国民同胞巻頭言

第608号

執筆者 題名
北濱 道 心を開いて語り合ふ「楽しさ、真実さ」
- 今夏の阿蘇「合宿教室」で大いに語り合ひたい -
山内 健生 チベットの現状と「僧侶の焼身自殺」の真意
- 中国の横やりで会場が変る「日本の現実」 -
小柳 左門 大和言葉でつづられた真心のほとばしり
- 寶邉正久先生歌集『この道』のご紹介 -
志賀 建一郎 “日教組勢力と闘った福岡の教員達の記録”
- 國武忠彦氏による小冊子の刊行 -

 昭和31年、「合宿教室」を始められた先生方は、既に学生の頃(昭和15年)、信州菅平高原で9泊10日に及ぶ合宿を自ら企画運営されてゐた。その折の記録映画「文化の戦士」を学生時代(今から30年近く前になるが)に観て強く印象に残り、今でもはっきり目に浮ぶシーンがある。

 それは、学生達5、6名づつが草原で車座になり、爽やかな風を頬に受けつつ語り合ふ光景である。字幕には「フリートーキング」と出てゐた。当時の学生が考へ悩んでゐた、支那事変の行方、大学の学問はどうあるべきか、そして自らはどうあるべきか、等々を真剣に語り合ってゐる場面であった。

 やがて画面では、字幕を伴って、「はなそのの藤のうら葉のうらとけてかたらふまとゐたのしくもあるか」といふ幕末の三条実美公の歌が二度朗誦された。私には、この和歌の初めの二句までで、「淡い水色の藤の花があまた垂れ下がる美しい情景」が想ひ浮ぶとともに、「藤の裏葉」がそのまま三句目の「うらとけて」(「うら」は心の意味)を導き、「語らふ円居楽しくもあるか」へと繋って、「友達同士心が溶けるやうに通ひ合ひ語り合ふこの車座は何と楽しいことか」との歓びの絶唱となってゐるやうに感じられたのであった。

 さて今夏で57回目を数へる「合宿教室」に5回御出講になった文芸評論家の小林秀雄氏は、昭和53年夏の最後の御講義において次の言葉を残された。

  「信じ合ってゐる人たちが、談笑 し、議論する。自分の心を本当にさらけ出して会話をする、その楽しさ真実さ。その中に本当の知恵が行き交ふ、これは誰もよく感知してゐる事だ。」

 「自分の心を本当にさらけ出して会話をする」ことができれば、どんなにか楽しいことだらう。しかしこのことは何と勇気の要る難しいことか、と思ふのは私だけだらうか。

 私は小さいころから今に至るまで口下手で内気である。それではいけないと高校時代に『話ができるやうになる本』を読んでアナウンサーの発声練習の真似事をしたり、大学入学当初は、自治会、生協、体育会、輪読会、といろいろな集りに首を突っ込み、自分を変へようと試みた。輪読会で初めて読んだのが、先の小林氏の講演記録だった(『日本への回帰』第14集所収)。当初自分から発言することは殆どできなかったが、輪読会を重ねるうちに、言葉少なだが少しづつまとまった話ができるやうになっていった。

 会社に入ってからは、就業時間イコール給料なので、誰かに問はれれば何か答へねばならず、有効な答への用意がなければ、「いつまでに回答します」と言へと迫られ、その意味で発言の数は強制的飛躍的に増えて、一人前の社会人とは発言を(それも有効な)、自らに課する存在であると知った。また職種が製造業の技術者だったので、引っ込み思案で優柔不断の私も、結論を出して先づ物を作る必要から、失敗を恐れない(勿論何も考へずに事を進めるのではなく、考へられる全ての可能性を考へて結論を出すのだが)挑戦性も身に付いた。私は会社での「ものづくり」を通して、「創意工夫」「熟慮断行」といふ言葉の中身を知った。

 今から思ふと、今日曲りなりにも少しは纏まったことを話し、このやうな一文を書くに至り得たのは、短歌創作のお蔭であり、自分の心を見つめて言葉を探すといふことを、30年近く先輩、同輩に励まされながら続けて来たからだと思ふ。

 先の小林氏の言葉に戻ると、「自分の心を本当にさらけ出す」のは、誰かに伝へずにはをられない強い感動を覚えた時や、強い疑問を持った時であり、その時は自然とさらけ出すことが出来ることを、私は体験した。昨夏の合宿教室で、心を開いて語り合ふ「楽しさ、真実さ」を感得された方は、同感されるのではあるまいか。

 今夏も「合宿教室」が阿蘇で開催される。国内外の諸問題を心を開いて大いに語り合ひたいものである。

((株)アルバック)

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 2月の末に国文研の事務所へ届いたファックスで、「チベットでいま何が起きているか」と題する横浜桐蔭大学教授、ペマ・ギャルポ先生(「チベット自由人権日本百人委員会」代表幹事)の講演があることを知り、案内に従って、3月6日(火)夜、会場に赴いた。ペマ先生は平成21年8月の合宿教室(厚木)にもお出でいただいてゐるし、40年前の合宿教室(阿蘇)には亜細亜大学の学生として参加されてもゐる。ファックスには「緊急集会! チベットでいま何が起きているか-チベットで行われている殺戮の現状と僧侶の焼身自殺の真意-」とあり、昨秋のニュースで尼僧の焼身自殺が伝へられてゐたこともあり、チベットの苦境が気になってゐたからである。

 ライ・ラマ法王がチベットを脱出されたのは、私が中学二年の春休みの頃だったと記憶する。中国空軍の偵察機が法王の一行を探せども「今日も見つからなかった」「今日も発見できなかった」といふ記事が何日か続き、数日後、無事インドに逃れたとの紙面に、ほっとしたことを覚えてゐる。年表で確かめたら中国共産党政権の圧政からラサで暴動が発生したのは昭和34年(1959)3月10日だったから、法王のインド亡命は、やはり私の中学二年の春休みの時期だった。あれから既に53年の年月が経つ。毎年「3月10日」はチベットの人達にとって大きな意味のある日となってゐる。

 本紙でも平成20年6月号と7月号に「チベット・ホロコースト50年」と- 題する布瀬雅義会員の文章(上)- アデの悲しみ- 、(下)- ダライ・ラマ法王の祈り- を掲載してゐるが、チベットの内情は年々、悪化し深刻化してゐるやうだ。

     外圧で予定の会場が変更に

 案内のファックスに「会場 衆議院第一議員会館第一会議室」と明記されてゐたので議員会館に向ったわけだが、玄関で斯く斯くの会合で来たと守衛に尋ねると、「あちらの方に聞いてください」と指をさされた。をかしいなあと思って振り返ると男性が近づいてきて、「会場が変更になりました」と案内図を手渡してくれた。徒歩五0六分離れた変更先に急ぐとまだ開会時間の前だったが、四十人ほどの人達が集まってゐた(閉会時には七十余人になってゐた)。まもなくして司会者(女性)とペマ先生から、会場変更の理由が中国大使館筋の横やりだったことが明かにされた。私の推測だが議員会館会議室の利用を了承し手続きをした国会議員の「腰が引けた」らしい。

 国会議事堂の裏手に建つ衆参両院の議員会館は衆参議長の管理下ある施設であって、日本で最も公的な場所の一つと言っていい。その会議室で、(「3月10日」に近いこの時期に)「チベットの現状を語る“中国批判”は許さない」といふことなのだらう。ペマ先生は「私たちの小さな会合でも中国大使館が気にしてゐることが分っただけでも意味がある」と苦笑を浮べてをられたが、たかが一講演会の会場変更ではないかと看過してはならない。たぶん似たやうなケースは他にもあるはずだが、外国の圧力で日本国内の合法的な会場使用が妨げられたのである。日本国家が不当な外圧に屈したのである。大袈裟な言ひ方と言ふなかれ!

 一昨年九月、尖閣諸島沖で領海侵犯のうへ巡視船への体当りで逮捕した中国漁船の船長を、「邦人四人の身柄拘束」と「レアアースの禁輸」で脅されると、忽ち政府は法を曲げて釈放したが、この事例と事の本質は少しも変ってゐない。

     自由なきチベットと同じだ

 議員会館会議室は、国会議員だけでなく、議員が部外者と一緒に開く諸会合でも使用されてゐる。私が30数年前、非日教組系教職員組合の役員をしてゐた頃、何度も会議室で集会を持ったことがある。その後も、12年ほど前になるが、永住外国人への地方参政権付与法案が通過するのではないかと危惧された折、議員会館会議室で開かれた緊急集会に参加したこともある(蛇足ながら記すると、当時は自民・公明の連立政権下で、政権合意の中に参政権付与が明記されてゐた。自民党以外の各党は付与賛成であり、今でこそ自民党は反対の旗幟を鮮明にしたやうだが、当時は党内に付与派の議員をかなり抱へてゐた[今も抱へてゐる?]。現在の民主党政権下の付与の動き以上に危なかった。集会には大勢の人が詰めかけ、あらかじめ準備されてゐた部屋では収まり切らず、急遽さらに二つの会議室が用意され、付与反対の議員諸氏が各部屋を廻って、何としても通してはならないと熱弁を振るったことを覚えてゐる)。

 要するに、議員会館の会議室では、いろいろな立場の者が(議員が手続きすれば「朝鮮総連」でさへ)自らの立場を訴へる場として利用されて来たし利用されてゐる。その同じ場所での会合が所定の手順を踏んでゐるにも拘らず開けなくなったのだ。「言論の自由」が保障されてゐる日本で、自分の意見を表明する場所が外圧で奪はれたのである。議員会館の利用が叶はなくとも別の会場で「チベットの現状を語る自由があるではないか」、とはならないのである。

 準備した会場の使用が外国の横車で不可能になったのだから、利用予定者の権利は外圧によって侵害されたのであり、その権利を日本国家が守れない不甲斐ない現実は、中国に自由を奪はれ呻吟してゐるチベットと(ウイグルやモンゴルとも)質的に同じではないかと思ふと、情けない限りであった。

 察するところ、手続きをした議員の部屋に、日頃親しくしてゐる同僚議員や所属政党の役員などから「考へ直したらどうか」といった電話が入るらしい。大使館筋の意をうけて動く人間が何段階かあって、最後は当該議員に電話が行くやうになってゐるやうだ。めぼしい議員個々の人間関係図をつくるのも大使館員の仕事だと聞いたことがある。今回もさうした人脈が陰に陽に使はれたことだらう。本当に情けない。人脈図づくりには外務省のチャイナ・スクールやその周辺の人物が協力したことだらう。

     「民族名を記入する欄が消えた」

 案内のファックスには次のやうに記されてゐた。

  「昨年3月、四川省のチベット族自治州で僧侶が焼身自殺をはかりました。中国の度重なる宗教への弾圧に耐えかねての抗議の自殺です。それから今月まで23人、尼僧や若い僧侶もふくめて焼身自殺が後をたちません。1月以降の1ヵ月半で焼身は11人とエスカレート、抗議は止みません。これに対して中国当局は抗議活動に発砲したり、数百人もの身柄を拘束したりと強硬姿勢で弾圧を増しています。これにより死者も多数出ています」

 ペマ先生によると、チベットでは5名以上集まることが禁じられてゐるため、焼身といふ単独の抗議行動しかできないとのこと。焼身自殺者は26人になったといふ。またダライ・ラマ法王がノーベル平和賞を受けてゐることを逆利用して、「平和的行為以外は駄目」とも中国側は言ってゐるといふ。最近チベット自治区の某県の共産党組織でチベット人書記が誕生してゐるが、中国共産党政権の自信の現れか、批判をかはすための対外宣伝か。さらにこれまで身分証明書に民族名を記入する欄があったが、それが無くなってゐる。「中華民族」の一員であるといふことを徹底したいのだらろう…。

 「利他の精神による菩薩的行為」

 ペマ先生のお話に続いて、在日チベット人ロサン・イシ氏が、なぜ僧侶が抗議の焼身自殺を図らねばならないのかについて、その理由を列挙して故国の惨状を語った。

@ あらゆる人間は自分の行動、移動する自由を尊ぶが、チベットでは身・口・意(行動・言論・思想)の自由が奪はれてゐる。

A チベットの内外に住むチベット人が一緒に暮せるやうになること、法王がチベットにお戻りになることを北京は拒否してゐる。

B 世界の各国、各民族は風習・歴史・宗教- 自分たちの価値観- を有してゐるが、チベットでは習慣の自由がすべて奪はれ、伝統に基づく行動が禁止されてゐる。

C 遅れてチベットに入ってきた中国人(漢人)が優遇され、本来のチベット人は差別され偏見にさらされ見下されてゐる。

D 求道者であり指導者である法王を批判し、神聖なる法王のお姿を傷つけることをチベット人に強要してゐる。

E チベット仏教の僧尼が強制的に結婚させられたり、僧院内でも活動が制限され妨害されてゐる。

F チベットの美しい環境を中国人が破壊し、汚染をすすめてゐる。

G チベットを訪ねる外国人には、「豊かなチベット」を見せたがるが、実際は監視され恐怖の中でチベット人は暮してゐる。

H 外国人の前で、チベット人は幸せであるかの如き演技をさせられてゐる。

I 宗教を重んじるチベット人を捕まへて牢に入れ、歴史を歪曲してチベットそのものの存在を消さうとしてゐる。

 右の10項は私の聞書きによるが、-ロサン氏が質問に答へて語った「チベット仏教では自殺を良しとはしないが、焼身は自らの苦行から免れるためではなく、チベット仏教を守るための利他の精神による菩薩的行為であって、その動機を考へて欲しい」との言葉は、我が胸に強く響いた。

※チベット自由人権日本百人委員会
電話03(3445)9005   tibet100committee@gmail.com

 5月中旬、中国の程永華駐日大使は、都内で開催された亡命ウイグル人による「世界ウイグル会議」第四回代表大会に出席した国会議員百余名に対し、「…日本自身の安全にも害がある」云々の文書を送付してゐた。議員諸氏を「脅迫」して、今後の言動に箍をはめようとするのか。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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 本会副会長である寶邉正久先生の歌集『この道』がこのたび上梓された。格調高い先生の歌に後進の私たちは深い感銘を受けてきただけに、それが一つの歌集として上梓されたことを心から有難く思ふ。拙いながらその感想を述べる僭越をお許しいただきたい。

 『この道』には、昭和五十年以後現在に至るまでの先生のお歌千十二首が載せてある。そのほとんどは連作短歌であり、先生のあふれるやうな思ひが、やさしくも雄々しい大和言葉に込められてゐる。様々のことが詠まれてゐるのだが、戦前戦後を貫く先生の人生そのものが時には荒海をわたるごとく、時には凪いだ海に天空を仰ぐごとく、全篇にわたって荘重な調べが響く。ことに先生がどれほど祖国とその自然を愛し、友を大切にしてこられたか。歌集の「あとがき」に先生はかう記してをられる。「いま私の半生の歌を読み返してみると、友に返す歌が何と多いことか。友との交流、友の恩。我が人生、『この道』はすべてそこからもらってゐる」と。

     心友との出会ひと終戦

 先生は大正十一年、山口県下関市でお生れになり、数へ年で九十一歳になられる。「あとがき」に「幼少年期に毎日見た風景は汽船、帆船の往来する関門海峡と対岸九州の連山だった」とあるが、先生の多くの歌の背景には海がある。海は先生にとって心の故郷なのであらう。続けて「あとがき」を引用させていただく。「長じて山口高等学校に学び、折しも支那事変は対米英戦争に拡大し時局重大の時である。縁を得て日本学生協会(田所廣泰、小田村寅二郎諸先輩達)の指導の下に、三井甲之、黒上正一郎両先生の著書に導かれつつ、古典に触れ萬葉集に接することができた。山口の同宿で学校は違ふが(山口高商の)加藤敏治、一條浩通、同窓山口高校の松吉正資諸兄らと送った一年半は忘れられるものではない。佐賀、熊本にも同信共鳴、導きを受けた貴重な友人がゐた。昭和十八年十二月東京大学に在学中応召して海軍に入る。その同じ海兵団でのちに航空隊に入って特攻戦死する松吉正資、戦後九州油山で自刃した寺尾博之と三人で撮った二等水兵の写真はその時の形見である。私自身は咬竜(特殊潜航艇)艇長として出撃を待ちつつ敗戦を迎へ復員帰郷したが、市街一円被爆して家族は同市内長府町に移転してゐた。長兄病死後ひとり奮闘する父を扶けて私は家業(石炭鉱業)挽回に奔走した」とある。ただならぬ時代をひとすぢに生きてこられたご体験が、先生の歌の源泉となって私たちの心に潤ひと底つ力を与へるのである。

     亡き友を思ふ歌

 先生が山口の寮生活を共にされたかけがへのない友人のうち、一條さん、松吉さんのお二人が戦に命を捧げて亡くなられた。歌集『この道』は、松吉さんの故郷、瀬戸内海大島を訪ねて墓参されたところから始まる。その連作の中の歌。

   みかん山のだんだん畑をたづねゆき友が家訪ひし三十年前に
   海の辺のしづけき寺のみ墓辺にまゐり来りぬ妻子と共に
   身をくだきみ国守りしなき友がひた祈りたる忘れざりけり

 松吉さんが出征を前に故郷を詠まれた歌、「海かこむ山のふもとの蜜柑畑みかん熟れたり遠目にしるく」に和すやうに、先生の歌は遠き日の友の面影を慕ふこころに満ちてゐる。悲しみの中にも、蜜柑を育む島の春の陽ざしが感じられる。

 松吉さんは昭和十八年学徒動員、二十年五月、特攻隊員として鹿児島県指宿を発して沖縄に向かふ途中、飛行機が故障着水、海上にて爆死された。時に数へ年二十三歳。出撃前夜、皆が騒ぐなか松吉さんはひとりベッドに仰臥し、静かに天井を凝視されてゐたといふ。出撃を前に、「うつそみはよし砕くともはらからのなさけ忘れじ常世ゆくまで」と歌を遺された。寶邊先生は松吉さんの思ひ出を幾たびも歌にされたが、平成二十三年、先生九十歳の折、遠く指宿海軍航空隊基地跡に立たれて、かく詠まれた。

   六十あまり六年むかしの春未明君は発ちけりこの海の辺を
   開聞よさらばと発ちし田良浜を目のあたり見つ暮るる夕に
   一念をこめて発ちけむ出撃の爆音消えし空はるかなり
   小松つづく基地跡にして石文に松吉正資のみ名しるく見ゆ
   うつそみはよし砕くとも忘れじと歌遺しけりますらをわがせ

 「開聞」とは九州南端の山、薩摩富士とも呼ばれ、南海に飛び立つ隊員が最後に見た山である。「わがせ」とは我が兄弟よ、の意。兄弟とも慕った友の最期を想ふ絶唱である。

 一條浩通さんは大正8年、盛岡の生れ。昭和21年1月、迫撃砲小隊長としてルソン島で米軍の砲撃直弾を受け、壮烈な戦死を遂げられた。一條さんを偲ぶ長大な一連の歌より。

   亡びざる日本を祈りて身を捨てし君を忘れめや年はふるとも
   ふるさとの厚き冬着をかぶりては書よみたりし君にしありけり

 幾多の友人が、その悲しき命を捧げつくした戦に、日本は敗れた。先生の鎮魂の歌の数々は惻々として胸に迫る。

 山口での寮生活を寶邊先生とともにされた加藤敏治さんは、多くの後輩たちに慕はれてゐた。戦後の混迷を迎へた時代にあって国民文化研究会の発足発展に尽力され、熊本県八代市の助役を務められたが、肺疾患のために平成元年に亡くなった。病み臥せる加藤さんを思ふ数々の連作、励ましの甲斐なくついに亡くなった加藤さんに寄せる先生の歌は、切々として胸を打つ。

   いかばかりかなしき病にありけむをなすすべしらずわれはありけり
   亡き友をするどくよびしことありきと聞けば涙のとどめかねつも
   球磨川の水面朝日にかがやきて流れゆくかも君在るごとく

 91歳をお迎へになった先生を残して、近年多くの先輩友人方が先立たれた。そのお一人お一人を思ふ多くの歌が本書に掲載されてゐるが、その中から一部のみ紹介させていただく。

 東京帝大の先輩、記紀万葉をはじめとした敷島の道を導かれ、ことに昭和天皇の御製研究の名著を残された夜久正雄先生を、寶邉先生は懐かしく慕ってをられた。そのご逝去を悼む歌より。

   慈しみのまなこの光偲びてはなつかしきかな遠き日も今も

また

   若き日のみすがたみことばわがうちにありて生くべし老いらくわれは
   古事記朗誦聞くがうれしさふることぶみのいのちのひびき大人のその声

 関門海峡を渡った若松の地に住まはれた山田輝彦先生は、戦前戦後を通じて寶邉先生と歩みをともにされた友人であった。寶邊先生が月刊紙『国民同胞』の編集長として昭和36年より平成11年まで454号にわたってご努力を傾けてをられる時、多くの論考を寄せ、短歌創作を通して若者を言の葉の道に導かれた山田先生も、平成21年に亡くなられた。寶邉先生の追悼の歌は美しい調べを奏でる。

   西の方夕の空に向きて歩むみまかりましし友思ひつつ
   わがやまとのことばのいのちぞ神なりけるほかはいらぬと君いひたりき
   白梅の咲きのさかりの小さき道ゆきつつ思ふたふとき友を

 出雲の国の青砥宏一先生は、悪友ともよんでいいほどに、何でも言ひあへるまことの友であった。青砥先生は「短歌通信」を昭和47年より全国に展開され、その流れは「澤部通信」(編集人、澤部壽孫さん)そして「短歌通信」(同、折田豊生さん)として今に受け継がれてゐる。その青砥先生が亡くなられ、ご霊前に捧げられた歌。

   二年はたちまち過ぎつことごとに君を思へば泣くべかりける
   すさのをの「こやつよ」と呼び給ひしを深くもさとる君こひやまず
   木枯らしの吹きのまにまにくだちゆくよるはしみじみ君思はるる

 荘重な調べをたたへ涙しつつ詠まれたこれら亡き友を思ふ歌は、『この道』の白眉であり、まさに「ますらをの歌」と呼んでいいと思ふ。

     友を恋ふる歌

 先生は多くの友人、知人を思ひ歌に詠まれたが、中でも青森の長内俊平先生との歌便りのやりとりは本歌集の大部をなし、その交りは水魚のごとく、「友よと呼べば友は来たりぬ」といふ詞のままに共に生きる友情の世界が開かれる。 昭和51年「在函館、長内兄へ」の歌。

   わが友のことば光りてわがむねによみがへりくる街ゆくときも
   友のことば思ひうかべてやちまたにありつつうるむわが胸も目も
   遠くより友がいそそぐあたたかきつよき光を感じをりわれは

 「やちまた」は道がいくつにも分れ迷ふところ。何か先生ご自身に苦境があったのか、あたたかい友の言葉に強い光を感じ、涙されたのであらう。まことに心を打つ歌である。

       長内俊平兄へ(平成17年)
   二メートルの雪踏み分けて買物に行くとふ友の歌舞ひ来る
   わが里に梅盛れども北の友や詩を吟じつつ雪道をゆく
   雪にこもり友にふみ書く日々ならむ壮りの時も老いにし今も
   風花の時に舞へども花の枝に固きつぼみのしるき朝々

同じ年にまたこんな歌もある。

   土砂降りの夕雨の中郵便受けより濡れつつとりし君からのふみ
   わがふみの届きたるとき青森は音たてて雨降りしと聞くも
   畑つものうれしうれしといふごとく君がきく雨しのぶもたのし

 まるで雨にはしゃぐ子供のごとく、読むこちらまでが楽しくなる。「幼なごころをいつとなく忘れ」てしまった私たちに、こんなに歌はいいよ、友は素晴らしいよ、と素直な心に帰るやうな感動がある。ご一緒に御陵を詣でたり、亡き友のこと、孫のことを語りあったり、花をめでては伝へ、酒がうまいと言ってよろこび、まさにつきることのない歌の連動である。最後に平成21年の歌。

   花一つ残らず若葉となりにけり雲寒き日のわが山桜
   君が窓のくれなゐ桜うつくしく散りて緑の草もゆらむか
   友のうた書き写しつつわが生も果てにぞ来しとつくづく思ふ
   みおやのことば友のことばに支へられ生きて生き継ぐいのちなるらむ

 ともに偲びつつ眺める桜、友の歌に生かされる命、しみじみと胸に迫るのを覚える。

     天皇様を慕ふ歌

 戦後、呆然と生きる国民に光をなげかけて下さったのは先帝陛下、昭和天皇であった。寶邉先生は生涯を通じて、そのまことを陛下に捧げてこられたと思ふ。『この道』には、陛下を慕ふ先生の切なる真情が多く詠まれてゐる。

  「御在位50年の天長節に」よりすめくにの危ふき時はひとりして難に堪へ給ひし大君たふと
五十年のみいつくしみのおん心したひまつりてみ民らは生く
いちはつの花伏しぬれてけふの日を迎へまつるも心しみみに

 昭和天皇がみ病に伏せられた時、先生の心は悲しみに包まれ、その快癒を祈られた。昭和63年11月の歌。

  山をゆけば紅きもみぢの見えそめてみ空ゆたかに秋たけにけり
もみぢ葉の映えてあかるき大空にみなぎる光をせつに思ひき
民草に秋の光はいそそげどわが大君のみやまひあつし
みやまひのいえませとこそこの空の光の下に民は生くるに
みやまひに堪へて生きます大君の治らすみくにの秋深みゆく

 何といふ広々として深遠な思ひの連作であらう。これほどまでに美しく悲しい大和言葉はさうあるものではない。しかし全国民祈りの甲斐もなく、翌年の1月7日、先帝陛下は崩御された。その日の歌より。

  大君は御危篤にありと聞きにつつ涙あふれ来テレビの前にて
大君のよろづ代呼ばひて失せにけるあまたわが友天に泣くらむ
わが大君神あがりますと聞く時し風吹き荒れつ雨もまじりて
涙ぬぐひて畏みまつる新しきすめらみことの御代継ぎますを
かぎりなきみいつくしみぞわが国のいのちなるらむをろがみまつる

 世は平成を迎へたが、天皇様の大御心は常に国民の上に注がれ、み光は絶へせぬことを、寶邊先生は詠まれてゐる。

     み親を思ふ歌

 先生の母君は、一歳にも満たぬ先生を残して亡くなられた。先生83歳の誕生日の折に、母君を思ふ歌がある。

   こまやかにわれをば知らす母とこそこのころ沁みて思はるるなり
   あを産みて疾くみまかりし母なれどかなしくながく添ひたまふなり

 もの心もつかない前に亡くなられたであらうに、ずっと見守ってこられた母君を慕ふ、恩愛あふるる歌である。

 父君は、奥様やお子様を亡くしながらも事業にその一生を捧げられた。先生はその父君を支へ、戦後の苦難の時期、労苦をともにされた。父君94歳のご誕生日の折の歌。

   ガラス窓にあたたかく射せ冬の日よ大き眼鏡にて新聞を読む父に

また、ご逝去ののち父君を偲ぶ歌。

   父といふ字を書きゆけばわが父のたまもすがたもたち来この字に

「父」といふ字に寄せて、そのはるかなる思ひがあたたかく私たちの心を潤す。

     日々の楽しみ

 先生は日本の歌がお好きである。飲めば歌ひ、語れば歌ひ、お一人のときにも静かに歌はれる。民謡「十日町小唄」はかつて亡き友らとも歌はれた思ひ出の唄である。

   かつがつに忘れずありぬ共にうたひし友の多くは亡きいまにして
   双手打ち友とうたひし十日町越の小唄のなつかしきかな
   十日町小唄歌ひて踊りたる笑みのかがやき今も目にあり(加藤敏治兄)

 先生はまたスポーツ観戦がお好きで、必死にがんばる若者に拍手を送り、涙される。これまた多くの中から、地元出身力士の豊真将の歌。

   立ち上がり押されてしぞき土俵際はづに押し出で押し勝ちにけり
   ざんばらの髪打ち振りてゐや正しく花道帰る豊真将なり

 「しぞき」は後ろに退く、「ゐや」は礼儀正しい様を示す。相撲道をますぐに進む力士を称へる歌である。

     自然を詠む

 本歌集には、先生が日常に目にされた自然の歌が多く載せられてゐる。しかもどのやうな連作にも、必ずと言っていいほどにその時の風景を詠みこまれてゐる。海の歌、山の歌、そして花や草木をめでる歌。細やかに、慈しみをこめて見つめられる。自然と人生そのままが、ここに命を育まれるのである。忘れがたいたくさんの歌の中から、これも長内先生への便りより。

   凪ぎわたる海は朝日にかがやきて岸に寄りくる波のともしさ
   足立山のふもとめぐりて大瀬戸に入りくる船かげあきらかに見ゆ
   西の方雲は湧けどもわが瀬戸の上の中空澄みて青しも
   亡き友のみたましづもるこの國にわかれ住みつつ秋たけにけり

 本歌集最後の連作、「旧暦八月十五日」より。

   漲りて波立つ潮関門の橋の真下を流れゆくはや
   満月の大潮の日ぞ夕まけて東に走る潮白波
   国東の沖より潮は大洋に入らむとすらむこの夜を掛けて
   わが「大和」水道南下薩摩沖に戦ひ死にきこの海の果て
   世々を経て月照りわたる共に見し友やいづこと仰ぐこの月

 何と雄大な歌であることか。早い潮の流れから、先生の心は見えざる海へ、歴史の海へさかのぼり、やがて見上げて仰ぐ月に失せにし友を偲ばれる。この壮大な連作をもって『この道』は閉ぢられる。

     進めこの道

 以上、いたづらに拙い感想を述べてしまったが、先生の歌集をぜひ手に取り、声に出して読んでいただきたい。さうすれば万葉集を読むごとく、素直にして大らかな言葉の調べを感じるであらう。そして歌の詞のほとんどが、大和言葉でつづられてゐることに気づくであらう。豊かなその響きは先生の真心のほとばしりであり、それは日本民族の真情と響きあふ。歌集『この道』ご紹介の筆を擱くに当り、最後に連作、行進曲「進めこの道」より。

   わがいのち終りし時もはるかなるいのちの調べ打つかこの歌
   友逝けば小さくやさしくゆっくりと心に歌ひき「進めこの道」
   九十近くを生きて老い痴れる身もなほ友と歌ひたき歌

          ○

 なは、本歌集の上梓にあたっては、國武忠彦さんを始め諸先輩の大きなご努力があったことを書き留め、感謝の意を表したい。(五月七日)

(国立病院機構 都城病院長)

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 この度、本会会員の國武忠彦氏によって「新高教組発足前の福岡県の教育情勢『日本にふさわしい教育』を求めて 福岡県教職員連盟のあゆみ 」と題した小冊子が刊行された。

 書名にある「新高教組」とは昭和47年10月に発足した日教組と戦ふ教職員団体で、正式名称は「福岡県高等学校新教職員組合」、改称して現在は「福岡教育連盟」。また副題の「福岡県教職員連盟」とは、これこそ昭和33年に小柳陽太郎先生や丸田淳先生らが小中の先生と共に設立した最初の組織の名である。

 私は昭和48年に教職に就き、前記「新高教組」に加入して青年部長や執行委員長を務めたが、かねてより「新高教組前史」ともいふべき昭和30、40年代について関心を持ってゐた。一昨年國武さんが30年代の小柳先生方の活動をまとめようとされてゐることをお聞きし、当時の福岡教育連盟執行委員長の副島賢三氏に紹介し、その成果が昨年発行の『福岡教育連盟(新高教組)創立四十周年記念誌』に収録され、この小冊子(抜刷)となった。

 第1頁には昭和33年の「福岡県教職員連盟結成記念」と題された27名の集合写真が載せられてゐて、最前列に小柳、丸田先生が写ってゐる。また、私の手元には、昭和45年7月の「大牟田市高等学校新教職員組合結成大会」の38名の集合写真があり、最前列には小林國男先生と丸田先生が来賓として座ってをられる。さらに昭和47年3月には「福岡県高等学校教職員会連合」が結成され、その会員名簿144名の中に小柳、小林、丸田先生のお名前がある。この会は前記の大牟田市の団体とその後結成の五地区の高校の教職員会が合同した団体である。つまり、昭和33年設立の「福岡県教職員連盟」はその後高校を中心に大きく伸びたのであった。

 この間、昭和42年4月の県知事選挙で、教育正常化を訴へた保守系の亀井知事への交代があり、亀井知事は県教育長に文部省から吉久勝美氏を招いて行政面からの大改革に着手された。また、これに呼応して日教組傘下の福岡県高教組内部に、永田茂樹氏を中心に正常化を目指す「福岡県高教組 組合正常化促進連合会」が設立され、激しい高教組本部批判を展開して組合を脱退し、前記の「教職員会連合」とが合併して昭和47年11月に永田氏を委員長として冒頭の新高教組の組織が設立された。以後右肩上がりの組織拡大が実現したが、僅か2百余名の組織が2千名を超えるまでに成長し、日教組系組織を圧倒し得た原動力は果たして何だったのか。

 一つには、小柳先生を初めとする先生方の昭和30年代以降の動きが、教育思想面で継承され、「日本にふさわしい教育」を求める強い意欲が持続したことである。「すべての子どもをわが子として」といふ新組織の理念は、勤務条件や福利厚生の充実を政治に求める組合運動のセンスとは随分異なっている。いま一つの理由は、新組織が組合、書記長、分会などの組合用語を使用して、つまり相手の土俵にあへて登って戦ったことではなからうか。このことは大学を出立ての若い先生方が、誤った日教組教育を正さうとの意欲を持ったとき、各校に我が国の歴史と伝統を重んじる戦ふ教師の組織があって、そこに加入する選択肢を正面から提示し得たといふことなのである。

(元福岡県立小郡高等学校長)

 - 編註・右の冊子を御希望の方は事務局まで、残部僅少 -

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 編集後記

 「尖閣」を誰が所有しようが国内事項で外からとやかく言はれる筋合ひは全くない。政府よ!、「尖閣」を有人化して漁業資源の活用に道を開け。

 寶邉正久先生のお歌集『この道』のご紹介文をご精読下さい。 (山内)

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