国民同胞巻頭言

第606号

執筆者 題名
平槇 明人 主権回復60年、未だし祖国復興の事業
- 「教へるべきこと」を子供達に「教へてゐない」 -
平成24年3月11日於・国立劇場 天皇陛下のおことば
東日本大震災一周年追悼式
本田 格 敬語とは何か
奥冨 修一 大内保治さんを偲んで
東京大学理学部3年 高木 悠 福岡大学「寺子屋塾」の春合宿に参加して
  書籍紹介

 「私とお姉ちゃんは、アメリカ人。お父さんもアメリカ人、お母さんは日本人だよ」。子供がお世話になった小学校をお借りして、週末に「素読の会」と称する勉強会が行はれてゐる。そこでの、ある幼稚園児の言である。飜って我らの国民的なアイデンティティー(同一性)はどうなってゐるのだらうかと少々気になった。この会では文部省唱歌も唱ふが、児童ばかりか、付き添ひの父母も唱歌には馴染が薄い感じである。

 戦後の学校教育では、私もその中で育ったのだが、国民として年齢に関係なく共有すべき詩歌・逸話・偉人の物語などを教へてゐない。敢へて教へようとしないのである。新しいことは追ひ求めるが、過去とは意図的に繋りを絶って世代間に断層をつくって来たやうに思はれてならない。

 米国は、独立からまだ230余年の若い国であるが、国民にs国史tを教へてゐる。「私の国では建国の理念を老若男女が等しく理解すべきものとして教へてゐます」と語る勤務先の米国人教師の弁からも、そのことが察せられる。

 わが国は神武創業以来2670余年を閲する古い国である。次世代に伝へるに十分過ぎる先人の歩みの累積がある。児童・生徒の興味を引く「物語」を数多持ち合せてゐる。私自身の小中学校時代を振り返る時、いろいろなことを教はったが何か大事な心棒が抜けてゐたやうに思はれてならないのである。その心棒とは、父祖の歩みに負けないやうな立派な「日本人」にならねばならないと奮ひ立たせるやうな何かである。

 「素読の会」では『論語』を初めとして「教育勅語」「御歴代天皇の尊号」「百人一首」「漢詩」を皆で音読する。小学生は、日頃見慣れない聞き慣れない文語体の文章に、最初は戸惑ふが、慣れてくると逆に口調が良く、すっと頭に入り、覚えやすいやうだ。小学生の兄姉と一緒に来る幼稚園児も、嬉々として一緒に唱和してゐる。子供達は何かに触れれば、それを確実に吸収する。触れる機会が無ければ、そのまま大人になってしまふのである。

 「教育勅語」は、我々の父祖が自らの意思で捨てたものではない。敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部、主体は米国)に廃棄することを強要されたのだ。さうであれば、再び甦らせなければならない。「帝国憲法」も同様である。所定の改正手続きを経て日本国憲法に改められたかのやうに繕ってはゐるが、これまた強制的に廃棄させられたのである。従って日本国憲法は「無効」宣言の対象であるから、日本国憲法の「改正」はあってはならず、大日本帝国憲法に戻って、必要であればそれに改正・増補を加へるのでなければ、法理に背くこととなる。

 当時、枢密院では、美濃部達吉顧問官以外は、帝国憲法の改正(日本国憲法)に賛成したことになってゐる。しかし議長の清水澄博士は、昭和22年5月3日新憲法施行の日に「自決の辞」を認め、同年9月25日に熱海で入水自殺され、帝国憲法に殉ぜられた。「…小生微力ニシテ之カ対策ナシ、依ッテ自決シ幽界ヨリ我国体ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈念セント欲ス、之小生ノ自決スル所以ナリ、…」(『自決の辞』)。清水博士の胸中を察すること無くして憲法を云々するな、と言ひたい。

 宮家も同じであって、終戦後、GHQの経済的圧迫から、11宮家は皇籍から離脱せざるを得なかった。皇位継承を安定させる為には、先づはこれらの方々に皇籍へ復帰して頂くやうにお願ひするのが筋である。

 世代間に断層をつくって、歴史の連続性を分らなくする、さうすることで、「日本の弱体化」を狙ったのがGHQの占領統治だった。かつては親世代の「歴史的かな遣ひ」を旧カナで間違ひだと声高に小学校で教へられたと聞くが、世代間の断絶を企図する動きは現在も続いてゐる。

 本年4月で「講和条約発効(GHQ統治の終了)=独立主権の回復」から満60年を迎へる。本来であれば主権回復時に無効が宣言されるべきだった「占領管理法たる日本国憲法」がこの間ずっと放置されたままでは、祖国復興の大事業が軌道に乗る筈がない。祖国の将来を担ふ小国民に、教へるべきことを教へてゐない現実も、ここに源を一にするのである。

(亜細亜大学情報システム課)

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 東日本大震災から一周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
一年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ二万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。

 さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。

 この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。

 また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。

 被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

 今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。

- 宮内庁ホームページから -

 

「1周年追悼式には約1200人が出席。国歌斉唱の後、午後2時四46分から1分間の黙が行われ、天皇陛下がお言葉で、犠牲者に哀 悼の意を表された。」(産経、3月12日付)

       年頭御発表の御製から
     東日本大震災の津波の映像を見て
   黒き水うねり広がり進み行く仙台平野をいたみつつ見る

 昨年3月11日午後2時46分に発生したマグニチュード9.0の巨大地震。その地震がもたらした大津波。その惨状をテレビでご覧になられたのであらう。「いたみつつ見る」と詠まれた陛下のご胸中はいかばかりであったであらうか。人々の日常の営みの場である仙台平野の真中を津波の「黒き水」が「うねり広がり進み行く」その恐ろしい光景を「いたみつつ」ご覧になられたのである。

     東日本大震災の被災者を見舞ひて
   大いなるまがのいたみに耐へて生くる人の言葉に心打たるる

 予期せざる大震災「大いなるまが」によって苦しみや悲しみを味はひながらも、その苦痛に耐へて生きてゐる人の言葉に心打たれた、とのお歌である。東日本大震災に関連した両陛下のお見舞ひの行幸啓は3月から5月にかけて7週連続で、関東四都県から宮城県・岩手県・福島県の広域に及んだ。陛下のお言葉に力を頂いた被災者の感謝と感動の声は多く伝へられたが、陛下に人々が何をお話し申し上げたかはあまり伝へられてゐない。陛下は、それらに耳を傾けられ「心打たるる」と詠まれたのである。

     仮設住宅の人々を思ひて
   被災地に寒き日のまた巡り来ぬ心にかかる仮住まひの人

 東日本大震災での死者は1万5千854人、行方不明者は3千155人(3月10日現在)、今なほ避難生活を余儀なくされてゐる者34万人以上である。震災発生の直後から陛下は被害状況の把握に努められ、翌々日から、御所内の節電を実行され、16日には全国民に向けて「お言葉」を発せられた(本紙昨年四月号に全文謹載)。この御製は昨年晩秋の頃にお詠みなられたものと拝するが、「寒き日のまた巡り来ぬ」と、仮設住宅で不自由な日々を送る人々に心を寄せてをられる。(本紙2月号参照)

       ○

天皇皇后両陛下の御臨席の下、追悼式は挙行された。3月4日に退院されたばかりの天皇陛下の御臨席は、陛下御自身の強い御意向によるといふ。真に恐懼の極みであり、速やかなる御平癒をお祈り申し上げます。

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     「敬語の民主化」を唱へた学者

 昭和20年、終戦は敗戦といふ結果になって、その後政治体制が大きく変ったけれども、社会自体は急に何もかもそれ以前と途切れてしまったわけではなく、抽象社会に変化したのでもなかった。第1、日本人の使ふ言語が、「国語」でなくなったわけではない。

 戦後まもない昭和21年3月上旬、GHQの要請によってアメリカ教育使節団が来日し、1ヶ月足らずの調査活動を経て、その月末には早くも報告書が提出されてゐる。その中で、「国語の改革」として勧告されたのは、漢字を全廃してローマ字を採用することであった。漢字が「学習上の恐るべき障害」と見なされ、「日本の書き言葉の根本的な改革」が求められたのである。しかし、そこに日本の敬語が煩はしいだの、遅れてゐるだのといった言及は何もなかった。

 敬語をとにかく変へようと動いたのは、実は日本人自身なのである。sこれからの敬語tと題された、国語審議会の建議が文部大臣宛に出されたのは昭和二十七年だった。表題の意味合ひは、「これからの時代のあるべき敬語」といふぐらゐのことだらう。起草したのは、元東京帝国大学教授で当時学士院会員であった金田一京助といはれる。「これからの敬語は、各人の基本的人格を尊重する相互尊敬の上に立たなければならない」といふ。この言ひ回しは、それまでの敬語が「基本的人格を尊重」しないものだと決めつけることになるが、その根拠は何も示されてゐない、「これまでの敬語が主として上下関係に立って発達してきた」として、ただ過去のものが否定されてゐるだけである。そこでは敬語における上下関係が、そのまま身分上の上下関係を現すやうに見なされてゐた。さうだとしたら、それは素人でも持たない大雑把な認識だといはざるを得ないものだった。

 人間を上下関係でみることをとにかく否定して、あくまで対等、平等の人間関係であらねばならないとする。これ以後、ひとつ覚えのやうに、「敬語の民主化」などといふ学説を唱へる国語学者を数多く生み出してきた。戦前を否定すべき封建社会と断定し、それはもうあり得ないのだから、民主社会に変らなければならない。それ故に言葉も(敬語も)、新しい社会に相応しく改めなければならないとする考へである。それにしても国語学者(日本語学者)はいつから社会変革の旗を振りかざすやうになったのだらうか。そのやうなことを人々が期待してゐたのだらうか。

 そしてそれ以後、はたして社会はどう変化してきたかを見るといい。年長者を立てない年下、先生を上に立てない生徒、さらに親を上に立てない子どもなど、自己中心的な言動をとる人間の群れを生み出す結果があったとしても、それでも社会は良くなった、国際化したとでもやはり評価するのだらうか。

     言語学者の「迷論」

 ここで専門家の文章をひとつ紹介したい。一般的向けの著書の多い井上史雄といふ人がゐる。現在東京外大名誉教授であり、専門は社会言語学、方言学のやうだが、敬語についての発言も目につく。至る所で疑問を覚えるが、例へば次のやうなことが書かれてあった。

  「敬語そのものはこれからも残る だろう。しかしその使い方は、社会の身分差のとらえかたに左右される。欧米の二人称代名詞の敬語的使い方でも、中世的、封建的な、上下関係に厳しい用法は、すでにかげをひそめた言語が多い。日本語でもこれからさらに敬語の民主化が進んで、平等な形で敬語が使われることになるだろう」(『敬語はこわくない』1999年)

 わづかなこの一節だけでも、およそ明晰さを欠く文章の稚拙さに驚かされるが、ことさらそれを指摘しても始まらない。井上氏は「日本語は世界でもっとも難しい言語といっていい」と書き、その原因を「敬語と文字表記」だとしてゐた。さうしてただ敬語の難易度を問題視し、難易度が下がったら、国際化に一歩近づいたと見て評価するのである。

 金田一京助は、戦後すぐ国語政策に関り、国語審議会の委員(第一期から第四期まで)を務めてゐる。さらに『国語の変遷』(現在は『日本語の変遷』と改題)といふ戦前の著書を、戦後に再刊(昭和24年)したが、その際、「補」としてつけ加へた中に「終戦後、アメリカの教育使節団が来て、8年の義務を終えたものが新聞も読めない事実を実験して見て一驚を喫し、言語改革の必要を忠言して来た」といふ一文を記した。言ひ回しがアメリカ政府に同調してゐる以前に、まづ事実の歪曲がある。それは分明なのでいちいち指摘しないが、なぜかくの如く書き表はさなければならなかったのだらうか。当時まだ日本がGHQの占領下にあることを考へると、この発言は権力者への媚びへつらひとしか見えないのである。

 金田一はまた、昭和29年には文化勲章を受章した人物である。ユーカラなどの「アイヌ語研究」が評価されてのことと思ひたいが、この人は昭和23年に方言について、このやうなこともいってゐる。方言などといふものは、文化国家となるためにはいづれなくなって、全国すみずみまで中央語に統一されなければならず、また必ずさうなってゆく運命だが、その前に、国語学上記録しておく必要がある、といふ内容である(「方言は保存すべきか」)。ゆとりのない、厳しいその時代背景を考慮すれば、このやうな見方もあるいはあり得るかもしれないとは思ふ。だが現在、この見方に賛同する人はほとんど皆無だらう。

     50年続く「敬語」改変の動き

 ところが金田一京助の敬語観については、50年後も生き伸びてゐたばかりでなく、高く評価され、国語審議会の最後の答申の「現代社会における敬意表現」(平成12年 井出祥子氏起草といはれる)へと続き、さらに文化審議会(国語分科会)答申の「敬語の指針」(平成19年)につながってゆく。さうして「美化語」といふ語が、従来の敬語にまじって新しい敬語として認定されたのだった。戦後まもなくの落着かない混乱した頃の、国語の敬語を変へようとする動きが、半世紀余の時を経て、かうして「美化語」といふ形になって表に出たのである。「美化語」とは、とくに誰に対しての敬意も含まれてゐない語である。それを敬語と呼べといふのである。

 美化語については以前本紙(平成21年10月011月号)述べてゐるので、ここでは簡単に触れるにとどめたい。答申で示された例は「お酒」「お料理」の二語であり、「ものごとを、美化して述べるもの」といふだけのものである。「品格保持」といふ言ひ方も他ではなされるが、敬語はそもそも、初めから「品格」と無縁ではあり得ない。ここでは、「あまり使いすぎるとかえって品位を失う」(北原保雄編『問題な日本語』2004年)といふ文章と、例へば「お財布」の語は、男性が使ったら尊敬語、女性が使ったら美化語になるといふ指摘(菊地康人『敬語再入門』平成8年)を、敬語と呼ぶに値しない理由として紹介しておきたい。

 敬語改変の動きについて、もうひとつ取り上げたいのは、過剰敬語の戒めである。“これから敬語”の基本方針の第1に、「これまでの敬語は、旧時代に発達したままで、必要以上に煩雑な点があった。これからの敬語は、その行きすぎをいましめ」たいとしてゐたのである。皇室用語についても一項目設けられ、平素・簡潔な使はれかたを善しとすることが謳はれ、それまでが行き過ぎてゐたことが留意されてゐる。そして、それ以後、現在に至るまで皇室に対する報道が、あちこちで敬語抜きで堂々と行はれるやうになってゐることは周知の通りである。

 敬語の行き過ぎを戒めるといふことは、敬語を使ふなといふことではないはずである。敬語が必要なときは、むしろ使はなければならない。敬語の使用について戒めがあるとしたら、使ひ過ぎだけでなく、使はないことに対しても向けなければならない。なぜなら、それは日本では無礼、失礼になってしまふからである。

     NHKのクイズ番組に驚いた

 先日たまたま見たNHKのテレビで敬語に関するクイズをやってゐた。そこでは「おっしゃられる」といふ語について、これは間違ひだと解説されてゐた。私は間違ひとは考へてゐなかったので驚いた。その理由は過剰敬語だからといふ。ベストセラーの『問題な日本語』(前掲書)の中でも、「一般に誤用とされる」とあった。もし「誤用」とするなら、それは誰の判断なのだらうか。誰がどこで決めたのだらうか。しかし、決められるはずはないのである。古語の尊敬語に「おほす」といふ語があり、さらに「おほせらる」といふ語もある。この「おほせらる」は、「おほす」に「らる」といふ尊敬の助動詞が加はって、さらに高い敬意をあらはしてゐる。古典文法の世界では最高敬語と呼んでゐる。天皇や上皇などに対して用ゐられる語である。古語にあるものを、間違ひと見なすことはできないはずである。

 しかし今使はれてゐる古語辞典では、「おほす」も「おほせらる」も両方とも「おっしゃる」といふ意味になってゐる。しかしその現代語訳ではふたつの違ひは分らない。それぞれ「おっしゃる」、「おっしゃられる」と記して、ふたつを区別して扱ふべきなのである。語が違ふ以上、同じ訳は望ましくない。「おっしゃられる」を認めない国語学者のために、このやうに古語を味はふことができないでゐる。をかしな状態になってゐることを私は今になって気づいたのだった。学者といはれる人たちは何をやってゐるのかと思ふ。

     自己の見解を押しつける学者

 敬語については、それを使ふ人の思ひが肝要である。多少間違っても、使ひたければたくさん使って構はないものではなからうか。はっきりした間違ひならばともかく、ひとつで済むところを、ふたつ使ふのは間違ってゐるなどといふのは、それはよけいなお世話である。いちいちとがめる方がをかしいのである。たとへ間違ったとしても、後で気づいたりすることはあるし、それがそのまま必ずしも定着されるわけでもない。専門家は何を心配して目くじらを立ててゐるのだらうか。言葉は人々のものではなからうか。もし本当の誤用なら、それは自然に消えてゆくだらう。

 一部の人間が人々の言葉を、これは良し、これは駄目と頭から思ひ通りに決めつけることできない。いくら専門家がこの言葉は誤用だと断定しても、人々が賛同できなければ、あるいは理解できなければ、それは誤用とはいへない。学問的見解は結構だが、この敬語は使ってはならないといふやうな押しつけは、「和を以て貴しとなす」国の風土ではおよそ似つかはしくないといふべきだ。

 NHK放送文化研究所が主宰する組織に、放送用語委員会なるものがある。この「おっしゃられる」を誤用とする判断もそこでなされたに違ひない。委員会の構成メンバーには、先に取り上げた井上史雄氏もゐた。この人はとにかく敬語について、言葉数が増えると難易度が増す、国際化から遠ざかると主張する人なので、「おっしゃられる」など認めるはずがない。ともあれ公共放送のために、放送用語委員なるものがぜひとも必要であるならば、国語に関しては、時流にのった発言をするやうな人ではなくて、昔から伝へられた言葉を理解し尊重して、頑固なくらゐ新奇なものは受けつけない人の方が望ましいと、私なら思ふし、普通はさうだらう。専門家の委員会があるなら、それを監査する一般人の委員会もあって欲しいものだ。

 大野晋に『日本語の教室』(2002年)といふ著作がある。読者の質問がいろいろ集められ、それに一つ一つ答へた本だが、中に「戦争に敗けることが言葉に大きく影響するものなのですか」といふ興味深い質問がある。大野はそれに答へた中で、CIE(GHQの民間情報教育局)による「日本人の読み書き能力」調査(昭和23年)を詳しく紹介してゐる。調査後の、97.9%と言ふきはめて高い識字率の結果を見て、アメリカは日本の漢字問題から手を引いた。ところが、「書き言葉の根本的改革」など必要ないのは明白なのにも関らず、それを無視してカナモジ論者、ローマ字論者が、漢字制限に奔走したのだった。その動きを、大野は「漢字の能力を国民から削いで行」ったと、はっきりと批判してゐるものの、敬語問題については何もふれてゐなかった。それは、やはり片手落ちといふべきではなからうか。大野は時枝誠記のすぐ傍らにゐて、その話を聴いてゐたはずなのに、と思ふ。

     生き続ける言霊信仰

 日本には、「言霊」といふ言葉が古くからある。「言葉の持つ不思議な力」(大野晋他編『岩波古語辞典』)といふ意味で、辞書の解説には、「例えば人の名は、その人自身と考えられるため、異性に自分の名を教えることは相手の自由に身を任せることを意味する。また、名が傷つけられ、のろいをうけることは、すなわちその人が傷つくと考えるごときも、この信仰による」としてある。言葉のもつ霊力を信じて生活するとしたら、言葉によって自分が傷つかないことはもちろんだが、人に対しても、傷つけないやうに気をつけることになるだらう。このやうな配慮のもとに日本語が発達してきたのである。

 かうして寿詞を求め、忌詞を避ける文化が形づくられてきた。日本人の言葉に対する思ひは、今なほ言霊信仰と切り離せないといっていい。
記憶に新しい最近の出来事として、北海道出身の某閣僚による「死の町」発言があった。福島原発の周辺を視察した感想を聞かれ、「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人ゐない。まさに死の町といふ印象だった」旨を述べたことが話題になり、某氏は表現を撤回し、陳謝までしたが、結局は受け入られず、理由はそれだけではないものの、大臣辞任にまで追ひ込まれたのだった。これに、その後の沖縄防衛局長の不適切発言問題も並べることもできるかもしれないが、言葉といふものに対する日本人の認識、姿勢がよく出た事件だと見ることができる。

 表現は、その立場に応じて、時と場合に相応しいやうに選ばれなければならない、言葉には霊力があるのだから言ひ回しには気を使はなければならない、さういふ見方である。しかし忌詞のやうに言葉を封じ込め、発言者を処罰して、それで事件はすっかり解決するのだらうか。一件落着のやうに見えるのは錯覚かもしれない。事態はどれだけ改善されのか、言葉を改めて何が変ったのか、それを私たちは見つめなければならない。

       ○

 言語学者の学説のままに「敬語」がをかしな状態になってゐる。「日本人の心、思考や行動様式、価値体系」と有機的につながる敬語。言葉の危機は日本文化全般の危機であると訴へたい。(元 北海道立高等学校教諭)

桑原曉一著 国文研叢書22
『とっちゃん先生の国語教室』価格480円 送料210円

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 本会会員の大内保治さんが旧臘十二月九日に亡くなられた。六十二歳だった。数年前に産経新聞社を退職され、ネット販売の古本屋を始めたと聞いて少し驚いたが、かねてからの願望であらうと納得してゐた。時折書籍リストを戴いてはゐたが、多分本好きの趣味が昂じての開業で採算の方は眼中になかったのではないかと勝手に想像してゐた。「気まぐれ書房」といふ店の名には、ぶれない信念を敢へて感じさせないシャイで気取らない、もう一つの大内さんの生き方の現れと密かに思ってゐた。

 毎夏の国文研合宿で詠まれる短歌は、靖国神社にお参りしない首相や閣僚の腰砕けを憤るものが多かった。

 外つ国の顔色を窺ふ不純さが許しがたいと、よほど腹に据ゑかねるものがあったに違ひない。昨年八月の江田島合宿には体調がすぐれないとのことでお顔が見えなかったが、まさかこんなことになるとは夢にも思はなかった。国文研合宿ではここ十余年来、四月の受付開始とほぼ同時に申し込みをされてゐた。

 数年前になるが、産経新聞社を訪ねて、『正論』の編集室に案内してもらったことがある。一度、お会ひしておきたい方がゐる、と話したらすぐに紹介の労をとってくださった。その後、ビルの喫茶室でお茶をご馳走になり、楽しい話を聞かせてもらったのが印象深く残ってゐる。

     大手町に君を訪ねてコーヒーをともに飲みたるかの日忘れじ

 この拙詠は昨年十二月初めにいただいた病状を告げるメールへの返信に添付したものである。この時は沖縄に行くなどと書いてあって、生きる気力を感じたので、私が居住する川越へ来ないかと誘った。川越には古くから「鰻」のお店があり、その中でもとびきりの旨い店で食事をしようと誘ったのだ(大内さんは川越の鰻のことをご存じだった)。しかしながら、病状を告げるところに「これ以上の抗がん剤は無いと宣告されました。無念です。観念いたしました」とあったその言葉が、胸の奥底に沈潜していくやうにも感じてゐた。

 その翌日(亡くなる前日)に再びメールがあって、今度は私を湯河原に誘ってくれたのでした。「奥湯河原の加満田旅館ならいつでも、小林秀雄先生が宇野千代にかんづめにされて『モーツァルト』を書いた旅館で、先生、大層お気に入りでその後、年末年始は家族で宿泊されたそうです。如何ですか。そうそう小林秀雄先生の部屋はいまでも人気だそうです。いまはバブルが弾けて、二万円位で宿泊できます。是非一度如何ですか。拝大内保冶」とあってこれが最後の通信となった。

 大内さんは私より三歳年下であったが、歳が近いこともあって、この十年間で随分と親しくお付き合ひいただいた。国文研の会合には必ずと言って良いほど出席されてゐた。合宿教室しかり、講演会にも、懇親会にも、常に『正論』誌の案内書を胸に携へてゐた。最近では、私が会長職を担ってゐた自衛隊の地方連絡部管轄下にある中央・港・渋谷を統括する隊員募集事務所の後援会にも、支援を申し出てくださった。その後援会が主催した富士火力演習の見学や浜松の航空自衛隊広報館ツアーなどにも同行してくださったことは嬉しく楽しいことでもあった。最後にご葬儀の日に詠んだ追悼の歌をご霊前に捧げたい。

     葬儀の日、12月初旬にいただきしメールを思ひだして
   快活をよそひたまふるみたよりに「無念」と述べます君がこころよ
   志なかばなりけむ「無念」とふ君の言葉を繰り返し読む
   共々に御酒を酌みたる彼の日々に笑まひし君の面影に立つ

平成24年3月7日
(元東急建設常務取締役)

   献詠(抄)
          興銀リース(株)小柳志乃夫

     大内保治さんを偲びて
   学識は深くついぞ偉ぶらず眼澄みたる人にてませり    尊攘の志決し一筋に国を憂ひし水戸のをのこは    通夜にゆく夜空に大き筋雲の水戸に向ひて靡くも奇しき    人なつこき明るき笑顔再びも見ることかなはずさびしかりけり

         元日商岩井(株)澤部壽孫
     大内保治さんの御霊前に捧ぐ
   我が友は師走二十日を待ち得ずに忽然として身罷り給ふ(20日に会ふ予定あり)
   人の世の常とは言へどかくはやく旅立ちたまふと誰思ひきや
   去年の春宮居の庭の草取りを共につとめし日々懐かしき(皇居勤労奉仕)

     12月14日、告別式に参列して

   はにかみて頬杖をつく遺影に在りし日の君面影に顕つ
   旅立ちし君への深き友情のあふるる御言葉胸つまり来る(同僚の弔辞)
   『正論』を十万余冊販売せし君の功績称ふる友は(同)
   国思ふ心の篤き君ゆゑの快挙ならむと今更に思ふ(同)
   み友らと七日の夜に寿司屋にて会ひ給ひたる君なりといふ(同)

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 3月3、4日の1泊2日の日程で、福大寺子屋塾の春合宿が開催された。福大寺子屋塾は福岡大学の学内輪読会であり、今回はその会の合宿であった。場所は福岡市六本松にある福大セミナーハウスで、近くには護国神社がある。福大の学生は1年生から4年生まで合せて7人が参加し、社会人は廣木寧先輩、古川広治先輩のお二人が参加して下さった。そこにお声をかけていただき、私も参加させていただくこととなった。

 昨夏の江田島合宿教室での岡松侑希兄の発表「福大輪読会で学んだこと」で、福大寺子屋塾の様子は聞いてをり、その上、私の属した班の班員7名のうち2人は福大生であった。福大で春合宿が行はれると聞き、共にまた学ばんとの思ひから参加させていただいた(今回の合宿でも新たな友を得ることが出来た)。福大ではどのやうに勉強を進めてゐるかを知りたいとの思ひもあった。また、福大合宿の輪読では吉田松陰が当時20歳前後の高杉晋作に宛てた書簡を読むと聞いたので、それも楽しみにして現地に向った。

 1日目は、学生発表、卒業発表及び来年度の勧誘についての会議が主な内容であった。

 学生発表では、参加学生全員がこれまでの輪読会で学び、考へ感じたことを述べた。福大寺子屋塾では吉田松陰について多く学んできたとのことで、自づと「松陰の言葉」を挙げて話す人が多かった。私にとっては初めて出会ふ言葉を挙げる人もあり、読んだことのある文章でも、印象に残った言葉としては異なる箇所を挙げて話す人もありと、大いに刺激を受けた。一つの言葉を大事にしようとしてゐることを感じた。また、その言葉を踏まへて今後自分がどうしたいかに言及する人が多かった。私は東京地区の古事記の輪読会である青雲会のことと、そこで感じたことについて話をした。

 4年生の卒業発表の後、学生勧誘について話し合ひ、意見が交された。

 2日目は、まづ近くの護国神社に参拝し、境内を散策した。その後、廣木先輩の御講義を拝聴し、輪読を行った。

 御講義は、吉田松陰についてであった。松陰を知るには松陰自身が書いた文章を読まなければならないとの強いお言葉に、学ぶ姿勢について思ひを新たにした。実際に、資料として挙げられた「野山獄囚名録敍論」に触れ、松陰が自分のことよりも、先に獄に入ってゐた囚人に涙する気持ちが書かれてゐて、松陰の他を思ふ心情の深いことに驚かされた。

 輪読で読んだ書簡は、高杉晋作の質問に松陰が答へたものであった。晋作の質問の中には「今日どのやうにして生きてゆけば良いか」といふものがあった。この問ひは、私の問題意識とも重り、非常に身近に感じられた。その分松陰の答へを興味深く読んだ。晋作が「今日」を問ふのに対し、松陰は10年の後を見据ゑて説いてゆくのだが、その中に目に留った箇所があった。それは、「必ず禍敗をとるなり」といふ言葉である。必ず失敗をすると言ってゐるのだ。そして、 失敗の後どう勉強を積み重ね、忠を立てるべきかを説いてゆく。失敗をした上で、さらに学問を積んで「一箇恬退の人」となれば、10年の後には大忠を立てうる日も来るだらうと説く。正に「遠大」の論であると感じた。

 失敗を免れないのは藩の事情も考へなければならないのだが、ここは非常に印象に残った箇所であり、心に留めておきたい。

 閉会式では、福大寺子屋塾のリーダーが岡松兄から松井豊兄に引き継がれ、合宿は終了した。

 1日目の夜、皆と大分話す時間があったが、その時に松井兄とこれからはもっと頻繁に連絡を取り合はうと確認し合った。それぞれの場所で、お互ひの属する勉強会を充実させることを第一として、双方で刺激を与へ合ってゆきたいと考へる。

 3月末には東京地区での小合宿を計画してゐる。この合宿では輪読に多くの時間を割くつもりであり、松陰の文章を読まうと考へてゐる。その意味からも福大の合宿で松陰の書簡を読めたことは良かったし、松陰を学びたいとの思ひがさらに深まった。福大寺子屋塾の春合宿に快く受け入れていただき有難かった。

     去年の夏共に学びし友どちと再び会ふは嬉しかりけり 今日如何にいくべきかとふ質問に松陰如何に答へ給ふか 失敗は必ずあると述べ給ふ強きみ言葉に心惹かるる 失敗を経験せしのち学修め恬退の人となれと説かるる 十年も経ちてやうやく大忠を立つるの日あらんと諭し給ひぬ 弟子憶ひ十年先を見据ゑつつ答へ給ふは遠大ならずや

                     (3月12日記)

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『ぼくらの祖国』 青山繁晴著 扶桑社刊  税込 1,680円

 著者・青山繁晴氏は長く共同通信社の記者を務め、その後、三菱総合研究所を経て(株)独立綜合研究所(独研)を立ち上げ、今はその代表取締役社長兼主席研究員である。近畿大学経済学部客員教授も務め、関西テレビの報道番組「スーパーニュース・アンカー」にも出演してゐるとのこと。

 『ぼくらの祖国』は「明の星の章」「平壌の日の丸の章」「永遠の声の章」「硫黄島の章」「手にとる希望の章」「海鳴りの終章」の6章で構成されてゐて、巻頭の「明の星の章」はイントロダクションではある。

 次章「平壌の日の丸の章」に入ると、俄然著者の痛切な思ひが伝はって来て心を引きつけられた。想像されるやうに、ここでは北朝鮮による拉致の問題が取り上げられてゐる。小泉首相の二度の訪朝によって、北朝鮮側が勝手に選び出した五人の拉致被害者とその子供たちがたまたま帰国することができたが、多くの拉致被害者は取り残されたのである。「平壌の日の丸」とは、その帰還者を乗せて飛び去った政府専用機の尾翼に大きく描かれた「日の丸」であった。「日本政府はここまでしかやってくれないのか…」、そんな思ひで、飛び去るジャンボ機の尾翼を見上げてゐた拉致被害者がゐたと言ふ。そんな視点で描かれてゐる。

 次の「永遠の声の章」は、今回の東日本大震災と福島原発の顛末である。ここではイラク戦争でも命を奪はれさうになる危険に身をさらした、著者の記者魂が遺憾なく発揮されての取材となってゐる。この時著者は、大腸がんの手術、その後の腸閉塞、さらに重傷肺炎に苦しんでゐたのである。普通の人間なら、「取材にはゆきたいが、今はいかんともしがたい」と二の足を踏むところである。しかし青山さんはその体で4月15日、4月22日と二度にわたり福島原発の20キロ圏内に入り、二度目は第一原発の構内でかの吉田昌郎所長とも肝胆相照らして懇談してゐるのである。

 青山さんがここまで原発事故に執心するのには一つ理由がある。著者はこれまで民間の立場から「国家安全保障問題」の根幹に「資源とエネルギー問題」を据ゑて取り組み、原発の必要性と同時に、そのリスクについて考へなければならないことを繰り返し警告してきた一人であったからである。先の大戦の要因も、日本が「資源問題」で追ひ詰められたところにあると指摘してゐる。戦争に一度負けたからと言って、いつまで戦勝国に「資源とエネルギー」を牛耳られてゐるのか。そのことは、「手にとる希望の章」でも、メタン・ハイドレートをめぐって、緊急を要する対中国・対韓国の問題として取り上げられてゐる。

 ここまで死を賭しての青山さんの行動を許容してゐる奥様のことは、青山千春博士として、この著書の中に何度も紹介されてゐる。著者の一番の理解者であることは言ふまでもない。独研のホームページによると青山夫人は東京水産大学で博士号を取得されてゐて、海洋音響学・海洋物理学が専門とのこと。

 紙数も限られてゐるので、あとは「硫黄島の章」の紹介にとどめたい。硫黄島で著者の心を激しくゆすったものは何か。米軍は硫黄島占領ののち、2万1千の英霊の屍がどこにあるかもお構ひなく、日本本土爆撃の為の滑走路を敷設した。そのことへの人道的非難は別に置くとして、日本に返還後の今も、海上自衛隊も航空自衛隊も海上保安庁もそしてアメリカも、その滑走路の上で離発着を繰り返してゐることである。青山さんは思はず滑走路の上で土下座をしてしまったと言ふ。青山さんのやうな気持に、今、どれだけの日本人がなれるであらうか。慚愧の思ひに駆られながら読み終へた。

 多くの方々にご一読をお勧めしたい。  (2月29日記  岸本 弘)

 

昨夏の江田島合宿の記録   『日本への回帰』第47集 「ソクラテスと吉田松陰 - 魂の世話をするといふこと -」
            (株)寺子屋モデル講師頭 廣木 寧

「歴史に学ぶ「公」と「私」の関係 」
            東京大学名誉教授 小堀桂一郎

「古事記 - 仁徳天皇の巻 -」
            昭和音楽大学名誉教授 國武忠彦

ほかを掲載 価900円 送料210円

 

 

 編集後記

 昭和27年4月の講和条約発効=独立(主権回復)から満60年。一向に本来の独立国の姿に近づかない。主権回復の際に改廃されるべき「占領統治法」が“憲法”の名で国政の基礎に据ゑられ、占領統治百パーセント肯定の「異常」が続いてゐる。教科書は“憲法”以前を否定する記述で溢れてゐる。鳩山一郎内閣・岸信介内閣までは本然の“憲法”ではないとの意識が濃厚だったと思ふが、池田勇人内閣の「所得倍増」路線以降、この“憲法”でも何とかやって行けさうだと功利に重きが移り、国家再興=“憲法見直し”の焦点がぼけて50年になる。

(山内)

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