国民同胞巻頭言

第607号

執筆者 題名
柴田 悌輔 皇位の継承について
- 「戦後的価値観」から離れて思案せよ -
大岡 弘 女性宮家」の創設を許すな!
- 「男系による皇位継承」を守るために -
與島 誠央 父母の思ひ出
都城 小柳左門 4月13日付 稲津利比古事務局長宛メールから
学生春合宿感想文集ありがたうございました
春合宿詠草抄
國學院大学文学部4年 相澤 守 “四年間の合宿教室”
- 卒業に当たって思うこと -
藤村 孝信 酒蔵の中で考へること

 2月末、テレビの報道番組を見てゐて、ひどく嫌な気分になった。某政治評論家が、女性宮家創設に向けた政府の「皇室制度に関する有識者ヒヤリング」で意見表明後、記者団に囲まれ「男女同權だから」云々と語ってゐたからである。彼の発言は「世論」に迎合しようとする意図が見え透いてゐた。民主主義を基礎とする政治体制は、移ろひやすい世論に左右される宿命を持つ。だからこそ皇位の継承といふ、日本国にとって最も重大な歴史と伝統に関る事柄を、さうした世論で論じてはならないのだ。

 「男女同権の世ですから、女性宮家の創設は当然だと思ふ」

と笑みを浮かべながら語る言ひ廻しは、遠い昔によく耳にした記憶がある。彼も含めて私たちの世代が育ったのは、戦後も間もない頃であった。当時は「民主的」といふ言葉が、かなり権威を持ってゐた。何事も民主的に運営されなければならない、といった具合に使はれ、それなりに説得力があった。民主的である為には、「男女同権」でなければならない。そんな表現も良く聞いた。

 「開かれた皇室」といふ表現も、好意的に世に受け容れられてきた。戦後になってからは、皇室への崇敬の念は否定され、むしろ親愛の情を抱くことが奨励された。皇室の在り方も、「民主的」でなければいけないのである。例へば皇太子殿下、雅子妃殿下、愛子内親王お三方への、最近の国民の関心もその例に漏れない。これらの方々に、崇敬の念を抱く国民よりも、親愛の情を持つ国民の方が多いだらう。皇位継承の問題では、女系天皇を容認する勢力が、かうした親愛の情を上手に利用してゐる。

 近年、我欲に惹かれた「世論」が、「政権交代」を実現させた。交代した政権がまるで無能な為、日本は国力を低下させ続けてゐる。「政権交代」なら、時間を掛ければなんとか修正も効く。だが「皇位の継承」は全く次元を異にする。一旦間違へたら修正できない。「男女同権だから」云々の、薄っぺらで「民主的」な考へ方を、皇位の継承といふ重大事に持ち込んではならないのである。日本国家の存立に関る事柄を安直に取り扱って良い筈がない。

 6年前、発足した安倍晋三内閣は「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げた。今やそれを口にする人もゐない。実に簡単に忘れ去られてしまった。残念ながら「民主的であるべき」とする戦後の「思想」は、しぶとく生き続けてゐる。「皇室の道統はどうあるべきか」といふ議論に関する限り、戦後意図的に醸成された歴史軽視の価値観は、益々強固にしかも深く、国民に浸透してゐる。

 今上陛下のご成婚(昭和34年)以來、「開かれた皇室」といふ言葉が、広く国民の意識の底に定着した。「皇室を大切なものに思ふ」心と、皇室は「開かれた」存在であるべきといふ心が、奇妙に錯綜したままで、日本人の心に同居してしまった。興味本位に皇室の方々を覗き見る風潮は、「民主的であるべき」とする、戦後の価値観が生んだ鬼っ子といってもいい。皇太子妃殿下の体調を慮るあまり、皇族本来のご公務である宮中祭祀さへ簡略にすべきといふ議論まで起っては本末転倒である。戦後の「民主的価値観」を侮ってはならない。皇室に対する世俗的な親愛の情が、皇位の継承に關する議論を、妙に捻じ曲げてゐる。

 民主主義といふ政治の体制は、たとへ浅薄なものであらうとも、ある程度「世論」を、土台とせざるを得ない。だが「皇位の継承」は、「国の在り方」、つまりは「国体」に関る事柄である。現在の世論の底には、戦後の「民主的価値観」が育んだものが、しっかりと根づいてゐることを見極めなければならない。日本といふ国の歴史と伝統とは、125代続く皇統と密接に結びついてゐる。それが大東亜戦争に敗れた際にも、「保持し得た」国体である。その歴史的事実の意味を、私たちは改めて考へなければならない。

((株)柴田代表取締役)

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 政府は、皇族女子が当主の「女性宮家」の創設を検討してゐる。配偶者の存在を前提とした「女性宮家」が創設されれば、一代限りと言ってはゐても漸次改定されて、皇位がやがて女系に移る可能性が、極めて高くなる。もし皇統が女系に移れば、皇室は亡びるだらう。従って、宮内庁、内閣官房、内閣法制局の各関係者が、何故「女性宮家」の創設を考へるのか、不思議でならない。

     1.光輝ある万世一系の皇統

 小堀桂一郎氏が代表を務める「皇室典範問題研究会」は、「皇位の安定的継承をはかるための立法案」をこの度発表した(『正論』平成24年3月号)。その提言である「臨時特別措置法案」の立法化を進める際の方策の一環として、法案とは別に、「皇室典範改正に関する想定問答集」を作成してゐる。問答集には、「皇位が男系であるべきこと」について、次のやうに書かれてゐる。

  「男系による皇位継承は、初代神 武天皇以来、125代2千余年にわたってたび重なる皇位継承の危機を克服しつつ堅持されてきた。この継承形態を万世一系といい、わが国皇室のゆるぎなき伝統である。この伝統は、明治になって帝国憲法および皇室典範において成文化されたが、元来、建国以来の『不文の大法』に基くものである。

 したがって、男女いずれにせよ女系の方が皇位を継げば、万世一系の皇統はそこで断絶する。これは王朝の交替を意味し、力づくによるものではないにせよ、世界史に頻発する易姓革命と同じ結果をもたらす。

 建国以来、君主の血統が一系で連続しているという事実は世界に唯一の貴重な例であり、それゆえに日本の皇統は古くから諸外国の羨望の的であった。この光輝ある伝統を今日あえて変更すべき理由は全くない」。

     2.不必要な「女性宮家」

 「女性宮家」の創設は、我が国の根幹に関はる重大問題である。

 (1)今のままでは、悠仁親王殿下が御即位になられる頃には、他の宮家が皆無になってしまふ。少なくともその時までに、皇室の中にはこれまで通り、男系の男子当主の諸宮家が、悠仁親王殿下を取り囲む形で併立してゐなければならない。そのためには、「皇室典範問題研究会」が提案してゐるやうに、GHQ(連合国軍総司令部)の峻烈な経済的圧迫によって、昭和22年10月14日に、現行皇室典範の規定(第11条他)に則る形で皇籍離脱を余儀なくされた、「元皇族」11宮家の男系男子の御子孫方に、所定の手続きを経て皇族の身分を取得していただかなければならない。この方々は、皇族解体を企図したGHQの占領政策が無ければ、今なほ皇族であり得たはずの方々であるからである。

 ところが、このやうな方策を実現せずに、たとへ一代限りではあっても、「女性宮家」の創設を軽率に決めてしまへば、「元皇族の男系男子御子孫による新宮家の創設」といふ起死回生の根本策は、永久に葬り去られる。かつ、「女性宮家」に出生する女系子孫が、後の法改定によって、皇位の継承権を得るやうになる。その結果、男系血統は悠仁親王殿下の御一家のみとなり、皇統は、女系に移る可能性が極めて高くなる。従って、「女性宮家」創設策は、「皇統断絶」を心に受け容れられる者にしか決して口に出せない、正に「逆賊の方策」なのである。

 (2)明治の皇室典範は、皇位継承資格者を「男系の男子」に限定し、皇族男子を末代まで皇族とする「永世皇族制」を採用した。しかし、明治40年に皇室典範が増補され、その第1条に、勅旨又は情願に基づき「五世以下の王の臣籍降下」を許すことが謳はれた。大正9年には、臣籍降下の内規「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が定められ、五世以下の王のうち八世以内の長子孫(長男系統の子孫)を除くその他の王が、臣籍降下の対象になった。伏見宮系統については、附則により、故邦家親王の御子を五世王と見做す、としてゐる。この内規は、宮家の数の増大に伴ひ施行されたものである。

 この準則を挙げて、「戦後皇籍離脱をされた元皇族の御子孫方は、この準則に照らせば皇族の範囲には入らないことになるので、皇族の身分取得は、出来ないのではないか」と、疑問を呈する者がゐる。だが、この準則は現行皇室典範の施行前に失効してをり、元皇族方は、この準則ではなく現行皇室典範の条文に則り皇籍を離脱されたのであるから、今日、この準則を持ち出す必要は全くないのである。なほ、現行皇室典範は、「永世皇族制」を採用してゐる。

 (3)皇位の継承は、古来、「不文の大法」に従ひ行はれてきた。その「法」の一つは、歴史上に存在した女性天皇および宮家の女性当主(その代で絶家となった桂宮家第11代当主)は、全て男系であり、かつ、天皇や皇太子の未亡人か、あるいは、終生独身であられたことである。すなはち、御在位の期間とそれ以降は、配偶者を持たれなかった。また、皇親である内親王や女王が、親王や王以外の者、すなはち、臣籍にある者と婚姻された場合には、その者を決して皇親とはなされなかった。その結果、皇胤にあらざる男子が婚姻により皇族(皇親)になることは、歴史上一度もなかったのである。従って、皇族(皇親)の範囲内には、「皇胤」以外の「種」の保有者は皆無であった。その意味で、天皇と「皇族」から成る皇室は、聖域なのである。

 現行皇室典範の第12条の規定「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」も、この「不文の法」を踏襲してゐる。この古来の「法」を破ってまでして「女性宮家」を作る必要など全くない。皇族女子の方々が御結婚により皇籍を離れられても、「皇族」に準ずるお立場でご公務の一端を担はれることが出来るやうにすれば、それで済む話なのである。

     3.所功氏の考へ方

 所功氏は、「女性宮家」の創設を世に説き続けてきた。著書『皇位継承のあり方』(PHP新書、平成18年)の中で、以下に示す皇室典範改正試案を提示してゐる。

 「第一条 皇位は、皇統に属する皇族が、これを継承する。

 (中略)

 第十二条 皇族女子も、婚姻したとき宮家を立てる場合に限り、皇族の身分に留まることができる」。

 所氏が、試案提示の前提とした考へ方を、前掲の『皇位継承のあり方』から抄出し、以下に示す。

 

「@『皇統』は、旧皇室典範で『男系の男子』に限定されたが、皇統概念には女帝・女系も含みうる。今後もし女性天皇が即位され、その御子孫が皇位を継承されても、代々天皇の系譜を繋いでいくのだから、それによって皇統の変更とか断絶ということになるはずがない(207頁〜208頁)。

A根本的に重要なのは、『皇族』身分の範囲にある方々が、皇位継承の有資格者として自覚をもたれ、君徳の涵養に努められておられることであろう(94頁、209頁)」。

 所氏は、以上の2点を補強するために、2箇所で村尾次郎氏の文章を引用し、次のやうに述べてゐる。

 「旧憲法の第一条に明文化された『万世一系の天皇』というのも、村尾次郎博士の指摘されるとおり、男系か否かではなくて、『天 皇の位が必ず皇族の籍を有せられ る方によって継承され……皇族以外の他姓の者に皇位が移されたこ とは絶対にないという意味』に解される(94頁、208頁)」。

 この部分が、所氏の立論の出発点である。村尾次郎氏は、44年前の著書、『よみがえる日本の心 維新の靴音 』(日本教文社、昭和43年)で、この点について、次のやうに述べてゐる(129頁)。

 「皇統一系とは、天皇位が必ず『皇族』に籍を有せられる方によって継承されてきたこと、つまり言葉を変えていえば、皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことが絶対にないという意味であって、『父から子への相続関係』で貫かれてきたという意味ではありません」。

     4.村尾次郎氏の願ひ

 6年半前の平成17年の晩秋に、村尾氏が入院先の病室で口述し筆記された文章が、月刊誌『日本』(平成18年2月号)に載ってゐる。その中で、村尾氏はかう語ってゐる。

  皇位継承は、皇統に属する男系の男子による世襲が基本でありますから、極力これに添ふやうに現状を整へる必要があります。(中略)の世襲制度を末永く貫き通すため、私は同憂の人々とともに旧宮家の復興を切に請ひ願ふものであります。(中略)敗戦後60年、峯の彼方に遠ざかつたそのかみのことを想ふと、痛烈なくやしさが湧いてきます。いまの人びとはその時に行はれた戦勝者の驕慢と暴行を、どう受けとつてゐるのだらうか」。

 その時村尾氏が抱いてゐた願ひは、「皇室典範問題研究会」の立法案と同趣旨であった。所氏は、明らかに村尾氏の真意を取り違へたのである。「女性宮家」を創設すれば、たとへ一代限りではあっても、歴史上初めて、婚姻を通じて「皇族」の中に民間人男性、すなはち、「皇族以外の他姓の者」を引き込む結果になる。後に漸次法改定がなされ、いづれは、皇位が「皇族以外の他姓の者」に移ることになるのである。

 「男系継承」を守るために今後採るべき道は、以下の二点である。

 (1)前例のない「配偶者のゐる女性宮家」の創設を、断乎阻止すること。

 (2)現行皇室典範の下で皇族であられた元皇族の、男系男子御子孫による「新宮家」の創設を実現すること。

 皇室を亡ぼす「女性宮家」の創設を、決して許してはならない。

(元新潟工科大学教授)

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 平成10年、冬休みがあけて始業式の日、通勤する車のラヂオから「グリーングリーン」といふ曲が流れた。

  「ある日パパと二人で語り合ったさ この世に生きるよろこび そして悲しみのことを グリーングリーン 青空には小鳥がうたひグリーングリーン 丘の上には ララ緑が萌える その時パパが言ったさ 僕を胸に抱き 辛く悲しいときにも ラララ 泣くんぢゃないと グリーングリーン 青空にはそよ風ふいて グリーングリーン 丘の上には ララ緑がゆれる」

 聞きながら涙が止めどなくあふれてきた。その2時間後、鹿児島の兄から父が他界した連絡を受けた。虫の知らせ、といふものかも知れない。

 この時私は高校3年生の生徒達の担任をしてゐた。わがクラスの受験生達を置いて、福岡から鹿児島に行けるだらうか、と気にした。同僚達は、何をしてゐる、すぐにお父さんのところに行け、学校のことは自分達に任せろ、と言って即座に香典をまとめて手渡された。せき立てられるやうにして鹿児島に向かった。卒業式のために買った礼服は、父の葬儀で初めて着ることになった。

 父は大正10年、奄美大島に生まれた。家は貧しく、教科書は勿論、鉛筆さへも買へない。小学校が終ると山に薪を拾ひに行き、それを売って、少しばかり家計の足しにしてゐた。それでも成績は一番であったらしく、「父ちゃんは、頭のノートに書いてゐた」と誇らしげに話した。卒業後、旧制中学を受験したが失敗。宿泊するお金が無く、受験前日から夜通しで山道を歩き続け、入試のさなかに疲れのために寝てしまったらしい。

 不合格では村に帰れない、と奄美から逃げ出し、長崎の佐世保重工業で船大工を目指して働きだした。盆や正月もなく働いて当時の金で五円貯めて、奄美に仕送りをした。このお金で初めて父の実家には風呂が付いたらしい。そんな日々も、大東亜戦争に巻き込まれていく。ある日とてつもなく大きい船のエンジンを造らされた。しばらくして広島の呉で戦艦「大和」が完成したことから、自分達の造ったエンジンはそれであると知った。その後、召集令状が来て陸軍に志願。船大工ならば海軍ではないかと問はれたが、父は海軍では生き延びられさうにないと判断したらしい。

 部隊は満洲に展開した。極寒の中、野外演習では手袋を取って引き金を引く訓練が行はれた。十数へる内に、指はみるみる紫になったさうである。敵と向き合ふ緊迫感もさることながら、軍隊では古参兵による二等兵いびりが酷かったらしい。小学校しか出てゐない父は格好の標的で、たまらず憲兵に志願。高い競争率の中、大学生に混じって五番で合格。菊の紋章の入った恩賜の軍刀をいただいた。その後、南京に転戦。蒋介石軍との将兵交換があったらしく、人質と思はれるが、父は一時、敵軍に派遣されてゐた。そして、敗戦。部隊一同は机の上に銃を置き、わづかばかりのお酒と肴をつまみ、隊長が降りてきたら、皆で自決しようとしてゐた。しかし、二階から降りてきた隊長は、部隊に告げた。「皆の気持ちは分る、しかしここで死んではいけない。どうしても死ぬ気なら、故郷に帰り先祖の墓の前で死ね。この敗戦の責任は私が取る」。話し終へると、遺書を皆に託し、こめかみに拳銃を当てて自決された。父達は死ぬに死ねず、せめて隊長の左手の小指だけでも遺骨として持ち帰らうと、父の持ってゐた恩賜の軍刀で切り取り、その骨だけを胸に復員した。四国松山の方であったらしい。

 紙幅の関係で書けないが、私は小さい頃からこんな父の昔話を聞くのが好きだった。晩酌で酔った父は、幼い私を膝に乗せ、タバコをふかしながら様々な体験を話してくれた。酒の匂ひも、タバコの煙も抵抗はあったが、何より話すときの父の嬉しさうな様子が好きだった。酔ふとタバコが時折私の腕に落ちてきて、腕に火傷をしたものである。

 敗戦時の隊長さんの自刃は、確か中学2年の時に一度聞いたきりだが、忘れられない。戦後に父母が結婚し、私達兄弟が生まれてくることを思ふと、南京で父が果ててゐたら、私はこの世に誕生しなかったことになる。有り難く不思議なことである。

          ○

 今年、3月29日夜、母が他界した。数へ91歳であった。長らく施設で寝た切りであったので、覚悟は常々してゐた。大正11年生まれ、父より一つ下である。3月の初めに容態が悪いと知らせが入り、緊急に備へたが、中旬から落ち着いたため、28日に見舞ふことが出来た。何年ぶりだらう、母は目を開けて待ってゐてくれた。看護婦さんも、こんな夜の時間に目を開けてゐるのは珍しいと言ってゐた。手を握り、また来るねと頬をなでると母は目を閉ぢた。翌日福岡に戻ったが、その夜、鹿児島の兄から「今、息を引き取った。生きてゐる内にお前が見舞ってくれて良かった」との連絡が入った。静かに涙がこぼれた。

 翌日、家族で身支度をすませ、鹿児島に向かった。思へば、母は私との別れをすませ、私達に弔ひの準備の時間も与へて旅立ったことになる。悲しいが、見事な旅立ちであった。

 母も、父の村とは離れてゐたが、奄美で生れ育った。明るく勝ち気な性格であったらしい。小さい頃から霊に遭遇する体験を幾度もしてゐる。川で洗濯を手伝ってゐるとき、川上から青白い人魂が沢山押し寄せてくるので逃げた話がある。戦時中はお国のためと、大阪の挺身隊に飛び込んだこともある。戦後父と結婚。二人の子供を授かったあと、心身の状態がをかしくなった。お米と山奥から取ってきた水以外には何も口にしない日が3ヶ月も続いたのである。医者も手の施しようがない。そんな時、奄美では古くから神様を拝む人々がゐて、「この子(母のこと)は神様を拝むしかない」とのお告げがあった。しかし、父はそんな突飛な話を受け付けようとしない。

 父が反対してゐると、いよいよ母はのたうち回る。こんな事では話にならない、離縁する、と息巻く父を、親戚一同なだめすかし、いいぢゃないか拝んで気が済むのなら、二人も子どもがゐるのだから、といふと、父は、もし神様といふのが本当ならば、証拠を見せろ、と凄んだ。すると、御神酒の入ったコップを母が差し出した。見ると小さなコップの中で、父の亡くなった母が踊ってゐる。仰天して母に謝ると、いきなり胸ぐらを捕まれて背負ひ投げをされたさうである。「父ちゃんは、母ちゃんから一度だけ投げ飛ばされたことがある」。亭主関白で気性の荒かった父が、さも楽しさうに話すのだった。

 母はかうして天照大神様とお話しするやうになった。そして、数々の難病の人、寝た切りの人を立ち直らせ、他界した人の魂をも度々乗り移らせた。いはゆる霊媒師(巫女)である。

 後に知ったことだが、私が九州大学に合格することも、あらかじめお告げがあったらしく、合格を信じて疑はなかった。神様を拝むやうになった後で、すぐ上の姉と私が生まれてゐるので、この事件の時に父母が離縁してゐたら、ここでも私の誕生はなかったことになる。

          ○

 大学時代、夏に帰省すると、父が黙ってテレビを見てゐた。8月15日、先の戦争で如何に日本軍が非道なことをしてゐたか、これでもかと言はんばかりに報道してゐた。その傍らでしばらく一緒にテレビを見てゐたが、たまらなくなり、父に言った。「こんな偏った報道は許されない。父ちゃん達は一生懸命お国のために戦ってきたのに、あんまりぢゃないか。こんな報道を黙って見てゐていいの」と憤慨する私に、父はポツリと言った。「世の中が180度変ってしまった」。その寂しげな口調に私は黙ってしまった。

 しかし、今、私は旅立った父母にかう伝へたい。

 「僕を生んでくれてありがたう。僕は歴史の教師として、父ちゃんや母ちゃんが一所懸命生きた時代の話を生徒達に伝へてゐます。幕末明治維新から大東亜戦争までの話は、とても懐かしく、胸が詰まります。西欧列強に屈するわけにはいかない、お国のために必死に生きてきたんだよね。僕の授業する声が震へると、生徒達も涙ぐんでくれるんだよ。父ちゃん、世の中は変ってゐないよ。魂は受け継がれてゐるよ。僕は生涯語り部として教壇に立つから、陰ながら応援してね。

 母ちやん、B29の爆撃が怖かった話、満州にあこがれた話をしてくれたね。タオル片手に笑顔で『満州娘』を一緒に歌ったことが懐かしいよ。父ちゃんと母ちゃんはよく喧嘩してゐたけど、これからは仲良くね。」

 私事にわたる話を長々と書いてしまった。しかし、わが国の近現代に横たはる悲しみは、そのまま私の父母の悲しみであり、今を生きる人々の身近な祖先の悲しみと重なる。そこを離れて歴史に触れる道はないと信ずる。歴史は、命のつながりなのだから。

(福岡県立輝翔館中等教育学校教諭)

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 春の雨に、桜もすっかり散ってしまひました。お元気ですか。

 福岡と関東の学生合宿の記録をお送りいただき、ありがとうございました。(編註・福岡大学春合宿 - 3月4日〜5日 - 、関東地区春合宿 - 3月23日〜25日 - )

 ともに吉田松陰先生の言葉をたどっての講義と輪読。とくに輪読といふ経験が学生たちの感動を深めたやうですね。

 難しい言葉ではあるが、それに打ちこんで共に読んでいくと、次第に氷解してゆく。困難をのりこえて、すこしづつ光がさし染めてくることの喜びが、感想文に現れてゐるやうです。

 しかもその言葉が、吉田松陰といふ明治維新の原動力となり、魂を若い人々に託して夭折された方のものであれば、松陰先生と心が結ばれたやうに感じられたことでせう。

 これが機縁となり、学生自身がみずから読み続けていくことができれば、きっと大きな力になっていくことと思ひます。

     「やはり学問のよろこびが原点やらうね」

 松陰先生の言葉にもありますが、学問のよろこび、といふことが原点になるのでせうね。学問は「人として生まれ、生きていくことへの道」を知ることなのでありませうが、それが見失はれつつあるやうです。

 先日父と話してをりましたが、父は「やっぱりよろこびやらうね、今の先生たちに、学生に学問の喜びを伝へる人がどれだけをるやらうか」と何度も何度も繰り返して言ってゐました。

     今日は看護学校の新入生への最初の講話でした

 さて今日は看護学校の新入生への最初の講話。みんなまだ18019歳の、ぽーっとした女の子ばかりですが、三年間しっかり勉強すると、驚くほど成長して看護師の卵になるのです。(さうでないのもをって、苦労しますが)

 今日は五つの事を主に話しました。

1、自立せよ。何でも人に頼っていくのはもうやめにしよう。お父さん、お母さんに育てていただいたことを、当り前と思ってはいけない。

2、美しくあれ。美しさは人間性、内面からにじみ出るものである。外見も大事である。ただし外見とは、目の輝き、表情、きびきびとした行動や言葉である。おしゃれはほどほどでよい。肥えすぎては いけない。

3、健やかであれ。心身共に健康である看護師さんの姿が、患者さんに生きる力を与へるのである。

4、学びて思はざれば、則ち罔し。思ひて学ばざれば、則ち殆ふし。高い山に登る時を思へ。先人の拓いた山道を登る。霧が出ることもある。そんな時、先達に教へてもらって登ることができる。みづからの脚でしっかり歩め。廻りの景色にも素晴らしいものがあるよ。勝手に歩けば、谷に落ちるぞ。

5、広い視野に立て。携帯ばっかり見るな。周りの人への思ひやりを忘れるな。

最後に、ここ都城は天孫降臨の高千穂の峰を仰ぐところである、といふことで古事記を紹介し、日本発祥の地であるこの処で学ぶ喜びを語り、「雲にそびゆる高千穂の…」といふ紀元節を歌って講話ををはりました。

  - 小見出しは編集部で付けた -

(国立病院機構 都城病院長)

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福岡大学合宿

          経済学部四年 岡松侑希
     春合宿集ひし友と松陰の言葉読みゆく時は楽しき

          (株)寺子屋モデル 廣木  寧
     学生発表を聴きて(十首のうち)

   成人になりし若きを代表して松陰の言葉を引きて語るてふ(某市成人式にて- 経済学部三年 松井豊君)
   松陰の辞世の歌にわが国の大切なこと感ぜしといふ(理学部三年 原田真太郎君)

 

関東地区合宿

          東京大学理学部三年 高木 悠
     道を知る悦び記す松陰の強き言葉に心惹かれる(『講孟箚記』の輪読)

          國學院大学文学部四年 相澤 守
     学び深き松陰先生仰がんとて松陰神社に今ぞ向はん(合宿終へて)

          神奈川県立氷取沢高校教諭 大日方 学
     友みなと心ひとつに松陰の御文を読めば力の出で来る

          (株)アルバック 北濱 道
     死を前に静かのしらべに記します大人のお姿偲ばれやまず

          元 東急建設(株)奧冨修一
     松陰のみ文を読みて若きらが語る言葉は胸に沁みくる

          ○

          (株)寺子屋モデル 廣木 寧
       関東地区合宿に参加する学生に(三首のうち)
     若き日に松陰のみふみ読み給へおのが心の広きを知るべし

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 私はこの3月に大学を卒業します。4年間の大学生活の中で毎年参加した国文研の全国学生青年合宿教室がやはり一番強く心に残っています。

 合宿教室に参加した経緯は、当時、大学に入学して国史を学んでいましたが、大学や大学の講義に不満や物足りなさを感じていたからです。すなわち、多くの学生が頼りなく感じられたり、左翼学生が学内で平然と政治活動を行っている現状に愕然としたこと、それに加えて、自分の所属していた史学科では、日本に対する先人の思いや祖国日本がどのような国であるか、大和心とは何かについて具体的に触れる機会がなかったのです。これらに対し当時、私はただ憤るだけで自分の思いを行動へは移せませんでした。そうして、自分自身にも至らなさを感じ始めた矢先、国文研の合宿教室を知り、直ぐに参加することを決めました。

 まず参加してみて感銘を受けたのは、生き生きと恰もそれを体験して来たかのように語られる先生方の御講義でした。そこからは、先生方の学びの深さや熱意、日本に対する深い思いがひしひしと感じられました。それに加えて、先生方の御講義はどれも日本の歴史・伝統・文化に基づくものであったので、いずれの御講義にも魅了されたり、考えさせられたりの連続でした。

 短歌創作では、素直に自分を表現するという我々の祖先が代々行ってきた伝統の素晴らしさに感激し、参加経験が増すごとに合宿教室で詠む歌も増えていきました。短歌相互批評では、班員の歌を味わいつつも、それらをさらに正確な表現にしていこうと班員が一体となって話し合った有意義な時間が今でも忘れられません。

 御製を拝誦することで、陛下が「民安かれ」「国安かれ」と常に国民をお思いになられ、国民と共にあろうとされる大御心を感じることができました。この大御心を折りに触れて思い起こしながら生きるように努めなければならないのだと強く思いました。その為にも御製を何度も何度も拝誦して、大御心への自分の気持ち深めていかなければならないと痛感しました。また、自分だけに留まらず、これを他の人達にも伝えて日本全体が同胞感を取り戻すよう自分なりに頑張っていこうと感じました。

 さらに、得たものはこれらだけではありませんでした。それは、多くの仲間達と出会えたことです。諸先輩方や志を同じくする人達と出会って仲間達がいる(自分は一人ではない)ことに気付かされ、彼らと交流を深める中で多く勇気づけられました。私もこのような仲間達に負けないよう切磋琢磨し、彼らと生涯の同志となりこれからの日本を背負う人間になりたいものと思いました。

 大学生活最後である昨年の江田島での合宿教室では、班長を務めさせて頂き、その任の重みが分かって、その大変さを体験することができました。班別研修では、御講義の内容を深める為に、班長として討論の進行役を務めましたが、自分の至らなさから十分にそれを果たせませんでした。それでも、班付の先輩方や班員のみんなに支えられ助けられながら合宿教室を終了することができました。ここでは、自分はみんなに支えられながら生きていることを実感すると同時に、それに応えるべく日々精進していこうと思いました。

 そして、諸先生方、合宿運営に携われた方々には心から敬意を表すると共に私達に素晴らしい学びの場を提供して下さったことに心から感謝しています。

 4月から、私は大学院に進み、さらに学びを深めたいと思っています。将来は国史の研究者になりたいと考えています。その為の準備として史料を客観的に吟味しつつ、そこに書かれている出来事や先人の考えや思いをありありと感じられるよう、今後もこの合宿教室で学んだことを大切にして、研鑽を続けてきたいと思います。そして、その職に就いた時には、この合宿教室で学んだ、日本人として学んでおくべき日本の素晴らしい歴史・伝統・文化を多くの人達に明らかにし自分達もその中に生きていることを伝えていきたいものと思っています。

 3月23日〜25日の正大寮での春合宿では、卒業発表の機会を与えられ、“四年間の合宿教室”を改めてふりかえることができました。

 これからも国文研との御縁を大切にして、共に学び、日本を支える存在となりたいと決意を新たにしています。- 3月30日記- (仮名遣ひママ)

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 ことし平成24年の春で、私どもの蔵は職人を頼らずに酒を造り始めて18年目を迎へた。わが社は文久3年(1863)の創業で、父が4代目で、私が継ぐと5代目となる。

 平成の初め頃は様々な業種で人材不足が叫ばれてゐたが、私どもの業界も同様で、とくに手慣れた酒造りの職人(杜氏)が高年齢化すると共に人数が減少し、しかも職人の跡継ぎがなかなかうまく育たない事情もあって酒蔵同士で悩みの種であった。

 もともと酒造りの職人は、その地元が山村であれば農家の、海辺であれば漁師といふやうに、春から秋まで本業をこなして、秋以降の農閑期、若しくは海の波が高くなってきた頃に、本業から離れて働く昔ながらの「出稼ぎ」の人達が多かった。季節が巡ってくると、都市圏またはその郊外の工事現場や酒蔵、瓦屋などに出向き、飯場または会所場といふ名の宿舎で泊まり込みながら働くのである。しかし現在は、さうした職人達の住む地域でも、四季を通してそれなりに仕事があるやうになったこともあり、平行して出稼ぎに出る人が減少するやうになって、長年にわたり杜氏の技倆に頼ってきた造り酒屋は、具体的に対応を考へなければならない所まできてゐたのである。

 そこで私どもは意を決して職人に頼らずに自分たちで仕込みをするといふ造り酒屋の誰もがこれまで考へもしなかった結論に達したのだった。先づは手始めに私自身が、近くの灘の大手造り酒屋に依頼し年齢も30近くになってゐたが学生時代の下宿以来、寝泊まりをしながら見習ひとして学んだ。しかし、その見習ひ先の職人さん達は一切教へるといふことをしてくれなかった。俺たちの行ふことを見て覚えよといふ感じであった。正直に言って、戸惑った。

 しかしながら、それ以外に方法があるはずもなく、それぞれの職人達の動き、行ふところを見ながら、片手に道具、片手にメモ書きと必死になって取り組んだ。手の空いてゐる時は無く、しかも自分の会社をそう長期間空けてる訳にもいかない立場だったので、一週間といふ本当に短い期間ではあったが私なりに必死だった。蔵で育ったことが、少からず役には立った。

 会社に戻ると、酒造りの時期になってゐた。試験醸造をする余裕もなく、いきなり本番の醸造に入ってしまった。大胆なことをしたものだと今でも冷や汗が出る。会社のほぼ全財産にも匹敵する原料米その他の副原料を抱へてのことだったから、緊張の度合ひは並大抵ではなかった。毎日、今回の仕込みはいったいどの様な答へを出してくれるんだらうか、と不安を覚えつつ自問しながら、仕込み一本目の出来あがり予定日を迎へた。出来あがったモロミを搾り機にかけ、初搾りが無事に搾り出されてきた時は、思はずその場で座り込んでしまった。「これが職人の手を一切頼らず、自分たちで醸し出した一滴か…」と思ふと、ドッと涙が溢れた。

 出来あがった際の、酒化率(原料白米からモロミとなり日本酒と酒粕に分れた際の日本酒の精製清酒の割合)もほぼ最大限に取得出来、季節は新酒の品評会といふ時期でもあって、早速出品した。固唾を飲んで結果の発表を待った。私達の出品した酒は、初の醸造品だったにもかかはらず、金賞受賞といふ快挙を体験することが出来た。

 このことが現在に至るまでの酒造りの大きな自信の源であり、今でもその時の感動と学びを思ひ起しながら酒造りを続けてゐる。

 ここ10余年、九州管内から及んできた焼酎の人気が、今も衰へることを知らず、国内販売においても日本酒をあっさりと凌いでしまった。日本酒の酒蔵は昭和48年頃のピーク時には約6千軒あったのが今や1500軒を割る事態となってゐる。ここには様々な理由が考へられるが、日本酒が多く飲まれた時代の0酒は造れば必ず売れる0といった甘えが今の酒の不振につながってゐると反省もしてゐる。

 日本酒は味噌・醤油とならぶ伝統的な発酵食品である。酒は「瑞穂の国」日本の長い歴史と共に歩んできた。日本人の冠婚葬祭に深く関係してきた。これからも酒造りは日本文化の大事な一面を担ふことになるはずである。その酒造りに携る者として、皆様の嗜好に自分達の技も協調しつつ、今後の日本酒のあり方を日々問うて行きたいと考へてゐる。

(「万代老松」醸造元、藤村酒造(株))

 

 編集後記

 政府は何を考へてゐるのか。被占領期、GHQによって仕組まれた「宮家の臣籍降下」の錯誤を改める方向で、先づは検討すべきではないのか。主権喪失期の「臣籍降下」なかりせば、今日の皇位継承をめぐる懸念は大幅に軽減してゐたはずだ。錯誤を放置したままで新たな錯誤を重ねるといふのか。現下の便宜で思案する事柄ではない。拠は伝統にある。再考三思せよ。

(山内)

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