。

 この「肝苦りさ」といふ沖縄の言葉に込められた心を生徒自ら具現化することが、本当の意味で相手の立場や気持ちを考へることに繋がり、真の道徳教育を行ふ上でその根幹を成すべきものであるやうに思はれてならない。

(宇城市立松橋中学校主幹教諭)

ページトップ  

     本質が見えにくい国語問題

 国語の問題は、災害時のやうな緊急の問題ではない。衣食住の生活に直接関はることではない。さういふ意味では憲法問題と似たところがあるかもしれない。現在改憲論議が盛んだが、戦後憲法下で半世紀を優に越えてゐるのだから、私たちはそれに慣れてゐるし、あへて変化を求める気持ちになれないといふ人もきっとゐるだらう。

 憲法については、文章表現で明示されてゐることからむしろ問題点がはっきりしてゐるともいへる。それに対し国語問題は、何が問題なのか見えにくいと思ふ。

 しかし国語の貧しさが何をもたらすか、国語の力の低下が何を生むか、それについて、科学的、客観的なデータがはたして必要だらうか。国語は学力・知力の土台になるばかりでなく、情緒面でも大きな関りがある。言葉の貧しさは即、心や精神の貧しさにも通じるといふこと、それは言ふまでもなく、だれでも知ってゐることだ。

 国語といふものについて、その全体の姿を的確にとらへることはむづかしいが、それについて今、何か問題はないのか。あるとしたら何が問題なのか、できるだけ明らかにすることが求められてゐるはずである。現在の国語の状態が理想的であるならば、ことさら何も言ふことはないのかもしれない。だがどれだけの人が自信を持ってさう言ひきることができるだらうか。

 私は今回、戦後の国語改革の問題点を取り上げたいと思ふ。戦後すぐ行はれた、「当用漢字表」と「現代かなづかい」の制定(ともに昭和21年)と、「これからの敬語」(昭和27年)の三つを主とする、国語史上に例のない大きな改革である。はたしてこれらの国語改革は本当になされる必要があったのだらうか。日本人にとって心から良いと思へる、望ましいものだったのだらうか。改革がすみずみまで浸透してゐる現在、問ひつづけなければならない問題として、私たちの目の前に突きつけられてゐるのではなからうか。

     混乱してゐたのは一部知識人

 私自身、戦後生まれの戦後育ちであり、国語改革の波をそのままかぶってきた人間である。それ故なじんではゐるが、この改革を賞賛する気にはとうていなれないでゐる。それどころか、知れば知るほど疑問に思ふことばかりなのである。私はまた高等学校の国語教師を勤めた人間でもあるのだが、自分の国語力が戦前の教育を受けた人に比べ、それほどあるとは思はれない。もし多少はあるとしたら、それはふつうより多い読書を通じてであり、自然に身についたものではない。

 先の国語改革を、中心になって主導したのは、国語学者として知られる金田一京助だといはれる。石川啄木との交流など、名前はけっこう知られる伝説的な人物だが、この人の実像はあまり知られてゐないのではなからうか。これから私が書くことに、とくに金田一に対して批判的言辞がかなり含まれてゐると思ふが、無論それが目的ではない。書き出せばきりのないことであり、必要なことにとどめるつもりでゐる。

 それにしても、なぜ戦後の国語改革がなされたのだらうか。昭和25年、国語審議会(会長・土岐善麿)が審議決定して出した報告「国語問題要領」によると、「国語・国字が複雑多様であり、混乱していることは明らかである」といふのが、国語の現状を分析した結論になってゐる。この現状認識が、簡単にいふと戦後の国語改革を推し進めた原動力だったとみることができる。改革が必要とされる根拠である。

 まづ最初に、この現状分析自体を問題にしなければならないだらう。国語について、それがとにかく複雑多様であり、混乱してゐるのだといふ。この「複雑多様」と「混乱」とは、どんな関係にあるのだらうか。ただ並列してゐるだけなのか、そこに因果関係があるのか、はっきりしない言ひ回しである。さらに国語が複雑多様だとして、それが良くないことなのだらうか。もし簡単・簡明なほうが良いとするならば、その理由を示し、さらに実証しなければならないのではなからうか。

 国語は混乱してゐるともいふ。それはどのやうなことをさしていってゐるのだらうか。人々がわけもわからない、乱雑極まる国語を使ひ始めたとでもいふのだらうか。もちろんそんな事実があるはずがない。もし混乱してゐるとしたら、それは国民一般ではなく、一部知識人が、国語をやめて英語や仏語を公用語として採用せよとか、国字をやめてローマ字に変へよなどと騒ぐことからくるとしか言ひやうがない。国語・国字について、どれだけ人々が苦しんでゐて、国語改革を求める声を上げてゐるのだらうか。何か客観的なデータでもあるのだらうか。そのやうなものはないとはっきりいへるのである。

 いはゆる国語問題は、すでに明治維新前後から始まってゐた。アルファベットとの出会ひの衝撃である。アルファベット26文字ですべて表現する言語の存在を知って、その文字数の多い少ないだけをとらへて、欧米語が格段に進歩した、合理的な言葉だと反応した日本人が少なからずゐたのだった。急速な近代化が求められた明治期の、さうした見方について、現在では広い視野からとらへることができるはずなのに、「欧米の先進国で20数字のアルファベットで事足りているところを、際限なく漢字を覚えなければならない我が国の表記システムについて、疑問を持つ人々が出たのは自然である」などといふ国語の専門家が今なほゐる始末である(野村敏夫『国語政策の戦後史』2006年)。国字に疑問をもつのが自然などといふが、それは全く個人的な感想にすぎない。そんな表現が研究論文の顔をして出てくること自体が疑問なのである。

     国語改革に疑念を示した小泉信三

 さて、次に戦後の国語改革の中でも、とくに「仮名づかひ」について、「現代仮名づかい」論争として知られたものを中心に取り上げ、問題点をいくつか整理して少し検討したいと思ふ。ここには、国語問題が集約されてゐるとみられるからである。

 「現代かなづかい」に対する批判は、内閣告示直後の早い段階から時枝誠記によってなされてゐるが、論争のきっかけになったのは、小泉信三の論文であった。この小泉の主張に対する反論が金田一京助、桑原武夫からなされ、さらに福田恒存、吉川幸次郎、高橋義孝などを巻き込んで、3年あまりにもわたる大きなものになった。

 小泉信三は当時論壇の重鎮であり、文春読者賞を受けるなど人気もあった人である。小泉の「日本語 平生の心がけ」は『文芸春秋』昭和二十八年二月号の掲載になる。その前年の昭和27年4月28日に、サンフランシスコ講和条約が発効してゐることにまづ注意したい。それによって日本は正式に独立したのであり、それまでは、交戦状態は終結してゐたとはいへ、戦争状態の延長線上にあったことを確認しておきたい。

 「現代かなづかい」が施行されてすでに6年以上経過してゐた。小泉論文を見て、おそらくその影響力を心配したのだらう、金田一、桑原の二人がすぐ反応し、それぞれ『中央公論』『文芸春秋』の4月号で同じやうに反駁したのだった。「現代かなづかい」に対する批判は少しも許さないといふ趣だった。

 小泉信三は国語・国字問題に危機感を覚え、当時の一般の人々の声を代弁すべく、自説を展開したのだと思ふ。声高にならず、節度をもったものであり、深い教養に裏打ちされた、良識派の見本のやうな文章である。偏狭なところは少しもなく、国語はその国の文化だからとくに大切にしなければならないといふ立場から、綴字法を変へるなどといふ大きな問題は、占領下のような異常時に決すべきではなく、さうでなくなった今、十分論議を尽してほしいといふものだった。議論の帰着を待って、それに従って改正するのがよく、また一致した改正意見が得られなかったら、思ひとどまることをすすめてゐた。

     議論を封じ込めようとした金田一京助と桑原武夫

 しかし小泉は「現代かなづかい」自体は、理由のあるものとして理解を示しつつ、それに対する疑問や、漢字制限の問題点などをあれこれとくはしく指摘してゐた。金田一、桑原の二人が反応したのはその点だった。二人とも、議論の必要性のことよりも、もっぱら小泉の国語観を問題視し、日本語表記がいかにむづかしいかを強調し、「歴史的かなづかひ」の否を説き、「現代かなづかい」の合理性・正当性を主張することに多くの筆を費やしてゐた。

 小泉に反論するならば、新しい仮名遣ひについての正否ではなくて、その議論をするかしないか、といふことを第一に問題としなければならなかった。3年5年を費やすことがなぜいけないのか、それを明らかにしなければならないはずだった。桑原は金田一に比べると、少しはふれてゐるところがある。「アメリカの占領下にできたものでも、それがよいものなら、いたずらにナショナリズムに走らず、これを守りたい」とし、「今回の国語改良案は、その手続に若干の不備があったにせよ、その方向は極めて正しいものである」と最後の方で書いてゐた。

 さらに桑原は「混乱をまねくことは必ず避けねばならぬ」と、議論すること自体を封じ込めようとする、およそ学者の発言とは思はれない、まるで政治家のやうな結論づけをしてゐた。このやうに、一方で民主主義をうたひながら、それを否定するやうな論説が、主要雑誌に堂々とまかり通ってゐたのである。

(元 北海道立高校教諭、北海道大学国語国文学会会員)

ページトップ

 本年度、生徒指導主事を任されることになった。生徒指導主事とは、文字どほりその学校の生徒指導に関する業務を総括する係である。近年では、生徒の問題行動に対応したり、問題行動・事件事故を未然に防ぐ係といふ消極的な見方があるが、実はそれだけではなく、生徒の在り方生き方を考へさせる係でもある。

 さて、本校では毎年4月、新入生の集団宿泊研修といふものを2泊3日で実施してゐるが、そこで生徒指導講話を30分間行った。講話の中心は、志を持てといふ内容で話した。「遅刻をするな、自動車には気を付けろ、宿題忘れるな」などといふ卑近な話は一切せず、人として根幹になるやうな話ができればと思った。左の文は、その実践の一端である。(もと現代カナ)

     1 学問の喜び

   子曰く、学んで時に之を習ふ、亦説ばしからずや。朋あり遠方より来る、亦 楽しからずや。
   人知らず、而して慍らず、亦君子ならずや。 (『論語』学而第一)

 これは論語の冒頭を飾る有名な語句です。この畳みかけるやうな文章を声に出して読んでゐると、孔子の学問に対する心からなる喜び、情熱的な思ひが自分の胸にひしひしと伝はって来るやうです。

 いふまでもなく、孔子は高校や大学に入るために勉強してゐるのではありません。孔子は中国古典に学び、それだけに終らずに自分の真なる生き方を求め続けた人といへると思ひます。これこそ孔子の志であったのです。孔子は中国の古典を信じて、生涯学問に励んだ人と言へるでせう。志とは、心に堅く決したこと、心に誓った信念といふ意味です。

     2 学問の志

 そこで、今日はその「志」について、みなさんと一緒に考へてみたいと思ひます。志といへば、私は吉田松陰の志を思ひ出します。

 松陰は、学問に取り組まうとするなら、それを行ふ者の志がどこにあるかを問題にしてゐます。それは人としての正しい生き方を学ばうとする心がなければならない。名誉や利益を得るための学問など学問とは言はない。そのやうな「学問」は、「学問」が進めば進むほど弊害が現れると言ひます。

  其の心に作るとは初一念の事なり。人は初一念が大切なるものにて、どこまでも付回りて、政事に至りては、其の害最も著はるるなり。今、学問を為す者の初一念も種々あり。就中誠心道を求むるは上なり。名利の為にするは下なり。故に初一念名利の為に初めたる学問は、進めば進む程其の弊著はれ、博学宏詞を以て是れを粉飾すと云へども、遂に是れを掩うこと能はず。大事に臨み進退拠を失ひ、節義を欠き勢利に屈し、醜態云ふに忍びざるに至る。
(『講孟箚記』勝文公下から)

 松陰は、下田でペリー艦隊のポーハタン号に向ひ密航を企てるが失敗に終り、萩の野山獄に入れられます。その獄中で「孟子」の勉強会を始めるのです。
なぜ、獄に入ってまでも勉強会なのか、松陰は、次のやうに述べてゐます。

  今且く諸君と獄中に在りて学を講ずるの意を論ぜん。俗情を以て論ずる時は、今已に囚奴と成る。復た人界に接し、天日を拝するの望あることなし。講学切して成就する所ありと雖ども、何の功効かあらんと云々。是、所謂利の説なり。仁義の説に至りては然らず。人心の固有する所、事理の当然なる所、一として為さざる所なし。人と生れて人の道を知らず。臣と生れて臣の道を知らず。子と生れて子の道を知らず、士と生れて士の道を知らず。豈恥づべきの至りならずや。若し是を恥づるの心あらば、書を読み道を学ぶの外、術あることなし。已にその数箇の道を知るに至らば、我が心に於て豈悦ばしからざらんや。「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」と云ふは是なり。亦何ぞ更に功効を論ずるに足らんや。諸君若し茲に志あらば、初めて孟子の徒たるを得ん。
(『講孟箚記』粱恵王上から)

 松陰のどんな環境でも、卑屈になることなく、前向きに己の道を求めていく姿に感動させられます。

     3 天野清三郎の生涯

 さて、松陰はその後、松下村塾を再興し、高杉晋作など多くの門弟を育てることになるのですが、その中でもあまり知られてゐない人物、天野清三郎(のちの渡邊蒿蔵)を取り上げてみたいと思ひます。

 天野清三郎は安政4年の冬、15歳で松下村塾に入門しました。天野は高杉の下で勤王倒幕運動に従事します。高杉は頭のいい天才的な人物でした。しかし、彼は、機転が利き、決断力や行動力のある高杉と自分を比較して、自分は頭も悪く、臨機応変に対応する能力がない、このままだと高杉さんの足手まとひになるだけだと悟ります。
では、自分は何をすべきだらうか。
彼の脳裏にかつて松陰が言った言葉が横切ります。

  夷等此の時に乗じ再び前請を申ねば、国家の大体、華夷の名分を知らざるもの、動もすれば一時権宜の策に託し、国体を屈し和議をなさん杯いふに及ぶべきも量るべからず、実に寒心すべき事に非ずや。此の時に方りて堅艦の夷人を制するに足るものを製し、糧運に支りなく、又応援に便ある如くなさずんば、何を以て守りを為さんや。
(『将及私言』「船艦」から)

 天野はこの松陰の言葉に「さうだ、自分は頭は悪いが手を使ってものを作ることは好きだ。松陰先生の教へに従ひ、船造りにならう。そして日本を守るぞ」と決意したのでした。

 松陰は何気なく言った言葉かも知れませんが、天野にはそれを受け流しせず、心で受け止めたのでした。ここに注目してください。

 しかし、武士であった天野が船大工職人になることは容易ではありません。

 そこで天野は慶応3年、脱藩し上海に密航しました。そして上海からロンドンに渡り、ロンドンのグラスゴー造船所で働きながら船造りを覚えました。

 造船所で働いてゐるうちに技能だけではなく、もっと基礎的な学問が必要なことがわかってきました。造船に関する学問です。そこで天野は昼働き、夜間の学校に通ふことにしました。そしてさらに専門の学問だけでなく英語や数学、物理学も勉強しました。本当に血を吐くやうな思ひで勉強に取り組んだのでした。

 そして、努力の甲斐あって見事3年で卒業することができましたが、しかし、彼はそれだけでは納得がいきません。

 学校は3年で卒業しましたが、天野はまだ勉強が足りないといって再度同じ学校に入学を申し込んだのです。これには彼の学校の先生達も目を白黒させたことでせう。結局、それはできないといふことになったので、仕方なく大西洋を渡り、アメリカのボストンの造船所で働きながら、学校に通ったのでした。

 さうやって天野は苦学の末に造船学をマスターして、明治七年に帰国を果しました。政府は、天野が造船学を学んだことを知ると、政府は長崎造船所の建設に力を貸すやう要請、その後、長崎造船所の所長に抜擢しました。而して天野は日本造船業界の草分けとなったのでした。

 松下村塾では、あまり目の出なかった、勉強嫌ひの天野清三郎がロンドンやボストンで血を吐くまでに勉強できたのはなぜか、どうしてそこまでしてがんばれたのか、その底力はどこにあったか。それは天野が立てた「志」に他なりません。高杉晋作の下で働く中で、自分は何のために生きるかを真剣に考へ、松陰の言葉に発奮して、自分の持ち味と世の中への貢献とを結び付け、己の志を発見、見事貫いたのです。

     4 最後に

 みなさんは、大きな希望を抱いて本校に入学しましたが、ぜひ志を持ってほしいと思ひます。

 ところで、「自分探し」といふ言ひ方があります。それまでの自分の生き方、居場所を脱出して新しい自分の生き方、居場所を求めること、といふ意味です。これだと自分の生き方がどこか別の場所に存在してゐるやうな印象があります。友人や先生、家族や国家とのつながりを求めていくのではなく、さういふ人間関係を遮断してゐて、果して志が生まれるでせうか。

 みなさんは自分の生き方をよそに求めるのではなく、己の中に求めてください。

 是非、古典や歴史の中に、また先人の言葉を手がかりに自分の志を発見してほしいと思ひます。

(熊本県立第二高等学校教諭)

ページトップ  

   1、最後まで新憲法に反対した美濃部達吉(産経新聞 平成元年2月)

 GHQの指示を受けて、日本政府は1945年(昭和20年)10月、明治憲法の改正について検討を始めました。元東京帝国大学教授の美濃部達吉は、幣原内閣が設けた憲法問題調査委員会の顧問になります。美濃部は明治憲法の改正についてどのやうな態度をとったのでせうか。

 美濃部は、10年前の1935年(昭和10年)、自己の憲法学説(天皇機関説)に対して、厳しい批判を受け、貴族院議員を辞めさせられた人です。美濃部はその著書の中で、天皇を国家の機関であると位置づけて、明治憲法をできるかぎり立憲主義に合ふやう解釈してみせたのでしたが、これを「反逆学説」とまで言はれて、激しく攻撃されたのでした。

 美濃部はこのやうな迫害ののちも、その信念を変へることはありませんでした。その美濃部は昭和20年、明治憲法の改正のための調査委員会で、最小限の改正にとどめることを強硬に主張しました。

 美濃部の考へは「最近の10数年の間、国政が民主主義に反して行われた原因としては、いろいろの点をあげることができるが、それはどれも憲法の正文(解釈や注釈でないもとの文)に基づいたものでなかった」といふことでした。したがって「いはゆる憲法の民主主義化を実現するために、形式的な憲法の条文の改正をすることは、必ずしも絶対の必要はない」といふのです。

 「現在の憲法の条文の下においても、法令の改正およびその運用により民主主義化を実現することは十分可能である。今日の逼迫した非常事態の下において、急速に憲法の改正を行ふことは適切でない」と論じました。

 憲法問題調査委員会の委員の一人であった東京帝大教授、宮沢俊義も、昭和20年秋ごろには、美濃部と同じやうに憲法改正について慎重な意見を述べてゐました。

 例へば10月19日の毎日新聞紙上にかう書いてゐます。

 「現在のわが憲法典は民主的傾向と相いれぬものではない。わが憲法は弾力性を持つてゐる。この憲法における立憲主義の実現を妨げた障害の排除といふことは、憲法の条項の改正を待たずとも、相当な範囲において可能だ」

 ところが、翌昭和21年2月、マッカーサーがみづから憲法改正草案を作って日本政府に示したとき、宮沢はそれまでの態度を一変させてマッカーサー草案に賛同しました。しかし、美濃部はその態度を変へることはなかったのです。

 美濃部によれば、改正案のやうに、天皇をただの象徴にする制度は「わが国体を根柢から変革するもので、わが国民の歴史的信念をくつがへし国家の統一を破壊するもの」でした。美濃部は国家の歴史的伝統こそが憲法の基礎として重要なものである、と考へたのです。

 美濃部はマッカーサー草案が提示される少し前の21年1月に枢密院の枢密顧問官に任命されました。枢密院といふのは、天皇の諮問にこたへて重要な事項を審議するところです。

 4月から枢密院が政府の憲法改正案を審議したとき、美濃部はただ一人、改正案に反対しました。6月8日の採決のとき、鈴木貫太郎議長が賛成者の起立を求めますと美濃部だけがじっとうつむいて座ったままであったとのことです。

 その後、帝国議会で可決された改正案は10月に再び枢密院で審議されました。このとき美濃部は欠席して議決に加はらず、改正案への不同意を最後まで貫いたのでした。

   2、卒業式の思ひ出(県民と教育 平成11年6月)

 つい先日のことであるが、高校3年生の娘が私に質問をした。曰く、卒業式で君が代を歌ふことに賛成か反対か、学校で両者に分れて討論をすることになった。自分は賛成側にまはるつもりだが、お父さんはどうか、と言ふのである。

 「僕は賛成派だけど、それはともかく、討論では賛成の方が有利だらうね」

 君が代の歌詞は国民主権の憲法原理にそぐはないといふ反対論に対しては、どう答へるのかといふのが、娘の次の質問である。まさにこの点が反対派の最大の論拠である。うちの娘もなかなかよく分ってゐるやうだ。

 「主権は国民に存するといふのが憲法第1条の規定だが、その第一条が国民の総意として天皇は日本国の象徴であるとしてゐる。天皇の存続を願ふことは日本国の永続を願ふことを意味するのだから、君が代の歌詞は憲法第一条の趣旨によく合ってゐると思ふよ」

 39年も前の小学校の卒業式の感動を、私は今でもはっきりと憶えてゐる。君が代を歌ひ、仰げば尊しを歌ふその厳粛な雰囲気が卒業生の緊張を高める。緊張が未来への決意を促す。私はそのとき確かに涙ぐんだ。

 「卒業式にとって厳粛さは生命だ。卒業式はパーティーではない。式の厳粛さを生み出して、出席者が心を一つに統べる方法として、伝統的に卒業式では国歌斉唱をして来た。わが国において国歌は君が代だ。学習指導要領でも、国歌斉唱をすることが求められてゐる」

 「もう一つは教育的な理由だ。国民は公の場において国旗や国歌に対して尊重の態度を取るべきだといふことは、世界の国々では常識とされてゐる。卒業式で国歌を歌って、尊重の態度を身につけることは是非必要なんだ」

   3、フランスの国旗と国歌(県民と教育 平成11年4月)

 ドラクロアの描いた「民衆を導く自由の女神」を見た。日本におけるフランス年にちなんで、東京上野の国立博物館でこの3月、この有名な絵画が公開されたのであった。私は入館を待つ数百メートルの列に混じって、約一時間も並んで、やうやく絵の前にたどり着いた。

 フランスの100フラン紙幣の図柄に取り入れられたこの絵画は、縦2・6メートル、横3・25メートルの大作である。その絵の中央部に、1830年の革命で民衆を導く女性「自由の女神」が描かれてゐる。

 女性は右手に青白赤の三色のフランス国旗を高く掲げ、左手には銃剣を携へてゐる。

 国旗国歌の法制化問題が論じられてゐる最中だったので私はこの絵の図柄を子細に見る気になったのだが、この女性の足元には死体が三つも横たはってゐる。死体の一つは陰部を露出したままである。

 我が国の日章旗が、死体を乗り越えて行く図柄の中で描かれたことはないであらう。まして、その図柄が紙幣に取り入れられることなど、想像さへできない。

 フランスの国歌『ラ・マルセイエーズ』は言ふ。

  「正義のわれらに旗はひるがへる。聞かずや、野に山に敵の叫ぶを。悪魔のごとく敵は血に飢ゑたり。立て、国民。いざ、矛とれ。進め、進め、あだなす敵をほふらん」

 我が国の君が代とは極めて対照的である。

 君が代は、日本国の象徴とされた天皇の永続を祈ることによって、日本国の繁栄を願ふ意味を表したものである。君が代は私たちの誇るべき日本の国歌である。

 君が代の歌詞は主権在民の憲法にそぐはない、などといふ意見は、憲法第一章を改定した後に主張するのが筋であろう。

 フランスでは国旗も国歌も共和国憲法の冒頭の第二条で定められてゐる。

   4、国旗国歌法(県民と教育 平成11年9月)

 国会で8月9日、国旗国歌法が成立した。「国旗は日章旗とする」「国歌は君が代とする」といふのが、その法文である。

 国会審議中に西村真悟議員が政府に対して異議を呈してゐたことであるが、法文に「…とする」といふ表現を用いたのは不正確である。ここは「…である」とすべきであった。

 日章旗は安政6年(1859年)に「御国総標」として江戸幕府が布告して以来、わが国の国旗である。また君が代は、明治13年(1880年)に宮内省が「国歌・君が代楽譜」を定めて以来、わが国の国歌である。従来国旗であり国歌であったものを、今回の法律で明文化するにすぎないのであるから、その法律は確認規定であって、創設規定ではない。さうであれば「国旗は日章旗である」「国歌は君が代である」とするのが当然であった。

 天皇の地位を定めた憲法第一条は、確認規定である。「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」との規定は、従来から存在した天皇の象徴性を確認したものと解される。これとの整合性を保持するためにも国旗国歌法は「…である」といふ定め方であってほしかった。

 「…とする」といふ創設規定も「…である」といふ確認規定も、法規範である以上は、人々に尊重を求める意味を有する。今回成立した国旗国歌法には尊重義務をうたった規定はないが、日章旗を国旗とし君が代を国歌とするやうに人々に求める規範性がある。

 平成元年以来「学習指導要領」に、入学式や卒業式では国旗を掲揚し国歌を斉唱するものとすると定められてゐることとの関係でいへば、今後学校では、入学式や卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱が明確に義務づけられたといふことになる。まことに喜ばしいことである。(もと現代カナ)

(中島法律事務所 弁護士)

編註・『施行65年 昭和憲法の改正を志す』は、福岡市在住の本会参与・中島繁樹氏が各方面に寄稿された文章を集成されたものです。
 若干の余部があるとのことですので、御希望の方は編集部まで。

ページトップ  

 昨年の江田島合宿教室の際、本書の著者・桑木崇秀先生から全参加者に配布して欲しいとの有難いお申し出を受けて、『自虐史観を払拭して本来の日本へ』(175頁)と題する著書の寄贈を受けた。本紙昨年10月号に、前記の著書を拝読した国文研会員の感想が載ってゐる。そこには「…戦後日本人の認識を暗雲のやうに支配してきた東京裁判史観(GHQ史観)を根本から覆すもので心底から感動しました」とあった。

 それ以前にも、合宿教室参加者に配って欲しいとのお言葉とともに先生がお書きになった『孫たちとの会話』(初版、平成7年)といふ冊子を頂戴したことがあった。この冊子の表紙に記されてゐた「戦後50年日本と靖国神社の行く末を考える」の文字からも、かねて著者が抱いてをられる憂国の至情が拝察されるが、昨夏の江田島で各参加者が手にした『自虐史観を払拭して本来の日本へ』には「大東亜戦争と戦後日本の進むべき道」との副題が付けられてゐた。著者は視線をつねに「国の行く末、進むべき道」に向けてをられる。

 このたび、上梓された新著『自虐史観から脱却して誇り高き日本へ』(211頁)は『自虐史観を払拭して本来の日本へ』をベースにしたものであるが、そこには、広く市販されることによって、一人でも多くの国民の、ことに若い世代の、自虐史観からの覚醒を願はれる著者のお気持ちが溢れてゐるやうに思はれる。

 著者は慶応義塾大学医学部卒の医学博士で今年数へ97歳になられたが、若き日に軍医としてインパール作戦に参加されてゐる。苦しい戦況の中で多くの戦友を亡くされてゐる。それだけに、総理の靖国神社参拝さへままならない不様な国情に対する憤りは強い。「このままでは、日本が世界に冠たる素晴らしい国になることを信じて散華された英霊に申し訳なく、死ぬに死にきれない思いである」(「はじめに」の一節)。

 本書を拝読して、タイトルに端的に示された著者の願ひは、そのまま現在の日本の根本的課題であると痛感させられた。中韓の不当な干渉に跪いて閣僚が靖国神社参拝を手控へるのも、「自虐史観」の迷妄に取り込まれてゐるからである。

 過去を正しく見据ゑることで、「これからの日本の進むべき道」が見えてくるとする著者の憂国慨世の熱情が各頁に横溢してゐる。それは著者自らが体験された「大東亜戦争の真実」を何としても若き世代に広く知って欲しいとの強烈な思ひである。「大東亜戦争の真実」を知ることが英霊に応へる道であり、同時に「誇り高き日本へ」の方途であると、抑制された筆致で諄々と説かれてゐる。

 巻頭に「宣戦の詔書」ほかの基本文献が掲げられ、次いで本論が85項目もの「小節」に分られて論述されてゐて理解を助けてくれる。さらに、巻末には「自虐史観からの脱却」(日本の誇り復活)に益する書籍、「日本人が決して忘れてならない場所」(是非行って欲しい所)などが列記されてをり、ここにも若き読者への限りない配慮と愛情が感じられる好著である。
(山内健生)

ページトップ  

   招聘講師   作家・慶大講師 竹田恒泰先生

日時 8月16日(木)〜19日(日)

場所 国立阿蘇青少年交流の家  (熊本県阿蘇市)
    学生2万2千円 社会人3万7千円

次代の転機の中で日本はどうあるべきか。
先人はどう生きてきたか。私たちはどう生きるべきか。

昨夏の江田島合宿教室の記録 『日本への回帰』第47集
歴史に学ぶ「公」と「私」の関係 東大名誉教授 小堀桂一郎
古事記- 仁徳天皇の巻-  昭和音大名誉教授 國武忠彦
その他、諸講義・体験発表を収載 価900円 送料210円

 

編集後記

 民主党政権の「子ども・子育て新システム」に、全体主義の恐怖を描いたG・オーウェルの『1984年』が脳裡に浮んだと言へば大袈裟か。「子ども家庭省」創設、「子ども・子育て担当大臣」常置、「幼保一体化の総合こども園」設置…。縦割り行政の弊害を改め子育て家庭を社会全体で支援する云々の理屈が付いてはゐるが、そこに偏頗な社会主義イデオロギー指向の陥穽はないのか。政権の外交無策も深刻だが、旧社会党書記局員が絡む内政政策も要注意だ。
(山内)

ページトップ