国民同胞巻頭言

第603号

執筆者 題名
理事長 上村和男 占領政策の呪縛から脱して
憲法を改正し誇りある国を取り戻さう
大岡 弘 祭祀と政治
- 男系男子による宮家創設を望む -
占部 賢志 真冬の教育雑感
- 高校教師35年を終へて -
加藤 健太郎 〈特別掲載〉
吉田松陰と坂本龍馬を繋ぐもの(上)
- 小田村素太郎(楫取素彦)を通して -
大町 憲朗 第一回学生青年札幌秋期合宿教室』盛況裏に開催される

 民主党政権が誕生して3度目の正月を迎へた。一昨々年8月の総選挙で、[国民の生活が第一。]との俗耳に媚びた看板のもと、子ども手当(月額2万6千円)・最低保障年金月額7万円・高速道路無料化・国会議員定数(衆院比例)80人削減等々の甘言を弄して勝利したものの、主要な政権公約は画餅に帰してゐる。「政治主導」「コンクリートから人へ」などといふ実態から遊離したスローガンは今では顧みる人もゐない感じだが、それらが一人歩きして、景気回復の兆しさへ見えず、このままでは日本丸は沈没しかねない。民主党には国民におもねる目線はあっても、国の将来を正しく見通す国家観が欠如してゐると言はざるを得ない。

 いま野田内閣は「社会保障と税の一体改革」のもと、消費税値上げを打ち出さうとしてゐる。しかし、不況時の増税がさらに税収を抑制することは素人目にも分ることであって、先づは景気浮上の確かな政策がなければ国家財政は一層の困難に陥るのではないか。昨年3月の東日本大震災とそれに連鎖した福島第一原発事故にしても、菅直人首相(当時)は、それへの対処を政権の延命の口実に使った嫌ひがあった。菅首相個人の器量もさることながら、2年4ヶ月余の政権運営を見てゐると、民主党には政権を担ふに足る人材が不足してゐる。外交でも、米国・ロシア・中国・韓国から、軽んじられてゐるのは隠しやうがなく、国威の失墜は何人にも明らかだ。

 この政権が続く限り失はれる国益は計り知れない。野党・自民党には一日も早く結党時の「保守」の理念を再確認して、心ある国民の不安解消に努める責任がある。自民党政権時代の経済偏重路線は功罪半ばではあったが、その「罪」の面を直視して、日本の文化・伝統と歴史に根ざした政治の実現に力を注ぐところに政権復帰の途は開けてくるのではないか。

 ところで、昨平成23年12月8日は対英米宣戦布告から「70年」であった。しかし、我らの父祖が心血を傾けた大東亜戦争も、大震災と原発事故をめぐる報道に掻き消された感があった。今日の国政のゆがみの原点が日本の弱体化を明確に意図した戦後の占領政治にあることは否定しがたいことであって、対米開戦七十年を機に開戦の事情について、関心が高まるべきものと期待したが、さうはならなかった。それは震災報道の所為ばかりでなく、米国主導のGHQ(連合国軍総司令部)が演出した「日本悪玉論」の洗脳工作から、今なほ脱し得ない国情の反映であったと言ふほかはなかった。

 当時、日米交渉の妥結による開戦回避に必死だったのが日本側であって、むしろ米国大統領ルーズベルトは参戦の口実を欲してゐた。欧州戦線に一兵たりとも出さないと宣言して当選してゐた大統領は、ドイツの軍事攻勢に苦境に立ってゐた英国を支援するには、「先づ日本からの一発」を期待してゐた。それがハル・ノートだった。

 しかし、GHQによる占領統治下、言論報道は検閲され「日本悪玉論」が一方的に鼓吹された結果、今も「日本がすべて悪かった。日本の軍人は国民を欺いて戦争へ導いた極悪人だ」とする呪縛から解き放たれてゐない。その最たる証左が所謂東京裁判史観の存在であり、GHQ起草の「日本国憲法」がs平和憲法tなる名辞で罷り通ってゐることである。教科書には麗々しく「日本国憲法は主権者である国民の意思によりつくられた」などと書かれてゐる(三省堂、高校『現代社会』)。とんでもないことであって、外国製憲法は占領統治が終了した昭和27年の時点で直ちに改められるべきものだったのだ。それを成し得ずに経済偏重路線を突っ走って、今のゆがんだ国に成り下がってしまった。

 「日本国憲法」をそのまましてゐては正しい国家観が甦るはずがない。誇りある国家を取り戻すには憲法の改正が不可欠だ。今年こそはその具体化の第一歩にしたいものである。

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     1.国家が守るべきもの

 祖国日本を守るとは、一体、日本の何を守ることなのか。このことについて、ある外務省出身者は、

   「国家の究極的な役割とは、国民 の生命と財産を守ることだ」

と述べてゐる。一方、防衛省出身の方は、次のやうに述べてゐる。

 「国の役割は『国民の生命、財産 を守ること』とよく言はれます。しかし国防は、単にそれだけではないのです。国土を守るのは当然ですが、それだけでもないのです。日本といふ国の歴史 国体、日本の国柄を含めて 伝統、文化、それに我々の命を引き継いで来た御先祖の思ひなどの全てを、同時に守っていかなければ本来の国防の役割を果たすことは出来ないのです。その自覚があって自衛隊員は、命を懸けて国を守らうとする強い意識が生まれます。もし私が自衛隊にゐなければ、ここまで深く国防を考へることはなかったかもしれません」(田母神俊雄著『田母神俊雄の人生論、めざすは日本人』、高木書房、平成22年)。

 筆者は、後者の言に深い共感を覚える。そして、もし前者の言が外務省総体の支配的な考へ方だとすれば、国防問題はもちろんのこと、我が国の伝統を重視しての宮家創設問題、並びに、移民問題(出入国管理、帰化問題)やTPP問題に今後立ち向かはなければならない現下の日本にとって、この両氏の意識の差が、我が国を亡国に導くか否かの、致命的要因になりかねないとさへ思ふ。

     2.「祭政一致」の精神

 今の現実政治に欠落してゐる大事なことを一つだけ挙げよ、と問はれたら、一体、何を指摘すべきだらう。その答に参考となる文章を、以下に引用し、紹介したい。

  「日本においては、恐らく太古の昔からのことであったと思はれるが、『祭政一致』といふおごそかな言葉が、今日に伝へられてゐる。
祖先のみ魂を祀り拝むつつましやかなその心と、現世において政治にたづさはる人の政治の心とが、その根柢において、全く同じきものでなければならない、といふ、日本古来の“政治”の大原理のことである。
それは、言ひかへれば、“現実政治”の中に、“祖先のみたま- 神”を畏む精神を“生かし切る”といふことである。
この“祭政一致”の精神は、たとへ“政教分離”を謳歌する政体にあっても、“政治の本質”として“普遍的である”ことを、日本の政治家諸氏が、一日も早く気づくことが、何よりも緊急を要する課題である。わが保守政治家の中に、この“祭政一致”に連なる政治的開眼が、求められるやまことに切なる秋といふほかはない。
御歴代の天皇様は、今上陛下に至るまで、御一人欠けることなく、この『祭政一致』に立つ政治を、御心の中に相承相伝なさって来てをられる方々である」(小田村寅二郎「日本 その不滅と展開」、日本を守る会編『昭和史の天皇・日本』所収、日本教文社、昭和50年)。

     3.歴代天皇の天照大神祭祀

 我が国の歴史を通観すると、歴代天皇にあられては、伊勢の神宮にまします天照大神こそが、至高の信仰対象であった。我が国の歴史を貫く「文化伝統の結晶体」の一つは、紛れもなく、伊勢の神宮に御鎮座の天照大神の御神霊に対する、歴代天皇御親らによる祖先祭祀であった。新嘗祭は、この重儀である。

 新嘗祭とは、11月23日の夕刻に、天皇陛下が、宮中の神嘉殿に伊勢の方角から皇祖・天照大神をはじめ諸神をお迎へになり、来臨された諸神の侍るなか天照大神と御対坐になり、新穀の御饌、御酒などの御饗(御馳走)を御親ら捧げられて、ご自分もお召し上がりになるといふ、「夕の儀」と「暁の儀」の二度にわたる祭儀から成る古来皇室第一の重儀である。この御祭典は、同時に、日本国民統合の中心としての天皇陛下が、国家、国民のために斎行なされる国家的祭祀でもある。天皇陛下は、年毎の新嘗祭において、我が国至高の祭り主として御告文を奏上なされる。『日本書紀』が伝へる稲種の親授者・天照大神に対して、「新穀の豊かなる稔り」を奉謝され、全国民が斉しく願ふ「国中平かにして皇室・国家・国民の栄えゆくこと」を、親しく祈願なされるのである。天皇陛下は、皇祖神・天照大神の霊威と、国土の「いのち」の稔りである新穀の生命力を御身に感受されて、それらを御身において更新なされる。天皇陛下にあられては、祭祀とは、五穀の豊穣を基盤とする国家の繁栄と国民の幸せとをひたすら祈られつつ、そのためにご自分は天皇としての務めを果たすと、神々にお誓ひになられることだといふ。

 我が国の政治家諸氏も、天照大神をはじめ祖先の方々のみ魂を畏み敬ふ精神を取り戻し、現実政治に当たるべきであらう。野田首相をはじめ閣僚達は、祖国の危急に一命を捧げられた数多の英霊が鎮まる國神社に、誰一人として参拝しようとしない。昇殿参拝し、祖国防護のために自分は大臣としての務めを果たすと、英霊の御前に誓ふやうな立派な心情の持ち主は、今の内閣には、ただの一人もゐないのである。そこにあるのは、中国を刺激したくないといふ、自己保身の卑屈な思惑のみである。一方、國神社への御親拝の道を閉されてをられる天皇陛下におかれては、年に二度勅使を御差遣になり、御心を英霊に伝へてをられる。

     4.「女性宮家」創設の当否

 今日の政治家達は、天皇祭祀に窺はれる陛下の御心に気付かぬばかりか、また、国家に命を捧げた祖先のみ魂を畏む精神を喪失してゐるばかりか、さらに一歩進んで、魂なき政治家達は、皇室解体を目論んでゐるとさへ思はれるのである。

 新嘗祭の本質的な意義は、皇統とそれに続く神統の両者に亘って、男系のみを遡って辿り着ける、神代の皇祖神・天照大神に対して為される祖先祭祀といふ点にあるので、男系の天皇がなされてこそ意義が深く、女系の天皇では、意味が薄れる。

 昨年の12月2日付産経新聞によると、自民党の伊吹文明元幹事長は、皇室典範を改正して「女性宮家」を創設すべきだと、身内の会合で提案した。さらに、女性の皇族方と、戦後皇籍離脱を余儀なくされた旧皇族の男系御子孫との縁組を考慮し、「女性宮家は、女性皇族が民間の方と結婚された場合には一代限りとし、旧皇族の男系御子孫と結婚され男子をもうけられた場合には、次の代も宮家を存続できるやうにするといふ選択肢が、これまでの皇室典範に最も叶ふ」と問題提起したといふ。

 筆者は、「女性宮家」創設の議論の本質は、以下の3点にあると思ふ。

@皇族の女系子孫も皇族になってよいのか否か。(答は否である。)
A女性皇族との婚姻を通じて、一般男子が皇族になってもよいのか否か。
B旧皇族の男系男子子孫は、女性皇族との婚姻を通ぜずに皇族になってもよいのか否か。(答は「適切な手続き」を経れば可である。)

 伊吹氏も指摘するやうに、日本文化の根本は、皇室が男系継承の万世一系で続いて来てゐることである。言葉をかへれば、「皇胤」といふキーワードが要であり、それは、初代・神武天皇以降の歴代天皇、並びに皇族の、男系男子御子孫が保有して来られたものである。記紀の神話の記述によれば、前述したやうに、皇統以前にさらに遡及できる神統においても、男系継承で天照大神にまで遡ることができる。「皇胤」の適切な維持により、皇室が万世一系で存続できる。「皇族」は、「皇胤」を享けて出生した皇族生まれの方々、並びに、男子皇族との婚姻を通じて皇籍を得た女性の方々とから成る。これが、日本文化の基本である。

 前述の@については、女系の子孫は、別の一族の「種」から出生する方々である。従って、皇族の女系子孫を皇族にしてはならない。

 Aについては、一般男子は、別の一族の「種」の保有者である。皇室にとっては、「君臣の別」といふ観点からも、一般男子を皇族に迎へてはならない。

 Bについては、これは、皇室内部に「皇胤」を増補するに有効な方法であって、現行皇室典範第15条【皇族の身分の取得】の内容を一部改定するか、あるいは、皇室典範の上位法となる「特別法」を立法するかで、実現可能となる。かかる「適切な手続き」の施行実現には、女性皇族との御婚約の成立が契機となる場合もあらう。また、「特別立法」への国民的要請が契機となる場合もあらう。しかし、いづれの場合も、我が国の文化伝統を破壊する女性皇族当主の、いはゆる「女性宮家」の創設は厳禁である。皇胤を享けた旧皇族の男系男子の御子孫が、天皇陛下から「皇族宣下」のお言葉を賜はり畏みつつ皇族となられ、しかる後に、ある期間を経て新宮家を創立されれば、それでよいのである。旧皇族の男系男子御子孫による新宮家の創設、これが、我が国の国柄に叶ふ最良の選択肢である。我が国の政治家諸氏は、正統なる皇室の永続を図るために、歴代天皇、並びに、祖先のみ魂を畏む精神を奮ひ起こして、現実政治に取り組むよう、切に願ふ。

(元新潟工科大学教授)

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     文化を承け継ぐ

 昨今は教師の役割は援助でありサポートだとのたまふ向きが多い。ぢゃあ、何をサポートするのかと訊けば、それは児童であり生徒だといふ。ならば問ふ、肝心要の「文化」はいったいどこにあるのだ。

 教育は本来、先人の文化遺産を後世に伝承する架け橋だ。その世界に教師と生徒しかゐないとしたら異様であらう。その両者が仰ぐ文化が存在し、三位一体と化してこそ教育の条件は成立するのではないか。

 高校教師時代、冬を迎へると生徒に語ってやった作品にウィラ・キャザーの『巌の上の影』がある。時は17世紀、祖国フランスからカナダのケベックに移住して来た薬剤師一家の物語である。

 結核で余命幾ばくもないことを覚った母親が10歳の娘セシルに、父親に出す食事の料理法、2週間ごとにシーツを交換すること、厳冬期にはシーツは二階に積み上げ、春になったら大人に頼んで洗って貰ふこと等々、枕元で懇々と家事万般を伝授するくだりがある。

 そしてかう遺言する。このやうに暮すことで私達は世界でいちばん文化の高い民族だと羨まれてゐるのですよ、と。この意思を継いでセシルは教へられた通り、健気に食事を作りシーツを換へて日々を生きる。

 この些かも揺がない生活様式の守護こそが我らが祖国の「文化」なのだといふ誇りと信条が瑞々しくこの作品には描かれてゐる。
文化とは屹度さういふものなのだ。地の塩として息づいてゐる。これを喪って何が教育であらう。

     郷土が教師を育てる

 これは最近の事だが、秋田県の西北、白神山地の麓に位置する八峰町の小学校が全国学力テストで日本一だったことが分り、国内は言ふに及ばず外国からも視察団が訪れてゐるらしい。

 筆者は学力の順位にはさして関心はないが、或る雑誌で読んだこの町の教育長の手記には成る程さうだったのかと膝を打った。

 この地域には学習塾はなく、また学力トップを目指して特別の取組みをしてきたわけでもない。強いて挙げるとすれば、三世代同居の家庭が多く、お年寄りは子供を、子供はお年寄りを大切にする気風が特色なのださうだ。

 さらには、学校や教師を尊ぶ風土が昔のまま根付いてゐて、昨今の給食費未納やモンスター・ペアレント、登校拒否などの問題は一件もないといふ。

 家庭と学校、そして地域との親和がもたらす教育力、それが東北の一角に今も実在する。教師が友とすべきは、文部科学省でもなければ教育委員会でもない。児童生徒の家庭であり、地域の人々なのだ。

 この八峰町と教師との親密な関係は、我々が忘れ去った人の世の絆とは何かを思ひ出させてくれる。

     冬のゆで玉子

 福岡県筑後地方の小学校に勤務する練達の女教師の回想談も忘れられない。彼女が駆け出し教師だった頃のエピソードである。

 或る年の師走、彼女はクラスの子供の家庭訪問に出かけた。木枯らしの吹く寒い日だったさうだが、何軒目かの家庭を訪ねた時、応対に出たのは児童の祖母だった。

 懇談を終へた頃は、もう外は日暮れに近かった。彼女が玄関を出ようとすると、その祖母が何を思ったか、ちょっと待ってほしいと告げて台所へ立って行った。

 暫くして現れた祖母の手には茹でたばかりの玉子が三個あり、それを新聞紙にくるんでさらに風呂敷で包み、女教師の腰に温かい玉子が当たるやうに巻いて前で結んだといふのである。

 そして、先生、あと二軒ほど行きなさるのぢゃろ、お腹が空いたらこれを食べなっせ。さう言って送り出してくれた。冬の夕暮れ路を辿る彼女は、あまりの有り難さに感極まったといふ。

 このやうな、地域の人情に包まれて人は教師に育つ。世間とのあひだに親和の体験を持たず、底の浅い知識の切り売りに躍起になって教師然としてゐるのは一種の思ひ上がりだ。これを断ち切りたい。最近さう思ふ事が多い。

     抑止力の構築

 人と交はり人を知る、子供の成長過程で日常に経験していく事だがこれが難しい。

 縁あって一つの学級に所属したにも拘はらず、教室の片隅で数を恃んでたった一人を苛み冷視することさへしばしば起きる。いはゆる「いぢめ問題」だが、子供の世界にもその昔に聖徳太子が洞察された「党」は群がり起きる。

 そもそもいぢめや非行は、非行を促進する力が抑止する力を上回った時に起きる。しかし、この原理が殆ど認識出来てゐないケースが現場には意外に多い。

 数値で示してみよう。例へば、A市では非行促進力が百、一方隣のB市は50とすると、A市の方が非行が発生しやすいと速断しがちだ。そこで非行環境を減らさうとするのだが、苦労の割に効果が見えない。

 現実には、A市に百の促進力があっても、抑止力が150あれば非行の発生は抑へられる。B市の場合、抑止力が30しかなければ、たとへ促進力が50でも非行は頻発する。この原理をしかと見定めておくことが肝要である。

 促進力だけに一喜一憂するのではなく、抑止の文化をいかに構築するかといふ点が青少年対策の根底に据ゑられねばならない。学校や教室とて同様である。

     「魂がうつる」

 この国の教育の行方を考へるたびに、かつて小林秀雄氏が語った言葉が懐かしい肉声とともに甦ることがある。かういふ内容だった。

  「日教組問題など、いづれ片付くところに片付くでせう。しかし、根本問題が片付くわけではない。要は一人の教師が出現するほかにないのです。自分の教へを弟子が継いでくれるといふことほど不思議なことはありません。教師の魂が教へ子の魂にうつるんですから…。そこに教育の原理がある」

 我々は様々な対人関係のなかで生きてゐる。なかでも利害を抜きにして師弟関係を結ぶといふのは、考へてみれば人間社会独特の不可思議な間柄である。

 教育問題がいかに山積してゐようと、この歴史的由来を持つ教育原理を忘れてはならないといふのが、小林氏の教へであった。

 「教師の魂が教へ子の魂にうつる」とは実に奥深い言葉だ。いかに教育環境が整備されようと、一対一の真剣勝負の営みを抜きにして教育が成り立つわけはあるまい。

 赤の他人でありながら、縁あって結んだ師弟の関係が人生を変へてしまふ程の感化をもたらす。それが古来から教育の本質だったのだと思ふと、この仕事に携はる者の一人として畏怖すら覚える。

     学ぶ事を貴ぶ国柄

 もともとわが国は、世界に冠たる教育立国だった。これだけ藩校や私塾、寺子屋が津々浦々に澎湃として興った国も珍しい。

 嘉永5年2月6日、東北遊歴中の吉田松陰が会津藩校「日新館」を見学した折の日記は、その証左として貴重な記録であらう。

  「学政は童子10歳以上は必ず素読を学ばしめ、15歳以上は必ず弓馬槍刀を学ばしめ、18歳以上は必ず長沼氏の兵法を学ばしむ。午前文を学び、午後武を講ず」

 なんと日新館では10歳から18歳以上に及んで義務教育なのだといふのである。では「18歳以上」の上限は何歳迄を指すのか。小川渉著『会津藩教育考』に翻刻の日新館教令を見て筆者は瞠目した。

 義務教育年限は家督相続の長子で25歳、二男以下は21歳迄と定められてゐるのである。場合によっては修業年限が延長されることもあった。おそらく諸外国にも例はないのではあるまいか。

 かうしたエネルギッシュな教育事業と、それに応へる教育欲求が融合して、アジアにおける近代国家のリーダーとなり得たに違ひない。

 何より学ぶ事自体をこの上もなく貴ぶ民族、- これが我が国の真骨頂なのである。

 顧みて、筆者が物を学びたくなるのは、あの人のやうに生きてみたいと思ふ欲求が萌す時である。人はやはり、肖りたき人を得て生きる事の意味を知りたくなって来る。

(中村学園大学教育学部教授)

夜久正雄著(国文研叢書1)増刷刊行
『古事記のいのち』
価九百円 送料二百四十円
占部賢志著(発行・モラロジー研究所)
『歴史の「いのち」
- 時空を越えて甦る日本人の物語- 』
税込千七百八十五円
発売・(学) 廣池学園事業部

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     1、閨閥

 松陰吉田寅次郎と坂龍こと坂本龍馬との直接の接点はない。しかしながら、松陰の二人の妹を娶った義弟・小田村素太郎(のちの楫取素彦)は、坂龍と長薩提携の端緒を切った人物なのである。本年(平成22年)のNHK大河ドラマ「龍馬伝」では松陰を登場させながら、両者の接点について議論したものに未だ出合ってゐないこと、また本年に出版された坂龍関連本においても、この小田村の解説が皆無であることから、ここに紹介を兼ねて、主に松陰との関係、坂龍との接点、楫取素彦となって明治を生き伸びたことにいささかなりとも触れてみたい。

 まづ、松陰の二人の妹について説明すれば、小田村の最初の妻は松陰の次妹寿であり、明治初年に逝き、久坂玄瑞に嫁いで未亡人となってゐた松陰の三妹文が玄瑞の遺墨を携へて楫取となった小田村に後妻として再嫁したといふ関係である。つまり、松陰の二人の妹が相前後して小田村素太郎といふ一人の人物に嫁いだわけである。これを見ただけでも、松陰と小田村の抜き差しならない関係がおほよそ想像できるといふものであらう。次に系図を掲げる。

 ちなみに、小田村は慶応3年(1867)、藩命により楫取に改姓した。明治に到って長男に小田村家を、次男を一旦、久坂家に養子にやってゐたが、その後、楫取家を継がせた。小田村家の末裔には、元拓殖大総長の小田村四郎氏がゐる。間接的ながら松陰の血脈が現世に脈々と流れてゐる事実がここにある。(2)

 さて、松陰の志がいかにこの二人の妹に引き継がれたかについて、ここに「小田村寿様、久坂お文様」宛、松陰が最晩年に書いた手紙がある。

  「拙者この度たとへ一命差し捨て候とも、国家のおん為に相成ることに候へば本望と申すものに候」状況において次の如く綴ってゐる。
両親様へ孝と申し候とも、そこもとたち各自分の家これあることに候へば、家を捨て実家へ心力を尽され候ようのことはかへつて道にあらず候(中略)
婦人は夫を敬ふこと父母同様にするが道なり。それを軽く思ふこと当時の悪風なり。また奢りが甚だ悪いこと、家が貧になるのみならず、子供のそだちまで悪しく成るなり。(3)

 この言葉を残し置き、兄松陰は5カ月後、江戸は小塚原の刑場の露と消えたのである。安政6年10月27日(1859年・11月・21日)のことである。齢30と伝へられる。このあと数年ののち、久坂文はその夫玄瑞を禁門の変で失ふ。文は玄瑞の遺墨を片時も離さず大切に保管してゐた。これは明治になって小田村へ再嫁した時携へてきたもので、それによって我々は玄瑞の遺墨に触れることができるのであるが、松陰の遺言を受けてこの妹の行動は、実に見るべきものがある。

     2、松陰との交流

 小田村はといふと、三兄弟の真ん中で兄弟いづれも松陰との交遊があった。父は松島瑞蟠、母野村氏、兄剛蔵、弟に小倉健作がゐる。小田村は代々長州藩で医家を務めた松島家の次男で、諱を希哲、字を士毅、初め久米次郎。天保11年(1840)藩の儒者小田村吉平の養子となり、伊之助、文助などと称した。藩校明倫館で学問ををさめ、また江戸へ出て佐藤一斎、安積艮斎に学ぶなど、当代一流の教育を受けて儒者としての道を歩み始めた。(4)

 松陰との出会ひは、嘉永4年(1851)22歳のとき大番役として江戸藩邸に勤めてゐたときであり、松陰の妹寿が小田村に嫁いだのはその翌々年であったから、妹婿になる以前からの交友といふことになる。松陰の言を借りれば、「厳譴禁錮の身、世と全く謝絶す。故旧音書を断ち、門巷軌轍なし」といふ状態にあって、「独り村士毅あり。堂々文場の傑。吾が家姻族となり、交情特に懇切。書筆乞仮を通じ、文詩論列を交ふ」(5)といふ詩を残してゐて、両者の親密度がうかがへる。

 この詩は、安政3年(1865)、小田村が藩命により相模警備を命ぜられたときに松陰が贈ったもので、下田でペリーの米艦に乗らうとして投獄された際にも姻族となった小田村との交友がますます深くなってゐたことを物語る。

 また、この時、小田村の実弟小倉健作が江戸にゐたため、この詩を健作に見せるやう小田村に伝へてゐる。それといふのも健作と松陰のつながりは、健作が小田村と時を同じくして江戸に遊学し、同じく安積艮斎の門に入ったときに交友したことに始まり、松陰の東北亡命の一件に尽力して藩から譴責を受けるほどであった。健作はこれに懲りず、嘉永7年(1854)松陰の下田踏海にも周旋するところがあった。

 小田村が明治に到って度々松陰の遺墨に接するや折に触れて文を認めてゐる。その中に

  甲寅(嘉永7年=1854)の歳、米艦下田に停泊す。松陰画策する所あり、密かに艦中に投ず。而るに米人諸を幕府に告げ、幕府松陰を執へて江戸の獄に繋ぐ。当時余(小田村)は藩邸(長州藩江戸藩邸)に在り、邸吏連累を畏れ、固く余輩を銷して外出を禁ず。而して舎弟健作書生なるを以て外に在り。故に獄中の往復は舎弟に托せり。而して贈遺品の如きは、則ち余為に親ら之を弁ず。剣槊の二字は、蓋し音通を取り隠語に用ひしなり。(6)

と、下田踏海に失敗したときの松陰に兄弟が協力して便宜を図ってゐたことが知れるのである。松陰は健作を松下村塾の師にしようとしたが果たせなかった。ゆゑに松陰の健作に対する信頼は計り知れないものがある。松陰は小田村・小倉兄弟について次のやうに記してゐる。

 小田村士毅は(中略)亡命・入海の二変には、其の弟健作と与に周旋救護甚だ力む。亡命の時の如き、健作実に之が為めに連座せり。今健作遠く遊びて還らず。余、塾を松下に起すや、方に士毅と謀り、健作を迎へてその師と為さんと欲す、事未だ遂げずして余再獄の命下る。士毅ここに於て死力を出して余を救はんと欲し、重く罪を獲と雖も顧みず。(7)

 松陰の小田村に対する感謝の情はこれによっても判るであらう。また、兄弟に対する信頼はかくの如きものがあったのである。
健作は幼名百合熊、字士健、鯤堂などと号した。小倉尚蔵の養子となったが、のちにその家を出て松田謙三と名乗った。四方を漫遊し、文章を売って自活してゐたが、酒癖が悪く、遂に大成しなかった。明治以後、東京にあって毛利家史料編輯事業に従事。明治24年(1894)1月14日没、享年61歳。(8)

 では、一方の小田村は松陰をどのやうに捉へてゐたのか。

  義卿は天質忠実、虚懐士に接し、交はる所文人剣客を論ぜず(中略)噫、山口藩の士気の奮ふ、義卿之を首に倡へ、而して晋作・義助の徒之を後に為す。闔藩翕然として向かふ所を知り、藩吏の顧望の念を絶ち、能く意を皇室に専らにするもの、毛利氏の士を養ふの素あるに由ると雖も、義卿倡首の功、竟に多きに居る。然して義卿の徒、陸続として事に死し、今日維新の盛を観るに及ばず、豈に遺憾に非ずや。(中略)義卿死して二十一年、思父(品川弥二郎)其の遺稿を刻して、始めて世に公にす。此れより天下に義卿の気節の概、能く闔藩を振興し、而して門下の士、能く其の説に遵ひ、樹立するところ有り、以て今日の復古の盛を馴致せしを知らんとす。嗚呼、義卿は死すと雖も猶ほ死せざるなり。(9)

 松陰の闔藩(当藩といふ意味。ここでは長州藩)に対する影響なくして維新なしとの小田村の心情が吐露されてゐる。このころ松陰に対しては、生前の功労に位階を与へられる「贈位」が未だ行はれてをらず、小田村は松陰に対して当然あってしかるべきとの感想を漏らしてゐる。松陰への贈位が行はれたのは10年後の明治22年(1889)のことであった。

 筆者がここで強調したいのは、小田村は牢に繋がれ志を遂げずに死した松陰に対する哀れみや同情で顕彰したわけではないことで、松陰の生前からその文を残したいと言ってゐることである。即ち、「回子の文は、啻に雄奇なるのみならず、文の真摯なる、世道人心に関する者あり、是伝ふべし」(10)と小田村の松陰評を、松陰が書き写したものが残ってゐる。松陰自身もこれを気に入ってゐたものだらう。

 松陰と小田村両人の関係は、姻族となるに及び更に密接となり、公私ともに骨肉をも及ばざるものがあった。前述のやうに獄中の松陰を見舞ふ小田村に松陰は深く感謝し、小田村もまた「何ぞ君が輩を遺れて、この連旬の炎を避くるに及びん」(あなた=松陰が獄中に苦しんでゐるのを忘れて、納涼をするに忍びない)気持ちであった。(11)誰がこの両者の間を割って入れようか。何人をもこの親密さに立ち入る余地もない。このやうに互ひに良き理解者であった。その松陰が老中間部詮勝を暗殺すべく伏見要駕策を企て遂に死が迫ったとき、小田村に対して次のやうな言葉を贈ってゐる。「至誠にして動かざる者未だ之あらざるなり」(12)と。孟子の言葉で、「誠をもって接すれば必ず相手に通じる」といふ意味である。小田村もまた事ある毎に松陰を思ひ出し、和歌などに思ひを託してゐる。

 小田村は松下村塾にはその計画に参与し、時々訪れては間接の援助を与へ、塾生とも相識るに到り、松陰投獄後は塾生の指導の任に当ったことは、松陰に対する惜しみない思ひやりから出た自然な行動であったらう。(13)

 先に述べたやうに、松陰は安政6年(1859)武蔵の野辺に朽ちたが、その魂を留め置くべく小田村らの尽力は一方ならざるものがあったのである。

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〈出典〉

(1)別冊歴史読本『吉田松陰と松下村塾の青春』平成元年3月号(通巻81号、第14巻第2号)、新人物往来社。

(2)伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』第2巻、吉川弘文館、平成17年。670九頁。

(3)徳富蘇峰『吉田松陰』岩波文庫、240頁。安政6年5月14日付(1859・6・14)。

(4)『吉田松陰全集』第10巻、山口県教育会編、大和書房、昭和49年、49405頁。以下『全集』と記す。

(5)以上、『全集』第6巻、昭和48年、137頁。

(6)『全集』別巻、昭和49年、42808頁。明治19年(1886)。

(7)『全集』4巻、昭和47年、480頁。

(8)(4)に同じ。49304頁。

(9)(6)に同じ42102頁。明治12年(1879)11月。義卿=松陰。

(10)(6)に同じ。362頁。安政4年(1857)、4月。回子=松陰。

(11)(6)に同じ。348頁。安政2年7月 17日(1855・8・29)。

(12)『全集』第9巻、昭和49年。57頁。己未(=安政6年)5月18日(1859・6・18)。

(13)(4)に同じ - もと現代カナ- (『土佐史談』第245号から)

(独立行政法人職員)

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 昨夏の広島県江田島で開催された「第56回学生青年合宿教室」(大合宿)に、札幌から5名が参加した。(株)まるぶんの嵐隆将さん(前年の阿蘇大合宿にも参加)、同社の多羽田益央さん、国文研会員の本田格氏(元道立高校教諭)、北大大学院修士2年の飯島仁史君(飯島隆史運営委員長の御長男)と私の5名であった。

 合宿教室のあと、この五名を核に北海道での国文研活動の拡充をと考へて、札幌での地方合宿を企画した。“北大松陰研究会主催・国民文化研究会後援「第1回学生青年札幌秋期合宿教室」(平成23年11月19日・20日)”と銘打った案内パンフレットを作り、開催に向けて準備に入った。研鑽の主軸を吉田松陰の文章に直接触れることに置き、合宿の進行は可能な限り大合宿に準じた形としようと決めた。合宿は初参加9名(内女性2名)、大合宿経験者5名の計14名で行はれた。

 開会式・閉会式とも日章旗を掲げ、国歌斉唱から始めた。会場(北海道青少年会館の一室)には須田清文兄による墨書の横断幕と演題も掲げられて、雰囲気は大合宿そのもので、開会式も閉会式も厳かなものとなった。合宿後の感想文に、開会式に少し戸惑ったが、現代日本のあり方を再考するといふ合宿の一つの目標が徐々に理解できたといふものがあった。

 1日目は「現代問題と『士規七則』」(大町)、「『講孟余話』導入講義」(須田兄)、「日本語の特性について」(本田氏)「短歌創作導入講義」(須田兄)、「論語の素読と短歌・俳句教育の実践から」(岩越豊雄先生)の諸講義。さらに「全員による教育勅語の拝誦」(教育勅語の神拝詞が(株)まるぶんの川西社長から参加者に贈呈された)、『講孟余話輪読』(序を全て輪読し、初参加者含め一人一人が分担箇所を読み解釈して感想を述べ合った)と続き、感想交換のあとの懇親会は歌あり踊りありで大いに盛り上がった。2日目は朝の明治天皇御製拝誦(北海道神宮手水舎に掲額の御製4首)に始まり、短歌創作・相互批評、全体意見発表、感想文執筆と午後3時半過ぎまで続けた。

 講義は日本をいかにして再生するかといふ一つの糸で相互につながってゐた。それが参加者の戸惑ひを払拭したのではないだらうか。国文研合宿の主眼は講義を聴くだけでなく参加者が考へ実践することにもあると思って、それに準じて輪読の体験と感想発表、短歌創作と相互批評等を行ったことが、この度の合宿を密度の濃いものに至らしめたと思ふ。

 短歌創作では全員が歌を詠まれたし、相互批評は作者の気持ちを互ひに察し合ひ一緒に推敲する楽しいひと時となった。一首ご紹介したい。

   (株)まるぶん   社長夫人川西浩子様のお歌
   おちば敷く真駒内の丘に陽のさして友の顔明るく照らす

 北大でのマンツーマン勧誘も行ったが、学生の参加者は飯島君だけであった。しかし合宿後、思ひを奮ひたたせるものがあった。北海道神宮禰宜の角田秀昭様から御紹介いただいた新たな北大生を含め、輪読会が発足した。「極まればまたよみがへる道ありて生命果てなしなにかなげかむ」といふ川出麻須美先生のお歌を心に刻み、日本の再生に向けてさらなる一歩を踏み出したい。

(日本ユニシス(株)北海道支店)

 

訂正

先月号3頁3段目23行の左記の歌に傍点の脱字がありました。
両陛下御車を降り出でませば秋陽射す部屋輝きわたる(お詫びします)

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 編集後記

 古書に曰く「元を元とし、本を本とす」。今年4月で主権回復・GHQの占領統治終了から満60年。改めて立国の本源に立ち戻って思ひを巡らさねばならない。GHQが起草した「憲法」が残置喋者の如く国の大本を蝕んでゐる。「GHQ統治」は今も生きてゐる。

 〈特別掲載〉の加藤健太郎氏の御論は、吉田松陰と義弟小田村素太郎の心的交りに光が当られてゐる。ご精読を。(山内)

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