国民同胞巻頭言

第605号

執筆者 題名
青山 直幸 自然への畏敬と国民の絆と
- 民族の叡智を集め、美しく強靱な国へ -
本田 格 敬語とは何か
- 国語の特性を考へる(上) -
折田 豊生 北島照明さんを偲びて
追悼歌(抄)
井原 稔 仏教の受容から見た日本人の思惟方法
- 中村 元著『東洋人の思惟方法 =2』への共感と疑問 -
  第57回全国学生青年合宿教室

 昨年3月11日14時46分、マグニチュード9・0といふ未曾有の大地震が、東北を中心とした東日本を襲ってから、まる一年となる。岩手・宮城・福島等の太平洋岸は、大津波による壊滅的な被害を受け、死者・行方不明者は、2万人近くにも上った。又、原子力発電所の事故といふ二次災害をもたらし、放射能汚染の脅威は、日本のみならず、世界を震撼させることとなった。大震災で亡くなった方々には、改めて心からご冥福をお祈り申し上げたい。大切な家族や友人を失った被災者のお気持を思ふと身の切られるやうな痛みを感じずにはゐられない。

 本年2月10復興庁が発足し、やうやく復興事業の体制が整った。それまでは、瓦礫処理やインフラの一部が改修されたぐらゐで、本格的な復興は未だしの感がしてゐた。私も建設会社に勤める者として、被災地域の復興・再生に少しでもお役に立てることがあればと切に願ふ所である。

 さて、この1年は、「日本人とは何か」「日本のあるべき姿とは」といふことを改めて考へさせられた日々であった。最も強く感じたことは以下の二点である。

 第一点は、大震災に遭遇した時の日本人のとった連帯的行動である。被災者や原発事故の収拾に当った人々の冷静で節度ある行動、自己犠牲とも言へる行動は、TVの映像やインターネットを通じて伝へられ、世界の人々の驚嘆する所となった。宮城県南三陸町町役場の危機管理課職員だった遠藤未希さんは、町民に対し防災無線で避難指示の言葉を最後まで叫び続け、つひには逃げ遅れて津波に呑まれてしまった。同県女川町の水産加工会社専務・佐藤充さんは、中国から研修生として来日し、同社に勤務してゐた20人の中国人を高台に避難させ、自身は命を落してしまった。坂東眞理子氏(昭和女子大学学長)は、この二例に触れながら次のやうに述べてゐる。「自分のことよりも他人のために行動できる。これほど人間として崇高な行為はありません。しかし強制されることもなく、殉職者、愛国者として顕彰されることもないのに、自発的にこうした行動がとれるのは、まぎれもなく誇るべき日本人と言えます」(『日本人の美質』ベスト新書)

 戦後の日本社会では、個人主義が浸透し利己的になり、自分を犠牲にして他者を救ふことなど忘れられたかに見えたが、未曾有の危機に遭遇して日本人の心の奥底に脈々と流れてゐたものが忽然と蘇ったのである。これは、我々の祖先が長い歴史の中で、天変地異に苦しみ耐へながら営々と培って来た精神性が復活したとしか思へない現象である。

 第二点は、日本人の自然観である。映像に写しだされた大津波の様は、声も出ない程の恐るべき異様な光景であった。現地の人々が感じた恐怖感は、想像を絶するものだったであらう。しかし、人々の口からは、自然を怨嗟する声は聞えず、まして日本から脱出しようとする者など皆無であった。

 そもそも、日本は四方を海に囲まれた海洋国家である。南北に長く、四季の変化に富み、海の幸・山の幸に恵まれた国土である。一方で、いくつものプレートが重なり合ひ火山も多く、急峻な山・川が犇めき合ふ天変地異の多い国土でもある。我々の祖先は、「里山」における人々と自然の共生関係に見られるやうに、自然を畏敬し、折り合ひをつけながら生活を営んできた。自然災害に対しても宿命として受け入れ、いかにしたら被害を最小限に食ひ止められるか、町や村を守れるか、知恵を集め工夫を重ねて、子孫に伝承してきたのである。

 この二つの「気づき」は、今後の日本人の価値観に大いなる変化をもたらすことにならう。明治以降の欧米追随型の近代化、戦後の個人優先の教育や経済至上主義などの潮流の中で失って来た大切なこと 自然への畏敬と人と人との絆を見つめ直し、精神的基盤とすること。その上にあらゆる産業技術(特に防災技術、環境・自然エネルギー技術など)を結集し、復興から日本再生へ向けて、美しく強靭な国づくりを目指すべきであると思ふ。

(戸田建設(株))

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   「言葉」が人をつくる

 日本には、思ひを和歌に託して表現する伝統がある。さらに誇るべき文学作品の遺産が数多く、それらをいつでも読むことができる。「国語(日本語)の豊かな美しい世界」が、そこには広がってゐる。私たち日本人は、その言葉を通して、先人の教へを学び、ものを考へたりする。また「日本語」といふ言葉を利用して、その中で私たちはふだんの生活を送ってゐるのだが、その言葉によって私たちは生かされてゐるといふこともできるだらう。「日本語」が人間を日本人たらしめてゐる、言葉が人をつくるともいへるのである。

 言葉が重要なものであることは、誰しも何となく気づいてゐる。だがなぜ重要なのか。あるいはどの程度重要なのか。言葉について、国語について、その働きを自覚し、意識的に接したいと思っても、それはさう簡単なことではない。言葉があまりに自明のものとして、空気のやうに私たちの前にあるからである。

 その言葉に対して、少し距離をおいて考へることが時には必要だと思ふ。そこに見えてくる国語の姿は、外国語とはよほど違ったものだらう。日本語とはそもそもどのやうな言語なのか。外国語とどのやうに違ふのか。またどの点が同じなのか。国語の特質といったものは何なのか。新しい言葉を知って、その辞書の意味が分ることだけが言葉の勉強ではない。国語全体の特性を理解することがより大切だと思ふのである。

   志賀直哉に見る知識人の国語観

 外国語を学ぶとはどういふことなのか。それは、母国語を棄て外国語中心の生活をすることではない。ただ外国語学習を通じて見えてくる母国語の姿といふものがある。部分的な比較を通して、合理的側面から、優劣を云々することは可能だらう。日本語がある点では劣ってゐるとか、ある点では優れてゐるといふ言ひ方はあり得る。だが、全体を通して、Aの言語がBの言語より優れてゐるといふことはあり得ない。さうした比較は無意味だといふべきである。

 私たちは日本語について、ことさらに外国語と比べて優劣を云々することを戒めなければならない。ことに欠点について、日本語が遅れてゐるとか、劣ってゐるとか、そのやうな発想がまかり通るとしたら、それはをかしなことといふべきである。 だが残念なことに、そのやうな発言が明治以降、知識人から繰り返されて出されてゐる。ここでは、戦後すぐに発表された作家の志賀直哉の言葉を見ておきたい。「日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ。その結果、如何に文化の進展が阻害されてゐたか」(「国語問題」昭和21年)として、国語にフランス語を採用したらいいといふ、よく知られたものだが、これは座談の記録ではなく、実際に随筆として書かれたものである。

 母国語をあへて「不完全で不便なものである」などといはねばならないのだらうか。残念としかいひやうがない。

 この世に生きる命と同時に与へられた言葉を、普通は命と同様に、「宝」として受け取りたいと思ふものなのではなからうか。そして美しい豊かな表現を求める生き方を選びたいし、子どもたちにもさうして欲しいと願ふのが普遍的な感情だといへないのだらうか。志賀直哉の言葉は、敗戦直後といふ時代の制約を割り引いても、今なほ問はねばならないものがある。

   言葉の「美」と「醜」

 目の前にある言葉自体が、美しいとか醜いとかといふわけではない。言葉がどのやうに表現されるのか、またどのやうに理解されるのか、その使はれ方が一番の問題になるはずである。改めて考へると、言葉は人と人をつなぐ潤滑油になることもあれば、人を激しく攻撃する武器になることもある。言葉が人を動かす重要な役割を担ふこともあれば、薄汚い醜悪なものになることもある。言葉がそのやうに両面をもつことを私たちは意識しなければならない。

 醜悪な言葉とはどのやうなものか。それは我欲にまみれたものといっていいだらう。低劣な欲望にとらはれ、人も社会も、さらには自分自身さへ見えなくなってゐる状態が考へられる。人の迷惑などは顧みずに、自分だけが絶対であり、自分さへ良ければいいと自分中心に発言するとき、言葉は糞尿にも似てくる。

 誤解を恐れずに言へば、日本語はむしろ「糞尿」になりやすい言語ではなからうか。といふのは、日本語は発話者の立場に立つ言語的性格を持つからである。主観的な言語と言っていい。例へば、「うれしい」とか「悲しい」とか、誰かが言ったとする。それは、日本語の世界では、その発言した人の心情を表したものであることは明らかである。いはゆる西欧語でいふ主語といったものは必要ないのである。

 日本語は、「主語プラス述語」で表す言語とはそもそも根本的に異なってゐる。各人が自分を中心にした言語世界をそれぞれが持つことを前提にして、言葉を操り、言葉をぶつけ合って意思疎通をはかってゐる。

   一人称代名詞の多様さ

 ところで日本語には、自分自身を表す代名詞が数多くある。英語では「I」ひとつで済むところを、日本語ではアイウエオ順に「あたい、あたくし、あたし、うち、おいどん、おいら、おの、おのれ、おら、おれ、愚生、愚老、こち、こちら、こっち、こちとら、こなた、じぶん、小生、拙者」から、「わし、わたい、わたくし、わたくしめ、わたし、わちき、わっし、わっち、わて、われ」まで数へ上げたら50以上になった。実際に使ふものは限られるにしても、この多様さを指して、不便だとか不合理だとかみる見方があるに違ひない。それではなぜ、このやうに日本語には一人称の代名詞が多いのだらうか。

 日本語について、その言語の本質を、西洋の言語学に頼らず、独自に果敢に明らかにしようとした国語学者がゐた。その人の名は時枝誠記である。代表作の『国語学原論』は昭和16年の刊行になるが、その理論は今なほ魅力を失ってゐない。そのすぐれた説を少し紹介してみよう。

   時枝誠記の『国語学原論』

 言語表現は、私たちが生きてゐる場面と切り離すことのできない。場面によって表現が制約され、そして言語表現が完成する。「言語は常にその場面との調和関係に於いて表現せられるもの」なのである。その顕著な例として敬語がある。

 インド・ヨーロッパ語ではほとんど問題にならない敬語が、日本語では重要なものになってゐると時枝はいふ。「国語は如何なる場面に於いても、敬語的制約から免れることは出来ない」とも書いてゐる。「敬語は殆ど国語の全貌を色付けてゐる」とも記してゐる。簡単に言ひ換へると、場面を抜きにして、日本語の敬語は成り立たないといふことである。時枝の言ふ「場面」とは、単なる空間のことではなく、それを含め、さらに聞き手をも意味してゐて、主体の態度、気分、感情なども融合した世界をさす。その場面ごとに応じて、言語行為がなされるとする。そのやうな場面重視の志向が日本語世界の根底にあり、そのやうにして長い間日本語は発達してきたといへるのである。

 国語の世界では、場面において「常に上下尊卑自他の関係に対する敏感な識別が要求される」のだが、逆に、場面が識別できなければ一歩も進まず、そこでは言語行為は成立しないといふことでもある。

   敬語表現が発達した理由

 前述のやうに、日本語は自分を中心にして表現する言語なのだが、そのことは客観的な事柄を無視する、自分勝手な言語だといふことではない。むしろ場面を尊重し、その場に相応しい「自分」が選ばれ変化してゆくことを可能にする言語だといへるのである。一人称代名詞の数の多さは、むしろ自己を主張しない現れといっていいだらう。客観性や論理性が優先されるのではなく、あくまで自己の思ひ、気持ちや感覚の表明が主眼なのである。日本語の特性について、以上のやうな側面のあることをみておくことはけっして無益ではない。

 外国人に言はせると、日本語の中で一番わかりにくいのはオノマトペ(擬音語、擬声語、擬態語)とのことである。オノマトペの豊富さも確かに日本語では目立つことだが、このことも日本語の主観的傾向をよく示すものと言っていい。オノマトペは、表現者の感覚表現そのものなのである。荒木博之氏は、ひとつの動作を、オノマトペを使って幾通りも表現できることについて、日本人が「対象世界をよりデリケートに、より微妙な違いをもって認知できることを意味している」(『日本語が見えると英語も見える』1994年)と書いてゐる。

 感覚に寄り添って、感覚を踏まへて表現が選ばれ、表出される、さうして感覚が共有できることを、私たちは良しとしてきたのである。このやうに感覚に依存する表現のあり方は、たしかに文化の要請から生まれたといっていいだらう。かうした対象世界の切り取りかたは長所か短所か分らないが、ともあれ日本語とはそのやうな言語なのである。

 さて話を敬語にもどすが、日本語において、敬語が著しく発達してゐることは一般的にも認められてゐる。なぜそのやうに発達したのか。敬語には日本人の心性が強く反映されてきたと見るべきであり、荒木博之氏が別なところで指摘する通り、敬語は「日本人の心、あるいは思考様式、行動様式、価値体系、即ち日本の文化と深くつながり合っている」(『敬語日本人論』1983年)のである。

 日本人にとって敬語とは本質的に何なのか、といふ議論を抜きに、日本語の中から敬語だけ論ふことがいかに不毛か、おのづと明らかではなからうか。敬語が言語であるのは勿論だが、それが行動として意味づけられるとき、文化全般とのつながりを無視することはできない。けっして言語だけの問題ではないのである。

- 以下次号 -

(元 北海道立高等学校教諭)

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 昨年10月17日、北島照明さんが心臓発作で倒れ、帰らぬ人となられた。お元気だと伺つてゐたので、思ひもかけない悲報に呆然となった。現とも思はれぬまま、白濱裕兄からの電話のメモを、何度も何度も読み返した。

 奥様のお話では、この日の朝、「今日は宣夫(御子息・三男)の誕生日だからお祝ひをしなくては」と言つてをられたさうである。北島さんはその丁度25年前(昭和61年)の同日、心筋梗塞で倒れて入院されたが、その日の朝も全く同じ言葉を口にされたのださうである。奥様が「本当に不思議なことです」と話されたのが、妙に心に残った。

 北島さんと初めてお会ひしたのは、熊本大学1年生のとき(昭和46年)である。北島さんが中学校の国語の教師になられて数年経った頃であったらう。初めは偶にお目にかかる程度だったが、翌年、工学部土木科の先輩・松田信一郎さんが相互研鑽の場として「時習義塾」を開設されてからは、その毎週の例会でお会ひすることとなった。例会における北島さんの御指導は、よき相棒であられた高校教諭の片岡健さんとともに、学問的、思想的に本質を究めようとする点において厳しかった。体裁がいいだけの言ひ方をすると、「そんな表面的   なことは高校生でも言へるぞ」などと辛辣だった。例会に友人を誘って来ると、友人達は必ずこのお二人による問答の洗礼を受けてやり込められ、時に泣きながら帰って行った。「あれ位で来なくなる奴は本物ではない」といふのがお二人の口癖だった。

 そんな北島さんだったが、成績の悪い生徒や恵まれない子供達には優しかった。北島さんは教師になられてすぐ生徒達に対して短歌による情操教育を始めてをられた。この頃の御様子は国文研叢書12『短歌のすすめ』に、山田輝彦先生による詳細な記述があり、青年教師北島さんの溌溂としたお姿を彷彿とさせる。

 そこには北島さんが生徒達に呼び掛けた次のやうな文章が引用されてゐる。

  「すなおに自分の思いをことばにしてみよう。ありのままに、隠さずに、どんな思いでもよいからことばにしてみよう。詩をつくるような気持ちでよいのです。かた苦しく考えずに、君たちの思いをそのまま出さう」

 あるとき、時習義塾の会合に生徒達が作った短歌のプリントを持って来られたことがあった。そして創作の一つ一つについて解説された。その中に「お母さん髪をそめないで…」と詠んだ男子生徒の短歌があった。それに対する北島さんの評は、「この子の母親は酒場で働いてゐて、夜はいつもゐない。この子は成績も悪いし、友達もゐないから普段は話すこともしない。この短歌は歌の体裁をなしてはゐないが、この歌には、この子の母親に対する精一杯の愛情が込められてゐるのだ。それは絶対に見落としてはいけない」といったものだった。

 北島さんのそのやうな生徒達に対する思ひやりは、晩年まで一貫してゐたやうに思ふ。北島さんは定年退職後も講師として教壇に立たれ、下益城城南中学校が最後の職場となったが、折々の思ひを綴って配布されたプリントには、迷ひ、悩み、苦しむ生徒達の心に直に寄り添ふ言葉が溢れてゐる。

  「とうとう切れた。大声を張りあ げた。いつまでお前達はふざけているのか。大概にしろ」

 強い言葉の後には必ず諭すやうな言葉が続く。

  「指示されて動くのではなく、主体的に行動する自立の精神はないのか。君はさ。ふざけて授業を妨害していて楽しいか。そんな自分を君は好きか。君は一年後、二年後の自分がクラスの友達からどんなふうに回顧されるか、考えたこ とはあるか」

 別のプリントには、「教師と生徒の心の関係はいかに時代が変わろうと厳粛なものだ。その尊厳に思いを致すことのできぬ教員は即刻教員を辞すべきだ」との記述もあった。

 北島さんは回りくどい言ひ方をされなかった。その言葉はいつも率直で、聞く者の急所を突いた。いつの頃からか曹洞宗の澤木興道師に惹かれて行かれたやうであるが、それは、人生の真実と真贋を厳しく問ふ同師の教へに、どこか相通じるものを感じ取ってをられたからではなかったらうか。

 北島さんは、如何にも教師らしい教師だった。その理想の教師像は、或いは、同じく中学校の教師であられ、清廉にして篤学、篤信の士であられた父君、道治先生であったかもしれない。父君は、余りに早く昇天して来たことを叱責されながらも、求道の一筋を貫かれた愛息を、涼しく優しい眼差しでお迎へになられたことであらう。

   逝きましし先輩を偲びて書く文は書くに書きえず涙流れて

(熊本市役所主任技師)

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       横浜市 山内健生
   北島照明兄の訃報(十月十七日夜)
思はざるみしらせ届きて胸内に動悸覚ゆるにはかの知らせに
北島大兄急逝すとのメール見てにはかのことに胸驚きぬ
とみに君逝くとの知らせに我が胸の動悸しばしもやまずなりけり
熊本の君急逝すとふパソコンの文字をうつつかとしばし見つむる
熊本に君ありと思ふ折ふしはなどか胸内温くなりしに
わが胸にぬくき思ひをもたらしぬ君はや逝くがうつつのことか
同い年の君なればこそことわきて胸に響くか悲しきみしらせ

       小矢部市 岸本 弘
   北島照明兄の通夜・ご葬儀(熊本県松橋町)に参列して
なつかしき君の面影恋ひやまずいまさぬ君を訪ね来しかも
今もなほ教へのにはに立ちしとふ君と言葉を交はし得ざりき
教室に花をかざらむ巣立ちゆく子らに見せむと花育てしか
学び舎に絶やさず花を育てしと若き教へ子の語るを聞けり
はろかなる韓国の旅も思ひ出づ様々にたどる君の思ひ出
老いませる母御は君を抱くがに花添へませり棺のうちに
我らまた君の棺に花添へてかくり世にゆく君を送るも

       青森市  長内俊平
北島君がなくなりませしとみまつりに急ぐみ友(岸本弘兄)の姿ぞ目にみゆ
齢若き教へ子さまのことのはにあふれてきこゆ友のひと世は

       札幌市 大町憲朗
   北島照明大兄のことを
天皇のみ歌朝々百度も拝誦すべしと唱へし大人はも

       都城市 小柳左門
   北島照明大兄の御逝去を悼みて
あさぐろきお顔にほそきまなざしの大人のおもかげなつかしく思ふ
奥様とお子さまのこしにはかにも旅立ちたまふ大人ぞかなしき

       福岡市 鎹 信弘
   北島照明先輩の訃報
花や野菜を育てられゐる畑にて倒れしままに逝きませしといふ
生きていませるごとき御写真仰ぎつつ仏壇に手を合はせ拝む
桜草の花の畑を勤め先の校庭に育ていませりと聞く
希望といふ花言葉持つ桜草を生徒らに重ね育てられしか
「不知火町」の高台に墓地を求めたるばかりに急に逝きませりとふ
二十日ばかりを母君迎へ過ごししが最後の孝行となりしと聞きつ
退職をされたる後も教壇に立ちて生徒らを導きましぬ

       熊本県益城町 折田豊生
   北島照明大兄の御逝去を悼みて
(白濱裕兄より訃報を受く・10月17日)
思はざる知らせに驚きうつつとも思はれずただ立ちつくすなり
悲しみも湧かず何かの誤りと思へどメモは眼の前にあり
ゆくりなく先輩のみ命奪ひしは何者ならむ何ゆゑならむ
   (通夜・10月18日)
人さはに集へど重く静かなるゆにはにありて祈りを捧ぐ
老導師の読経の声も絶えたれど焼香の列長く続けり
教へ子らあまた連なり次々とお香を手向くみ霊のみ前に
遺影は笑みを含めど集ふ皆泣きてぞ惜しむつひの別れを

       ○

幾歳をみ情け深く交はし来し先輩は語らる常のごとくに(片岡健大兄)
越中の先輩もはるばる来給ひて友らと語る言葉静かに(岸本弘大兄)
いづくかゆ我らを見給ふ心地してさあらむ方に目をやる我は
   (やがて七七忌=12月4日を迎へむとして)
先輩逝きて四十まり四日の過ぎにけり無情の時は早も流れて
わが先輩が深く敬ひやまざりし父君やさしく迎へましけむ
親と子と涼しきまなこ見合はせて語らふさまの想はるるかな
師の君も友らも交りてしきしまの国の行末語りますらむ
天がけりあだなす仇を払ひつつ折々我らを導き給へ

- 『短歌通信』77号・78号から -

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 学生時代に愛読した中村 元著『東洋人の思惟方法=2 日本人の思惟方法』を久方ぶりに読み返して見た。中村氏は言ふまでもなくインド哲学及び仏教学の世界的な泰斗として知られる研究者であり、今日においてもその業績は燦然と輝くものがある。 この著書は、古代インドで誕生した仏教思想がシナ・日本・チベットに伝播していく過程でどのやうな仕方で受容が行はれたか、即ち普遍的な教説がそれぞれの民族の特殊性においていかに変容せられたかをテーマとしたものである。

 当時、大学で東洋史を専攻してゐた小生にとって、中村氏の学識の深さとスケールの大きさに大変魅了されるものがあった。

 今回改めて再読して見ると、40余年の歳月の功であらうか、新たな発見と共に、これまでの認識を深化できた面が多々あったが、他方では納得の行かない箇所も少なからず目に付いた。まづは仏教の受容から見た日本人の思惟方法の特徴について、中村氏の所論に基づきその概要を見て行きたいと思ふ。

     中村 元氏の所論の概要
   ○現象即実在論の考へ方

 日本人の思惟方法のうち基本的なものとして目立つのは、生きるために与へられてゐる客観的諸条件をそのまま肯定してしまふことである。それは諸現象の存する現象世界をそのまま絶対的存在として捉へる。具体例としては「諸法実相」の捉へ方に表れてくる。「諸法実相」とは、われわれが経験する諸現象の真実の姿、といふ意味である。だから「諸法」と「実相」とは異なった概念であるのみならず、両者の間には矛盾対立が予想されてゐる。ところが、日本の天台学においては「諸法は実相なり」といふ解釈を成立させて、いはゆる現象即実在論の考へ方に立ってゐるのである。

     ○現世主義的傾向

 インドの多くの仏教徒の見解によると、生きとし生けるものは無限に輪廻の過程を繰り返すのであり、現世の生涯はその無限の循環過程のうちのきはめて短い一時期に過ぎない。これに対して日本仏教の多くの諸派は凡夫といへども現世に悟りを開いて覚者となりうるといふこと(即身成仏)を強調する。日本人は仏教の渡来する以前から現世中心的・楽天主義的であった。このやうな人生観がその後もながく残ってゐたために、現世を穢土・不浄と見なす思想は日本人のうちに十分に根をおろすことができなかった。

     ○人間の自然の性情の容認

 日本人は、外的・客観的な自然界に対してそのあるがままの意義を認めようとしたのと同様に、人間の自然の欲望や感情をそのままに承認し、強ひてそれを抑制したり、あるいはそれと戦はうとする努力をしない傾向がある。日本にもインドやシナのやうに250戒をたもつ律宗が伝へられたが、人間の性向や本能に対して、あまりにも禁止的箇条の多い律宗の修行は、日本人一般には受け入れられなかった。

     ○人間に対する愛情の強調

 日本の仏教においては、浄土教の占める割合が非常に大きいが、浄土教は典型的に慈悲の宗教である。浄土教は凡夫や悪人を救ひとる無量寿如来の慈悲を説くものである。他人に対する愛情は、自分自身の独善的な考へから表れ出るものではない。われもひとも共に凡夫であるといふ謙虚な反省と相即するものである。このことは仏教が日本に移入された最初の時期に17条憲法第10条の如く聖徳太子によって強調された。

     ○寛容宥和の精神

 『大無量寿経』に説かれてゐる阿弥陀仏は、その大慈悲の故に念仏する一切の衆生を救ひとるが、ただし「五逆の罪を犯した者と正法を誹謗した者とを除く」といふ制限が附せられてゐる。ところが日本に来ると、法然はこの制限をまったく無視して「大悲本願の一切を摂する、なを十悪五逆をもらさず」との立言をしてゐる。このやうな思惟傾向を受けて、浄土真宗のいはゆる「悪人正機説」が成立したのである。

 このやうな思惟方法は仏教摂取の最初から明らかに表れてゐる。聖徳太子によれば、仏教の究極の趣意を説いた『法華経』は、一大乗教を教へるものであり、「万善同帰」を語るものである。すなはち人間の実行するいかなる善も、すべて同じく絶対の境地に帰着するといふのである。太子によれば、人間の間には本来聖人もなければ下愚もない。すべて本来同一の仏子である。したがって太子の仏教は著しく包摂的性格に富んだものであった。このやうな哲学的基礎づけを顧慮してこそ、「和を以て貴しと為す」といふ太子の道徳思想を理解しうるのである。この精神に基づいて始めて、日本は統一的な文化国家として出発することができたのである。

     西洋的概念で「日本」を見てゐる

 以上要約した中村氏の所論については、大変に明快で合理的な見解であり新たな発見のほかこれまでの認識を深化できた面が多々あった。しかし、本項と次項で取り上げる同氏の見解に関しては、納得できない得心の行かない箇所が少なからずあるので、以下これらについて述べていくこととする。

 ●「日本の社会においては、有限にして特殊なる人倫的組織が尊重され、個人としての独立性よりも人間関係の優越性が重視される。したがって、日本では近世になっても自由なる個人という観念やそれを基礎とする市民社会や都市なるものはほとんど現れなかった」と中村氏は指摘する。しかし、このやうな見解は西洋の歴史的発展過程を基準として東洋的停滞性や日本的後進性を論ずるものと言はざるを得ない。

 ●「日本の社会においては、現在なお顕著に見られるように、支配服従の関係に家族原理が支配している。支配者と被支配者との間に対立者としての意識が弱く、日本の社会全体が家族の拡大であるかのごとく見なされている」と中村氏は指摘する。しかし、これまた支配者と被支配者といった西洋的対立概念による認識論に止まるものであり、『知ろしめす』といふ言葉に端的に示されてゐる上下和諧や自他融即の精神に基づく日本的統治形態に対する認識が欠如してゐると思はれる。

 ●「人間の理法に基づく批判的精神の欠如は、日本人の思惟方法の顕著な特徴の一つであるが、生ける天皇を神聖視するという思惟方法においてこの欠点が露骨に表れている」と中村氏は指摘する。万世一系である御皇室の存在は日本の誇るべき国柄そのものであり、ますらをの悲しきいのちをつみかさねつつ守り続けてきた究極的な心の拠り所である。同氏の見解は西洋的なモデルを基準としてそれに適合せざるものを否定し、その根源的価値を貶める戦後思想の典型とも言ふべき自虐的偏見に囚はれてゐると断ぜざるを得ない。

     進化論的な考へ方に囚はれてゐる

 ●「日本語の特徴として感情的・情緒的あるいは具象的・直感的の言語が多い。論理的または抽象的な概念内容を表現する語彙に乏しい。ために、日本語の非論理的性格はいよいよ顕著である」「一般日本人の間では抽象的普遍に関する思惟方法が発達しなかった。諸事象を普遍的規範のもとにまとめることが拙劣であった」と中村氏は指摘する。この指摘は確かに正鵠を射てゐる面は否めない。しかし論理的・抽象的な思惟方法が上位で、情緒的・具象的な思惟方法は低位と捉える価値観、もしくは後者は超克され前者に移行すべしとする進化論的な考へ方は如何なものであらう。歴史的生命体としての日本民族の文化的特性について、その短ずる所を冷静に見極めつつもその長ずる所を更に維持発展させていくことが肝要である。こと文化文明論に関しては、ハンチントンの『文明の衝突』を持ち出すまでもなく、唯一絶対の価値基準など存在せず、それは空中の楼閣に過ぎないと言ふべきである。

 ●「インド人には空想の横溢、内省的な微細な心理分析の愛好などという精神的習性があるが、想像力の薄弱な日本人にはこのような傾向がなくてもっぱら純一無雑な象徴にすがろうとするのである」と中村氏は指摘する。複雑多様性を好むインド的思惟に対してはきはめて寛容である一方、単純簡素を愛好する日本的思惟に対しては厳しい自虐的な評価をしてゐるのである。「日本の仏教はシャマニズム的・呪術的色彩が強い。古代日本におけるシャマニズム的祭政一致の傾向が仏教的変装のもとに現れたのではないか」という指摘はかうした見方の延長線上に繋がるものである。したがって、日本仏教の精粋とも言ふべき親鸞の称名念仏や道元の只管打座などは中村氏においてほとんど評価されてゐないこととなる。

 ●「批判対決の精神の薄弱は、社会の変革期にあたって、当然捨て去らるべきものに対して徹底的な批判を行なわしめず、旧いもの・捨てらるべきものをもなお温存せしめるに至る」と中村氏は指摘する。このやうな見解は、日本のすぐれた文化・伝統に関しても少なからず否定もしくは捨て去るべきものと捉へてをり、ここでは婉曲的な表現ながらも天皇制否定の考へを包摂してゐると言へる。

     昭和22年版「はしがき」の問題意識

 この著書が出版されたのは昭和37年であるが、この旧版は昭和22年4月に出版されてをり終戦後間もない時期の作品である。その「はしがき」には次のやうに記されてゐる。「敗戦およびそれにともなう厳しい現実に直面して、われわれはわれわれ自身に対して根本的な反省考察をなさねばならぬ時機に直面している。現にわれわれは、われわれ自身のうちに潜在していてしかも有力にはたらいている思惟方法の特徴について、考究の努力を払うことが従来あまりにも乏しかったではなかろうか」との問題意識から出発してゐる。したがって、深刻な反省の意識が前面に出すぎてをり、わが国の文化や伝統、思想や習俗に対していたづらな蔑視または過少評価に流れる傾向が見受けられる。しかし、このやうな戦後思想界に典型的な特性は決して過去の遺物とはなってをらず、日本では今日においても人文・社会科学系学会のみならず教育や報道の世界で、はたまた政権の中枢で猖獗を極めてゐる観がある。

 ところで、中村氏は上に述べた天皇制を否定するかの如き見解を示す一方で、昭和59年には勲一等瑞宝章を受章してゐる。論理的一貫性を何よりも追求してきた学究の徒として、精神的にいかなる整合性をとられたのであらうか。第三代最高裁判所長官横田喜三郎氏は晩年勲一等旭日大綬章を受賞したをり、若き日の著書『天皇制』(天皇制は封建的な遺制で、民主化が始まった日本とは相容れない。いづれ廃止すべきであると主張)を東京中の古本屋を回って買ひ集め、世に流布しないやうにしたと聞くが、中村氏は果たして如何、小生は寡聞にして存じ上げない。

 以上『日本人の思惟方法』に関する中村氏の所論に対して様々な角度から取り上げてきたが、公平性を期する意味においても、ここで日本経済新聞に掲載された記事(平成22年10月11日)を紹介して本文の結びとさせていただくことにする。

 「仏教に和顔愛語という言葉があ る。なごやかな顔とやわらかい言葉遣いのことで、仏教者としてだれにでもできる布施とされている。とはいえ、それが難しいのが人の世だが、中村先生は和顔愛語を生涯貫かれた。代表的著作『仏教語大辞典』の原稿が出版社のミスで失われた時でさえ、怒りでなく、翌日からの再執筆でこたえられた。その人柄はだれからも慕われ、尊敬された」と記載されてゐる。なほ、この『仏教語大辞典』は基本的に中村氏が一人で執筆した膨大な文献であり、原稿紛失時までに20年間、再執筆から8年間、併せて28年間を費やして完結されたものだと言ふ。

(元 地方公務員)

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夏の阿蘇高原で、日本と世界を考へよう!

招聘講師に  作家・慶應義塾大学講師  竹田恒泰先生

場所・熊本県阿蘇国立公園   「国立阿蘇青少年交流の家」

                熊本県阿蘇市一の宮町宮地

日時・8月16日(木)-19日(日)

東日本大震災の渦中のあっても「日本では暴動が起きなかった」と多くの海外メディアは驚いた。我々には「驚いたこと」が驚きだった。
相互信頼と互譲の生き方を尊しする我々の生き方…。その根柢にあるものは何か…。グローバル化が叫ばれてゐる現在こそ、「日本と日本文化の価値」が問はれてゐる!今こそ「日本」を再発見して、「世界の中の日本」を考へよう!

 研修のテーマ

○世界における日本のあり方を考へる
○我が国の歴史と文化をより深く理解する
○古典や短歌を通じて豊かな感性をはぐくむ

参加費  学生22,000円・社会人37,000円

 皇居勤労奉仕のご案内

昨秋の奉仕作業の様子は本紙12月号に掲載されてゐますが、今年も10月を予定してをります。

第一案・10月9日(火)から
第二案・10月22日(月)から
第三案・10月15日(月)から

いづれの場合も4日間です。

一団体15人以上で60人が限度です。現時点での御希望を3月20日までに、国文研(澤部壽孫)宛にファックスまたはメールでお知せ下さい。

Fax : 03(5468)1470  info@kokubunken.or.jp

 

     昨夏の江田島合宿の記録” 刊行!

 『日本への回帰』第47集

 歴史に学ぶ「公」と「私」の関係

東大名誉教授 小堀桂一郎   古事記- 仁徳天皇の巻-
昭和音大名誉教授 國武忠彦   日本歴史の特性
拓大日本文化研究所客員教授 山内健生

   ほかを収載 価900円・送料210円

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 編集後記

石垣市の市議が尖閣諸島に上陸したことに触れ、「日中間の(同諸島を巡る)争いを一時棚上げにすべきだ」とは中国外務省アジア局長の言(1/6産経)。わが国の動きを抑へんとする誑言・妄言に要注意。自ら領有権の「棚上げ」を言ふ国など聞いたことがない。語るに落るとはこのことだ。今年は日中国交40年。記念行事の「成功」と引き替へに、わが主張を手控へること勿れ。

(山内)

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