国民同胞巻頭言

第602号

執筆者 題名
山内 健生 「国益」の語を弄するな
- 民主党政権に「外交」の識見、能力はあるのか -
小野 吉宣 皇居勤労奉仕の記
今林 賢郁 幕末外交と幕臣たち(下)
- 阿部正弘、岩瀬忠震、井上清直 -
福田 忠之 小川良一先生追悼
平成23年慰霊祭 9月24日 於・東京大神宮
献詠抄(下)
井上 孚麿 『名歌でたどる日本の心』から
本田 格 長谷川三千子著 『日本語の哲学へ』

 「守るべきものは守り、勝ち取る ものは勝ち取る。国益を最大限に 実現するため全力を尽くす」

 野田佳彦首相は 11月11日夜8時からの(環太平洋戦略的経済連携協定〔TPP〕への「交渉参加」を表明した)記者会見の中で、右のやうに述べた(産経紙11月12日付)。この日、国会ではTPPに関する集中審議が行はれゐて、その模様をテレビで視聴したが、「国益を損ふやうなことをするつもりはない」「国益の観点に立つことが前提だ」「何が国益かで判断したい」等々と、何度も「国益」の語が出てきた。国益重視は結構だが、どこか言葉が上滑りしてゐる感じがして仕方がなかった。

 民主党政権の発足から2年で、われわれは3人目の総理を持つことになったが、この間、国益は主張され守られてきたのだらうか。中国の外洋戦略に眼を塞ぎ普天間基地移設の日米合意を「台無し」にした鳩山内閣、尖閣諸島海域での巡視船体当り事件で逮捕の中国人船長を「無罪放免」にした菅内閣、その後継の野田内閣の外交は果してどうなのか。

 例へば韓国との関係はどうか。

 首相が「勝ち取るものは勝ち取る…」と「会見で大見えを切った」(同前)六時間前、竹島で何が行はれてゐたか。竹島は島根県隠岐郡隠岐の島町の一部であるが、韓国によって不法占拠されてゐるその竹島で午後2時から韓国メディアを含め5百人以上が参加した「美しいわれらの領土独島音楽会」が開かれてゐた(同前)。政府は再三の取り止めの要請をしたと言ふが無視された。

 10月18日、野田首相は訪韓した。首脳の相互訪問では一昨年10月に当時の鳩山由紀夫首相が訪韓してゐたから、こんどは韓国側が来日すべきものだった。それを敢へて自ら『朝鮮王室儀軌』の一部を携へての訪問だった。しかし10月27日、韓国側が竹島に現場管理事務所を建設することが明らかになった。予算も付いたといふ。竹島での音楽会は超党派国会議員が主催したものだといふが、管理事務所建設計画の線上にあることは言ふまでもない。李明博大統領は首相の訪日招請に対して「韓日間に懸案があって難しい」と言葉を濁したといふ(同10月20日付)。

 首相が半島由来文書を持参したこと自体が双務性といふ外交原則を踏み外したものだった。昭和40年の国交正常化時に、相互の請求権は「完全かつ最終的に解決済み」との取り決めがなされてをり、それ故に昨年8月の菅直人首相の談話では「韓国の人々の期待に応えてお渡しする」と詭弁を弄せざるを得なかったのだ。結局は1,200百冊余を日本側が引き渡すだけの(韓国に日本由来の『対馬宗家文書』など2万8千冊がそのまま残る)日韓図書協定が結ばれて、この片務的協定に基づき、5冊を持参したのだった(さう言へば民主党政権では外相も3人目だが前任の2人は、国会で何度質問されても、竹島の現状に関して言を左右にして「不法占拠」の語を避け続けた)。

 ロシアとはどうか。昨秋、メドベージェフ大統領はわが国後島に大統領として初めて足を踏み入れてゐたが、1年余り後の11月11日、北方領土の開発につき「韓国であれ中国であれすべての投資家を歓迎する」、「大事なのは、日本人がこの(列車の)車両に乗り遅れないことだ」とメディア会見で語ってゐたと報じられた(同11月12日付)。大統領の国後島上陸で対日禁忌を解いたロシアに、日本も中韓に遅れずに投資したらいいだらうとあしらはれてゐる。

 かつて尖閣諸島の領有権を主張しながらも日本に対しては「棚上げ」などとも言ってゐた中国、その中国の程永華大使は都内で「釣魚島は中国の領土なので中国の関係機関がいろいろと活動している」と講演してゐる(同9月23日付)。「中国の関係機関」とは漁業監視船などの公的船舶のことであって、扱ひの難しさは領海侵犯の漁船の比ではない。

 これら韓露中との間の懸案は自民党政権時代から続くものだが、民主党政権の2年で、さらに後退局面を作ってゐると言っていい。野田首相はTPPに関して「国益を勝ち取る」などと言ってゐるが、本当にその腹があるのか。そもそも国家観を欠く民主党政権にその識見、能力があるのか。ことは「例外なき関税撤廃」で、広範囲に及ぶのだ。

(拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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 私が中学生高校生の頃、母は婦人会の支部長をしてゐて、何度か、皇居の勤労奉仕のために上京した。ことし91歳になる母は、今も毎日、妻と一緒に畑仕事に精を出してゐる。その母はテレビの画面に皇居が映し出され両陛下のお姿を拝するや、さっと居住ひを正し座り直す。その度に、過ぎし日の勤労奉仕の思ひ出を語る。この夏、江田島での合宿教室から戻って、「十月に、母さんが何度も参加した皇居の勤労奉仕に加はることにした」と告げた。母は「良い心掛けになった。人間は行動が伴ふことが大事で、陛下の御前に立たせて頂かないと分からぬことがあるもんだよ。言葉では言ひ表せない有り難いものがあるはずだよ」と喜んでくれた。

 澤部壽孫副理事長(元日商岩井)の呼び掛けで、国文研の仲間が皇居勤労奉仕に出向くとの話を江田島で耳にして、即座に仲間に入れてもらふことにしたのである。

     第1日目(10月11日)

 朝八時、皇居・桔梗門前に18名の会員が集合。皇宮警察官の点呼を受けた上で皇居に入り、窓明館(休憩所)で、他団体の人達と一緒に係から説明・諸注意を聞く。総勢で250名余りだらうか(この点呼と説明・諸注意は毎朝行はれた)。その後、団体単位で大きく3グループに分れて、作業場所に向けて出発。我々は宮殿東庭を通って、二重橋を内側から渡り皇居正門の方に進む。団体ごとに伏見櫓を背に記念撮影。作業には庭園課の職員(庭師の方)が、日替りで付き添ひ、その指示で行った。作業場所までの道すがら、午前と午後の毎度、小一時間ほど四季折々の皇居内の様子をこと細かく説明してくれた。皇居は広い。

 午前は正門内側付近の落ち葉集めや草取りを行ふ。

 作業中、小学生の頃、よく聞いた「パッカパッカ」といふ蹄の音がした。手を休め見上げると2台の2頭立て馬車が歩調を合はせて近づいて来る。着任した全権大使が天皇陛下に信任状を奉呈する際、宮殿までの道程を「お車が良いか、艤装馬車が良いか」を尋ねると、ほとんどが馬車を希望するといふ。東京駅から(駅舎が工事中のため、現在は明治生命館から)宮殿南車寄までの馬車列の希望に応へるためにも「現在、32頭ほど馬が飼育されてゐます」とのこと。全権大使の接遇に、ふだんから馬を調教して粗相のないやうにしておかなければならない。日本国の品格を示す仕事に責任を持つ人達がゐるのを目の当りにした感じだ。

 午後の作業は宮殿北車寄近くの緩やかな傾斜地での草取りであった。作業前に宮殿の内庭を見学。

     第2日目(10月12日)

 今日の作業は赤坂御用地。朝八時に御用地西門に集合。点呼を受けて赤坂休所に入る。

 この日は「秋の園遊会」の前日に当り、西門近くの広大な駐車用のスペースには案内札が立てられ、諸準備がほぼ整った感じであった。御用地の奥の御苑で、作業に先立ち付き添ひの庭園課の人から、実際の園遊会の様子についてお話を聞いた。所々に幔幕が巡らされ幾張りかのテントが張られてゐた。日本庭園の池では、胸までもあるゴム長靴を履いた人達が鳥の糞で汚れた石を洗ってゐた。午前中の作業ではテント周辺の芝生を掃き清め枯葉を掻き集めた。

 午後は2時から皇太子殿下から御会釈を賜はるため休所を一時に出発、椎や広樫、栗の木を見やりながら、赤坂御所に向ふ。我々が参加した10月11日から14日までの勤労奉仕には、他に岩手県・栃木県・埼玉県・東京都・静岡県からの団体も参加してゐて、赤坂御所の前庭に全員が整列し終へると、殿下をお迎へする際の心得について若い女性職員から説明がなされた。

 愈々お出ましになる時間だ。濃紺のダブルの背広をお召しになり、勿体ないことに、作業着のままの我々のすぐ前にお立ちになる。それぞれの団体の前に歩を進められ、団長が自らの奉仕団を紹介するのをお聞きになる。最初は岩手県からの団体であった。殿下は大震災の被災の状況について、次々に御下問になる。相手の目を見つめ、微笑みを浮べつつ、御心深く受け止めるやうにお聴きになる。苦難に遭遇した人々への御思ひの深さが直に感じられた。

 各団体への御下問が終り、殿下が中央にお戻りになると、代表者が「皇太子殿下 皇太子妃殿下 萬歳」と先導する。それを悠揚迫らざる御態度でお受けになる。私は声を限りに「萬歳!」と高唱した。二度目の萬歳を唱へようとした時、急に込み上げるものを感じ、胸が一杯になり涙腺が緩んだ。全霊を込めて萬歳を続けた。

 この後、園遊会の駐車場となる広場で、鈴懸の木の根元の草を取ったり舞ひ散ってゐる枯葉を掻き集めたりした。

 富山から参加してユースホステルで同宿した岸本弘氏(元富山工業高校教諭)は、この日の夜、次のやうなお歌を詠んでゐる。

   かくまでに近くにおはす日の御子にお言葉賜るは夢の又夢
   友ら皆声を限りと萬歳を唱へまつれり日の御子のみ前に

 以前、ある政治家が「政界の一寸先は闇だ」と言ったが、まさに永田町では争ひが絶えない。「平成になって何人の総理が代ったか」と少し振り返っただけでも、日本国は総理大臣で保ってゐるわけではないことは明らかだ。総理に安心を託せないと国民は思ってゐる。

 昭和50年(1975)、来日したエリザベス英国女王は昭和天皇に「陛下は50年間天皇をやってをられますが、私は23年間(1952年即位)女王をやってゐます」と述べたといふ。シェークスピアの科白の如く「王冠を戴く者の頭は安らかな時がない」。任期のある宰相と違ひ、王冠を戴く者は退位するまで責任を無限に負はねばならない旨をお伝へし、陛下の長き御心労に敬意を表されたものと拝する。

 幸ひなことに、私達は今上陛下の平成の御代に生かされてゐる。次の御代には皇太子殿下がお立ちになられるといふ未来を共有してゐる。皇太子殿下に明日の日本を託し「皇太子殿下萬歳」と申し上げることが出来る。

     第3日目(10月13日)

 午前は東御苑での草取りと掃除。午後も東御苑内で、陛下お手植ゑの果樹の若木の周りを念入りに草を抜いた。一般公開されてゐる御苑には可憐な十月桜が花開いてゐた。作業の行き帰り旧江戸城本丸跡や二の丸公園をゆっくりと参観した。

     第4日目(10月14日)

 両陛下の御所のある吹上御苑に参上した。まづは盆栽が管理されてゐる小屋で、宮殿での公式行事の際に用ゐられるといふ数々の盆栽を拝見。樹齢四百年を超えるものもあった。ついで陛下御自ら田作りをなされる水田を見学。稲は既に刈り取られてゐたが、ここで育った稲は伊勢神宮の神嘗祭(10月17日)に根付きのまま供へられ、宮中でも神嘗祭が修められるといふ。瑞穂の国の伝統に改めて慄然とさせられた。水田の隣には古びた感じの生物学御研究所。台風でガラスが割れたままになってゐる温室が気になった。皇后様が養蚕で使はれる桑畑もあった。

 ふと外を見やると超高層ビルが林立してゐて、その屋上に近い数階が眼に入る。窓はどうなってゐるのだらう。心穏やかではなかった。漱石が言ふやうに西洋から津波のやうに押し寄せた「生活欲」が「道義欲」を呑み込んでしまったのだらうか。

 その後木々に包まれた宮中三殿を御垣の外から拝す。そして賢所正門前の落ち葉を集め除草作業を行った。賢所に間近く、粛々と作業に当った。午前の見学と作業は我々国文研の仲間のみで行はれた。

 午後1時、両陛下から御会釈を賜るため蓮池参集所へと向ふ。団体ごとに整列が終ったところで、女子職員から心得が説明され、暫し両陛下の御到着を待つ。2時丁度にお車が横付けされた。澤部副理事長は団長として、我々の一歩前に立つ。岩手県の団体に次いで二番目に御会釈を賜った。
以下、澤部団長の詠草に譲らせていただく。団長の感激は、そのまま私の感激でもあった。

   大君と皇后宮の出でましを友らと待てば胸の高鳴る
   両陛下御車を降り出でませば秋射す部屋光いやます
   あたたかき清き御声を聞きまつり心ふるへて胸熱くなる
   大君と皇后宮の御前にわれらが務めを申し上ぐるも
   畏くも御耳傾け民草の語る言ごと聴き給ひけり
   胸つまり何語りしか定かには覚えもあらず夢のごとしも

 澤部団長は「私共は学生青年を対象に毎夏合宿を開催して今年で56回になります。真正なる日本人の輩出を願って、歴代天皇の御製を中心に、歴史の真実に学ぶ地道な活動をしてをります」旨を短く的確に申し上げる。さすがに落ち着いものだと感心したのだが、実際は「胸つまり何語りしか定かには覚えもあらず」だったのだ。陛下のすぐ横で皇后様が得も言へぬ微笑みで頷かれる。

 「天皇陛下 皇后陛下 萬歳」の先導に合せて、奉仕者一同声高らかに「萬歳」を三唱。蓮池参集所を後にされる両陛下のお車を我々は手を振ってお見送りする。車中の両陛下が御手をお振りなる。我々はさらにまた強く手を振りお見送り申し上げる。君臣一和の世界とはかかることを言ふのか。胸が震へ涙が滲んだ。

再び、澤部団長のお歌。

   人みなと声を限りに萬歳を三たび唱ふる天にとどけと
   間近くもみ姿仰ぎみ言葉を聞きまつる幸何にたとへむ
   至らざる身にはあれども大君のみ心仰ぎてつとめ果さむ

 最後の作業は蓮池濠に面した植ゑ込みでの草取りであった。熱きものを胸に湛へつつ取り組んだ。まさに「夢のごとしも」の4日間だった。

(福岡県立直方高等学校講師)

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     ハリスと渡り合った井上清直

 前号(上)の末尾で岩瀬忠震の「横浜」開港論に触れたが、その内容は和親条約を締結した諸国が遠からず要求してくるであらう「港替への儀」(不便な下田に替はる良港な港の要求)を格好の機会として、全国の富を大阪から関東に奪還して経済の一大勢力圏を関東に構築し、政経両面に亘る絶大な力を駆使して幕府の再建を試みるといふ、まことに卓抜、遠大な構想で敬服の他ない。

 この岩瀬と共にハリスを相手に日米修好通商条約交渉の任にあたったのが井上清直である。再び木村芥舟の評を聞かう。

 

「信濃守井上清直、初め新右衛門と称す。川路聖謨の弟也。人と為り簡傲亢爽(傲然として頭を高くあげる)自信すること極めて厚く、小吏たりし時より昂然(意気盛んで自信に満ち)肯て人に下らず。安政2年下田奉行に任ず。偶米国公使の来るに会し之と開港互市の事を議し、毎に彼が強大を憑みて動もすれば我を凌圧せんとするの気(勢ひ)を折き終に彼をして深く其言を信じ、海外一好友を得たりと云ふに至らしめたり」

また、

「人と為り忠剴(忠実、懇ろ)にして事務に練達し、言語明晰にして決断の才あり」

 文中の兄、川路聖謨は当時勘定奉行、下田奉行であった弟の井上も後に勘定奉行を務めた。武士としては最下層の身分の出身であった川路兄弟が共に官僚の最高位まで昇りつめることができたのは、彼らが有能であり又時代の要請があったとは云へ、その才を見抜いて要路につけた阿部の眼の確かさを示すものである。

 井上は己の仕事には絶対の自信をもち、相手が誰であれ臆せずに対処する強い個性の持主である一方で、誰に対してもこまやかで懇ろな対応を心がける人でもあった。しかも言語明晰にして、決断の才があったと云ふのだがら、交渉事にこれ以上の人材は望めないほどの男であったと云っていい。ハリスはのちに「海外一好友」と井上を評したが、井上が新奉行として下田に赴任して最初に会ったときの印象は悪かった。「私は新奉行の容貌を好まない。彼は陰うつで、猛犬のように無愛想な顔つきをしている。私は彼と争うことになるのではないかと懸念している」(ハリス『日本滞在記』坂田精一訳)。

 しかし、下田で度々会って協議もし、食事も共にしたりするなかで次第に二人の間には信頼と友情が生まれてくる。7ヶ月ほど経過した頃にはこんな冗談めいたやりとりもある。井上が、「日本は生娘」で両親の手元で育ってゐたところ、「藝妓の振舞」を見せられて「肝を消す」ほどに驚いてゐる、見慣れてくればその振舞の様もわかってくるだらうが、すぐには藝妓を相手にうまく対応することはできませんと云へば、ハリスは応へて、日本は「千歳余りの老人」で、200年前は外国に対して知勇に優れてゐたのにその後眠ってしまひ、外国は勉強してすでに「蒸気船その外の機械等発明」をしてゐるのにまだ日本は眠ったままなので目を覚すやうに催促してゐるのです、日本は虎のやうに足は早かったのに、自分で自分の足を縛ってゐるのではありませんかとやり返す(同右・「幕末外国関係文書」)。その後ハリスの将軍家定との謁見が決定してからは、井上は下田から江戸に至るまで終始ハリスの世話をした。

     井上の冴へた外交術

 そしてハリスとの通商条約交渉がはじまる時、井上は岩瀬と共に談判委員に任命されるのである。日米修好通商条約交渉は安政四年(1857)の年末からはじまり、10数回の協議を重ねて翌年1月には議案審議を終了してゐるが、この交渉の最大の難関は「開港・開市」問題だった。ある協議の時、京都開市及び大阪の開港とアメリカ人の自由な国内旅行権を主張するハリスに対して、井上・岩瀬コンビは断固拒否、ハリスは怒り交渉は決裂の危機に見舞はれた。この時井上はハリスを訪問して次のやうに説いた(同右)。

 城中ではこれまでの当方の譲歩に対して保守派からの激しい反発がある。貴方がこれ以上京都と国内旅行権に固執すれば貴方は条約全体を失ふ危険を冒すことになりはしないか。貴方は弁論でもってわれわれから充分の譲歩を勝ち取ってゐる。だから余り価値がないか、あるいは無価値のものを得ようとして全体をなくす危険を冒すよりは、既に獲得したものを確保する方が良くないか。自分のこの忠告に従ふことが賢明の策であることを充分に考へて欲しい。これに対してハリスは「もし条約の他の部分が全部私の希望通りに行われるならば」との条件付きで京都開市とアメリカ人の旅行権を撤回する。井上の冴へた外交術である。

 相手に動じない井上の強い性格と率直、丁寧な折衝が効を奏したとも云へるし、また下田以来井上との間に培ってきた友情にハリスが応へたのかも知れない。

 開港・開市に関するハリスの原案は、井上・岩瀬との協議の過程で開港を希望した港もいくつかは撤回させられる羽目となるし京都も断念させられた。京都を撤回したハリスはしきりに大阪に固執するがまたまた両者は反対する。岩瀬の構想(冒頭部の「横浜」開港構想)を知らないハリスは、何故かれらが江戸を開くことよりも大阪を開くことにこれほど反対するのか了解できないと嘆いてゐるが、最終的には岩瀬の意図通りに横浜を優先して開港、その3年半後に大阪開港、と云ふことで結着をみた。このやうに二人は術をつくしてハリスに対峙したのである。後に(明治4年)岩倉欧米使節団の一員として渡米した(先月号でも触れた)福地源一郎はニューヨークでハリスに面会したが、その折ハリスは、「当時、井上・岩瀬の諸全権は、綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめたる事ありき。彼らの議論のために、しばしば余が草案を塗沫(塗り消す)し、添刪(添へたり削ったりして直す)し、その主意までも改正したる事少なからざりき。かかる全権を得たりしは日本の幸福なりき。かの全権らは日本のために偉功ある人々なりき」と語ったと云ふ(福地源一郎『幕府衰亡論』)。木村芥舟が評したやうに「天資明敏才学超絶」の岩、「簡傲亢爽」「言語明晰」「決断の才」の井上、この有能な二人の、タフな交渉に感心もし、又困惑もさせられたハリスの苦労を想へば同情もしたくなると云ふものである。

     「社稷を重し」とする決心

 さて、この日米修好通商条約は周知の通り孝明天皇の勅許が得られないままに調印されたがこの時の岩の覚悟について触れておきたい。岩は勅許を俟たずに調印すべしと強く主張した。これを難詰する幕僚に対して岩は「慨然として」六つの点をあげて答へた。このことを福地は、「井上信濃守の直話」 井上から直接聞いた話として、『幕末政治家』の中の一篇「岩肥後守」に書き留めてゐる。最後の六つ目の理由はかうである。

 「此調印の為に不測の禍を惹起して、或は徳川氏の安危に係はる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれど、国家の大政に預る重職は、此場合に臨みては、社稷を重しとするの決心あらざる可からず」、 岩の懸念は的中し、違勅調印の結果は幕府の崩壊を招く究極の「大変」となったが、しかし、「甚だ口外し難き事なれど」口にするのも憚られるが、国の独立に関はる瀬戸際で、ギリギリの判断を求められるときには、「社稷(国家)を重しとする」決心が「国家の大政」を預る者には必要なのだ、と岩は言ひ切ったのである。先見に富んだ構想のもとに幕府の再建を切実に願った岩ではあったが、迫りくる列強を前に極東の小国日本を守るために、一身の禍害を顧みないことはもとより、幕府すら超えて、「社禝を重し」とする決心をしたのである。井上が30歳ほど若い福地にこのことを語って聞かせたのは、岩と同じやうに考へて交渉に当ったであらう井上が、あの通商条約がいかなる覚悟で締結されたかを後輩たちに伝へておきたいと思ったからに違ひない。

 ともあれ、阿部、堀田の「交易互市の利益を以て富国強兵の基本」とする開国方針はそのまま明治新政府の方針となったし、一方、岩をはじめとする開明派官僚がすすめた「安政五ヶ国条約」は、治外法権を規程し関税自主権を否定してゐることから「不平等条約」として夙に指摘されてゐる。確かにこの課題を克服するために明治政府は多大の労力と時間を必要としたが、当時のわが国をとりまく厳しい国際環境に思ひを致せば、諸国との条約締結によって日本は列強の牙から守られた一面もあったと云へるのではないだらうか。

 このやうに思ひを巡らせば、拙稿(前号)の冒頭に引用した福地源一郎の『幕末政治家』ならずとも、幕府は決して「衆愚の府」ではなかつたし、その行為のすべてが「国家を誤り日本に禍」をもたらしたといふのはいかにも浅慮、間違ひであると断言してもいいと思はれる。

((株)伊勢利代表取締役)

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 先輩方を追悼する文章を書くのは神奈川県社会教育部長から厚木市長を歴任された足立原茂徳先生への拙文(平成14年5月号所載)に次いで2度目だが、60歳代の時と73歳の今とでは寂寥感が、より深くなってゐるやうな気がする。

 戦前の日本学生協会時代から今日まで、長きに亙って会員であられた小川良一先生(神奈川県立城山高等学校長などを歴任)が亡くなられた。享年90歳。9月11日のお通夜には、国武忠彦、山内健生、原川猛雄の各氏と小生が参列させて頂き、翌、12日の告別式には、上村和男理事長から鄭重なる弔電を賜った。

 先生は、戦前の菅平合宿(昭和15年)の参加者で、小生が神奈川県の教職に就いた昭和38年当時、県下で高校教育に携ってをられる先輩は、故足立原茂徳先生と故坪井保国先生を含めてのお三方であるとお聞きした。この頃は全国五、60万余の小中学校教職員を擁する日教組が、自由民主党や社会党などよりも資金的に膨大な力を持ってゐたし、その影響は父兄や青年層にまで及び、鹿児島市長までもが「諸君は、幕末、明治維新時の下級武士に相当するのであるから頑張って欲しい」などと煽り立てるやうな雰囲気があった。

 右の御三方の先生は、日教組の傘下に入らうと企てる神奈川県高等学校教職員組合(神高教組)に対して神奈川県高等学校教職員連盟(神高連)といふ組織を立ち上げて闘ひを挑み、足立原先生は教育庁の副参事として、小川先生はこの新組織の代表になり、戦闘機での空中戦の経験者でもあられた坪井先生(「真っ青な空の中で紅蓮の炎を引きながら墜ちて行く友軍機」とのお言葉は耳朶深く残る)の協力を得て活躍された。

 そして、小川先生は、国武氏に続き小生が奉職することになった県立横浜平沼高校通信制の主事といふ直接の上司として、何くれとなく面倒をみて下さった(私の鹿児島大学時代の恩師、川井修治先生や国武氏を通して小川先生から呼ばれてゐた)。ちなみに前述の山内氏は県立新城高校の、原川氏は県立城山高校の、それぞれの勤務時に小川校長の下で働いてゐる。このやうに神奈川県下の高校に奉職する国文研の教員仲間は、長い年月に亙り懇切なる御指導を賜ったのである。

 先生は、戦時中は中隊長で満州、沖縄、鹿児島と転戦されて終戦を迎へられたと伺ってゐた。そして、常に「私みたいな者が生き残ったが、あの戦争では立派な人が沢山亡くなったのだ」と言はれ、奉職し立ての頃、当時銀座にあった国文研事務所に小田村寅二郎先生を訪ねると仰って国武氏と小生を連れて出掛けられた事を今、懐かしく思ひ出してゐる。帰りには靖国神社に参拝した。

 断じて自分の主張を引っ込めないといふ強引な凄みのあるお人柄であったが、お若い頃は酒豪でもあられ、酔ひが回るにつれて、人々に「野崎参りは…」と唱はせて、ご自分は座布団の上で手振りも宜しく器用に踊られるといふ人懐こい所があられた。だから周囲にも尊敬されて人に頼られ、上に立てられたのだと思ふ。

 郷土史の研究家でもあられ、『津久井郡の風土』『築井古城記』など出版された書物も多く、定年退職後は町史編纂総括として郷土・津久井町のお仕事にも尽力された。『宝城人生夜話 ねずみのたわごと』と題する自伝風の大著も出されてゐる。

       ○

 御葬儀が終って3日ほど後、小生宛に封書が届く。開封すると便箋に達筆な太い字で「死の一時間に記す、士は己れの 信ずる処に従い 死を選ぶもの也。 貴兄にだけは理解できると信ず、 御世話になった」とある。涙、滂沱として流る。「あなた、良いお手紙を戴けて良かったですね」と愚妻の声が遠くに聞こえた。

 小川先生は教育者であられたと同時に、昭和天皇様に命ぜられた中隊長の誇りを高く持ちつつ去って逝かれた。

   余りにも思ひ出多き先輩なるに不意の知らせに魂消てをりぬ
   先月の初めに賜しお電話の声やや低し気になりてをり
   思ほへば四十八年過ぎにけり大人 と出会ひし昭和の彼の日ゆ
   戦ひに敗れし後の焼跡を見つつ教への庭に戻らる
   教育の浄化の外に途なしと心定めて尽し給ひぬ
   神風連の乱に似るとてその名をば神高連と決めて闘ふ
   若きらを全国の場より集めむと知 人に頼み努めつとめて
   われら今国文研に連なりし後輩もみな大人を頼みぬ
   靖国の友垣のみな安らかに居らる るかやと事あるごとに
   御魂はも国の生命ともろともに神上りませと祈りまつりぬ

(元神奈川県立厚木南高校通信制教頭)

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 会 員 (続き)

       佐世保市 朝永清之
 ゆかりある師友の在りし日懐かしくよみがへり来ぬ月赤き夜は

       佐久市 中澤榮二
 高専一年の息子と江田島合宿に参加して
 合宿の慰霊祭に参加せし吾子は素直にみ霊をまつる

       稲田健二さん  東京都 難波江紀子
 幼き日我も住みたる『佐世保』なる書を遺して君逝きましし

       宝塚市 庭本秀一郎
 僅かでも時を作りて先人の遺されし文を読みてゆきなむ

       東京都 坂東一男
 靖国の御霊を祀らぬ総理こそ皇国日本の逆賊なるぞ

       小川良一先生  厚木市 福田忠之
 うつし世を歎き給ひて文献を開きて 書物を編み給ふかな

       香川亮二先生の御霊に  福岡市 藤新成信
 友ら集ひ太子の御本くりかへし輪読ゆく縁のありがたきかな

       小田村寅二郎先生追悼集を繙きて  横須賀市 古川 修
 十六夜の月影さびしき今宵かな大人をしのびて文よみゆけば

       稲田健二さんの御霊のみ前に  筑紫野市 古川広治
 重ね給ひし思索のあとと生き様を学びてゆかむ御著ひもときて

       横浜市 松浦義通
 終戦ゆ六十六年過ぎしかと偲びて憶ふ亡き友のこと

       下関市・乃木神社での殉死百年祭  北九州市 松田 隆
 みまかりて百年経たるみまつりに参列かなひ妻と喜ぶ

       倉敷市 三宅将之
 くに思ふ心の欠けし大臣らの言葉はすべて空しく響く

       東京都 宮田良将
 世の常に存りと思へぬ大つなみ受けしわざはひに心はいたむ

       大阪市 薬丸保樹
 被災地へ行幸し給ふ大君の民を労るみ声やさしき

       香川亮二命、稲田健二命  福岡市 山口秀範
 み祭りに新たに祀るお二人の遺影に謝せむ厚き御恩を

       川崎市 山本伸治
 新たなる御霊を迎へ御祭りの庭に師友の御心偲ぶ

       熊本市 渡邊五十二
 孫の手を借りてゴーヤを採りし日を支へに生きて今を楽しむ

 学 生

       國學院大學文四年 相澤 守
 友達と古事記を繰り返し輪読て祖先の心学ばむ

       東京大学理三年 高木 悠
 師の君(夜久正雄先生)の御書たよりに友どちと古事記の學び深めゆきなむ

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   すめろぎの宣らすみ憲ぞみ民らが革め得べきのりならなくに

 井上孚麿は明治24年(1891)長崎県平戸の生れ、東京帝国大学法学部を卒業した憲法学者であり、歌人である。井上は一貫して、主権不在の被占領期に成立して、人類普遍の原理にも反する現憲法の無効と帝国憲法の復原を説く。戦前は法政大学教授、台北帝国大学教授、文部省国民精神文化研究所所員を歴任し、戦後は亜細亜大学教授。著書に『憲法研究』(昭和34年)、『現憲法無効論 憲法恢弘の法理 』(昭和50年)など。昭和53年歿。

 「すめろぎの宣らすみ憲」とは、明治22年に発布された明治の欽定憲法のこと。井上は、憲法は「『発明』できるものではなく『発見』せねばならぬもの」とする。つまり憲法といふものは国民生活の伝統に内在する規範意識を発見し、それをいかに法として記述するかにあると説いた。

この歌に続いて

   うつせみの人のたくみしものに非ず神ながらなるのりと聞くものを

 と詠んでゐる。「うつせみは」は現世、「たくみ」は企てる。帝国憲法は神代ながらの伝統にもとづく「のり」であり、日本は万世一系の天皇が統治する国である。権威の由来もそこにある。さうした内面的な権威を備へた憲法でこそ、政治も円滑に行はれ、個人の真の自由も保障され、国の統一も由来も保障され、国の統一もゆるがぬものになる。そのやうな根本規範にもとづく憲法は「み民らが革め得べきのり(憲)ならなくに」、国民が勝手に改めうるものではないといふ、昭和21年(1946)の被占領期、憲法変革の動きに対する警世の歌である。

       ○

 井上は昭和33年の新年歌会始で預選の栄に浴してゐる。お題は「雲」であった。

 その折の詠進歌は

   この見ゆる雲のはたてに君ありと思ふ心はたのしかりけり

である。「雲のはたて」とは、雲のはるかかなたのこと、「その雲のかなたに心知る友を思ふとたのしくなる」といふ、朋友相信じる喜びの歌である。

 昭和42年、井上孚麿先生歌集刊行会から『雲のはたてに』が上梓されてゐる。

(一部改稿)

 

国文研50周年記念出版(草思社刊) 『名歌でたどる日本の心』
                  国文研版 増刷 送料込1,790円

 

書籍紹介  示唆に富む画期的な日本語論

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 『日本語の哲学へ』といふ表題から哲学書と考へる人が多いかもしれない。たしかに話はデカルト、パルメニデス、ヘーゲル、ハイデッガーなどの哲学思想の検討にも力が注がれてゐるが、実はこの書は日本語論として、きはめて示唆に富む内容をもってゐることを先づ強調したい。

 例へばデカルトの「我思ふ故に我在り」といふあまりに有名な言葉について、哲学者の和辻哲郎はかつて「私が思ふ、だから私がある」と日常語で訳すことを試みた。昭和の前期の話である。この言ひ回しは、どのやうなことを意味するのだらうか。

 和辻の実験のその意義、さらに限界が、著者によって明快に示されるのだが、デカルト自身の方法的懐疑の限界も語られてゆく。ことは西洋哲学がその出発点から抱へ込んでゐた、一つの大きな盲点につながる問題である。このやうなデカルト批判が今まであったとは思はれない。画期的な指摘がなされてゐるのではなからうか。

 いづれにしろ言葉の問題が根底に大きく横たはってゐた。日本人なら日本語、フランス人ならフランス語といふ、人間と言葉の関りについて、言葉の問題にあまりに目を向けることがなかったといふこと、ここに哲学の根本的な問題点があったのである。

 私たちは言葉について、それをよほど自明なものに受け取りがちである。特に母語としての言葉は驚くほど透明で、使ってゐても気づかれにくいものだといふことである。しかし注意深く改めて言葉といふものを見つめ直すと、自明どころか、むしろ困惑してしまふことになる代物なのである。

 『日本語の哲学へ』とは、哲学が目的のやうでゐて、日本語の解明が前提なのであった。和辻哲郎の企ては、西洋の哲学者たちが自分たちの言語を相手に2千数百年にわたって行ってきた悪戦苦闘を、たった一人で行ふことにひとしいともいふ。著者は、和辻の「日本語をもって思索する哲学者よ。生まれいでよ」といふ言葉を遺言として受け取り、70年間放置され続けてきたそれを、相続し、実践する試みとして本書を書き上げたのだった。「あとがき」で、ただひと通りを概観しただけにすぎないと記すが、力量の十分な書き手を得て、日本語論としても刺激に満ちた著作がかうして世に問はれることになった。

 和辻哲郎は昭和の初め、ドイツ留学中に、刊行されたばかりのハイデッガーの『存在と時間』を読んで衝撃を受け、傾倒し、さらに批判することになる。その過程を分析する著者の筆致はスリリングですらあるが、それにしても和辻の問題提起は古びてゐないどころか、今もって新しいといへる。

 言語といふものを、私たちは道具のやうに使って生活してゐるが、それが単なる道具ではないことは何となく気づいてゐることである。ハイデッガーによると、人はみな、なんらかのかたちで自分が存在してゐることについて無意識の理解をもってゐる。さうした理解のかたちが言語にあらはれてゐると考へてゐた。和辻はそれをふまへて、日本語といふ言語を、外側から眺めるのではなくて、その内側にもぐり込んで、その意味を問ふことを始めたのだった。
日本語であたりまへに使ふ言葉に「もの」と「こと」があるが、その意味が徹底的に探求される本書の後半は圧巻であり、教へられることばかりである。そもそも言葉の意味とは何なのか。知的好奇心を刺激してやまない本書を多くの人に薦めたい。

(税別780円 ちくま新書)(元北海道立高等学校教諭)

 

 編集後記

 「ブータン国王が来て宮中で催し物があるが、私にはこちらの方が大事だ」と同僚議員のパーティーで挨拶をした閣僚がゐた。このほか3名の閣僚が欠席し、出席したものの宮中で携帯電話を使用した閣僚もゐた(11月18日付産経)。国賓接遇の意味どころか、日本国の在り方の何たるかも弁へない御仁が閣僚席を埋めてゐる。おそらく彼らは何もわかってゐない。騒がれたから釈明しただけだらう。わかってゐたら初めから無知丸出しの言動をするはずがない。2ヶ月ほど前、国会開会式に御臨席の陛下に携帯のカメラを向けた議員もゐた。彼も民主党会派だったが、全く同様だらう。

 ことしは東北の大震災と福島の原発事故関連で10大ニュースは一杯になりさうだが、陛下には震災発生の5日後「お言葉」を発せられ罹災者を力づけられ、また幾度もお見舞ひにお出向きになり励まされた。政府の遅々とした震災対応にもめげずに立上がる勇気を国民各層にお与へ下さった。

 清明なる新年をお迎へ下さい。(山内)

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