国民同胞巻頭言

第604号

執筆者 題名
小柳 志乃夫 皇室と伝統
- 皇室制度検討の前提として -
須田 清文 平成24年年頭及び最近ご発表の御製、御歌を拝誦して
新春詠草抄(賀状から)
加藤 健太郎 〈特別掲載〉
吉田松陰と坂本龍馬を繋ぐもの(下)
- 小田村素太郎(楫取素彦)を通して -

 渡邉允前侍従長のご著書『天皇家の執事- 侍従長の10年半- 』が文庫版で再刊された。陛下のご日常やお人柄を側近が描いた貴重な本だが、この本には「皇室の将来を考える」と題する文庫版のための後書きがあり、過去の皇位継承論議について次のやうな記述がある。

  「天皇陛下は、10年以上にわたって、この(皇位継承)問題で深刻に悩み続けられました。天皇陛下の背負われた責任感の重みと、お悩みの深さは、我々には想像すら出来ないものだったと思います。そのお悩みによって、陛下は夜お寝みになれないこともありました。そのような陛下のご様子を心配なさって皇后さまもお悩みになりました。もちろん、両陛下とも、そういうお悩みを表に現すようなことは一切なさいませんでした」

 畏れ多いことである。渡邉氏は「我々の世代は、皇位継承の問題について、一旦、国論が分裂する事態を招いて、国民皆が納得する結論を得ることに失敗した」と記されてゐるが、この「国論の分裂」に陛下はどれだけ御心を痛められたことだらうか。自分には幕末激動期に国内人心の一致をひたすらに願はれた孝明天皇のご苦悩が思ひ起された。

 渡邉氏は、さらに同じ後書きに、皇位継承とは別次元の緊急の課題として、女性宮家の創設を提言されてゐる。この提言がきっかけとなったのか、政府部内で検討が開始されるに至ったのは周知の通りである。

 今後の政府の検討に影響を与へるであらう、平成17年の『皇室典範に関する有識者会議報告書』を読むと、現憲法の一般的解釈の範囲内で問題をどう整理し、回答を出すかといふ、いかにも官僚的な視点が透けて見える。そこでは皇位の男系継承の意義をめぐる議論も、個人の歴史観・国家観に関はる問題として片づけ、その評価を避けてゐるのである。

 話は飛ぶが、かつて、当会前理事長の小田村寅二郎先生は、憲法や教育の在り方を論議する前提となるべきわが国の「建国精神」の理解について、戦後の国民思潮の中に三立しえない三つの見解があることを鋭く指摘された。即ち、

@ 古事記を始めとする古典と伝統の中に解明されてきたもの
A 8月15日の敗戦で占領軍によって提出されたもの
B 近い将来にその実現を目指さうとしてゐる共産革命のテーゼ

の三つの理解である(本紙昭和38年1月号「喝、馬鹿になれ!!」)。今やBの革命の影は薄くなったが、@の正統の理解が広がったわけではなく、政治やマスコミの主調においてはAの「日本国憲法」といふ占領下の枠組みから抜け出せなくなってゐるやうに思はれる。先の報告書もこの*2の理解に立って、伝統と正統の問題については正面から議論することを避けたのである。

 しかし、飜ってみれば、日本国憲法において唯一、古典や伝統と連なるのが第1章「天皇」である。実際には、現憲法は「天皇」によって裁可・公布され、そこに占領下にも関はらず現憲法に一定の正統性が付与された(坂本多加雄氏『象徴天皇制度と日本の来歴』)。さう考へれば、憲法の理解としても「天皇」についてはあくまで伝統に即した02の理解がなされてしかるべきなのである。

 実際に陛下が伝統の中に身を置いてをられることは宮中祭祀に端的に示される。渡邉前侍従長は、宮中祭祀は陛下の「お祈り(prayer)」であり、「陛下が常に国民の幸せを願っておられるということが一つの形として現われていることであって、陛下のなさっていることのなかでもっとも大事な点」と記されてゐる。そのお祈りは天照大御神を始め、歴代の天皇(「皇祖皇宗」)に捧げられる。天皇統治のあり方を示す「しらす」といふ言葉の原義は「神意を知る」の意ときくが(坂本、同前)、皇祖皇宗に向はれる、その震へるやうな畏れ、謹みの中に、神意が映し出されるといふことではあるまいか。

     若き日の皇后様に「浩宮誕生」と題するお歌がある。

   あづかれる宝にも似てあるときは吾子ながらかひな(腕)畏れつつ抱く

 皇室制度の検討とは、皇祖皇宗に連なって日本の歴史を貫く「あづかれる宝」に触れることなのである。政府部内の検討に当っては、この点をしかと確認いただきたいと思ふ。

(興銀リース(株))

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 ◇ 平成23年にお詠みになったお歌から

     御製(天皇陛下のお歌)

     東日本大震災の津波の映像を見て
   黒き水うねり広がり進み行く仙台平野をいたみつつ見る

     東日本大震災の被災者を見舞ひて
   大いなるまがのいたみに耐へて生くる人の言葉に心打たるる

     東日本大震災後相馬市を訪れて
   津波寄すと雄々しくも沖に出でし船もどりきてもやふ姿うれしき

     共に喜寿を迎へて
   五十余年吾を支へ来し我が妹も七十七の歳迎へたり

     仮設住宅の人々を思ひて
   被災地に寒き日のまた巡り来ぬ心にかかる仮住まひの人

     〇第62回全国植樹祭(和歌山県
   県木のうばめがしの苗植ゑにけり田辺の会場雨は上がりて

     〇第66回国民体育大会(山口県)
   山口と被災地の火を合はせたる炬火持ちて走者段登り行く

     〇第31回全国豊かな海づくり大会(鳥取県)
   鳥取の海靜かにて集ふ人と平目きじはたの稚魚放しけり

     皇后陛下御歌

     手紙
   「生きてるといいねママお元気ですか」文に項傾し幼な児眠る

     海
何事もあらざりしごと海のありかの大波は何にてありし

     この年の春
   草むらに白き十字の花咲きて罪なく人の死にし春逝く

     ◇ 平成二十三年歌会始お題「岸」

     御製
   津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる

     皇后陛下御歌
   帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず              (御製・御歌は宮内庁のホームページによる)

     御製

       東日本大震災の津波の映像を見て
   黒き水うねり広がり進み行く仙台平野をいたみつつ見る

 平成23年3月11日午後2時46分に発生したマグニチュード9・0の巨大地震。その地震が引き起した大津波。その惨状をテレビでご覧になられた折の御製である。「いたむ」は悲しみと嘆きで心に苦痛を覚えること。

 津波は、家も船も工場も電柱も人も車も、何もかも呑み込む濁流となって、すべてを押し潰していく。その凄まじいさまをそのままに表現なさってゐる。あの日目にした映像が甦ってくるが、「いたみつつ見る」と詠まれた陛下のご胸中はいかばかりであらうか。

 人々の日常の営みの場である仙台平野の真中を津波の「黒き水」が「うねり広がり進み行く」、その恐ろしい光景を「いたみつつ」ご覧になる陛下の御心が伝はってきて胸が痛い。

       東日本大震災の被災者を見舞ひて
   大いなるまがのいたみに耐へて生くる人の言葉に心打たるる

 「まが」は災ひ。「大いなるまが」で大災害となる。東日本大震災によって苦しみや悲しみを味はひながらも、それに耐へて生きてゐる人の言葉に心打たれた、とのお歌である。

 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)に関連した天皇皇后両陛下の行幸啓は3月から5月にかけて七週連続となり、避難所では東京武道館・埼玉県加須市を、被災地としては千葉県旭市・茨城県北茨城市・宮城県・岩手県・福島県と広域に及んだ。その後八月と九月にも都内及び千葉県東金市において被災者や被災者の世話に当る人々にお会ひになってゐる。

 また、七月下旬に那須の御用邸にお出での際には、途中で被災状況をご視察の後、那須町で福島県からの避難者を見舞はれ、「今はどうしていらっしゃいますか」と陛下はお声をかけられた。国民のことをありのままにお知りになる、「知ろしめす」といふ一筋に連なる歴代天皇のご精神を今上陛下に仰ぎ見るのである。

 陛下の「大変でしたね。お体を大事になさって下さいね」といふお言葉は、被災者にどれほど力を与へたことか計りしれない。皇后陛下の「生きてゐてくれて有難う」とのお言葉にも本当に驚き感動させられた。親しい家族以上の御思ひのこもってゐるお言葉と拝するのである。

 お見舞ひやお言葉を賜った人々の感激感謝の声は数多く伝へられてゐる。しかし、陛下に人々が何をお話し申し上げたかはあまり伝へられてゐない。おそらく率直に実情をお話したのではなからうか。陛下は、それに耳を傾けられ「心打たるる」と詠まれた。陛下の御心と被災者の真情とが通ひ合ったのである。

       東日本大震災後相馬市を訪れて
   津波寄すと雄々しくも沖に出でし船もどりきてもやふ姿うれしき

 「もやふ」は船と船をつなぎ合はせること。この度の津波で、生業の術ともいふべき船を失った漁業関係者が多くゐたと報じられたが、地震直後直ちに船を沖へ避難させ、そのために船が無事に港に戻ってきたところもあった。5月11日、福島県相馬市をご訪問になった折、そのことをお聞きなり、港に船が並んでゐる様子をご覧になって「うれしき」と詠まれてゐる。避難のためとはいへ、津波が押し寄せてくるであらう沖に向かって勇敢にも船を出した人、その結果事なく戻ってきて港に「もやふ」船。海に生きる人たちへの深いお心持ちが偲ばれる御製である。

       共に喜寿を迎へて
五十余年吾を支へ来し我が妹も七十七の歳迎へたり

 前年(平成22年)、陛下は喜寿をお迎へになられた。昨年の10月20日には、皇后陛下が77歳のお誕生日を迎へられ、両陛下お揃ひで喜寿となられた。そのことを「共に」と詞書きにされてをられる。まことに喜ばしいことであり、心からお祝ひ申し上げたい。

 「吾を支へ来し我が妹」と表現されてゐる皇后様への御思ひは、この度の震災地をご訪問になる両陛下の御様子にも拝されるところである。いつも陛下のお側にあって控へ目に笑みを湛へながら頷かれる皇后陛下のお姿を拝する度に、拙き筆の及び難いものであると仰ぐばかりである。

       仮設住宅の人々を思ひて
被災地に寒き日のまた巡り来ぬ心にかかる仮住まひの人

 この度の大震災での死者は15,844人、行方不明者は3,381人(1月19日現在)、避難や転居を余儀なくした者337,819人(1月12日現在)である。

 3月11日の震災発生の直後から陛下は被害状況の把握に努められ、皇后陛下は御所内の点検と宮内庁職員や勤労奉仕団の人たちの安全へのご配慮とご指示など、細やかなお心配りをなされた。翌12日、両陛下は、「犠牲者へのお悔みと被災者へのお見舞ひ、さらに対策に全力を尽してゐる関係者一同の努力を深く多とするお気持ち」を宮内庁長官を通じて総理大臣に伝達された。従来であれば、かうした際には被災県の知事宛に伝へられるとのことであるが、今回は被害が甚大で広域に及ぶことから県知事に伝達する状況ではないとご判断されたのだといふ。13日から、両陛下は自主的に御所内の節電を実行され、16日、陛下は全国民に向けて「お言葉」を発せられた。本紙四月号にも、その全文が掲載されてゐるが、改めて「お言葉」の最後の一節を左に掲げる。

  「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地 域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」

 「仮設住宅の人々を思ひて」との詞書きからして、陛下御自ら「お言葉」のままを実践なされてゐることが拝される。「寒き日のまた巡り来ぬ」と、仮設住宅で不自由な生活を強いられてゐる人々に心を寄せられ、「寒き日」を凌ぎ乗りこえて欲しいものだとの深い御心が伝はってくる。「心にかかる仮住まひ人」とは、何と直截なご表現だらうか。粛然たる思ひにさせられる。

        第62回全国植樹祭(和歌山県)
県木のうばめがしの苗植ゑにけり田辺の会場雨は上がりて

 5月22日、「緑の神話 今 そして未来へ 紀州木の国から」といふテーマのもと和歌山県田辺市の新庄総合公園で第62回全国植樹祭が実施された。両陛下のご到着直前まで強く降ってゐた雨が止み、会場では先づ大震災の犠牲者へ黙祷が捧げられた。両陛下はそれぞれ「森」の字をかたどって三本の植樹と二種類の播種をなされた。

 陛下がお歌に詠まれた「ウバメガシ」とは、和歌山県の県木で紀州備長炭の原木である。さらに「ナギ」と「紀州ヒノキ」の苗木を植ゑられた。「ナギ」には、熊野古道の旅人の安全を祈りナギの木に鈴をつけて送ったといふ「鈴木」姓の発祥の故事(海南市、藤白神社)がある。建築用材として強さに優れてゐるのが「紀州ヒノキ」である。皇后陛下は「ヤマザクラ」、「イチイガシ」、「タブノキ」をお手植ゑされた。

 陛下のお手播きの樹種は、世界三大庭園木といはれる「コウヤマキ」と天岩屋戸の前で天宇受売命が踊った時に手にしてゐたと伝へられる「オガタマノキ」の二つ。皇后陛下は「クマノミズキ」と「トガサワラ」であった。両陛下のお手播きにあはせて式典参加者全員が持参の竹筒にアラカシなどの種を播いた。それぞれの場所に持ち帰られ大事に育てられることだらう。

 直前までの激しい雨に、準備を重ねてきた人たちや会場に集った人々のことが気掛かりではあったが、雨が止んでくれた、そして「ウバメガシ」の苗を植樹することができたとお詠みになってゐる。「雨は上がりて」の結句に陛下の安堵の念が感じられ、爽やかな気持ちに誘はれるお歌である。

 第六十六回国民体育大会(山口県)
山口と被災地の火を合はせたる炬火持ちて走者段登り行く

 10月1日から11日まで、「おいでませ!山口国体」の愛称で山口県下で開催された第66回国民体育大会の開会式での御製。

 今回の開会式では、開催県山口県内の19の市や町で採火されたものと、東日本大震災の被災地からのものとが集火され炬火台に灯された。福島県の火は、7月31日、福島県富岡町「麓山の火祭り」の御神火から、宮城県の火は、8月6日、仙台市青葉区にある仙台藩祖伊達政宗公霊屋・瑞鳳殿本殿の燈明から、岩手県の火は、九月七日、新日本製鐵株式会社釜石製鉄所「高炉の火モニュメント」から、それぞれ採火された。これらの火が山口市の維新百年公園陸上競技場での開会式で山口県下のものと一つになり、その炬火を掲げて男女二人の走者は炬火台へと階段を登って行く。

 各都道府県からの選手団4,800人が行進した開会式に臨まれた陛下は、この炬火のやうに被災地の人々と他の国民が心ひとつに解け合ひ、復興の道のりも炬火が階段を登って行くやうに順調であって欲しいものだと、御心を被災地に馳せられてゐるやうに感じられるのである。

       第31回全国豊かな海づくり大会(鳥取県)
   鳥取の海静かにて集ふ人と平目きじはたの稚魚放しけり

 10月30日、両陛下は、鳥取市とりぎん文化会館で行はれた第31回全国豊かな海づくり大会式典行事にご出席なり、その後鳥取港西浜地区で海上歓迎・放流行事に臨まれた。大会のテーマは「つくろうよ みんなが笑顔に なれる海」。両陛下は県魚ヒラメおよびキジハタの稚魚をご放流されたが、その時の御製。ご放流の後、漁業後継者にヤマトシジミ、アラメ、クロメ、クロアワビ、バイのお手渡しが行はれた。「鳥取の海静かにて」のお言葉が胸にしみる。

     皇后陛下御歌

       手紙
   「生きてるといいねママお元気ですか」文に項傾し幼な児眠る

 「生きてるといいねママお元気ですか」とは、大震災の津波で両親と妹を失った四歳の少女の母親に宛てた手紙である。「項傾し」はうなじを垂れて傾けること。皇后陛下は新聞紙上で手紙の上にうつぶして寝入ってゐる少女の写真をご覧になって詠まれた。

 大人でさへ思ひもよらない現実に苦しみ戸惑ってゐるのに、この幼な児はどう受け止めてゐるのであらうか。御歌から皇后陛下のこの幼な児のすべてを包み込むやうな無限の愛情が感じられる。4歳では両親を亡くした意味も分るまい。これから先の人生を思ひ遣ると言葉もない。じっと、ずっと、皇后陛下は見守られていかれるのであらう。

       
   何事もあらざりしごと海のありかの大波は何にてありし

 被災地へのお見舞ひの際に、穏やかな波静かな海を御覧になって詠まれた。あの甚大な被害をもたらした津波は何であったのであらうか、と訝しく思はれたお気持ちを詠まれてゐる。あの津波さへなかったら、多くの人が苦しむこともなかったであらうにと、この世の不条理を歎かれるてゐるやうにも思はれる。

       この年の春
   草むらに白き十字の花咲きて罪なく人の死にし春逝く

 春から夏にかけて御所のお庭に白い十字の形をしたドクダミの花が咲くといふ。その白い花をご覧になり、大震災に見舞はれた今年の春は常とは異なると御心を痛められたのであらう。「罪なく人の死にし春」、普通に暮らしてゐた人々が死んだ春が「逝く」とお詠みになってゐる。現実の無情が「十字の花」に象徴されてゐるやうに思はれる。

     歌会始 お題「岸」

       御製

     津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる

 東日本大震災被災地のお見舞ひのため5月6日、岩手県釜石市から宮古市にヘリコプターで移動される際、上空から被災地をご覧になった折の御製。「如何なりし」の一語に陛下の御心が集中してゐるやうに感じられる。
昨年12月の「天皇陛下お誕生日に際し」と題されたご文章の一節が思ひ起される。

 「私どもの住む日本は、四方に海を持ち、山や川も多く、風光に恵 まれた島国です。一方、我が国はいくつものプレートが重なり合う所に位置し、地震が多く、火山や急峻な山川、日頃は人々に幸を与えてくれる海も、時に荒れ、多大な被害をもたらします。この厳しい現実を認識し、災害時における人々の悲しみを記憶から消すことなく、常に工夫と訓練を重ね将来起こるべきことに備えていかなければならないと思います」

 大津波が呑み込んだ岸は「如何なりし」とご覧になる陛下の御まなざしは峻厳であり、「見下ろす海は青く静まる」との結びは、逆に海に秘められてゐる恐ろしい力を暗示されてゐるやうに思はれる。

       皇后陛下御歌

     帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず

 お題の「岸」は歳時記に見当たらず季語ではない。思へば、帰るべき人を岸辺で待つ人に春夏秋冬の季節の別があらうはずもない。津波による行方不明者の帰りを待つ家族の身の上に御心を馳せられたお歌と思はれる。

 月刊『祖国と青年』各号、『日本の天皇1国難と天皇の歴史1』(徳 間書店)等を参照した。

(羽後信用金庫石脇支店)

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     お題「岸」に寄せて

       さいたま市 上村和男
地震にあひ津浪をうけし人々の悲しみ思ひ岸辺に立ちぬ

       佐世保市 朝永清之
   博多港の中央埠頭にて引揚時を偲ぶ
長旅で破れし靴を胸に抱き裸足で踏みき岸壁の土を
引揚の船接岸の埠頭には往時を偲ぶよすがあらなくに

       東京都 坂東一男
禍事のいやつぎ起りし辛卯こえ八十路の「岸」を目指して生きん

       五月、房総に  八千代市 山本博資
いまになほ地震ゆりつづく房総の海岸めぐれば禍の跡みゆ
『海の幸』ゑがきし繁(青木繁・明治の洋画家)ら若き日に写生にはげみし布良の海岸

       大曲花火大会にて  横浜市 亀井孝之
対岸ゆ筒音とどろき夜の空へのぼりゆく火の青く光れり

       町田市 三宅章文
濁流のたぎちあふるる川岸に彼岸花咲くかたぶきて咲く

       府中市 磯貝保博
海岸へおどろしき波襲ひ来る画面に見入り息も止まりぬ
あらがへどあらがふすべなし地震の波人も家をも流しつくしぬ

       小田原市 岩越豊雄
夕映えの川面を渡るつがひ鴨中洲の岸に今宵宿らむ

       鎌ヶ谷市 向後廣道
ふるさとに御幸あふぎて九十九里岸寄す波のけふは和らぶ

       川越市 奧冨修一
レガッタの終へしゆふべに対岸の艇庫の影は水面に映ゆるも

       宮若市 小野吉宣
両陛下かたじけなくも東北の沿岸の民励まし給へり

       大震災被災地訪問  福岡市 山口秀範 人々の営みすべて消え失せし海岸地帯行くに声なし
身を捨てて人々救ひし物語長く伝へむその雄々しさを

       熊本県 折田豊生
冬ざれの小川の岸に葦牙の萌え立つ春は遠からぬかも

       藤沢市 工藤千代子
青空に映えて花咲く満開の桜並木の岸辺を行けり

       宝塚市 庭本秀一郎
   夕刻の白鷺橋(熊本県八代市)にて
夏の陽の赤く照らせるふるさとの川輝きて流れ行く見る
在りし日に友らと駈けし岸の辺も光る川面の色も変らず

       庭本和香子
岸渡りしあまたの御魂見守りたる大和島根の年明くるかな

       東北地方太平洋沖地震  東京都 宮田良將
いづかたよりたまはる賀状もみな大震災憂うる思ひ書かせをらるる

       厚木市 福田忠之
昔にもありしとふ地震東北の民を痛ぶる津波なるかな
さもあれど「天を怨まず」と答辞する児童の姿哭かざらめやは

       小矢部市 岸本 弘
春浅き国辺襲ひしかの禍を忘るるなからめ生けるみ民は

       合志市 多久善郎
注ぎ給ふ大御心に涙しつ御代の弥栄ひたに祈らむ

       東京都 小柳志乃夫
みしみしとビルはきしみて霞ヶ関高層ビルのしなふ仰ぎつ
地震のなか身を顧みず世のために尽したまひし人らかしこし

       深川市 服部朋秋
うつつとも思へぬ地震に見舞はれし友にしかけむ言の葉かたし
救援にいのち懸けたるもろびとのみ姿たふとし忘れざらなむ

       由利本荘市 眞田博之
   放射能禍の福島県を会津に向け運転す
目の前に黄金色して広がりし稲田を見れば胸はつまりぬ

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   3、松陰没後の小田村

 松陰の終焉と相前後して、小田村は明倫館助教などを勤めたあと、藩主の側近く仕へる側儒役となってその上京や江戸行に従って周旋した。この間、長州藩を取り巻く政情は目まぐるしく動き、長井雅楽の航海遠略策から一転して破約攘夷へと突き進み、遂に文久3年(1863)馬関海峡を航行する米艦に発砲、攘夷実践の緒に就いた。しかしながら、攘夷実行の功績によって得た京都御所堺町御門の警備を同年8月には解任され、京都から締め出されるに及んだ。

 攘夷を主導した七卿を擁する長州藩は久坂玄瑞らとともに西下、翌年再起を期して上京、遂に幕府側と一戦を交へた。しかし時に利あらず、松陰・小田村の義弟たりし久坂は7月19日(1864年8月20日)戦没。

 9月27日(164年10月27日)、藩命により小田村は「素太郎」と改称するも、11月には親戚預けの沙汰を受け、翌月遂にかつて松陰が入ってゐた野山獄に投ぜられた。(14)京における敗戦が藩内にも有志嫌疑の廉として小田村の身に降りかかってきたもので、このとき長州藩は幕府の追及を畏れる勢力に牛耳られ、小田村もその憂き目に遭ったのである。その際詠んだ和歌が残ってゐる。

       われをさへその人数にかぞへまじうからやからも国につくして

 その人数とは、この和歌の表題に次の解説がある。

  吉田矩方が死せるのち、ひき続久坂よし助、兄なる松島久誠おほやけのことにかゝづらひて、身まかりに玉木正弘も絵堂の戦に打死ぬ。己れはた国事にかゝりて獄に下りたれば、世になからふべき身にもあらじをおぼゆるまゝに(15)

 久坂は言はずと知れた松陰・小田村の義弟玄瑞。小田村が明治の手記に「巻中の玄瑞は義助の旧名に係る。観る者認めて別人と為すこと莫れ」と見えてゐる。今でこそ玄瑞の名で通ってゐるが、当時は義助の方が通ってゐたのであらうか。いづれにせよ、ここにも小田村が今日に久坂を伝へんとする意識が色濃く反映されてゐる。(16)

 玉木正弘は通称彦助。松下村塾を開いた松陰の叔父玉木文之進の嫡男、即ち松陰のいとこで、毛利藩主の世子定広の近侍を勤めた。義理のいとこである小田村は玉木とともに四国連合艦隊による馬関攻撃を阻止すべく長崎に滞在中の勝海舟のもとに赴いたこともあるが、この年(元治元年=1864)、藩内抗争の一環として起った戦で帰らぬ人となった。(17)

 松島久誠は剛蔵の名で、小田村の実兄。松陰の最も古い友人の一人で、その没後門下生と提携し、文久2年(1862)10月に京において松陰慰霊祭に列し、翌月高杉・久坂らと攘夷血盟にも参画してゐた。字は有文、号は韓峯、初め瑞益を名のった。代々医業を勤める松島家の嫡男として江戸に遊学し、緒方洪庵らの師である蘭方医坪井信道の下、医学を修行すること4年、帰国して世子の侍医を勤めた。ところが、当時時勢切迫、藩主の側近におもねる人が多いことを慨嘆、事もあらうに酒席でこれを漏らしたため、侍医の職を奪はれた。しかし、再び志を立てて長崎へ赴き、蘭人に航海術を学ぶこと3年、帰国して洋学所創設を建言、その長に据ゑられた。安政四年(1858)、長州藩が作った西洋式小船である丙辰丸(万延元年の十干十二支をとった)を以って同藩における海軍士官の養成に心を砕いたのであった。のち馬関攘夷戦で負傷。禁門の変、四国連合艦隊の来襲ののち、獄に投ぜられるや否や12月19日(1865年1月16日)野山獄にて斬られるに到った。(18)

 かうした中にあって小田村の失意や如何ばかりかと思ふが、やはり同年に詠んだ和歌に「吉田矩方が涙松集をよんで」と題して、

   なき人の言の葉ぐさの跡わけて今ぞ知らるゝ深きこゝろの
   敷しまの大和の道はひとすぢに赤きこころの外なかりけり

 松陰の涙松集に触れ(19)、この逆境にも赤心報国を忘れず、その志はまったく折れてゐなかったのである。それもそのはず、親戚縁者も近づかない中にあって、松陰の母滝が小田村を見舞ったことが続きの和歌によって知れる。即ち「女(妻)の母よりおとづれし時」と題して詠みける。

   うとまれて物のかずにもあらぬ身をうとまぬ人は君ならで誰ぞ(20)

 やはりこの母にしてこの子ありと言ふべきか、かくの如く松陰の母に励まされた小田村は、幸ひにも翌元治2年2月15日(1865年3月12日)、およそ3カ月ぶりに獄から脱するを得たのであった。(21)

   4、坂龍との出会ひ、長薩提携

 ところで、小田村と坂龍は二度、邂逅してゐる。一度目は三條実美ら五卿のゐる筑前大宰府にて、そしてその足で坂龍が長薩和解を説きに桂小五郎に会ふため下関へ来たことを挟んで、二度目はこの年10月に周防宮市(現在の防府市)にて再会することとなる。小田村は藩命により筑前大宰府に来てゐた。同行者は五卿が長府の功山寺潜伏時に応接掛を勤めた長府藩の家老格時田少輔である。いはゆる七卿落ちで都を追はれた攘夷派の公卿は、長州藩内に幕府の目を気にする恭順派がゐて匿ふにも限界があったから、本年2月12日(1865年3月9日)以降、大宰府に落ち着いてゐた。

 ちょうど五卿が大宰府へ遷座を終へたころ、時田少輔は下関の白石正一郎邸で薩摩の吉井幸輔、土佐脱藩の中岡慎太郎、長州本藩の赤根武人らと長薩和解の話し合ひを持ってゐた。(22)この場に同席してゐた土方楠左衛門は、中岡と大宰府の五卿付きとなって方々へ長州の形勢挽回を画策してゐたときであったから、この後ともに上京して薩摩の京における反幕府、親長州の姿勢を確認すると、中岡は翌月には大宰府へ戻って五卿へ報告を行ひ、土方は京に残って薩摩を説得し続けた。

 そんな折、小田村が大宰府へ行くと、勝海舟の主宰してゐた神戸の海軍塾が閉鎖を余儀なくされ、薩摩の西郷隆盛の下に庇護されてゐた坂龍に出会ったのである。

 坂龍が同郷の安芸守衛(黒岩治部之助。五卿付の一人)を伴って、小田村と時田のお膳立てにより桂に会ひに来て、中岡が西郷を連れてくる。これが土方や中岡が画策してきた長薩提携の最初の試みとなったのだが、これは西郷がすっぽかして頓挫してしまった。

 しかし、坂龍・中岡両人は諦めなかった。同年10月、今度は坂龍が宮市で小田村に会ふと、すぐさま山口にゐた桂改め木戸貫治のところへ連れていかれる。さすがにこのころともなると、薩摩は長州から米を買ふ、長州は薩摩名義で武器を購入するといふやうに互ひに取引の算段ができてゐる。長州藩参政山田宇右衛門ら四名から木戸貫治に宛てた書簡には「薩藩粮米不足に付、馬関において乞ひ請けたきに付、かたがたの意味伝達として、良馬こと罷り越し候由。昨夜素太郎同道、山口まで罷り越し居り候に付、すでに今朝政府局中より応接に及び候積りに御座候」(23)とある。案内役の小田村と山田ら重臣から藩庁の意を受けた木戸の、云はば坂龍を信用しての公式な態度であった。

 また、同日付、長州藩政務座広沢藤右衛門(のち真臣)より木戸に宛てて「龍馬へは松音、小素、僕三人相対し、今朝御意を得置き候通り粮米のこと、決答に及び置き候」(24)と長州側の決意が確定したのである。

 このやうな小田村のお膳立てがあってやうやく長薩両藩の和解は、翌慶応2年(1866)1月に成立したのである。坂龍の方は薩摩の意を受けてのもの、中岡は長州の意を受けてのものといふやうに両方が相連携して初めて実現を見たのである。

 それにしても、小田村は初対面の坂龍をよく活用したものだと思ふが、時田少輔より木戸貫治宛書簡に「良馬こと先生(桂)のお世話に相成り候義もこれある由申し居り候。先生ご面談相成り候者、何れも薩国の情態相分り申すべしと存じ奉り候」(25)とあるやうに、坂龍が木戸と旧知であることが大きな要因になってゐるやうに思はれる。また、木戸も薩摩の状況を知りたがってゐた。そして小田村・坂龍両人が二度目に会った時、宮市から山口へ同道。道すがら、松陰あるいは坂龍と面識のあった久坂の話題が出たかどうか、それは想像するしかないが、両者の信頼関係は固く結ばれてゐたが故に長薩二大雄藩の連合が陽の目を見たのである。

 話題は少しあとになるが、小田村が坂龍を山口へ連れて行ってすぐに小田村は藩命により芸州広島へ飛んだ。長州再征の幕府訊問使に応ずるためで、長藩は井原主計、宍戸備後介(のち磯)を派遣し、小田村もこれに付き添はせたのである。既に長薩連合の決意を固めてゐた長藩は幕府の問責に応じず、残った小田村は宍戸とともに投獄される憂き目に遭った。しかし、いざ幕府と戦の火蓋を切るやこの日のために大量の武器を備へてきた長藩は戦を終始有利に進め、遂に将軍家茂の薨去が伝へられると、幕府は自ら休戦を申し出て、小田村らも再び獄から脱するを得たのである。

 慶応3年9月25日(1867年10月22日)、小田村は楫取素彦と改名を仰せつけられた。11月15日(1867年12月10日)、諸隊参謀として長州藩兵を率ゐて三田尻を出発。12月9日(1868年1月3日)、藩兵を率ゐて入京。(26)ここに長州藩は朝敵としての汚名を回復したのである。

   5、御一新後、群馬県令

 維新成って楫取は齢40、明治19年(1886)元老院議官、明治23年(1890)貴族院議員、明治31年(1898)宮中顧問官を歴任するなどの活躍を見せたが(27)、その特筆すべきは明治七年(1874)から12年にわたる熊谷県改め群馬県令時代であらう。県庁舎を高崎から前橋に移し、強硬な反対にもめげなかった。官憲党を増やして自由民権運動を圧迫したとの評判もあったが(28)、「大いに人情風俗を異にし好悪各同じからず、之を統一して治を施す、極めて易しとせざる」(29)難治県、群馬県には民情安定のため、時にそのやうな強硬な措置が必要であった。

 一方、産業振興や教育の充実に多大な功績を残した。産業面では農業をはじめ養蚕製紙の発展に熱意を示し、生糸の米国への直輸出を実現させ、教育面では県立中学、医学校などを設置して就学率の向上に尽力するなど、同県発展の基礎を築いた。(30)明治16年(1883)、県令辞職願の提出が世に伝はると、留任請願書が出され、その中に「父母の慈に離るるの悲嘆憂苦に沈み、寝食に安んぜざる」状態になってしまふから、なほ在職を情願するとあるやうに、深く県民に慕はれる存在であったことがわかる。(31)結局、辞職は中央政府から許可されず、明治19年(1886)いよいよ離任となったとき、老いも若きも道を遮って留まるを乞ひ、送る者数千人、惜別の情に堪へざる状態であったといふから(32)、楫取の名県令ぶりが察せられるといふものだらう。

 さて、楫取はこのやうな官途にある間も松陰の遺墨に接するや、序文や解説を付けてその遺志を後世に伝へようと顕彰に余念がなかった。この楫取を通して我々が知ることができるのは、維新前に没した松陰を維新後生き残った楫取のやうな人物が取り上げることによって初めて我々に伝へられ、松陰の遺墨に接することができるといふことである。ともすると、我々は歴史上の人物に直接アプローチしがちであるが、松陰を知りたいと思った場合に我々と松陰の間に位置するこの楫取のやうな人物を忘れがちである。

 松陰全集を紐解けば、楫取が松陰とやり取りした書簡や詩がかなり出てくる。慶応2年(1866)以前及び二年に楫取(当時小田村)が詠める和歌には

       千住なる吉田松陰のおくつきに詣ふで
     去年見てし花は今年もかはらねどかれにし松の陰ぞ悲しき
     五月二十五日亡友松陰ぬしがかへらぬ旅ちの別を思ひ出て

 我もまた身を雲霧につゝまれて道ある空にいつか逢はなん(33)

とあり、まるで死してなほ松陰を想ふ楫取の姿が浮かんでくるやうである。楫取の生涯を追ふことで、いかに楫取が松陰の遺言、至誠一貫を実践してきたか。我々は楫取を通して松陰といふ人物に接することができるのである。坂龍にしても同じことが言へまいか。

 今まで見てきたやうに、坂龍と松陰は直接は関係がなかったが、松陰と親しかった楫取と坂龍が接触してゐたことは確認できた。我々は楫取などその知りたい人物=松陰の周辺人物を通して松陰その人を知るやうな術をもっと駆使してもよいのではないか。即ち坂龍にも周辺人物を掘り起して鏡とすることで、坂龍像を立体的に組み立てていく、浮かび上がらせていくやうな余地はまだまだ残されてゐるやうに思ふのである。この論稿に対する大方の批評を請ふ次第である。

〈出典〉 (14)大塚武松編『楫取家文書』第2、日本史籍協会、昭和6年。479頁。 (15)(6)に同じ。416頁。矩方=松陰の諱。 (16)(6)に同じ。420頁。 (17)平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』中公文庫、昭和51年。73頁。家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』第六巻、新人物往来社、平成元年。308頁。 (18)(4)に同じ。600-1頁。 (19)涙松とは、萩市の郊外、旧山口街道の大谷にあり、他国に旅立つ人はこの松のほとりで故郷を振り返って別れを惜しみ、他国から帰ってきた人はこの松を観て無事を喜び、涙を流したことからさう呼ばれた。(5)に同じ。281頁。 (20)以上、(6)に同じ。416-7頁。 (21)(14)に同じ。480頁。 (22)平尾道雄『中岡慎太郎陸援隊始末記』中公文庫、昭和52年、121-2頁。 (23)『坂本龍馬全集』四訂版、光風社出版、昭和63年。581頁。慶応元年10月4日付(1865年11月21日)。山田は松陰の養父大助が師範を勤める山鹿流兵学の弟子で、松陰が幼きころの後見役となってゐた人物。既出(17)『三百藩家臣人名事典』第6巻、351頁。 (24)既出(23)『坂本龍馬全集』583頁。松音は松原音三で、広沢とともに広島へ行って長州の立場を幕府に説明する窓口となった人物。既出(17)『三百藩家臣人名事典』第6巻、336頁。小素は小田村。 (25)既出(23)『坂本龍馬全集』五七七頁。慶応元年閏5月2日付(1865年6月24日)。 (26)(14)に同じ。481-4頁。 (27)(14)に同じ。493、491、495頁。 (28)群馬県史編さん委員会編『群馬県史』(資料編二一近代現代五政治・社会)、群馬県。143-4頁。「楫取県令官憲党を募集して民権の防禦に務む」明治15年(1882)。 (29)(28)に同じ。154頁。「楫取県令へ前橋市民の送別の辞」明治17年(1884)。 (30) 群馬県史編さん委員会編『群馬県史』(通史編七近代現代一政治・社会)、群馬県、平成3年。115-6頁。 (31)(28)に同じ。146頁。「楫取県令留任請願書」明治16年(1883)。 (32)韮塚一三郎『関東を拓く二人の賢者- 楫取素彦と小野島行薫』さきたま出版会、昭和62年。112頁。 (33)(6)に同じ。418頁。

〈その他の参考文献〉 奈良本辰也・真田幸隆共訳編『吉田松陰この劇的なる生涯』角川文庫、昭和51年 山口県立山口博物館編『維新の先覚 吉田松陰』山口県教育会、平成2年 一坂太郎『龍馬が愛した下関』新人物往来社、平成7年 もと現代カナ

   (『土佐史談』第245号から)

(独立行政法人職員)

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 編集後記

政府は皇室典範改正に向け検討作業に入ったといふが大丈夫か。首相は初の施政方針演説の終章「むすびに」で、「私は、大好きな日本を守りたいのです。この美しいふるさとを未来に引き継いでいきたいのです」と述べた(各紙)。首相が「守りたい」「未来に引き継いでいきたい」とする「美しいふるさと」日本とは、代々承け継がれて来た日本であること論を俟たない。このことを先づは腹に据ゑて貰ひたい。本号巻頭で小柳志乃夫兄は亡き師の御説を引き「古事記を始めとする古典と伝統」こそ検討の大前提と切言する。

須田清文兄による「御製御歌謹解」に改めてわが国柄の尊さを実感した。

(山内)

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